映画ははもうほとんど世界である その4

対談者................ 森崎 東、 山根 貞男 
出典................ にっぽんの喜劇えいが 森崎東篇
著者................ 野原藍
発行................ 映画書房
発行年................ 1984年10月9日
................ 
................ 

( その1 に戻る)

 I わが映画遍歴、そして家族 1981年9月19日

   「リンゴー!」のファンだった。

   七朗義兄さんと湊兄さん

   香川京子にファン・レター

   ヌーベル・バーグと反合理化闘争
その2 に戻る)

   脚本部から監督デビュー

   家族ってのは恥ずかしい。
その3 に戻る)

 II 心の結ぼれをほどく芸能を求めて  1981年12月27日

   庶民派ドラマでありたい

   なぜ税務署員が出てくるか
  
   ぼくの美学と便所

   コンテを描かない、のぞかない

 

 III エトスを美的に娯楽的に刺激したい  1983年10月2日


    十年越しで実つた企画

 山根 新作『生きてるうちが花なのよ死んだらそれまでよ党宣言』のクランクインが、いよいよ一週間後に迫ったところで、この映画についてお聞きしたく思います。この略称『党宣言』の企画のスタートは、何年も前になるんですね。
 森崎 ずいぶん昔のことなんで、ほとんどうろ覚えふうになってるんですが、『黒木太郎の愛と冒険』を撮る前から、この企画は持ってたんですよね。
野呂重雄さんていう小説家が『黒木太郎の愛と冒険』を書かれたわけですけど、その前の短篇集『天国遊び』を読んだとき、すぐに映画化したいと思ったんです。それは非行中学校教師みたいな人が、いろんな形で出てくるものなんですけども。第二作の『黒木太郎の愛と冒険』の方が、『天国遊び』より面白さにおいても、喜劇性という点でも強いように思えたんですね。映画化するについて大衆性があるというふうにも感じたし、その中にはぼく自身の個人映画ふうなところが入れられた。つまり、死んだ兄の問題がその中にいっしょに入れられたんで、普通の映画製作会社でなくて、ATGでつくったわけですから、うんと個人臭を出してもいいんだと思って、先にとったわけです。
 『天国遊び』の方は、その世界に興味は持つけれビも、当時のぼく自身のある部分がその中に入っていったりはできない素材だった、中学校の話で、ぼく自身、中学校は知らないわけですから。今日、実は子供の中学校の運動会に行ってきたんですけど、ああ、俺、新制中学って知らなぃんだなあって、つくづく思いましたねえ。そういうわけで、後回わしになったっていうことがありますが、順番でいうと、『天国遊び』が先なんです。
 たとえば、今村昌平さんが、つくりたい映画がある人たちに全部いっぺんつくってもらって、それを今村映画ルートで封切館で、なんて、夢みたいなことを それはとってもいい夢だと思うんですが お考えになって、「何かありませんか」って言われたときに、『天国遊び』を出したんですよ。もちろんそれは実現しませんでしたけど。
 そういういきさつで、企画として芽があったのは、それが本になって出たときからですから、十年以上前からですねえ。ですから、何か企画がないかと言われるたびに、それがチョコチョコと出てくる。
それで最終的にはその人が企画者になって出てきたんですけども、市川さんていう岐阜にいる人が、今土方で生計をたてていらっしゃるらしい。日給一万円っていってましたけども、その人が、かつて松竹大船の大部屋の俳優さんで、ぼくが第一回目のドラマ監督をやった、テレビ映画『俺は大物』に彼が、大部屋から抜擢された形で、出演したらしいんです。彼には悪いんですけど、ぼくは実はよく覚えてないんですが。
 山根 それは『喜劇・女は度胸』より前の話ですか。
 森崎 前です。ぼくが京都で助監督やってたころですから。みんながボロボロボロボロ、東へ東へ、大船に向かって統合されつつあったときです。そのときぼくは、市川さんになんかでひじょうに怒ったらしいんですね。「そんなことだったら俳優やめろ」みたいな暴論を吐いたらしい。全然覚えてないんですが。彼はそれを、いたく覚えてましてね。京都でぼくが『必殺シリーズ』を撮ってるときに会いに来たんですよ、六年ぐらい前ですかねえ。『黒木太郎の愛と冒険』を撮った翌年かなんかですから。
 で、「映画やりたいんだ」と。「自分は俳優になりたくて大船で俳優になったけど、俳優をやめて、今は食堂を経営してる、けれど、一生の夢を実現したい。ついては、あなたに映画を撮ってもらいたい」。「なぜぼくですか」って聞くと、「実は昔、こういうことがありました」っていうんが、この話の現実化の最初でしてね。そのtき、一応脚本にはしたんですよ。
 今現在の『生きてる党宣言』とはだいぶ違うんですけどね、でも原型になつてる。放浪する中手生が出てきて、先生もいっしょに放浪する。それが刑事と出会う。女房が交通事故で植物人間になっちゃった刑事で、ハレンチ罪で警察をクビになって、ウロウロするときに、その連中と出会ってなにかを起こすという話なんですよ。ラスト・シーンがどんなものだったか、今ではもうあんまり覚えてないです。東映、TCF、日活なんかに、その市川さんが仝画を持ってまわつたんです。
 山根 そのシナリオは、森崎さんが一人で書かれたんですか。
 森崎 いえ、鹿水晶子さんといっしょに。鹿水さんは桃井章君がぼくんちへ連れてきたんですよ。よく覚えてるんですが、例によって、海へ出て鹿水さんとキャッチボールをした。ものすごいの、ガッチーンとくるわけですよ(笑)。高校時代に、女子野球のピッチャーだつたらしいんですね。女だてらに(笑)。
 で、彼女から、もうライターやめようと思ってるとか、握り飯を三十つくって冷蔵庫に入れといて、それを一日に何個ずつか食いながら、それだけで生活するとかいう話を、いろいろ聞いたりしまして。『天国遊び』の原作は男の先生の話なんですけども、女の主人公をそれに新しく付け加えようと思ってぃたもんですから、女のライターが書くのが、いいんではないか、と。というのは、そのころ、もう自分ではホン書くとまずいんではないかと、ふと思い始めてまして。で、彼女に書いてもらったですよ。
 どういうふうにこれをつかまえて、どういうモチーフで書きますかって聞いたら、鹿水さんが言うのに、もう婚期を過ぎた女だけども、初恋の人をいまだに思ってる、と。でも、相手の方はまったく自分のことを思いだしもしないし、自分がそういうふうに思っていることを想像もしないだろうけおも、もういっそ面倒くさいから、生涯その男に惚れ抜こうと決意してる女、ってのをやりたいって言うんですね。なるほどなあ、そういうこともあるんだなあ、女の人は……。
 鹿水さんは、七人兄弟かなんかのいちばん下なんだけども、お父さんが、えらい映画好きでね。お母さんへの口実に、まあ年端もいかない、ヨチヨチ歩きみたいな彼女を連れて、映画に行くんですって。その、お父さんにおんぶされて、満員の中で見たりとか……。そんな話を聞いたんですけどね。ひじょうにいい人なんですよ、こう、モデラートな感性の。
 山根 その鹿水さんといっしょに書いた脚本をあちこちへ持っていっても結局ダメ? 
 森崎 ええ、ダメでして。脚本代は市川さんが出したと思いますがねえ。彼女がライターとして、それでガックリこられたんじゃまずいと気になったりして、その後いっしょにテレビのホンを書いたんですよ。二時間ものだの一時間ものだのを。ひじょうに誠実な仕事のしっぷりで、プロデューサーにも気に入られて、二時間ものをたてつづけに書きましたね。
 そんなことがあって、もう忘れるぐらい長い年月がたって、松竹で「何かないか」ってんで、それを松竹流に変えて出して、あと一歩で映画化するという段でまた流れたりしましてですね。それでもう、何ていいますかねえ。鹿水さんのいう初恋の女へのくされ縁みたいな感じになってきましてね、なんとか映画化しないとスッキリしないという感じで、ずうっとへばりついちゃって……。
 で、去年、木下茂三郎さんという、ゴルフ場だとか音楽学校を経営してる人が映画をつくりたい、と。名古屋でも映画をつくれるってことを証明したい、しかも、中堅クラスの監督でやりたい、もちろんオリジナルでいいんだ、という話を市川さんが持って来た。「それじゃこれしかないですね」っていうのが、今度の映画の始まりなんです。
 山根 その間に荒戸源次郎のシネマ・プラセットがあるわけですね。
 森崎 そうです、松竹が流れて。
 山根 プラセットでの話は一昨年(一九八一年)にスタートして、去年(一九八二年)に撮る感じだったんですよね。そうしますと、市川さんとまず、会社が決まらずに撮ろうとしてたのがあって、それから松竹に行って、シネマ・プラセットへ行って、こんどキノシタ映画と、順番でいくとこうなるんですけど、それぞれ製作母体としてはまったく違うもんですね。その間、ひとつの企画に固執してきたのは、前からの野呂重雄の『天国遊び』をやりたいという気持が、ずうっとつながってきてるわけですね。
 森崎 そうです。
 山根 ただし、毎回シナリオを改訂されてますよね。
 森崎 ええ。
 山根 じゃあ、流れのストリッパーが登場することになったのは、どの段階ですか。
 森崎 それは松竹のときですね「桃井かおりで何か」といわれて、彼女が、「わたし、踊りができるので、踊りを生かしたい」と。それじゃあ、中学生と先生が流れる話の中に流れのヌードダンサーを入れようということになったんです、刑事像は消えて。
ただ、第一稿の鹿水脚本のときから、倍賞美津子さんの非行少年のお姉さんていうのは、出てたんですよ。今思い出しましたけど。鹿水さんに「主役を、あなたの好きなイメージの女優さんで考えてくれませんか」とぼくが注文したら、「倍賞美津子です」と。ああ、今思い出した。奇しくもまた、それが復活したわけですね。
