第4章 苦しみと悲しみと-魂の試練-
前章では再生と言うスピリチュアリズムの思想の中でもっとも異論の多い課題を取り上げました。例え異論はあっても、そこに必ずや真実がある筈であり、万一再生することが真実であれば、これほど人生観に与える影響の大きいものは無いと考えたからです。
影響が大きいと言えば、死後の存続と言う事実こそ、まず誰にとっても画期的な影響を与える話題である筈です。私自身も哲学的思考の芽生え始めた高校時代にスピリチュアリズムに接して、万一死後もこのまま生き続けるとしたら、賢ぶった哲学的で抽象的な思考に耽っている場合ではないと言う、切羽詰まった心境で心霊学に取り組み、結果的には一種の思考革命のようなものを体験しました。
つまり“生と死”を深刻な主題としていた思考形式から、死を超越した生のみの思考形式に変異し、それ以後は想像の翼がひとりでに羽ばたいて、自由に広がっていく思いがしました。
そしてそれは今なおも続いており、私にとってこれほど楽しいレクリエーションは無いと言ってもいいほどです。
それと言うのもシルバーバーチやマイヤース、イムペレーター等のアカ抜けした霊界通信のお陰にほかならないのですが、その前に、心霊実験会において目に見えない霊の存在をまざまざと見せつけられていたことが大きな転換のキッカケとなっているようです。
この死後の存続と言う事実は今では少なくてもスピリチュアリズムでは自明の事実であり、真理探究の大前提となっておりますが、私は、前章でも述べた通り、再生に関する事実も、第一級の霊界通信が述べるところが完全に符合を合しているところから、まず前章で紹介したところが再生の真相と見て差し支えないと信じます。
特に半世紀にわたるシルバーバーチの霊言が、その間些かの矛盾撞着も無く、首尾一貫して同じ説を述べ続けていることに注目すべきだと考えます。
そのシルバーバーチが説いている事の中で特に注目すべき事は、いかなる真理も、それを受け入れる準備が魂に具わるまで言いかえればそれを理解するだけの意識の開発、難しく言えば霊格の進化が無ければ決して悟る事は出来ない、と言う事です。
従って知識ばかりをいくら溜めこんでも、それが即その人の成長の証とはならない。シルバーバーチの譬えで言えば、世界中の蔵書を全部読んだところで、それを実地に体験しない事には何にもならない。
再生する目的はつまるところは体験を求めに来ることに他ならない、と言う訳です。
さてその経験と言うものを考えてみますと、同じ条件下におかれても、人によってその反応は百人百様の違いがある筈です。
ましてや男性と女性とでは比較しようも無いほどの差があります。男らしいと言い、女らしいと言っても、地上の人間に関する限り、それは肉体の生理的現象に過ぎず、突き詰めて言えば性ホルモンの違いと言うに過ぎません。
前章のシルバーバーチの最後の言葉にある様に、大半の人間は物質によって魂が右往左往しているのが現実の姿であることは確かです。
そうなると当然一回や二回の地上生活ではとても十分とは言えないわけで、その辺は再生の必要性が生じてくるわけですが、厳密に言えばマイヤースの言う通り例えば何十回何百回再生を繰り返しても地上体験による魂の成長には限度がある、つまり魂の響くほどの体験、俗な言い方をすれば、骨身にしみる体験がそうやたらとあるものではない事は、実際に地上生活を送っている吾々が一番よく知っています。
となると、漫然と日常生活を送ることには何の意味も無いことになり、そこに守護霊を中心とする背後霊団の配慮の必要性が生じてまいります。表向きは平凡な生活を送っているようで、その実は次々と悩みや苦労、悲しみの種が絶えないのが現実です。
シルバーバーチに言わせれば、それは全て魂の試練として神が与えて下さるのであって、それが無かったら人生は何の意味も無いと言います。
「あなた方もそのうち肉体の束縛から離れて、物質的な曇りの無い目で、地上で送った人生を振り返る時が来るでしょう。その時、その出来事の一つ一つが其々に意味を持ち魂の成長と開発にとって其れなりの教訓を持っていたことを知る筈です」
そう述べて、困難も試練もない、トラブルも痛みも無い人生は到底あり得ないことを強調します。では少し長くなりますが、シルバーバーチの教えに耳を傾けてみましょう。
「この交霊会に出席される方々が、もし私の説く真理を聞くことによって楽な人生を送れるようになったとしたら、それは私が引き受けた使命に背いたことになります。
私どもは人生の悩みや苦しみを避けて通る方法をお教えしているのではありません。それに厳然と立ち向かい、それを克服し、そして一層力強い人間となって下さることが私どもの真の目的なのです。
霊的な宝はいかなる地上の宝にも優ります。それは一旦身に付いたらお金を落とすような具合になくしてしまう事は絶対にありません。苦難から何かを学び取る様につとめる事です。耐えきれない程の苦難を背負わされるような事は決してありません。
