第3章 再生-生まれ変わり-
因果律と切っても切れない関係にあるのが再生の問題です。つまり他界後あるいは期間を置いて再びこの地上(時には他の天体)へ生まれ出て、必要な体験を積み、あるいは前世の償いをするという説です。
シルバーバーチはこの再生を全面的に肯定するスピリットの一人ですが、そのシルバーバーチの霊媒をつとめていたバーバネル氏が永い間この説に反対して居たと言う事実は、シルバーバーチとバーバネル氏が別人である。
・・・言いかえればシルバーバーチはバーバネル氏の潜在意識ではないと言う事を示す有力な証拠として、今なお有名な語り草になっています。
さて、一口に再生と言っても同じ人間がそっくりそのまま生まれ変わるのだという説、いわゆる全部的再生説、未浄化の部分だけが生まれてくるのだと言う説、いわゆる部分的再生説、全部でも一部でも無い、ちょうど人間が子ダネを宿すように、守護霊(となるべきスピリット)が霊的なタネを母体の胎児に宿すだけだと言う説、いわゆる創造的再生説、等々があります。
同じスピリチュアリズムにあって何故こんなに説が分かれるのか、その点をまずシルバーバーチに説明してもらいましょう。
「知識と体験の多い少ないの差がそうした諸説を生むのです。再生の原理を全面的に理解するには大変な年月と体験が必要です。霊界に何百年何千年いても、再生の事実を全く知らない者がいます。
なぜか、それは死後の世界が地上のように平面的でなく、段階的な内面の世界だからです。その段階は霊格によって決まります。その霊的段階を一段又一段と上がっていくと、再生と言うものが厳然と知るようになります。
もっともその原理はあなた方が考える単純なものではありませんが・・・」
霊界にしてこの有様ですから、地上の人間にとっては尚更のことで、太古より世界各地に様々な再生にまつわる信仰がありました。
単に人間としての再生だけではなく、動物の生まれ変わりを説くものもあります。ただ機械的に何回も何回も、それこそ無限の再生を繰り返すと説く宗教もあります。
では再生の真相はどうなのか、そしてその目的は何なのか、これをシルバーバーチに説いてもらう事にしますが、その前に、再生問題を扱うに当たって大切な課題の一つに、用語の整理があります。
中でも一番中心的な用語となるのは「自我」「意識」「個人的存在」等で、これらを正しく理解していないと再生の真相は理解できません。
浅野和三郎氏の名著にマイヤースの「永遠の大道」「個人的存在の彼方」の二冊がありますが前者の原題はThe Road to Immortalityとなっていて、
これを文字通り訳せば「永遠の不滅への道程」と言う事で、結局後者の「個人的存在の彼方」Beyond Human Personalityと同一の内容を意味していることになります。つまり個人的存在を超えた大我こそが真に永遠不滅の存在だと言うのです。
さて私達が“自分”として認識しているものは実は絶対的な個人的存在ではなく、真の自我である大きな意識体の一部又は一面に過ぎない。その個人的存在の彼方にある大我へ回帰していく過程が取りも直さず人生であると言うわけです。
その個人的存在を超えた意識の集団をマイヤースはGroup soulと呼び、これを浅野氏は「類魂」と訳しました。
達意の名訳と言うべきで、これよりほかに言い訳語が思い当たりませんが、問題はその正しい理解です。マイヤースの通信を読んでみましょう。まずthe Road to Immortalityから
「類魂は観方によっては単数でもあり複数でもある。一個のスピリットが複数の類魂を一つにまとめているのである。
脳の中に幾つかの中枢があるように、心霊的生活においても一個のスピリットによって結ばれた一団の霊魂があり、それが霊的養分を右のスピリットからもらうのである。
私は先に帰幽者を大別して「霊の人」「魂の人」「肉の人」の三つに分けたが、その中の「魂の人」となる大部分は再び地上生活に戻りたいとは思わない。
が彼らを統一しているスピリットは幾らでも地上生活を求めるそしてそのスピリットが類魂同士の強いきずなとなって進化向上の過程において互いに反応し合い刺激し合うのである。
従って私が霊的祖先と言う時、それは肉体的祖先のことではなく、そうした一個のスピリットによって私と結びつけられた類魂の先輩たちのことを言うのである。
一個のスピリットの内に含まれる魂の数は二十の場合もあれば百の場合もあり、又千の場合もあり、その数は一定しない。ただ仏教でいうところの業(カルマ)は確かに前世から背負ってくるのであるが、それは往々にして私自身の前世の業ではなくて、私よりずっと以前に地上生活を送った類魂の一つが残していった型(パターン)のことを指すことがある。同様に私も自分が送った地上生活において類魂の他の一人の型を残すことになる。
かくして吾々はいずれも独立した存在でありながら、同時に又、いろいろな界で生活している他の霊的仲間からの影響を受け合うのである。
そして死後の生活に来て霊的に向上していくにつれて、吾々は次第にこの類魂の存在を自覚するようになる。そして遂には個人的存在に別れを告げてその類魂の中に没入し、仲間たちの経験までもが我がものとしてしまう。
と言う事は、結局人間の存在には二つの面があると言うことである。すなわち一つは形体の世界における存在であり、もう一つは類魂としての主観的存在である。
地上の人達は私のこの類魂説をすぐには受け入れようとしないかもしれない。多分彼等は不変の独立性に憧れるか、あるいは神の大生命の中に一種の精神的気絶を遂げたいと思うのであろう。が私の類魂説の中には実はその二つの要素が見事に含まれているのである。
