映画『ニワトリはハダシだ』 インタビュー2

対談者................ 森崎東、 榎戸耕史
出典................ 映画芸術
著者................ 
発行................ 編集プロダクション映芸
発行年................ 2004年 407
ページ................ 104-111


いまでも僕は
『無防備都市』を裸足で走る
アンナ・マニャーニに
追いかけられているんだ


 ベルリン国際映画祭に参加した折りに
 森崎東はポツダム広場に立った
 そこにまとわりついている
 少年時の<戦争>のイメージを語りながら
 森崎作品の強度としてある
 映画的思考の哲理を探る
    2004年

 榎戸 二月にベルリン国際映画祭へ行かれましたが、海外の映画祭への参加は初めてですよね、ベルリンはいかがでしたか。
 森崎 ええ、ただ一度だけ、日本に来たハンガリーの映画監督が当時公開されていた『野良犬』(1973)を招待作品として持って帰って、それが彼の地で公開されたらしいです。
 今度、フォーラム部門に招待された映画祭は、ベルリンのポツダム広場を中心に行なわれたのですが、その周辺は観光スポットでもありますけれど、映画博物館とか映画大学があり、映画館もいくつかありましてね。ドイツには有名なベルリン映画大学があるでしょう、国立の。映画作りに関わると学生にも少しとはいえお金が出ると聞いて驚きました。広場の近くでさえシネコンも含めて映画館が十近くもあると言うので、ベルリン全体では五、六十館ぐらいあるのかと聞いたら、小さいのも入 れると五、六十館どころじゃないと言うんですよ。 日本とは今の映画状況が全く違うようですね。
 僕達が子供の頃には、到るところに映画館があ った。人口十二万の大牟田にも、五、六館ありま したからね。そういう意味で、映画館が全く潰れることなく、むしろ栄えている国があることが非 常な驚きで、僕の中では答えが出ませんでした。 あまりにも日本と違いすぎる。社会現象として、 テレビの登場と同時に映画がどんどんダメになっ ていくのを僕等は助監督時代から見てきて、後は もうずっと右下がり。ドイツでは、少なくともベ ルリンでは、下がったことがないんですね。
 それから、劇場に来る人達がしょっちゅう通っ ていることが明らかにわかる、発言や何かで。そ れは昔の僕らと同じで、親父に映画に連れられて 子供が映画館に行く、そういうことがたくさんあ ったのでしょう。それが日本ではなくなってしまった。そういう現象を映画で飯を食おうと思った時からずっと見てきた僕にとっては、ある意味大命題だったわけです。それでベルリンに行ったら、 映画館は立派、映画祭の会場は休日の朝十時から どこも満員ですよ。違うんですよ、映画とドイツ人の関係と、映画と日本人の関係は。