解決できない程の難問に直面させられることは絶対に在りません。何らかの荷を背負い、困難と取り組むと言うことが、旅する魂の当然の姿なのです。
それは勿論楽なことではありません。しかし魂の宝はそう易々と手に入るものではありません。もし楽に手に入るものであれば、何も苦労する必要はありますまい。
痛みと苦しみの最中にある時は、なかなかその得心がいかないものですが、必死に努力し苦しんでいる時こそ、魂にとって一番楽なのです。
私どもは幾らあなた方の事を思っては居ても、あなた方が重荷を背負い悩み苦しむ姿を、敢えて傍観するしかない場合がよくあります。そこからある教訓を学び取り、霊的に成長をしてもらいたいと願い祈りながら、です。知識には必ず責任が伴うものです。
その責任を取ってもらうわけです。霊は一旦視野が開ければ、悲しみは悲しみとして冷静に受け止め、決してそれを悔やむことは無い筈です。
燦々と太陽の輝く穏やかな日和には人生の教訓は身に沁みません。魂が目を覚ましてそれまでに気付かなかった自分の可能性を知るのは時として暗雲垂れこめる暗い日や、嵐の吹きまくる厳しい日でなければならないのです。
地上の人間は所詮は一つの永い戦いであり試練なのです。魂に秘められた可能性を試される職場に身を置いていると言ってもいいでしょう。
魂にはありとあらゆる種類の長所と弱点が秘められております。すなわち動物的進化の名残である下等な欲望や感情もあれば、あなたの個的存在の源である紳的属性も秘められているのです。そのどちらが勝つか、その戦いが人生です。
地上に生まれてくるのはその試練に身をさらすためなのです。人間は完全なる神の分霊を享けて生まれてはいますが、それは魂の奥に潜在しているのであって、それを引き出して磨きをかける為には是非とも厳しい試練が必要なのです。
運命の十字路に差し掛かる度毎に、右か左の選択を迫られます。つまり苦難に厳然として立ち向かうか、それとも回避するかの選択を迫られますが、その判断はあなたの自由意思に任されています。もっとも自由と言っても完全なる自由ではありません。
その時点において取り巻かれている環境による制約があり、これに反応する個性と気質の違いによっても違ってくるでしょう。地上生活と言う巡礼の旅において、内在する神性を開発する為のチャンスはあらかじめ用意されているのです。
そのチャンスを前にして、積極姿勢を取るか消極姿勢を取るか、滅私の態度に出るか利己主義に走るかは、あなた自身の判断によって決まります。
地上生活はその選択の連続と言ってよいでしょう。選択とその結果、つまり作用と反作用が人生を織りなして行くのであり、同時に又、寿命尽きて霊界に来た時に霊界で待ち受けている新しい生活、新しい仕事に対する準備が十分できているか否か、能力的に適当か不適当か、霊的に成熟しているか否か、と言ったこともそれによって決まるのです。単純なようで実に複雑なのです。
そのことで忘れてならないのは、持てる能力や才能が多ければ多いほど、それだけ責任も大きくなると言う事です。地上に再生するに際して、各自は地上で使用する才能についてあらかじめ認識しております。
才能がありながらそれを使用しないものは、才能の無い人よりはそれだけ大きい責任を取らされます。当然のことでしょう。
悲しみは、魂に悟りを開かせる数ある体験の中でも特に深甚なる意味を持つものです。悲しみはそれが魂の琴線に触れた時、一番よく眠れる魂に目を醒まさせるものです。
魂は肉体の奥深くに埋もれている為に、それを目覚めさせるためにはよほどの強烈な体験を必要とします。
悲しみ、無念、病気、不幸などは地上の人間にとって教訓を学ぶ為の大切な手段なのです。もしもその教訓が簡単に学べるものであれば、それは大した価値の無いというものとなります。
悲しみの極み、苦しみの極みにおいてのみ学べるものだからこそ、それを学べる準備の出来た霊にとって深甚なる価値があると言えるのです。繰り返し述べてきた事ですが、真理は魂がそれを悟る準備が出来た時始めて学べるのです。
霊的な受け入れ態勢が出来るまでは決して真理に目覚める事はありません。こちらからいかなる援助の手を差し伸べても、それを受け入れる準備の出来ていない者は救われません。霊的知識を理解する時期を決するのは魂の発達程度です。
魂の進化の程度が決するのです。肉体に包まれたあなた方人間が、物質的見地から宇宙を眺め、日常の出来事を物的ものさしで量り、考え評価するのは無理も無いことではありますが、それは長い物語のホンの些細なエピソードに過ぎません。
魂の偉大さは苦難を乗り切る時にこそ発揮されます。失意も落胆も魂の肥しです。魂がその秘められた力を発揮するにはどういう肥しを摂取すればいいかを知る必要があります。それが地上生活の目的なのです。
失意のどん底にある時はもうすべてが終わった感じになるものですが、実はそこから始まるのです。あなたにはまだまだ発揮されていない力・・・それまで発揮されたものより、遥かに大きな力が宿されているのです。
