深夜興行のベスト・テン映画を作るのだ!

対談者................ 森崎東 前田陽一 白井佳夫
出典................ キネマ旬報
通巻................ 560号
発行................ キネマ旬報社
発行年................ 1971年9月上旬号
ページ................ 76-81
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 深夜映画はアートシアター
 
 白井 この間、こういうことがあったんです。五社の若手プロデューサーや監督と、ぼくが飲んでいた。そうしたら、いまは五社をやめて、芸能プロにはいっているプロデューサーと会った。するとそのプロデューサーが、五社所属の若手に対して、からんだ。「お前たちは、まだ五社にいるのか。あんなものは、どうせ早晩つぶれちゃうんだ。その中で、お前らがやっている仕事というのは、実にむなしい。くだらない。むしろ現状をより堕落させることにつながっている仕事だ。早く、安く、手軽に作品を作れ、という至上命令の下で、汗水たらすことの愚劣さを知れ」と口をきわめて罵倒した。ばくは、正直いってちょっと腹が立った。いわぱ、戦線を放棄した人間が、なお戦っている人間に対して、そんなことをいう権利があるのか、と思った。しかし、そういうような考え方が一般的にあるのも一つの事実です。そういうことに対して、単刀直入にどう思われますか。そういう目が、いまや五社内に働いている人間に対して、非常にあること。その辺から、まず伺いたい。実はその時ぼくほ、その人に「じゃあ芸能プロに行ったあなたは今、いったい何をやっているのか」ということを聞いた。そうすると「おれは実は芸能ブロの仕事以外にプライベートに、ATGで、ある巨匠監督に良心的一千万円映画を撮らせようと思って、苦心さんたんしているんだ」というような答えが帰ってきましだが。まさにここには、ある典型的な映画の情況把握のパターンがありますね。
 前田 俗な言い方をすれば、今、五社外で一応仕事をしている人たちは、実は五社内にいるとぎに、外で作品をつくっても一本立ちできる自已の母体みたいなものをっくって出たわけでしょう。早い話が、女優をワイフに持って出るとかね……。(笑)最初から外でスタートしていて、仕事ができるかどうかということは非常に疑問ですね。まあ、今おっしゃったような話というのは、いろんな人から、われわれなんかも聞くわけですけれども。
 森崎 「五社の監督」というふうに、一口にいわれると、ある抵抗を実感として感じますね。今から映像の仕事をしようとする人たちが、五社に見切りをつけて、新しい技術的な映像創造の活動をしようというその心情というのは、非常にぼくは理解できるし、共感もするところがある。だが、ぼくたちが日本映画を堕落させている、というふうにきめつけてしまうのは、それは、ぼくたちの仕事に対する妨害だ、というふうに思うわけです。うまいいい方ではないけれども、たとえば、そのプロデューサーの方がアート・シアターで巨匠作品を作られる。アート・シアターで実にりっぱな、これこそ日本映画だというものを上映なさる。一方にそれを鑑賞する人たちがいる。これはとても、すばらしいことだとは思うんですけれども。ぼくは深夜映画の観客たちが、主演俳優に拍手を送り、監督に拍手を送る。そして「こんなおもしろい映画を見せてもらってありがとう」といいながら、帰る。それはある意味でアート・シアター以上のアート・シアターじゃないかと思うんです。だから、ぼくは前にもいったことがあるんですけれど、深夜映画でべスト・テンに入る作品が作れれば、ぼくは死んでもいいという気持ちなんです。そういう気持ちでいる。もちろん、五社の資本の走狗となっているというふうには全く考えない。日本映画の復興といった問題を考えると、それは資本としての日本映画が復興するのか。実質としての日本映画が復興するのかという問題がからみ合ってているけれども。深夜映画を、ATGのア一ト・シアタ一よりも高級なアート・シアターだとするならば、それはつぶしちゃならないわけであって。そのア一ト・シアターを維持したいと思う。非常に貧しい言い方ですけれども、そういう反論ですね、ぼくは。

