新作『夢見通りの人々』の撮影を終えて

対談者................ 森崎東 島田元
出典................ 映画道
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発行................ ウェブ
発行年................ 1989年7月20日
URL................ http://www.keddy.gr.jp/~eigamichi/writing/azuma2.html

森崎東インタビュー/1
新作『夢見通りの人々』の撮影を終えて
インタビュー・構成:島田元

 去る七月二〇日、松竹大船撮影所に、新作『夢見通りの人々』の仕上げに忙しい森崎東監督を訪ねた。宮本輝の同名小説を、監督とは長い付き合いである梶浦政男氏が脚色、助監督も務めている。舞台は大阪、夢見通り商店街。主人公の青年、春太(小倉久寛)と元ヤクザの肉屋、竜一(大地康雄)の、ヒロイン光子(南果歩)をめぐる恋のさやあてを中心に、夢見通りに住む一風変わった人々の生態を描く。午前中のオール・ラッシュを観終えた監督は、疲れの色一つ見せず、ビフテキを食べながらインタビューに応じてくれた。話は新作のことのみならず、映画作りに対する考え方、構想中の映画のこと等に及び、限られた誌面ではとても紹介しきれるものではない。結局、二号分載という形になったことを、お詫びしておきます。

島田 ・『夢見通りの人々』の原作と脚本を読みましたが、今回は随分原作に忠実ですね。
森崎  「そうです。いつもは(原作を)非常に変えちゃうんですけど。今回は、あのままシナリオ化するか、うんと変えてしまうかということで、議論百出みたいに、会社でもなったし、僕自身もそういう所があったんですよね。
 具体的には、あのままじゃちょっと売りにくい、松坂慶子さん主演ものみたいにならないか、と言うのでですね。あの夢見通りに得体の知れない女が来て住みつく、みたいな話を作ったんですよ、一応。そうするとまあ、原作のキャラクターは勿論出てきますけど、全く違うものになるんですよね。それで原作者がOKするか、という懸念もありますしね。原作の持っている個性を消して、いわゆる、ファーストシーンで女が来てクライマックスがあって女が去る……みたいな、そういう物語を踏まえたものにするというのも、あんまりイイ事じゃないだろうと。原作の、バラバラのエピソードを団子つなぎみたいにして、いわばシナリオとしては出来の悪い、ただ女にふられるだけの話を引きのばしてみただけの、そういう作品も一つ、個性的でいいんじゃないか、という気もありましてですね。
 結局はモトのままですね、クルッと回って。だからホンも二つ三つ作ってますよ」
島田 ・自分で書かれたものも、あったんですよね。
森崎 「そうです。僕と梶浦さんと古田(求)さんとで作ったものがあるんですね。原作をタタキ台にしつつ、ちょっと離れています。主人公のイメージも、小倉久寛さんみたいなタイプじゃなくて、もっとインテリで感受性が強くて、ああいう(夢見通りの)人々ととても相容れないみたいな。そのギクシャクをギャグにした作り方でした。で、小倉さんに決まった時点で『あ、これはやっぱり原作通りにやって、ごく分かりやすい“お盆映画”にしよう』と、割り切った訳ですね」
島田 ・そもそも、この原作を映画化しようと言ったのは、森崎さんではなくて……。
森崎 「会社です」
島田 ・でも、原作を読んだ時点では僕も森崎さん向きだ、と思ったんですが。例えば、さっきエピソードの団子つなぎを「シナリオとしては出来の悪い」と、おっしゃったんですが、今までの森崎さんの映画では、それが逆に強味だったものもあると思うんですが。
