映画ははもうほとんど世界である

対談者................ 森崎東、 山根 貞男
出典................ にっぽんの喜劇えいが 森崎東篇
著者................ 野原藍
発行................ 映画書房
発行年................ 1984年10月9日
................ 
イラスト................ 森崎東 



 T わが映画遍歴、そして家族 1981年9月19日


   「リンゴー!」のファンだった。

 山根 森崎さんにとって、もっとも昔の、もっとも遠い映画の記憶は、どんなものですか。
 森崎 ワン・カットしかないんですよ。題名も何もわからないんですけど、絶対に見たという記憶があって、何ていう映画だったのか調べたいんですが、もうろうとした記憶だから、四、五歳のとき、見たんじゃないでしょうかねえ。
 工場がありまして、工員さんが逆光で走ってくるんですよ。紙袋を抱えて、フル・サイズですね、縦の構図で、手前の方へ来て、上手へ切れるんですね。切れるときは足が切れ、ミディアム・バストになってます。何か黒っぽい職工服みたいなのを着て、パンを落とすんですyp。そのワン・カットの中で、あんパンを。それで振り返って、しまったなという思い入れで見る。実にヘタクソな演技でね、たぶん。で、職工は上手へ切れます。なぜか逆光なんですよ。ぽくの記債でほ。そうすると学生帽をかぶって、大きな柄のかすりの着物を着た少年が、小学校の四、五年でしょうかねえ、何か家出してきたような少年なんですよ。その子がジーッとパンを見て、そっと拾うと、近所にいた子供たち、ないし大人たちが、それを見てゲラゲラッと笑う。それで恥ずかしくなってパンを置いて去るという……。
何カットかになってるかもしれませんけど、ぼくの記憶ではワン・カットでフル・サイズで縦の構図なんですよ。
そんなものがポンと何かで出てきたのかもしれないし、そんな映画なんかなかったのかもしれないけれども、ぼくの中では最初に見た映画として記憶にあるカットなんですね。こういう話が出るだろうと、このあいだも何で覚えてるんだろうと思ってたら、やっぱり子供だから食欲ですね。パンでしょ。ぼくはあんパンてわりかし好きなんですよね。子供はみんな好きなんでしょうけど。あのにおいといい、何ていうか、そそるような、いわば憧れみたいのがあるじゃないですか。ボタ餅じゃない、洋風であるという。それが捨てられたら、俺だってたぶんああするだろうなっていう感情移入、アイデンティファイ。だから覚えてるんじゃないでしょうかね。
 山根 とにかく映画の記憶として鮮やかなんですね。
 森崎 鮮やかです。ですから、ものを知ってる昔の人に聞けば、もちろん無声映画でしょうし、何ていうか傾向ふうな映画だったろうし……。
 山根 四、五歳というと、昭和六、七年ですね。どこで見たんでしょう。
 森埼 たぶん連れられてったんだと思ぃますね。
 山根 子供のころ、映画を見るってことは、わりあい当り前にあったんですか。
 森埼 親父は忙しくて映画どころじゃなかったと思うんです。ぼくは兄二人、姉一人の四人兄弟の末っ子で、それぞれ三つずつ年が違うんですが、いちばん上の兄貴ってのが、後年ものすごい映画キチガイになるわけですね。ぼくといちばん上の兄貴とは、九つ年が離れていて、その兄貴が中学校の一年生だったりするかもしれないし、映画好きだったから、兄弟そろって見に行ったというようなことだったかもしれませんね。親父に連れられて行った記意なんてまったくないですよ。
 山根 いちばん上の兄さんに連れられて行った記憶はあるんてすか。
 森埼 それは後年はもう……。彼が満州へ丁雅にやられるんですよね。親父の命令で中学を退字させられて。それで兵隊検査のために帰ってくるみたいなことですから、うんと後ですね。ぼくは小学校の後学午です。家にはものすごい数の<キネマ旬報>があったですよ。もう、ミカン箱に四つ五つ。オーバーにいえば、ぼくはその中に埋もれて育ったみたいな…:。当時のは句報ですから、月三回で、厚いですから。みんな外国の俳優さんのポートレートがありましてね、うす青い色の。