 榎戸 映画というメディアの捉え方の違いなんでし ょうけど、ドイツ人と日本人との映画との関係性はどこが違うと感じましたか。
 森崎 それが知りたくてね、映画博物館にも行きました。なんだか幽霊屋敷風に作り込んであって、 真面目な気持ちで行くと、ちょっとがっかりするみたいな(笑)。でも凄かったのは、ベルリンの 廃墟をワンカットで十何分も見せているんです。 もう、完膚なきまで全部壊れてる。それは凄いと 思いました。
 もう一つ、入って直ぐの所にカメラの移動車を押しているレニ・リーフェンシュタール、『民族の祭典』(38)のファーストシーンが再現されているんですよ。この映画の公開当時、小学校の低学年だった僕は教師、クラスメイト達と一緒に見たんです。僕の前にはおかっぱの女の子達が並んでいまして、円盤投げの全裸の青年の写ったタイ トルバックで、移動車が彼の背中の方から回り込んでいくわけですが、そのおかっぱ頭が移動車が回り込んでいくのにつられて、一斉に回り込むわけです(笑)。その瞬間を非常にビビッドに思い出しました。つまりね、地球に重力があるのと同様、映像が男女の別なく観る人を惹きつけ、それが抗い難いものであるということに僕は出会ったわけです。映像による哲理ですね。僕はそれを目の当たりにして、その時の印象がずっと消えなかったんです。それをまず思い出しました。結局、それが僕の映像の原点なんです、「人間は映像に 引っ張られるものである」という。僕にとってはコペルニクス的体験だったんだと思います。
 それから、小学生の頃、ヒットラー・ユーゲン トを見た時も目玉が飛び出るくらい驚きました。 ぎんぎらぎんのオーラをまとって輝いた青年将校。僕が思うに雲仙を見に来たんでしょう。学校 から船着場まで連れて行かれて万歳で迎えたのですが、ランチから上がってきて整列、敬礼する姿 を見ていて、この世のものとは思えないような衝撃でした。そのカリスマ性たるや凄いものでした。映画以上に映画的で。当時の文部大臣・荒木貞夫陸軍大将も大牟田に来ましたが、腰に吊した軍刀 が珍しくて見ていたら、皮革を巻いた先っぽの方がチョロっと剥げてまして(笑)、ドイツの青年将校の輝かんばかりの完璧さに比べて、ひどい有様でした。軽蔑したくなるようなね。つまり、軍隊は美が無いとお終いだと思うんです。僕が海軍 の飛行兵に志願したのは七つボタンの美があったからで、あの美がなければ誰も受けません。

 榎戸  今回のベルリン行きは、監督にとっては戦争や、後で伺うお兄さんの問題など、ご自身の記憶や思い出と直結したわけですね。
 森崎 同時に映画への原点でもあります。リーフ ェンシュタールもヒットラーも映像の迫力におい て。当時、日本の青年将校もヒットラーの真似を して、帽子の徽章の上を聳え立たせていました。 ただ、ヒットラーだから様になるんであって、日本の将校には全く似合っていなかった。僕などは、軍隊は美で少年達を引っかけるんだと思ってい た。丁度その頃、リーフェンシュタールが映画も美だということで『民族の祭典』『美の祭典』(38)を作った。映画における美と軍隊における美は似かよっていることを、当時、僕は子供心にもヤバイと思っていた。どちらの美も人を圧倒するものだという意味でね。
 
 榎戸 ところで、同行された倍賞美津子さんや脚本家の近藤昭二さん、プロデューサーの志摩敏樹さんとベルリンのホテルで歌の練習をされた、しか もかなり必死にされたようですね。
 森崎 やりました。〈オコサ節〉という歌なのですが、出発直前にふと、壇上で唄ってやろうと思いまして。民謡研究家でもある脚本家の中島信昭さんに電話して教わったんです。オコサオコサでホントだねえ、というあれね。

 榎戸 どうしてまたドイツくんだりで〈オコサ節〉を?
 森崎 以前、「週刊新潮」誌でニワトリ=ハダシの言い回しをほかにご存じの方がいたら教えて下 さいと告知したところ、日本各地から返事を頂きました。上方落語の一節に「雨の降る日は天気が 悪い、ニワトリ、自転車よう乗らん」とあるとか、 子供の頃に「兄貴、俺より年が上、ニワトリあハ ダシで駆け廻る」「ご免ですめば警察いらん、ニ ワトリあハダシ」と唄いながら遊んだとか、鳩ぽっぽの替え歌で「ぽっぽっぽ、チャボ鶏、鶏あハダシでよう怪我せん、糞はたまるばってん、尻あ拭わん」とか、まあ色々出てきたんですよ。なかでも最も多かったのが〈オコサ節〉で聞いたというものだったんです。「男ぶりより金より心、鶏あハダシでもこりゃ、カカアもってるよ。オコサでオコサでホントだね」と、非常にいい歌なんで、これはお手紙をくれた皆さんのためにも唄わねばと。
 