   喜劇がもつ鋭利な刃


 白井 森崎さんの言った「深夜映画のベスト・テンに入れば死んでもいい」という言い方を、ぼく流に別の言い方をすれば、芸術としての映画を作っていきたい、という気持ちを持っているんです。アート・シアター的な意味での「芸術映画」でほない「芸能」としての映画をね。
 森崎 五社に残って仕事をするのは、日本映画を退廃させているんだという言い方は、ある意味では正しい側面があるとも思うんです。ただ五社をやめた人が、アート・シアターで、巨匠で、芸術作品をつくることが、日本映画を前進させているのであると、アプリオリに考えるのであれば、その考え方は非常に権威主義的だという気がする。その権威主義が、日本映画を堕落させた。そこのところを全く抜きにして、五社イコール退廃だというならば、民衆イコール退廃だという図式にまでつながるわけであって。だから権威主義でもって批判されることについては、明らかに「それは権威主義である」というふうに、ぼくはいわざるを得ないですね。それ以上になると、弁解がましくなるから、やめるけれど。
 白井 その五社の中で、より具体的にいえば、ほかならぬ松竹にいて、お二人とも大体このところ喜劇映画を撮っておられる、ということの自分で考えている意味というのは、いったい何ですか。これは一口にいうのは、大へんむずかしいでしょうけれども。あえてお聞きしたい。
 前田 意味より先に 外に出れば、ぼくは現実的に映画を撮れませんね。やっぱり五社にいて、一本、会社の喜ぶものをつくれば、その次は多少自分のやりたいものをやれる、といぅ中で、つくっているわけですよ。白井さんが前に、五社内の規制と拮抗しながら映画を作ることを書かれた。が、そういう場に身を置く人間として、それはやや、どこか、それに甘えやすい弱点があるとも思って、その辺はぼくたち、非常に警戒しなげればいけないと思っているんです。
 森崎 その甘えというものは、自分自身で切り捨てるよりしようがないものなんですね。
 前田 結局、とことんまで行くと、みんな個人の問題になってくる。
 森崎 ぼくは山田洋次とも、深刻な話になると、必ず持ち出すんですけれども。ブレヒトが、いい芝居と悪い芝居を分ける基本的な分け方は、一つしかない、といっている。たとえばあるコミュニストが弾圧に抗して、感動的な最後を遂げる、という芝居をつくったとする。そうすると、民衆はもちろん、資本家もまたそれに感動する芝居ができることがある。ただ資木家は、その場合こういうだろう。「あの芝居は悪くない。しかし、一つだけ間違っている。あれは非常に感動的なもので、私自身も感動した。しかし主人公のいだいた思想が間違っている」と。つまり、資本家をも感情的に感動させてしまうような作品、それは悪い作品である、とブレヒトは単刀直入にいうわけです。資本家が苦虫をかみつぶしたような顔になる芝居を書くべきである、と。これは、五社の中にいながら、実質的には資本の走狗でありながら、こういうことをいうのはおかしいけれども。つまりぼくたちの考え方として前田君がいう「甘えるな」ということはそこだと思うんです。さっき白井さんの出した質問につなげていうならば「文部大臣もが泣いた」どいぅキャッチフレーズが昔、ありましたけれども、ぼく自身は少なくとも、支部大臣を苦笑いさせたい。非常に苦い笑いをさせたい。それは民衆にとっては、非常に解放的な笑いであろうと思う。非常に大上段になっちゃいますが、ぼく自身作品を作りながら、意気阻喪してしまうのは、そのブレヒトの一言なんですね。資本家も感動させるものを作るべきだ、という言い方はいまやある種の前衛の中にも通る理屈になったしまったわけですね、しかし、喜劇においては、明らかに、それを見て笑うやつと、笑わないやつが出てくると思うんです。そういう点で、非常にはっきりするのじゃないか。涙といぅものに、ブレヒトのひいた例にも、あるよう「いい話であるが、しかし、いだいた思想が間違っている」ということで、おしまいになってしまう部分がある。だが、笑いというのは、もっとわからない部分があって笑わないやつが、民衆の中にもいるみたいな。階級をこえて笑ぅやつと、笑わないやつが分かれていくみたいな。喜劇というのは、ある鋭利な刃を持っているよぅな気がするんですね。
 白井 笑っているうちには、ほっぺたがこわばってきたりするような笑いの映画、ですね。
 森崎 しかし、それをつくるということは、つくるてめえ自身は、声高らかに腹からの笑いはできないわけであって。それは個人的にいえば、非常に苦痛なんですけれども。それは前田君も同じでしょぅ。渡辺祐介君も、ちょいちょい手紙をくれて「喜劇をつくるのは、胃の腑が痛くなる作業だ、といった、あなたの言葉が思い出されてしようがない」みたいなことを言う。確かに胃の腑が痛くなりますね。というのは、結局とことんまでいくと、前田君がいってるように、自分自身に戻ってこざるを得ないから。それは悲劇を撮っても、オートバイを乗り回す若者を撮っても、結局、自分に戻ってくる問題でしょうけれども。
 

  五社映画を持続して見る!

