森崎東との対話

対談者................ 森崎 東
山根 貞男
出典................ キネマ旬報
著者................ 
発行................ No.1650
発行年................ 2013年11月下旬号
pp................. 40-45.


 森崎東の新作「ペコロスの母に会いに行く」が封切られる。
 昨年から今年にかけての長崎での撮影時は八十五歳。二十五本目の監督作品を撮り終えた巨匠の「いま」を知ろうと、神奈川県茅ヶ崎市の森崎家を訪ねた。
 二階の懐かしい部屋へ通され、初めて来たときのことを思い出した。一九七五年六月のことで、「喜劇 特出しヒモ天国」に感動し、森崎監督インタビューを夕刊紙に載せたのだった。少し前にわたしも茅ヶ崎の住人になっており、長い近所付き合いが始まった。
 座卓に文庫本が置かれている。内藤初穂著『極限の特攻機 桜花』(中公文庫、<註>『桜花』が本のタイトル)。すぐに森崎監督の兄、一九四五年八月十六日に割腹自殺した森崎湊のことを思い浮かべた。海軍予備学生森崎湊の日記と遺書は『遺書』にまとめられている(一九七一、図書出版社)。
 じつは二週間ほど前にも、森崎家を訪れた。森崎東のドキュメンタリー番組がNHKで十二月に放映されるが、その一部分が茅ヶ崎海岸で撮影され、その撮影を見に行ったのである。出演は加瀬亮、撮影は「ペコロス」の浜田毅キャメラマン。海軍復員下士官(ニ等飛行兵曹)姿の加瀬亮が砂浜を歩いてきて去ってゆくだけの短いシーンだが、明らかに森崎湊のイメージが重ねられている。雨中の撮影後、森崎家で歓談した。
 懐かしい部屋での話は、脳の具合のことから始まった。

      脳が疲れる

森崎 どうも脳の具合が良くないんです。そう長くは耐えられないから、やめてくれと脳が言う(笑)。寝るしかないから、ベッドに転がる。
山根 脳が休みたくなる?
森崎 脳の役割を捨てちゃう瞬間をくれ、と言っているんじゃないでしょうか。
山根 脳は疲れることがあるんですかね。本を長い時間読んでて、いやになることがあるけれど、それは脳が疲れるのかなあ。
森崎 山根さんはあまり疲れない人なんですよ。客観的に見て、僕がへばって、もう使いものにならんなと実感する瞬間でも、山根さんにはこういうことはないだろうと感じますね。
山根 うーん、そう言われても・・・(笑)。年齢の問題ですか。
森崎 年齢の問題です。
山根 心臓の大手術をしたからとか。
森崎 ええ、そういうのは関係しているかもしれないですね。あのガアーッという物凄い音とか。どこまでやるかは医者任せで、意識があるから、もうひとつやってみようという声が聞こえてくる。あれは怖かった。
山根 そういうことがあると、脳も衰弱するのかなあ。
森崎 ええ、脳も思考力を失っていくんじゃないでしょうか。
山根 今日の狙いは映画随想なんで、とりとめない話でいいんです。
森崎 とりとめないどころか、山根さんにぜひ聞いてみらいたいということを、これから話しますので、それを書いてもらいたい。
山根 どういう話ですか。
森崎 兄貴が腹を切って死んだ本当の理由ってのが、僕には納得できなかったんですよ、ずうっと。
山根 お兄さんの遺書を読んでも?
森崎 ええ。読めば読むほど、論理が遠ざかっ感じで、「違うだろう、違うんじゃないか、兄貴」というのが腹一杯にある。それを晴らしたいという思いがずっとあったんだけれども、どう晴らせばいいか判らない。溜まる一方なんですよ。
山根 いままでも森崎監督はテレビドキュメンタリー『遺書 ある海軍予備学生の日記から』(一九七六)や映画「黒木太郎の愛と冒険」(一九七七)などで、そのことに触れておられる。この『極限の特攻機 桜花』という本もそれと関係があるんですね。
森崎 ええ、もろに。兄貴が腹を切って死んだことに結論が出たと僕が納得したのは、この本を読んでです。兄貴がつねづね言っていたことを、この著者は言い続けているらしい。年若い桜花の隊員たちはほとんど自殺のような形の死に方をしているわけだけど、それは読んでいただければ判ると思います。兄貴はそういう無念の死を、自分で納得もできないし、論理化もできないで、もちろん社会的に黒白をつけることもできない。そういうなかで自分だけ納得せざるをえないという形の死をやらされたというのが、うまく言えないんですが、その仕組みと同時に判った気がする。
山根 お兄さんは八月十五日の翌朝、自分で死を選んだ。特攻隊の青年たちは、死を選んだのではなく、死を強いられたんですよね。で、この本を読んで、お兄さんも死を強いられたと感じたということですか。
森崎 この人がいみじくも言ってますけど、桜花の隊員たちの死は、強いられた自殺で、死の押し付けであると。その観点からばっちり書いた本は初めて読んだ。それも兄貴はとても気にしてたんですよね。理不尽な戦略戦術をいかにも立派なことのようにして、年若い隊員に押しつけ、のほほんとしている海軍上層部がいると、何度も言っているんです。
山根 特攻が始まったのは戦争末期で、理不尽と考える人は皆無ではなかったろうと思うんですけれど、抵抗できる状況ではなくなっていたんでしょうね。
森崎 みんな、とち狂っていたんじゃないでしょうかね。抵抗がどうのと考えたって、屁でもなかったわけでしょう。