それは楽な人生の中では決して発揮されません。苦難と困難の中でこそ発揮されるのです。金塊もハンマーで砕かないとその純金の姿を拝む事が出来ないように、魂と言う純金も、悲しみや苦しみの試練を経ないと出て来ないのです。
それ以外に方法が無いのです。他にももしあると言う人がいるとしても、私は知りません。
人間の生活には過ちは付き物です。その過ちを改めることによって魂が成長するのです。苦難や障害に立ち向かった者が、気楽な人生を送っている者よりも一段と大きく力強く成長していくと言うことは、それこそ真の意味でのご利益と言わねばなりません。
何もかもがうまく行き、日向ばかりの道を歩み、何一つ思い患う事のない人生を送っていては、魂の力は発揮されません。
何かに挑戦し、苦しみ、神の計画の一部であるところの地上と言う名の戦場において、魂の兵器庫の扉を開き、神の武器を持ち出すこと、それが悟りを開くと言うことなのです。
困難に愚痴をこぼしてはいけません。困難こそ魂の肥しなのです。無論困難の最中にある時はそれを有難いと思うわけにはいかないでしょう。辛いのですから。
しかし後でその時を振りかえって見た時、それがあなたの魂の目を開かせるこの上ない肥しであった事を知って、神に感謝するに相違ありません。この世に生まれくる霊魂が皆楽な暮らしを送っていては、そこに進歩も開発も個性も成就もありません。
これは厳しい辛い教訓には違いありませんが、何事も、価値あるものほど、その成就には困難が付きまとうのです。魂の懸賞は、そう易々と手に入るものではありません。
神は瞬時たりとも休むことなく働き、全存在の隅々まで通暁しております。神は法則として働いているのであり、晴天の日も嵐の日も、神の働きです。有限なる人間に神を裁く資格はありません。宇宙を裁く資格もありません。地球を裁く資格もありません。
あなた方自身さえも裁く資格はありません。物的尺度が余りにも小さすぎるのです。物的尺度でみる限り、世の中は不公平と不正と邪道と力の支配と真実の敗北しか見えないでしょう。当然かもしれません。しかしそれは極めて偏った、誤った判断です。
地上では必ずしも正義が勝つとは限りません。何故なら因果律は必ずしも地上生活中に成就されるとは限らないからです。ですが地上生活を超えた長い目で見れば、因果律は一分の狂いも無く働き、天秤は必ずその平衡を取り戻します。
霊的に観て、あなたにとって何が一番望ましいかは、あなた自身は分かりません。もしかしたらあなたにとって一番いやなことが実は、あなたの祈りに対する最高の回答であることもあり得るのです。
ですから、なかなか難しいことではありますが、物事は物的尺度ではなく霊的尺度で判断するようにつとめることです。と言うのは、あなた方に悲劇と思える事が、私どもから見れば幸運と思えることがあり、あなた方にとっては幸福と思える事が、私どもから観れば不幸と思えることもあるのです。祈りはそれなりの回答が与えられます。しかしそれはあなた方が望んでいる通りの回答ではなく、その時のあなたの霊的成長にとって一番望ましい形で与えられます。
神は決して我が子を見捨てるようなことは致しません。しかし神が施されることを地上的な物差しで批判する事は止めなければいけません。
絶対に誤ることのない霊的真理が幾つかありますが、そのうちから二つだけ紹介しておきましょう。
一つは動機が純粋であれば、どんなことをしても決して危害を被ることは無いと言うこと。もう一つは人の為という熱意に燃える者には必ずそのチャンスが与えられると言うこと。
その二つです。焦ってはいけません。何事も気長に構えることです。何しろこの地上に意識を持った生命が誕生するのに何百年もの歳月を要したのです。更に人間と言う形態が今日のような組織体を持つに至るのに何百万年も掛りました。
その中からあなた方のような霊的真理を理解する人が出るにどれほどの年数がかかった事でしょう。その力宇宙を動かすその無窮の力に身を任せましょう。誤ることのないその力を信じる事です。
解決しなければならない問題も無く、争うべき闘争も無く、征服すべき困難も無い生活は、魂の奥に秘められた神性が開発されるチャンスはありません。悲しみも苦しみも神性の開発の為にあるのです。
「あなたにはもう縁のない話だからそう簡単に言えるのだ」・・・こうおっしゃる方があるかも知れません。しかし私はそれを体験してきたのです。あなた方より遥かに長い歳月を体験してきたのです。何百年でなく何千年と言う歳月を生きてきたのです。
その長い歳月を振り返った時、私は、ただただ、宇宙を支配する神の摂理の見事さに感嘆するばかりなのです。一つとして偶然と言うものが無いのです。偶発事故と言うものが無いのです。全てが不変絶対の法則によって統制されているのです。
霊的な意識が芽生え、真の自我に目覚めた時、何もかもが一目瞭然と分かるようになります。私は宇宙を創造した力に信頼をおきます。