 榎戸 観客の反応はいかがでしたか。
 森崎 僕が「それでは」とマイクを持って立つと、 まさに万雷の拍手と声援が起きたのですが、時間切れで「歌は次の機会に」ということに。
 榎戸 結局、唄えなかったんですか。
 森崎 いや、名誉のために証言しておきますが、舞台挨拶とQ&Aが終わった後、雪の降りしきる映画館の前で、黒山の観客のために囃し文句の部分だけ唄いまして、皆さん笑顔で見送ってくれました。
 榎戸 ベルリンでも〈オコサ節〉が通じた(笑)。
 森崎 でも、秋田の〈オコサ節〉ではなく、どう しても途中からいつの間にか山形の花笠音頭にな ってしまうんですよね。
  (爆笑)。

    兄からの解放と否応なく蘇る記憶

 榎戸 監督は島原でお生まれになって、小学生の時 に大牟田に移られていますね。
 森崎 小学校の一年を終えた頃です。島原はとても綺麗な所でしたが、大牟田は炭坑町なので風景が非常に違いましてね。そこで週に二回くらい家族で映画を観に行っていました。一番上の兄がよく連れて行ってくれ、その兄は「キネマ旬報」を購読してたので、それが部屋に積み重なってました。唯一の娯楽でしたからね、映画は。その美しさ、面白さ、珍しさに、とにかく圧倒されっぱなしでした。

 榎戸 当時、島原や大牟田あたりは長崎、佐世保に近いですから、軍事的な要だったと思いますが、 その辺はどのように意識されていたのでしょう か。
 森崎 汽車に乗って五、六時間の佐世保に海軍の鎮守府があり、一時間半ぐらいのところに久留米連隊が駐屯してました。爆弾三勇士の銅像があって、少し行った所にある港には軍艦が停泊してましたが、日本全国がそういう状況だったんです。
 兄の話になりますが、一番上の兄は映画狂いで したが、中学三年で学校をやめて満州に行ってしまった。二番目の兄は、満州の建国大学を退学す ると決めて帰ってきていて、精神的にも何か大きな変化があった頃なんですが、二人で確か『無法 松の一生』(稲垣浩/1943)を観に行っているんですよ。
 建国大学というのは、軍事教練と勤労奉仕、それと健脚を競うということで、車でも五、六時間 かかるところを野宿しながら歩くという行事もある、変な学校だったんです。この学校を建てたのが関乗軍参謀本部で満州事変を起こしたあの石原莞爾ですよ。
 二番目の兄は、当時の政治形態を全部ひっくり返すという思想の持主だったので、腹を切って死んだのは当然かもしれませんが、僕にとっては全く意外だったし、永遠に解けない謎です。NHKの「世界わが心の旅」では一応答えを出しましたけれども、証拠もないし言い切れるものでもなかった。何しろ世界観が違うんです。例えば名作といわれる映画『制服の処女』(1931)は徹底的に批判していた。ああいう他愛ないことで喜んだり涙を流したりという青春がまず良くないという感じでした。僕はね、兄という人はその裏側では非常に映画好きだっただろうと思うのですよ、僕を連れて『無法松の一生』を観に行っているわけですから。ただ、開校以来の秀才だった兄に常に比較 される苦痛からだけは逃れたかった。
 敗戦後、僕が映画界に入り、助監督になった頃のことを考えてみると、「あの兄貴は俺をそこま では追いかけて来ないだろう」という気持ちが強かったように思います。カボチャという渾名のせむしの教師に「森崎、お前はお母さんの腹の中で、兄さんに知恵をみんな取られてしもたね」と言われて、あまりにずばりでね、僕もそう思ってましたから。ですから僕は、彼の影響を必死に受けまいとした。彼は建国大学に行ったけれど僕にはとても行けそうにない。ならば映画の世界に入れば、彼はそんな所までは追いかけて来ないだろうと思ったんでしょう。兄貴とは全く違う世界に入りたかったわけです。
 戦争に負けて兄が死んだ時の感じは、たとえは悪いですが、天皇制からの解放という気がしました。衝撃ともに、ある種の解放感があった。昭和維新を実際にやりかねない男が側からいなくなったわけですから。
 