山根 で、お兄さんの問題を、この本を読むことである程度納得して、それをどうしようと思いますか。
森崎 どうしますかね。この本を読んだ感想を率直にあなたに話して、こういう読者もいるんだということで、その面から論じることができないかと。

      兄の自死

山根 先日の茅ヶ崎海岸での撮影もそのことと関係があるんでしょうが、森崎監督は張り切って撮ってましたね。
森崎 そうですか。
山根 雨の中だったんですが、最初のカットでは椅子に坐っていた監督が、次に加瀬亮が波打ち際で振り向くカットでは、立ち上がって結構大きな声で「ヨーイ、はい!」と。
森崎 振り向くのは演技ですからね。演技のときの「ヨーイ、はい!」はやはり監督の持ち分ですから、気持ちが入っているか入ってないかが問題なので立ち上がったんですね。
山根 僕はそのとき、ああ、森崎さんはやっぱり現場の人だ、と思った。当たり前のことなんですけど。
森崎 さっきの桜花というひどい殺され方をした集団があるんだという事実は、ひそひそと語られていたにちがいなくて、死んだ兄貴の耳には入ってたんですよ、たぶん。それが僕には伝わってなかった、というか、のほほんという暮らしをしていたんですね、僕は。やっぱり現場の人間として過ごしてきたわけで、現場がそういうふうに作用したんじゃないかという気もします。いま、すいうふうに聞こえちゃった(笑)。
山根 僕が言ったのは映画づくりの現場の話ですよ。
森崎 ええ、それ以外に悪しき気持ちがおありにならないとは思いますけど、ある意味では、しょせんは、のほほんとした現場の人間なんだという面もあるわけで。
山根 自分で言われるのだから僕には何も言えませんけど(笑)。森崎監督が映画づくりに携わってきたことと、お兄さんの自決を納得できなかったこととは、関係がありますかね。
森崎 ええ、ものすごくある。人間の感覚だとか生き様だとかは、すべてにわたって関係があるんじゃないでしょうか。
山根 でも、たとえばこの本を三十年前に読まれたとして、納得されたかどうか分からないでしょう。
森崎 いまでこそ分る。そういうことは多いですね。人が死んだからといって、その人の言ったことは真実だと一言で片付けるわけにはいかんと思うんです。待てよ、といって、違う考え方で、それを見ることが成立するかもしれない。桜花に関しては、はっきりとそうなんですよね。だから、読んでいただきたい。
山根 むろん読みます。前から「黒木太郎の愛と冒険」論を考えているので、それに役立つかもしれない。あの作品が森崎映画の分水嶺だと確信して、書かなくては、と。
森崎 その論の細部を想像すれば、兄貴の死に触れてくるところがあると思いますね。ぜひとも書いていただきたい。正直言って、そういうのを待ちかねているんです、わたしは(笑)。わりかし早く死期が訪れるんじゃないかという気がするんで。こないだ死んだでしょう、シナリオライターの・・・・。
山根 野上龍雄さんですね、たしか同じ年。
森崎 ええ。どっちが先かなと言ってました。彼が死んだと聞いたとき、そろそろくるな、覚悟が必要だなと思いましたね。
山根 野上さんはずっとl脚本家として活動してこられたのに対し、森崎さんは松竹で脚本家から監督になりましたね。どっちが面白いですか。
森崎 脚本のほうが「つくる」という感じがしますね。映画をつくるってのは、監督をすることではなくて、脚本をつくることだ、というのが、僕の持論ですから。
山根 監督の仕事は脚本に書かれた世界を画面として立ち上がらせることなんで、つくるのとは違うということですか。
森崎 それを「つくる」といっていいでしょうね。でも、どっちかといえば、脚本をつくるほうが映画をつくったということに遥かに近いと思いますね。
山根 森崎監督のフィルモグラフィイでは、前半は誰かと共作でも脚本に名前がクレジットされているのに対し、後半、脚本に名前が入ってないことが多いですね。直しは入ってるでしょうけれど。
森崎 直しは入ってますね。
 

     記憶は愛である

山根 新作「ペコロスの母に会いに行く」は、すでに出来上がっていた脚本で撮られたんですが、先日、二度目を見て、まぎれもなく森崎映画だと思いました。
森崎 そう言ってくださる人が多いので、それで良かったんだなと思いますね。
山根 脚本が気に入らないのなら、乗らなきゃいいわけですよね。
森崎 監督として独特の接し方ができると思ったんですよ。
山根 自分なりに料理しようと。
森崎 それができりゃいいと。あとは浜ちゃん(浜田毅キャメラマン)に委ねる。そういう接し方もあると思いますね。
山根 で、ちゃんと森崎映画になっているのは何でしょう(笑)。
森崎 僕も不思議(笑)。たとえばどういうところですか。
山根 現在の話に、二種類の過去が混じってきますね。少女時代の大過去と、夫婦時代の中過去と。その時制の混じり方が絶妙で、これが森崎映画だと。回想は映画における重要な語りの手法ですが、回想シーンを使うことは・・・・。
森崎 あまり好きじゃない。
山根 でしょう。だから「ペコロス」では、二つの過去のシーンが単なる回想にはなっていない。単なる回想は説明になるんですが、森崎映画では説明じゃない。それは森崎映画にいっぱい歌が出てくることとも関連があると思います。何らかの記憶の発現として歌が出てくるんでしょうが、説明などつかない。長崎の撮影現場に来た新聞記者のインタビューのとき、森崎監督が「記憶は愛である」と言われましたが、歌はそれと関係がありますよね。
