第6章 動物の進化と死後の生命
動物にも死後の生命があるのか。あの世で再び会う事が出来るのかという問題は、スピリチュアリズムに関心のある方にとって共通した関心事ですが、動物をいわゆるペットして我が子のように可愛がっている人々にとって大きな関心事であろうかと思われます。
心霊問題に熱心な方なら、動物の存続を証明する確証を何らかの形で得られておることでしょう。心霊写真に動物が写っていることが良くありますし、霊界通信でもそれを証言する霊がいくらでもいます。
さて一味違った霊界通信に、英国の心霊治療家オリーブ・バートンの「子供の為の心霊童話」Spirit Stories for Children, retold by Olive Burtonと言うのがあります。これはバートン女史のお嬢さんのエドウィーナちゃんの守護霊が語った一種の童話で、一つ一つに話に立派なカラーの挿画も付いていて、
日本もこうしたものが出せる世の中になってほしいと思われる心霊書ですが、この童話の中ではペットだけでなく野獣も含めた動物の全てが、人間(の霊)と完全に調和した生活を送っている様子が描かれており、それがそのまま霊界での真実であると述べています。
それより先の1940年に、バーバネル氏の奥さんであるシルビア・バーバネル女史がWhen your Animal Deathというのを出しています。
文字どうり動物の死後を扱ったもので、出版と同時に大変な反響を呼び、幾度か版を重ねております。この本を読んでスピリチュアリズムを信じるようになったと言う人が少なくありません。
私はこれもいずれは日本では出さねばならない霊書の一つだと考えておりますが、その第18章に動物に関するシルバーバーチの霊言が特集してあります。
勿論1940年までの10年余りの間の霊言が引用されているわけで、その後もシルバーバーチは折に触れて動物愛護を説き、娯楽の為の狩猟、食用の為の屠殺、科学に名を借りた動物実験の罪悪性を戒めておりますが、
その18章にはシルバーバーチシリーズ(全11冊)に編集されていないものが相当あり、しかも内容的に見てそれで全てをつくしているようですので、此処では其の18章をそのまま引用することにしました。
単に動物の死後の問題にとどまらず、生命の進化、自我の発生など、心霊学徒にとっては興味深い問題が次々と出てきます。章の初めは当然のことながら、シルバーバーチという霊の紹介に費やされておりますが、吾々にとっては不要ですので、早速本題に入ります。
問「動物は死後もずっと飼い主と一緒に暮らすのでしょうか。それとも、いずれは動物だけの界へ行くのでしょうか」
「どちらとも一概には言えません。なぜなら、これには人間の愛が関っているからです。死後も生前のままの形態を維持するか否かは、その動物に対する飼い主の愛一つにかかっているのです。
もしその動物と飼い主・・・その飼い主(owner)という言葉はすきではありません。他の生命を我がものとして所有する(own)等という事は許されないのですから・・・その両者が時を同じくして霊界へ来た場合、その飼い主のところで暮らします。
愛のある場所が住拠となるわけです。愛が強く結びつけるのです。その場合は動物界へ行く必要はありません。しかしもしも飼い主より先に他界した場合は、動物界へ行ってそこで面倒を見てもらわなければなりません。
飼い主との愛が突如としてきれたのですから、単独で放って置かれると動物も迷います。地上では人間的な愛と理性と判断力と情愛を一身に受けたのですから、その主人が来るまで、ちょうどあなた方が遠出をする時にペットを専門店に預けるように、霊界の動物の専門家に世話をしてもらうわけです」
問「人間との接触によって動物はどんなものを摂取するのでしょうか」
「永い進化の道程のどこかの時点で、神が、と言うよりは法則の働きによって、動物の魂に自我意識が芽生え、やがて理性が芽生え、知性が発達してきました。その段階で人間は判断力を身に付けたわけです。
すなわち物事を意識的に考え、決断する能力です。しかし実はそうした能力は全部初めから潜在していたのです。どんなに遠く遡っても、魂の奥に何らかの形で潜在していたのです。それが神の息吹きで目を覚ましたわけです。
さて、そうして神が動物に霊性の息吹きを吹き込んだように、あなた方人間も動物に対して同じことができるのです。人間は神の一部です。従って進化の順序のなかで人間の次に位置する動物に対して、その霊性の息吹きを吹き込むことができる筈です。