 山根 なるほど。すると、森崎さんは以前から倍賞さんとつきあいがあるわけだから……。
 森崎 「ああいいですねえ」と。
 山根 これは意見合いますね。
 森崎 鹿水さん本人が、ちょっと、倍賞さんに似てる顔立ちの美人でね。年かっこぅも似てる。だから、ちょっと曲がり角を過ぎちゃった年齢というのを、彼女はがっちりやりたかったんじゃないでしょうか。ぼく、それでやってほしいと注文しました。それを芯にすえて。
 山根 じゃ、桃井かおりを契機に、鹿水さんとのあいだで非行少年の姉さんの役のやつがどんどんふくらんできて、それが中心人物になったんですね。
 森崎 いや、挑井かおりで考えたときには、非行少年の姉さんはもう消えまして、流れのストリッパーが、少年たちと引率してる先生に出会う。
 山根 すると、今回撮影される脚本では姉さんになっていますから、またもとへ戻った……。
 森崎 戻ったですね。ぼくは全然忘れてたけども、あのー、ふと姉さんにしようと思ったんですよ。ごく最近決定稿を書くときにですけビ。どっか、残ってたんですね。今、鹿水さんの話をして思い出した。
 山根 で、松竹の次にシネマ・プラセットでというときには、これはもうイメージ・キヤストは倍賞美津子になってましたね。
 森崎 そうです。最初の倍賞イメージってのは、忘れてたけど、生きつづけてたんじゃないでしょうかね。
 山根 さきほども言いましたけれど、製作母体が違うとなると、とうぜん作品のあり方なり規模なりが変わってくるでしょうね。こんな映画をつくるんだという発想に、大きく関わってくるんじゃないですか。
 森崎 ええ、脚本がコロコロ変わったということも、そのことが原因なんですけビね。最初のやつは、岐阜の山間の小さな都市での話で、それが名古屋に出てくるというだけの話だったんですよ。田中邦衛さんがやめた刑事で、ただそのときから原田芳雄さんは学校の先生でしたね。
 山根 今回の『党宣言』のシナリオで、先生の名前が「野呂」になってるのは、野呂重雄の「野呂」でしょうか。
 森崎 野呂さんに断わらなきゃいけないなあと毘って。実は、あんまりいい先生じゃないんて(笑)。
 山根 ノロマという意味の「野呂」も入ってるのかな(笑)。
 森崎 どっちなんでしょぅねえ(笑)。野呂さんは実際に中学校の先生だったし、しかし野呂さんはもっと……。まあ、ノロマと野呂さんへの思いと、両方で、心理学的に複合作用をしたんじゃなぃですか。
 山根 それで、原田芳雄さんは先生役に決まってた?
 森埼 そのときはね。先生も転々とするんですがね、実は。エー、何の話でしたっけ(笑)。
 山根 製作母体が違うと、映画の規模も発想も違ってくるんじゃないかということです。
 森崎 そぅですね。食堂の経営者である市川さんが食堂を叩き売っててもやりますと言ったのは、ひじょぅに小規模で、ただ日照り雨が降るというのは、そのとき考えた。だから生き残ってるんです。名古屋港で、少年たちが乗ってきた馬が死んで、馬の野辺送りをするというシーンなんですけど。そういうふうなのは残ってますねえ。馬は消えましたけど。
 山根 でも、浜が出てくるのは残ってますね。
 森崎 少年たちの、浜での隠れ家みたいなのはまた復活してるんですね。
 山根 松竹でやろうとしたときは。松竹ふうにしたんですか。
 森崎 ええ、“女寅さん”ですね。はっきり狙いました。ですから、北海道大ロケーションですよ。
稚内のむこうに昔の陸軍の飛行場跡なんてのがあるんですよ。ちっちゃな無人駅があってね、そこへセスナが降りるというところから始まる映画で、ゼニがかかるようにできてるんですね(笑)。まあ、それはゼニがかかってもいいや、たっぷり楽しませようと……。さいはての地を漂泊する女ヌードダンサーの出会った最も今日的な問題っていうふうなものですね。
 で、プラセットでは、これまた相当製作費をしめねばならん、と。どうせメジャーの実入りは望めないんだから。しかも封切った荒戸源次郎さんに損をかけることはね。あの人は損は覚悟の上だって言ってましたけども、ものすごく損をかけることは、ぼくとしてもできないことですから。そのときはしかし、今度のと、ほとんど原型は似てるんじゃないでしょうか。
 山根 そうですね。ぼくが読んだ脚本を比べても、プラセット段階から今回のに、割合スムーズにつながってますね。それにしても、松竹で撮ろうと思ったものをですよ、いくらシナリオを書き換えたにしろ、突然プラセットに行っちゃうってのは、スゴイことですよね。普通だったら、全然別の作品にしちゃうところを、ずうっと強引に引きずってこられた。この映画をやろうというのは、それくらい執着があったっていうことなんですね。そんなに、松竹でも撮れりゃあプラセットでも撮れるような、そういう伸縮自在なものじゃないでしょう?
 森崎 ある意味では、まったく違ったものだと言ってもいいんじゃないかと思いますねえ。つまり、プロデューサーサイドから言わせれば、ゼニのかかり具合、その他からいってもですね、飛行機が出てきたり、転々と歩く、というわけでもないし。ですから、自発的に学校をおん出てしまった中学生と、それと同行を決意している中学校の先生という、話の世界だけが残ってるわけで、語り口その他は……。もちろんある女の生きざまというので、しばられてはいますけど。
 規模としては、もともとハワイ・ロケに行くとか何とかじゃやないわけですから、伸縮自在なわけですね、しかし松竹の脚本よりも、中味ははるかに、伸ばしちやったっていうか、つまってるっていうか…:。
 山根 そうですね。ぼくは松竹段階の脚本も読ませていただきましたが、今回の脚本のほうが、明らかに中味が濃くて,目がつまってて、世界が広くなってますね。
 森崎 ですからやっぱり、メジャーじゃなく、ちっちやな独立プロダクションていぅか独立プロデューサー、つまり、一個人の力で映画化するのが、この映画の成り立ちにとっていちばん適切であるといぅ考えが前からあったといえますよね。
 もともとは市川さんの発案で始まったわけですから、荒戸源次郎という、ひじょうにユニークな新しい映画プロデューサーの出現に、ジヤスト・ミートしよう、と。それについては自分自身の映画づくりもオーバーにいぅと革命的な実験をしつつ映画化していく、と。そういう映画への初心みたいなもの、つまり学生時代、『独立プロを語る』という座談会をやったときに感じたようなものが忽然として復活したというようなことがあると思いますね。
ですから中味はもう、いやっていうほどふくらんじゃって、いまだにそれをどうつづめるかに腐心しているという状態ですね。
 山根 そうした経緯の果てに、とうとうキノシタ映画でクランク・インということになったんですが、その間に一本、松竹で『時代屋の女房』を撮られましたね。『時代屋の女房』が入ることによって、なんか変わったことはありますか。
 森崎 結果論でしかないと思いますし、確たることは自信を持っていえるわけではないのですが、『時代屋の女房』に入るまでに、『生きてる党宣言』の今の形のホンは二転三転しつつ生まれ、かつ変型させられてきてたわけですね。それで、単純にいいますと、やっぱり、わかりやすくないとまずいなっていうことを、『時代屋の女房』を契機に感じましたですね。
 山根 『時代屋の女房』で、なぜそれを感じたんですか。
 森崎 『時代屋の女房』は、ぼくはそんなにわかりにくい映画だとは思わなぃのですが、ひじょうにわかりにくいといわれましたねえ。
 山根 へえ、そうですかねえ。
 森崎 うちの短大一年生の娘が見たらしくて、全くなんのことかわからなかった。どう面白がればいいのかまで、わかんないって感じでしたねえ。
 山根 そのときに森崎さんが考えられた、わかるわからないってのは、どういうイメージですか。
 森崎 反省としていうんですけど、『時代屋の女房』の真弓という女をぼくは、ある憧れ的な、ひじょうにいさぎいい女、というふうに想像じたいわけですね。どんな女かっていうと、定かでない魅力を持ってる女、ただつくる人間はそれをちゃんと知ってなきゃいかんわけで、それが問題だったわけですけどね、原作者も知らないという……(笑)。
で、つまり、あの少年にいっしょに死んでくれって言われたら、めんどくさいからいざとなりゃ死んじゃってもいいか、とふと思う。もちろんそれは年が違うんで、ギリギリまでいきゃ、こんな小僧っ子はケツ割るに違いないという見込みもある。そこいらをちゃんと見とおせる想像力のある女。ただ、いざとなりゃ死んじゃってもしょうがないかな、と。そんな人はなかなかいないと思うんでね。愛だとか何だとか、そういう骨がらみになるようなものでなく、そこをポーンと跳べる人みたいなのが、イメージとしてあったわけですよ。そこいらはまったく伝わってないんじゃないでしょうかね。
 反省としては、回想形式がひじょうにややこしいとか、いろいろあるわけですね、こっちの思い入れの部分てのはあんまり大きな声ではいわないわけで、そうっと入れてる。でも、そこだけはちゃんと見てほしいという願いがあってつくるわけですけども、見事に裏切られたりするわけですねえ。
 山根 ということは、今度の映画では思い入れをもう少しはっきり前面に出す、と。
 森崎 思い入れは思い入れとして、やっぱり伝わらないといけない。『黒木太郎の愛と冒険』ってのは、あれは戦争前の話ですかって言われて……(笑)。
 山根 そんなトンチンカンなことを言った人がいましたか(笑)。
 森崎 やっぱりあれは黒白映画で、軍服着た男が出てくるから(笑)。相当中年のおばさんが聞いたですねえ。
 山根 聞いてガクッ、ですね(笑)。
 森崎 やっぱり想像もできないことですから。
 山根 不意討ちですね。