森崎 ありますね、それは。
山根 「記憶は愛である」というのは誰かの言葉ですか。
森崎 ええ。誰が言ったのか忘れた。なにしろ記憶が苦手な男ですから(笑)。
山根 それにしては、よく歌が出てくる(笑)。
森崎 よけい気になるんでしょうね。
山根 歌は理屈などとは無関係に、ぽーんと出てくるんでしょうね。
森崎 きっかけはそうでしょう。でも、はたして関係ないかと問いつめると、どっかで関係しているのかもしれませんね。
山根 愛があるから記憶している。
森崎 そういうふうに考えたら分かりやすい。
山根 お兄さんへのこだわりはまさしくそれですね。
森崎 ええ、そうです。
山根 「ペコロス」の歌や過去の入り方が、そうなっていると思います。さっき浜田キャメラマンのことを言われましたが、現場での彼の奮闘ぶりは感動的でしたね。編集には立ち会われたんでしょう。
森崎 それほどきつく立ち会ったわけではなく、いちおう。浜ちゃんが自分で判断した面が多かった。浜ちゃんに委ねるという感覚があったんですね。
山根 それで森崎映画らしい映画になってるのが面白い。
森崎 思ってもいない意見がどんどん出てくる。ぜんぜん力瘤が入っていないんで、その抜けているところがいいんでしょうかね。
山根 軽みに到達してる。で、ある人に言わせると、エッジが効いてる。いちばんいい状態ですよね。
森崎 エッジがねえ。嬉しいなあ。
山根 力瘤を入れればいいというもんじゃない、ということでしょうか。
森崎 そうですね。力瘤を入れたいとおいう気持ちはつねにありますけど。
山根 浜田キャメラマンが森崎監督に代わって力瘤を入れた。
森崎 ええ。監督を愛しているから、と言いましたよ(笑)。
山根 監督本人に?(笑)
森崎 いや、そう言ってるのが聞こえた(笑)。愛されてるんだ、俺は、と(笑)。

  一言だけ真面目に附言いたします。
  兄・森崎湊の自決は「特攻」発案に対する憤激から出た行動だったと断じます。   森崎東
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ペコロスの母に会いに行く

対談者 ................  浜田 毅
山根 貞男

 俺の映画を撮ってるんじゃない
 森崎東の映画を撮っているんだ
 と思えばなんでも出来るんです

出典 ................  映画芸術
著者 ................ 
発行 ................  No.445、63巻第4号
発行年 ................  2013年秋号
pp. ................  50-57.

山根 「ペコロスの母に会いに行く」の長崎での撮影現場に二回行って、なによりも浜田さんがすごくスピーディに動いていることにびっくりし、感動しましたね。撮影現場でスタッフがノロノロ動くなんてのはありえないんだけど、今回のキャメラマンの動きは実に印象深かった。具体的に言うと最後のランタン祭りのシーン。大勢のエキストラがいる中での撮影ですよね。車椅子に乗っていたのにいなくなった認知症の老母(赤木春恵)をお祭りの雑踏の中に探す一連のシーン。カットが細かく分かれているわけですけど、群衆の頭ごしからのカットが多いから浜田さんはイントレの上に乗っている。で、撮って、「OK」と言った次の瞬間、イントレを駆け降りて、ダーッと次の場所へ走っていく。その速いこと(笑)。
浜田 まだ俺も若いっていうことだね(笑)。
山根 歳は考えなかったなあ(笑)。いつもあのように動くんですか。
浜田 だいたいいつもそうなんです。『ペコロス』の現場の場合は、イントレから降りるスピードがちょっと速かったかな(笑)。
山根 でしょう。コンテはどうやって森崎監督と打合せしてたんです?
浜田 コンテは撮る前から決めてました。決めてから監督に提出して説明しました。
山根 え?! あなたが決めてる?
浜田 そうです。OKだったらそのまま進める。
山根 今までの森崎組でもそうなんですか。
浜田 いや、今回が特別ですね。今までの森崎さんの場合は、監督が一回段取りをして、カットを割っていく時に僕が入っていって、そのカット割りを修正して現場に入るんです。だけど、今回はそれをやらずに、僕のほうで割ったコンテを監督に提出して進めていったんです。
山根 それは効率のため?
浜田 もちろん効率もあるけど、なにより監督の体力のためですね。
山根 カット割りは監督がyるものと普通は思いますよね。それをキャメラマンがやって、監督はOKを出す、というケースもあるわけだ。浜田さんとしてはそういうやり方は苦にならない?
浜田 全然苦にならないです。
山根 でも、監督がやってくれたほうが、やりやすくはないですか。
浜田 監督にもよるんですけど、こっちがいい案を提出したほうがいい監督ってたくさんいるんですよ。でも、だからといって僕の映画にはならないですね。今回の映画も僕がカットを割ったけれども、森崎さんの映画になってもらいたいと思ってやったことですね。
山根 そこですよね、面白いのは。なんでそうなるのか分からないけど、『ペコロス』はちゃんと森崎映画になってる。
浜田 森崎さんと一緒に俳優さんの動きをやってみて、カットを割っていったとしても僕が割ったのと同じようなカットになったと思います。それには僕は自信があるんですよ。
山根 その自信は、森崎監督と何作も撮ったから?