つまり動物との接触の中で、愛という霊的な力によって動物の魂に自我意識を芽生えさせることができるのです。それがその後の永い進化の道程を経て、やがて人間という頂点にまで達するわけです。愛が生命の全てのカギです。
動物であろうと人間であろうと、愛は死によって何の影響も受けません。愛こそは宇宙の原動力です。全宇宙を動かし、全てを統御し、全てを統率しています。
又愛は人間を通じて他の生命へ働きかけようとします。人間同士でもそうですし、動物、植物といった人間より下等な生命でもそうです。愛があればこそ生命は進化するのです」
問「霊界で動物と再会したとして、その一緒の生活はいつまで続くのでしょうか。いつまでも人間と一緒ですか」
「いえその辺が人間と違います。人間と動物はどこかの時点でどうしても別れなければならなくなります。地上の年数にして何十年何百年かかるか分かりませんが、動物の進化と人間の進化とではその速度が違うために、どうしても人間についていけなくなる時が来ます。
人間は死の関門を通過して霊界の生活に慣れてくると、向上進化を求める霊性が次第に加速されていきます。そして魂に潜む能力が他の生命の進化を援助する方向へと発揮されて行きます。
そうやって人間が霊的に向上すれば向上するほど、動物はいかに愛によって結ばれているとは言えそのスピードについていけなくなり、やがてこの愛の炎も次第に小さくなり、ついには動物はその所属する種の類魂の中に融合して行きます」
問「すると動物の場合は個性を失ってしまうと言うことですか」
「その通りです。そこに人間と動物の大きな違いがあるわけです。動物は類魂全体としてはまだ1個の個性を有する段階まで進化していないのです。その段階まで進化すれば、もはや動物では無くなり、人間となります。
ペットとして可愛がられた動物は、人間の愛の力によって言わば進化の段階を飛び越えて人間と一緒に暮らすわけで、人間の進化についていけなくなって愛の糸が切れてしまえば、元の類魂の中に戻るしかありません」
問「せっかく人間との接触で得たものが消えてしまうのでは愛が無駄に終わったことになりませんか」
「そんなことはありません。魂全体に対して貢献をしたことになります。類魂全体としてその分だけ進化が促進されたことになるのです。全体に対する貢献です。
今迄その類魂に無かったものが加えられたわけです。全体の為に個が犠牲になったと言うことです。そうしたことが多ければ多いほど類魂の進化が促進され、やがて動物の段階を終えて人間へと進化していきます」
問「その時点で人間界へと誕生する訳ですか」
「そうです。人間界への誕生には2種類あります。古い霊が地上へ戻ってくる場合と、そうやって動物界から初めて人間界へ誕生してくる場合です」
問「一人の人間としてですか」
「そうです双方とも霊魂です。双方とも自我意識を持った霊であり個性を有しております。ただ一方がベテラン霊で、進化の完成の為にどうしても物質界で体験しなければならないことが生じて、再び地上にやって来るのに対し、他方は、やっと人間の段階まで達した新入生です。
直前まで動物だったのが人間へとジャンプしたのです。アメーバの状態から始まって爬虫類、魚類、鳥類、そして動物と、ありとあらゆる進化の段階を辿って、今ようやく人間へと達したのです」
問「セオソフキー(神智学)の教えと同じですね」
「何の教えでもよろしい。私に対して、学派だの宗派だのを口にするのは止めて下さい。世の評論家と言うのはアレコレとよく知っていることをひけらかすだけで、その実、素朴な真理を何一つご存じない。困ったことです。
それはおいて、あなたはまさか蜘蛛を家の中に持ちこんでペットとして飼ったりしないでしょう。
カブト虫に温かい人間愛を捧げるようなことをしないでしょう。それはあなたとそう言う昆虫との間の隔たりを意識するからです。進化の道程において遥かに遅れていることを本能的に直感するからです。
一方犬とか猫、時に猿などをペットして可愛がるのは、一種の親近感を意識するからです。もうすぐ人間として生まれ変わって来る段階まで近づいてきているために、動物の方でも人間の愛を受け入れようとするのです」
問「では下等動物が人間に飼われると言うことは、その動物はもうすぐ人間に生れ代わると言うことを意味するのでしょうか」