すなわち吾々は立派な個性を持つ独立した存在であると同時に、また全体の中の不可欠の一部分でもあるのである。私の言う第四界(色彩界)、とくに第五界(光焔界)まで進んでくると、全体としての内面的な協調の生活がいかに素晴らしく、又美しいかがしみじみと分かってくる。
存在の意識がここにきて一段と深まり、そして強くなる。またここにきて始めて地上生活では免れない自己中心性、すなわち自己の物質的生命を維持するために絶え間なく他の物質的表現を破壊していかねばならないと言う、地上的必要性から完全に解脱する。
以上は浅野氏の「類魂」の章の主要部分を原書に照らしながら読みやすくまとめたものです。私が浅野氏の訳に出会ったのは高校三年の時、ある先輩の心霊家の家を訪れた際に勝手に書棚をあさっているうちに、昭和初期の「心霊と人生」と言う月刊誌(浅野氏が主筆)が出てきて、その中に掲載されていたのを読んだのが最初でした。
残念ながらその家には全部は揃っておりませんでした。しかし、題名の魅力もさることながら、その内容にただならぬものを感じた私は、大学へ進学してからも何とかしてこの全編を読みたいと言う気持ちを持ち続けました。
そして浅野氏の後を引き継いで「心霊と人生」を発行し続けている脇長生氏の主宰する都内数か所の心霊の集いに毎週のように出席して、該書を持っている人を探し求めました。
そして遂に探し出して、後日それをお借りして徹夜でざら紙のノートに写しました。今私が参照しているのもそのノートです。
その後私はこの「永遠の大道」の原書をバーバネル氏の心霊出版社から取りよせて、浅野氏の訳と照らし合わせながら読み耽ったものですが、上の類魂の章まで読み切った時、宇宙の壮大でしかもロマンチックな大機構に触れる思いがして、思わず感激し、しばし随喜の涙にくれたことはすでに述べました。
マイヤースは同書の別のところで、宇宙の創造主は多分大数学者ではなくて大芸術家だろうと述べています。
その意味は、宇宙の法則はシルバーバーチも言っている通り寸分の狂いも無く数学的正確さを持って機能していますが、しかし同時にそこにうまみがあり、美しさがあり、ロマンがあると言うのです。私にもそれが分かるような気がします。
さてマイヤースのもう一つの霊界通信に「個人的存在の彼方」があります。これも「永遠の大道」と同じく浅野氏が絶賛しています。
これも私はノートにコピーしたものを所有していますが、原書を読んでみると、通信は三部から構成されていて、浅野氏の訳はその第二部を訳したものに過ぎない事が分かりました。
確かにこの第二部は圧巻であり、褒める事は滅多になかった浅野氏が絶賛したのも頷ける内容である事には間違いはないのですが(余談ですが、浅野先生が「読んでも損はない」と言った時は非常にいい本だと言うことであり「ちょっいいい」と言った時はもう絶賛したことになったと言う事を間部先生から聞かされました)第一部及び第三部にも珠玉の様な内容のものが散見されます。その一つがこれから紹介する「再生」Reincarnationの項で「永遠の大道」の「類魂」の章の足らざる部分を補うような形になっています。
むしろこれを読んで始めて類魂と言うものが全体的に理解できるのではないかと思われます。
「地上で動物的本能の赴くままに生きた人間が、今度は知的ないし情緒的生活を体験する為に再び地上へ戻ってくることは、これはまぎれもない事実である。言いかえれば、私の言う「肉の人」はまず間違いなく再生する。
私の言う「魂の人」の中にも再生と言う手段を選ぶ者がいないわけではない、が、いわゆる輪廻転生と言うのは機械的な再生の繰り返しではない。一つの霊が機械が回転するように生と死とを繰り返したと言う例証を私は知らない。
百回も二百回も地上に戻るなどと言うことはまず考えられない。
その説は明らかに間違っている。勿論原始的人間の中には向上心つまり動物的段階から抜け出ようとする欲求がなかなか芽生えない者がいるだろうし、そう言う人間は例外的に何度も何度も再生を繰り返すかもしれない。が、
まず大部分の人間は二回から三回せいぜい四回位なものである。もっとも中には特殊な使命又は因縁があって八回も九回も地上に戻ってくる場合も無いではない。
従っていい加減な数字を言うわけにはいかないが、断言できることは、人間と言う形態で五十回も百回も、あるいはそれ以上も地上をうろつきまわることは絶対に無いと言うことである。
たった二回や三回の地上生活では充分な経験は得られないのではないか、こうおっしゃる方がいるのかもしれない。が、その不足を補う為の配慮がちゃんと用意されているのである。
乞食、道化師、王様、詩人、母親、軍人、以上は無数にある形態の中から種類と性質の全く異なるものを無造作に拾い上げてみたのであるが、注目すべき事は、この六人とも五感を使っている。
と言う点では全く同じである事、言いかえれば人間生活の基本である喜怒哀楽の体験においては全く同じ条件であり、ただ肉体器官の特徴とリズムがその表現を変えているだけに過ぎない、と言う事である。
そうは言っても、彼らが地上生活を六回送っても、人間的体験から見ればほんの一部分しか体験できないことは確かである。苦労したと言っても多寡が知れている。
人間性の機微に触れたと言っても、あるいは豁然大悟したと言っても、その程度は知れたものである。人間の意識の全範囲、人間的感覚の全てに通暁するなどと言うことはまずできない相談だと言っていい。
それなのに私は、地上生活の体験を充分に身につけるまでは、死後においては高級界に住むことは望めない。と敢えて言うのである。
その矛盾を説くのが私の言う類魂の原理である。吾々はそうした無数の地上的体験と知識を身につける為に、わざわざ地上に戻ってくる必要は無い、他の類魂が集積した体験と知識を我がものとするのが可能なのである。