 山根 そうすると、わりあい映画的環境というのは豊かだったんですね。その兄さんのおかげで。
 森埼 まあ仮説でいうと、いちばん上の兄貴が映画キチガイじゃなかったら、こうなってなかったかもしれないという、ちょっとそういう気がありますね。でも一方で、なんとも家には軟弱な、女の裸があったりする困った悪書がという気もちらっとあったんじやないですかねえ。戦争中ですからね。兄貴に連れられて小学校後学年で、映画に何回も連れて行かれたんだろうけども、なにしろその後は軍国主義になるわけで、<キネ句>なんぞも休刊になるんでしょ、きっと。
 山根 ワン・カットじやなくて、全篇ちやんとまとまりのある記憶ってのは何ですか。
 森崎 ちゃんとあるってのは、困ったことにないんですよ。たとえば無声映画では、たぶん、 「滝の白糸」……だと思いますね。
 山根 溝口健二の一九三三年の作品。
 森崎 ええ、岡田時彦の。
 山根 それは覚えてるんですか。
 森崎 ええ、なんとなく覚えてますね。でも筋がどうの、テーマがどうで、というんじゃなくて、弁士の名調子ふうなもので覚えてるんじゃないでしょうかね。
 山根 そのころは無声映画を活弁つきで見てたわけですね。
 森崎 トーキーは、ぼくが生まれたのと同じ昭和二年ですからね。九州の島原なんて片田舎ですから、そういうのが流れてきたんじゃないでしょうかね。
 山根 『滝の白糸』は島原の映画館ですね。
 森崎 曙座って、音無川っていう川のほとりの。実に懐かしいですね。懐かしいっていう記憶があるってことは、しょっちゅう行ってたんでしょうね。生まれ故郷のなかでいちばん懐かしい建物が、音無川のそばの曙座なんですよ。映画ははあんまり覚えてないけれど、映画館の表の夜の感じってのはすごく焼き付いてるんですよね。
 山根 曙座一館だけですか。
 森崎 もう一館ぐらいあったんでしょうけど、曙座がいちぼん近かったですから、そこ以外には行つてないんじやないですか。ぼくは小字校の一年か二年までしか島原にはいないんてすよ。
 山根 そのころ、ファンになった俳優とかはいますか。
 森崎  いや、島原時代、小学校一年まではそんな記憶ですからね、そんなスターだとか何とかは……。ああ、外国映画、思い出しましたよ。飛行機が落っこちるんですよ。友達が落っこちた飛行士を探しに行くのね。山みたいなところで、「リンゴー!」って呼ぶんです。だからトーキーなんでしょう。ぼくはそれがとても良くて、風呂に人つて、「リンゴー!」ってどなったりね(笑)。その飛行士のファだったんじゃないですか。
 山根 お父さんなんかは、映画を見ることについて、べつに何もいわなかったんですか。
 森崎 何もいわないでしょう。ええ。
 山根 よく昔は映画を見ちゃいけないとか、あったじやないですか。
 森崎 それはもう、だんだん軍国主義に、昭和十二年以後になってくると、全国的に教護連盟ってのがあって、見ちゃいけないと。行ったのは『美の祭典』『民族の祭典』『ハワイ・マレー沖海戦』とかいうのぼっかりですよ。だから他のは止められてたですよね。そういうふうに止められるまでは、わりかし普通に行ってたんじやないでしょうか。止められるようになってからは、たまに行っても、逃げ隠れしながらってことじやなく、めっかりやあ、めっかったで、おこられるんだろうけビも、といった程度のことで行ってたと思いますね。
 山根 映画以外は何が趣味だったんですか。たとえば小説とか野球とか。
 森埼 あんまりないんですけど、ぼくは絵がうまかったんですよ、自分でいうのもあれですけど、小学校時代、<毎日新聞>の何とかで、賞を送ってきたりしたことあるんですよね。たとえは戦地の兵隊さんに絵を送るなんてとき、そのお手本を描くなんてね。日満親善の絵を満州に送るんだというんで。たしか一年生のときですよ。 ぼくは戦争の絵を描ぃちやったのね。すると先生が「これはまずいな」って言ったのを覚えてます。