     シナリオをつくることが映画をつくること

 森崎 でもそれは白黒映画だってことが大きくあるんでしょうけビ。感覚として、そういうふうに受け取ってしまうものが、画面を通してあるんじゃないでしょうか。それはもう、ぽくは、あってもしょうがない、千九百なん十年代の話であるという刻印をしてなくてもいいだろう、というふうには思いますけどね。
 山根 では、今度の『生きてるうちが花なのよ死んだらそれまでよ党宣言』の中味について具体的に入っていきたいんですが、ぼくはンナリオを読んで、とにかく面白かった。いちばん感銘を受けたことをまずいいますと、ああ、映画ってのはやっぱり筋書きじゃないんだ、ということですね。今、ほとんビの映画が小説を原作にしていますね。知名度の高い小説を映画化することによって宣伝効果を高めるってことがあるんですが、映画を発想するときに、何かストーリー、お話、筋書きを、小説で見つけようとしている。そのときにイメージされている映画っていうのは、筋書きに還元できるような映画だと思うんですね。ところが『生きてる党宣言』のシナリオは、そういう筋書きに要約できないものなんですね。そこがたいへん面白かった。それはやっぱり野呂重雄の『天国遊び』が遠い原作としてあるにしても、それは発想のひとつであって、今できあがってるのは、あくまでもオリジナル・シナリオだからなんですよね。そこでお聞きしたいんですが、森崎さんは、いつも基本的にはオリジナル・シナリオでやりたいという考えですか。
 森崎 映画をつくるってことは、シナリオをつくることだって思うわけですね、実感として。だから、シナリオをつくらなくて映画をつくるということは、映画をつくった気がしませんね。
 山根 すると、『時代屋の女房』は、原作があるから、その点がちょっと弱いですか。
 森崎 弱いっていうか、創作したとは全然思えないですね。村松友視の世界と荒井晴彦の世界をミックスしたものをひじょうに正確に映像化しなくってはってのが、ぼくの基本的な第一義ですよ。それは彼らに悪いからとかいうことじゃまったくなくて。それがぼくの演出家としての立場だろうというふうに思うからですが、やっパり悪いくせで、チョコチョコット入ってきたりはしますけどね、へんに濁っちゃったりするものが。それも反省のひとつの材料ですけども。基本的にはやっぱり、シナリオをつくることが映画をつくることだ、と。
 山根 では、シナリオをつくるとはいったいビういうことかってことになりますが、森崎さんがシナリオをつくろうと思ったときに、どこらへんから発想されるんですか。
 森崎 うーん……人間の、登場人物たちの関係じゃないですか。今、ふと思ったんですけどね。
 山根 たとえば非行中学生がいて、いっしょにウロウロする先生がいて、というときの、その生徒と先生の関係。
 森崎 そうです。野呂さんの原作には、自主的修学旅行を始めた生徒たちに同行する中学の先生は出てこないんですよ。中学校を追い出されたに等しい辞め方をして、同様な立場の生徒たちと同行する関係をですね、自分の想像でふくらましていくことで、そこから管啓也、ドラマなりが見えてくるんじゃないか、という楽しみでつくるみたいな……。
筋はだから漠然とありますけど、それは、早い話がみんな死んじゃってもいいわけでして、先生以下、中学生三人との死んじゃって野辺の送りをする、なんてのはぼく大好きで、死んじゃった方が良かったかなあ、なんて思ったりするんですけど。鹿水さんの脚本ではたしか死んじゃうんですよね。しかし、一日でいえる話をして成り立たないとその映画は失敗すると、よくいわれますね。
 山根 そうなんですよね。「これ、どういう映画や」「こういう映画や」っていうふぅに……。それが『生きてる党宣言』の場合は、一口じゃなくて、十ロぐらい言わないといけないんじゃないかって気がするんですけどね。
 森崎 ぼくは一口で言えばどうなるかを、いつも考えるんですよ。ホンをつくったあとでね、遅まきですけビも。で、言えないとひじょうに心配ですね。どこが間違ってんのかっていうふうに……。やっぱり昔から言われてきてる、一スジ、二ヌケ、三ナスビじゃなかった(笑)、なんだったか忘れましたけど、そういうことは、ある種の鉄則ではあるわけですね。それに反抗するにしろ従うにしろ。でも、一口では言えなくなってきてるってのは、ぼくは自信を持って言いますけビも、ぼくがつくるンナリオってのは、まさしく下手クソだと思いますし、下手クソだから、メロメロになったりするんですけビも、一口では言えなくなってきてる世の中ってのもあると毘いますねえ。
ただ、一口で言うならこうだという答が、A、B、C、D、Eぐらいあって、どれが正解でしょうかという、正解探しみたいなこともできたりするってのは、その作品の持ってる弱さでは確かにありますよ。やっぱり一口で言えるテーマなり、ストーリーなりの方が、一時間半にできあがったとき、カチッとしますね。ちゃんと手渡すことができる。「見ました!」っていう感じがあって、満足を与えることができますよね。
 山根 これまでの森崎映画でいえば、『喜劇・女は度胸』も、"女シリーズ"も、ほぼ一口で言えると思いますね。ところが、いちばん言えないのは『黒木太郎の愛と冒険』。
 森崎 これは言えないですね。ぼく、いまだに言えない(笑)。
 山根 だれにも永遠に言えないですよ(笑)。それで、どうもぼくの感じとしては、『生きてる党宣言』てのは『黒木太郎の愛と冒険』のラインではないか、と。そういいますと、『黒木太郎の愛と冒険』は興行的には失敗したんで不吉なことにもなるんですけども、ぼくは『黒木太郎の愛と冒険』があることによってこそ、『生きてる党宣言』が生まれ、すばらしく面白くなってると、それは自信をもって断言していいと思ってるんです。
 森崎 正直いって、最後に天皇陛下の崩御がある話などが入った、プラセット脚本なんかは、ほんとに一言で言えないですね。絶対言えないって断言してもいいぐらい。それを助監督が読んで、「わけのわからない部分が、どうにかなっていくんだろうと、そういう興味として面白かったけれど、決定稿は、わかりやすくなってるんでがっかりしました」と言われて、ぼくもがつかりしたんですけど(笑)。
 山根 でも、一口で言える方へと近づいているんではないですか。
 森崎 近づいてるんですが、一口で言えませんね(笑)。
 山根 ぼくの感想では、そのことは、やっぱりいいことじゃないでしょうか。
 森崎 フェリー二だか誰だかが、クランク・インのときには自分が何をつくろうとしてるのかまったくわかんない、十日か二週間ぐらいたってくると、少うしわかってくるっていうふうに言ってるわけですけども、そんなつくり方は、ぼくらには許されないわけですけど、そういうふうな感じってのは、あるんじゃないでしょうかねえ。
ですからぼくは、クランク・インして二週間ぐらいたつと、少しはわかってくるんではないか、それがわかりたくて撮るみたいな、訥弁に聞こえますけども、ありますねえ。何で映画をつくりつづけるのか、テレビでやってる方が年間収入は多いんじゃないかってことも含めてですね、問われるならば、そこいらがわかりたくて、だから映画なんだ、みたいなことは、ひとついえるんじゃないでしょうかねえ。
 山根 何十日もの撮影の過程で、純粋に作品的にシナリオが改訂されることは、当然あっておかしくないですよね。むしろ最初にできあがっていたシナリオを、一字一句ゆるがせにしないで撮って、それで終り、なんてほうが、不自然に思う、まずそんなことはないんじゃないでしょうか。
 森崎 そう思いますねえ。つまり、ぼくらの育ったあの時代ってのは、やっぱり権威の映画づくりでしてね。ディレクター・システムだといわれながらも、松竹京都撮影所のぼくらが入る直前なんてのは、脚本部の先生たちが書かれたもの、印刷されたものを、まるで勅語でもいただくように拝受したっていうんですね。若手監督は、ありがたくいただきますと言って、眼よりも高くさしあげてそのとおり撮っていく。いわば巨匠がいて、全部がそれに自分をなぞらえていくというふうにつくった時代だと思うのですね。
だから、そういうものに対する反撥みたいなのもあって、やっぱりクランク・イン間際になって、ラスト・シーンが変わっちゃったり、変な作り方につい憧れてしまうみたいなことがあると思うんですけれども。それは、ぼくらが育った時代への何かがあるんだというふうに思いますね。
 山根 今回のシナリオは、近藤昭二、森崎東、大原清秀の共作になっていますが、たしか最初は近藤さんが入ってなかったんですね。
 森崎 そうです。大原さんと二人で。しかしプラセットの脚本は、すでに近藤さんも入ってますね。話の原型をつくるのに、三人でヤッサモッサやったんですよ。
 山根 このお二人との結びつきは……。
 森崎 大原さんとは、テレビの『ハッピーですか?』というのを、ずうっといっしょに書いてまして あのときぼくが、泉谷しげるをテレビに引っぱり出したんですが、そういえば平田満もそうですね。
大原さんから、『黒木太郎の愛と冒険』は悪くないというお手紙をいただいて、ひじょうに嬉しかったわけですね。あれをほめる人は、あんまりいませんから。で、大原さんと仕事するようになったんです。
近藤さんは、『沖縄の無国籍児』というテレビのドキュメンタリーを撮りに行った帰りの飛行機の中で、 「今度脚本を書きたいんだけど誰かいないかなあ、既成の新人ライターみたいなんじゃなくていきたい」と、水野正樹さんというキャメラマンに相談したんですよ。そうしたら、「近藤昭二という男がいて、映画脚本は書いたことはないけど、そういう意味でならいいんではないか」と紹介されて、その後、ずっとそのままになってたんですが、ふとそれを思い出して、三人で、おっぱじめた。
 山根 その水野さんてキャメラマンは、近藤さんをドキュメンタリーでご存知だった?
 森崎 いえ、今村プロでいっしょだったらしいですね。近藤さんて人は、俳優座に入って、演劇で進もうと思ったけど、それじゃ食えんもんだから、今村プロにアルバイトに行くわけですよ。そこで、今村昌平さんの『人間蒸発』の助監督をやって、変な体験をするわけでね。表現とは何だ、嘘とまこととは、なんてのが、こんなんなっちゃったらしいですよ。それで、今の商売に。つまり、ドキュメンタリー。
 山根 なるほど。現実と虚構とのあいだにまたがるルポやドキュメンタリーの道に足を踏み入れたんですね。
 森崎 ぼくはそれを聞いて、よくわかったですよ。近藤さんがなぜ、こういう世界に入って、しかもシナリオにこういう形で:…。たとえば原発なビは、みんな彼のアイデアですし、アイコという人物なんかも、実際に殺されたアイコさんていう人をそのまま持ってきたような。ですから今度の脚本てのは、もちろん大原さんのも入ってますけども、
近藤さんの世界ってのが、ひじょうに濃厚ずすね。だから、わかりにくいのは、彼にも一端の責任はある、と(笑)。
 山根 それはいえますねえ(笑)。ぼくも近藤さんと知り合って、たいへん面白いユニークな人だと思ったんですが、正体不明というか、つかみどころのないところが魅力的なんですよね。そのへんがシナリオに出てる、と(笑)。
 森崎 出てます(笑)。
 山根 ぼくの印象では、そんな近藤さんだから、森崎さんはたいへん面白がって脚本づくりをやってらっしゃったつて、気がするんですけど。
 森崎 そうですねえ。たとえばアイちゃんて人をどう表現するか:…。実際に殺された人は、みんなが飲んでるとこへ行って「アイちゃんですよ、ごはん食べたあ?」って言うと、みんなが拍手したぐらい魅力的な女性だったらしいんですけどね。で、シナリオにアイちゃんが、自分が生まれてきてから今までに知った人間たちの名前を、ダーッと並べるンーンがあるんですけど、そういうのは普通は、ンナリオの鉄則からいうと、最もいけないことなんですね。
削つてもいいシーンはみんな削れという、これはぼくの尊敬する伊丹万作先生の説なんですけど、そういう意味からいうと、あれは、削ってもいいわけで。さしさわりのないとこは削らなければいけないということは、勉強家の近藤さんだから、もちろん知っているんですが、その削ってもいいシーンを発想してしまうなんてのは、やっぱりぼくにとってはひじょうに面白いですね。彼も、自信なげに、「やりましょうか、どうしましょうかねえ」って。ぼくは面白がつて、「やりましょう」ってやるわけですけど、ただそれで尺数がどんビんどんどん伸びる……(笑)。
 山根 近藤さんと話していて、興味深い現実の出来事のネタをいっぱい持ってていらっしゃることに、ぼくも驚きましたが、そのナマネタを森崎さんとの共同作業の中で提出し、森崎さんが面白く受け止めるということの良さが、今回シナリオづくりで出ているんじゃないでしょうかね。
 森崎 今までつきあってきた、これからもつきあうであろう映画畑の人とは、知っているネタの量では段違いですよ。商売でやってるわけですからね、近藤さんは。
 山根 近藤さんはナマネタを、自分の足で、耳で集めてきますからね。
 森崎 まあ、そんなことやってりゃ、普通は、シナリオ書いている暇がないわけで、そういう意味では、映画人は原作を探さざるをえないってとこもありますね。宿屋の六畳にこもって、朝から晩まで、白昼夢を見ながらシナリオつくってるわけでしょ。
 山根 森崎さんとしても、小説を読んで映画のネタを探すより、近藤さんの現実ネタを聞く方が、ずっと面白いんでしょうね。
 森崎 シナリオのために小説を読むってのは、小節の楽しみがまったくないわけでしょ。とてもいやですね。イライラしまうよ。だから、ほとんど、小説は読みません、テレビドラマもみませんけど。最近読んだのでは『新しき人よ眼ざめよ』と、ガルシア・マルケスの何だっけな、『族長の秋』じゃなくて、もう少し面白いの……。
 山根 『予告された殺人の記録』ですか。
 森崎 そう。この二つはものすごく面白かったですけど、「これ、映画になるか」などと思いながらは読まなかったですよ。映画化しようっていぅ邪念があって読むと面白くないわけで。映画にしようとする場合は、イースト菌としてぼくはナマネタしか蒔かないですね。