あなた方は一体何を恐れ、又何故に神の力を信じようとしないのです。宇宙を支配する全能なる神になぜ身を委ねないのです。あらゆる恐怖心、あらゆる心配の念を棄て去って神の御胸に飛び込むのです。神の心をわが心とするのです。
心の奥を平静にそして穏やかに保ちしかも自信を持って生きることです。そうすれば自然に神の心があなたを通じて発揮されます。愛の心と叡智を持って臨めば何事もきっと成就します。聞く耳を持つ者のみが神の御声を聞く事が出来るのです。
愛が全ての根源です。愛・・・人間的愛はそのホンのささやかな表現に過ぎませんが・・・愛こそ神の心の遂行者なのです。
霊的真理を知った者は一片の恐怖心も無く毎日を送り、いかなる悲しみ、いかなる苦難にも必ずや神の御加護があることを一片の疑いも無く信じることが出来なければいけません。苦難にも悲しみにも挫けてはいけません。何故なら霊的な力はいかなる物的な力にも優るからです。
恐怖心こそ人類最大の敵です。恐怖心は人の心を蝕みます。恐怖心は理性を挫き、枯渇させ、麻痺させます。あらゆる苦難を克服させる筈の力を打ちひしぎ、寄せつけません。心を乱し、調和を破壊し、動揺と疑念を呼び起こします。
つとめて恐れの念を打ち消す事です。真理を知った者は常に冷静に、晴れやかに、平静に、自身に溢れ、決して乱れることがあってはなりません。霊の力はすなわち神の力であり、宇宙を絶対的に支配しています。ただ単に力が絶対all-powerfulと言うだけではありません。
絶対的な叡智all-wisdomであり又絶対的な愛all-loveでもあります。生命の全存在の背後に神の絶対的影響力があるのです。
鋼は火によってこそ鍛えられるのです。魂が鍛えられ、内在する無限の神性に目覚めて悟りを開くのは、苦難の中においてこそなのです。苦難の時こそあなたが真に生きている貴重な証しです。
夜明けの前に暗闇がある様に、魂が開くには暗黒の体験が無くてはなりません。そんな時、大切なのはあくまでも自分の責務を忠実に、そして最善を尽くし、自分を見守ってくれている神の力に全幅の信頼を置く事です。
霊的知識を手にした者は挫折も失敗も神の計画の一部である事を悟らなくてはいけません。陰と陽、作用と反作用は正反対であると同時に一体不離のもの、言わば硬貨の表と裏のようなものです。表裏一体なのですから、片方は欲しいがもう一方は要らないと言う訳にはいかないのです。
人間の進歩の為に、そうした表と裏の体験、つまり成功と挫折の双方を体験するように仕組まれた法則があるのです。神性の開発を促す為に仕組まれた複雑で入り組んだ法則の一部、言わばワンセット(一組)なのです。
そうした法則の全てを通暁することは人間には不可能です。どうしても知り得ないことは信仰によって補うほかありません。盲目的な軽信ではなく、知識を土台とした信仰です。
知識こそ不動の基盤であり、不変の土台です。宇宙の根源である霊についての永遠の真理は、当然、その霊の力に対する不動の信念を生みださなくてはいけません。そういう義務があるのです。それも一つの法則なのです。
恐怖心、信念の欠如、懐疑の念は、折角の霊的雰囲気をかき乱します。吾々は信念と平静の雰囲気のなかにおいて始めて人間と接触できるのです。恐れ、懐疑、心配、不安、こうした邪念は吾々霊界の者が人間に近づく唯一の道を閉ざしてしまいます。
太陽が燦々と輝いて、すべてが順調で、銀行にたっぷり貯金もあるような時に、神に感謝するのは容易でしょう。しかし真の意味で神に感謝すべき時は当たりが真っ暗闇の時であり、その時こそ内なる力を発揮すべき絶好のチャンスなのです。
しかるべき教訓を学び、魂が成長し、意識が広まり且つ高まる時であり、その時こそ神に感謝すべき時です。霊的マストに帆をかかげる時です。
霊的真理は単なる知識として記憶していると言うだけでは理解したことには成りません。実生活の場で真剣に体験して初めて、それを理解する為の魂の準備が出来あがるのです。
その点がどうもよく分かって頂けないようです。タネを蒔きさえすれば芽が出ると言うものではないでしょう。芽を出させるだけの養分が揃わなくてはなりますまい。
養分が揃っていても太陽と水が無ければなりますまい。そうした条件が全部上手く揃った時にようやくタネが芽を出し、そして花を咲かせるのです。人間にとってその条件とは辛苦であり、悲しみであり、苦痛であり、暗闇です。
何もかもうまくいき、鼻歌混じりの呑気な暮らしの連続では神性の開発は臨むべくもありません。そこで神は苦労を、悲しみを、そして痛みを用意されるのです。そうしたものを体験して初めて、霊的知識を理解する素地が出来上がるのです。
そして一旦霊的知識に目覚めると、その時からあなたはこの宇宙を支配する神と一体となり、その美しさ、その輝き、その気高さ、その厳しさを発揮し始めることになるのです。