森崎 「ハァ……例えば『塀の中の懲りない面々』('87)なんてのは、やっぱり団子状の話でしてね。主人公の行動にあんまりウエイトがかかってなくて、他の人達のエピソードが団子状につながってるという……。あれは、ああいう一ヶ所に入れられてる集団劇だから、成り立つんですよ。
 だから(今回の企画者は)集団劇でもあるし、団子を作って失敗でもなかったので、何とか料理するだろうと思ったんじゃないでしょうかね。……あの、宮本さんのちょっと孤独な薄暗い世界というのは、あまり景気よくないですからね。大衆映画としては不景気な映画ですから。
 だから何とか、ラストは景気よくしようと相当頑張ったんですけれども。なりませんねえ。やっぱり原作の世界では、そこだけ無理矢理夢物語風にしちゃっても、マズイだろうと」
島田 ・脚本の最後の、燕が二羽飛んでいくというのも、お撮りになったんですか。
森崎 「いえ。飛ばしましたけれど、写ってなかったですね。真っ暗けで。飛ばした連中は大騒動したけれど、写ってない(笑)」
島田 ・じゃ、ラストは実は燕が飛んでいるんだと、頭に入れて観ればいいですね。
森崎 「ええ。その前に、病院でおばあちゃんが警察の取調べを受けるところも、二羽飛んでますけどね。これはよく見るとチラッと飛んでます。ええ(笑)」
島田 ・そういう情報は、ありがたいです。
森崎 「セットに新幹線も走ってますからね」
島田 ・シナリオの話に戻りますが、原作をシナリオ化する時に、元ヤクザの竜一を主人公にする方法もあったと思うんですが。
森崎 「えー、誰でこれをやるかということで、ほとんど……。具体的に言いますと、僕は最初、西田敏行の竜一だ、あの気持ち悪い目つきで救いのないようなワルを、て言ったんです。西田さんが、いい人ぶっていつも演ってんのが、ちょっと目ざわりだって感じもあったですから(笑)。それをウンとワルにして。でも、どうしても、まったくワルにはなり切れていない人間。そのスリリングなせめぎあいを、ポイントにしようかと思ったんですよ。そうやって、竜一を主人公に……と。ところが(西田敏行は)『釣りバカ日誌』('88 栗山富夫)を演ったでしょ、寅さんの相手で。だから、当然なりたたん訳ですよ。
 そうすると、ああいう本当に演技力を必要とするワルを、誰にするか。ちゃんと主役としての名前もあるということになると、仲々いないんですよね。色々考えたんですけどね。それで結局、大地康雄になった訳ですよね。それで、竜一と春太で半々で行こうと。いずれにせよ、春太は狂言回しみたいな役ですからね」
島田 ・ああいう春太みたいなインテリっぽい青年が狂言回しってのは、ひとつのパターンとしてありますね。森崎さんの場合も、第一作の『女は度胸』('69)の河原崎健三から、そうだったんですけど。ああいう部分は、森崎さんの中にあるんでしょうか。
森崎 「……ないんじゃないのかね、あんまり。大体、寅さんの相手の場合は、山田洋次が色々意見やアイデアを言うんですよ。それは頂けるところだけ頂けばいいんですけど。
 『女咲かせます』('87)で役所広司が出てくるのも、役所広司案なんですね。僕は全然、考えてなかったですよ。ああいう役所広司さんみたいなのを出して、松坂慶子の相手にして、という風に発想するのは、言わば、松竹の伝統を踏まえた山田洋次の世界というような気がしますね。
 インテリで美男を出して。今度は美男ではないですけど。ぜひともそういう人を、という風には考えないですね」
島田 ・春太役の小倉久寛さんは舞台出身の人ですけど、演技にヘンなクセがあって、困ったことはありませんか。
森崎 「あの人の舞台は、僕は観てないですけども。テレビドラマをビデオに録ったのを、参考に観せてもらったんですけれども。
 悪く言うと、テレビのアザトさといいますか、常に何かギャグをやっている。小倉君が自分で言ったんですけれども、ある局では、セットに入って廊下を歩いて部屋に入るまでに、面白いことを十回やって下さいって、演出家が言うんですって。そうすると、廊下で転んでドアに指をはさんで……それはヤメてくれって言ったんですよ。最初会ったときに。この人間を、意図的にカリカチュアライズしたようなギャグは、一切やめようと。