 前田 しかし、実はこの間「映画批評」誌の五社内で働く監督の座談会に出て感じたことは、こうなんです。五社にいる人問は、あれだけ外の人に「五社でいつまでも撮っていていいのか」なんていわれて、もっと劣等感みたいなものを感じているのかと思ったら、ぼく自身も含めて、意外とないですね、そんなものは。それはなぜかというと、たとえば、ぼくが五社以外でつくるといったら、自分がつくりたいものをつくれるか、ということを考えた場合にね、逆にぼくなんかは、外に出たほうがずっと不自由だろう、といぅ実感がある。早い話が、予算的なことからテーマまで、例えばATGで流すのならば、まずはATGらしくしなければいけない、みたいなことがありますね。そういう非常に不自由なことがある。実は五社で撮っていた人が、ATGで映画をつくる場合に、なぜあんなに変わるのかということが、僕は不思議でしようがないわけです。ATGで撮ったらATGらしくなっていくというとことに、ぼくは何かウソがあるような感じがしてしようがないですね。
 白井 それはぼくなんかが考えても、たしかにあります。一千万円の枠しかない中で、よい意図を持って作られた映画なんだから、見る方も一つの枠をもって見てやらないといけない。そんな眼が、批評する側やジャーナルの側にもある。そのなれ合いが、結局、映画というものの総体を、せまいものにしてきてしまったところが、あります。たしかに。
 森崎 これは、ほんとうの話かどうか知りませんが。非常にうがった笑い話だと忠うんですが。ATGの人が、ある五社出身の監督が作品を撮ったら「もう少しわげのわからないような作品にしてくれ」といったという。(笑)「わけのわかるような作品は、ATGじゃ当たらないんだ。もっと、わけのわからないようにしてくれ」と。これは、非常にばくは、うがった話だと思うんです。それで前田君がいったことにつなげて、もっと論を進めるならば、ぼく自身も、来年は撮れないのじゃないか、と実は腹のそこでいつも思っているわけですよ。たとえば五社のうち何社かがつぶれれば、そこの人が松竹で撮るという話が当然出てくるでしょうぼくよりも、非常に腕のちゃんとした人がね。それについて、ぼくたちは何とも言えないし、言っちゃいけないことでもある。そうなると現実的に、いま五社外で撮っている人たちは、ある種の保証がある。が、こういう言い方はおかしいですけれども。ぽくらは、ここ一年、二年じゃないか、せいぜいそんなものだろう、というふうな思考があるわけですよ。そうすると、やっぱり女房、子供の顔をながめながら、二年先は、こ
いつらは路頭に迷ぅんだな、とも思うことがあるし、そういぅものもちゃんと踏まえているつもりでいる。それを抜きにした五社イコール退廃だ、という非常にのっべらぼうの論理というものは、全く非現実的だと思うし、全くナンセンスだという感じがするんです。ぼく自身の内部では。
 白井 近ごろ、映画雑誌を作ってて、井常におもしろい現象がある。いまキネマ旬報は、読者自身の書くページを、非常にふやしているんですが。圧倒的に若いらが見ている映画というのは、五社映画が非常に多いですね。しかも、それを持続して見ていますね。映画をつくる作業といぅのは、ある作家の持続運動である、みたいな視点があるわけす。だから「日活二ュー・アクション」なんていう称をつけ、若い日活映画の芽をひっぱり出すというような反応が、読者のページからピンピン出てくる。そういうことには常に敏感ですね。一品製作で大芸術のATG映画よりも、一木撮るごとに、一寸、一分ずつおのれを通していく五社の中の人たちがつくっている映画のほうに親近感を感じている、という部分がある。そういう、リラックスした戦闘、というとおかしいけれども。最初から前衛に突入してしまわないで、非常に平明な、日常的な次元を踏まえながら、一作撮るごとに、おのれを通していく運動の総体が、結局いまの日本の社会に生きているおのれたちの生活とも、直線的につながってくる連動だ、みたいな視点がある。キネ旬を作っているぼく自身が、五社内監督と同じような闘いをやっているんだ、という自覚があるだけに、これは非常にうれしいことだと思ってるんです。