誰にでも大勢の仲間がおり、それらが旅した過去があり、今旅している現在があり、そしてこれから旅する未来がある。類魂の人生はまさしく旅である。
私自身はまだ一度も黄色人種としての地上体験を持たないが、私の属する類魂の中には東洋で生活をした人が何人かおり、私はその生活の中での行為と喜怒哀楽を実際と同じように体験することが出来るのである。
その中には仏教の僧侶だった者もいれば、アメリカ人の商人だった者もおり、イタリア人の画家だった者もいる。その仲間たちの体験を私はうまく吸収すれば、わざわざ地上に降りて生活する必要はないのである。
こうした類魂と言う“より大きな自分”の中に入って見ると、意思と精神と完成とがいかにその偉力を増すものであるかが分かる。自意識と根本的性格は少しも失われていない。それで居て性格と霊力が飛躍的に大きくなっている。
幾世紀にわたる先人の叡智を、肉体と言う牢獄の中における“疾風怒涛”の地上生活によってではなく、肌の色こそ違え、同じ地上で生活した霊的仲間達の体験の中から、愛と言う吸引力によって我がものとすることが出来るのである。
仮に不幸にして不具の肉体を持って地上に生まれたとすれば、それは前世において何らかの重大な過ちを犯し、それを償うには、そうした身体に宿るのが一番効果的であるという判断があったと解釈すべきである。
例えば白痴に生まれついたものは、それなりの知能で地上生活を実感し、それなりの地上的教訓を吸収することを余儀なくさせられる。地上で暴君とか残忍な宗教裁判官だった者は、白痴とか精神薄弱児として再生することがよくある。
つまり他界後彼等は自分の犠牲者たちの苦しみを見て深く反省し、良心の呵責を感じるようになる。時にはその呵責が余りにも大きくて、精神的中枢が分裂することがある。そしてその状態のまま地上の肉体に生まれ変わる。
言いかえれば地上時代の罪悪の記憶に追い回され、悪夢にうなされ、更には犠牲者たちが自分に復讐しようとしているという妄想によって、それが一段と強烈になっていき、ついには精神分裂症になったまま再生するのである。
再生には定まった型と言うものはない。一人一人みな異なる。死後の生活においては、誰しも地上生活を振り返り、その意味を深く吟味する時期が必ず来る。
原始的人間であれば、それが知性で無く本能によって、つまり一種の情感的思考によって行われ、魂の深奥が鼓舞される。その時類魂を統一しているスピリットが再び地上に戻る考えを吹き込む。
と言って、決して強制はしない。あくまで本人に選択の自由が残されているが、スピリットは進化にとって最も効果的な道を示唆し、個々の類魂も大抵の場合その指示に従う事になる。
始めて地上に生まれてくる霊の場合は特別な守護が必要なので、類魂との霊的なつながりが特に密接となり、その結果その直接の守護に当たる霊のカルマが強く作用することになる。
守護霊は多分三回ないし四回の地上生活を体験しているであろうが、まだ完全に浄化しきってはいない。言いかえると霊的進化にとって必要な物的体験をすべて吸収しきってはいない。
そこでその不足を補うために次に二つの方法が考えられる。一つは先ほど紹介した類魂の記憶の中に入っていく方法と、もう一つは地上に生まれた若い類魂の守護霊となり、自分の残したカルマの中でもう一度その類魂と共に間接に地上生活を送る方法である。
後者の場合、地上の類魂は言わば創造的再生の産物である。言ってみれば自分の前世の生き証人であり、これによって一段と成長する。
霊魂とは創造的理解力の中枢である。が、中にはその力が乏しくてどうしても創造主の心の中には入れない者もいる。そんな時、類魂を統一するスピリットは、永遠不滅の超越界に入る資格なしとみて、今一度始めからやり直しを命じる。
私が前著をThe Road to Immortality(永遠への道程)と呼びThe Road of Immortality(永遠なる道程)としなかったのはその為である。
中途で落伍する者がいると言う事である。が、それまでの旅路で得たものは何一つ無駄にならないし、何一つ失われる事は無い。全ての記憶、全ての体験は類魂の中に預けられ、仲間の活用に供されるのである。
私は確信を持って言うが、私の言う“愛の人”の内のある者は、たった一回きりしか物質界を体験しない。又私の考えでは、イエスキリストはエリヤの再生では無い。他の何者の再生でも無い。イエスは神の直接の表現、すなわち言葉が肉となったのである。
イエスはたった一度だけ地上に降りて、そして一気に父なる神のもとへ帰っていった。イエスにとって地上の段階的進化の旅は無用であった。そこにイエスキリストの神性の秘密が存在する」
エリヤと言うのは旧約聖書に出てくる紀元前九世紀ごろのヘブライの預言者の事です。キリスト教界ではイエスはエリヤの再来であると説く人がいる為にこんなことをマイヤースも言うわけです。
余談になりますが、シルバーバーチがキリスト教について語っている中に「今もしイエスが地上に再来し同じ教説を説いたら、真っ先に石を投げつけるのは現在のキリスト教徒たちでしょう」
と言うくだりがあります。言うまでも無く、現在のキリスト教が二千年前にイエスが説いた教えとはすっかり違ったものになっていることを言っているわけですが、同じことが仏教を始めとして他の既成宗教の全てに言えるのではないでしょうか。
だからこそ改めて霊的真理を説く為にやって来たのだと言うことをシルバーバーチは言うのです。
余談はさておき、以上のマイヤースの説明で、類魂と言うものが概略だけでもお分かり頂けたと思います。そして又、再生と言うものがその類魂の進化と言う大目的の為に行われるものであることを理解頂けたと思います。
