京都造形芸術大学映画祭 森崎東の愛と冒険

対談者森崎東  (勝木孝) 2008年
11月22日
同年
11月23日
出典京都造形芸術大学映画祭      『喜劇・女は度胸』 『生まれかわった為五郎』
森崎東の愛と冒険 『ニワトリはハダシだ』 『喜劇・特出しヒモ天国』
発行パンフレット 上映 上映
発行年2008年11月22日 森崎東 (ゲスト) 緑 魔子 (ゲスト)
赤木智弘 (ゲスト)

監督 森崎東!

■聞き手は勝木孝氏と西尾孔志氏。インタビューアーの氏名がないとネット上で読みにくいので、一応、「勝木」としておく。

    ヨーイ、スタート

 勝木 本日はお忙しい中、私たちのためにお時間を割いていただいて有難うございます。
 森崎 どうも。では、さっそく始めましょう。
 勝木 それではまず映画業界に入ったきっかけを教えて下さい。
 森崎 ああ、映画ね。京都大学にいたころ学生新聞をやっていましたが、記者はやっぱり人種的に違うような、と。一つのタイプがありましてね、あんまりいいタイプじゃないですよ、なんかね、人好きのするようなタイプじゃなくて、要するにある種の権威主義なんですよね、新聞社ってのは。そのニオイがね、どうぢても鼻について嫌だった。で、新聞記者になったとしても往年の無冠の帝王みたいなものでは決してないと、実はただのはしりこづかいなんだと、あんまり期待してくるなって聞いて、当時はほとんど全員が新聞の入社試験を受けましたからね。僕はどうも落っこちそうな気もしたし、直前になって変えちゃったんですね。
 勝木 で、京都映画のほうに。
 森崎 そうです。松竹株式会社に入ったということですね。
 勝木 確か当時松竹は25歳までしかとらないっていう規則だったけど、森崎さんは29歳だかで入られたという。
 森崎 よく知ってますなぁ。ええ、そうなんです。
 勝木 それはどういう手続きで入られて。
 森崎 インチキして。
 勝木 詐称ってことですか。
 森崎 ええ、詐称です。公文書偽造になります。本来なら前科一犯ですよ。
 勝木 それで撮影所に入ってからについて伺いたいのですが、京都撮影所が閉鎖されるんじゃないかっていうような気配はいつごろからありましたか。
 森崎 入ったときからもうにおってましたね。大曽根辰保監督が、僕の保証人的な人だったんですけど、非常に深刻に僕に話したことがありましたね。監督という監督が全員頭いっぱいで思案投げ首という感じなんだよって。要するに、作っても作っても映画界全体が落ちるばっかりですから、僕らが入ったときがピークで、それからずっと落ちてるんですよ。だから、その落ちるこの下り坂の頃にずっといたわけですから、そういう内実をよく知ってる監督たちにはわかってたんでしょう。これは大変だぞっていう。
 勝木 当時の森崎さんはその全体的に下がっていくぞっていう空気があった中で、割とやってやるぞ的な感じだったんですか。
 森崎 そうですね。それで不安になったり、絶望的になったりはなかったような気はしますね。
 勝木 松竹ヌーヴェルヴァーグっていうのは森崎さんが入られてどれぐらいの頃におこるんですか。
 森崎 えーと、一年以内じゃないですか。すぐですよ。
 勝木 もともとジャーナリスト志望の森崎さんからしてみたら衝撃じゃないですか。
 森崎 そうですね。
 勝木 これこそ待ってたものっていう。
 森崎 待ってたかなぁ、まあ大島のあれ(『日本の夜と霧』)を見たときに、こんな素材を取り上げてかまわないんだっていう非常に遅れた感じでしたね、我ながら。
 勝木 京都はまだそういう空気はなかったんですね。
 森崎 ええ、時代劇だからやっぱりっていうこともあって。僕と同期よりちょっと上の大島渚と中学が一緒だった森川君っていうのが監督だったんですよね。抜擢されて、ヌーヴェルヴァーグの一味として見られてたので、その機会に乗じて監督にしちゃったわけです。どんなもん撮るかっていうもんですよね。それで、僕が助監督でついたんですけども、最初は「ヌーヴェルヴァーグでいくぞ!」みたいな。だからプロデューサーの直しちゃった本をまたですね全部ひっくりかえして直しちゃって、そんなことしたらクビですけどね、ほんとは。でもやれって僕もけしかけたし、書きなおしたりしてもろヌーヴェルヴァーグ的な作品を作っちゃったんですね。『武士道無残』って作品なんですけど。それが出来上がったときは非常にまずいことにもう落っこち始めてたんですよ。ヌーヴェルヴァーグ自身が。興行的にも落っこちたんで、もうこれでやめようってことになったところでクランクアップして、僕が予告編を作ったんですよ、それをもちろんヌーヴェルヴァーグ風に作ったわけですよ。そしたら専務が専門で観るわけですけども、なんだこりゃあってことになったんです。ヌーヴェルヴァーグそのものじゃないか、これはいかんって言ったじゃないかって。だから作り直しってことを命じられて、作り直したと思いますね。びっくりしてももう作ってますからね、話の筋は変えられないし、兄嫁とできちゃった若侍がという話ですから、もう不倫の極みをいくという。