 山根 要するに問題は、何によって、より豊かな映画的刺激を受けるか、ですね。
 森崎 刺激は、創作物より、ナマネタの方がはるかに強く受けますね。
 山根 それにしても、『党宣言』のシナリオを読んで、なんと欲ばった映画であることか、とあきれましたね。単純にいって、大テーマが四つも出てきますからね。非行の問題ないしは生徒と教師の関係、原発というもの、沖繊のこと、そして流れのヌードダンサーの話……。どれ一つとっても、それだけで一本の映画ができる。どうして四つも出てきちゃうんでしょうね。
 森崎 エー、もしぼくが小説の流行作家ならですねえ、もうその一本でね、五十本ぐらい書いちゃう。なぜ、五十本が一本になっちゃうかっていうと、それほど激しく流行作家でないってことじゃないでしょうか。
 山根 それほどまでに非流行作家であると……(笑)。
 森崎 そうそう。「非」に重点があるんです(笑)。
 山根 映画が撮れる機会はそうないだろうから、ここで何でもかんでもつめこんじゃえ、ということですか。
 森崎 ちょっと違うんですけども、同じことですね。つまり、その中に入れられる量はですね、それが発表される機会に反比例する、と。数学上の公理として(笑)。
一升びんに二升から五升入れる作業を、ぼくはするわけです。そうすると、ゴボゴボいってこぼれるんだけど、こぼれてないと思いこむわけですね(笑)。もう、モロこぼれてる()。で、その割に中味が薄くなったりね(笑)。
ですけども、一升びんに五升入るかもしれんじゃなぃかっていうふうにぼくは思ぃたいし、ええ、入ることだってあると思いますよ。それはやっぱり、千五百円出して今の時間の中で映画を見るってことは、中味が濃くないといけないと思いますしね。
 山根 なにやらまるで濃縮ジュースですね(笑)。
 森崎 薄めて飲んで下さい、か(笑)。濃縮ジュースをそのまま飲むとね……。
 山根 下痢おこしますよ!…(笑)。 一時間四十分か五十分の映画だけビ、実はこれ、五時間ぐらいの映画だと思ってね、あとで反芻したりして……(笑)。
 森椅 そうしていただくと嬉しいですね。少うしずつ薄めて反芻していただく。五本分見た、というふうにはならないか(笑)。
 山根 安くてお得ですよ、と(笑)。
 森崎 濃いでしょう、安いでしょう、か(笑)。
 山根 森崎さんの中では、大ざっぱに分けた四つの大テーマないし骨組のうち、どれが重点的であるとか、そういうことはありますか。いちばん古くから抱えてきたことでいえば、非行の問題、生徒と教師の問題ですけれど。
 森崎 そうです。ただ、一挙に結論に飛ぶみたいですけども、四つの要素に共通項はあると思うんですね。ひじょうに変な言い草ですけど、面倒くさいことはするな、面倒くさいことはしないのが新しいモラルである、と。あんまりいぃうと、ボロが出てきそぅだけど(笑)。
 つまり、非行はですね、倫理だとかなんとか既成のものに反逆するとはぼくはいわなぃけど、それからおりることでもあるわけだし、マジメにやらないってことです。アブセンチズムなわけで、ネグルわけでしょ。
 原発もですね、修繕ン出来ない、素人が修繕不可能なことはヤバイ、と、ね。電気なら,まあ修繕できるけども、原発が何か起こしたとき、素人が行って委員会組んで、いくらしゃべって考えてみても、修繕の方法はめっからん、そういうのはありよう、と。やっぱり簡単に修繕できるのがいいんだ、という思想ですよね。そうすると、もう一つは何でしたっけ。
 山根 沖縄……。
 森崎 ああ、沖縄があったな(笑)。エー、沖縄は置いといてですね、踊りでメシを食おうというのは、やっぱり何ていうんですかねえ、大きくいうとテクノロジーへの志向をあらかじめおりるわけ、芸能で生きるってことは。
 山根 なるほど、そうは言えます(笑)。
 森崎 それはまさしくつながるわけでしょ。三つはつながりましたねえ(笑)。ああ、よかった。やっと安心しました(笑)。
 山根 で、置いといた沖縄は? (笑)。
 森崎 沖縄がなぜっていうと、沖縄なるものはですね、流球処分以後日本為政における最も恥部であるといわれる部分よりも、やっぱり沖縄の風光、つまり海の向こうには極楽があるという思想が昔からあるわけでしょ。流球の宗教もそうですね。墓場はみんな船の形をしたりするわけでしょ。それがぼくはとても好きなんですねえ。
つまり死ぬことが、まつくらけのひどいとこに行くんじゃなくて、いいとこに行く、「おばあちゃん、よかとこ行けよ」と言って葬る葬式を、ぼくは見たんですけど。船のかっこうをした中に墓があって、あの思想ですね。あれでぼくも死にたいですね。ああいうふうに葬られたい、いいですよねえ、とてもいい。それはぼくの、死ぬのは怖いなあってのをひじょうに慰めてくれるし、ぼくにとっていちばんいいことなんですよねえ。
 沖縄の生活本来の中には、テクノロジーに向かってどうこうってのはないと思うんですよね。いちばんうまい飲みものは井戸水で、蛇皮線弾いて、一週間のうち二回ぐらい踊りますね、雨が降ったって踊り、月が出たって踊り、ただ踊って、集まる。ひじょうにおとしめていうと、やっぱり、なんていうか、動物ですよね。人間じゃないつて感じ。
 その部分がぼくは他ならず、とてもいいと思う。頭を使って、ガタガタやつて、金儲けしたり、何かつくり出してってのは嫌いっていうか つまり、ぼくはそんなことできないから、そこで安心したいわけで。そうすると、みんなつながる。
 山根 それにしては、このシナリオの中には、沖縄は回想としてのコザ暴動とぃぅ形で出てくるだけで、死んだ後の話とか、そういうのは出てこないでしょ。
 森崎 それも見事につながります。つまり、そういう無為だとか、ただ静謐だとか、ただ単純に美へののめりこみ、漂いだとかいう欲望はですね、やっぱり今や、苛立ちを含んじゃうんですよね。非行そのものも、やっぱりそういうこと、無為への、無為の美しさへの近づきを誰かに制限されてしまう、それに理屈で反論できない、と、反抗になってきてしまう。我々の魂のふるさとという沖織をひたすら願望する人たちの中に生まれてくるのは、そういうものに対する なんていうんですかね それを汚そうとするものへの苛立ちなり反抗なりと直結するわけですね。
 ですから、沖縄精神てのは、単純に、なんかこう動物みたぃに、月が出たから浮かれて踊るといぅ側面とですね、あそこにはまた一挟の歴史もあったわけで、日本本土、日帝への強烈な反抗が歴史として近代までつながってきた。百姓一挨は、他の各地にも伝統としてあるわけですけども、沖縄にはいまだに生き生きとしてある。たとえばコザ暴動ですね。日本近世史の中で、暴動といえるのはコザで終わったっていうふうにもいえるわけで、安田講堂における暴動もありましたけれど、ぼくは違うと思ぅんですね。
 つまり、テクノロジーへの反抗だとか、むつかしいこといわないでも、ストレートに反抗が行動として燃えあがったというのが、コザ。近藤さんのお友達が目撃されたそうですけども、整然たる暴動だったそうですね。ひじょぅに心豊かな美的な暴動で。それと、非行という反抗への欲望、そして踊ってればいいという踊り馬鹿みたぃな人たち、踊り子さんはしゃべれないから。しゃべれれば、銀座のバーにでも勤めていい金になったりもする。その代わり男と寝なくちゃいけないんでしょうけど(笑)、そんなことできない人だから踊る。その人が最後に鉄砲で人をぶっ殺しちゃうというのに、どうしてもつながっていくわけで、やっぱり必然的な四つの要素であると、こぅ牽強付会したいですね。
 山根 なんか、ちゃんとつながったみたいですねえ(笑)。
 森崎 ああ、よかった!(笑)。どうしようかと思った(笑)。
 山根 :いまの話を聞いてますと、当然なんでしょうけど、今までの森崎映画のことをいろいろ思い出させますね。ご自分ではどうなんでしょうか。いちばん単純なのをいうと、バーバラというヌードダンサーは、倍賞美津子が演じるとなると、『喜劇・女は男のふるさとヨ』のマタタビ笠子でしたか、あの人物を思い出しますね。
 森崎 今度、バーバラに倍賞さんが決まって、本当に三十いくつまで旅回りをやってたヌードダンサーの人と、会わせたんですよ。そんなことは今までやらなかったんですけどね。ぼくはそこで、ふと愚かなことを聞いたんですよ。「倍賞さん、こうおいうストリッパーとか、ヌードダンサーみたいな役は、今までやったことないでしょう?」って。そしたら彼女、なんか、ムッとしてましたね(笑)。
 山根 だれだってムッとしますよ(笑)。
 森崎 「あなたの作品でしかこういうのはやってないものね」って、ムッとして彼女は言いましたけども、考えてみると、彼女との第二回目のつきあいが、ストリッパーのマタタビ笠子ですから。
 山根 考えてみると、というところが、スゴイというか、ヒドイというか……(笑)。ご本人に聞いちゃうくらいだから、コロッと忘れてるんですね。
 森崎 コロッと忘れちゃう。だから、思いだすことはいやですね。そう言われたときに思い出さないでくれ、と倍賞美津子嬢にお願いしたかったですね。それはもう切り捨てて、かつてふくらんだイースト菌はもう腐ってんだから。
 山根 ほかにも少年が出て来て、それが沖縄ってことになれば、『野良犬』を思い出しますよ。それから、これは結局なくなりましたけれど、天皇の崩御のことが出れば、『黒木太郎の愛と冒険』の日の丸と三国廉太郎の人物が、当然思い出されて、つながってると感じられますね。
 森崎 昔たれたクソは見たくもないという気分と同時にですね、そういう意味でいうと、またあれをやりたい。日章旗がはためいて「君が代」が流れて、というNHKの放送終了の。あれはもういっぺんやりたい。評判よかったから(笑)。あとは、あんまりやりたくないですね。
 山根 それから、これはどう描かれるか、映画を見なきゃわかんないですけど、『党宣言』のシナリオで最後に船出をしますね。あの船:…。
 森崎 『高校さすらい派』ですか。
 山根 そう、あれを思い出します。
 森崎 そうすると、今までやってきたかすりを集めて、握り飯にして、一つ作品にするという根性である、と(笑)。たった十三本しかつくってないのに、十三本を、こう、集めてくる(笑)。
 山根 そういうことになりますか(笑)。いや、むろん悪い意味でいってるんじゃなく、一人の作家の作品にはそういうことが必ずあると思うんです。さっき、松竹版のンナリオのファースト・シーンが飛行機だったとおっしゃいましたが、今のシナリオはそのかわりに自動車が突っ走りますよね。そしてラストが船になってて、途中、汽車がよく出てくる。乗り物が何かよくありますよ、これは。
 森崎 でも、単純にいって、やっぱり今度は新規解釈である、と。「新規」にポイントをおきたいわけで。そういう意味じゃ、いろんな似たようなもんが出てきますが、エー、日の照り雨は出てきませんよね(笑)。
 山根 これは今回、全く初めてです(笑)。
 森崎 それで思い出すんですけども、山田洋次監督が言ったセリフで、今でも覚えてるんですけビも、NHKのアナウンサーかなんかに「『男はつらいよ』をずっとやってこられて、その中で一貫して山田監督が追求していらっしゃるテーマは?」というふうなことを聞かれたっていうんですね。 「そのとき、ぼくはちょっとムッとした」と。「ぼくは何も追究なんかしてませんよ」って(笑)。彼が言ったのよね。とてもそれはいい。
 山根 山田洋次さんにしては、とってもいいてすねえ。
 森崎 追究なんか、ばかばかしくて。なんで"寅さん"で追究するんだ。寅さんだってびっくりするよ、みたいなこと言ってましたけど、そういうのが彼は嫌いなんですね。
 そういう意味でいうと、ぼくも『黒木大郎の愛と冒険』で追究したものっていわれると、どっか、こう、こそばゆくなってくる部分があるわけで、自分の作品の中から、あるテーマだとか、似てるものを取りあげて並べられてもですね、感性的にピンとこないですね。ええ。ですから今回は、天気がいいのに雨が降るというのを、ひとつ見ていただきたい(笑)。
 山根 森崎映画を追究的に見るな、追究などしておらんよ、というわけですね(笑)。わかりました。日照り雨だけを見ます(笑)。
 森崎 もう一言、自己弁護を重ねたいんですが。なんかプロデューサー的になって、会社的になっていやなんですけど、やっぱり映画は珍しくないといけないと思うんですよね。
ぼくが喜び勇んで行く映画ってのは、たとえば鈴木清順さんの映画を見るってときは、ウキウキしていくわけですね。東京まで行くのがあんまり苦にならない。だんだん苦になる映画が増えてきたんでね。やっぱり清順映画は常に珍しい。
映画を愛でにいくわけですからね、日本語の古語でいうと、愛で賃が千五百円で、愛でられるのは珍しい作品なわけでして。ですから原発の中を、こうであろうかと想像しながらうつして、それをご鑑賞いただくってのは、珍しいからでして。で、天気がいいのに雨が降るというのも珍しいからで、非行少年の心の中をちょっとのぞきたい、のぞきすぎないでのぞきたいってのも珍しいからでありましてですね。平田満の鼻先三寸で、原田芳雄と倍賞美津子という二人の名優がセックス・シーンを演ずるというのも、それがやっぱり珍しいから、まあ、これは見ていただいて(笑)。
 そういう意味では珍しいはずだという自信がないと、胸張ってつくれないといいますか、これほどドラマ公害の時代にですね。
 山根 何を愛ずべきものとみなすかが問題になるんですが、そのとき、追及とはちがって、こだわってるのはあるでしょう。
 森崎 ありますねえ。
 山根 それですよね。例えば、森崎さんが持ってる沖縄のイメージなんかは、やっぱり今後もこだわっていかれるだろうって気がするんですね。
 森崎 学問的な、科学的なことだと、ぼくは追究っていえると思うんですけビ。やっぱり感性の作品の場合には、たとえば梅原龍三郎が、ああいう絵ばっかり描くのは、あれを追究してるって普通言いまずけど、別にね……。坂本繁三郎が馬ばっかり描いて、馬を追究してるところがなんとも、なんてのはね(笑)。