再生の哲理をこの類魂の原理で説いたのは、私の知る限りではマイヤースが初めてですが、哲理の内容そのものは、シルバーバーチが説くところのアラン・カルデックの「霊の書」に見られる複数の霊からの自動書記通信と完全に符節を合しております。
特にシルバーバーチの場合は、「それはマイヤースの言う類魂と同じものですか」と言う問いに対して「全く同じです」と断言しており、非常に興味を覚えます。
これからそのシルバーバーチの説くところを紹介していくわけですが、この再生問題に関する限りシルバーバーチは一方的にしゃべると言うことをせず、質疑応答の形に終始しております。
これはカルデックの「霊の書」でも同じで、察するところ、霊的なことには地上的用語で説明できないことがあり、中でも再生の原理はその最たるものであり、人間側からの質問の範囲に留めると言うことになったのでしょう。その証拠に、シルバーバーチはこんなことを言っているのです。
「宗教家が豁然大悟したと言い、芸術家が最高のインスピレーションに触れたと言い、詩人が恍惚たる喜悦に浸ったと言っても、吾々霊界の者から見れば、それは実在の微かなるカゲを見たに過ぎません。
鈍重なる物質によってその表現が制限されているあなた方に、その真実の相、生命の実相が理解できない以上、意識とは何か、なぜ自分を意識できるのか、と言った問にどうして答えられましょう。
私の苦労を察して下さい。例えるものがちゃんとあれば、どんなにか楽でしょうが地上にはそれが無い。あなた方はせいぜい光と闇、日向と日蔭の比較ぐらいしかできません。
虹の色は確かに美しい。ですが、地上の言語で説明できない程の美しい色を虹に譬えてみても、美しいものだと言う観念は伝えられても、その本当の美しさは理解してもらえないのです。
そう言う次第でシルバーバーチには再生に関する長文の叙述は無く、細かい質疑応答からなっております。それはそれなりに非常に分かり易くいわゆる痒いところに手の届く利点があります。
が、私の察するところでは、いい意味で人間には絶対に理解できないものがあるらしいのです。
それは上記の引用文からも察せられますが、再生の大体の概念、基本的原理に関する限りでは、シルバーバーチとカルデックとマイヤースは完全に同じことを説いております。
私はこれが生成に関する真相・・・少なくとも人間に理解できる範囲での真相であると見て差し支えないと信じます。マイヤースの類魂説を冒頭に持ってきたのも、それがシルバーバーチの説くところと完全に符節を合し、再生の基本概念を伝える論説として適切で有ると見るからです。
これを細かく敷衍(フエン)する目的で、これからシルバーバーチと列席者との一問一答を紹介して参りましょう。
一問一答、
まず再生は自然発生なのか、それとも果たすべき目的があって止むを得ず再生するのかという問いに対してその両方だと答えます。
と言う事は、要するにそれなりの意味があって、それが得心がいったから再生すると言う事かと聞かれて、まさにその通りだと答えます。それから次の様な応答が展開します。
問「と言う事はつまり強制的と言う事ですね」
「強制的と言う言葉の意味が問題です。誰かから再生しろと命令されるのではあれば強制的と言ってもいいでしょうが、別にそういう命令が下る訳ではありません。
ただ地上で学ばねばならない教訓、果たすべき仕事、償うべき前世の過ち、施すべきでありながら施さなかった親切、こうしたものを明確に意識するようになり、今こそそれを実行するのが自分にとって最良の道だと自覚するようになるのです」
問「死後は愛の絆のあるものが生活を共にすると聞いておりますが、愛する者が再生して行ったら、残った者との間はどうなるのでしょう」
「別に問題はありません。物質的な尺度で物事を考えるから、それが問題であるかのように思えてくるのです。何度も言っている事ですが、地上で見せる個性は個体全体からすればホンの一部分に過ぎません。私はそれを大きなダイヤモンドに譬えて言います。
一つのダイヤモンドには幾つかの面があり、そのうちの幾つかが地上に再生する訳です。すると確かに一時的な隔絶が生じます。
つまりダイヤモンドの一面と他の一面との間には物質と言う壁が出来て、一時的な分離状態になる事は確かです。が、愛の絆があるところにそんな別れが問題ではありません」
問「霊魂は一体どこから来るのですか。何処かに魂の貯蔵庫のようなものがあるのですか。地上では近頃産児制限が叫ばれていますが、作ろうと思えば子供はいくらでも作れます。でもその場合魂は何処から来るのですか」
「こう申し上げては何ですが、あなたの問いには誤解があるようです。あなた方が霊魂をこしらえるのではありません。人間がすることは、霊魂が自己を表現する為の器官を提供することだけです。生命の根源である“霊”は無限です。
無限なるものに個性はありません。その一部が個体としての表現器官を得て地上に表れる。その表現器官を提供するのが人間の役目なのです。“霊”は永遠の存在ですから、あなたも個体の宿る以前からずっと存在していたわけです。が、個性を具えた存在、つまり個体としては受胎の瞬間から存在を得ることになります。
霊界にはすでに地上生活を体験した人間が大勢います。
その中にはもう一度地上に来て果たさねばならない責任、やり直さなければならない用事、達成しなければならない仕事と言ったものを抱えている者が大勢います。そしてその目的の為に機会を与えてくれる最適の身体を探し求めているのです」
問「人間の霊も原始的段階から徐々に進化してきたものと思っていましたが・・・」
「そうではありません。それは身体については言えますが、霊は無始無終です」
問「古い霊魂と新しい霊魂との本質的な違いは何処にありますか」
「本質的な違いは年輪の差でしょう。当然のことながら古い霊魂は新しい霊魂より年上と言う事です」