 榎戸 コンプレックスのようなものから解放されたような感情をもったと。
 森崎 それはあったでしょうね。成績でも大変な差がありましたし、人間には生まれながらにして能力差が歴然とあることをいやというほど感じてきたわけですよ。そのことに対するアンチを言いたいという苛立ちから解放されたわけです。単純に好きなものだけを観ていればいいんだと思った。ですから、大学に行ったら実際、映画ばっかり観てました。
 ベルリンでの話に戻りますが、滞在中にポツダム宣言を審議したサン・スーシー宮殿に行ったん です、アウトバーンを延々走って。途中で霙が降ってきて、案内人はいないは寒いは、腹は減るは で惨々な目にあいました(笑)。サン・スーシー宮殿は<無愁宮殿>、つまりフランス語で愁いの無い宮殿という意味なんですけれど、僕にとっては愁いが無いどころか全く陰鬱だった。グロテスクな人体の柱が霙に濡れてですね、もう陰鬱極まりない風景なんです。けれども同行した近藤さんにしても僕にしても、ドイツに来て見るとしたらポツダム以外に何もないんです。ブランデンブルク門なんて見たくもない!(笑)。僕らの世代にとってはやはりポツダム広場、ポツダムなんです。頭に焼きついているんですよ。
 終戦の時、兵隊の階級が上がることかありましてね。海軍では作業帽に黒の一本線が下士官、二本になると将校なんですが、兵の唯一の願いは作業帽に何とか黒い線を一本巻いて故郷に帰りたい、それが切なる願いだったんです。ですから、 終戦によって皆一つ階級が上がって、それを「ポ ツダム兵長」などと言った。つまり、食い物の次に問題なのはポツダム、それが敗戦直後の最大の価値観だったんです。
  
 榎戸 戦争に負けたことよりも、己の価値基準として階級が一つ上がることに皆がこだわったわけですか。
 森崎 そうです。ただ、僕らがポツダムを本来の意味で忘れられないのは、天皇制を残すか否かを審議してくれないからと、ポツダム宣言の受諾を時の宮内省と内閣が引き延ばしている問に長崎と広島に原爆が投下されたことです。天皇制云々よ り早々に受諾していれば、広島と長崎の犠牲は避 けられたのです。霙の降る中、そんな想いで陰鬱な宮殿なんぞを見ていると、トルーマンとスター リンとチャーチルの三人が並んで椅子に座っているあの写真が地獄のものとして蘇ってくる。その陰に焼き殺された二十万人もの犠牲者がいるんですからね。写真をよく見ると、腹の中では落としてやろうという顔で写ってますよ、トルーマンは実験成功を知っていたんですから。ですから僕は今、トルーマンって男を非常に憎みますね。激しく憎んで死んでやろうと思います。あれは許せな い。

 榎戸 社会との関わりという意味では、僕らにとっては、時代背景として実感があるのは七〇年前後の全共闘運動ぐらいですが、監督の中ではポツダム宣言というものを終戦以降も引きずられたことが多々あったのでしょうか。
 森崎 六〇年安保で俸美智子さんが殺された時、 僕は集会とかには行かず、何故か故郷に帰って、三井炭鉱に就職している大牟田商業の同級生達がどんな風にストライキに参加しているかを見に行ったんですよ。炭鉱に行くと、そこは自分がかつてヒットラー・ユーゲントや荒木貞夫を出迎えるために旗を振った場所でもあるわけです。そうい う歴史が色濃く残っているので、戦争の記憶が蘇 ってくるんですよ。ですから、今もって何処に行こうと、何を見ようと否応なく記憶が蘇ってしまいますね。

    マニャーニが追いかけてくる

 榎戸 旧制五高に入って、その後に京都大学に行かれていますが、京都を選んだことには何か理由があるのですか?
 森崎 当時の第五高等学校の場合、一クラス二十五人のうちの半分以上が東大に行ったんです。京大には一人とか二人とかで。理由を強いて言えば、 東大法学部よりちょっとレベルが低かった(笑)。

