山田洋次というおのこ

対談者................ 森崎東 キネマ旬報編集者
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通巻................ 世界の映画作家14
発行................ キネマ旬報社
発行年................ 1972年1月
ページ................ 176-184
入力者................ H.IKEDA (小分けしました)


 聞き手(キネマ旬報編集部)最初に京都にお入りになったんですね。何年でしたか。
 森崎 三十一年だったと思います。それが京都が閉鎖になって、合同になりましたので大船の助監督に移籍といいますか、統合されて、それで自宅待機問題という例の合理化のあれがあって、自宅待機になる連中と、配転になる連中と出たんです。
 編集部 一番最初の山田作品は「なつかしい風来坊」でよろしいのですか。
 森崎 そうだと思います。
 編集部 この脚本の場合は、最初から一緒にお書ぎになったんですか。それとも。
 森崎 最初からです。雑談の、何かないかというところから始まったんですね。
 編集部 お二人のきっかけとか出会いは……。
 森崎 出会いは撲が京都に入って、そこに不破三雄君という京大時代、下宿が一緒だった親友がいた。僕は大学で何回生までいってもモタモタしていたんだけど、彼は大島(渚)と一緒に入っていたわけです。高等学校も僕は洋ちやんと一緒の頃、旧制高校を出ているわけですよ。僕はただモタモタしていたものですから、彼は先に入っちゃう。僕は大船の試験がないので、卒業も遅れるし、みたいなことで、ひどい就職難の頃でしてね。それで僕は映画をやりたくて、不破君に手紙を出したりしていたんですよ。それで、不破君が大船で共に語る同志みたいな者、Y君なる人がいる。一度ぜひ会わせたいからということで、たぶん手紙のやりとりは葉書くらいはあったかもしれませんね。その頃、彼は野村(芳太郎)さんのチーフ助監督でずっと本を書いていましてね、それから、一本撮ることになって自分が野村さんを抜けなげればならない。そのあて馬が一人必要であるというので、ちょうど会社の方針で、東西交流をしていたころですから、僕を紹介したんです。彼の二作目の「下町の太陽」に、僕は助監督でついたんですよ。本読みなんかやらされて、僕はすぐ肝臓を悪くして帰っちゃいました。それきりだと思ったら、そういうことになったんですね。で、野村さんとたて続げに何本か「拝啓総理大臣様」とか。
 編集部 ずっと、野村組について……。
 森崎 ええ、本直しとか何とか。それで、いつとはなしに、野村さんと両方、かけもちみたいになって、だんだん洋ちゃんが作品に入るときは、僕が必ずやると。
 編集部 助監督をですか。
 森崎 いえ、名前は出なかったんですが脚本として。その頃、ちょうど、移籍みたいなことになっていたと思います。
 編集部 キネ旬の資料の脚本で森崎さんの名前が出てくるのは六六年の「なつかしい風来坊」からですね。で、次の年が野村さん、山田さん一緒で「女の一生」というのがあり、そして山田作品で「愛の讃歌」があります。これは、やはりパニョルが好きで…。
 森崎 僕はマリウスを学生時代に見まして演劇を見たのは初めてだったと思うんです。高校の演劇部がやったんですが、とても印象が強くて、マリウスがやりたい、なんて話して、彼も、別にそう思っていたらしいんですよ。それでやったんですけど「愛の讃歌」というのは僕の作品じゃないような気がするんですね。 (笑)というのは僕が書いたラストシーン、その他後半というのは、全く洋ちゃんが書き直しているわけです。
 編集部 そうすね。確かに山田さんとの共同脚本見ていますと、これだけ異質という感じがしますね。でも、この頃、ほんとうに脚本が多いですね。年平均四本くらい。
 森崎 それは直し直しをやらされただけの便利屋扱いをされまして非常に汚辱の時代ですね。(笑)