浜田 森崎さんと共にカット割りをやってきたけど、いつでも俺は森崎東に沿ってカットを割ってるんで、俺の考えで割ってるわけじゃないいんですね。
山根 浜田毅が監督しているんじゃないんだと。
浜田 これは伝わりにくいことかも分からないんですけどね。俺はカットを割るなんていうことは誰がやったっていいと思ってるんですよ。
山根 それは興味深い意見です。
浜田 誰が割ってもいいんだけど、それが自ずと森崎さんの映画になっていけばいいわけです。あとは監督のOKの基準ですよね。俺は監督というのは限りなくOKを出す人だと思ってるんです。だから、監督から「OK」という言葉を聞けばいいわけで、「OK」と言われた瞬間に僕は次の仕事に移れるんですね。『ペコロス』の現場は忙しかったから、ちょっと動くスピードが速くなりましたけれども。
山根 以前は森崎監督は現場でもっと動いてましたよね。
浜田 昔はもうちょっと体力があったからね。今回は主演の赤木さんも足が悪くて車椅子ですからね。そんなに遅くまで撮影できない、と。
山根 今回の現場では、助監督たちがキャメラマンの指示の下で走り回ってる。撮る人が中心に動いている現場なんてあんまりないから、見ていてとても面白かった。そして森崎さんは必ず横に立ってモニターをしっかり睨んでいますからね。もちろん言うべきことは言って。
浜田 現場で楽にいてもらいたいとは思ったんですよ。ここぞという時だけ言ってくれ、と。例えば、テストをやった時のダメな部分とかは分かるので、それはこっちがやって、テストを何度か繰り返していけると思ったら、監督に「次、本番行きますけど」というふうになればいいわけですね。その状況判断には自信があるんですよ。
山根 森崎組には、浜田さんにそう思わせる独特の何かがあるのかな。
浜田 僕は映画界に入った時から森崎さんに付いている。一本目が森崎さんですからね(『生きてるうちが花なのよ死んだらそれまでよ党宣言』<85>)。そういう意味では監督のOKの基準とか、芝居のダメなところとか、もう一回いくだろうなという、森崎さんの肌合いみたいなことが分かるんですよ。だから監督を介する手間を省かせていただいて、監督の言葉を訊く前にこっちで予め直したほうが早いですね。そのあとで監督に見ていただけばいいわけです。「これでいいですか?」と訊く前に監督が絶対に「いいだろう」と言う現場を提示したいということなんです。現場が時間的にも余裕がないので、もうスタッフとキャッチボールをしなくていいですと、その代りに絶対にいい現場を提出しますからという自信はあった。それは俺だけじゃなくて美術も照明も含めての現場全体で思ってたことですね。
山根 浜田さんに訊く話ではないかもしれないけど、今回の『ペコロス』は森崎東脚本じゃないですよね。阿久根(知昭)さんが書いた脚本を森崎さんが撮ることになったわけですが、最初の脚本と違ってきていることは分かる。森崎監督は現場で脚本を直しますか。
浜田 今のホンになるまで何ケ月か阿久根、森崎、俺の三人でずっとホンに関してキャッチボールしていた。まず森崎さんが阿久根に返して、阿久根から俺のところに来て、それで俺が森崎さんに返して。三人でやってたんです。そういう意味では完成台本に至るまでの経過を僕は把握していたので、監督が「ここを直したいな」と言う箇所も理解はしてたんですよ。ラストの眼鏡橋のところとか、いろいろな箇所をどう直すのかっていうことがあったんだけど、僕の中ではキャッチボールがうまく収まったという形でホンが直った気がしてます。
山根 ホン作りにキャメラマンが入っているのは異色でしょう。
浜田 ありえないし、俺だって入りたくない(笑)。出来上がったホンだけ貰って仕事をしたいけど、今回は入らざるを得なかったんだよね。
山根 僕が知ってる限りでも、現場で監督が「浜ちゃんに訊いてください」と言った場面が何回かあった。それは森崎監督の浜田さんに対する信頼の表れで、自分の事を自分以上によく分かってるんじゃないかという感じがあるんでしょうね。
浜田 森崎さんは俺がホンを書けると勘違いしてると思うんだよね(笑)。「書けないんですよ」ってずっと言ってるんだけど。ホンに対して意見は言えるけど書けない。それで。問題なのは森崎さんは俺に書かしたいと思ってるわけね。
山根 森崎さんは常に自分の書記係を必要とする人なんですね。
浜田 そう。常に誰かがそれをやる。今までも脚本の近藤(昭二)さんがいたり、『ニワトリはハダシだ』<04>の時は照明の長田(達也)がいたり、とにかく森崎さんは自分が言ったことを聞いてくれる人がいなきゃダメなんですよ。その役に俺が欲しかったんだと思うんです。ただ、それが意外と難しいんですよね。
山根 脚本の段階から引き込まれてしまうわけだ。これは他の監督にはない?
浜田 それはない。他の監督とはこういうことは絶対やりません。ホン作りにまで俺が入るのは森崎さんだけですね。
 でも、今回は甘かったかなとも思ったりもするんですよ。
山根 「甘かったな」って、どういう意味?
