森崎東アーカイブズ

森崎東 対談およびインタビュー集

製作 池田博明  2008年11月24日

森崎東 白井佳夫 劣等人間たちの連帯を描くことがおれのテーマだ! 1971.6 キネマ旬報
森崎東 前田陽一 白井佳夫 深夜興行のベスト・テン映画を作るのだ! 1971.9 キネマ旬報 
森崎東 キネマ旬報編集部 山田洋次というおのこ 1972.1 キネマ旬報
森崎東 白井佳夫 白井佳夫著『監督の椅子』より 大衆映画とは 1981 話の特集社
森崎東 山根貞男 映画はもうほとんど世界である (1) 1984 映画書房
森崎東 山根貞男 映画はもうほとんど世界である (2) 1984 映画書房 
森崎東 山根貞男 映画はもうほとんど世界である (3) 1984 映画書房
森崎東 山根貞男 映画はもうほとんど世界である (4) 1984 映画書房
下村優、河原さぶ他 新森崎組が明かす仕事と生活 (略題) 1984 映画書房
森崎東 島田元 新作『夢見通りの人々』の撮影を終えて 1989 ウェブ
森崎東 山根貞男 第4回 東京フィルメックス 2003 ウェブ
森崎東 ベルリン国際映画祭紀行 2004 ウェブ
森崎東 榎戸耕史 映画『ニワトリはハダシだ』 2004 映画芸術
森崎東 榎戸耕史 映画的思考の哲理 2004 映画芸術
森崎東  京都造形芸術大学映画祭 森崎東の愛と冒険 2008 パンフレット
森崎東 山根貞男 森崎東との対話 2013 キネマ旬報
浜田毅 山根貞男 ペコロスの母に会いに行く 2013 映画芸術



   坂東護  プロフェッショナル/日本の映画監督会紹介  森崎東
     (キネマ旬報1973年4月下旬603号よりp・135)
昭和9年11月19日、長崎県島原市生。30年京大法学部卒。31年松竹入社。44年「女は度胸」でデビュー。脚本「なつかしい風来坊」「吹けば飛ぶよな男だが」「日本ゲリラ時代」「やればやれるぜ全員集合」。監督作品45年「フーテンの寅」「男は愛嬌」「高校さすらい派」46年「女は男のふるさとヨ」「女生きてます」47年「生まれかわった為五郎」「女売り出します」「女生きてます・盛り場渡り鳥」48年「藍より青く」