 勝木 ないですもんね、そういう時代劇は。
 森崎 ないでしょう、たぶんね。
 勝木 入られる前も結構映画をご覧になってたんですか。
 森崎 ええ。
 勝木 森崎ぐらいの歳の方だったら、ちょうどヌーヴェルヴァーグ本家の衝撃が青春期に来た感じですよね。
 森崎 ええ、その前にイタリアのネオレアリズモっていうやつがもろにきましたね。作品はなんだったかな。『苦い米』とか沢山ありましたね。要するに、その思想的なものというよりもあの感覚が一番ガツンと来たのが『無防備都市』ですね。アンナ・マニアーニの息子が逮捕されてトラックへ走り去るのをダーッとキャメラが捉えた。あの長い長いシーンに完璧にいかれましたね。があんと後頭部を強打したという感じですね。
 勝木 第一作監督作品の『女は度胸』の企画が出たときに森崎さん自身はネオレアリズモに心酔していたから、できれば監督はしたくなかったと著書で拝見したのですが。
 森崎 まったく出来もしないんですけども、僕が考えているようなものが現実になるとは、まあ大島はしたようなものですけども、あの、現実感をもっては考えられなかったですよ。大島がポシャった後ですからね、ですから、余計無理だろうなという感じがあったんですけどね。でも、作りたいのはドラマ的なおもしろさを前面に押し出したものではなくて、現実の衝撃的な側面をドキュメンタリスティックに見せることって今までとは違った感動を与える作品だった。
 勝木 しかし、森崎さんのフィルモグラフィーの中にネオレアリズモのような作品はないですよね。やっぱりどこか娯楽映画的なものがまず根底にあって、割とそこに社会的な視点が。
 森崎 基本は人情劇です。要するに隠れ主義者ってやつですね。人情劇を隠れ蓑にして、僕はやりたいことをする。
 勝木 そこはもっと全面に押し出してやろうっていうことは、やはり映画っていう商売上の中ではなかなか難しかったでしょうか。
 森崎 ええ。それはそういう風に考えてることがわかっただけでまずいという感じではありましたね。そりゃ株式会社は許しませんよ、大島には許しましたけども。彼は第一作から三作目まで当たったんでひょっとするとこれは儲け口だなって事で許したわけで、ああいうことは層をなして出てくるというわけにもいかんでしょうね、まあ、ある種層をなしてましたけどね、続けてでてきた人もいましたもんね。
 勝木 篠田正浩さんに吉田喜重さん。
 森崎 そうそう。
 勝木 そのときに『女は度胸』を撮られて、最初は嫌々やっているっていう感じでしたか、もう社長命令なんだから仕方が無い、撮るしかないんだって感じっていうような。
 森崎 ええ、そうなんですよ。社長命令だったわけですよね。最初は社長命令で脚本を書けだったんですよ。で脚本ができて誰が撮るんだってなったら、とにかくお前が監督しろと、なんかはめられたって感じで。そんなこといっちゃあ申し訳ないんですけども、監督になるっていうのは大変なタイミングなんでそんなこと言えた義理じゃないんですが、やっぱりそう思いましたね、あんまりやりたくないって。
 勝木 そう仰る『女は度胸』なんですけれども実際観ると、やりたくなかったとは思えないぐらいパワフルな作品なんです。
 森崎 渥美さんがいいんですよね。渥美さんが出ていない、ということになれば、まったく違ったものになってると思いますね。
 勝木 『女は度胸』の主役って一応河原崎さんと倍賞さんですけど、渥美さんがかなり出ていてそれで裏主役としてですね、裏主役という言い方はおかしいかもしれませんが、清川虹子さん演じる母親っていうのがいますよね。
 森崎 自分でもそう思いますよ。
 勝木 何度か観ているとあれが主役なんだと思いますが。
 森崎 僕の中ではそういうふうに決まってたような感じもしますね。真の主役はというふうに意識的だったかどうかは別にして、最後は母親が「私の番だ」という一言が必ずあるはずだって。
 勝木 一作目っていう気の持ちようもあるんでしょうけど、素晴らしい存在感でしたね。母性で浮かぶような優しさとも違うスケールの大きな大陸のようなね、女像、今観てもびっくりするほど新しい。当時松竹映画やその他のものを観ててもなかなか母親っていうのは、どっか古典的なところがあって、そこを森崎さんの中でどういうふうにぶつけてやろうっていうのがあったのかなって思いまして。