「進化にも、突然変異的な枝分かれ、いわゆる前衛と、後戻りする後衛とがあります。つまり前へ行ったり後ろに下がったりしながら全体として進化して行きます。中には例外的なものも生じます。
動物でも知的な面でずいぶん遅れているものもいれば、小鳥でも犬よりも知的に進化しているものがいたりします。しかしそうした例外と、全体の原理とを混同してはいけません」
問「動物の類魂は同じ種類の動物に何回も生まれ変わるのですか。それとも一回きりですか」
「一回きりです。無数の類魂が次々と生まれ変わっては類魂全体の為に体験をもちかえります。動物の場合それぞれ一度ずつです。そうしないと進化になりません」
問「吾々人間としては、犬や猫などペットと同じように、生物の全てに対して愛情を向けることが望ましいでしょうか」
「それはそうです。しかし同じ反応を期待してはいけません。愛情は愛情を呼び、憎しみは憎しみを呼ぶと言うのが原則ですが、進化の程度が低いほど反応も少なくなります。
あなたの心に怒りの念があると言うことは、それはあなたの人間的程度の一つの指標であり、進歩が足りないこと、まだまだ未熟だと言うことを意味しているわけです。
あなたに心から怒りや悪意、憎しみ、激怒、ねたみ、そねみ等の念が消えた時、あなたは霊的進化の大道を歩んでいることになります」
問「動物がようやく人間として誕生しても、その人生がみじめな失敗に終わった場合は、再び動物界へ戻るのでしょうか」
「そう言う事はありません。一旦人間として自我意識を具えたら、2度と消えることはありません。それが絶対に切れることのない神との絆なのですから」
問「屠殺とか動物実験などの犠牲になった代償・・・いわゆる埋め合わせの法則はどうなっていますか」
「勿論それにはそれなりの埋め合わせがありますが、一匹とか一頭とかについてでは無く、その動物の属する類魂を単位として法則が働きます。進化の程度が異なる動物と人間とでは因果律の働きが違うのです。
特に動物の場合は原則として死後は類魂の中に埋没してしまうので、個的存在とは条件が異なります。類魂全体としての因果律があるのですが、残念ながら人間の言語では説明のしようがありません。譬えるものが見当たりません」
問「シラミとかダニなどの寄生虫は人間の邪心の産物だと言う人がいますが、本当でしょうか。あれはホコリとか病気などの自然の産物ではないかと思うのですが」
「仮に病気やホコリのせいだとした場合、そのホコリや病気は一体だれがこしらえたのですか。原因を辿れば人間の利己心にいきつくのではありませんか。その利己心はすなわち邪心と言えます。
たしかに直接の原因は衛星の悪さ、不潔な育児環境、ホコリとか病気、直射日光や新鮮な空気の不足とかにありますが、さらにその原因を辿れば、そう言う環境を改めようとしない、恵まれた環境にある人達の利己心、非人間性に行きつきます。
これは一種の邪心であり、私に言わせれば人間の未熟性を示しています。そう言う利己性を棄て、弱者を食い物にするような真似を止め、我欲や野心を生む制度を改めれば、害虫や寄生虫は発生しなくなります」
問「それは例えば、ハエのようなものには当てはまらないでしょう」
「いいですか、大自然は今なお進化の過程にあるのです。自然界のバランスは人類の行為如何によって左右されており、人類が進化すればするほど、地上の暗黒地帯が減っていくのです。人間の霊性の発達と自然界の現象との間には密接な関係があるのです。
人間の存在を抜きにした自然界は考えられないし、自然界を抜きにして人間の進化はあり得ません。双方の進化は大体において平行線を辿っています。
人間は神によって創造されたものでありながら、同時に又、神の一部として、宇宙の進化の推進者でもあり、自分自身のみならず、自分の属する国家をも司配する自然法則に影響を及ぼします。
私は今、人間と自然界の進化は大体において平行線を辿ると言いました。両者にはどうしてもすこしずつズレが出てくるのです。なぜなら、過去の世代が残した業は必ず処理して行かねばならないからです。」
問「今おっしゃったことは恐ろしい野獣についてもあてはまるのでしょうか」
「全面的ではありませんが一応は当てはまります。ただ忘れないで頂きたいのは、進化というのは一定の型にはまったものではないのです。いろいろと変化しながら永遠に続くのです。
原始的なものからスタートして低い段階から高い階段へと進むのですが、かつては低いところにいたものが次第に追い抜いて今では高いところにいたり、今高い所に位置しているものが、将来は低い方になることもあります。」