そして一旦身につけたら、もう二度と失う事はありません。それを機に霊界との磁気にも似た強力なつながりが生じ、必要に応じて力なり影響なり、インスピレーションなり真理なり、美なりを引き出せるようになるのです。
魂が進化した分だけ、その分だけ自由意思が与えられるのです。
霊的真理の階段を一段上がる事に、その分だけ多くの自由意思を行使することを許されます。あなたは所詮、現在のあなたを超えることはできません。そこがあなたの限界と言えます。が同時にあなたは神の一部であることを忘れてはなりません。
いかなる困難、いかなる障害も、必ず克服するだけの力を秘めているのです。霊は物質に優ります。霊は何ものにも優ります。霊こそ全てを作り出すエッセンスです。なぜなら、霊は生命そのものであり、生命は霊そのものだからです」
一問一答
問「もう一度やり直すチャンスは全ての人間に与えられるのでしょうか」
「勿論ですとも、やり直しのチャンスが与えられないとしたら、宇宙が愛と公正によって支配されていないことになります。墓に埋められて万事が終わるとしたら、この世はまさに不公平だらけで、生きてきた不満の多い人生の埋め合わせもやり直しも出来ないことになります。
私どもが地上の人々にもたらすことのできる最高の霊的知識は、人生は死でもって終了するのではないと言うこと、従って苦しい人生を送った人も、失敗の人生を送った人も、皆もう一度やり直すことが出来ると言う事、言いかえれば悔し涙を拭うチャンスが必ず与えられると言う事です。
人生は死後もなお続くのです。永遠に続くのです。その永遠の旅路の中で人は内蔵している能力、地上で発揮し得なかった才能を発揮するチャンスが与えられ、同時に又、愚かにも神の法を無視し、人の迷惑も考えず横柄に生きたに人間は、その悪行の償いをする為のチャンスが与えられます。神の公正は完全です。
隠すことも、誤魔化すこともできません。全ては神の眼下にあるのです。神は全てをお見通しです。そうと知れば、真面目に正直に生きている人間が何を恐れることがありましょう。恐れることを必要とするのは利己主義者だけです」
問「祈りに効果があるのでしょうか」
「本当の祈りと御利益信心との違いを比べれば、祈りが本来いかにあるべきかがお分かりになると思います。御利益信心は利己的な要求ですから、これを祈りと呼ぶわけにはいきません。
ああして欲しい、こうして欲しい。金が欲しい、家が欲しい、・・・こうした物的欲望には霊界の神霊はまるで関心がありません。そんな要求を聞いてあげても、当人の霊性の開発、精神的成長にとっては何のプラスにもならないからです。
一方、魂の止むにやまれぬ叫び、霊的活動としての祈り、暗闇に光を求める必死の祈り、万物の背後に控える霊性との融合を求める祈り、そうした祈りもあります。こうした祈りには魂の内省があります。
つまり自己の不完全さと欠点を意識するが故に、必死に父なる神の加護を求めます。それが本能的に魂の潜在エネルギーを湧出させます。それが真の祈りなのです。
その時の魂の状態そのものがすでに神の救いの手を受け入れる態勢となっているのです。ただこれまでも何度か言ったことがありますが、そうした祈りを敢えて無視してその状態のまま放っておくことが、その祈りに対する最高の回答である場合が良くあります。
こちらからあれこれ手段を講じる事が去って当人にとってプラスにならないという判断があるのです。しかし魂の心底からの欲求、より多くの知識、より深い悟り、より強い力を求める魂の願望は、自動的に満たされるものです。
つまりその願望が霊的に一種のバイブレーションを惹き起し、そのバイブレーションによって当人の霊的成長に応じた分だけの援助が自動的に引き寄せられます。
危険の中にあっての祈りであれば保護するためのエネルギーが引き寄せられ、同時に救急の為の霊団が派遣されます。それは血縁関係によってつながっている霊もおれば、愛によって繋がっている類魂もおります。
そうした霊達はみな自分もそうして救ってもらったことがあるので、その要領を心得ております」
問「いたいけな子供が不治の病で苦しむのはどうしてでしょう。神は本当に公正なのでしょうか」
「霊的な問題を物的尺度で解こうとしてもしょせん無理です。ホンの束の間の人生体験で永遠を推し量ることは出来ません。測り知れない法則によって支配されている神の公正を地上生活という小さな体験でもって理解することは絶対に出来ません。
小さなものが大きいものを理解できるでしょうか。一滴の水が大海を語る事が出来るでしょうか。部分が全体を説明できるでしょうか。
宇宙はただただ“驚くべき”としか形容のしようがない法則によって支配されており、私はその法則に満腔の信頼を置いております。何故なら、その法則は神の完全なる叡智の表現だからです。従ってその法則には一つとして間違いと言うものがありません。
あなた方人間から見れば不公平に思えることがあるかもしれませんが、それはあなた方が全体のホンの一部しか見ていないからです。もし全体を見ることが出来たら、なるほどと思ってすぐさま考えを変える筈です。