問「類魂の一つ一つを中心霊の特性の表現と見てもいいでしょうか」
「それは全く違います。どうも、こうした問いにお答えするのは、まるで生まれつき目の不自由な方に晴天の日のあの青く澄みきった空の美しさを説明する様なもので、譬えるものが無いから困ります」
問「それはフレデリック・マイヤースの言う類魂と同じものですか」
「全く同じです。但し単なる類魂の寄せ集めとは違います。大きな意識体を構成する集団で、その全体の進化の為に各自が物質界に体験を求めてやってくるのです」
問「その意識の本体に戻った時、各霊は個性を失うのではないかと思われますが」
「川が大海に注ぎ込んだ時、その川の水は存在が消えるでしょうか。オーケストラが完全なハーモニーで演奏している時、バイオリンならバイオリンの音は消えてしまうでしょうか」
問「何故霊界通信の全てが生まれ変わりの事実を説かないのでしょうか」
「説明のしようのないものをあれこれ述べても仕方がありますまい。意識が広がって悟りの用意が出来上った時初めて真理として受け入れられるのであって、要は霊的進化の問題です。再生など無いと言う霊は、まだその事実を悟れる段階まで達していないからそう言うに過ぎません。
宗教家がその神秘的体験をビジネスマンに語ってもしょうがないでしょう。芸術家がインスピレーションの話を芸術的センスのゼロの人に聞かせてどうなります。意識の程度が違うのです」
問「再生するのだと言う事が自分で分かるのでしょうか」
「魂そのものは本能的に自覚します。しかし知的に意識するとは限りません。神の分霊であるところの魂は、永遠の時の流れの中で、一歩一歩、徐々に表現を求めています。が、どの段階でどう表現しても、その分量はほんの少しであり、表現されない部分が大部分を占めます」
問「では無意識のまま再生するのでしょうか」
「それも霊的進化の程度次第です。ちゃんと意識している霊もいれば意識していない霊もいます。魂が自覚していても、知覚的には意識しないまま再生する霊もいます。これは生命の神秘中の神秘にふれた問題で、とても地上の言語では説明しかねます」
問「生命がその様に変化と進歩をともなったものであり、生まれ変わりが事実だとすると、霊界へ行っても必ずしも会いたい人に会えない事になり、地上で約束した天国での再会が果たせない事になりませんか」
「愛は必ず成就されます。何故なら愛こそ宇宙最大のエネルギーだからです。愛は必ず愛するものを引き寄せ、又愛する者を探し当てます。愛する者同士を永久に引き裂く事は出来ません」
問「でも再生を繰り返せば互いに別れ別れの連続と言う事になりませんか。これでは天上の観念と一致しないように思うのですが」
「一致しないのはあなたの天上の観念と私の天上の幸せの観念の方でしょう。宇宙及びその法則は神が捉えたのであって、あなた方が捉えるのではありません。
賢明なる人間は新しい事実を前にすると自己の考えを改めます。自己の考えに一致させる為に事実を曲げようとして見ても所詮は徒労に終わる事を知っているからです。
問「これまで何度も地上生活を体験していることが事実だとすると、もう少しましな人間であってもいいと思うのですが・・・」
「物質界にあっても聖人は聖人ですし、最下等の人間は何時までも最下等のままです。体験を積めば即成長と言うわけにはいきません。要は悟りの問題です」
問「これからも無限に苦難の道が続くのでしょうか」
「そうです。無限に続きます。何となれば苦難の試練を経て初めて神性が開発されるからです。ちょうど金塊がハンマーで砕かれ磨きをかけられて始めてその輝きを見せるように、神性も苦難の試練を受けて初めて強く逞しい輝きを見せるのです」
問「そうなると死後に天国があると言うことが意味がないのではないでしょうか」
「今日あなたには天国のように思えることが明日は天国とは思えなくなるものです。と言うのは真に幸福と言うものは今よりも少しでも高いものを目指して努力するところにあるからです」
問「再生するところは前世と同じ国に生まれるのでしょうか。例えばインディアンならインディアンに、イギリス人はイギリス人に、と言う具合に」
「そうとは限りません。目指している目的の為にもっとも適当と思われる国、民族を選びます」
問「男性か女性の選択も同じですか」
「同じです。必ずしも前世と同じ姓に生まれるとは限りません」
問「死後霊界に行ってから地上生活の償いをさせられますが、更に地上へ再生してから又同じ罪の償いをさせられると言うのは本当ですか。神は同じ罪に対して二度も罰を与えるのですか」
「償うとか罰するとかの問題ではなく、要は進化の問題です。つまり学ぶべき教訓が残されているということであり、魂の教育と向上と言う一連の魂の欠けている部分を補うと言うことです。
生まれ変わると言うことは必ずしも罪の償いとは限りません。欠けているギャップを埋めるために再生する場合が良くあります。
勿論償いをする場合もあり、前世で学ぶべきでありながらそれを果たせなかったことをもう一度学びに行く場合もあります。罪の償いとばかり考えてはいけません。
ましてや二度も罰せられると言うことは決してありません。神の摂理を知れば、その完璧さに驚かされる筈です。決して片手落ちと言うのが無いのです。完璧なのです。神そのものが完全だからです」
問「新しい霊魂は何処から来るのですか」
「その質問は表現の仕方に問題があります。霊魂はどこからくると言うものではありません。霊としてはずっと存在していたし、これからも永遠に存在します。生命の根源であり、生命力そのものであり、神そのものなのです。聖書でも“神は力なり”と言っております。
ですからその質問を、個性を与えた霊魂はどこから来るのか、と言う意味に解釈するならば、それは受胎の瞬間に神の分霊が地上で個体としての表現を開始するのだ、とお答えしましょう」