 山根 なんでまずいんですか。
 森椅 日満親善のためなのに戦争の絵、侵略の絵だから。それと、芥川龍之介の小説とそっくりなんだけど、ぼくのうちは、ドボンと二階から飛び込めばもう港で地名が湊っていうくらいですから、裏が海なんですけども、緑色してんですよね。有明海ってのは内海ですからね。だからぼくが海を描くとき緑色で塗ると、海の色じゃないってなこと先生から言われた。そういう絵についての思い出がずいぶん残ってますから、絵が好きだったんでしょうね。スポーツはぽくはぜんぜん駄目でしたからねえ。ぼくの劣等感のひじょうに大きな部分を占めてるんですけども。
それから、いたずらごっこ、兵隊ごっこなんてのは、ぼくには兄貴が二人いてガキ大将だったりしたから、ぼくも当然その庇護のもとずそのグループに入ってやってたんですけど、斥候だとか、あんまりいい配役はこない(笑)。
 山根 少年時代はわりあいのんびりしたものだったようですね。
 森崎 そうです。ひじょうにのんびり……。親父は商売が忙しくて、ぼくはお婆ちゃんちにあずけられてましたよ。
 山根 いくつぐらいのときですか。
 森埼 小学校の一年か、むっと前からでしょ。ぼくが幼年時代をすごしたところは島原の湊ってところで、学校区としては第三小学校で、そこに入学したんですども、あずけられたお婆ちゃんのところの校区は、第二小学校だが、第一小宇校だかでね。お婆ちゃんのところから、ぼくは第三小学校に通ったんです、一人ぼっちで第二小学校のそばを通らなききゃならんのですよ。だいぶ遠いわけですね。それで変な気風があるんですよね、そのころは全国的かもわかりませんけれど、第二の小学校と第三の生徒が会うと必ず喧嘩すると。そういう状況ですからね。第二の横をこわごわ通る・・・。それもまたコンプレックスの主たる部分を占めたりしてね(笑)。
のんびりしてたとはいえ、両親が忙しくてお婆ちゃんちにやられてたという淋しい思い出ってのはありますよ。ただお婆ちゃんの家には、親父を長男として九人兄弟みたいな、えらく多い叔父さん叔母さんがいて、一人だけまだ結婚していない叔母さんがいたんですよ。このあいだ亡くなったんですが、当時二十五、六歳じゃないですかね。嫁き遅れの、オールドミスになりかかってるみたいな。あとで結婚したんですけど、その人なんかがたぶん、ぼくの映画の女性像の原型みたいなものに関係があるっていう気がしますね。
 山根 森崎さんはいくつぐらいで?
 森崎 四、五歳ですね。いっしょに風呂に入ったりしてましたからねえ。お婆さんはしゃべる相手にならないし、そういう婚期が遅れそうな叔母さんがいて、その人とよくしゃべってたんじゃないですか。その叔母さんが生きてるときはよく言ってましたもんね。「東がこんなことを言った」とか何とか言って。太った人で、最後に歯ものすごい太っちゃって、イタリー映画に出てくるような叔母さんになっちゃったんですが。
そんなふうにぼくはひじょうに放任されて育ったんです。両親が忙しくてかまわれなかったっていうんですかね。でも、やっぽり親父ってのは一家言持ってて、たとえぼいちばん上の兄貴を中学校に入れたんだけビ、三年生でやめさせて、就職を自分で探せって言って、たった一人で満州新京へやるみたいなね。だから、商売人はそういぅもんだっていう、そういう気もあったろうし、ぼくは三男だから商売人にならんがもしれんから勝手にしろみたいなことは、あったんじゃないですかね、いい意味で。
 山根 ここで少し戸籍調べを……(笑)、生まれは……。
 森埼 一九二七年です。十一月十九日です。島原の湊っていう、死んだ兄貴の湊と同じ字のところ。兄が二人、あいだに姉が一人の末っ子です。
 山根 お父さんは何をなすってたんですか。
 森埼 ちっちゃな建築材料商をやってましたねえ。
 山根 商人の家に生まれたんですね。
 森椅 そうです。島原市に武家屋敷とぃう観光ルートになってるところがありますけど、そこに地図があって、わりかし大きな庄屋さんが森崎なんとか左衛門とか書いてあるんですけど、それが親父の爺さんだっていうから、もともとは庄屋さんだったんでしょうかねえ。