地上生活と言う束の間の人生を送っている限り“永遠”を理解することは出来ません。あなた方人間にはいわゆる因果応報の働きは分かりません。
霊界の素晴らしさ、美しさ、不思議さは、到底人間には理解できません。と言うのは、それを譬えるものが地上には存在しないからです。判断の基準には限界があり、視野の狭い人間に一体どうすれば霊界の真相が説明できるでしょう。
ご質問の子供の話ですが、子供の身体は悉く両親からの授かりものですから、両親の身体の特徴が良いも悪いもみな子供の身体に受け継がれていきます。そうなると不治の病に苦しめられる子も当然出て参りましょう。
しかし子供にも神の分霊が宿っております。あらゆる物的不自由を克服出来る神性を宿しているのです。物質は霊より劣ります。霊の僕です。霊の方が主人なのです。
霊的成長はゆっくりとしていますが、しかし着実です。霊的感性と理解力は魂がそれを受け入れる準備が出来た時初めて身に付きます。
したがって私達の説く真理も、人によっては馬の耳に念仏で終わってしまうことがあります。が、そう言うものなのです。霊的真理に心を打たれる人は、すでに魂がそれを受け入れるまでに成熟していたと言うことです。まるで神の立場からものを言うような態度で物事を判断することは慎むことです」
問「こんな戦争ばかり続く惨めな世の中に生まれてくる意義があるのでしょうか」
「生まれてくる来ないは自由意思の問題です。が、その問題はさておいて、地上の多くの部分が暗雲に覆われていることは確かです、が、惨めな世の中と言ってしまうのは適切ではないと思います。地球には地球なりの宇宙での役割があります。
生命の旅路における一つの宿場です。魂の修行場として一度は通過しなくてはならない世界です。もしも必要で無かったら存在する筈がありません。存在していると言うことが、それなりの存在価値を持っていることを意味します。
さてその物質界に生まれてくるのは各自にそれなりの霊界での仕事があり、それを果たす為の修練の場としてこの地上を選んで来るわけです。
案ずるより産むが易しと言いますが、決断をした際に縣念したことも、実際に地上へ来て見ると、結構なんとかやっていけることが分かります。あなた方が不幸な子を可哀そうにと思うその気持ちは得てして思い違いであることが多いのです。
大人は子供の気持ちで考えているつもりで、その実大人の立場から人生を眺めていることが多いのです。つまり子供自身にとっては恐ろしくも苦しくも無い体験を、大人の方が先回りして恐ろしかろう、苦しかろうと案じているのです」
問「でも、それが必要な場合があるのではないでしょうか。例えば空襲などと言うのは体験のある無しに関わらず恐ろしいことには違いないでしょう」
「おっしゃる通りです。私が言いたいのも実はその点なのです。子供と言うのは大人と同じ状態に置かれていても、その影響の受け方が違います。
オモチャの兵器をいじくっても、子供はその本当の意味、恐ろしさは分かりません。それは実は有難いことなのです。子供は何事も体験しないと理解できないのです。頭だけでは理解できないのです」
問「いかなる苦難の中にあっても、またいかなる混乱の中にあっても恐怖心を抱いてはいけないとおっしゃいました。解決は全て己の中に見出せるとのことですが、それはどうすれば見出せるのでしょうか」
「地上の人間の全てが同じレベルの意識を持っているわけではない事を、まず認識して下さい。つまり今地上に居る何億何十億と言う人間の一人一人がみな違った段階を歩んでいると言う事です。その中には長い長い旅路の末にようやく魂の内奥の神性が発揮される段階に至った人がいます。
混乱の中にあって冷静さを失わず、内部の神性を発揮させる心構えの出来た人がいます。そう言う人は必ずや解決策を見いだします。
“どうすれば”と言う事ですが、実はそう言う疑問を抱くこと自体が、あなたがまだその段階に至っていないことを意味します。あなたも神の一部なのです。あなたにも神が宿っているのです。
それはホンの小さな一部ですが、神的属性の全てを潜在的に所有しております。
完成されてはいませんが完全なのです。もしも苦境にあってその神性と波長を合わせ、心を平静に保ち、精神的に統一状態を維持することが出来れば、それは宇宙の大霊と一体となることであり、疑いも迷いも無く、従ってそこに恐怖心の入るスキはありません。
波長が合わないからです。そうした心構えが簡単にできるとは申しません。努力すれば出来ると言っているのです。現にそうした境地に達した人は大勢います」
問「地上生活を繰り返した後の、魂の究極の運命はどうなるでしょうか」
「究極の運命ですか。私は究極のことは何も知りません。最初と最後のことは私にはどうにもならないのです。生命は永遠です。進化も無限です。始まりも無く終りも無いのです。進化は永遠に続くのです」