 森崎 たとえば、いわゆる母ものなんて大嫌いでしたね。だからそういう種類の情緒的な歌だとかなんとかは、すべて拒否でしたね。古い人情的なものも。最終的に寄っかかる社会的な叫びであろうとなんとなく嫌いでしたね。だからほんとに嫌いだったんでしょうね、そういう種類のものに。
 だからむしろ一方では紋切り型を受け入れつつ、「受け入れる」はおかしいな・・・・とにかくそういう人物に似たように造形をしつつ、実は根底ではまったく対立的な典型を素知らぬふりして作り出したいというふうな希望はずっとありましたね。それは母親像だけじゃなくて、たとえば貧乏人のあり方みたいなことにしてもですね、やっぱり自分だけが発想できてるはずだ、みたいなものをやりたかったんですね。
 勝木 失礼かもしれないですけども、さっき仰った社会的の叫びで訴えた方が分かりやすさが出てくるはずじゃないですか。森崎さんはそこにいかない。それで思ったのは、森崎さんは一本一本理解者が少なかったんじゃないかって。
 森崎 そう、そうですね。自分だけっていう感じがありましたね。誰からも支持されてないっていうか、スクラムも組めてないっとゆうか、全然そういうことから見放されてる作り手なんだっていう印象。ふんっといって自分から拗ねてるような感じもありましたね。
 勝木 森崎さんの作品では血の繋がりを基本としていわゆる「家族」よりも、人々の結びつきが密になり、家族と呼べるまでに高められていく姿がよく描かれています・そこに森崎さんの家族観の投影があるのかと考えていたのですが、それは違うと。
 森崎 僕の家族は、ごくごく仲のいい、親父がしっかりして、かといって抑圧的ではまったくなかったんですけどね。だから僕の中での親に対する不満とかが根底にあったという事ではないと思いますねぇ。要するに何が嫌いって良くできたホームドラマ的な、なんかはじめから結論が出てるみたいな、モラルの押し付けで終っちゃうのが大嫌いでしたね、非常に不愉快な感じがしました。
 勝木 それよりはむしろ猥雑でノイジーな。
 森崎 ええ、ノイジーなほうが。ギャーと荒れてるほうがまだしも民主的だという気がしますね。
 勝木 猥雑でいうと、森崎さんの作品って、必ずって言ったらおかしいかもしれないんですけれど、糞尿が結構出て来ますよね。
 森崎 糞尿はむしろ、ある種人間的なものだとしか思えないんで、それをちょっと忌諱するという精神がなんとも・・・・。いや、まあ良いですけど、どうでも良いですけど(笑)、だからそういうのはしょっちゅう言われましたね、「お前なんでそういうのやりたがるんだ」と。奇妙な生物でも見るような目をして見られたこともありましたね(笑)。
 勝木 あまのじゃくなんですね。
 森崎 ええ(笑)、確かにあまのじゃくかもしれないですね。
 勝木 山根貞男さんとのインタビューで美学が嫌いっていうことを森崎さん自身が仰ってましたが、それについては何か?
 森崎 美だけが尺度だるというのが気に食わんですね。それと僕は戦時中、甲種飛行予科練習生に行ったんですけど、あれがどういう風に僕たち少年の気持を掴んだかと言うと、僕は掴まれた方ですからよく分かるんですよ。甲種飛行予科練習生、募集要項なんてのがありましてね。中将にするって書いてあるんですね。最後は中将まで昇進する。これはもうよく憶えてますね、「昇進」っていう活字を。それと七つボタンでしょ、要するに美学なんですよ。ぐーっと引っ張られたんですね。もの凄い手でグッとこう捕まれたという・・・・・どこを捕まれたかというと、ピクピクと反応する美的感覚を掴まれたんですね。
 かつてヒットラー・ユーゲントが大牟田にきましたよ。しがない港ですけど、タラップから降りてきたとき、映画でなんかよりもそらぁ激しい煌きですからすっごい美しさなんですよね、もうこの世のものとは思えないわけですから、ヒットラー・ユーゲントっていうもんは。パチっと敬礼して、要するに古今東西問わずに美でつかまれたんですよね。そっちで持ってかれちゃった。命をとられちゃった若者ってのは先に美的感覚をつかまれちゃったんだっていう僕のなかでも考えは動きませんね。例えば小泉信三っていう人の息子さんが海軍士官に憧れてて慶応大学からいって戦死なさっているんですけど、あの憧れは明らかに美的造形ですよね。かっこよかったんですよ。やっぱり海軍士官っていうのは。あの短剣つりさげて。
 勝木 それは、あまのじゃくとして反発しませんでしたか。
 森崎 あるんですけどね、あるんですけどもどうせ俺たちは中将なんかにはなれる訳がない。初めから士官なんかできない感じですからね。嘘付けよーって分かってるわけですよ、嘘つきやがってと思うんですけども、ね、その匂いなりを嗅ぎたいというようなスケベ根性もあるわけですね。
 勝木 例えば若い時期の映画監督ってやっぱり美学って傾倒しやすいわけじゃないですか?