 そしたら彼は、やっぱり天性の喜劇役者なのか、歩いているんでも(肩を不自然にユサユサさせて)こうなっちゃう。体型的に。階段を降りてくるカットから撮り始めて、ギョッとしたですよ。ガンダムみたいに降りてくるんで。だから、『普通にやって下さい』って言ったら、『いや僕、こうなんです』て言われて。ガク然として。
 じゃ、まァこれは、能書き言ったってダメなんだ。やっぱり、この人の持ってるものを、伸び伸びやってもらわにゃイカンと思って。途中からこっちの考え方を変えて」
島田 ・でも、『ロケーション』('84)の西田敏行さんの演技なんかは、テレビドラマと完全に切れてましたけれども。
森崎 「あれはもう、カメラマン役ですから、生活人そのものですよね。こういう、夢見通りに住んでる詩人志望の青年という風になってくると、生活人っていうのを出しづらいんですね。
 僕のシナリオでは、職場も出てきて、金を借りられては返してもらえない、一日中暑い所を歩いて、帰りにはゴルフ場のスプリンクラーで水浴びして……と色々作ったんですけどね……」
島田 ・でも原作にもありますけど、主人公は詩にしても、どちらかというと中野重治みたいな生活人寄りのものが好きで。完全に芸術の世界にとんじゃってる訳じゃないですね。
森崎 「ええ。だから半分は、生活の中から抜け出そうとして詩を選んでる訳で。原作にもありますけど、人は人の幸福に役立つ、というか、人と人との架け橋としての詩なんだ、という風に思ってて。
 それで、ソ連軍のチェコ侵入だとかに衝撃を受けてて。新しい秩序がこの世界に打ち立てられていくという希望は、もう失ってて。
 だから中野重治が(映画の中で引用される)『雨の日の品川駅』を書いた当時の、高揚した青年らしいものは全くなくて、ただそれを後追いしてる。
 でも僕が、原作に乗った点があるとすれば、中野重治の詩が好きだという、それなんですね。僕も好きだったんです。中野重治が共産党を脱退した時に、同じような衝撃を……。全くそういう意味じゃ、思い込みがあって。だから中野重治狂信者が、生活人の一番深いところを覗こうとして、回りにはそういう人は全然いなくって、キリキリ舞いするという。非常に高度な映画を作ろうと、不遜にも思ったんですね」
島田 ・でも結局は、原作に忠実なシナリオになった。梶浦さん単独の。でも森崎さんは以前、山根(貞男)さんのインタビューで「シナリオを作ることが映画を作ることだ」と、おっしゃてましたね。今回みたいに、他人のシナリオを映画化するというのは、どうなんですか。
森崎 「実際には、やりにくいですね。現場で忘れてたりしますから。
 僕はあんまり、現場でシナリオ読まない癖もついてて。あんまり、いい事じゃないような気がしますけれども。ただやっぱり、演出家ってのはどれだけ活字の世界を肉体化するかということに、かかってくる訳で。
 自分で脚本書くと、どうしても書いてる時のイメージの方が深く重くきらびやかで。でも実際は、予算で限られてブーブー言いながら撮っていると、それはどうしたって目減りしていく訳でね。そのクヤシサがエネルギーになったりもするんだけど……。
 本来、演出家は仕事によって解放されて、豊かになっていくべきもので。そういう風に考えると、あまり自分でシナリオ書いてやっていくっていうのも……。
 (急に)あなた自身は(8ミリを撮ってて)どうなんですか!?」
島田 ・え? ええ、はあ、僕も、自分でシナリオ書いて映画にするとき、ああ、こんなハズじゃなかったっていうのは、よくありますけど。
森崎 「ねえ! あれ、くやしいんだよなあ。なんか、悪意を持った造化の神がいて、それにハメられたという気がするんだがねェ(笑)」
島田 ・あの、シナリオを映画化するときに、あまり偶然性とかを重んじられない方なんですか。