問「と言う事は吾々は神という全体の一部だと言う事ですか」
「その通りです。だからこそあなた方は常に神とつながっていると言えるのです。あなたと言う存在は決して切り捨てられることはあり得ないし消されることもあり得ないし、破門されるなどと言うこともあり得ません。生命の根源である神とは切ろうにも切れない、絶対的な関係にあります」
問「でも、それ以前にも個体としての生活があったのでしょう」
「これもまた用語の意味が厄介です。あなたのおっしゃるのは受胎の瞬間から表現を開始した霊魂はそれ以前にも個体としての生活があったのでは無いか、と言う意味でしょうか。その意味でしたら、それは良くあることです。但し、それは今地上で表現し始めた個性と同じではありません。霊は無限です。無限を理解するには大変な時間を要します」
問「再生するに際して過ちの無いように指導監督する官庁のようなものが存在するのでしょうか」
「こうした問題は全て自然法則の働きによって解決されます。再生すべき人は自分でもそう決心するのです。
つまり意識が拡大し、今度再生したらこれだけの成長が得られると言うことが分かるようになり、それで再生を決意するのです。再生専門の機関や霊団が居るわけではありません。全て魂自身が決めるのです」
問「再生するごとに進歩するのでしょうか、時には登りかけていた階段を踏み外して一番下まで落ちると言うこともあるのでしょうか」
「全ての生命、特に霊的な生命に関する限り、常に進歩的です。今は根源的な霊性についてのみ述べています。それが一番大切だからです。
一旦神の摂理に関する知識を獲得したら、それを実践する毎に霊性が成長し、進歩します。進歩は永遠続きます。何故なら完全成る霊性を成就するには永遠の時を要するからです」
問「先天性心臓疾患の子や知能障害児は地上生活を送っても何の教訓も得られないのではないかと言う人がいます。私たちスピリチュアリストはこうした難しいことは神を信じて、いずれは真相を理解する時が来ると信じている訳ですが、疑い深い人間を説得するいい方法は無いものでしょうか。」
「疑い深い人間に付ける薬はありません。何でも疑ってかかる人は自分で納得がいくまで疑ってかかれば宜しい。納得がいけばその時初めて疑いが消えるでしょう。私は神学者ではありません。宗教論争をやって勝った負けたと言い争っている御仁とは違います。
全ては悟りの問題です。悟りが開かれれば、生命の神秘の理解が行きます。もっともすべてを悟ることはできません。全てを悟れる程の人なら、地上には来ないでしょう。地上は学校と同じです。少しずつ勉強し、知識を身につけていくうちに、徐々に霊性が目覚めていきます。
するとさらに次の段階の真理を理解する力が付くわけです。それが人生の究極の目的なのです。激論し合ったり、論争を求められたりするのは私は御免こうむります。
私はただこれまで自分が知り得た限りの真理を説いて教えて差し上げるだけです。お聞きになられてそれはちょっと信じられないとおっしゃれば“そうですかそれは残念(アイアムソーリー)ですね”と申し上げる他ありません」
問「霊に幾つかの側面があり、そのうちの一つが地上に生まれ、残りは他の世界で生活する事もあり得る、と言う風におっしゃいましたが、もうすこし詳しく説明して頂けませんか」
「私達霊界の者は地上の言語を超越した事柄を、至ってお粗末な記号に過ぎない地上の言語でもって説明しなければならない宿命を背負っております。言語は地上的なものであり、霊はそれを超越したものです。その超越したものを、
どうして地上的用語で説明できましょう。これは言語学で言う意味論の重大な問題でもあります。私に言わせれば、霊とはあなた方の言う神、God私の言う大霊Great spiritの一部分です。あなた方の理解の行く用語で表現しようにも、これ以上の言い方はできません。
生命力Life force、動力dynamic、活力vitality、本質real essence、神性divinity、それが霊です。仮に私が“あなたはどなたですか”と尋ねたらどう答えますか。“私は〇〇と申すものです”などと名前を教えてくれても、あなたがどんな方かは皆目分かりません。
個性があり、判断力を持ち、思考力を具え、愛を知り、そして地上の人間的体験を織りなす数々の情緒を表現することのできる人・・・それがあなたであり、あなたと言う霊です。その霊があるからこそ肉体も地上生活が営めるのです。
霊が引っ込めば肉体は死にます。霊そのものには名前はありません。神性を具えているが故に無限の可能性を持っています。無限ですから無限の表現も可能なわけです。
その霊に幾つかの面があります。それを私はダイヤモンドに例えるわけです。其々の面が違った時期に地上に誕生して他の面の進化の為に体験を求めるのです。もしも二人の人間が格別に相性がいい場合(滅多にない事ですが)其れは同じダイヤモンドの二つの面が同じ時期に地上に誕生したと言うことが考えられます。
そうなると当然二人の間に完全なる親和性がある訳です。調和のとれた全体の中の二つの部分なのですから。これは再生の問題に発展していきます」
問「あなたがダイヤモンドに譬えておられるその“類魂”について、もう少し説明していただけませんか。それは家族関係(ファミリー)のグループですか。同じ霊格を具えた霊の集団ですか、それとも同じ趣味を持つ霊の集まりですか。あるいはもっと他の種類のグループですか」
「質問者がファミリーと言う言葉を文字どおりに解釈しておられるとしたら、つまり血縁関係のある者の集団と考えておられるとすれば、私の言う類魂はそれとはまったく異なります。