 森崎 ええ、みんないかれちゃいますね。
 勝木 大島さんも美学的だし、古今東西の監督が若い頃美学に走るわけですけど、森崎さんは確かに走らないですよね。
 森崎 哲学科の美学科にちょいといってみようかなってほんとのスケベ根性で思ったことがありましたけどね、むしろある種の気迫の作用で全然違うということを証明したいみたいな感じがありましたね。だから本気ではなかったですけど。
 勝木 映画って当時は男性社会ですよね。男性って美学が好きですから、森崎さんの作品はいかがでしたか。どっか美学的に低く見てるっていう空気は感じましたか。
 森崎 感じましたね(笑)。僕は正直言って、しゅう学が好きですから。
 勝木 しゅう学?
 森崎 美醜の醜。
 勝木 ああ!
 森崎 醜学なんてないのだけれど、醜の中に美は発見しうるのか。どだいテーマになりようがないものですけども、そういうふうに自分の性格が分かってますから。美にいかれる男っていうのは醜の極みだって思っていましたし。

     醜の中の美、その発見(演出)法

 勝木 『生まれかわった為五郎』のハナ肇って途中まで仁侠映画のパロディ的な人間だったのが、いつの間にかいろんな怒りを背負って殴りこみに行くシーンはすごく怖くて、喜劇を観てたのに何でこんなに戦慄するんだろうっていう。
 森崎 ピストルを放り出した後のシーンね。
 勝木 コンビナートの夜景をバックに黙々とハナ肇が歩くところが、あれはマキノさんの仁侠映画とは違う厳しさっていうか。
 森崎 現代的なコンビナートが出る仁侠映画。それは狙ってましたね。
 勝木 『生まれかわった為五郎』は、マキノ雅弘さんの仁侠映画とかで高倉健が歩いててもおかしくないようなシーンを現代的に森崎さんだったら、こう撮るぞというのがあるような感じがします。また、『街の灯』なんか小津さんの『東京物語』の裏返しで家族になるはずだった人を笠智衆が訪ねていく。それは『東京物語』的な感じではあったんですけど。
 森崎 そりゃもう、意識はあったんですけども、ここを観ろってのはなかったですね。こうなっちゃいました。
 勝木 演出家として感銘を受けた人は。
 森崎 今井正さんですかねぇ。現場なのにまーピクリとも音がしない。なんだここは、死人の館かみたいな。で、撮影やってるわけでしょ。そういうの不思議でしたね。
 勝木 他の監督さんと今井監督さんは
 森崎 まったくの静けさが違いますよ、まったく。
 勝木 それは緊張感で
 森崎 ええ、緊張感ですね,現場の緊張感のつくり方はそれぞれにそれぞれの人たちで微妙に違うってことはよくわかりましたね。
 しかし、それを学んでどうするとは思いません。
 勝木 森崎さんの演出について具体的に伺いたいのですが、本読みやシハーサルはされるんですか。
 森崎 しませんね、立ち稽古みたいなものはあまりしませんね。
 勝木 じゃあ、現場に行くまで役者さんたちがどういう発声するかもわからない。
 森崎 わからないですね。
 勝木 実際、現場で役者さんが役をつかむまで森崎さんはどういう段取りで。
 森崎 そこが一番、なんていうのか痛いところでもあるし、どうなるんだろうと想像したりするんですけれども、その通りにはいかないし、それについては、もう千変万化するわけで、一つの法則があってそれが絶対とは思わない。毎回毎回、毎回毎回違います。
 勝木 まずは最初にテストの演技をやってもらいますよね、それでイメージが違ったときに修正していくって感じ。
 森崎 ええ、そうですね。
 勝木 脚本書くときはラッシュのように映像が浮かぶとか。
 森崎 それはたまーにはありますね。
 勝木 現場では一度うかんだその映像のアンチをやりたい、とどこかで仰ってましたね。
 森崎 アンチのほうをやりたいとつい思ってしまいますけども、あまりやらないほうがうまくいきますからね。
 勝木 あっ、そうなんですか。
 森崎 ええ。
 勝木 脚本家デビュー作を森崎さんが演出した高橋洋さんは監督もされますが、その時思ってた基本的なお芝居をその通りをされた場合、崩したくなる、違和感を感じるっておっしゃるんですよね。
 森崎 例えば、僕は倍賞美津子さんをよく使いますが、彼女の中の女学生じみた健康な演技、大嫌いなんですよ。やめてくれって言いたくなるんです、「女学生みたいで違う」とぬけぬけと言いますけど。なんだかわからない顔してますもんね、彼女。多分、僕に合わせている感じなんでしょう。かといって他の監督だと全然違ったりするじゃないですか、倍賞さんって。まったく出来ないですよ、変にスケッベったらしいのとか。僕はそういうものも一杯出してもらってその中から選びたいのですが。
 勝木 森崎さんの作風に合わせて。
 森崎 そう!もう僕に合わせて、すごく健康的な。
 勝木 それはもう『喜劇・女は度胸』からずっとあるイメージなんですね。
 森崎 見透かすんじゃないですか、あの人は。賢いからすぐ分かるんじゃないでしょうか、ある意味では。