森崎 「ええ、そのこととつながってくると思うんですが、自分でシナリオ書いた場合は、その偶然性が派生する契機が少ないように思うんですね。
 やっぱり色々と役者との偶然性を大事にしつつ、現場で生起する色んなものがとっかかりになって、シナリオの世界が少しづつ変わっていくというのが、演出家の喜びですよね。だから、その喜びに賭ける訳であって、何も好んでクヤシ涙にかきくれる必要はないんであってね……。
 でも、能率の上で他人にシナリオ書かせて、それを作っていくというのは。シナリオはスケジュール表でもあったりする訳ですから、管理されつつ映画を作るというワナにはまる訳ですから。段々、こっちは腹黒くなっていく訳で、あんまり好んでやることではないなと……」
島田 ・でも、まあ今回は演出家に徹した森崎さんを観るということで。もちろん、これとは別に「シナリオを作ることが映画を作ること」という考え方での、今後のプランもお持ちな訳ですよねえ。こういうものを作りたいという。
森崎 「ええ、ええ、そりゃありますよ。現実生活の中での失望の回数が多いほど、そこへ逃げ込むっていうか。心理学的に言えば、それを考えることでバランスをとるってのは、常にありますね」
島田 ・つまり、映画監督は日常でも常に映画を作っているという。
森崎 「ええ。でも、太宰治みたいに息をすうように吐くように小説を書く、なんてのとは違って、つまり発想が何となく……。
 Aさん(某有名映画人)の話を聞いたんですよ。飲み屋で飲んでたらば、大手建築会社の若い二人連れが入って来て。飲み屋のママをさんざんサカナにして。で、帰る時にAさんのハゲ頭をポンと叩いて、ズルッと(頭から顔の表面を)撫でたそうですよ。こう、ベラッと。そこで『坊や、毛が生えたら遊ぼうな』て言ったそうですよ。で、二人して出て行った。Aさん、ビックリしちゃって。で、ムカーと来て、『野郎! 殺してやる!!』と思うまで、大分経ったっていうんだよなァ(笑)。
 そう思った時、野郎共全然いなかったんだ。で、グワーと立ち上がったら、ママが必死に止めたって言うんですからね。
 (後で聞いたら)この話には、ママがAさんの愛人だったというオチがつくんだけど、それなしでも、聞いてて面白かったんですよ。
 いきなり、ベロッとこうやって。体格のいい、なんかラグビーでもなんでもやってたような感じの奴が『坊や、毛が生えたら遊ぼうな』って言った。一瞬、何のコトか分かんなかった……。というのを、その話を聞いた時ねえ、僕は、即座にこれを十五分位の8ミリに撮りたいと、思ったですね……」
島田 ・はァ(笑)。
森崎 「だから僕らには、あなたでもそうでしょうけども、一生懸命話すよりも、そりゃ映画の形で言った方が一番早く正確に伝わる、という想いがありますよね。で、一生懸命話してもそれは……。
 あの、今回、これは原作にないんですけども、南果歩がちっちゃい頃、ウサギを売りに行く兄さんの後ろからついて行って、で、肉屋の親父が、ケースの上から、こう、手を出して、耳を掴んで、乗せて(という思い出話を、主人公に語るシーンがある)……。みんなが、あそこの部分は要らないから削れって、ウルサイんですけどね。……あのォ、確かに南果歩に言ったですよ。コレは一生懸命、話すということなんだ。ただ、その欲望だけなんだって。この、カチャンと量りの上に、こんな顔をして乗っかてたウサギを、今でも私は思い出すんだっていう、バカなことを一生懸命、話すだけのことなんだ。
 で、果歩はこう、色々考える訳ですよ。ここで最後に泣かなきゃいけない、とかね。大きな口をあけてはセリフを言えませんので、ここのセリフは、ワーと、こんな大きな口あけた顔やったあと、言い切らないで、泣くことはいかがでしょう、なんて訊く訳よね。で、そんな事はどうだっていいんだ、この話を一生懸命伝えるんだ、という熱望みたいなものが分かれば、それでいいんだ。演技は要らない……なんちゅうこと言って、すっかりアイツを怒らしちゃったけども……。