  汚辱の時代の「吹けば飛ぶよな男だが」

 編集部  汚辱の時代にしては次の年に「吹けば飛ぶよな男だが」というのがありますが。
 森崎 だから洋ちゃんとの作品で何となく僕自身のものが入っていると思われるのは、 「吹けば飛ぶよな…」。これは最終的には僕がほとんど書いて、ほとんど直しが入っていないという形。ですから、厳密にいえば、これ一本じゃないかと思うんですよ。あとの共作は、やっぱり彼の世界であって、僕はアシストしたという感じですね。これは、ずいぶん本にかかりましてね。落語の「お直し」というんですか「お直り」ですか。小沢昭一さんと緑魔子さんみたいな夫婦がいて、奥さんは客をとっている話。自分も女房に惚れていて、若い職人が、しょっちゅうくるので、亭主が嫉妬して、最後、お直しだよ、というオチがつくみたいな、それを現代的にやったら面白いのじゃないかというところから始まったんですよ。で、例によってバカ話をしている中で作るわけですが、だんだん変形してきまして、あまりにそれは強烈じゃないかと。やっぱり若い者の話にしようや、となった。あれもなるべく洋ちゃんの世界に合うようにと思って、最初書いていたのですが、その部分を、むしろ彼が否定していったような、それじゃあ、おれの線で書いてみようというようなことだったと思います。
 編集部 六八年には「一発大必勝」が:…。
 森崎 それは入れていいのじゃないです か、洋ちゃんとのあれには…。

 編集部 これも森崎さんらしきものがありますね。それからこの年に「日本ゲリラ時代」ですか。監督は渡辺祐介さんですが、森崎さん一人で書いているのがありますね。これは全くオリジナルですか。
 森崎 ええ。今でもいわれますよ。あの映画にはまいったと。二度と、ああいうのを作ったら僕はポシャるのじゃないですかね。何でもいいから封切に間に合わせてくれという 事態がおきるんです。いいから書けと。こっちはどうせ監督の賈任になりますからどうで もいいんだとワッと書いちゃったわけです。とにかく撮らざるを得ない。今は管理が厳しくなってますからあんな事態は起きっこないと思いますが非常に悪評が高かった。(笑)
 編集部 異常に好きという人もいますよ。(笑)
 森崎 明らかに、僕は学生の観客を意識して書いたんです。ですから、全然洋ちゃんとの作品の観答イメージみたいなものと、全く違えて書いたんです。だから、洋ちゃんもびっくりしてましたが。山田作品の中で、僕自身が出ないというんですか、何といっても、洋ちゃんの世界ですから。そういうのが、ワッと出たのかもしれませんね。

 編集部 続いて翌年「男はつらいよ」シリーズ になりますね。
 森崎 これも洋ちゃんが渥美ちゃんのタクバイを聞いて、非常に感動していまして、 僕に渥美ちゃんのマネージャーが、テレビで 何かといったので、じゃあ洋ちゃんが書いて渥美ちゃんで、香具師ものでやったらどうかということから……。
 編集部 映画の「男はつらいよ」の場合も、最初から一緒に脚本を。
 森崎 ええ。テレビも、僕二本でしたか、「男はつらいよ」を書きましたからね。だから映画の中で洋ちゃんが作ったものに、何かを付加しているとすれ、前田吟のやった役ですね。あの親子。テレビには出て来ない。
 編集部 「男はつらいよ」シリーズのついでに聞きますと自作の「フーテンの寅」の脚本をお書きにならなかったのは何故ですか。
 森崎 いや、書いたんですよ。洋ちゃんが忙しくて、それじゃあと。あの頃、ンリーズにするかどうかが、はっきりしていませんで、姉妹編みたいなもので作れということで入ったんです。それで書いたんですけれども、それには洋ちゃんが人っていないんですよ。
 編集部 なるほどね。でも最終的には、森崎さんの名前が入っていませんね。
 森崎 いや、これを捨てて全然違うのを洋ちゃんが作ったわけです。これにも僕はどうなのかという危惧は、大変非常にあって、なんていうのでしょうやっぱり違うんですよ。
 編集部 どういう話になっているんですか。
 森崎 寅の屈辱物語なんですよ、小便飲まされるみたいな。あまりにもそれは、庶民の中の寅さん像みたいなものをくずしちゃうのでという洋ちゃんの意向もあって、僕自身もそれはくずしてはいけないのじゃないかという気がしていたものですから。それで洋ちゃんの脚本になって、寅さんが結婚しそうになる話、見合いとか何とかという部分は僕なんですよ。名前は人っていませんが。ストーリーにそういう形で僕は参加して、こういう話を入れてくれ、後はまかすと。それであこがれの新珠さん、あの人のエピソードは全く洋ちゃん。だから前半が僕の……。
 編集部 あれあたりはどうですか。花沢徳衛のヨイヨイのおじいちゃんが出てきますね。
 森崎 あれは、洋ちゃんが書いたものを、僕がそっと、かえちゃったんですよ。だから渥美ちゃんも、ずいぶん抵抗していましたけどね。寅さんと違うのじゃないかと。やっぱ僕はあの作品を撮って、これは全く洋ちゃんの世界であって、それに傷をつけるのは、いけないのじゃないかと。撮り終えたあともね。それで、洋ちゃん但会うたびに、「男はつらいよ」を撮り続けろと。