     宴会をもつとやれ!

 山根 この『党宣言』は、問題がいくつも含まれていて、筋が複雑になっていて、たいへん個性的な人物が何人も出てきて、どれが主役かわかんないといいイメージなんですね。やはりこれは、森崎監督の中では群像ドラマのイメージですか。
 森崎 こだわりとして言いますと、ぼくらの前、映画の全盛期では、常に美男美女の主役がいて、それをキャメラマンがものすごく美しく撮る、というでき上り方の映画だったわけですが、ぼくはそういうふうな、主役が権威としてあって、その他の脇役はそれに奉仕するというドラマのつくられ方に、まず、ある種の嫌悪を感じるんですね。それは、ぼく自身が脇役に近いからということもあるんでしょうけど。
 山根 そこで成立するヒエラルキーみたいなものがいやだとか:…。
 森崎 ヒエラルキーのあることが、すでに、ある真実を描く上での大きな阻害になるっていいますか、むしろ、少し頭の弱い人が一所懸命考えてるさまの中に、ドラマがあるというか、美があるというか、そういうふうに感じちゃうわけですから。つまり、「アレッこれが主役だったの?」というふうに。あまりいい傾向じゃないですけども。かつてのぼくの作品でいうと、そういうのがあるわけですね。ラスト・カットが主役でなくて終わってる映画。こだわりとして、それはずっとありますね。
 前田吟さんが、自分がなぜ刑事ものに出ないかっていうと、ギャラの高い奴がギャラの低い奴をつかまえて、泥を吐かせる、だから嫌いだって言ったんですよ。『太陽にほえろ!』とかなんとかって、あれは、数人のギャラのいいのがギャラの安い犯人役をつかまえて、 「この野部!」といって締め上げてカタルシスを与える。それがいやだって……。なぜ刑事をやらないかを、彼はそういうふうに説明した。ぼくは、なるほどな、この人は、なかなかいい人だと思った……。
 そういうことは、ぼくも、職業人として感じます。主役でない人がどんな情ない顔して、主役の演技が終わるのを待ってるか。下積みの人々に愛を、なんて映画をつくりながら、そんなことやってるわけで。
 山根 そのこととは別に、こういうことはあるんじゃないですか。先日、山田宏一が言ってたことなんですが、映画にさまざまな人物が出てきて、主役と脇役と端役があるとき、ヒエラルキーではなくて、パースペクテイブは必要なんだ、と。ところがこのところ、スターがいないこともあって、とても主役とは思えない役者が主役を演じて、パースペクテイブがデタラメになってしまった。それとは違うことですが、『生きてる党宣言』では、何人もの人物が主役に見えることで既成のパースペクティブを積極的に崩していこうとしているところが面白いと思うんですね。だから、見る人によっては、感情移入する人物がいろいろ遠ってくる。
 森崎 昨日、平田満さんがどうしても会いたいってんで、会ったら、「監督はどこがヤマだと思って、この脚本を書いたんですか、演出されるんですか」って言われて、ふと困ったんですけど。誰が聞くかによって、答が変わったりするんですけどね(笑)。で、いろいろ言って。それで決定稿に平田満さんの名前の印刷を忘れたりして、あとで詫びたら、「いやあ、映画人がきたないことするなんてわかってましたよ。私をオロしましたな」なんて冗談で言ってましたけど。
うまく答えられなかったんですよ。彼は今度やるについて、非常に不安がってて、結局、不安が増大して別れたんですけども。それで、そのためばっかりじゃないんですけども、いろいろ考えてですね。野呂先生に関しては、幻視するというのが前の脚本にはあって、決定稿にはなかったんですけど、それをまた復活っていうか、もっとたくさん幻視する。たとえば、「あなた、この子らの担任の先生でしょ、なにか言ってやって下さい」ってバーバラに言われたとき、現実的に、なんにも言えないんですね。そこで、ウワーッと「テメエラ、このヤロー、お前らみたいの学校にくるんじゃねえや」と、しゃべるという幻視を入れた。
 それは主役の作り方なんですけどね、その人のイメージか入っていくという。野呂先生は狂言回し的な役で、主役では決してないんですが。彼から、「私はどこにだって顔を出して、そこに居合わせてますけども、反応すればいいんでしょうか」って言われて、「いや、反応して下さい」って言ったんですけども。「私はなにやればいいんですか」って言われて、ひじょうにまいったんですよ。だから「幻視して下さい」ですよ。
 エー、 ぼくは、しょっちゅう幻視してますねえ、自分の家で。もう子供たちがギャアギャア言ってると、いきなり立ち上って、見てるテレビの漫画に向かって、なんか投げつける。ブワーッと、スローモーションでね。その、ブラウン管が破裂する幻想なんて、一日、二回ぐらい(笑)。
 それは切実なわけなんですね、ぼくにとっては。たとえば八ミリでも十六ミリでも、ぼくの日常を撮ったとしても面白くもおかしくもないけども、ぼくの中の幻想を、もし八ミリで撮ってもらえば、ひじょうに面白い、リアリティがあると思うんですが。うちの子供なんか、やっぱりひと月に一回ぐらい血だらけになりますよ(笑)。
 山根 ぼくなんかも何度か殺されてる(笑)。
 森崎 ま、今のはまったくの冗談ですけど、とにかく幻視ってのは、ぼくにとってリアリティがあるわけで。しかし、それは主人公としてのつくられ方、つまり、プルースト的な意識の中にまずフィルムが入っていくってことは、主役の作られ方なんですけど、それはどうだっていいと思うんですね。リアリティがあれば。
で、今度ぼくが「ヨーイ、ハイ」かけるときのつくり方の中でふくらまさねばならんと思ってるのは、中学生それぞれの、なんかふとした反応、それは撮れないかもしれませんよ、でも、一所懸命忘れないように、助監督に「俺こうやりたいから忘れないでくれ」と頼んでるのは、そこですね。
 あと、原田芳雄さんの演技などを、といったって、これはやっぽり原田さんの演技でやってもらうしかない。これはもう充分出るし、それで彼は死ぬわけで。『生きてるうちが花なのよ死んだらそれまでよ』ですから、原田さんには悪いけども、ラスト・シーンには当然出てこない。ただ途中で死ぬアイコは、はとんど生きてるがごとく最後まで出てくるんですけどね。
 そういう意味では、アイコが主役だったと言われると、ぼくはひじょうに嬉しいだろうし、そうすると倍賞さんがムッとしたりするかなと思ったりするし(笑)、世俗のことでいろいろありますが。やっぱり役者はみんな「私が主役だ」と思ってくれれば、監督としてはひじょうにやりやすいわけでして、そう思ってもらいたい。
 山根 そのことと関連するんですが、ぼくは『黒木太郎の愛と冒険』のときにゴッタ煮という言葉を使って文章を書いて、今回のシナリオを読んでも、それを感じたんです。だれもが主役みたいで、いろんな連中がワイワイドタバタ走り回って、いくつもの渦を巻き起こしてゆく映画ですからね。ゴッタ煮のイメージ、あるいは狂想曲ならぬ狂騒曲というふうな:…。森崎さん自身は、そのへん、どうなんでしょうか。さっきは四つの大問題を、うまいこと一つにまとめられましたけど(笑)。
 森崎 くくる作業は、ひょっとすると、映画的な作業じゃないのかなって気も、反省として、なんかありますね。
つまり個人を観客という立場で考えればですね、映画を見る人としての俺と、見たあとで映画を反鍋する人間としての俺と、それを忘れていく人間としての俺だとか、いろいろあるわけでしょ。普通、新聞を読んだり、散歩したり、クソしたりするという、それぞれの部分で それをなんていうんですかね。生活者としてのひとつの思想……エトスってんですか。
 山根 ええ、生活の中に流れてゆく思い、ですね。
 森崎 生活思想といってもいいんですか。
 山根 いいんじゃないですか。辞書ふうに言えば、生活の中に持続的に流れてゆく思いで、社会的な習慣までも含む言い方ですから。
 森崎 エトスの主体は生活人なわけですよね。そうすると、映画というのは、生活人のひとつの感性の対象としてのものであってですね。エトスを感じる生活人がもろに映画の中で描かれるというわけにはなかなかいかないんじゃないか。いや、小津さんの場合はありますよ。それはちょっと。おいといてですね。そういうふうでなくなってきてますね、映画が。
 そうするとね、ぼくはそのエトスを刺激したいために、いろいろゴッタ煮になってしまうってことがあるんですよ。というのは、ぼくの中に、そのエトスをなんか痛切に感じたいという欲望がある。いつもないから。いつも呆然として日が暮れていってしまうので、これはいかんと、ふと生活人として苛立つわけで。そこをなんかひじょうに美的に、娯楽的に刺激したい欲望があって、ゴッタ煮になってしまうというふうになるんですね。
うまくいえないんですが、小津さんの作品の中では、そのエトスを感じる個人、生活人が出てくるんですよ、あの人の場合は特異に。しかもわれわれが生活人としての映画のことを考えるとき、小津作品がいちばん、こう、うまく、その中に位置を占める。あとは、なんか濁ってきて、セックスをずっとしてないのにセックスをしたみたいな感じとしてあったりする。
ですから、結論的に言いますと、すっきりした単一の感情だけを映画ふうに叙述する方が、生活人の中のエトスを豊富にするんじゃないだろうか、というふうな疑いもありますが、ぼくは、他ならずそれを刺激したいために、ついつい単一でなく複数になっていってしまうという、ぼくにとって反省すべきことがあるんじゃないかって思いますね。
 山根 その単一と複数ということの考え方なんですが、ぼくは、映画というのは多面体の構造体だと思うんですよ。で、それを、生活者がエトス的にどう受けとるかといったときに、いくつもある角のどこの角で刺激を受けるかは、もう個人個人によって、全部違ぅと思う。
 森崎 違いますねえ。
 山根 今度の映画は、だれもが主役に見えるということ一つを取ってみても、多面構造体としての映画、多重構造になってる映画の典型ですよね。だから、刺激のあり方は複雑になってて、複数の形をとりますけれど、そういう構造体としては単一の映画作品になってるんじゃないでしょうか。
 森崎 ひとつの作品は、単一としてのコンペイトーである。角は多い方がいい、と(笑)。
 山根 そう、『党宣言』は、何を隠そう、コンペイトーである(笑)。
 森崎 それは、ぼくはひじょうに嬉しいですね。実はひじょうに嬉しぃです。
 山根 問題は、角がいっぱいあるとき、どんな角であり、いっぱいあることが単なる拡散になるかどうか、ですね。
 森崎 そうそうそう、そこですよ。それが固い角であるか……。ウ二みたいな、ぬらぬらな角がいっぱいあっても、刺激にならないわけで。
 野呂重雄があの作品のあとで手紙をくれまして、ぼくはとても嬉しかったんですが、「これはぼくの作品ではまったくありません。ただぼくが刺激してこの作品が生まれたってことについて、ぼくは得心します」という書き出しで、「ぼくの場合もそうだけど、特に小説の場合、日本の文学はモノローグ文学である」と。で、「ドストエフスキーは多声の文学であり、森崎さんの映画も、たぶん意識的にそうなさったんでしょうけども、多声映画である」と。そう言われて実はぼくは、褒め言葉でなかったかもしれませんが、つい褒め言葉だと思って、嬉しかったですね。
 山根 多声、ポリフォニーというイメージは、いいですねえ。ぴったりですよ。
 森崎 それでドストエフスキー研究家のなんとかってていう本まで送っていただいて、その著者が、ドストエフスキーは多声である、モノローグでないということで特徴づけてるらしいですね。ぼくとドストエフスキーを比べるわけにはいかんのですが、性癖というか傾向として、多声に傾くということは、いやおうなくぼくの中にありまして、そのために、要がなくて団扇がバランバランになるという弱点を同時に持ってるってことも、よくわかるわけでしてね。
 ぼく自身はしょっちゅうモノローグ的に生きてるわけですが、多声ってのは、たとえば伊丹万作さんの評論の中に、大勢の中でべラべうしゃべってるとき、その人の中には芸術家は存在しない、芸術家は死んでいる、という言葉がありますが、それはひとつの真実だと思うし、脚本も多数討議に耐えねばならんとかいわれた社会主義リアリズムの時代もありましたけど、あれは絶対間違いであるというふうには、やっぱり思うわけで。つまり多声ふうに描くこと、つくることが、そういうふうになっちゃうんでは、しょうがないですね。
 山根 そこで思い出すんですが、前のインタビューのとき、今度つくる映画は宴会映画にするっておつしゃいましたね。じっさいシナリオを読むと、何人もが集まって酒を飲むンーンがいくつもあって、その最たるものが女たちによる砂浜での宴会シーンで、まさに宴会映画になってる。で、宴会というのは、多声というイメージとびったり重なり合いますね。だれか一人が歌いだせば、合いの手が人って、多声になっちゃう。宴会の楽しさは、基本的に多声ということにありますよね。
 森崎 ぼくは、カラオケ嫌いですね。あれはやっぱり押しつけですもんね。
 山根 ナルシズムの押しつけあい……。
 森崎 新しい歌をうたう方がかっこういいわけで、年寄りは疎外されていきますね、聞く一方で。ぼくもそろそろ老境ですからね(笑)。知ってる歌が少なくなるというか、やっぱり、ええ。
 山根 年寄りを疎外するようでは、多声じゃない(笑)。それにしても、今度の映画には歌がいっぱい出てきますね、飲むシーンとともに。
 森崎 今の世の中、宴会をみんながやらなすぎるんじゃないかと思うんですよね、社会学者としてぼくに言わせていただければですね、「宴会をもっとやれ!」と、ただ一言言いたい(笑)。
カラオケがこれほどしょうけつしているのに、宴会のチャンスがひじょうに少ないっていいますかねえ。カラオケは宴会では決してない。一人一人の宴会性を押しつぶす以外の何ものでもないっていうふうに、見てて思うわけですよ。よくないですねえ。日本社会は宴会でもってるみたいにいわれているけれども、今や株式会社における研修会まがいの宴会であり、ある種の脅迫、心理学的な、ね、そんな要素を持ってる。だから、ほとんど『真空地帯』の中でのい宴会、つまり、ある種の共同意識を押し付けていくというふうにしかなってない。そうでない宴会は昔からあったわけですけども、その機会はひじょうに失われていってるから、映画の中でその楽しみを吹く復権したいと。もっというならば、映画をつくる前に宴会することが楽しいから映画をつくるといいますか……。
 昔、松竹でやっていたころなんてのは、クランク・インの前で宴会をやり、終わったら宴会をやり。みんなタダでね、監督がどこへだって連れてくみたいな。銀座で飲んで、階段から監督が転がり落ちるとか(笑)、そういうの、今はまったくないですからね。
 山根 森崎さんの宴会好きは、地域住民として日常的によく知ってるんですが(笑)。
 森崎 ですから、ぼくのテーマですよ。面倒くさいこと、頭を使うことはなるべくよせ、と。一所懸命考えて、衆知を集めて何かやるってのは、決していいふうには結果しない、と。なるべくそれからおりて酔生夢死する方がいぃんだという思想。そりゃ立派すぎますけどね(笑)。そういうふうにいうと、ひじょうにむつかしくなるけども、ぼくらの生活の中ては、やっぱり宴会しているときがいちばん人間が魅力的だし、美しいし……あの、脳ミソの中がいい状態なんてすってね。
 山根 へええ、そうですかねえ。
 森崎 月に一回馬鹿騒ぎすると、大脳皮質の上に重なる、ぼくのイメージだけど、フケみたいなものがポロポロッと落ちるんですね(笑)。だからそれをやらない現代人は良くないという。
 山根 カラオケでやってるつもりなんでしょうね、擬似的に。
 森崎 歌ってるのはいいんじゃないですか。歌ってる当人はフケが落っこってる(笑)。その落っこったフケが、こっちにたまってくるような感じがするんだなあ(笑)。
 山根 関係ない人のカラオケなんか聞かされると、フケがますますたまりますもんね(笑)。
 森崎 で、血の雨が降るわけでしょう、ヤクザがかんで。やっぱり生活人の次元じゃないですもんね(笑)。
 山根 ぼくはこの映画の中で、宴会と並んで重要なのは、暴動のイメージだと思うんです。生活者は何かのときにワツと楽しみで宴会をやるんですけども、そのエネルギーが別のものへ向かったときには暴動になるのではないか。映画の中では、回想シーンのコザ暴動という形で出てきますし、ドラマチックな具体的イメージとしては、宮里がドンパチやって、バーバラが撃って、騒然となる中を船出が行なわれるところは、暴動のイメージだと毘うんですよね。
 森崎 今度ぼくがひじょうに嬉しかったのは、『オキナワの少年』を撮った新城監督が、「どうぞコザ暴動のシーンを使ってください」って言ってくれたことですね。彼のその暴動シーンでは、踊ってるそうですね、カチャヤーシを。実際、ほとんど暴動の場というよりも、カチャーシの場だった、と。僕はカチャーシが好きなんですよ。やっぱり暴動になるとカチャーシになる、それでこそ我が祖国沖縄といえるぐらいのもんで。
 山根 やはり宴会の、あるひとつの変形なんですね、暴動ってのは。
 森崎 ええ、そうです。生活者としてのぼくは月に二回ぐらい、たとえばバスの運転手だとかに「ひっくり返して火ィつけるぞ、この野部!」と叫んでる自分を幻想してますからね(笑)。それはとても楽しいんじゃないかというね。
実際にぼくは、釜ケ崎ヘロケハンに行って何日間か泊まりましたけども、あそこはとっても良くて、しごく静かなんですね。ひと晩中、隣でチャラチャラちゃラチャラゼ二投げて遊んでる。フランス映画のあの昔懐かしいシーンみたいな感じがするんですけども。それが、ひとたび暴動となるわけでしょ、あそこでは、となると、コロッとホテルの値段が違うそうですね。質屋からみんな。たまにゃ石を投げないと、ちゃんとそれが沈静しない。まさに理性的な行動。しかも、石投げたあと安くなるから、それで酒飲んで、というんですね。釜ケ崎の場合、暴動やらないひと夏ってのは、いかに沈欝なものか……。
 ですから、理性的にもそうですし、経済生活の上でも、ぼくは、それが暴動であろうと宴会であろうと、ときたまの騒ぎはひじょうに合理的である、と。人間が生きていく上での大脳生理学的においても。
 山根 このシナリオをとみますと、普通の映画より、飲むシーンが多くて、名古屋でも美浜でも飲み屋が舞台になってますね。それと、森崎映画でお馴染みの、暴れることがある。どうやらそこいらに、森崎さんの生活者イメージがあるように思いますね。
 森崎 そういう意味では、他ならぬ楽しむための宴会の場であるはずの飲み屋なんですが、美浜ではほとんどその楽しみがクラッシュされてる、しかもそれが、暴動と素直につながんない、というふうな二重の苦渋というか、その暗さが、実はぼくはあんまり好きじゃない。もろ、陽性にしたい。フェリーニの世界で、宴会は宴会として増殖して行きたいんですが、それは今や、増殖しない、死滅する娯楽の場というのがひとつあるんで……フケが溜りますね。