浜田 森崎さんって本当は狂ってるじゃないですか(笑)。
山根 うん。発想が普通じゃない(笑)。
浜田 何か予測のつかないところがあるんですけど、でも、それは今回のホンにはないからね。それはそれでいいし、みんなが『ペコロス』を観て、「よかった」と言ってくれるのはすごく嬉しいんだけど、本当に森崎映画になっているのかなと、ちょっと思ったりもする。
山根 僕も今までの森崎映画を踏まえて『ペコロス』はこれまでとこういう所が違うとは言えますよ。だけど、先日、二回目の試写を観て、やっぱり結果として森崎映画になってる、それは凄いことだなと思った。
浜田 それはすごく嬉しいことですね。
山根 正直言って、今回は映画の成り立ちからの経緯を知っていたので、森崎映画になるかならないかが気になっていたんです。僕の印象としては、森崎監督が初めの脚本に100パーセント乗っているとは思えなかった。森崎さんがグチグチ言っているのも聞いていますから。で、こんな失礼なことを森崎さんに言ったこともあるんですよ。昔の大手の映画会社にいたら、あのユニークな映画を撮ってる鈴木清順さんでも「はい、次これ」って、いきなり脚本を渡されて撮った。でも、それを清順さんが料理すると摩訶不思議な映画になってしまう。そういうことがあるんだから、森崎監督が現場に立てば、最初の脚本から見えてくるものとまるで違うものになることは十分んありうる、と。
浜田 この話を森崎さんがやると言った理由は、詳しくは監督に訊いてないですけど、想像するに「長崎」「原爆」「認知症」という、この三つが琴線に触れたんですよ。
山根 森崎映画にはしょっちゅう歌が出てくる。今度の『ペコロス』にもアタマに「早春賦」を合唱してるシーンが出てきますが、最初のシナリオにはそういうシーンはなかったんじゃないですか。
浜田 ないです。
山根 「早春賦」から入っていくのが森崎流の何かなんで、それを森崎監督に「何で『早春賦』なんですか」と突っ込んで訊いたって、「俺だって分からん」となる。さっきの浜田さんの言葉を受けて「狂気」と言ってもいいですけど、森崎さん独特の何かが映画にポッと出てくる時の「何か」は一番歌に出てる。
浜田 今回も何曲も歌ってるじゃないですか。子供が歌ったり、赤木さんが口ずさんだり。あれは森崎さんが途中で足してくるんですよ。「赤木さんにこうおいう歌を歌わせたい」と。それで、歌い終わったら「この歌好かん」って言わせたいってね。
山根 あのシーンは印象深い。息子(岩松了)が赤木さんの演じる母親を自動車に乗っけてドライブに行って、天草が向こうに見える海岸で車を止めて、息子の方は車から降りて、母親は車の中にいる。
浜田 で、軍歌(「ああ紅の血は燃ゆる」)を歌ってるんですね。
山根 歌い終わった途端に「この歌好かん」って言うから、どう考えても、もの凄く変なシーンですよ。普通は好きな歌を歌うんであって、好かん歌をわざわざ歌わせるのはどういうことか、と。
浜田 自分の記憶を取り戻したら、一番思い出したくない戦時中の軍歌を思い出してしまったということだと思うんです。撮影しながら森崎さんも思い出してきたんだと思うんですよね。記憶を取り戻したっていうことが思い出したくない記憶まで戻ったっていうことでもある。あのシーンをどこに入れるかっていう時に、「うまく整合性をつけて歌わせるシーンがない」って助監督が言ったら、監督は「整合性は関係ない」って言ったんですよ。
山根 整合性がないから、みんなが撮影現場でジタバタしてる。俳優さんも監督から何を言われてるか分かんないから困るだろうし、撮る人も困っちゃうんだろうし、やがて出来上がったものを見る我々だって整合性で考えたら全くわけが分からない。だけど、森崎映画の面白さがそこにあることは間違いない。
浜田 それが「作家」だという気がするんですよね。そこでポンッと踏み外せるのが森崎さんの作家性かなっていう気がするんですよ。そうすると俺の中では全てが腹に落ちるというか。さっきのシーンは最初は単に車椅子を息子が押して「母さん、あれが天草だよ」って言った時に歌ってるとなってたんですよ。そんなのはおかしいだろうと俺が言ったんです。だってどうやってあそこまで車椅子を押してきたのか分からない。それで、車から母親を降ろす前に乗ってるというシーンになったんですね。あのシーンをハナから僕に考えろと言われても考えられないけど、シーンさえ出来てしまえば、どう撮るかというふうには考えられる。それはやっぱり森崎さんが「整合性は関係ないんだ」って言った瞬間に、「じゃあそういうふうに撮ろうか」と思えるんですよ。
山根 スーッと見過ごしてしまうシーンなんですけど、ちょっと考えたら「えっ?!」となる。「この歌好かん」って本当に小さな声で言うあのセリフは凄くて、小さいものなんだけど、棘みたいなものが出ている。大げさに歌って大げさに「この歌好かん」と言ったら、意味が生じちゃうんだけど、森崎さんの映画って意味に引きずられないように流れていくところがあるんですよ。僕が今回、最終的に森崎映画になっていると思ったのは、そういうことなんです。
浜田 「歌」ということで付け加えていうと、最後のシーン、眼鏡橋で「早春賦」を歌わせるか、歌わせないかということも揉めたんですね。最終的に赤木さんが記憶を取り戻すということに森崎さんは固執したんです。それで、思い出すなら「早春賦」だと。だから、冒頭のシーンで少女たちに合唱で「早春賦」を歌わせようということにもなった。それを最終的に思い出させるにはあの眼鏡橋の上で歌わないといけないんだというところに落ち着いたんです。あそこで、森崎さんがあの橋の上に来て、赤木さんに歌を思い出す時の格好を演技指導したんですよ。もう一か所、森崎さんが演技指導をしに出てきたのは、映画では使わなかったんだけど、ラストに赤木さんが寝ている枕元にもう亡くなっている夫の加瀬亮が現れて、加瀬が赤木さんを抱き起こして二人で窓辺に立つというシーンがあったんです。そしたら、その時にも森崎さんが、こうやって力強く抱き起こして、と言って、加瀬に演技指導した。加瀬もそこに勝負をかけてきたんだけど、カットになっちゃって(笑)。あれがあったら観客はもうひと泣きしたかもしれないね。
山根 ところで、森崎監督との関係を改めて聞きたいんですが、浜田さんは『党宣言』の前にテレビの森崎作品を撮ってるんですよね。
浜田 テレビは僕が二九歳の時に森崎さんの「木曜ゴールデンドラマ 妻の失ったもの」(81)というのを撮ってます。
山根 出会いは浜田さんがいた三船プロの時?