 榎戸 島原や大牟田の頃の体験が監督の作品には大きな影響を及ぼしていると思うのですが。
 森崎 島原時代には、近所にくからゆきさん〉帰 りのお婆さんがいて、「うちの孫はまだシンガッポ(ール)におりますと」なんて言ってましてね。 からゆきさんというと一般的には悲劇の歴史として語られますが、外地から帰ってきていい家に女中さんを置いて柱んでる老女もいたんです。人間は成功者と失敗者に分かれるわけですが、からゆきさんにしても両方いるんです。
 幼い頃の話をしますと、昨日、実は次の作品のアイディアをふと思い付いたんです、「瓦焼き屋」 という。これが出てくる話なら書けるんじゃない かと。
 僕の父は、祖父があまり働かない人だったこともあって、十七歳から一家の大黒柱として大勢の家族を養っていました。島原から帆船で、おそら く二日くらいかかって瓦焼き屋のある柳川まで行き、そこで瓦を積んで持って帰り、売っていたんです。そういう次第で柳川の瓦焼き屋の娘が僕の お袋なんてすが、夫婦二人でもって働き、家族を養う姿を僕はずっと見てきました。船で嵐に遭った話とか、雨が降ってきた時の干した瓦をしまう音だとか匂いだとか、強烈な印象があって、当時はそれが嫌で、どこか人には隠したいような気持 ちがあったんですが、今は瓦焼きが出てくる話だったら勇んで映画にしたいと思いますね。

 榎戸 その後の炭坑町での暮らしといい、監督の身近には常に労働者とその働く姿があり、そういうところから小津安二郎監督に代表される正統の松竹大船調とはどこかちょっと違う世界観ができあがっていったのでしょうか。
 森崎 違いますね、小津さんとは(笑)。確か京大に入った頃、「軍艦以外はすべて出動した」と 言われた東宝争議がありまして、撮影所を占領軍 の戦車が包囲、空からは空軍が威嚇した。その時、 おそらくは進駐軍命令によって『真空地帯』(1952) の山本藤夫さんはじめ、錚々たる人達が一斉に首を切られました。映画界全体に左翼運動が吹き荒 れていて、映画もそういう風に観ていたでしょう ね。ですから、小津さんの、嫁に行く娘に父親が涙するというようなものには何だこれはという感 じでした(笑)。

 榎戸 そういう流れのなかで、監督の映画に対する原形質のようなものができていったということですか。
 森崎 僕の場合は、五高時代に出会った映画が一生を決定しました。イタリアン・ネオレアリスモ、 ロッセリーニの『無防備都市』(1945)。二十歳くら いの時に観て、これにはやられました。余談にな りますが、八木義徳という芥川賞作家と後に付き合うようになるんですが、彼は僕とその話になると告白しました、「僕はあの映画の中に出ています」と言ってね。あの映画には裏切り者が出てくるでしょう、あれが僕ですと。披はつまり、自分は組織を売ったことがあると言うんです。これ以 上深くは触れませんが、実は僕も未だにあの映画に出てくる一人に追いかけられている気分なんです。あの、裸足でトラックを追いかけて行くアンナ・マニャーーニ。僕の中ではあのシーンが延々と回っている。あんな映画は観たことがなかった。 それまで観てきた小津さんなどの映画と全く達う。僕はあんなものが世の中にあっていいのかとすら思いましたよ。だって後家さんが半狂乱になって裸足で乗り込んでくる現揚に我々は立ち会わされるわけでしょう? 観ているというより立ち会っているんですよ。僕は映画を撮っている間中は、あのアンナ・マニャーニにずうっと追いかけられている気がしてしまう(笑)。
 高校時代に話を戻しますと、旧制高校の蛮カラに憧れていたんですが、入ってみたら着る物も食 べる物もないので否応なく蛮カラ風になってしまいましてね。下駄もないから裸足で、帽子がない から布切れを載せるという(笑)。よく覚えてい るのは、占領軍に髪の毛を切れとよく引っ張られたことと〈VD〉のバカでかい看板。ヴェネリアル・ディシーズ、性病です。売春に対する防御のためでしょうね。道端に乞食みたいな学生がいると、そういう奴らはだいたい共産党だと(笑)。 夜になると酔っぱらって、英語の看板を燃やしたり、ジープに火をつける真似事をしたり。左翼というより単純な反発の類ですよ。
 一方、観る映画は完全に左翼的なものでしたね。 『無防備都市』、『自転車泥棒』(1948)、『靴みがき』 (1946)、『ドイツ客年』(1948)』−−おちゃらけたものはまるで観なかったですから。東宝争議が終息すると日本映画界は独立プロの時代になっていき、北星映画という製作会社などは、ほとんどを若い人達が撮っていました。僕はその頃、京大で学生新聞を作っていたんですが、会話する際に皆が映画の台詞、例えば『真空地帯』に出てくる染一等兵の台詞などでやり取りしてました。「刑務所ぐらいがなんだんねん」なんて (笑)。
 