     女性への願望

 山根 これも森崎映画の特徴なんですが『党宣言』のシナリオを読むと、やはり男性より女性の登場人物の方が、強いというか、たくましいというか、エネルギーにあふれていますね。女性讃歌なんでしょうかね。
 森崎 男と女を比較して、男をひ弱なもんだとかっていうふうには、まったく思ってない。まあ、大きな声では言いにくいんですけども、自動車運転させても、そぅいう能力は女は落ちるし、という価値評価はあるんですよ。
 ただ、現実的な評価ではなくて、シェイクスピアだか何だかにありますよね、「女から生まれたもの」というふうな、それはつまり人間の異名ですよね。土から生まれて土に帰るみたいな宗教的な言い方もありますけれど、どこから生まれたかっていうと、女から、母から生まれたわけで、女はほっときゃ、すぐ母になるわけで(笑)、やっぱり自分が生まれた母胎が豊かであってほしいっていうのは誰しも、ねえ。最も豊かなものの表現であってほしい。カオス的な、存在のすべての極限みたいな豊かさ。そんなふうであってほしいと、みんな思うはずですから。
 沖織人における海の向こうだとか、労働における無為だとか、踊りだとかっていうことも、同じようなことだと思うんですけども、そういう欲望なんですよね。ですから、女性讃歌なのかな、やっぽり。讃歌じゃなくて、願望なんですよね。
 山根 そういう女の登場人物に対して、男の登場人物は、だいたいウロウロしてるんですね。ところが、原発が出てきて被爆してるのは、安次と宮里で、当然ながら原発ジプシーとして働くのは男たちで、それから、死ぬのはアイコを別にすれば、安次、宮里であったり、闘うとなると、やっぱり男なんですね。
 森崎 でも、バーバラは最後に撃つでしょう。まとめて元とるわけですよ。やっぱり、男が撃ったんじゃサマにならんという気がしますよ。しかも、裸しか取り柄のない人がぶっ殺しておいて、それを罪とも思わないし、その罰を考えもしないというところは、もう元とってるわけでね。という発想じゃないですかなあ。
 山根 その前提として、男と女の役割分担みたいなものが考えられているんじゃないですかね。例えばギン子がバーバラに、説教というか、厳しいことをバチンと言いますね。ああいうセリフを言うのは、男よりも女の方が多いんですよね。森崎さんの映画では。
 森崎 ああ、そうか……。
 山根 ああいうセリフは、あんまり男は言わないんですよ。今までの映画でいえは、中村メイコがやった母さんとか清川虹子とかで……。
 森崎 喜劇で、ダメ男としっかり女みたいなスタイルがありますね、あんなのを見ても、楽しかったりしないですね。基本的にはそうなんですよ。
ただ、やっぱり反動はあると思いますね。つまり、男がしっかりして、すべての価値の基準であった時代に、ぼくらは育ったわけでしてね。で、父権が国権と串刺しされてるという、カチッとした価値尺度ってものがあって、劣った人間たちはどこに寄りかかっていいかわかんなかった、それをひっくり返したいという欲望とか衝動が、もう常に働いてることは、どうしようもなくありますね。このごろはそういう表現そのものがパターン化されて、ある風俗になってしまって、逆にゲンナリするって感情もありますけどね。
 しかし願望する者は、どうしても男になるわけですね。それは自分に近いというだけのことじゃないですかね。で、その願望する存在が弱いというふうには思わないですよ。願望が強ければいいわけで。願望しないより願望した方が、人間的だって気もしますねえ。願望することがドラマチックなわけで、はじめから満ち足りて願望しなければ、ドラマにもならないわけですね。しかし、満ち足りた存在としての母性というものがあれば、安心して願望できるといいますかねえ。絶望的に願望するってのはとても辛いわけで、ご免こうむりたいっていうふうに思いますよ。
 だから、願望する男性の側に、ぼくはポイントがあると思うんですよ。泰然自若としている清川虹子みたいなのに、ドラマのポイントがあるとは決して思わないですよ。
 山根 今までの映画と比較していえば、中学生が、ひとりじゃなくて三人も出てくるっていうのは、大きな違いなんですけれど、これはやはり、さっきおっしゃった、自分には中学時代がなかったことに根ざしていますか。
 森崎 ある種の欠落感じゃないでしょうかねえ、どうしても自分の手で創造物にしてみたいという欲望が働くというのは。欠落と同時に、ぼくの今の年齢といいますかね、それが相乗作用で。なかったに等しいことを、取り戻したいといいますか、回収欲望といいますかねえ。衝動として働いているんじゃないかって気がしますねえ。
 ですから、自分じゃ自信がないんですよね。それをキャラクタライズしていかなきゃならんと思うんですけど。キャラクターをきちっと与えて、自分の手の内で、中学生の正というふうに分けることが、結局できないですね。正って役は、ぼくのイメージでは沖縄の血を引き継いだ、ものすごくゴツイ感じがあって、和男はその正にほとんど性的に惚れてるという、もう少年ホモみたいな感じだったんですけど、選んで決めた結果は、そうならなかった。結局、和男候補で助監督が選んでたのを正にしちゃった。
 だから、彼らが持ってるものでやっていくしかなくて、それはフィルムで最終的にそうなればいいわけでして、あらかじめキヤラクターを付与していくというようなことは、逆にあんまりやりたくない。そういうヴィヴィッドな感性は、正直いってもう失われてますので、それは彼らがやってくれればいい、それを見過ごさないようにしていけばいい、という……。
女のタマ枝に関してはですね、本物っていっちゃいけないんですけども、つっぱってた子なんですね。で、高校を中退して、自分はその気はなくて、応募もしてないんですよ。お母さんが言うから、という感じで、何かこうシラケててね。そこがいいんですよね。
 「あたし、別に役者になる気もない。歌手にはなりたいんですけども」と言うから、ぼくがあとで呼んで。「歌手になるにしても、こういうことをやった方が、あるきっかけになるし……」なんて言ったら、あとで助監督に「あたし、歌手にもなりたくないんだよね」(笑)。シラケてるんですよ。目つきがもう{はあ?}って、こうですからね(笑)。
 だから素材としてそれがいいてなことじゃなくて、どういうんでしょう、いろいろこう、「お前はズベ公だ、番長張ってんだ」なんて言って、脅迫がましくやるってのは、嘘でね、やりたいようにやって、それが見るに耐えるものになっていくという……。ひじょうに情熱的に表現しようとしなくても表現がある、と。つまり、殺人なんてのは、とてもドラマチックですけども、宴会の中にもドラマはある、と。そういうふうなキャラクターの描き方だって、あるんじゃないかなって気もするんですね。
 山根 その点、ほかの俳優はどうなんですか。倍賞美津子にしろ、平田満にしろ、原田芳雄にしろ、俳優としてのイメージが、もラバッチリあるでしょ。
 森崎 正直にいいますと、元気ハツラツたる若者を、「ヨーイ、ハイ」って走らせて、ドボーンと飛び込ませたいとかいうのは楽しいんですよね、「バカヤロー!」ってどなってね、「お前ら、テレビで、リノリウムの上で演技しているから、そうなんだ。飛べ!」なんて言うのは。まあ今はその元気もなくなったですけど……。もっとも、アウシュビッツだって言われましたけどね(笑)。
 だけど、現実に我々の周囲には、そういう元気の良さがないわけでしょ。生活者として一所懸命汗かいてやっている、若者の美しさみたいのは。
だから、パターン化され、定着しちゃった演技に対して、演技者自身がある苛立ちを感じた結果、無理して何か他のことを発見しようとしてる様をぼくは見たいと思いますね。
 山根 しかし、バーバラ=倍賞美津子、宮里=原田芳雄、野呂先生=平田満という配役は、彼らが持ってる俳優としてのイメージとは極端に違ってないですね。
 森崎 やっぱり当てはめてますよ。
 山根 原田芳雄が当初、野呂先生をやるはずでしたね。こっちの方が見ものですよ。さっき珍しいものとおっしゃったけれども、より珍しいものだという気がしますね。
 森崎 そうなんです。ぼくは最初、先生の役に原田さんを思ってた。原田さんが「ぼくは先生じゃなく、ヤクザをやりたい」って言うんで、ひじょうに驚き慌てましてね。結果そうなったんですが、今でもやっぱり、原田さんの先生を見たいという欲望がありますねえ。替えますか。平田満がヤクザをやるってのも…・・・(笑)。
 山根 いやあ、平田満が宮里をやるってのは、ちょっと想像できないですねえ。珍しいものを超えてますよ(笑)。 そりゃやっぱり、原田さんは迫力がありますよ。だから、今までぼくらが知ってる原田芳雄じゃないところが、宮里でどれぐらい出るかなあというのは、たいへん興味深ぃところです。
 森崎 そうですね、三人に関してはやっぱり、シュータブル・キャスティングだと言えますが、そこんとこを抵抗してもらいたいと思いますね。
 倍賞美津子さんて人は、そういっちゃご本人に失礼ですけども、ぼくと付き合うと、あんまり良くないんですよね。ほかのシャシンに出るとひじょうにいい。加藤泰だとか、五社英雄だとか、とくにいいのが今村昌平で、実にいい。何でああいうのが俺んときには出ないんだ、と(笑)。何かちょっとけだるいような、ね。
 ぼくが「ヨーイ、ハイ」って言うと、何か元気いっぱい、あの人やるみたいなんですよね。ぼくがそういうのを好きだと、勘違いしてるんじゃないか(笑)。「あの監督は単純だから、一所懸命元気いっぱいやるとオーケーなんだ、昔からそうだもんね」と、こう思ってるんじゃないかなあ(笑)、その浅はかな考えをですね、打ち砕いてやりたいっていう……(笑)。
 今度も言ったんですよ。「ぼくもういろいろ言いませんから、あなたが決めてくれ。自分の性格はこうである、と。」「え? 監督考えないの?」って言うから、「いやアタシャ考えない。あなたが考えるんだ」と。
 山根 じゃ、ダメじゃないですか。森崎東はこういうのが好きだから、これでいこうなんて、同じになっちゃう(笑)。
 森崎 いや、だから、それは「NG」って言うんですよ。あえて涙をのんで、「ノーグッド」(笑)。
 山根 シナリオを読んで、例の四つの大きな要素があるんですけれど、もっとも心を打つドラマということでは、やっぱり宮里とバーバラの関係、それからアイコと安次の関係、要するに男女のカップルの問題だと思いましたね。そのイメージの集約が、バーバラの「会いたいよう」というセリフである、と。そういう男と女の関係ってのは、森崎さんの映画づくりの中ではどれぐらいの比重を占めてると思われますか。むろん今までの映画にも、いっぱい出てきますよね。『喜劇・女生きてます』の安田道代と橋本功のカップルとか。ただ、今度の場合は、その要素がかなり濃厚なんじゃないかと思うんです。
 森崎 橋本功と安田さんの関係でぼくがポイントに感じたのは、二人とも親無しで、施設で育って、だから手をつないじゃった、「一度つないだ手を離したくなかったのよ」っていうふうに母さんが言うんですけども、そこがね、とてもぼくはいいわけですよね。
 だから、男と女が自からの性(さが)で結ばれ、切断されて、のたうつ、愛憎劇とか、愛欲劇とかいうのは、正直いってあんまり、もっとうまい人がいて、やってくれりゃいいんで…。うん、思い出したなあ。ある女優のマネージャーから「うちのアレとあの男優さんとで、逃げて逃げて逃げて、絶望の中をのたうちながら逃げる、愛憎劇をやりたいですねえ」って言われて、 「そうですねえ」って言ったけども、あんまりやりたくないですね(笑)。
 それよりもですね、今度の、原田さんと倍賞さんの結ばれ方は、ちょっと図式的すぎるんですけども、暴動の場面で二人の出会いがある。二人は実は幼馴染で、倍賞さんは売春婦になってるのが最初のイメージだったんですよ。昔は「おにいちゃん、おにいちゃん」て暮らしてた二人が一緒になって、独特の結びつき方をする。そっちが放浪するなら、こっちも放浪するというので、一生やっていこう、面倒くさいからもう一生、夫婦の形態をとらないで、おのれを買いて行こうと申し合わせることが可能であった、というふうなところに、ぼくはのりますね。
 ぼくは島原に生まれたわけですが、もうずいぶん前、つまり、まだ売春防止法の前に、郷里の遊廓っていうか、陽暉楼みたいのじゃなく、平屋建てがズラーツと並んでる新地ですね、真暗けで、魔屈に近いような、今村さんの映画に出てきそうなところですが、一軒一軒、ずっと女たちがいるわけですね。ぼくも相当スケベですけども、買う気にならなかった。というのは、まあ、ひじょうにセンチメンタルですけども、ひょっとして、知らない妹なり従妹にあたるのがいて、「ちょっと、お兄さん」と、まさに兄貴を客として呼んじゃったら、みたいな、そういう感じで見ちゃつた。とてもあがる気にならない。あがったとしても、「あんた、ひょっとすると、小字校は第三じゃないの」てなことを聞きたくなる。「ハイ、第三です」って言われたら、もうダメ(笑)。
 それと、今度新しく付け加えたんですけども、バーバラの倍賞さんが、どういう訳かわかんないんですが、久し振りに出会った宮里が、ブトンの上でやろうとすると、「ここじゃいやだ」と。宮里が「またかあ」と言って、「どこならいいんだ」と聞くと、「物干しの上がいい」と言う。板張りの上とか、堅い所でやらないとイカないという女の人がいるんだそうですけども、そういう過去みたいなものを抱えてるセックスというものに、ある真実らしいものを感じるわけで、二人の男女が結びついて、のたうち回るっていうのは、ごくろうさん、という感じがするんです。セックスならセックスに含みこまれた擬似肉親性だとか、いうことで男女の関係が成り立っていくということに、やっぱり、愛(め)ずらしさを感じますね。
 山根 今日の話の初めのほうで、シナリオを発想するときにどういうふうに考えるかとお聞きしたら、関係だとおっしゃったでしょ。その関係というのが、今の話のようなことなんですね。例えば、板の上でないとダメなんだというふうな、そういう何かを持った女がいて、一方、こちらにいろんなことをやって男がいて…。
 森崎 つまり、板の上でないとうまくいかない女房を持った亭主てのは、大変だろうと思うんですよ。やわらかいところで、終わったら、ううっと寝たいわけで、それをしょうがないなあと思って一所懸命がんばる(笑)。 その夫婦ってのは、なんかぼく、好きですね。その亭主がとくに好きですね。「がんばってくれ」って言いたいですね(笑)。それはほとんど美しい、がんばってる姿は。
 そうじゃなくて、なんか、東大だか、お茶の水だか出て(笑)、やってるんだけども、隣の旦那とできちゃって、うだうだするというふうなのは、あんまり好きじゃない。大学出たからって、分けちゃいけませんが(笑)。好き嫌いでいうとそうですんねえ。
 山根 じゃあ、夫婦がいてですね、ふっと心の隙間ができて、浮気か何かをやっちゃって、そこからドラマが起こるなんてのには、あんまり興味はないですか。
 森崎 現実的にはそういう場面に、ぼくが主人公で立ち会いたいですけど、それはとてもいいと思いますが(笑)。で、それは現実であるし、団地なんかでは、窓の数だけ情事がるとすれば、それはそれでいいや、と。しかし、うんざりしますね。窓の二乗あるわけでしょ(笑)。亭主も含めりゃ、情事の数は二乗の二乗あるわけじゃないですか。ほとんどもう、うんざり、描く対象にはなりませんね。 