   鋭い優しさに感動する

 森崎 それがいちばん特徴的にあるのは、日活ですね。沢田幸弘さん、藤田敏八さん、長谷部安春さんたちの一連の作品というものが、作家内部のいらだちを逆転しながら、いい作品を、現実的に結実していっているという事態が、現実にあるわけだし。それを若い人たちが、ちゃんと認めているわけだし。
 前田 それは松竹勢もやっているんだけれども。やっぱり喜劇よりも、アクションもののほうが、そういうふうにストレートに見えやすいところがあるんだね。(笑)喜劇だと、なかなかそういうふうには見えない。
 森埼 いらだちとしては、直線的に出ないということがあるんだ。(笑)
 白井 だからこその一作一作を見ている目が、非常にユニークなわけですよ。たとえば、沢田幸弘監督が女子学園シリーズの中で「ヤバい卒業」を撮ったわけです。これは、ぼくは彼のこの映画だけは見ていないんですが、非常によくないんだそうです。そうすると、それに対する若い読者の批評というのは、 「沢田さん、土下座してあやまってください。ぼくたちがあなたにかけているものが、非常に大きなものであることを、もっと自覚してください」という形になるわけです。 「ぼくたちは、あなたに期待しているんです。こんなことをやっていいんですか」と。そして、そのあとがいいんです。「そうして、それがわかったら、すぐひざのどろをはらって、立ち上がってください。次の作品に向って」といぅ風につづいていた。
 森崎 いいですねえ。つまり、そういう心優しい叱陀というようなものには、うたれるな。いまだかつて、日本映画の中で、そういう優しい言葉を、観客が監督に投げつけるというか、そういったことはなかったと思うんです。それがとても素晴らしいことだと思うんです。
 前田 そうですね。最近のキネ旬の読者の批評を見ると、けなされても優しさみたいなものがあるから、ふしぎですね。あれが一番専門の批評家にはないところじゃないかしら(笑)。
 森崎 やさしいですよ。ぼくは「高校さすらい派」の、誌上に出なかったものを含めて六つか七つの投稿を読ませてもらって、ほんとに徹夜して返事を書きましたよ。みんな一人一人にね。ついに出しませんでしたけれども。
 白井 それは、ぜひお出しなさいとよ。なぜ出さないんですか。
 森崎 とても優しいんですよ。その優しさを上回ることはできないですね。ぼくの返事は。ただただ、胸の中で、ありがとうと言うほかない。つまり「お前さんはだめだ」という言い方に対しても、優しさだけが、ぐんとくるわけで。だから、いい加減な返事は出せなかったですね。書いたまま、いつか自分で読み返そうと思って、本棚の中にしまってありますけれども。ぼくたち以上に見てくれている、という言い方が通用するように思うんです。非常に鋭い優しさというものがある。
 白井 おのれ自身のこととして、見ているみたいな鋭さと愛情が、ピーンとくる。あまりほめすぎてもいけませんが。
 森崎 批評でめしを食っていないことの純粋さがある(笑)。若さということが、もちろんありますけれども。しかし、めしを食うことが、退廃にすべてつながるという乱暴な意見でいうならば、つまり五社は、何も五社の監督の生活を保証していないわけでしてね。前田君にしても、ぼくにしても、そうだし。前田君はまだ借金が、うんと残っている。それでやけくそで酒を飲むみたいなことがあるわけで。(笑)
 前田 よけいなことを言う。(笑)
 森崎 つまり、そういう形での甘い生活への契機なんか、われわれは、全く持たされていないわけですよ。
 前田 五社にいれば、家が建つというものでもないですしね。
 森崎 だから、白井さんの「もうやけくそだ。いいものはいいと言い、悪いものは悪いと言わせてもらう」という言い方が、非常にぼく自身の場合に立ち返って、いいものを作って死ぬんだ、ということしかないですね。だから、助監督連中によく言うんですよ。「監督になれないという予測を先取りして、あまりグレるなよ。一本撮って死のうということを合言葉にしたらどうだ」と、いうふうに。だから、いまの助監督は、一本撮って、みんな死んでほしいですね。ぼくも含めて。ぼくは五本撮りましたけれども。六本撮って死のうよ、と思うわけですよ(笑)。

    悔い多き戦いの連続!