 最後は、ムッとして涙ぐんでたけども……。だから、一生懸命人に伝えたいことを、映像の形が一番早わかりで、そういう熱望につき動かされなきゃ、どだいカメラは回らないんだ、ていう風にあなたも僕も思ってる筈で。
 だから、日常次元でも、つい、なんかこう頭の中でカメラが回る、みたいなね。そういうことを毎日やってる」

(2へ続く)

島田 ・そのAさんの噺にしてもですねぇ、森崎さんはメモしてデータとしてシナリオに生かす、という感じはしないんですが。
森崎 「ああ、なるほど。メモしないですよ僕は。メモみたいな乞食袋みたいなものが必要だってのは絶対分かるし、この商売でモノを言うってこともよーくわかるんですけどねぇ」
島田 ・というのは、森崎さんのシナリオなり映画なりからは、職人的に直線的ストーリーを組み立てるというのより、「こんな奴がいたんだよ、そいつがこんなことして」という噺の印象を強く受けるんです。以前『生きてるうちが花なのよ死んだらそれまでよ党宣言』('84)等でシナリオを競作された近藤昭二さんが、森崎さんはシナリオを書く前にその一部始終を語り踊る、と話されてて、「ああ、そうか!」と思ったものですが。
森崎 「いや、踊りはしないけど(笑)。あの、こないだ亡くなったけど上野英信さんという人が『地の底の笑い話』というのを岩波新書でお出しになってて。九州の炭坑にはどこに行っても『すかぶら』と言われるような人がいるんですって。
 『すかぶら』──語源は分かんないんですよ。で、こいつは全然仕事しない。みんなと一緒に炭車に乗って下りるんだけど、現場につくともう、噺だけしてる。わずかの休憩の時も、こいつだけ余り汚れてない。で、現場監督が来ると、みんなに知らせたりもする。時間が来て残業させようとすると、『もう時間ばい、出よう出よう』とか言って、みんなを率先して出ちゃう」
島田 ・ははあ。
森崎 「で、仲間の採炭モグラ共も、そいつがいると一人分ノルマが果たせないんだけど、許してやるって言うんですねぇ。八時間も十時間も真っ暗な中で労働するんだから、それはやっぱり必要な訳で。やっぱり今、どう現場が近代化しようとですねぇ。何か、ロックなんか音楽かけて掘ってる訳じゃないですからねぇ。そんな所で液晶の携帯テレビを見ても面白くも何ともない。そりゃやっぱり、噺が一番面白いと思うんですよ。そこではねぇ。『あいつとあいつがデキてて昨夜夜這いに行ってきた』みたいな噺が、一番面白い。だから決してそいつを語り部として認めてる訳じゃないけども、『まあいいや』てなことになってるらしいんですよ」
島田 ・ええ。
森崎 「だから、それを読んだ時、思ったですよ。その『俺達はつまり、すかぶらなんだ』と。映画を作る奴は」
島田 ・ははァ(笑)。
森崎 「で、僕は本当のところを訊きたくてね、つまり上野さんはそういう風に割と文化人として見てる訳だから……。
 こないだ(福岡県大牟田市の実家に)帰って訊いたら、『あー、すかぶらなんか!』って。あんまり良くないことなんですねぇ、やっぱし。つまり、上野さんが言ったような『すかぶら』もいるけど、大半は『すったくもん』、つまり、しょっ中サボってばかりいる奴を『すかぶら』って言うんですって。労働者の風上にも置けない。で、そういう意味でも、『俺はやっぱり、すかぶら風に生まれてきてるんだなァ』という気がしますねぇ」
島田 ・何だか『塀の中の懲りない面々』('87)を思い出します。あれなんか、ひたすら噺をしている映画で。