 勝木 こっちはむしろねちっこいのをやって欲しい・・・
 森崎 そうです。ねちっこいのが。そういう分かりやすいある種文学で描かれた社会的リアリズムみたいな演出をしたくない。全て手つかずでいきたい。
 勝木 緑魔子さんは映画祭で上映される『生まれかわった為五郎』以外にも何本か出演していますが、森崎さんの作品以外の緑さんってどちらかというとスタイリッシュで現代的な美人で出てくるんですけど、森崎さんはどちらかというと、内向的でちょっと不幸な役柄です。
 森崎 どっちかといったらそう。そこがいいんですよね。ちょっと現代的な娘さんは好きじゃないんですよ。正直いって「あっちをやってよ」っていいたくなっちゃう。
 勝木 じゃあ、緑さん自身は不本意かも・・・。
 森崎 であったかもしれませんが、僕ははじめからこれでやってくれっていってますから。聞いたことはありませんが。
 勝木 森崎さんはキャスティングにかなり関わられるんですか。
 森崎 ええ。
 勝木 キャスティングの段階で、役者の社会的イメージと役柄とのギャップを利用するということは
 森崎 あります。
 勝木 実際、お芝居させてみて、どっちかといったら、現場的な流れでは、そのままいったほうがいいんだけれども、もし時間があったら、どちらかといったらお芝居をずらしていきたい、その人のイメージと通りじゃないものを探りたいと考えますか。
 森崎 ええ、そこで生まれた、本人も「俺がこんなことやるのか?」みたいなのがあるとしたら。
 勝木 例えば現場で、実は前もって用意してたんだけれども、それまでは役者さんに言わずに、実際こんな事をやってくれないか、ということは?
 森崎 ええ、あんまり意図的ではないですけれども。例えば『ニワトリはハダシだ』で、倍賞さんが二刀流みたいな構えをしますね・あれは本人も全然考えてなかったと思いますね。今考えてもなんであんなことを。両方から誰かがかかってくるのにやるのならわかるけども、でもあれやりたかったんですよ。
 勝木 それは、倍賞さんにはこうしろとは言わなかったんですか。
 森崎 直前に言ったんです。ただ身振りで示した。ポーズだけです。持てともなんとも言わない。そういうのって意外に効果的なことがあるんですよね。当人も思っていないわけですから。
 勝木 演出で言うと森崎さんの映画では歌うってことが重要な意味を持ちますよね、ここで歌ってくださいっていうのも準備している。
 森崎 大体、もう歌は先に音を録っておいて、口パクで合わしてという風なことをやりますからね、それは全部言ってあります。
 勝木 それはもう、シナリオの段階で
 森崎 ええ、シナリオの段階で。
 勝木 必ず出て来ますよね歌が。歌ってその人の感情も描きやすいし、また華もありますから。80年代ぐらいというか、ちょっと昔だったら、歌って必ず出てましたけど、ある時代の日本映画から歌わなくなりましたよね、でも森崎さんはずっと歌わせているということで、華やかさやそれ以外に、なにか意味とか思い入れとかあるのですか。
 森崎 開放感の共有みたいなこと、日常生活の中で我々の体験することとしても、それは歴然とありますからね。その瞬間は、忘れずシャッとピンアップしておきたいというようなことじゃないですかね。歌を入れたいというのは。
 勝木 今の日本映画を観てて感じるのですが歌って減りましたよね。
 森崎 開放感そのものがないんじゃないんでしょうかね。
 勝木 森崎さんの作品って、社会派的な風にみられたりすることもあるんですけれども、多くの作品などで、非現実的なもの、つまりファンタジーみたいなものが突如として急にでてきたりして、歌うやつがでてきたりとか、日常の中に非現実もあるっていう感覚ってすごく好きで。
 森崎 例えば僕の日常にも歌なんて全くないですからね。歌いたいと思うんですよ、たまに。こう言う気分の時はクソったれって思うんですけど。それを歌うとこれは気が狂ったなって思われざるを得ないし、そういうことがなさ過ぎるんで、突発的に。精神病的に、欲しいという風に、思うんじゃないでしょうかね。
 勝木 せめて映画の中ぐらいは。
 森崎 いや、現実の中に実は欲しい。でもそれは大問題なんで。
 勝木 一番最初にネオレアリズモの話が出てきましたけども、森崎さんの映画って、割とその社会の問題とか低所得者の人の話とか出てくるんですけども、そのほとんどが、悲劇で終らないっていうか、必ずどこかで希望が描かれますよね。それは、悲劇で全部終らせたくないのですか。