 白井 ある時代までの映画というのは、みんなが他人ごととして見ていた、他人行儀なお上品芸術だった、みたいなところがあるような気がする。あるいは。おのれのこととして見ていても、それは観念的な芸術論や、政治論なんかとして見ていた、という部分があるわけです。が、この頃の若い人たちの映画の見方を見ていると、要するにストーリーを読んでいないんですね。作家が画面の中でいいたかったものを、正当な意味での感覚的な受け止め方をして受け取っている。それをおのれの生活の平面上につなげて、「あいつもがんばっているな、おれだって、やってやるぜ」という風に見る。「あいつがあんなにがんばっているのだから、おれももっと高校生生活の中で、大学生生活の中で、あるいは始まったばかりのサラリーマン生活の中で、何かやらなきゃ」みたいな。あるいは「おれの生活の中では、なかなかできないから、あいつにもっとがんばってもらわないとおれもやり切れない」みたいな。そういう次元で見ているような気がする。
 前田 そうですね。だから簡単に一口にいえるようなテーマみたいなことじゃなくて監督の素材に対する切り込み方それ自体みたいなところで見ていますね。
 白井 そうですね。だから東映映画に対する圧倒的な若い連中の支持というのは、そういうところに立脚しているような気がしますね。しかし、東映任侠映画路線に対して、松竹新喜劇路線も、かなりそういう意味では回転力がついて、善戦している。松竹では喜劇なら作れる。その路線の中で、では己れでなければできない喜劇を作ってやろう、という戦いが。
 森崎 ただ、ぼくに関してだけ言えば、ぼくの作品はほとんど当たっていないわけです。非常に五社監督として、困る立場なんですけれども、しかし本部長が、今度、試写のあとで、非常にぼくにうれしいことを言ってくれたんですよ。「お前の作品は、松竹の封切り館ではだめだったけれども、三番館あたりの番線で、東映のヤクザものと一緒にやったら、意外に非常に当たった」と。とてもうれしかったですね。つまり、東映のヤクザものの観客と、松竹の喜劇の観客とは非常にダブっていると思うんですね。そのダブっている部分が、なけなしの日本映画の非常に優れた観客たちであって、そのことにそっぽを向くと、ある会社の喜劇のごとくに、観客にそっぽを向かれていくことになる、と思う。ですからそこで、僕なんか喜劇を作る場合に、東映のヤクザ映画の心情的なものの爆発みたいなところで、圧倒的な支持をうけている部分が、喜劇という形をとりながら、同じ心情の爆発を、現実的に内包するという形であらねばならないというふうに思う。何よりも映画の観客に向かって、使命として付託されているものは、そのことであろうから、というふうに思うんですがね。
 白井 さっぎ前田さんの話に出てぎた「映画批評」誌八月号の五社内監督の座談会を読んで、とてもおもしろかったのは、こういう点です。松田政男編集長がテーマを引き出そうと思って苦闘するわけだけれども。「皆さんは何に対して闘うのか?」という質問を彼がしたときに、設問者自身が困ってしまったふしがある。たとえぱ「権力」とか「力」とかいう言葉が、いろいろ出てくるわけだけれども。結局、ある共通概念がついに出なかった。これは非常におもしろいことだと思うんだけれども。そういう意味では強力な当面の敵というものは、いまみたいな社会には、明瞭には見えないのではないか。佐藤政府をぶっ倒せ、みたいな非常に安直にしぼってしまうとそういうことになってもくるわけだけれども。
 前田 自分の中にある一種の怨念、なんていぅと大げさだけれども。怨念であり、同時に生理的に、自分の心のある部分のサムシングを解放したい、という。そういうものをまずははぎ出すみたいなことなんじゃないですかね。それを、沢田辛弘君なんかは「力だ」といっていたし。ぼくは「生埋だ」みたいなことをいっていたと思うんですが。それが、いろんな形の言葉になったものだと思うんですけれどもね。
 白井 だから、終戦直後の左翼映画が高らかに現体制打倒と、その先にある革新的世界の理想のイメージみたいなものを出し得た、という時代はもう去ってしまっている。それだけに、映画づくりというのは非常にむずかしい。それを抽象的に映画にしてしまうと、アントニオー二の映画みたいに「すでに大事な何かはどこかで始まってしまっていて、われわれはそういう状況の中を、たゆたってついていくよりしようがない」みたいなことになる。 「そのたゆたってついていく精神の放狼を細密に描いていくことが唯一の現代をフィルムでとらえる方法だ」というようなことになってくるわけだけれども。そういう点では、ほんとうに戦術としてはむずかしい時代、困難な時代だ、という気がする。だから、それをごく安直な理論に結びつけるならば、五社内で仕事をしている人というのは、具体的な抵抗目標がまず目の前に幾つもあるから、とにかくそれに対して闘っておのれの一分を立てていくことが日常的な仕事になる。そういう中でこそ、ほんとうにいまの日本の社会に生きている人間の共通項としてのテーマを具体的に出し得る、おもしろい映画ができるのではないか、ということも見るほうの側としていいたくなる。すこぶる具体的な、壮烈な日常的な戦いがね。
 森崎  あまり壮烈じゃないですけれどもね(笑)。みじめったらしい、悔い多き戦いの連統ですよ。
 白井 その点はキネ旬をつくっているぼくらだって、同じことですよ、それは。