肉体上の結婚に起因する地上的姻戚関係は必ずしも死後も続くとは限りません。霊的関係と言うものは、その最も崇高なものが親和性に起因するものであり、その次に血縁関係に起因するものがきます。
地上的血縁関係は永遠なる霊的原理に基づくものではありません。類魂と言うのは、人間性に関わった部分に限って言えば、霊的血縁関係とも言うべきものに起因した霊によって構成されております。
同じダイヤモンドを形作っている面々ですから、自動的に引き合いひかれ合って一体となっているのです。その大きなダイヤモンド全体の進化の為に個々の面々が地上に誕生することはあり得ることですし、現にどんどん誕生しております」
問「吾々個々の人間は一つの大きな霊の一分子と言う事ですか」
「そう言っても構いませんが、問題は用語の解釈です。霊的には確かに一体ですが、個々の霊はあくまでも個性を具えた独立した存在です。その個々の霊が一体となって自我を失ってしまうことはありません」
問「では今ここに類魂の一団がいるとします。その個々の霊が何百年かの後に完全に進化しきって一個霊になってしまう事は考えられませんか」
「そう言う事はあり得ません。何故なら進化の道程は永遠であり、終わりが無いからです。完全と言うものは絶対に達成されません。一歩進めば、さらにその先に進むべき段階が開けます。
聖書に、己を忘れる者ほど己を見出す、という言葉があります。これは個的存在の神秘を説いているのです。つまり進化すればするほど個性的存在が強くなり、一方個人的存在は薄れていくと言うことです。お分かりですか。
個人的存在と言うのは地上生活において他の存在と区別するための、特殊な表現形式を言うのであり、個性的存在と言うのは霊魂に具わっている紳的属性の表現形式を言うのです。進化するにつれて利己性が薄れ、一方個性はますます発揮されていく訳です」
問「双子霊Twin Soulsと言うのはどう言う場合ですか」
「双子霊と言うのは一つの霊の半分ずつが同時に地上に生を享けた場合の事です。自分と同じ親和性を持った霊魂・・・いわゆるアフィニティaffinity・・・は宇宙に沢山いるのですが、それが同じ時期に同じ天体に生を享けるとは限りません。
双子霊のようにお互いが補い合う関係にある霊同士が地上で巡り合うと言う幸運に浴した場合は、まさに地上天国を達成することになります。
霊的に双子なのですから、霊的進化の程度も同じで、従ってその後も手に手を取り合って成長していきます。私が時折“あなたたちはアフィニティですね”と申し上げる事がありますが、その場合がそれです」
問「双子霊でも片方が先に他界すれば別れ別れになる訳でしょう」
「肉体的には、しかしそれはホンの束の間のことです。肝心なのは二人が霊的に一体関係にあると言うことですから、物質的な事情や出来事がその一体関係に決定的な影響を及ぼすことはありません。
しかも束の間とはいえ地上での何年かの一緒の生活は、霊界で一体となった時と同じく、素晴らしい輝きに満ちた幸福を味わいます」
問「物資地界に誕生する霊と誕生しない霊とがいるのはなぜですか」
「霊界の上層部、つまり神庁には一度も物質界に降りた事のない存在がいます。その種の霊にはそれなりの宇宙での役割があるのです。物質器官を通しての表現を体験しなくても成長進化を遂げる事が出来るのです。
当初から高級界に所属している紳霊であり、時としてその中から特殊な使命を帯びて地上に降りてくることがあります。歴史上の偉大なる指導者の中には、そうした神霊の生まれ変わりである場合が幾つかあります」
問「大きな業(カルマ)を背負って生まれてきた人間が、何かのきっかけで愛と奉仕の生活に入った場合、その業がいっぺんに消えると言う事はあり得ますか」
「自然法則の根本はあくまでも原因と結果の法則、つまり因果律です。業もその法則の働きの中で消されていくのであって、途中の過程を飛び越えていっぺんに消える事はありません。原因があれば必ずそれ相当の結果が生じ、
その結果の中に次の結果を生み出す原因が宿されている訳で、これは殆ど機械的に作動します。質問者が仰るように、ある人が急に愛と奉仕の生活に入ったとすれば、それはそれなりに業の消滅に寄与するでしょう。
しかし、いっぺんにと言う訳にはいきません。愛と奉仕の世界を積み重ねていくうちに序々に消えて生き、やがて完全に消滅します。業と言う借金をすっかり返済したことになります」
問「戦争とか事故、疫病などで何万人もの人間が死亡した場合も業だったと考えるべきでしょうか。持って生まれた寿命よりも早く死ぬことは無いのでしょうか。戦争は避けられないものでしょうか。もし避けられないとすると、それは国家的な業と言う事になるのでしょうか」
「業と言うのはつまるところ因果律のことです。善因善果、悪因悪果と言うのも大自然の因果律の一部です。その働きには何者といえども介入を許されません。
これは神の公平の証しとして神が用意した手段の一つです。もしも介入が許されるとしたら、神の公平は根底から崩れます。因果律と言うのは行為者にそれ相当の報酬を与えると言う趣旨であり、多過ぎることも少なすぎることも無いように配慮されています。
それは当然個人だけでなく個人の集まりである国家についてもあてはまります。次に寿命についてですが、寿命は本来、魂そのものが決定するものです。
しかし個人には自由意思があり、又、諸々の事情によって寿命を伸び縮みさせることも不可能ではありません。戦争が不可避かとの問いですが、これはあなた方人間が解決すべきことです。
自由意思によって勝手なことをしながら、その報酬は受けたくないと言うムシのいい話は許されません。戦争をするもしないも人間の自由です。が、もし戦争の道を選んだら、それをモノサシとして責任問題が生じます」