     現実のものの中の珍しいもの

 山根 森崎さんが何に関心を持つかと質問してゆくと、今のように、そういうのは現実にいっぱいあるからうんざりするっておっしゃるんですよね。だから映画は違うもの、珍しいものを撮る、と。ところで一方で、近藤さんのことで聞きましたけれども、小説よりはナマなネタの方が面白いとおっしゃる。片方では現実にうんざりしつつ、もう片方ではまさに現実へ向いてるわけですね。そこで単純に整理して、リアルなものとフィクショナルなもの、それに対して珍しいものとありふれたものっていう四つ項目があるとしたら、森崎さんは、現実のものの中の珍しいもの……。
 森崎 そう、それが一等賞ですねえ(笑)。 順位をつけるならばですよ。二番目は何かしら。二番目が難しいですね。
 山根 どっちみち、ありふれたものはダメですね。フィクショナルで、ありふれたものってのは、最低でしょ、きっと。
 森崎 そうですね。
 山根 やはり珍しいということの独得のイメージですね。
 森崎 だから古語の 教養がほとばしっちゃいけないけども(笑)。「あきらめる」ってのは「明らかに見る」なんですってね。「珍しい」ってのは、「愛ずる」で、「めでたい」ってことですね。
言葉の本来の意味と、日常の手垢にまみれた使い方ってのは、ちょっと違うだろうし、そこいらを、汚れを取り除いてみるってのも珍しい作業である、とは思いますよ。うんざりする対象を、よく洗い流してみると、珍しいのかもしれないし、変なものが出てくるのかもしれない。そういうのは、やっぱりちゃんとやらなければいけないとは思いますよね。
 山根 そこで思うのは、森崎東におけるリアリズムとは何か、ということですね。森崎さんがかつて大学時代なんかに、いいなあと思われた独立プロの映画におけるリアリズムと、実際に森崎さんがつくってこられた映画のリアリズムとは、明らかに違うと思うんですよ。古典的なリアリズムの場合は、なるべく現実に近づけよう、あるいは現実をうまく再現しようというふうになってますが、森崎さんのはそれとは違う。まさに「愛ずる」という一点によって違う。
 森崎 ええ、そうですね。珍しくあれば、それがリアリズムでなくてもいいと思いますよ。
 山根 じゃあリアリズムを離れてるかっていえは、やっぱり森崎さんの映画はリアリズムに違いないだろうと思うんですよ。全くのデタラメで、荒唐無稽というんじゃないですからね。
 森崎 そうなんですよね。墓から人が出てくるみたいな話であれ、ヘリコプターからドラム缶が降りてきて、死体をコンクリート詰めして持って行っちゃうという話にしろ、荒唐無稽であるけども、原発という世界では、そういう噂がどこへ行ってもあるみたいなことにひじょうに驚くわけで、そういうことを荒唐無稽だからといって放っておくことは、何か変だと舌いますね。そこだけわざと放っておいて、隣のおばさんと情事があったみたいなことで、人間のリアルな心理状態を追究した方がいいんじゃないかっていうふうな言われ方には、とてもついていけないという気がしますねえ。珍しがり屋という性癖もあるんでしょうけども、何か偏頗だなと思います、ぼくは。片手落ちでありたくないということは、人並みに、リアルてありたいと思ってるんじゃないでしょうか。
 山根 死体をドラム缶に詰めてヘリコプターでぶら下げていくというのは、全く荒唐無稽なイメージではありますね。ところが本当は、そういう荒唐虹稽なできごとを起こしている原発という存在が、実は、荒唐無稽なんですよね。そういうものが現実に存在している。
 森崎 ロケ・ハンで、美浜の原発の裏側に船で回ってみたんですよ。山越えして逃げて、殺される場面ですね。そうしたら、きれいな松が生えてる出島になってましてね、もう、まさに夢の世界みたいな。それをズバッと切って、原発が建っている。コンクリートの波止場ができて、ものすごいクレーンが立って。
で「排水口はどこですか」と聞くと、「あそこです」って、耳の遠いおじさんが言う。そのとき、監督補の下村優君が、「あっ、風がなま暖かい」と冗談で言ったんです。排水口は相当遠いんですよ。で、海水に手をつけた。「ああっ!」って。それでもういっぺんこう手をつけたら、相当のあったかさですね。やっぱり風がなま暖かいし。で、近づいたら。もっとあったかいんですよ。びっくりしましたねえ。温排水がどうのっていうでしょ。温かさというより熱排水っていってもいいぐらい。それが、二十四時間ずっと流れ出てるわけですからね。まあ、点検のときは止まるでしょうけど。
 山根 すごいですね。海がねえ。
 森崎 ぼくもズボッと手を入れてね、「あっ!」て、もう海が、ほとんど風呂に入るのにちょうどいいという感じで。
 山根 やはりそこでは荒唐無稽とリアルが一緒になってますよね。
 森崎 それでも、まわりの人は、何事もないっていう感じで静かに暮らしているわけですからね。そんな変なとこに彼らは住んでないって言いたいんでしょうけど。
 山根 荒唐無稽とリアルとが共在してることとは、ちょっと違うんですが、もう一つ、両極の共在が今度の映画には感じられますね。というのは、バーバラと宮里が流れ流れて一生やって行こうということに代表されるように、流浪のイメージが濃厚にある。中学生三人と先生の旅もそうですね。とにかく全員、名古屋から若狭まで流れて行くんですから。その一方、沖縄人民共和国と船長の言う<波の上>という飲み屋、今までの映画でいえば新宿芸能社みたいに、ここに住んでいればいちばんいいんだというような定住のイメージがあります。宴会というのは、その定住のイメージと結びついていますね。こんなふうに、流浪と定住という両極のイメージが重なり合って出てくる点に、たいへん興味をひかれるんです。
 森崎 ぼくは、九州の島原半島、つまり西の端で、海が開けてて、からゆきさんなんてのが、なぜかあそこからばっかり出たみたいな、そんな場所に生まれたんで、とくにそうなんじゃないかと思うんですが、玄海灘の沿岸に暮らしてる人たちは、朝鮮の人とほとんど身内みたいだったそうですねえ。沖縄の人も、台湾や与那国島の人とは、何かもう血がつながっているような感じでつきあってて、法律もなんにも関係なかった。そういうのが、ぼくはとてもいいなあと思うんです。
 なんか、政治学ふうに、社会学ふうに言えば、民主主義というものが近代概念としてあるそうですけども、それの本来のあり方みたいなものが、そこでいちばん純粋な形であるんじゃないか。形骸化された民王主義ではなくて、ほんとうに民衆のための思想があるとすれば、そういう思想である、と。つまり、垣根とかがなにもない、こっちとこっちが定住してても、中をとりもつのは、さすらいで…。そこに純粋に存在するのは、人間みな兄弟という笹川イズムでありましてですね(笑)。
 アンチさすらいが定住じゃなくて、定住のアンチが単純にさすらいじゃなくて、漂泊と定住ってものが、ほとんど一対っていいますかねえ。モンゴルの漂泊民なんてのは楽しかっただろうっていうふうに想像しますね。実際そうじやなかったかもしれませんが、漂泊の中でのある定住はひじょうに人間の本然的なあり方だなあ、と。定住が本然的だとは決して思いませんねえ。
 だから、行った先で定住することで、それでまた定住をきりあげて漂泊する…。うまくいけばね。ひじようにオプティミスティックに考えて、そういう生活があるとすりや、理想的なのかなあっていう気もしますね。
 山根 少なくとも、漂泊と定住とは対立する概念ではないということですね。
 森崎 そうですね。対に、こう、同伴してるという気がしますね。
 山根 今までの森崎映画ですと、定住のイメージと結びつくものとして家族のことが大きく出てきましたね。ところが今回は、バーバラが少年の姉さんだったりするとはいえ、家族のイメージはそれほど強くない。
 森崎 そうです。むしろ血のつながらないアイコとバーバラの結びつきみたいな。
 山根 アイコとバーバラ、そしてアイコとマリアというふうに結びついていって、家族というふうにならない。これは意図的なものですか。
 森崎 ええ、そうですねえ。ひじょうにセンチメンタルな仮定ですけども、長く会わざりし情人が相会えるがごとき喜び、なんていうのか忘れましたけど、小説で読んで、なぜか覚えてるんです。つまり喜びの表現の最高のものとしていわれる、と。なるほどな、と思うんですね。
 長く会わなかった清人同士が会うってことは、会うことが保障されているならば、長く会わない期間があったとしても、会うたびごとは、天上の七夕みたいに愛の最も美的なる形態だろう、と。で、仮定としてですよ、バーバラと宮里は、長く相会わざりし情人が会うような喜びを常に持とうと意図的に思う。それを支えてたのは、パスポートがないということ、つまり定住権を持たないこと。そのマイナスでもってそれが保障されるってことだって、あり得るではないかっていう、まことに垂れ流しのオプティミズムっていいますか……(笑)。
 つまり、与那国島の人が台湾の人に親近感を持っていて、「去年も来たけど、また来たかい」「あんた元気だった?」みたいなのは、すごく美しいっていう気がしますね。そういう関係が夫婦とか恋人とかの、異性間にも存在しうると思ってもいいんじゃないか。結婚の形態だとか、家族の形態だとか、私有だとか、いっぺん止めて考えてみる。多数決の原理だとかいう、そこを考え直してみる。そういう暗示を与えられるような気がするんですね。
 山根 もう一つ、それと別に、教師と生徒という関係が出てくるんですよね。で、この両者の関係は、普通よく見てるのとはまったく違う、変な関係なんで、たいへんユニークな点ですけれど、やっぱり教師と生徒の関係には違いないでしょう?
 森崎 そうですねえ。学校というものがある以上、教師と生徒という関係ができてしまう。どんないい教育であろうと、教育とは年上のやつが年下の者を、ほとんど殺意に等しい形で内面的に押し殺してゆく過程であるという説があるそうですが、ひょっとすると、そうかもしれない。というようなことを悟るだけでも教師にとってはものすごい。
 野呂先生の「修字旅行が終わった」ってセリフを、「ぼくは言えないかもしれません」なんて平田満に言われましたけど、もし言えるとすれば、彼がそれを悟ったってことで……。つまり、彼がやっと生徒の一人として、修学旅行を終えたという実感を持ち得た、と。修学旅行ってものがあるならば、そういうことだろうって気がしますね。
山根 この映画を、バーバラと宮里、アイコと安次という二カップルの話として見てゆくと、この四人のうち三人が死にますね。つまり、この映画では男女関係が、殺されることによって、成立しなくなり、途絶する。そしてまた、中学生三人と先生との船出も失敗に終わる。すると、ドラマ全体では、結局、なにかやろうと思ってできなかった話、なにか実りそうなものが不成立に終わる映画、中断させられてしまう映画、というふうに見えるんですね。それはどう思われます?
森崎 うーん……。ぼくは、ある途中までにしろ、中断じゃなくてむしろ完結する映画だと思いますね。修学旅行は終わったと言えるという、それは契機が中断であれ何であれ、完結である、と。もっともでかい中断は死なんですけども、宮里がああいうふうに死に得たってのは、ほとんどもう、めでたいというぐらいの……。
 山根 へえ、めでたい?