 ジエット機が舞上がる羽田国際空港。遠景には近代的高層ビルが林立。キャメラがパンし、空港の金網を越えると、すぐそこは汚ないドブ川が流れ、中小工場が軒をくっつけ合い、買物篭を下げ子供の手をひいたオカミさんや、仕事を上がった若い工員たちが往き交い、支線電車がカンカン遮断機を鳴らしている町。
 森崎東の処女作「女は度胸」のタイトル前である。そしてこれは以後の森崎東の作品系歴が物語るよぅに彼の典型<世界>なのである。デビュー作のタイトル前にこの市井の点描をもってきたのは、「女は度胸 」の作品自体がその世界のドラマである以上に、彼の映画監督に至るまでの歴程が深く関わっているように思う。
 森崎東はもの心がつく頃には島原から隣りの大弁田市へ移った。風光明眉な城下町島原と違い、大弁田は大戦へのエネルギー源を供給する生産点、粉塵の街であり、ボタ山が次々と築かれカマボコ長屋が立ち並び、朝鮮人や奄美大島からの労働者たちが溢れる街であった。自作の観客イメージとして、まずこの人たちに観て欲しい、と願っている、と言う。
 森崎東の世代はその青春期に八戦争戦後の混乱期Xといぅ、強烈な外的要因をまともに浴びて人間形成をなしてきた世代であり、それらの後遺症の引き擢よぅ仁各々の人間性が現われている世代である。敗戦は十七歳の時であった。
 8月16 日次兄・湊氏割腹自殺。ショックと同時に“えヱカッコしやがって”と非常に腹立たしかったそうである。学制改革により、旧制五高から新制京大を受け直す。大島渚らがいた。戦後の混乱期の大学はストと酒浸りの毎日であった。学生新聞の主幹をしているうちにあの武闘を自己批判するという日共の六全協である。党員だった。再び混迷である。五年かかり卒業、猛烈な就職難が待っていた。セツルメント活動や雑誌「時代劇」の編集を経て、高い競争をくぐり松竹京都撮影所へ。映画界を希ったのは学生時代に観た「雲流るる果てに」等の独立プロの影響がかなりあった。大曽根辰保監督等の演出助手よりスタート。しかし今度待っていたのは映画界の凋落である。
 松竹の経営縮少、東西撮影所合併案が打ち出され、またしてもストライキの通続、40 年京撮閉鎖。結局、大船の脚本室へ配転、となった。喪家の犬、といったテイの絶望的撮影所幕しを送ってきた身には大船の初印象はノンビリだった。脚本の直し直しの便利屋的扱かいとなるが、自分が注入されている作品として別項の山田洋次、渡辺祐介作品等を上げる。一人で書いている「日本ゲリラ時代」はじめ、森崎映画のイデエが垣間見られる。
 敗戦、六全協等による価置基準の混乱と森崎東のそれへの対応は決してスムーズに乗り切ってきているのではない。むしろまともに受けとって、同世代人たちとは二年三年遅れと対応してきているのだ。以後も「全共闘運動とか、ポルノ問題とか、自分の立地基盤を揺るがすような状況が次々と起こるんです」と監督。
 こうした来歴をもって、いわば自分のイデエを倹証する基盤としての、市井からの出立、をデビュー作に告げたのである。あけすけにエロな、かまびすしい、荒っぽい庶民たちがカラダでもモノを言い合っている作品群、これらの作品は決してスマートな仕上がりのものではない。そして多分にソフィスティケイテッドされた松竹大船伝統の<下町もの>でもない“野暮ったさ”が真骨頂なのである。
 殆んど喜劇の体裁をとっているが、落語の落し、のよぅにハタと膝を打つようなものでなく、笑いの質も肉体を通じてズシリと語りかける、いがらっぽぃものだ。倍賞美津子や沖山秀子、春川ますみ等がボリュームたっぷりにカラダをぶっつけ合い、怒鳴り合うエネルギッシュな描出で既成のものにない独得のドラマツゥルギーを持つ反面、新宿芸能社の家の畳にデンとキャメラを据える座り芝居になると、途端にボルテージが低下しはじめるのが可笑しい。とにかく青春期の激動と混沌の来歴をとことん誠実に画面に反映してぃるのであり、それが観る方をして、森崎東の味、として惹きつけるのである。
 「人間をセントラル人間とローカル人間に分けると僕はローカルなんですネ、しかし映画はセントラルなもんですからァ……}と言う。企業内監督としてのセントラルなありようと、ローカルに立地基盤を探る森崎東の映画作りにおける矛盾は、一つには女優払底とぃう理由でストップされた「女シリーズ」に出て来ている。森崎東が希む観客たち、旺盛な生活力としたたかな批判眼を持つ人たちとの“連帯”は一つのデッドロックに当ったのである。しかしこぅした悪戦に、作中の登場人物たちのようなバイタリティで挑んでいって欲しい。もっと己の“野碁”に徹することによって、セントラルなものを止揚していって欲しいのだ。
 だから新作「藍より青く」のような、セントラル監督のような実にうまいスマートな映画を作られると、観る方としては実に困っちゃうのだナ!