問「寿命は魂そのものが決定するとおっしゃいましたが、全ての人間に当てはまることでしょうか。例えば幼児などはどうなるのでしょう。判断力や知識、教養などが具わっていないと思うのですが」
「この世に再生する前の判断力と、再生してからの肉体器官を通じての判断力とでは大きな差があります。勿論再生してからの方が肉体器官の機能の限界の為に大きな制限を受けます。しかし大半の人間は地上で辿るべき道程について再生前からあらかじめ承知しています」
問「地上で辿るべき道が分かっているとすると、その結果得られる成果についても分かっていると言うことでしょうか」
「その通りです」
問「そうなると前もって分かっているものをわざわざ体験する為に再生することになりますが、そこにどんな意義があるのでしょうか」
「地上に再生する目的は、地上生活から戻ってきて霊的資格(実力)を付けることにあります。前もって分かっているからと言って、霊的進化にとって体験を身に付けたことには成りません。
例えば世界中の書物を全部読むことは出来ても、その読書によって得た知識は、体験によって強化されなければ身に付いたこととは言えますまい。霊的成長と言うのは実際に物事を体験し、それにどう対処するかによって決まります。その辺に地上への再生の目的があります」
問「航空機事故のような惨事は犠牲者及びその親族が業を消すためなのだから前もって計画されているのだと言う考えには、私にはまだ得心がいきませんが・・・」
「ご質問にはいろいろな問題を含んでおります。まず“計画されている”と言う言い方は良くありません。そう言う言い方をすると、まるで故意に、計画的に、惨事を引き起こしているように聞こえます。全ての事故は因果律によって起こるべくして起きているのです。
その犠牲者・・・この言い方も気に入りませんがとりあえずそう呼んでおきます。・・・の問題ですが、これには別の観方があることを知ってください。つまりあなた方にとって死は確かに恐るべきことでしょう。が、
私達霊界の者にとっては、ある意味では喜ぶべき出来事なのです。赤ちゃんが誕生するとあなた方は喜びますが、こちらでは嘆き悲しんでいる人がいるのです。
反対に死んだ人は肉体の束縛から解放されたのですから、こちらでは大喜びでお迎えしています。次にこれはあなた方には真相を理解することは困難ですが、宿命と言うものが宇宙の大機構の中で重大な要素を占めているのです。
これは運命と自由意思と言う相反する要素が絡み合った複雑な問題ですが、二つとも真実です。つまり運命づけられた一定の枠の中で自由意思が許されているわけです。説明の難しい問題ですが、そう言い表す他にいい方法が思い当たりません」
問「事故が予知できるのは何故でしょうか」
「その人が一時的に三次元の物的感覚から脱して、ホンの瞬間ですが、時間の未来の流れをキャッチするからです。大切な事は、本来時間と言うのは“永遠なる現在”だと言う事です。この事を良く理解して下さい。
人間が現在と過去とを区別するのは、地上と言う三次元の世界の特殊事情に起因するものであって、本来過去も未来も無いのです。三次元の障壁から脱して本来の時間に接した時、あなたにとって未来になる事が今現在において知ることが出来ます。
もっとも、そうやって未来を予知することが当人にとってどういう意味をもつのかは、これ又別の問題です。
単に物的感覚の延長に過ぎない透視、透聴の類の心霊的能力Psychic powersによっても予知することが出来ます。
霊視・霊聴の類の霊感spiritual powersによっても知ることが出来ます。Psychicとspiritualは同じではありません。いわゆるESP(Extra Sensory Perception超感覚的視覚)は人間の霊性には何のかかわりは無く、単なる五感の延長に過ぎないことがあります」
問「占星術と言うのがありますが、誕生日が人の生涯を支配するものでしょうか」
「およそ生命あるものは、生命を持つが故に何らかの放射を行っております。生命は常に表現を求めて活動するものです。その表現は昨今の用語で言えば波長とか振動によって行われます。宇宙感の全ての存在が互いに影響し合っているのです。
雷雨にも放射活動があり、人体にも何らかの影響を及ぼします。言うまでも無く太陽は光と熱を放射し、地上の生命を育てます。木々も永年にわたって蓄えたエネルギーを放射しております。
要するに大自然全てが常になんらかのエネルギーを放射しております。従って他の惑星からの影響も受けます。それは勿論物的エネルギーですから、肉体に影響を及ぼします。
しかしいかなるエネルギーも、いかなる放射性物質も、霊魂まで影響を及ぼすことはありません。影響するとすれば、それは肉体が受けた影響が間接的に魂にまで及ぶという程度に過ぎません」
問「今の質問者が言っているのは、例えば二月一日に生まれた人間はみな同じような影響を享けるのかと言う意味だと思うのですが・・・」
「そんな事は絶対にありません。なぜなら霊魂は物質に勝るものだからです。肉体がいかなる物的影響下に置かれても、宿っている霊にとって征服できないものはありません。もっともその時の条件によりますが。いずれにせよ肉体に関する限り、
全ての赤ん坊は進化の過程の一部として特殊な肉体的性格を背負って生まれてきます。それは胎児として母体に宿った日や地上に出た誕生日によって、いささかも影響を受けるものではありません。
しかし、そうした肉体的性格や環境の如何に関わらず、人間はあくまで霊魂なのです。霊魂は無限の可能性を秘めているのです。
その霊魂の本来の力を発揮しさえすれば、いかなる環境も克服しえないことはありません。もっとも、残念ながら、大半の人間は物的条件によって霊魂の方が右往左往させられておりますが・・・」