 榎戸 その後、松竹に入るわけですが、『雲ながるる果てに』(家城巳代治/1953)の上映運動をしていたことがきっかけになったんですか。
 森崎 直接のきっかけになったわけではないです。製作は確か重宗プロだったと思います。学生 新聞で「独立プロを語る」という座談会をやろうということになって、ロケ隊が丁度来ているから話をしてもらおうと。僕にはもしかしたらという下心もあったかもわかりませんが。いや、そこまで考えてなかったかな。当時は映画界に入ることに現実感を持ってはいなかったですから。映画界というのは、いい男といい女がちゃらちゃらするしょうもない連中がいるところだという感じがありましたからね。実際、映画界に入るなら独立プ ロだろうと思ってましたし。けれど、座談会をやってみて、いい男といい女が澄ましてちゃらちゃらというのは偏見であることがわかりました。座談会に出てもらったのが共産党員みたいな人ばかりで、『真空地帯』のような映画に感化されてましたから、映画を一本撮ることは軍隊に一日入隊することに等しいんだと。それほどリアリティーを込めて撮っていて、自分が感じていることがそのまま映画の中にきちんと描かれていましたしね。ですから、映画の中での兵隊の恋愛が人間の恋愛として見えていたわけです。まあ、そういう感性だったからアンナ・マニャーニに追いかけられたんでしょうな。追いかけられてつい映画界に入ってしまった(笑)。でも、映画界に入っても追いかけられている。いや、一緒に闇雲に走って いるのかもしれませんが。僕は映画を観る時は、全く右顧左べんすることな く、とにかく没入的に観ていました。だから映画青年でも何でもなくて、映画についての理屈は言えなかったですよ。新聞部の隣に映画部というのがあって、『無防備都市』についても何か書けばただで映画に行けるから映画評を書きたいと思ったんですが、書かせてもらえませんでした(笑)。因みにアンナ・マニャーニの役はドイツ兵につかまったイタリア・レジスタンス兵の母親の役でした。
     体験に対する落とし前

 榎戸 ここからは『ニワトリはハダシだ』との関連で話をお聞きしたいと思いますが、ご覧になられ た方からどんな反応がありました?
 森崎 京大の学生新聞で「独立プロを語る」とい う企画を一緒にやった友人の高間君には、よくひ と言で切り捨てられることもあるんですが、今回はそうではなかったですね。自転車を満載した北 朝鮮の船のカットが良かったと言われました。これはこういう映画だぞ、という熱いものを何も語 らずとも感じたと。僕は我が意を得た気持ちでした。実際、あのカットはどうしても撮りたくて、カメラマンにもっと寄って撮れと盛んに煽って撮 らせた。フィルムは芝居を撮るよりは証拠のために残しておくものだという気持ちがあるんですよ ね。