問「自由意思の使用を誤ったが為に罪を犯した場合、神はなぜ過って使用されるような自由意思を与えたのでしょうか」
「では一体どうあって欲しいとおっしゃるのですか。絶対に過ちを犯すことのないように捉えられたロボットの方がいいとおっしゃるのですか。それとも罪を犯せば聖人君子にもなれる可能性を持った生身の人間の方がいいと思われますか。
ロボットは罪を犯さないかもしれませんが、自由意思も従って進歩もありません。それでいいですか。進歩する為には成功と失敗の両方が必要なのです。失敗が無ければ成功も無いからです。
人生は常に相対的です。困難と矛盾対立の中にこそ進歩が得られるのです。
楽だから進歩するのではありません。難しいからこそ進歩するのです。その苦しい過程が魂を鍛え、清め、そして成長させるのです。光のないのが闇であり、善で無いのが悪であり、知識の無いのが無知であるわけです。
宇宙全体が光になってしまえば、それは最早光ではなくなります。相対的体験の中にこそ人間は進歩が味わえるのです。どん底を体験しなければ頂上の味は分かりません。苦労して得られたものこそ価値があるのです。
楽に手に入れたものはそれなりの価値しかありません」
問「自殺したものは霊界ではどうなるのでしょうか」
「それは一概には言えません。それまでどんな地上生活を送ったかにもよりますし、どう言う性格だったかにもよりますし、霊格の高さにもよります。が、何と言ってもその動機が一番問題です。キリスト教では自殺の全てを一つの悪の中にひっくるめていますが、あれは間違いです。
地上生活を自らの手で打ち切る事は決していいことではありませんが、中には情状酌量の余地のあるケースがあることも事実です」
問「でも、自殺して良かったと言えるケースはないでしょう」
「それは絶対にありません。自分の生命を縮めて、それで良かろうはずはありません。しかし自殺した者がみな死後暗黒の中で何千何万年も苦しむと言う説は事実に反します」
問「自殺行為は霊的進歩の妨げになりますか」
「勿論です」
問「神は耐えきれない程の苦しみを与えないとおっしゃったことがありますが、自殺に追いやられる人は、やはり耐えきれない苦しみを享けるからではないでしょうか」
「それは違います。その説明の順序としてまず、これには例外があることから話を進めましょう。
いわゆる精神異常者、霊的に言えば憑依霊の仕業による場合があります。が、この問題は今は脇に置いておきましょう。いずれにせよこのケースはごく少数なのです。
大多数は、私に言わせれば臆病者の逃避行為に過ぎません。果たすべき義務に真っ正面から取り組むことが出来ず、今自分が考えていること、つまり死んでこの世から消えることが、その苦しみから逃れる一番楽な方法だと考えるわけです。
ところが死んでも、と言うよりは死んだつもりなのに、相変わらず自分がいる。そして逃れた筈の責任と義務の観念が相変わらず自分に付きまとう。
その精神的錯乱が暗黒のオーラを作り出して、それが外界との接触を遮断します。そうした状態のまま何十年も何百年も苦しむ者がいます。
しかし既に述べたように、一番大切なのは動機です。何が動機で自殺したかと言うことです。ままならぬ事情から逃れるための自殺は、今述べた通りその思惑通りにはいきません。が一方、これはそう多く有るケースではありませんが、
動機が利己主義ではなく利他主義に発している時、つまり自分が居なくなることが人の為になると言う考えに発している時は、例え思いすごしであったとしても、先の臆病心から出た自殺とは全く違ってきます」
いずれにせよ、あなたの魂はあなたの行為によって処罰を受けます。皆自分自身の手で自分の人生を書き綴っているのです。
一旦書き記したものはもう二度と書き換える訳にはいきません。ごまかしは利かないのです。自分で自分を処罰するのです。その法則は絶対であり不変です。だからこそ私は、あくまで自分に忠実でありなさいと言うのです。
いかなる事態も本人が思って居る程暗いものではありません。その気になれば必ず光が見えてきます。魂の内奥に潜む勇気が湧き出てきます。その時あなたはその分だけ魂を開発した事になり、霊界からの援助がふえます。
背負い切れない程の荷は決して背負わされません。なぜならその荷は自らの悪行がこしらえたものだからです。決して神が“この男にはこれだけのものを背負わせてやれ”と考えてあてがうような、そんないい加減なものではありません。
宇宙の絶対的な法則の働きによってその人間がそれまでに犯した法則違反に応じて、きっちりとその重さと同じ重さの荷を背負うことになるのです。となれば、それだけの荷を拵えることが出来たのだから、それを取り除くことも出来るのが道理の筈です。
つまり悪いこと、あるいは間違ったことをした時のエネルギーを正しく使えば、それをもと通りにすることが出来る筈です」
問「因果律の事でしょうか」
「そうです、それが全てです」