問「では進化にも後戻りということがあるわけですか」
「それは後戻りと呼ぶのであればイエスという答えになりましょう。というのは、進化というのは一種のサイクル、現代の思想家の言葉を借りればスパイラル(螺旋状)を画きながら進むものだからです。どちらの言い方でも構いません。
要は進化というものが常に一直線に進むものではないことを理解して頂ければよろしい。一歩進んでは後退し、二歩進んでは後退し、ということを繰り返しながら永遠に続くのです」
問「動物同士は殺し合っているのに、なぜ人間は動物実験をやってはいけないのでしょう」
「それが人間の進化の指標だからです。人間が進化すればするほど地上から残忍性と野蛮性が消えていきます。愛と慈しみと寛容の精神が地上にみなぎった時、動物の残忍性も消えて、それこそライオンと羊が仲良く寄り添うようになります」
問「しかし動物の残忍性も動物としての発達の表れではないでしょうか」
「あなたもかつては動物だったのですよ。それが此処まで進化してきた。だからこそ太古に較べれば動物界でも随分残忍性が減ってきているのです。トカゲ類で絶滅したものもいます。なぜ絶滅したと思いますか。人間が進化したからです」
問「おとなしい動物の中にも絶滅したものもがいますが」
「進化の一番の指標が残忍性に出ると言っているのです。太古でも進化上枝分かれが幾つもありました。それらは進化の先進者とも言うべきものです。
進化というのはどの段階おいても一定の型にはまったものではありません。優等生もおれば劣等性もおり、模範生もおれば反逆児もおります。おとなしい動物はさしずめ優等生だったわけです」
問「寄生虫の類も動物と同じ類魂の中に入って行くのですか」
「違います」
問「動物の類魂は一つではないと言う事ですか」
「各種属にそれぞれの類魂がいます」
問「それがさらに細分化しているわけですか」
「そうです。細分化したものにもそれぞれの類魂がおります。新しい霊・-・初めて人間に宿る霊は、動物界の中の最も進化した類魂です」
問「動物で一番進化しているのは何ですか」
「犬です」
問「寄生虫の類魂の存在は害を及ぼしますか」
「別に害はありません。全体のバランスから見て、殆ど取るに足らぬ勢力ですから。でもこれは随分深入りした質問ですね」
問「動物の類魂の住処はやはり動物界にあるのですか」
「私にはあなたより有利な点が一つあります。それは地理を学ばなくてもいいと言うことです。場所とか位置が要らないのです。霊的なものは空間を占領しないのです。地上的な位置の感覚で考えるからそういう質問が出てくるのです。
魂には居住地は要りません。最も形態の中に宿れば別です。類魂そのものには形態はありませんが、もしも形態をもつとなれば、何らかの表現形態に宿り、その形態で自己表現できる場が必要になります」
問「動物の類魂は地球上に対して何か物的なエネルギーを供給しているのでしょうか。地球にとってそれなりの存在価値があるのでしょうか」
「進化の過程においての存在価値はあります。ただ気をつけて頂きたいのは、どうもあなた方は物的なものと霊的なものとを余りに区別しすぎるきらいがあります。
地上に存在していても立派に類魂の一部でありうるわけで、死ななければ類魂の仲間入りが出来ないと錯覚してはいけません」
問「ペットも睡眠中に霊界を訪れますか」
「訪れません」
問「では死んでからいく世界にまるで馴染が無いわけですか」
「ありません。人間の場合は指導霊が手を引いて案内してくれますが、動物の場合はそれができるのは飼い主だけですから、飼い主が地上にいれば案内できない理屈になります」
問「飼い主が先に死んだ場合はどうなりますか」
「その場合は事情が違ってきます。今述べたのは一般的な話です」
問「人間より動物の方が心霊能力が優れている場合があるのはどうしてですか」
人間が今送っているような”文化生活”を体験していないからです。人間がもし文化生活の”恩恵”に浴さなかったら、心霊能力が普段の生活の一部となっていた筈です。つまり人間は文明と引き換えに心霊能力を犠牲にしたわけです。
動物には人間のような金銭問題も無く、社会問題も無いので、本来なら人間が到達すべきであった段階へ人間より先に到達したのです。
人間の場合は物質文明が心霊能力を抑え込んでしまったわけです。いわゆる霊能者というのは進化のコースの先駆者です。いずれは人間の総てが発揮する筈の能力を今発揮しているわけです」