森崎 「ええ。そうそう(笑)。あれはだから、楽しかったですよ僕、作ってて。つまりあのおカマの囚人(ケーシー高峰)が『少年達に自分の乗ったゴムボートを曳かして、走らせるんだァ!』という、噺をしてるってのは……(安部譲二の原作から引用すると次の通り──『ジョーさん聴いて、あたい毎年夏になると、逗子か葉山に大きなゴムボート浮かべてね、阿見に缶ビールを入れて海ん中吊して、あたいはサンタン・ローション塗って中に寝そべると、連れてった若い男五人ほどに、曳かせたり押されたりして遊んだのよ。出たらやるわよ、もう一度』)。あのシーンを撮るのは、とても喜びだったですねぇ、僕は。ええ。ああいうシーンを撮れば嬉しいってのは、やっぱりそういう『すかぶら』的な性癖があるんじゃないですかねぇ」
島田 ・今のボートのシーンなんか、おカマが話すとその場面が挿入されますよね。映画でフシギなのはそういった説明カット──言い方は悪いんですが──が入る方が、実際に噺を聴いてる快感が伝わるということなんです。「こんなみすぼらしい男がいてさァ」と言って、次のカットで街の中を男が歩いてくる、とか。
森崎 「うん。『こういう男がいてさァ』というのが上手〜く出ると、観ててそれだけで楽しいですもんねぇ。男が歩いてくるだけでワクワクしちゃうという……。渥美(清)ちゃんが上手いんですよ、(噺に情景が浮かぶという)それは。渥美ちゃんの、アフリカでの噺。『トタン屋根の小屋があって、風が吹くとね、カラ〜ンと音がするんですよ……』という噺がね、それだけなんですけど、もう実に上手いんだなァ……」
島田 ・失礼な仮定ですけど、もし渥美さんが塀の中にいたら、スゴい優遇される(笑)。
森崎 「ホントですね。あいつがいるから府中(刑務所)に行こうと、悪いことする奴が出てくるんじゃない(笑)。……また、ああいう所でする噺の方が身に滲むんじゃないですかね。カラスに千円札くわえる訓練して、銀行強盗させるんだ、なんて噺も、『このバカが!』と思いながら聴いてるんですよね。一生懸命聴く訳じゃ決してない。バカと思いながらも聴いてる、その身に滲み方が……。そういう風には、とても描けないですけども。その噺を少なくとも、その人間が語る熱度において語る、ということしか出来ないけども。……だから僕、アレ好きだったなァ。あの人達が囚われの身で自分の想像を熱っぽく語る、という行為そのものは、とても身に滲みたし。なぜか一生懸命やろうと思いましたね(笑)」
島田 ・あの原作で僕がなるほど、と思ったのに、懲役噺の特徴として、その場に居合わせたように語る、というところがありましたが。
森崎 「うんうん」
島田 ・映画の作り手にも、そういう風な所がありますよね。
森崎 「うん、そうですね。見てきたように語る……そうそうそうそう、講釈師、見てきたように、という、アレが、アノ嘘がいいんでしょうねぇ」
島田 ・例えば『党宣言』でヤクザに殺された実在の娼婦アイちゃん(上原由恵)が出てきますが、森崎さんは本物のアイちゃんはご存知ない。
森崎 「うん」
島田 ・でも、映画を作る時にはすっかり、知った人のような気分でいらっしゃるんじゃないでしょうか(笑)。
森崎 「そうそうそう、そうですね。そう、自分を騙すっていうか、そこいら辺がイイ加減だっていうのがありますねぇ、僕の性癖の中に。それはね、僕の親父にもあるんですよ。何かね、ちょっとオーバーに言うんですよ、話を。それが真実でなくてもいい、人が喜べば少々の嘘をついたっていいんだというのが……親父をあんまり貶めたくないけど。若い頃、満州に行ってね、『俺はロシア人とケンカしたんだ』って噺をする訳ですよ。『一本背負いでバァー!と投げてやった』……嘘なんですよ。嘘って分かる(笑)。子供達はみんな、『またその噺かァ』って、傷ついてる訳ですよ(笑)。でも、今考えるとね、あれはつまり、お茶飲みながらの座談の一つとして、サービスだったんだなァ、親父の」
島田 ・それはちっとも貶めじゃないです。いい話じゃないですか。
森崎 「だいたい僕の生まれた長崎県なんてのはね、ヘンな南国で、三輪明宏なんてオトコオンナが出たりして。あのう、やたらとホモが多いところでね」
島田 ・そうなんですか(笑)。