問「例えば脳神経が異常をきたしてノイローゼのような形で自殺したとします。霊界へ行けば脳がありませんから正常に戻ります。この場合は罪が無いと考えて宜しいでしょうか」
「話をそう言う風に持って来られると、私も答え方によほど慎重にならざるを得ません。答え方次第ではまるで自殺した人に同情しているかのような、あるいは、これからそう言う手段に出る可能性のある人を勇気づけているようなことになりかねないからです。
もちろん私はそんなつもりは毛頭ありません。
今のご質問でも、確かに結果的に見ればノイローゼ気味になって自殺するケースはありますが、そういう事態に至るまでの経過を正直に観てみると、やはりスタートに時点において、私が先ほどから言っている“責任からの逃避”の真理が働いているのです。
もしもその人が何かに躓いたその時点で“俺は間違っていた。やり直そう。その為にどんな責めを享けても男らしく立ち向かおう。絶対に背を向けないぞ”と覚悟を決めていたら、不幸もつぼみの内に摘み取ることが出来た筈です。
ところが人間と言うのは、窮地に陥るとつい姑息な手段に出ようとするものです。それが事態を大きくしてしまうのです。そこで神経的に参ってしまって正常な判断力が失われます。
ついにはノイローゼとなり、自分で自分が分からなくなっていくのです。問題はスタート時点の心構えにあったのです」
問「いわゆるアクシデント(偶発事故)と言うのはあるのでしょうか」
「非常に難しい問題です。と言うのはアクシデントと言う言葉の解釈時代でイエスともノーともなるからです。動機も目的も無い、何かわけのわからぬ盲目的な力でたまたまそうなったと言う意味でそう言うものは存在しません。
宇宙間の万物は寸分の狂いも無く作用する原因と結果の法則によって支配されているからです。ただその法則の範囲内での自由意思は認められています。しかしその自由意思にも又法則があります。わがまま勝手が許されると言う意味ではありません。
従って偶発事故の起きる余地はあり得ません。偶発のように見える事故にもそれなりの原因があるからです。是非知っておいて頂きたいのは、法則の中にも法則があり、其々の次元での作用が入り組んでいると言う事です。
平面的な単純な法則ではないのです。良く人間は自由意思で動いているのか、それとも宿命によって操られているのかと言う質門を受けますが、どちらもイエスなのです。自由意思の法則と宿命の法則とが入り組んで作用しているのです」
問「病気は教訓として与えられるのだとか、人間性を築く為だとかと言う人がおりますが、本当でしょうか」
「言っていること自体は正しいのですが“与えられる”と言う言い方は適切ではありません。私どもと同じくあなた方も法則の中で生きております。
そして病気というのはその法則の調和が乱れた結果として起きるのです。言ってみれば、霊として未熟であることの代償として支払わされるのですしかしその支払いにはまた別に補償と言う法則もあります。
物事には得があれば損があり、損があれば必ず得があるのです。物質的な観点からすれば得と思えることも、霊的な観点からすれば大きな損失であることがあります。全ては進化を促す為の神の配慮なのです。
教訓を学ぶ道はいろいろあります。最高の教訓の中には痛みと苦しみと困難の中でしか得られないものがあります。それが病気と言う形で現れることもあるわけです。
人生は光と影の繰り返しです。片方だけの単調なものではありません。喜びと悲しみ、健康と病気、晴天と嵐、調和と混乱、こうした対照的な体験の中でこそ進歩が得られるのです。
と言うのはその双方の神に意志が宿っているからです。良いことにだけ神が宿っていると思ってはいけません。辛いこと、悲しいこと、苦しいことにも神が宿っていることを知って下さい」
問「死体は火葬にした方がいいでしょうか」
「絶対火葬にした方が宜しい。理由はいろいろありますが、根本的には肉体への執着を消す上で効果があります。霊の道具としての役割を終えた以上、その用のなくなった肉体の周りに在世中の所有物や装飾品を並べてみた所で何になりましょう。
本人を慰めるどころか、逆に、徒らに悲しみや寂しさを誘うだけです。
人間の生命の灯が消えてただの物質に帰した死体に対してあまり執着し過ぎます。
用事は終わったのです。そしてその肉体を使用していた霊は次のより自由な世界へと行ってしまったのです。死体を火葬にすることは、道具として良く働いてくれたことへの最後の儀礼として、清めの炎という意味からも非常に結構なことです。
同時に又、心霊知識も持たずにこちらへ来たものが地上の肉親縁者の想いに引かれて、何時までも墓地をうろつきまわるのを止めさせる上でも効果があります。
衛生上から言っても火葬の方がいいと言えますがこの種の問題は私が扱う必要はないでしょう
それよりもぜひ知って頂きたい事は、火葬までに最低三日間はおいて欲しいと言うことです。と言うには、未熟な霊は肉体から完全に離脱しきっていないうちに火葬にするとエーテル体にショックを与え兼ねません」