 榎戸 あのカットは非常に実感のあるカットですよね。あのようなカットの持つ力が、語り切れない ものとして監督の作品には多々散りばめられているような気がしますが、やはり幼少期の経験が元になっているのでしょうか。話の中に朝鮮半島や沖縄が登場することに関しても、戦争体験とどこかで繋がっている。
 森崎 無意識のうちに在日の人間を出したがっているということはあります。それはやはり幼児体 験でしょうね。「晩飯ばあーい、帰って来おーい」 と母親に呼ばれる時、朝鮫人の子も同じ様に呼ばれたり、家の電話を借りに来たりしてましたから ね。幼年期の原風景の中に、同じ町に住んでいる半島出身の少年達の姿やそのお袋さん、親父さん達の存在が記憶として焼きついています。だから 人間を描きたいとなると、ついついそっちへ行っ てしまうんでしょう。

 榎戸 それが作品の中に形を変えながら出てくるんですね。『ニワトリはハダシだ』で言いますと障害者や在日の問題などが出てきますが、その辺は どういう体験によるものなのですか。
 森崎 幼児期の記憶とやはり色濃く関係していますね。日奈久という小さな温泉町がありまして、水俣のすぐ近くなんですが。そこに父が家を持っていて、日奈久の海の美しさはよく覚えています。一方、大牟田には大牟田川という一日に七回も色が変わる川が流れているんです。それは川に流される工業廃水の種類ごとに色が変わるからなんですが、当時は船をわざとそこに入れて船底の掃除をしたものです。牡蠣なんかも全部死んでしまいますから、一時間も入れておけば綺麗になる。そこでは戦争中から猫などがよく狂い死にしていたのですが、何か変だと思いながらも誰も何も言わない。それは町が三井炭鉱で食べさせてもらって いるからで、何か言うことは町の権力を握ってい る三井さんに楯突くことになるわけですよ。その 大牟田川のもの凄い汚さと日奈久の海の美しさは実に鮮明な記憶、体験として消えませんね。

 榎戸 日本の近代化と環境破壊や公害問題ですね。
 森崎 ですから、公害がマスコミで騒がれる前から僕らは毒が流されて猫が死んでいくのを見て公害というものを知っていたわけです。とは言っても、その種の社会問題として公害を扱うことよりも、自分の忘れ難い幼児期の感覚やエモーションをフィルムに定着させてからできれば死にたいと いうことが、やはりあるんでしょうね。
 ナイスボーイとナイスガールが出てくる愛の物語というのもいいと思いますけど、後家さんが気違いみたいにトラックの後から追いかける画面に観客が立ち会えたり、他人の生き死にに映像を通 じて立ち会え、その見せ物性としての凄さに、少年期に圧倒されてしまったということなんだと思 います。

 榎戸 ある意味では、生きることのリアリティということですね。
 森崎 腹を切った兄が「前後左右を顧る暇なく、果された行為だけを俺は信じる」と日記に書いて いるんですが、自分の行為もまたそうだったんで しょう。つまり、天皇や日本の行く末をあれこれ考えはしたけれど、「アメリカが来たら私が代わりにやりますけん、安心して下さい」と遺書にも書きはしたけれど、結局、前後左右を顧る暇なくとった行為、どうしても切らなきやならなかったんでしょう。そこで手を打たずに考え続けてしまうと、何か何だかわからないままで、お前は目をつぶれるのかと問われたらつぶれないです。だか ら兄は戦争で死んだ同世代の人間に対して落とし前をつけているわけです。我々はつけてない。同年代の連中がいっぱい死んでいます。その落とし前をつけないまま、目をつぶって何をしてきたかと言えば、フィルムに夢みたいなものを焼き付け、映画というものを作ってきたわけですが、それでお終いというのは非常に情けないですよね。
 テレビで誰かが年寄りの惚けた状態を「筋書きのわからないテレビドラマを見ている状態」と言 っていました。それは辛いなあ。自分で夢みたいなものを作りながら、つまり、自分を把握しないまま終わるわけですからね。だから、人の一生を フィクショナイズするなんていうことはとんでも ないと思ってしまう。