問「動物にはいわゆる第六感と言うのがあって災害を予知したり、知らないところからでもちゃんと帰ってきたりしますが、これも心霊能力ですか」
「そうです霊能者にも同じことができます。ただ動物の場合はその種属特有の先天的能力である場合があります。いわゆる本能といわれるもので、鳩がどんな遠くからでも帰って来るのもそれです。これも一種の進化の先駆けで、その能力だけがとくに発達したわけです」
問「死んだばかりの犬が別の犬と連れだって出てくる様子を霊能者が告げてくることがありますが、犬同士でも助けあうことがあるのですか」
「ありません。ただし地上でその二匹が一緒に暮らした経験があれば連れだって出ることはあります」
問「動物界にはどんな種類の動物がいるのでしょうか」
「地上で可愛がられている動物、親しまれている動物、大切にされている動物、人間と殆ど同等に扱われて知性や思考力を刺激された動物の全てがおります。
そうして動物は飼い主の手から離れたことで寂しがったり迷ったりするといけないので、動物界へ連れてこられて、他の動物と一緒に暮らしながら、動物の専門家の特別の看護を受けます。
そこには動物を喜ばせるものが何でもそろっており、やりたいことが何でもできるので、いらいらすることがありません。そして時には地上にいる飼い主の家の雰囲気内まで連れてこられ、暫しその懐かしい雰囲気を味わいます。
心霊知識の無い方が自分の飼っていた犬を見たとか猫が出たとか言って騒ぐのはそんな時です。なんとなくあの辺に居たような気がすると言った程度に過ぎないのですが、地上の動物の目にはちゃんと見えています。霊視能力が発達していますから・・・」
問「動物界で世話をしている人間が連れてくるわけですか」
「そうです。それ以外の人について戻って来ることはありません。ところでその世話をしている人はどんな人だと思いますか。動物が大好きなのに飼うチャンスが無かった人達です。
それはちょうど子供が出来なくて母性本能が満たされなかった女性が、両親に先立って霊界へ来た子供の世話をするのと一緒です。
犬とか猫、その他人間が可愛がっている動物が飼い主に先立ってこちらへ来ると、動物が大好きでありながら存分に動物との触れ合いが持てなかった人間によって世話をされるのです。
もちろん獣医のような動物の専門家がちゃんと控えております。それもやはり地上で勉強したことがそのまま霊界で役立っているわけです。知識は何一つ無駄なものはありません」
問「病気で死亡した動物の場合も人間と同じように看護されるのですか」
「そうです。そうしたチャンスを喜んで引き受けてくれる人が大勢います」
問「動物界は種類別に分かれているのですか、それとも全部が混ざり合っているのですか」
「種類別ははっきりしています」
問「動物界は一つでも、それぞれの境界があるということですか」
「そうです兎に角自然に出来上がっております。一つの大きな檻の中に飼われているのではありません」
問「猫は猫、犬は犬に分けられているわけですか」
「その通りです」
問「特に仲の良かったもの同士は別でしょう。その場合は互いに境界の近くに来るわけですか」
「そう言う事です。全てが至って自然に出来上がっていると考えて下さい」
問「犬の次に進化している動物は何ですか。猫ですか、猿ですか」
「猫です」
問「なぜ猿ではないのでしょう。人間と非常によく似ていると思うのですが」
「前にも述べましたが、進化というのは一本道ではありません。必ず優等生と劣等性とがいます。人間は確かに猿から進化しましたが、その猿を犬が抜き去ったのです。その大きな理由は人間が犬を可愛がったからです」
問「犬が人間の次に進化しているから可愛がるのだと思っていましたが・・・」
「それもそうですが、同時に人間の側の好き嫌いもあります。それからこの問題にはもう一つの側面があるのですが、ちょっと説明できません。
永い永い進化の道程において、猿は言わば足を滑らせて後退し、残忍にはならなかったのですが、ケンカっぽく、そして怠けっぽくなって歩みを止めてしまい、結局類魂全体の進化が遅れたのです。
それと同時に、というより、ほぼその時期に相前後して、犬の種族が進化してきました。猿よりも類魂全体の団結心が強く、無欲性に富んでいたからです。しかしどうしても説明が困難です。もっともっと複雑なのです」
問「猿の種族が法則を犯したのでしょうか」