 編集部 森崎さんの処女作の「女は度胸」というのが大変好きで、調べたら「吹げば……」なんかの脚本を書いている人である。ちょっと面白い人が出てきたなという印象を持ったですね。それで「フーテンの寅」をみると山田さんとはやっぱり違う…と。
 森崎 しかし「男はつらいよ」に関してはあのスタィルのある語りロなり何なりをかえちゃまずいような気がしますね。
 編集部 「女は度胸」というのは、最初、シドニー・ルメットの「約束」を喜劇でやると聞いた時、私は凄いと思ったんです。「約束」というのはあれなりにとても面白く、好きなんですけれど、まさかあれを喜劇にしたら面白いなんていうことは考えられなかった。あれを喜劇でやろうと思いまして、という話を伺った時はへーと思った
 森崎 あれは原案は洋ちゃんですからね。僕は「約束」というのを見てなくて、あまりにも、まだ「約束」をやってすぐだったものだから非常に気にしたんですけれどもね。
 編集部 でも「約束」を知らないで、「女は度胸」だけ見たら、全然気がつきませんね。
 森崎 ああいう発想は、洋ちゃんの、とてもユニークなところですね。

 編集部 この後は「女は男のふるさとョ」。山田さんと森崎さんのシナリオが共作です。
 森崎 それは野村さんや加藤(泰)さんもやりたがっていて、洋ちゃんも藤原審繭さんの 本を読んでいたらしい。僕はある日呼ばれてこれをやれといわれて原作読んでみたら、緑魔子さんの役なんていうのは、ああいう俳優さんいるのかしらと思った。これはヤバイから、手を出したらまずいかなと思ったけど緑さんでいけるのじゃないかと思って、それじ ゃあやろうかということになった。で、あれには洋ちゃんが最後のハコを作るところまで参加してくれたのでとても助かったですね。

    洋ちゃん流の匂いをまぶす……?