 森崎 そうですね。絶対そうですね。この世は生きるに値しないことを見極めろ、という風には作れないですね。逆を言いたい。それは、甘いってことは、重々分かった上でですけど。直接そのことの答えにはならないと思うのですが、今ふと思ったんです。イタリアの映画でちっちゃなじいさんが出てきて、ナイフを鞘から出そうとして、でもガリガリ錆びくれてるんですよ、なかなか取り出せないんで、頭に来て叩きつけて、それをまた踏んづけるという、エピソード。それでもって何をしようと思ってるのかも、僕は忘れました、お前を刺すぞということだったかもしれません。でもそのすごい真剣さが同情を誘うといいますか、希望を与えるとかいう甘いもんじゃなくて、もっとシビアなギリギリのこの男の誇りの証明みたいな感じでしつこくしつこくやる。監督は忘れましたけど、誰だか、すげぇよかったんですよね。もうそれだけでいいというような、この映画はそれで何か訴えてるから映画を一本観た気にさせる。ただのエピソードでしかないですけども、それはすごく力を持ってたと思います。
 勝木 今の話って、僕らが森崎映画から感じることとまんま同じです。さっきのナイフの話は、『為五郎』の財津一郎がピストルを放るところのシーンなんか同じような感覚が。
 森崎 影響されてると思いますよ、あのカットにはね。
 勝木 あの感覚すごいなと思いました。自分の好きな女が別の男を蘇生させた為に裸で抱き合ってる、それを知りながら、黙々と地面を掘るんですよね、そしてピストルが出てくるっていう。
 森崎 そうですね。
 勝木 ところで森崎さんは為五郎が嫌いっていうのは・・・・・
 森崎 いや、為五郎をなんかこうしたいんですよね(手で掃う)、なぜか。
 勝木 それは、当時の評価と関係があったんですか。
 森崎 いや、ハナ肇とうまくいかなかったんです。
 勝木 僕らぐらいの若い人間が日本でアメリカン・ニューシネマに影響を受けた監督さんっていうと、直ぐに浮かぶのは、神代辰巳さんとか、長谷川和彦さんとか、日活の監督さんがパーと出てくるんですけれども、『生まれかわった為五郎』とか『喜劇・特出しヒモ天国』を観たときに、松竹にアメリカン・ニューシネマみたいな人が居るんだって感じに思って。
 森崎 褒め過ぎ(笑)。
 勝木 日本人的な心情にいかない感じがありましたね。
 森崎 それは、いきたくないですね。
 勝木 そこは多分、すごう嫌いなんだろうと。
 森崎 嫌いと大きい声でいいたくもないですけど、嫌いというところにも、僕自身の矛盾がごっそり入ってますからね。それをみすみす告白したくない。
 勝木 日本人嫌いっていうのも、なんかあるんですか.
 森崎 日本人嫌いですね、何でですかね。
 勝木 例えばこれも調べて見つけた記事にあったんですけど、森崎さんは京都大学の学生自分、多分新聞をされてた時だと思うんですけど、在日朝鮮も方のところに行く機会が多かったのではないかと語っている方がいらっしゃって、それも日本人が嫌だというような感覚ですか。
 森崎 それに近いでしょうね。まあ、呑み屋なんかでよく合って、今はあるのか知りませんけれど、そういうとこでよく飲んで、今日俺ん家遊びにこい!泊まってけ!みたいなね、娘が居るんだから、「おいおいおっさん」なんてことも。要するに日本人と嘘をついているんだお前は、同胞だと。俺の目はそう見た、という風に言ってるんですけどね。そういうのが嬉しいような、情けないようなね。
 勝木 そっちのほうがどっちかと言ったら、精神的には安定したというか。
 森崎 ええ、うれしかったですね、そういう、あの気のよせ方をされるっていうのは。
 勝木 不思議なのは、同じ松竹で何本か組まれている山田洋次さんとかは、他者的なものを描かない感じあるなという風に、森崎さんと真逆というか・・・・・。
 森崎 あの人は非常に他者的に現実はみてるんですよね。満州引揚者だから。ドキッとするようなことも言うんですよ。そういう視点で作ったらどうなんだというオリジナルを・・・・なんて思いますね。でも作りませんね。やっぱり節度を守る・・・・。
 勝木 僕、『馬鹿が戦車でやってくる』とか好きなんですよ。
 森崎 ああいうとこ、ありますからね。
 
     
      森崎東自身による森崎東

 勝木 例えばよく森崎さんは鈴木清順さんの名前挙げられますけど、鈴木清順さんとか、ちょっと違うかもしれないですけど、鈴木則文さんとかのように、分かってるけどもはぐらかしてという風に撮るわけには・・・・・
 森崎 そうもいかないんですよね。本気になってしまうというか、アホらしく。
 勝木 そうすると、なぜ本気になるんですか。
 森崎 はぐらかすという余裕が、なんかある種の犬儒主義見えちゃう様な気がするんですよ。権威主義って言い出したら、全部そうだけどね、日本じゃ。
 勝木 でも、監督は権威じゃないのかって言ったら・・・
 森崎 権威ですよ。はっきりと権威に寄かかってますよ。僕はあんまり上手くないですけど、寄っかかり方が。
 勝木 じゃあ、今森崎さんのまわりとか同じ世代の監督さんの中で、自分と同じ考え方で映画を撮っている人間ていうのは。
 森崎 誰か同じようなことをやってくれないと、たまんないですよ、さびしくて。話し相手がいないんですねぇ。
 勝木 そうなんですか。僕の勝手な連想で森崎さんの同時代にいる人出思い描いたのは小川紳介さんなんですね。森崎さんのデビュー作が羽田を舞台にされてて、小川さんも羽田でやられてて。それで1991年ぐらいに森崎さんが、山形国際映画祭の審査員をされてたっていう話を聞いたんで、勝手に点と点をつないで線で結んでました。小川紳介さんと。