「法則を犯したと言うのではなく、当然しなければならないことをしなかったと言う事です」
問「では猿と同じように、将来、犬が進化した段階を滑り落ちることもありうるのでしょうか」
「それはもうあり得ないでしょう。というのは、すでに何百万年もの進化の過程を辿って来て、地上の種がすっかり固定してしまったからです。
種の型が殆ど定型化して、これ以上の変化の生じる可能性は無くなりつつあります。物質的進化には限度があります。形体上の細かい変化はあるかもしれませんが、本質的な機能上の変化は考えられません。
人間の場合を考えてごらんなさい。現在の型、すなわち二本の腕と足、二つの目と一つに鼻が大きく変化することは考えられないでしょう。これが人間の定型となったわけです。勿論民族により地方によって鼻とか目の形が少しずつ違いますが、全体の型は同じです。
動物の場合はこの傾向がもっと強くて霊界の類魂に突然変異が発生することがあっても、それが地上の動物の型を大きく変化させることはまずないでしょう」
問「猿の転落もやはり自由意志に関係した問題ですか」
「それは違います。自由意志は個的存在の問題ですが、動物の場合は類魂全体としての問題だからです」
問「動物には個体としての意識が無いのに、なぜ類魂全体として判断ができるのですか」
「個々には理性的判断が無くとも、働くか怠けるかを選ぶ力はあります。必要性に対して然るべく対処するかしないかの選択です。そこで種としての本能が伸びたり衰えたりします。
個々には判断力は無くても、永い進化の過程において、種全体として然るべき対処を怠ると言う時期があるわけです」
問「それは植物の場合にも言える訳ですか」
「そうです」
問「それは外的要因によって生じるのではないですか」
「そうですがあなたがおっしゃる外的というのは実は内的でもあるのです。それに加えてさらに、霊界からコントロールする霊団の存在も考慮しなくてはいけません」
問「例えば猿の好物であるナッツ類が豊富にあれば、それが猿を怠惰にさせるということが考えられませんか」
「結果論からすればそうかも知れませんが、ではナッツがなぜ豊富にあったのかという点を考えると、そこには宇宙の働きを考慮しなくてはいけません。
つまり人間の目には外的な要因に見えても、霊界から見れば内的な要因が働いているのです。私が言わんとしているのはその点なのです。
人間はとかく宇宙の法則を何か生命の無い機械的な、融通性のないもののように想像しがちですが、実際は法則と法則とに絡まり合いがあり、ある次元の法則が別の次元の法則の支配を受けることもありますし、その根源において完全にして無限なる叡知によって支配されているのです。
法則にもまず基本の型というものがあって、それにいろいろとバリエーション(変化)が加えられています。と言ってもその基本の型の外へ出ることは絶対に出来ません。どんなに反抗して見たところで、その法の枠はどうしようもなく、結局は順応していくほかありません。
しかし同じ型にはまっていても、努力次第でそれを豊かで意義あるものにしていくことも出来るし、窮屈で味気ないものにしていくことも出来ます。
別の言い方をすれば、その法則に調和した色彩を施すのも、あるいはみっともない色彩を塗りつけてしまうのもあなた次第という事です。いずれにせよ型は型です」
問「動物実験がますます増えておりますが、どう思われますか。これを中止させようとする団体もありますが、霊界からの援助もあるのでしょうか」
「為になる仕事をしようと努力している人は必ず霊界の援助を受けます。神の創造物に対して苦痛を与えることは、いかなる動機からにせよ許されません。
ただ動物実験をしている人の中には、人類の為という一途な気持ちで一生懸命な余り、それが動物に苦痛を与えていることに全く無神経な人がいることも忘れてはなりません。しかし罪は罪です」
問「でもあなたは動機が一番大切であると何度もおっしゃっています。人間の為と思ってやっても罰を受けるのでしょうか」
「なるほど結構なことかもしれませんが、法の原理を曲げるわけにはいきません。実験で動物が何らかの苦痛を受けていることが分からない筈がありません。それでも尚実験を強行すると言う事は、かなりの責務を自覚しているものと看做されます。
動機は人の為という事で結構ですが、しかしそれが動物に苦痛を与えているわけです。そうした点を相互的に考慮したうえで判断が下されます。いずれにせよ私としては苦痛を与えると言う事は賛成できません」