 編集部 脚本の段階はどうだったのですか。
 森崎 僕が監督するということですから、洋ちゃんも、僕流の世界じゃないと、まずいだろうという形で参加してくれますから。ただ、僕は「日本ゲリラ時代」になるおそれがありますから、自分でも反省しているわけです。(笑)ああいうのを作っちゃうと、本当にだめなんですよね。作れなくなっちゃうんです。だからそういう意味で、洋ちゃん流の匂いをまぶして、というふうに考えるわけですね。それでそれはとても有効なんですよ。
 編集部 洋ちゃん流の匂いをまぶすということを、もうちょっと具体的に。
 森崎 僕の中に、山田洋次と非常に近い部分があると思うんです。渡辺祐介に近い部分も勿論ありますけれども、それで、いつも迷うわけです。でも、観客のイメージというやつが、多分、僕と山田洋次とは非常に近いのじゃないかと思いますね。だから、誰に見せるかみたいな、理論的に考えるわけじゃないけれど、例えばあいつなんかに見せて、批評を聞きたいなと思うのは、僕の知っている中では小学校しか出ていなくて、いま経営者になっていて、一家言を持っているような人がいますね。そういう人たちの批評を聞きたいみたいな。そこいら似通っている部分で。だげど、そういう人たちにはわからなくてもいいんだと。新宿で、若者に見てもらいたいというふうに考える場合と、それは作る人間の中でも分裂しちゃうんですね。だから「ゲリラ…」の場合は、明らかにそういうふうに考えて、他の一連の作品というのは、やっぱり、したたかな庶民の中で映画なんていうのは、うそよ、といっている人間に、いやいや、映画というのもうそばかりといえんぞ、というふうに作りたいと。彼らの心情に密着しながら作っていきたいということが洋ちゃんと非常に重なり合っている部分で、そこのところを離れてはいけないのじゃないかという気が、僕の中にある。だから、洋ちゃんが参加してくれると非常に安心感がありますね。内部的にも、外部的にも。

 編集部 先ほど、ファンの中には、山田さんと森崎さんは、同じような資質みたいなイメージがあるらしいというような話、出ましたけれども、私も実は、ずっとそう思っていたんです。それで森崎さんの第一作を見た時に、この人ずいぶん違うのじゃないかと。それなのに、よくいままで一緒にやってきたわね、みたいな印象を受けたんですけど、そういう話というのはよく出ますか。
 森崎 彼は、何といったって満州という植民地の高級官僚の子弟で、僕みたいな育ち方
と、全く違うと思うんです。年齢も少し違うことで、終戦体験みたいなものが彼の中ではほとんどないんだ、みたいなことをいっていました。そこいらの違いというのはあると思いますけれども、彼が話したことで満州時代に「路傍の石」でしたか、多分「路傍の石」だと思いますが、長崎の五島かどこかの田舎の出身の女中さんと一緒に見に行ったというんです。女中さんがとても優しい人なので、なついていて、彼を可愛がってくれていたらしいんだけども、とても映画を見ながら泣いたというんですね。それが彼にはとてもショックだったわけでしょう。女が、しかも大人が、画面と一体化しちゃってポロポロ泣いているというのはとても衝撃だったのじゃないかと思いますが、それが彼の中のある原点になっているような気がしますね。僕なんか終戟というものが原点じみたものにどうしてもなっちゃうんですが、彼の場合、映画だけでいえば、その女中さんの涙というのが彼の映画作りの原点ではないかとぃうふうに思うんですね。それは彼の激しい映画作りの欲求といいますか、昼間はああいうふうに女中さんで働いているけれども、暗闇の中の一時間半というのは全く違った世界を彼女の前に示すことができるし、一体化することができるんだ。それは彼を映画の仕事にまで引きずっていったものだろうし、彼が映画を作っている情熱みたいなものだと……。そのエピソードというのは僕はとても忘れられないですね。

 それからもう一つ、大学時代、彼は引揚者だから、一挙にプロレタリアに転落するわけだけれども、そこらも僕とは違う。僕は、のうのうと親父のスネかじりで酒ばかり飲んでいた。彼は酒も飲まずにアルバイトの肉体労働をしながら大学を卒業したわけですね。そこらがまた、体験として違うわけです。やっぱり彼の終戦の前のブルジョア的とうかプチブル的な生活。白系露人の芸術に対する気持ち。バレエ団がくると馬車に乗ってかけつけるというものを見た生活と、大陸での高級官僚の息子として見た生活と、それから自分で大学を出なげればならないという、その頃彼のご両親は、別れていていろんなことがあったりして、この中で自立していかなげればならない。すごく思想的にも左になったのでしょうが。朝鮮人の監督がいまして、彼を可愛がってくれて、ほかの土方どもはやっぱり東大のアルバィターなんかだというと、いじわるしたんでしょう、彼を非常に庇ってくれたというんですね。「ヤマタ、オマヘ、モウイイヨ、コッチキテ、ヤスメ」なんていうんですって。その話も僕は非常に忘れがたいんですよ。女中さんと何かつながっちゃうんですね。女中さんは、明らかに使用人である。使われていて、むしろ彼らが支配していたというか、彼の家には、どうせ満人の女中さんもいたわけでしょうし「ヤマタ、モウ、ヤスンデイイ」といわれたときの彼のある逆転、といったら非常にドラマチックでオーバーだけども(笑)そういうものが体験としてある。その前の彼の体験。しかもその感動したものが続いていますね。長崎県の片田舎からの女中さんへの人間的な感動と、朝鮮人への人間的な信頼というか、感動というものは、全くつながっていて、彼の置かれた境遇としては逆転していると。