 森崎 非常に会いたくて、話したことはあるはずだけれども、ほんとに行きずりでって感じで、いつかしっかりという風に思ってましたね。それでやっぱりすごい惹かれましたね、あの人のドキュメンタリー作品ですけれども、三里塚シリーズなんてのは、全然違いますね。百姓一揆をやるっていうのを再現するっていう話があったんですよね。それなんかやっぱり、ドキュメンタリーの精神そのものが映ってる様な、ただラッパを吹いているおじさんがいるみたいなね。
 勝木 強く惹かれた?
 森崎 ええ、強く惹かれましたね。
 勝木 実際、若い頃にはお会いしてるんですか。
 森崎 そうですね。ガヤガヤの中で会って、それっきりだったかもしれませんが。
 勝木 『ロケーション』で西田敏行さんがカメラ持ってて、女優さんがこうスッと立ち上がって、パーッと走っていくのを追いかけて撮影する。さらに手持ちで撮影隊のカメラがガーッと追いかけるのとか、臨場感がすごくドキュメンタリーッっぽいというか、疾走感っていうんですか、あそこに森崎さんのドキュメンタリーに対する思い入れを感じました。
 森崎 『ロケーション』なんかはしっかり影響されてますね。
 勝木 出来の良くないシナリオの事を団子の串刺しシナリオっていうじゃないですか、エピソードをたくさん団子の串刺し状に。シナリオ読本なんかに書いてあるんですけど、森崎さんの作品を見ると、でもそれで結構面白いじゃないかっていう、むしろ一個一個のエピソードが強烈でそこに貫く何か一本、串が太くあればそれで面白い映画ができんだよっていう感じがして。
 森崎 そういう気はしますね。そういう単純なことなんだっていう風に思いますね。だから美学があってシナリオ、なんとか論みたいなんがあって、いちいちそれを追加しないとだめだっていうのは違うだろうっていう。
 勝木 役者の演技につても、また話を繰り返す様なんですけども、すごいなと思ったのは、『喜劇 特出しヒモ天国』の火災の後の葬式のシーンで芹明香さんがブリッジを突然しますよね、あのブリッジって全く意味がない、意味がないってのはおかしいですけど、特にある種の感情表現というものではなく。
 森崎 今、聞いて思い出さんとこをみると、そうだと思いますよ。特に意味はない。
 勝木 『喜劇 女生きてます』でも[吉田日出子が]ブリッジしてますよね。てんかんを起こすとブリッジをするという。
 森崎 それも大して意味はないですね。
 勝木 では森崎さんが自分の作品を観て、これは気に入ってるなあとか、この作品は好きだなあっていう時に、決め手となるものというのは。
 森崎 なんか、僕ドイツに『ニワトリはハダシだ』という作品を持って行った時に、ドイツ人の僕より年上の評論家が選んでくれたんですけれども、なんであなたはこれを選んだのかって言ったら、そのスイッチングだ、スイッチングがものすごく、なんかシャープっていうか、早いっていうか、それは例を絶しているみたいな風に言ったんですよ。褒めてるのかどうなのかよくわからんのですけどね。確かに、僕はせっかちだから、スイッチングが早いんですよ。そういうつなぎの衝撃力ってのはやっぱり残りますね。
 勝木 『ニワトリはハダシだ』の原田芳雄さんと肘井さんがトラックに乗って運転しているシーンで、バンバンとすごい切り返しありますよね、あのシーン大好きなんですよ。新宿芸能社の作品とかでもバンバンバンとカメラが90度ぐらいの角度の勢いで小気味よくカット割ってたり、高橋洋さんとかも仰ってましたけど、森崎さんの映画はアクション映画なんだよって、活劇の感じがあるっていうか、森崎さん自身はアクション映画は好きなわけではないんですか。
 森崎 できないですね。むしろ、アクション映画になったら、そういうシャープな型がダメかもしれませんね。
 勝木 やらない、と。
 森崎 やらないかもしれませんね。長回しだったり。
 勝木 例えば『黒木太郎の愛と冒険』のオープニングの車のシーンだとか、『生きてるうちが花なのよ死んだらそれまでよ党宣言』の車のシーンがすごいかっこいいんで、できるんじゃないかって、僕ら勝手に喋ってたりするんですけど、『党宣言』もそうだし、『ニワトリはハダシだ』だって、アクションシーンって言える場面が随所にある。喧嘩してるとことか。いろんな要素を入れてますよね。いろんな要素を入れるって言うのはなぜなんです。
 森崎 いや、もう貧乏人感情で、一本の中に詰め込んで、良く言えば、欲張りだけど、欲張れっというか。
 勝木 例えば森崎さんの作品に出演されてた役者さんのインタビューとか読むとですね、すごくワンカットが長い、撮るのに時間がかかる監督だっていう様なことを、仰られていて、どういうところで粘っているのかなって。
 森崎 それはわかんないですよ、自分では。
 勝木 粘ってるつもりはない?