問「動物は人類の為に地上に送られてきているのでしょうか」
「そうです、同時に人類も動物を助けるためにきているのです」
問「動物創造の唯一の目的が人類の為という事ではないと思いますが」
「それはそうです。人類の為という事も含まれていると言う事です」
問「動物の生体解剖は動機が正しければ許されますか」
「許されません。残虐な行為がどうして正当化されますか。苦痛を与え、悶え苦しませて、何が正義ですか。それは私どもの教えと全く相入れません。無抵抗の動物を実験台にすることは間違いです」
問「動物を実験材料とした研究からは、例えば癌の治療法は発見できないという考えには賛成ですか」
「神の摂理に反した方法で手に入れた治療法では病気は治せません。人間の病気には其々にちゃんとした治療法が用意されています。しかしそれは動物実験からは発見できません」
問「そうした酷い実験を見て居ながら、なぜ霊界から阻止して頂けないのでしょうか」
「宇宙が自然法則によって支配されているからです」
問「私はキツネ狩りをしたことがありますが、間違ったことをしたことになりますか」
「全ての生命のあるものは神のものです。いかなる形にせよ、生命を奪う事は許されません」
問「でもうちの鶏を二十羽も喰い殺したのですが」
「では、仮に私がその狐に銃を与えて、二十羽も鶏を食べたあなたを打ち殺せと命令したらどうなります。全ての地上の生命は神の前には平等なのです。人間が飢えに苦しむのはキツネが悪いのではなく、人間自身が勝手な考えを持つからです。
キツネや鶏をあなたがこしらえたのなら、これをあなたが食べても誰も文句は言いません。
人間が鶏やキツネを殺していいと言うのが道理であるとしたら、あなたの兄弟姉妹を殺してもいいという理屈になります。生命は人間のものではありません。神のものです。生命を奪うものは何時かはその責任を取らなくていけません」
問「オーストラリアではウサギの異常繁殖が驚異となっておりますが、これについてどうでしょうか」
「人間は本来そこにあるべきでないところに勝手に持ってきて、それがもたらす不都合についてブツブツ文句を言います。私の地上の故郷である北米インディアンについても同じです。
インディアンはもともと戦争とか、俗に言う火酒(ウイスキー・ジン等の強い酒)、その他不幸をもたらすようなものは知らなかったのです。
白人が教えてくれるまでは人を殺すための兵器は何も知らなかったのです。その内人間も宇宙のあらゆる生命・・・動物も小鳥も魚も花も、その一つ一つが神の計画の一部を担っていることを知る日が来るでしょう。神の創造物としてそこに存在していることを知るようになるでしょう」
問「イエスの教えの中には動物に関するものが非常に少ないようですが何故でしょうか」
「その当時はまだ動物の幸不幸を考えるほど人類が進化していなかったからです」
問「他の国の霊覚者の訓えにはよく説かれているようですが」
「それは全部とは言いませんが大部分はイエスよりずっと後の時代のことです。それはともかくとして、あなた方はイエスを人類全体の模範のように考えたがりますが、それは間違いです。
イエスはあくまで西欧世界のための使命を担って地上へ降りてきたのであって、人類全体の為ではありません。イエスにはイエスの限られた使命があり、イエス個人としては動物を初めとして全ての生命に愛情をもっていても、使命達成の為に、
その訓えを出来るだけ制限したのです。その使命というのは、当時の西欧世界をむしばんでいた時代遅れの腐敗した宗教界にくさびを打ち込んで、難解なドグマに代わる単純明快な人間の道を説くことでした」
問「下等動物への愛を説かない教えは完全とは言えないではないでしょうか」
「勿論そうです。ただイエスの場合はその教えをよく読めば動物への愛も含まれています。イエスは例の黄金律を説きました。すなわち”汝の欲するところを人に施せ”という事ですが、この真意を理解した人なら、他のいかなる生命にもむごい仕打ちは出来ないはずです」
以上がシルビア・バーバネル著「動物の死後」に収録されているシルバーバーチの霊言です。霊言集にも動物に言及したものは無いことはないのですが、右に紹介したものが一番まとまっているようです。
では最後に、英国のテレビ番組「サファリ」を製作したデニス夫妻Michael &Armand Denisを招待してシルバーバーチが賛辞を述べた時の様子が霊言集に見えますので、これを紹介したいと思います。夫妻は熱心なスピリチュアリストとして有名です。