 それで、この間話していたら、おれたち映画作っている連中には本当の生活なんかないんだよな、なんていう話が出たんですけれども。彼の家に水道の配管屋がきたというんですよ。水道配管なんてほとんどヤクザな商売で、その辺の立ちん坊を仕込んでやるというような肉体労働の中でも釜ガ崎、山谷風なものですが黙々と仕事をしていって、お茶を出して、それを飲んでちょっと話して帰ったというんです。倶梨伽羅紋々の凄い入れ墨をしていたというんですね。おとなしい男で、結婚した話なんかをして帰ったというんだけど、つまりおれたちに全く失なわれた生活みたいなものが、そういう人たちの中にははっきりある。それは小説になったり、文芸化されなくてあるんだけれども、あの人たちの力がよほどおれたちよりはっきり生きているといえる。生活の実態なりをつかんでいるというか、実態そのものであるというような話をしたんです。それも僕の中では女中さんと、朝鮮人の監督と。その配管工と…彼は一家をなして、世田谷あたりにいい家を建てたでしょうけれども。(笑)そこに、きた人に対する人間的な共感といいますか、その三つの話が、とても僕の中に残っているんです。その一貫してあるものは、やっぱり大学出てサラリーマンになったり、あるいはマスコミに関係している人たちの世界には空虚なものしか見あたらなくて、彼自身も、僕自身も含めてですが。それは、管理社会の中で、算盤はじげば出てしまう、課長になって、部長になって、お終いさ、という人たちとは、全く違うわけですからね、そういう人たちに対する何というんですか共感といいますか、むしろ尊敬を含めたもの。頭が上らないようなものの感覚といいますか、そういうものは一貫していると思うんですね。それに火をつげたのは僕流にドラマチックに解釈すれば、五島出身の女中さんの泣く姿を見たときから始まったのじゃないか。その人間的感動みたいなものが、つまりたまたま映画だったのでしかも「路傍の石」という名作だったわけで、それが非常に偶然的かもしれないけれども。彼の映画を作る一切のものになり得ているし、映画を作って何となく文明批評をしたいとか高名欲だとか、そういうものと全く離れた部分で彼は映画を作り得ていると思うんですね。それは全く分裂していなくて、情熱として拡大されていく。そういう作品を作る。それだけのある反応がある。彼の中で、それ自身としてまとまっていく。それが「男はつらいよ」で花開いたという感じがしますね。
 編集部 森崎さんがいま話されたことは、僕は観客の側なんですけれども、作品の中を通して非常によくわかるような気がしますが……。

     生涯「男はつらいよ」を作るのだ!