   白井佳夫  森崎東党のテーゼをめぐって

 森崎東監督は、周知のように日本の大手映画会社松竹から、映画作家としての活動をスタートさせた人である。そして松竹とは、明治時代に歌舞伎の興行からスタートし、大正時代に映画制作に進出した歴史を持つ会社である。映画の全盛期にこの会社のビッグ・プロヂューサーである城戸四郎が確立した、映画会社としての松竹が作る作品の特質とは「小市民的な映画」というものであった。
いわゆる松竹大船調の小市民映画、即ちホーム・ドラマである。城戸四郎が松竹映画のテーゼとしたのは、次のようなことであった。「松竹の映画は、社会のことを描いても、政治のことを描いても、経済のことを描いても、よい。ただしそれは、典型的な日本の小市民たちが、茶の間でしゃべるような、日常的な表現の範囲内において、である」と。
 森崎東監督は、この松竹という映画会社の中で、いわば異端の人間であった、という風にいっていいであろう。長崎児島原市に生まれて、第五高等学校から京都大学法学部に入り、日本共産党に入党、やがて六全協による党の方向大転換を迎えた、という世代である。在学中に党に「裏切られ」た上に、松竹の京都撮影所に助監督として入社した彼は、さらに会社による京都撮影所閉鎖をめぐって、会社および労組からも「裏切られ」たに等しいような事態を、体験することとなる。
 松竹大船撮影所の脚本部に配転された彼はここで『なつかしい風来坊』「愛の讃歌』『吹けぼ飛ぶよな男だが』『喜劇・一発大必勝』『男はつらいよ』などの山田洋次監督作品の、脚本共作者となる。まだ、山田洋次監督の庶民喜劇路線が世にいれられず、その作品に、反俗的なうっ屈感がわだかまり、それが映画に、ある骨太な居直りの精神のようなものを、秘める作用をしていた時代である。
 この時代の山田洋次監督作品の「反俗的なうっ屈感」と「ある骨太な居直りの精神」のようなものを、森崎東が大きく支えていたのであろうことは、森崎東がいた時代の山田作品と、彼が訣別した後の山田作品とをくらべてみれば、よくわかることである。やがて森崎東は『喜劇・女は度胸』で、松竹大船撮影所の監督として、デビューする。時に四十二歳、けっししてもう若くはない年齢。てある。
 『喜劇・女は度胸』にはじまる、映画監督としての森崎東作品の特質は、一見松竹大船調の「小市民的な喜劇 映画のような、平明なドラマ仕立てをふみながら、実は日本の下層庶民の、図太い生活力のバイタリティを、 ユニークな映像表現の底に、エネルギッシュに泌めているところにあった。
 この松竹の大型新人監督の、その後の『高校さすらい派』『喜劇・女は男のふるさとヨ』『喜劇・女生きてます』『喜劇・女売り出します』といった作品系譜に、私が魅せられたのは、これらの映画が、平明で実に面白い人間喜劇でありながら、その底にいかにも森崎東らしい底意を、骨太に感じさせるところにあった。
その底意とは、ごく簡単にいってしまうならば、「松竹大船調の伝統的な小市民映画路線を踏みながら、実はむしろそれを大きなテコとして、正統な庶民喜劇として、とでもいうべきものであった。自己の主張を映画の中に押し出していく精神の正当さ」とでもいうべきものであった。
 政治に「裏切られ」、資本の論理に「裏切られ」、労働運動の論理に「裏切られ」た彼の、孤立した戦いを支える、最後の、そして正当な「拠りどころ」が、「異端な精神の正当で大衆的な表現」として、そこにはあるように、私には思われたのである。そのように孤立した自己の、他ならぬ「映画による映像表現という形での自己の確認と主張」が、きわめて大衆的で、なおかつナイーヴで、そして骨太な映画作りを、ユニークに支えているように、私には思われたのである。
 だが、京大出のインテリゲンチャとしての彼の、もろもろの「裏切り」に対する無念の思いは、一方で『喜劇・男は愛嬌』『女生きてます・盛り場渡り鳥』『野良犬』『黒木太郎の愛と冒険』といった作品系譜では、むしろ観念的で図式的で、抽象的な表現と作品構造をとって、露出する。それもかなり生硬な形でのメッセージとして、露出するのである。
 この問題に関して、「そんなことでは困る!」という私と、「いや、それでいいのだと思う!」という彼とは、実は 何度も議論を重ねてきている歴史(?)を持っている。それについて、より詳しく知りたい、というかたは、私の対談集『監督の椅子』(話の特集社刊)の中におさめられている、<森崎東監督との大衆映画についての論争>という彼と私との論争を、ご一読いただきたい。
 最近見ることのできた森崎東監督の新作『生きてるうちが花なのよ死んだらそれまでよ党宣言』もまた、この彼と私との論争に再ど火をつけて盛大に燃え上がらせそうな作品である。私は今、手ぐすねひいて、そのチヤンスを待っているところである。

  (野原藍編『にっぽんの喜劇えいが 森崎東篇』映画書房,1984年)