浜田 いや、出会いは国際放映です。森崎監督が国際放映で撮った「蒼き狼 成吉思汗の生涯」(80)です。
山根 「蒼き狼」はモンゴルで撮って、大変な現場だったと聞いている。
浜田 僕にとってはすごく楽しい現場だったです。現場がこんなふうに動くのかっていう、演出家の力をすごく感じた現場だったですね。それが終わった後に森崎さんから話がきて、「妻の失ったもの」でキャメラマンとして一本立ちしたんですよ。
山根 「蒼き狼」では浜田さんは何をやったんです?
浜田 撮影助手のチーフです。
山根 その森崎さんの演出家としての力というのが、その後、映画を一緒にやることで、もっとはっきりしていくわけですね。
浜田 監督と助手で付き合うのと、キャメラマンになって付き合うのはまた違うと思うんですけど、今度は自分がキャメラマンで撮っていかなきゃいけないじゃないですか。それが刺激的だったですね。
山根 森崎監督は撮影部にどういう注文なり指示を出すんです??
浜田 森崎さんはあんまり具体的なことは言わないんですけど、きっとケレンというか、作り込んだ画は嫌いだと思うんですよ。茶碗をなめて人物のアップを撮ったりとか、そういうのは嫌がりそうな感じがしますね。「嘘撮るな」って、僕は一回、森崎さんに言われましたね。
山根 その時の森崎さんが言う「嘘」と「本当」というのは独特なんじゃないですか。
浜田 それは僕の中で解釈するしかないんですけどね。一本目の「妻は〜」の時に、「ここだと思ったキャメラアングルがあったとしたら、もうちょっと奥まで行って引いて見てみろ」って言われたんですよ。その発言を聞くと、何か教師みたいな人でしょ。それで畑の向こうから家を撮るシーンで、どんどんずっと奥まで行ったら、「そこまで行かなくてもいいだろう、と。(笑)
山根 そうか、教育的なんだ。
浜田 僕が一本目だし、教育しなきゃいけないとは思ってたんじゃないですか。それは感謝してますけどね。その後、二時間モノのドラマにずっと付けてくれましたから。(森崎監督のフィルモグラフィーを見ながら)「妻は何をしたか」(83)や「妻は何を感じたか」(83)とか、「赤い妄執」(83)、「喜劇・ああ未亡人」(88)も、「離婚・恐婚・連婚」(90)もみんなそうですよ。
山根 浜田さんは他の監督とも次々仕事をしているから、森崎さんの作品を撮ることが少なくなって、飛び飛びなんだと思ってしまうけど、テレビも入れるとベターッとやってるわけですね。
浜田 そうです。ずっとやってましたね。
山根 それで体に入ってるわけだ、森崎演出の何たるかが。
浜田 僕の部屋に泊まったりしている時もありましたから(笑)。僕は撮影をやっていないんですけど、森崎さんが「花嫁のアメリカ」(82)というドラマでアメリカ行った時は、プロデューサーが加藤彰さんの「哀しみは女だけに」(82)というドラマと二本持ちだったんですよ。スタッフは全部、加藤彰組。森崎さんの下は誰もいないわけですよ。それで、プロデューサーが森崎さんに一人連れて来ていいよって言ったんです。それが僕だった。僕は何をするかというと、ただずっと一緒にいるだけなんです。モーテルの部屋も一緒で。そこで朝起きて俺がオレンジ剥いたりして、書生みたいに(笑)。
山根 監督補みたいなものだね。
浜田 そうです。監督の付き人みたいな。さっきも言いましたけど、森崎さんは「何でホン直しに照明や撮影がいるんだ」みたいな形に拘らない人なんですけど、その時も朝起きると森崎さんが僕にその日に撮る流れを言うんですよ。「男が入ってくるんだ、女が振り向くんだ。男がこう言ったら女がこうなるんだ」って自分の中でカット割りしながら僕に説明したんですよ。僕は「そうですか」ってずっと聞いていて、それで現場に行ったら「じゃあ浜ちゃん、みんなに説明してくれない」って言われて(笑)。「え?! そうかー」って(笑)。次の日からは監督が起きて説明するのを全部メモして、それで現場で「こうなります」と僕が説明したわけですよ。それで、助監督にものすごく嫌われたのね(笑)。
山根 そのドラマのキャメラマンもいるわけでしょう(笑)。
浜田 もちろんいますよ。だから、こっちも居直らなきゃ出来ないですよ。その人たちに嫌われちゃいけないとか気にせずに、現場をスムーズにやろうと思ったら、俺が前面に出てやるしかない。その関係が『ペコロス』の現場に出ているんですね。
山根  『党宣言』を撮る前の何本かのテレビが浜田キャメラマンの実践修業時代で、そこで森崎流を会得したっていう感じがしますね。
浜田 そんなふうにも思ってはいないんだけど、もしかしたら叩き込まれたのかも分からないね。
山根 そりゃ身につくでしょう。
浜田 ものすごく身に付きますよ。映画の流れが身に付くんですね。
山根 『党宣言』が映画としてのデビュー作になって、次の森崎映画は『ラブ・レター』(98)になるんですね。
浜田 映画でいうとそうですね。『ロケーション』(84)を僕は断って、角川の『いつか誰かが殺される』(84崔洋一)をやっちゃったんですね。それで、森崎さんに怒られた。
山根 そっちを選んだのは何で?