 森崎 彼はチャップリンというのを非常に尊敬していてあの笑いとぺーソスの中で語られる人間の真実みたいなものを、自分にないものとしてむしろあこがれるという形でそれに近づこうとしているわけですね。彼は 僕に一度「生涯、おれ、『男はつらいよ』を撮り続けようと思うんだ。そういう監督がいたっていいじゃないか」というふうに言ったんです。とても僕は立派だと思ったんです。本気で言ったかどうかは別として、そういうことが言える。「男はつらいよ」というか、喜劇ばかり撮り続けたある監督がいましたということでいいではないか、というふうに言い切ってしまう。そう言い切れないんですよ。助監督というのは必ず大学卒業のある疑似エリートの部分で競争でやってくるわけで、同世代はああいうふうに華々しくある既成のものを破壊する形で出ていった中で、彼自身があくまでも自分の原点みたいなもの、原感覚みたいなものを増殖させていって出る言葉だと思うんです。なかなか言えないですよね。つまり、大向うを捻らせるようなことをやりたい。大向うというか、この場合は民衆でなくて、批評家ですけれども。チャップリソが言うように、観客が笑いころげてボタンがちぎれてしまって掃除のおばさんが掃除に困るような作品を作りたいという彼の願いというのは非常に強烈にあるわけで、その場合チャップリンに対する批評家的批評とか、文芸批評にまでつながる高度なものという感覚でチャップリンに近づいているわけじゃなく、彼がチャップリンの作品を見て受ける感動と女中さんが見て受ける感動と全く重なり合い得るということで、彼はチャップリンに無限に近づこうとしているわけで、だからその部分はとても彼の中で大事だと思うし、僕にも大事なんですげれども、喜劇だけを作って終わる監督がいたっていいじゃないか、という言い方は、ブルーリボン賞をもらったり、喜劇に対する彼の自信みたいなものの表現でもあるのですけれども「家族」を作った後だと思うんです、あの言葉というのは。だからその言葉を僕は全的に肯定したい。僕はそうはなりきれないという気はしますげれども、それは山田批判ということでなくて、彼は素晴らしい監督であるし一つのユニークな資質だと思うんです。それは誰も真似ができないのではないかという気がしますね。