    ドイツでようやくOKが出た

 榎戸 監督は『黒木太郎の愛と冒険』(1977)や『生きてるうちが花なのよ死んたらそれまでよ党宣言』 (1985)などでも、少年少女や学生が出てきて、彼らの目線で描いた映画を揚っていらっしゃいますが、監督の中にある若者について伺いたいのですが。
 森崎 今回の作品は最首悟さんの言葉、つまり、障害者を持つ親の言葉には嘘がないと確信できたことがあります。ただ、それをテーマにして果たして面白いものになるのか、また、知的障害者を面白がっていいのかという問題がドンとありました。最初はやはり面白がってはいけないと一応考えたのですが、面白く撮りたい気持ちがありますから、それをセーブするのは違う気がしましてね、 面白がっていいんだと結論付けた。それは「うちの息子を皆さんに見せたい」と障害者のお子さんを持つお母さんがはっきりおっしゃって下さったからです。それは有り難かったですね。ならば見 せ物師の私が代わりに見せますと。
 話は変わりますが、松竹時代、城戸さんに「森崎は僕の弟子だ」と突然言われて、何を言ってい るのかよくわかりませんでしたけど、とにかく現場の人間しか信じない人だった。今にして思えば、彼がいたことがいい作家を生んだ一つの理由であろうと思うんです。ただ、その頃の僕は、五社の 社長達を敵としか思っていませんから「面白い、気持ちのいい、人に慰めを与えられる、人を心地 よく泣かせる作品を作れ、できたら笑いも入れろ」 などと言われると、僕は「何を言ってんだこの資本家め。冗談じゃない。そういうのに偏されているから日本ではアンナ・マニャーニは走らないんだ」と反発していた。僕は変なものに追いかけられていて、それはどこか間違っていたのでしょう。映画を観に来てくれる方々に、力を尽くして、笑いや涙、エモーションの目出度さを実証してみせることが為すべきことであり、評論によって持ち上げられて社会についていっぱしの発言をしたり、祖国の革命に関していっぱしのことを言っているような錯覚に陥ったりするのは大間違いだということは、今ではわかっているつもりなんです。なかなかわからなかったんですけどね(笑)。

 榎戸 僕からすると、監督はシナリオを書いて撮るようになってから、実感としてそうなっていったように思いますが・・・・
 森崎 いや、城戸四郎社長が僕に反省しろと言ったからですよ(笑)。だからといって、そう反省したわけでもないですけどね。
 
 榎戸 そうですか(笑)。でも、城戸さんのおっしゃるような感覚でずっと撮ってこられたように思いますけど。
 森崎 いや、それはついこないだ清水蜜監督の 『母情』(1950)を観てからですよ。

 榎戸 確かに『母情』を観て再発見されたということはあるかもしれませんけれど、監督の作品群の中にはすべからくそういった要素が出ているんですよ。僕を含めて、観客は監督の言葉からではなく、映画自体からそれをずっと感じていると思い ます。
 森崎 そうですね、再発見したのかもしれません。 物心がついた頃から「オレは何かがヘンだ」という感覚が続いていました。そういうエモーションが心の中の瓶に溜まっていて、そのエモーションの質はもちろん、島原で生まれ育たなければ、また違ったものになっていたかもしれない。けれど、多少のコンプレックスも含めて、その実感に忠実であってもいいのではないだろうかという問いに対して、「いいんですよ」という答えが、この 『ニワトリはハダシだ』で少し出たかなと忠います。ドイツで多くの人々が驚くほど親身にこの作品を観てくれたことで、「お前のそのコンプレックスは、それでいいんだ。悩まないでいいんだよ」 とOKが出た気がしましたね。

 榎戸 ベルリンの観客の興味深い発言についてはぜひ次の機会にお伺いしたいと思います。

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