 森崎 いやあ、そういう言い方はちょっとないかもしれませんが、ニヤリと笑って、「生きてりゃまた会えるよなあ、バーバラ」と言って死ねるのは、我々が野垂れ死するよりははるかに優れたいい死に方で、ほとんど十全の完結といってもいいぐらいで。それは、引き合いに出すのはおそれおおいけども、さっきのガルシア・マルケスの……。
 山根 『予告された殺人の記録』。
 森崎 あれで、主人公が実にみごとな死に方をね、さんざ二人からナイフで切り刻まれて、腸がはみ出して、泥にまみれたのを、持ちあげてちょっと振ったりして、抱えて裏まで行って、向こうでおばさんが、「ヒャーッ」て叫んだら、「あっ」と言って笑って入ったたという。まあ、ものすごいですね。淀川長治さんみたいになりますけど(笑)。
ああいう死に方もあるんでしょうね。ぼくの兄貴もね、腹を一文字に切って、頸動脈を切って、心臓を刺したっていう、わが兄ながら、ちょっとやりすぎじゃないかと思うほどやって、膝を崩さずに死んだ。そういう人間がいるわけですよねえ。ぼくは決してできないですよ。もうその前に死んじゃいますよ(笑)。 でも、ガルシア・マルケスが書いたあの男は、腸が泥にまみれたら、こう、持ちあげて振ったっていう。あれは実際の話でしょ。だからぼくは、宮里の死なんてのは、途絶じゃなくて、ものすごくめでたい完結である、と。人間が死ぬならば、ああいうふうに死のう、少なくとも願望しろ、といいたいぐらいですね。
 山根 すると、どうなんてしょう? ラストでマリアが「ファイト!」と叫び、バーバラが応じるとき、バーバラには孤独のイメージはないんですか。愛する宮里を殺され、一人になっちやったんですよ。
 森崎 そうそう、忘れてましたけど、そうですねえ(笑)。 一対であるべき両性が一つ欠けた。欠落ですからね。
 山根 バーバラの行動原理を考えてみると、やっぱり宮里とアイコのことだけを考えて生きてきたって気がするんですよ。その二人が殺されちゃったんだから、あの「会いたいよう」という感動的なセリフも、行き場所がないんですね。
 森崎 マリアはフィリッピンの彼方に去って行った。それで、おそらくもう明日は忘れてしまうだろう。けれども、「ファイト!」と叫んだあの声は、ふたつとも天に昇ってですね、「ごはん食べた?」という、天上のアイコに届くというイメージですね。アイちゃんの「ごはん食べた?」ってセリフが、ぼくはとってもいいと思うんですね。それを挨拶代りにしたっていう発想が。だから映画の終わりで、「ごはん食べた?」っていうセリフが出るならば、それは途絶ではない、と。
 山根 ぼくは今、中断とか途絶というイメージを言ったんですけども、実はもうひとつのイメージがあって、それがめでたい死に方ってのにつながるんじやないかと思うんです。それは、墓の中から蘇ってくるという復活のイメージですね。バーバラがアイコを包摂して生きて行くんだというラストでいえば、生まれ変わりのイメージといってもいいです。うまく説明できないんですが、そのことと、非行やら原発やら沖縄やらがどうして出てくるのかっていうことが、なんかひっかかってんじゃないか、絡んでるんじゃないかって気がするんですね。というのは、そのへんに森崎さんの独特の死生観があって、人は生きてゆく上でいろんな出来事とぶつかり、怒りをくりかえし感じて、その連続が生きるということだと……エー、何をいいたいのか、こんぐらがってきましたね(笑)。
 森崎 生活者としてのエトスでいいますとね、巷には、今や、自転車置き場がないんですよね。ぼくが置いてたところは、度重なる警察権力による排除によってですね(笑)。で、いっぺんやられると、環境整備センターという遠い所へ取りに行かなきゃならない。ものすごい労力ですね。あれだけ公務員を雇って持って行って、それでまた取りに行く。うちも娘がやられて、大変でしたよ、姉妹げんかが始まって。このことは、日常生活の中では優れてぼくを刺激することなんですけども。
 駅前に自転車が氾濫してる光景ってのは、ぼくにとっては、実にいい光景ですね。実質的に人民がここを占拠してる、不法にも。それはいいんだ、美的あれである、と。みんな言うじゃないですか。「ルール違反だ、私たちルールぐらいは守らなくちゃ」って、眼を三角にして、おばさんたちが(笑)。「何だ、ルールってのは」って、からみたい気がするんですが。
 われわれの日常の中で、私小説的な次元でもですね、理不尽ってのは相当あると思うんですねえ。「この紙片は保管して下さい」なんて、きたない紙きれをねえ。それ持ってないと厚生年金がもらえないのを知らないで、チヤッと捨てちゃったりね(笑)。
 どうしようもないことって、あるじゃないですか。なんか予算使って、「老いの道、あなたもいつか通る道」なんて、町角に張ってある。すごいゼ二かけて、なんでそんないやがらせを(笑)。税金を使ってやるんだと考えると、カッカしてきて(笑)、自転車で駅まで行く間に、四つぐらいありますよ。「老いの道、いつかあなたも通る道」よけいなお世話だ!(笑)税金を使わなきゃいいですよ。もの好きでやってるんなら。税金使って、年寄にいやがらせをするなんてね(笑)。それを言うと馬鹿にされますよね、おかしなおっさん、というふうに。
 市会に行って、「ああいうふうにゼニを使わないでほしい」とぼくが言ったとしますか。それで、「自動車一台が占める場所に自転車なら二十台は置けるんだから、あそこの道はつぶして自然にまかせて、あとは野となれ山となれって、自転車置場にするのが、市長の責任である」みたいなこと言ったら、もう、ほとんど馬鹿にされますね(笑)。で、爆弾投げる教育はしてません、みたいな話になると思うんですね。
 我々の生活の周囲で、やっぱり、水に手をつけるとギョツとするようなことが、ぼくはあるんだっていう気がするんで。今度テレビから話がきたら書きますよ、自転車置場闘争物語を。テレビにピタッとくると思うんですが、今度は映画ですから、それを少し拡げると、そうなる、と。そこを遠慮して、やっぱり自転車でやってた方がちょうビいいんじゃないですかって声も聞こえてきますが。そこまで映画ってものを自己規制しない方がいいんじゃないか、人民の財産ですから。と、思いますけども、はたしていかがなものか。
 山根 いや、今の話はたいへんよくわかります。問題は、なぜ映画なんだってことでしょうね。単純にいって、今度の映画は原発やら沖縄を描いたもので、そういう現実問題に収斂していく、あるいは現実問題に還元できる映画であると思う人はいるでしょうしね。
 森崎 つまり、反原発がテーマの映画である、と。それを夫婦の話だとかアイちゃんなんか出してきて、日照り雨なんか降らしたり、喜劇だなんて言ったりして、言いくるめようとしている、と。
 山根 ええ、面白おかしく見せかけてるだけだ、と。
 森崎 もうその声は、幻聴として聞こえてきますね。そんなよけいなこと、ぼくも、やらなくてもいいような気もするんですけどね。いや、大変なんですよ、原発・事故を再現しようなんて。暗い話だし。沖縄だって、客が入らないってジンクスがあるわけだし。選りに選ってやる必要はまったくないと思うんですが……。
 山根 そこで今の話に関わってくるんですね。これはテレビだったら自転車置場でいきたいけれど、映画だから違う、と。そこでは、森崎さんの中で、やっぱり映画だからってのがあると思うんですよ。
 森崎 ぼくはこの作品が、テレビだと見たくないって気がしますね。ぼくが見る方に回ったとき、原発のドキュメントがあれば、とびついて見ますよ。知りたいから。しかし、それをドラマ化したものはあんまり見たくないですね。ドキュメンタリーを見たいですね。テレビの最も「愛でたい」とこは、それじゃないですかね。坐っててドキュメントが見れるという。
 山根 映画でなら、原発のドラマを見てもいいんじゃないか、と。
 森崎 ええ,そういう機会はあんまりないですから、愛ずべき機会だというふうに思いたいですねえ。
 山根 映画だと?
 森崎 映画だと。
 山根 そこですね。なぜ映画なのか。この略称『党宣言』を十年ほども映画でやろうとしてこられた、持続する執念の根底に、映画なるものがガッチリあるんですね。普通にいって、映画で無理ならテレビで、と思うことがあっていいと思いますからね。
 森崎 映画とテレビはどこが違うかっていえば、我々つくる側でいえるのは、個人的につくれる、個人ないしはその複数で映画をつくることができる。テレビはそれが不可能である、と。有線放送ができて、つくれるってことがあるかもしれないけれど、その場合でもね、違うんじゃないかと思う。
 ですから、もしこれをテレビでつくるという場合に想像されるのは、ぼくの個人的発想でのドラマが相当変形させられるってことですね。それは当然そうでしょう。相当変形を甘受しなければいけないと。映画だって、甘受すべきことは多々ありますし、甘受することで通していくって方法もあるわけですが、テレビの場合、テレビ局そのものが、電力を最も大量消費しているわけですから。プロデューサーなんかに自己規制は相当はたらくし、原発ドラマってのはまずやりませんね。今後どれだけ自由になったにしても。ぼくはまあ断言してもいいと思いますね。やっぱりそこの力学は、ぼくらが想像する以上にはたらくんじやないかと思いますよ。
 山根 だけれど、森崎さんはこれを、テレビじゃできないから映画で、というふうには発想されてないと思うんですよ。
 森崎 そうですね。ええ、そうですよ。
 山根 テレビとの比較なんかじゃなくて、森崎さんは、映画というもの、映画という芸能の形式に、独得のイメージを持ってらっしやると思うんです。そこなんですよね。
 森崎 そういうふうに自分の感じを外から見たわけじゃないですけども、ぼくが映画に期待するのは、ほとんど世界的ですねえ、たぶん。
 山根 世界的?
 森崎 全世界的っていうか…ほとんど世界だったですよ、ぼくにとって映画は。少年の頃には、世界以上だった。自分の感じうるものをはるかに越えてましたねえ。それは当然ですけどね。少年十何歳のぼくが考えつくことよりも、稲垣さんがつくつてみせた『無法松の一生』の方が、はるかに。それはもう、ぼくをおおいつくすくらいの、ほとんど世界だったですよ。
 ですからぼくが自分でつくる映画でも、ほとんど世界をつくるに等しい作業、そういうふうに考えたこと、あんまりなくて、恣意的にぼくはつくってるわけですが、それだけの表現の可能性っていいますか、ほとんど個人を離れて、独自に歩くほどの世界を現出しうる世界だ、このフイルムとテープレコーダーと音楽と俳優さんでやる映画ってのは。そういうふうに思うわけですね。それじゃテレビも同じじゃないかって言われりゃ、そうなんですけど。
 山根 いや、テレビは世界ではなくて、世界の部分ですね。
 森崎 そうなんですよ。ぼくらの感覚では、それこそエトスでいえば、ある箱ですね。だから、ギン子が言いますけども、「そういう正義感なんてはやらんのだ、はやるのは四角なテレビの箱の中だけだ」。まさにテレビドラマってのは、正義ドラマじゃないですか、みんな。そういうものが現実に機能しなくなればなるほど、テレビではやる。テレビにはそういうところが機能としてあると思うんですよね。
 山根 映画は、それとちょうど逆で、まるごと世界なんだ、と。
 森崎 ええ。やっぱり『おしん』がはやるってのは、それがないからで、擬似体験を求められてるから、代替物として与える。映画でもそういうことはありますが、でも、映画ってのは、もっと現実に即してる、代理物を与えるなんてことで、ごまかせるものじゃないんだって、気はしますね。ほとんどもう、それは、世界だから。