 編集部 五島という話がでましたが、森崎さんは長崎の出身ですね。
 森崎 生まれが島原で、すぐ僕は大牟田というところに移ったんです。そこは昔から公害のものすごい町で非常に開放的だけど奄美大島とか世論島の人たちが来て、朝鮮人以下に差別されながら生活してきたという、酷い歴史を持っている新興都市で、島原と全く違うんです。島原というのは城下町で人情豊かな、ある意味で閉鎖的な町で彼には大牟田での生活みたいなものがなかっただろうと思うんです。僕には大連での生活というのはもちろんなかったわけで、そこいらの、葛飾芝又に類する日本人の民衆の“心のふるさと”みたいなものが彼の中にはある。外地から見ていて、大連という非常に風光明媚なところにいて、しかもまた、日本に対する特殊な外地人の見方というものから出てくるでしょうけれども、それは美しくなければならんと思うんですよ、僕は。僕のイメージというのは、島原は美しいけれど、第二の故郷である大牟田というのは粉塵の町であり、しかも、僕がもの心ついたのは大牟田の方で、そういう連中が持っている価値観、批評眼みたいなものは非常にしたたかなものであって育ち方の違いだげでいうと違ってくるでしょうけども、そこいらは、民衆のふるさとである原型みたいなことは、非常に美しくなげればならんと同時に、それが窒息するぐらいの荒され方になっているという、その掛け値なしのギリギリの失われていく日本人の魂のふるさとみたいなものが、もう残り少ないのだ、という感じがどうしてもするんです、僕は。だからそれに対する反発といいますかイライラといいますか、その方がむしろ僕は出てきてしまうわけで、彼の中では現実がそうなんだから、大牟田なんだから、島原のほうを語ろうよというふうになるわけですね。彼は常にいうんです「現実が砂漠ならば、おれはオアシスを作るのだ」と。それはそうであるべきではないかという気もするんです。僕は。ただ僕は島原の人たちに見てもらうよりも、大牟田の連中に見てみらいたいという観客のイメージの違いみたいなものがあると思います。だから、どうしても美しい故郷よりも荒される故郷みたいなもの、荒される魂の方、すさんでいく魂みたいな方に自分自身を重ね合わせる。彼は荒されないで残っている、信頼するに足る、非常に純にして美なるものを残したい、それを現実に見たいといいますか、配管工をしながらも、朝鮮人でありながらも、そういう魂を持ち続けている人たちがいる、それはとても美談で忙ないか、それを表現するならば葛飾芝又であるし丹波篠山であるということになるのではないかと思います。
 編集部 森崎さんとのこのインタビューの前に、山田さんと品田さんの対談がありまして「馬鹿が戦車……」の話あたりから出て来たのですが、木下順二や、風の又三郎的世界を非常に熱心にされたんです。ぞの“日本人のふるさと”への指向と同時に、山田さんの喜劇というのは、今までの喜劇にはない、一種暴力的なものをもち込んだと思うのです。例えば死体をふりまわしてしまうような…;。
 森崎 そうなんですよ。「馬鹿が戦車でやって来る」だとか「一発大必勝」だとか、その他の一連のハナものにしても、いままで僕がいってきたような部分もあるけれども、とはいうものの彼の中に現状爆破的なもの、暴力的なものを彼は含んでいるわけで、それがいまのところ落語の世界ということで、ある非常に醇美な形で民衆の中に残されている落語の世界みたいなものに仮託されているだけで、彼自身の中にあるものは朝鮮人にそういわれてホッとする。なぜホッとするかというと、その前の疎外状況というものがあるからで、それに対する怒りみたいなもの、そういうものが彼の発想の中にあると思うんです。だから、思わぬ非常に暴力的な…。
 例えば僕が一番好きなのは「運がよけりゃ」という作品なんですが、勿論、落語をそのままやっているわけですけれども、山内久さんが書いた第一稿というのは非常に高級といいますか、文明批評を含んでいたらしい。そういうものに対して 彼は非常に違うと思うらしい。文明批評なり高度なものに対して、もっと低級でなくちゃ いかんという、なくちゃいかん、というよりも、彼のプリンシプルとしてそうじゃなくて 彼の肌に合わないというか、つまりそんなものでは女中さんは泣かないしということがあると思うんです。それで、何力月もかけて、山内ざんの別荘まで日参するぐらいの情熱をかけたものを、山内さんというのは一流の人ですから、でき上がったものは第一級のシナリオだったと思うんですが、それを非常に短い時期であぶら汗流しながら書き直してしまった。その自分への忠実さというか、批評家だとか何とかということを全く脳裏に浮かべず彼自身が見せたい自分が見たい作品を作ったという、それは非常に激しいものであろうと思うんです。
 落語というのは江戸芸術でいわば旦那衆が見て笑うみたいな、庶民たちも旦那の気持ち肛なるみたいな部分を持っていると思うんですが、勿論、そうでない実存的な落語というのもありますげれども、その世界の中にある故郷回帰みたいなものを仮託し ているわけで、そっちのほうの疎外に対する怒りみたいなものが出てきてないと毘うんです。