森崎 「子供の頃から『おなご様』って言ってたですよ。それは、ホモを差別してないっちゅうと嘘ですけれども。決して見下げてないですね。『様』づけですから」
島田 ・差別というより区別……。
森崎 「そう、区別。それで石牟礼(道子)さんが書いてる、熊本県の水俣の人達はキツネ・タヌキ・妖怪の類を『あんふと(あの人)たち』と呼ぶという。僕は学生時代に熊本にいたんで良く分かるんですけれども、要するにある尊崇の念があるんですよ。生活者の次元では隣近所の人のことを『あんふと』って、絶対に言わないですよ。それはもう、ほとんど見上げてますからね。キツネ・タヌキのことを『あんふとたちが来て、何か悪さして、帰らすばってん』という風に、言う訳ですよね。決していいことするとは思ってないけども、面白さを運んでくれると言うか……。沖縄なんかにもねぇ、何かヘンな妖怪がいると言うんですけども。
 その話をする時、ある種の尊敬があるらしい。というのはやっぱり、くだらない日常の中にある種の喜びが、っていうのがある筈ですよねぇ。『あんふと』がいないよりいた方がいい……。そうすると、さっきの『すかぶら』に似てくんですけど、映画を作り上映するっていうのは、本当に噺をするようなものですからねぇ。噺をするかわりにやってるという。うん、論文を書くかわりでは決してない」
島田 ・そうすると昔おっしゃってた「シナリオを作ることが映画を作ることだ」というのと、つながってくるような気がします。そこでぜひ伺いたいのが、今現在森崎さんが映画でどんな噺をやりたいのかということですが。
森崎 「……あの、映画化されないことが予めハッキリしているような気がするんで、あんまり話しても迫力ないんですけども。僕の家の近所に犬連れて散歩する時に、ゴルフ場を横切って海岸に行くんですよ。ちょこっと横切るんですね、端っこの盲腸みたいな所を。ちょうど公道が通ってるんですよ。で、僕が犬連れてもたもた歩くと、たまに盲腸から打つ奴がいてね、何か睨む訳ね。で、この盲腸をつっ切ると、森林が生えててね、ちょっと窪地になってる。そこにこう、テント張って住んでる人がいるんですよ。住んでるんです、そこに。あんまり冬はいないですけどね、暖かくなってくると、多い時は4〜5人いるんですよ。テントの中に。自転車が置いてあってね、通勤するんですよ(笑)。どこへ行くんですかねぇ?
 時々は笑い声がしたりしてねぇ。それで、ヒジョーにそこに行って『こんちはァ、今日いい天気ですねぇ』って、話しかけたいんだけども、ねぇ!? なんか出来ない。横目で見ながら、通り過ぎるだけなんですけれども。時々は僕が通る所に寝てたりしてねぇ。『どうも、おじゃまします』って、僕は行くんですけども。あのォ、大体酔っ払ってますよ、ええ。だから新宿の地下道にいるような人がいる訳ですけども。あそこへカメラ持ちこんで、ずうっといたいという……。なんか、例えば離婚した倍賞美津子みたいなのが、五歳位の女の子を連れて、何故かそこへいすわると。みんな、手を出したいんだけど出さないと。そこへまたヘンな奴が来て、わあっとオダ上げて、どっかへ行っちゃうみたいなこともあって。それで、それだけじゃ面白くないから、その五歳の女の子にホンのちょっとした超能力を。何か、じっと見るとこれ(と、机上のタバスコを取って)が少し動くとか。それだけのことなんですけどね(笑)。それだけでその女の子は幸せだという。おふくろも知ってて、『またやってる』みたいな。ただそれだけで、それがクライマックスで何か大爆発の契機になるってことは、ないんだけども。何かそういうような話を……。ある夜、ゴルフ場にウワーと電気が点いて、暴走族が走り回るみたいな……。何かそういう風なのを……。いや、それは毎日歩いてるから思いつくだけの話で、発展はせんのですけども……。あれで、ちゃんと僕がメモ魔だったりすると、行ってですねぇ、『こんちはァ、ちょっと話をきかして……』(笑)なんて、行くんでしょうけどねぇ。そういう勇気はないんですねぇ、僕は」