    立仙 雅己    京撮の藤棚の下で

 今から二十年あまり前 一九六一年、初夏 前の年の《安保》と《三井三池》の余韻が、まだ激しくこだまし合っていたころのことです。四年後には閉鎖されてしまった松竹京都撮影所の、前庭の池の辺りで二人は黙然と、水面に散ってくる藤の花を眺めていました。果てしない議論を闘わしてもなお、お互いに平行線をたどっているだけだということを知った人間同志の間に生まれてくる気まずい沈黙。しぼらくの後、視線を上げてじっとこちらを睨み据えて、まるで独り言をつぶやくように、森崎東は私に問いかけてきました。
 「水に落ちた犬は打てというのか。」
あまりにも突然であったのと、どこかで憶えのある言葉だが、という想いに瞬時とまどった私に、次の言葉が投げつけられました。
「狆(ちん)はことに水の中へ打ち落して、さらに追い打たねばならぬ。あんたは、そういうのか。」
 「そうだ。そういうことだ。」
 お互いをへだてていた氷壁が、一瞬とけてしまったかのように私は想った。
 「魯迅だ。あんたは魯迅とおんなじだということか。」
 もう私には目もくれていなかった。これだけを云いおわると、藤棚の下に、森崎東はもういなかった。
 昭和三十六年。映画産業の行きづまりは、もう誰の目にも明らかになっていました。『青春残酷物語』をきっかけに、一時突破口を見つけたかに見えた松竹の経営状態は、以前にも増して苦しく、映画製作の方針は混乱を秘めていました。そして、映画製作よりは、人員整理を含む合理化の方をこそ真剣に考えなければいけないという空気が除々に醸し出されていました。
 その年の春、警視庁出身の人の書いた本を,フリーの監督を連れて来て映画化しようという案が会社にあることを、我々は知りました。東西両撮影所の助監督が一緒になって、監督会を巻き込んで、組合の場で反対闘争を組み立てよう。安易さという点で、全く同じとしか云いようのない、会社の映画製作方針と一方的な合理化への流れにいどむことに依って、我々自身の力を遅ればせながら作り出そう。このような計画が、そのころ一本も映画が製作されず、現場の人間は何一つすることがないという、京都撮影所の異常な状態もあって、割り合いスムースに実行され始めました。各職場会に、全員二、三名の班に分かれてのぞみ、外来監督と来たるべき合理化は同根同塵であることを繰り返し述べる毎日。タ方から終電までの間、各班の報告、各人の意見開陳、翌日の計画、宣伝ビラの作製、さらには運動の展望について 全員欠席者なしの一ケ月が過ぎ、会社の方にもいらつきが目立ち始めたころ、仲間の一人が会社のM・Sに会議の様子を電話で報告しているのを、別の助監督が目撃するという事件が持ち上がりました。部会の空気はいずれ外に洩れるのは当たり前のことで、何を外に洩らしてもらうかを、あらかじめ計画しておくべきだというのもまた常識ではありますが、この時の密告は度外れて積極的計画的なものだと考えられました。
 当時、たまたま組合執行部にいた私は、運動の積極分子の一人でしたが、森崎東も優れたイデオローグとして能力を発揮していました。運動をより技術的に処理しがちな立場にいた私は、この時、途方もない思い付きをしてしまいました。助監督部から除名したらどうか、場合によっては組合からも除籍してもいじやないのか。この提案は先ず配転、そして退職を意味します。その前の午、除名された人が配転することで助手会の問題が決着したということもあって、こんなことを思いついたのでしょう。
 藤棚の下で二人が議論したのは、このことについてでした。
 「犬だという判断はどれだけの条件が揃えば下せるか。狆と犬とはどうちがうか。水にたたき落とすにはどうすればよいのか。さらに追い,打つとはどういうこと か。俺は今どこにいて、何をしようというのか。何が出来るか。そして一体、俺は何者なんだ。」
 独り残された私は、山のように立ちはだかる問題を前に、ただ考えるだけでした。その晩、翌る日、二日、三日 。とうとう私の思いつきは日の目を見ることなく、思いつきだけにとどまりました。
 人間が死ぬ時、めぐり逢わせた親しい他人の想い出を、一人につき、たった一つしか墓場の中に持って行けないとしたら、私の森崎東の想い出は今のところ、あの時の厳しく激しく、おだやかで淋しかった、森崎東です。 (松竹助監督)

  (野原藍編『にっぽんの喜劇えいが 森崎東篇』映画書房、1984年、pp.158-160)



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