 彼の中にあるものは、今度アメリカにも行って感じたという、人づてに聞いたのです が、やっぱり大都会の中の疎外状況を描きたいというふうに彼はいったというのですけれども、そういうものがあると思うんです。
 僕等の学生時代はストライキの連続だったのですから。ですから二作目かな「男はつらいよ」で僕がフラッと洋ちゃんのセットを見にいったら、渥美ちゃんが手錠をぶら下げてヘラへラ笑っているんですよ。とても洋ちゃんの世界だという気がしましたね。つまり香具師が手錠をぶら下げてヘラへラ笑っているみたいな、こんなやつに手錠をかける奴というのは悪い奴だと非常な説得性としてあるわけでしょう。それだと思うんです。
 いつか河原畑寧さんに喜劇論を僕がしたら、あんたはそう理屈っぽくいうから洋次に劣るわけで喜劇なんか理屈じゃないと。私が喜劇というので思い浮かべるのは、彼が新聞記者時代にサツ回りしていったら労務者がつかまっていて婦人警官がどんぶりものをすすめている。いいから食べなさい。お金取らないのだからと。食べないというんです。「どうして食べないのかと思いますか」といわれたので「銭を払わなければならんと、その労務者が思ったのでしょう」といったら「と、みんな思うでしょう。そうじゃないんです。しきりにすすめられた あげく、労務者がいうには「だって、『はしがねえもの』といった」と。(笑)洋ちゃんの世界でやれるものですよね。ナンセンスに無限に近い。
 河原畑さんは、それが喜劇だという。頭で作り上げたものではなく理屈抜きのものなんだというわけです。洋ちゃんは、それができる、というかその能力があるんですね。僕はそれをすぐ、そこで笑われたのは労務者ではなくて親切づらして形骸化されたモラルであるところの婦人警官であると、どうしても思ってしまうわけですよ。でも、そういう理屈の作業を経て笑いは出るわけじやなくてナンセンス的な効果で笑うわけですね、だって、はしがないものという。でも、僕はなおかつ笑われるのは誰かというふうに考えてしまうんですね。笑われたのは労務者の方じゃなくて、婦人警官の方だろうと。その発見の喜びみたいなものが笑いを支えるのだろう。
 だから、寅さんの中で語られるものもそうですよね。寅さんの中で無機質的にナンセンス的にドッ 来るものの中には必ずそんな人問の中に残っている楽しさみたいなものであって、逆にいうとそんな人間を生息させない疎外状況というもの、管理状況というものに対して笑うことができるから、よけい楽しいということなわけでしょう。洋ちゃんはいろいろいわないで、エピソードだけでスパ一ッというわけでしょう。僕はいろいろ喋らせると一晩中喋るけども具体的にエピソードが出てくるかというと出てこない。 (笑)
 ついこの間会った時、彼、自分の作品をかかえてウンウン唸りながら、宮崎晃君の「泣いてたまるか」を手伝っていたんです。で、何か話しているでしょう。すると鉛筆を持って、スーッと書き始めるんですよ。しょうがないから黙っているとダーッと書いていくんです。僕は、「すぐ書けるからいいな」といったら「そうよ、息を扱うように書くのよ」と答えた。それは、僕がずっと前にいったことなんですよ。太宰治が「小説家というのは息を吸うように吐くように小説を書かなければならん」と。さあ書くぞと何かインスピレーションを得て書くみたいなことでなくて、しょっちゅう書いているという。文学そのものは息を吸うような、吐くようなものでしかないと。彼の作品は息を吸うように、叶くように書いたということ。それを彼は自分のものとしていますね。僕が何年か前にいったことをちゃんと覚えていて、彼の中では非常にそれは重要だったわけですね。僕の方は言ったことを忘れている。あれ、こんなことを覚えていやがると思ったんだけれども。彼は非常に誤解されるんですね、むっつり黙り込んでしまうので。気難かしい奴だというふうに皆んな言うんですげれども、そうじゃなくて、ほかのことをほとんど考えないという頭の構造になっている。だから、スーッと鉛筆を握れると思うんだけれども、それは、全くものを作る人問の基本的な条件であって、ガタガタ僕みたいにいうのは評論家になればいいんで、それではメシが食えないから作っている。 (笑)
 彼の頭の中は作品を作るために占められていて、よけいな、黙り込んでしまったらあいつはどう思うだろうとか、そういう末梢神経的な対人関係みたいな、そういうものに対する末梢神経が疎外を生み出していくと思うんですげれども、そういうものから全く自由であるというところがとても素晴らしいし、それは、逆にある疎外状況を撃ち得ると思うんです。それから洋ちゃんの中で意識されないで、彼が持っているある暴力性への傾斜というものを、僕は意識的に考えてしまいますね。というのは、僕はちょいちょい酒飲んで暴力をふるったりするわけです。自分のイライラなり、何か憤懣なりをそのままストレートに吐いてしまいたいという、精神生理学上のそういう作用だと思うんです。彼はそれを非常に距離をもって見ますよね。暴力的なエピソードを、非常に距離を置いて見ることができる。そして、その暴力的な構造みたいなものをちゃんと見ているということがありますね。