島田 ・でも、もしもそれを映画に、ということになったら、さっきの「それだけじゃ面白くないから」という部分がワーとふくらんで、頭の中がシナリオで熱っぽくなって……。
森崎 「あんまり熱っぽくなるのもね(笑)。なんだか他人に支配されるみたいでイヤだから。やっぱり『ベルリン/天使の詩』('88 W・ヴェンダース)なんてのは、熱っぽくなると、ああいう風になるのかねぇ。天使が図書館の中でニコニコしてる、という風に(笑)」
島田 ・あれはもう、熱っぽくなんないと出来ない映画ですからねぇ。
森崎 「もォー、あのロープのグルグル回るシーンも一生懸命撮ってるよねぇ。まさに映画的と言うか、映像的というのでもない、映画的。もう、そういうエロチシズムみたいなものを孕んじゃって。何だか、それを見上げている監督の顔が見えるような」
島田 ・エセ芸術家のやる「どうだ、美しいだろ!」ってのとは、違いますもんねぇ。
森崎 「違う。一生懸命。……そういう目で見られたいから、やっぱりあの(笑)女性観客が多いんじゃないかな。男の視線を感じるんじゃないかな。アレが当たったというのは」
島田 ・森崎さんのファンに女性観客はいるのでしょうか。
森崎 「どうでしょうかねぇ。こないだ今村学校(日本映画学校)に講義に行って。『党宣言』やったんですよ。あそこは女の子が多いでしょ。で、一番可愛い女の子をチラチラ気にしながら。最後に『質問をどうぞ』。そいつが手を挙げた。『はい君!』。『あのォ……監督さんはどうして、こんなイヤ〜な話を映画にするんですか』って言うのよ(笑)。もう、途端に平静心を失ってね。声が震えたなァ。『何言ってんだ君は!』だけしか、言わなかったけれども(笑)。あのォ、でも考えてみると、わざわざ暗い話しないでくれってことは、僕にも分かるんですよ。でも僕はラストは、嘘でも何だか、アイちゃんは死んだけど、あのフィリピン女(ジュビー・シバリオス)が手を挙げて(元気のいいセリフを叫んで)、いいではないか!と僕は思うんだけども。その女の子はダメなんですねぇ。原発労働者とか膝が腐る話とか、ヤメてよ……彼女にとって、つまりドラマとはみんなキラキラした、楽しいものでないといけないって言うんでしょうね。で、もちろんそうでなきゃいけないんだろうけども。アレは非常に痛かったなァ……」
島田 ・嘘をつけなきゃ、女にモテない(笑)
森崎 「そういうことかなァ。僕はああいう女の子こそ、紅涙をしぼりたいと思ってるんですけどね。ダメなんですねぇ、きっと」
島田 ・でも森崎さんの映画では女性がバシ!と活躍する所もあって、痛快に思う女の子もいる筈ですよ。『党宣言』でも倍賞美津子が猟銃をブッ放す……。
森崎 「あれはねぇ、原田芳雄がもう、反抗して反抗して。『何で女が!』『俺が撃っちゃいかんのか!』って言うんだもの、現場で(笑)。つまり流行りだと思ってんですよ、芳雄は。で、『今、流行りなんだ。ブルータスよ、森崎東もか!」って言ったもの。『女なのか!』『俺がやりたい!』って言うんだもの。そりゃ原田芳雄がブッ放せば、壮絶なものになりますよ。それも僕は好きなんですけども。でも、『あんたは歌いながら死ぬからいいじゃないか』と、僕は説得したんですよ。で、『朗々と歌いなさい』『いや、死ぬ間際だからそんなに朗々とは歌えない』『いいんだよ、朗々と。嘘なんだから』(笑)と。南米のガルシア・マルケスの小説で、自分の腸がぶらさがってもそれを(押しこみながら歩いた)……『アレを俺はやりたいんだから、あなた歌わなきゃいけないんだ』なんて論争したりして、実に不毛だったけど……」
島田 ・その「嘘なんだから」というのは、さっきの伝でいくと「噺なんだから」。
森崎 「うん」
島田 ・もし、あんなことが実際にあって、男がか細い声で歌いながら死んでいったとしても、噺として、映画として語られる時は……。
森崎 「朗々と歌いたいですねぇ!」