浜田 何でだろうね。角川と崔(洋一)との関係もあったしね。角川で井筒和幸の『晴れ、ときどき殺人』(84)をやって、立て続けなんですよ、『いつか誰かが殺される』は。
山根 なるほど。それがあって、浜田さんとは『ラブ・レター』まで映画では組んでいないけど、その間に森崎映画は『塀の中の懲りない面々』(87)、『女咲かせます』(87)、『夢見通りの人々』(89)、『釣りバカ日誌スペシャル』(94)、『美味しんぼ』(96)と結構あるんですよ。
浜田 呼ばれていないです。
山根 で、『ラブ・レター』からは続けざまですね。時間は飛んでますけど、『ニワトリはハダシだ』と今回の『ペコロス』。
浜田 『ラブ・レター』の時に打ち上げで「もう他の奴らには撮らせない! これからの森崎映画は全部俺が撮る」って言っちゃったんですよ。
山根 誰に?
浜田 みんなに。
山根 ええっ(笑)。何でそんなこと言ったんです?
浜田 それは監督にも迷いがなくていいじゃないですか。浜田にしようか、東原(三郎)にしようかって迷わなくて済む。だから「もう迷わせない。これからの森崎映画は全部撮る」って言っちゃったが故に『ニワトリはハダシだ』もやったし、スケジュールの都合で危なかったけど、『ペコロス』もやったということです。
山根 森崎監督は松竹という伝統のある映画会社の撮影所出身ですけど、浜田さんはそういうところで助手をやってきた人ではない。映画作りが一九八○年代にそういうふうに変わってきたわけです。撮影所のやり方と自分が撮影所ではない街場から出てきたことのズレといったものはありますか。  
浜田 俺たちは撮影所なんか潰れてしまえと思って、映画を撮ってきたわけですよ。僕らは撮影所出身じゃないし。こんな撮影所からは映画なんか生まれねえんだと、今、映画を撮るのは街場でしか撮れねえんだと思ってやってきた。今から思うとやっぱり撮影所が弱かったですね。撮影所に映画を作るという力がなくなって、それで街場で作られる様になった。今では僕も撮影所もいいなと思うようになったけど、それは僕が力をつけてきて、撮影所を使いこなせるようになったからで、僕らが撮り始めた時には撮影所も全然、協力的じゃなかったし、とんでもなかった。それで、こんなところからは映画なんて生まれないと思って反発してて、それが逆によかったんだと思うんですよ。「敵」がいたというかね。僕らはピンク映画から出てやってきて、撮影所という「敵」は大きかったけど、相手が大きければ大きいほど反発している勢力は逆に育ってきますよね。
山根 森崎監督との仕事では、そのことで問題はなかった?
浜田 僕はなかったですね。森崎さんは撮影所から否定されたような人じゃないですか。
山根 そうですよね。
浜田 七五年に松竹を解雇されてね。僕が三船プロにいた時にスタッフに人気の監督だったんですね。森崎さんが松竹を離れて『黒木太郎の愛と冒険』(77)を撮るという話が伝わってきて、三船プロのスタッフがカンパを集めていたんです。大した額じゃないですけど、僕もカンパをした記憶があるんです。森崎さんみたいな松竹にいた有名な監督がそこを出て、一人で撮るというのは難しい時代だったと思うし、森崎さんは撮影所でしか撮ったことがなかったですから、外で撮るのは大変だったと思いますけど、それをみんなが応援していたような気がします。森崎さんとご一緒していても、「撮影所ではこうなんだ」とかいうことは絶対言わない人だったですね。
山根 森崎さんはずっと松竹で撮ってきて、七五年に東映で『喜劇・特出しヒモ天国』を撮った。この時点で松竹から契約を切られている。森崎監督としても東映京都で一辺やってみたいと思っていたんでしょう。東映京都ではあの森崎東が来たということでものすごい歓迎を受けて、だから深作(欣二)さんや工藤(栄一)さんが一場面に出演しています。その次が『黒木太郎』なんですよね。松竹でずっとやってきて、東映京都を体験して、『黒木太郎』という自分の企画をどうしてもやりたいというのでやるわけで、これは自分でお金も集めてカンパもしてもらって、完全に街場の映画です。それで大苦労をして数年経って、『時代屋の女房』(83)でもう一度松竹に戻る。そして『党宣言』がある。その辺りの数年間は映画監督森崎東にとっては、ダイナミックな有為転変の時で、浜田さんはその最中に森崎さんと知り合ってるんです。
 さっき、森崎監督は作り込んだ画は嫌いだろうという話をされましたよね。僕も随分昔に森崎映画にはいわゆる美学的な「画」、美しい「画」はない、という話を森崎さんにしたことがある。そしたら、森崎さんは「俺は反美学かな?」なんて言ってましたけどね(笑)。でも、別に「反美学」を標榜しているわけではないですよね。
浜田 そんなことはないですよね。
山根 だけど、美学的にならないでしょう。
浜田 ならないですよね。
山根 何だと思います? そこはキャメラマンにかかってるわけですから。浜田さんの最近の仕事でいえば、『天地明察』(12 滝田洋二郎)は美学的ですよ。それから、『利休にたずねよ』(13 田中光敏)もちゃんと美学的になってる。それは監督の要望を浜田キャメラマンが踏まえてそういうふうに撮ってるわけですよね。で、森崎映画は美学的にならない。あの無茶苦茶な、何が出てくるか分からない世界を撮るわけだから、美学的になるわけがないということですか。
浜田 美学的にならないということはないと思うんですよ。ただ、画から発想しないのかな。人の動きというか、そういうところからしか発想しない。画の中に置こうという発想がないんですよね。