 森崎 粘ってるつもりはほとんどないですね。もっと粘らなきゃいかんのじゃないかと常に思ってるかもしれませんね。そういうプリンシプルを持っているわけではなく、ケースバイケースです。本当にもう、ケースバイケース。
 勝木 じゃあ、森崎さんが上の世代の巨匠のように長時間かけてみたいな感じじゃないんですね。
 森崎 それはないです。なんだかみっともないと思っちゃいますね。権威主義の権化みたいな気がしますよ。「もう一度もう一度」と言い続ける監督なんてのはね、それはイジメでしかない。
 勝木 面白いですね。それも権威主義なんですね。
 森崎 権威主義にしかみえませんよね。
 勝木 現場で助監督時代にそういう監督っていらしゃったんですか。
 森崎 ええ、大なり小なりそういうとこみんな持ってましたね、先輩は。だから、そういうにおいを横溢させるということが、僕は権威主義ではないのかと思うんですけども。そういうアトモスフィアみたいなものを作っちゃうという、のがあった気がしますね。なかったのかもしれませんが。
 勝木 少なくとも森崎さんはそう感じていたというか。
 森崎 ええ。
 勝木 脚本からなにから全て、一貫して権威嫌いというか。
 森崎 権威嫌いですねぇ。そんなにおいがするのは耐えられないという、なんなんですかね、あんまり詮索するのはやめたいと(笑)。
 勝木 そろそろお時間となりました。最後の質問をしたいのですが、今、現在森崎さんが社会に対して興味を持たれてることはなんですか。
 森崎 いやー、「希望は戦争だ」っていう赤木智弘さんについて論評したものを全部読んだようなものだけどね。赤木さんの論文本体は読んでないかな。
 勝木 『希望は戦争』ってやつは、そのフレーズとしてショックで、赤木さんの本を買って読んだんですけども、例えば派遣っていうのは3年間で契約を切られちゃうっていうことがあるんですよ。同じ部署に3年以上やると法律上ダメだから。
 森崎 ああ、法律違反になるわけ?
 勝木 3年やってたら社員にしなきゃいけないんですよ。
 森崎 ああ、社員にしなきゃいけないの。
 勝木 ええ、でも企業は社員にしたくないんで、首切るか、別の部署に移しちゃうんで、その技術が全然身につかない、派遣社長が山のようにいてですね、で無駄に年齢とっちゃうんで、首切られた時に辛いっていう
 森崎 なるほど。
 勝木 でもその状況を変えるために一種のレトリックとして、戦争という言葉を使って派遣労働をやっている人間の先行きの見えなさを赤木さんは訴えていると感じました。昔だったら、世の中の経済もどうにかなるかみたいな感じで最悪実家に帰ったら食べていける方法があったんでしょうけど、今は実家すらヤバイし・・・・
 森崎 まあ今はその実家自体ヤバイんだよね。
 勝木 日本の経済もヤバイし、もうどうしたもんかって感じの・・・・。確かにそういう空気の中で書かれた本だなっていうのは思いましたね。
 森崎 うん。それは分かるね。
 勝木 森崎さんの映画で思うのが一時期70年代とかに反権力としてヤクザ映画があった訳hじゃないですか。深作欣二監督の映画とか。だけど森崎さんは反権力の方のヤクザの方にも肩入れしないですよね。権力だろうが、反権力だろうが、偉そうにしている奴らは許さん!みたいな。
 森崎 そうね。そう。仁義も組織というやつも、ヤバいと思うからな。
 勝木 それは凄く腑に落ちるんですけど、僕はそうしてしまうと自分のポジションがどこか見失ってしまうんです。
 森崎 そう。今やこうなってしまうと全くわかんなくなってしまう。
 勝木 長い間インタビューにお付き合いしていただいてありがとうございました。 
 森崎 こちらこそ。