「あなたがた(デニス夫妻)は、肉体に閉じ込められて霊覚が邪魔されているので、ご自分がどれ程立派な仕事をされたかご存じないでしょう。
お二人の骨の折れるこの分野を開拓され、人間と動物の間に同類性があり従ってお互いの敬意と寛容と慈しみが進化の厳律であることを見事に立証されました。
大自然を根こそぎにし、荒廃させ、動物を殺したり片輪にしたりするのは、人間のすべきことではありません。
強きものが弱きものを助け、知識あるものが無知なものを救い、陽のあたる場所にいるものが地上の片隅の暗闇を少しでも少なくするために努力することによって自然界の全存在が調和のある生命活動を営むことこそ、本来の姿なのです。
その点あなた方は大自然の大機構の中で動物の存在意義を根気よく紹介され、正しい知識の普及によく努力されました。それこそ人間の大切な役割の一つなのです。
地上の難題や不幸や悲劇の多くが、人間の愚かさや欺瞞によって惹き起されていることは、残念ながら真実なのです。
慈しみの心が大切です。寛容の心を持たなくてはいけません。自然破壊では無く、自然の調和こそ理想とすべきです。人間が争いを起こす時、その相手が人間同士であっても動物であっても、結局は人間の人間自身の進化を遅らせることになるのです。
人間が争いを起こしているようでは自然界に平和は訪れません。
平和は友好と一致と協調の中にこそ生れます。それなしでは地上は苦痛の癒える時が無く、人間が無用の干渉を続ける限り災害は無くなりません。
人間には神の創造の原理が宿っているのです。だからこそ人間が大自然と一体となった生活を営む時、地上に平和が訪れ神の国が実現するのです。
残酷は残酷を呼び、争いは争いを生みます。が、愛は愛を生み、慈しみは慈しみを生みます・人間が憎しみと破壊の生活をすれば、人間自らが破滅の道を辿ることになります」諺にも「風を播いてつむじ風を刈る」と言います。悪い事をすればその何倍もの罰をこうむることになります。
何ものに対しても憎しみを抱かず、全てに、地上の全ての生命あるものに愛の心で接することです。それが地上の限りない創造進化を促進する所以となります。挫けてはなりません。
あなた方の仕事に対して人はいろいろと言うでしょう。無理解、無知、他愛ない愚かさ、間抜けな愚かさ、心ない誹謗などなど。
これは悪意から出るものもありましょうし、何も知らずに、ただ出まかせにいう場合もあるでしょう。それに対するあなた方の武器は、他ならぬ心霊知識であらねばなりません。
所詮はそれが全ての人間の生きる目的なのです。心霊知識を理解すれば、後は欲の皮さえ突っ張らなければ、神の恩恵に浴することができるのです。
お二人は多くの才能をお持ちです。まだまだ動物の為にすべき仕事が山ほど残っております。地上の生命は全体として一つにまとまった生命体系を維持しているのであり、そのうちのどれ一つを欠いてもいけません。
お二人が生涯を傾けている動物は、究極的には人間が責任を負う存在です。
なぜならば人間は動物と共に進化の道を歩むべき宿命にあるからです。共に手を取り合って歩かねばならないのです。動物は人間の貪欲や道楽の対象では無いのです。動物も進化しているのです。
自然界の生命は全てが複雑に絡み合っており、人間の責任は、人間同士を超えて、草原の動物や空の小鳥にまで及んでいます。抵抗するすべを知らない、か弱い存在に苦痛を与えることは是非とも阻止しなくてはいけません。
装飾品にする為に動物を殺すことは神は許しません。あらゆる残虐行為、とりわけ無意味な殺傷は絶対にやめなければなりません。物言わぬ存在の権利を守る仕事に携る者は、常にそうした人間としての道徳的原理に訴えながら闘わなくてはいけません。
小鳥や動物に対して平気で残酷なことをする者は、人間に対しても平気で残酷なことをするものです。
動物への残忍な行為を見て心を傷め涙を流す人は、いつかはきっと勝つのだと言う信念のもとに、勇気をもって動物愛護の為の仕事を続けて下さい。多くの残酷な行為が無知なるが故に横行しています。
そうした行為は霊的知識を知って目が覚めれば、たちどころに消えてしまうものです。さらに、一つの霊的知識に目覚めると、その知識の別の意味にも目覚めてくるものです。そうやって心が目を覚ました時こそ、魂が自由への道を歩み始めた時でもあるのです。