山根 まず画を考えてから人物を配置する、という考えはない。
浜田 ないと思いますね。だから、森崎さんは人の動きでも、安定したらすぐ転ばしたりしたがるし、収まりたくないというのはあるんじゃないですか。収まってしまうと嫌になる、というのがありそうな気がしますね。
 『ペコロス』でも、そういう画は作らないと考えて撮ったんですよ。今回は画に関しては監督にそんなに言われてないですけどね。ただ、一番大変だったのは、過去のシーンですね。過去の時代の撮影が一番、美術的にも撮影的にも大変だったんだけど、あそこをクリア出来たんで、うまくいきましたね。
山根 そこが映画のミソなんで訊こうと思ってたんですが、赤木さんが母親役として出てくるシーンは全部、現在形ですよね。認知症の母親に振り回される六○歳ぐらいの息子がジタバタするという話が現在形であって、そこに過去が挿入されていくわけですけど、過去が二つある。ひとつは、若い頃の母親に原田貴和子が扮して、加瀬亮がその亭主役で、まだ小さい息子がいるという、親子三人の貧しい生活を描いた過去があって、もうひとつ、母親の少女時代というそれ以前の過去がある。ふたつの過去が現在のシーンに出没するんですけど、その入り方が絶妙だと思うんですよ。編集の段階で苦労されたんじゃないかな。映画の冒頭、宇崎竜童が指揮して少女たちが合唱している時に、それを窓から二人の女の子が覗いているのが大過去なわけですね。「昭和一八年、長崎」って字幕が出てきますけど、この映画を見ている時に誰もあれが大過去だとは思わない。しょっちゅう現在から過去に戻っていくんだけど、僕の感じでは、その戻り方が普通雨の映画とは違う。回想ではない回想というか。だから、二つの過去のシーンは、画的に苦労したんじゃないかと思う。乱暴に言うと、過去のシーンは別の映画みたいなものになってますよ。
浜田 少女達が覗いているシーンにしても、原田貴和子が花街に幼ななじみを訪ねに行くシーンにしても楽しかったですね。でも、美術が大変で、単純に言うと、もう“縦”でしか撮らないって決めて撮ったんですよ。
山根 花街のシーンでは、赤ん坊を背負った原田貴和子と加瀬亮が通りを縦に向かって歩いているのを縦位置で撮ってます。
浜田 縦で撮ってると過去なんだけど、横に入ると過去じゃないんですよ。そこまで飾り込めない。縦で見えているところは美術が全部、過去に見える様にしたんだけど、横には入らないというふうに決めた。例えば、大波止の船着き場に父親を子供が迎えに行くシーンがありますよね。
山根 暗い夜のシーン。
浜田 あれも縦だけ。今、大波止にああいう船着き場があるわけないんでね。あれは長崎の何もない公園で撮ったんですよ。だから、一切周りを写さないんだけど、ああいうシーンは見る人が想像してくれればいいんですよ。その代わり現代劇のシーンでは横に振るんですよ。
山根 過去と現在でキャメラワークが違うわけですね。
浜田 ちょっと違う。トップシーンの合唱もあれは活水女子大学の中で撮っているんですけど、少女達が覗いているのはグラバー邸なんですね。それは、映画の中では全部同じ場所に見えればいい、ということだけですよ。それはうまく仕掛けられたかなという気はするんです。
山根 そんな時、浜田さんは森崎監督に「ここの過去のシーンは縦でいきますよ」と言うんですか。
浜田 言いません。美術の準備の段階から決めていかないといけないので、もう監督には敢えて相談はしないですよ。もちろん、現場には連れて行って、「こう撮ります」とは言うけど、細かいことは言わない。花街でのロケハンの時は、監督はものすごく嬉しそうだったけどね。コンクリートの地面に全部、砂を入れて土の地面になってたから。
山根 そこまでやっておいた上で、監督に見てもらう。
浜田 そうです。最初に「ここで撮ります」って飾り付ける前の街を監督に見せに行った時に、すぐに言ったのがコンクリートの地面のことなんですよ。「ここは大丈夫です。土になりますから」と。そして飾り込んだ後にもう一回連れて行ったら、監督が「あっ、土!」って(笑)。
 森崎さんはものすごいディテールに拘るんですよ。例えば、母親の少女時代の天草の家が出てきますよね。あれは僕が先行ロケハンをしてここしかないかなと思って、美術にここを天草の家に出来ないかと言って、そして美術が飾り込んでくれたわけですよ。畑を作って、鶏を放して、そしたらすごく監督は喜ぶんですね。「あっ、天草だ」って言って。
山根 なんと素直な(笑)。
浜田 昔の服装一つにものすごい拘る。加瀬亮の衣装に対しても、そんなズボンの前開きで、小便は出来るのかとか、帽子がちょっと生成りになってますって言ったら、生成りじゃないんだ、白なんだって言ってね。それをクリアするとスーっといく。
山根 監督というものは現場で何をするのかを語る一例ですね。徹底していて、ハッキリしている。森崎監督は基本的に浜田キャメラマンを信用しているわけで、そういう関係が成り立っているからいいんですね。
浜田 森崎東さん、浜田をよくここmで育てましたね、ということかも分からないですね。僕はテレビの一本目から、映画の一本目から、全部森崎さんで、やっぱり森崎東には育てられたなとは思っているんです。そういう意味では、あとは恩返しで、どうとでもいけますよ、と。だから、今回は、現場では走り回ったけど、意外と楽なんですよ。俺のためにやってるんじゃない、俺の映画を撮ってるわけじゃない、森崎東の映画を撮っているんだと思えば、何でも出来るんですよ。