 山根 建築材料店はお父さんの代からですか。
 森碕 そうです。さっきいいましたように、親父には兄弟がいっぱいいて、何だか、爺さんなる人が人が好くて、よくある話ですけど、借金の保証人に立ったりして、それでひじょうに零落して、それを長男としての親父が再興しなくちゃならんような状況になった。親父が十七歳のときに、そのお爺さんなる人からいくらかもらって、船を買って、その船で柳川の、ぼくのお袋の里ですけども、そこが瓦を製造してて 瓦を製造元から運搬してきて、それを却したり、小売りをしたりするって仕事を始めたんですよ。そのときからずーっと。
 山根 なるほど。今でいうと、ダンプを一台買って運送の仕事をするって感じと似てますね。
 森埼 そうです、ええ、ええ。だからそういう意味では、あのころの人はみんなそうなんでしょうけども、いわば立志伝中のね、映画にすると面白いみたいな。
 山根 お母さんは柳川の瓦屋さんの娘さん。じゃ、得意先の娘さんと結婚したっていうか、そういう関係ですね。
 森埼 そうです。ぼくの家の屋号が(善徳丸)っていうんですけビ、その船の名前なんですよね。だから島原のはずれの村なんかの古い家の瓦をじっとよく見ながら行くと、(善徳丸)という屋号の入った瓦がありますよ。
 山根 お婆ちゃんとこにあずけられたのは、お母さんも商売の手伝いをしたから?
 森埼 そうです。お袋なんかの方が、よけいやるみたいな感じだったですよ、見ててね。
 山根 どれぐらいあずけられていたんですか。
 森埼 何年ぐらいずすかねえ。三年、いや、ちょこっとかもしれませんよ。幼時の記憶ですから。でも一年ぐらいは、あったんでしょうねえ。
 山根 森崎さんにとっての原点の場所というか故郷は、どこのイメージなんですか。
 森崎 島原市湊です。小学校一年まででしたが、原体験ていうか原風景みたいの、みんな持ってるでしょ、それはもう明らかにそうですね。せまーい軒先がこう、せまーい道をはさんで、ずーっとあって、海があつて、その向かいに地続きの島があったりして、こっち見ると雲仙岳の眉山ってのが迫っててっていう。
 山根 そんななかで、お父さんお母さんは忙しくて、あんまり子供をかまわないみたいな…:。
 森崎 ものすごい働き者で。
 山根 子供心にどう思いました?
 森崎 かなわんな、という……(笑)。
 山根 どういう意味です?
 森崎 たとえていえば、瓦を置いてありますねえ。瓦ってのは、売れなくてずっとほったらかして置いておくと、なんか苔みたいなのが生えてきたりするんですよ。商売としては売るのはちょっと具合悪いんで、こすったりするわけdす。小学生になってからは、そういうのに駆り出されて、こすったりするわけです。それはやっぱりシンドイですよ。そんなことしなくても、売れるものは売れるんですから。でも、それをやる人。
 山根 なるほど。子供心に、そこまでやらんでもいいのに、かなわんなあ、と……。お父さんとお母さんは、子供のしつけとかの点では……。
 森崎 もう、殴られたことも、なんいもない。怒られたこともほとんどない。耳を何回か引っ張られたぐらいですね。
 山根 じゃあ、子供の森崎さんにとって、父親はあまり怖ぃ存在じゃなかったんですね。
 森埼  やっぽり怖かったんじゃないですかねえ。黙ってる分だけ。たぼこも吸わない仕事一方の人間、それで十七歳から妹や弟たちをなんとかしていくという人間てのは、やっぱり怖かったんじゃないですかねえ。
 山根 森崎さんは、小学校ぐらいのときは、簡単にいうと、どんな子供だったんですか。
 森崎 どっちかっていうと内向型ですよねえ。友達も、隣にちょぅど同級生がいたりして徹ちゃんていってたけど、まあその程度のことで。島原には小学校一年生しかいなかったんで、疎遠だってこともあるんですけど、小学校時代の友達で今も付き合ってるっての、ないですもんねえ。
お婆ちゃんの家だと、これはわりかし大きな家だったんですけど、何か真暗なとこに入って、そのへんに捨ててある雑誌なんてのをひっぱり出して読んでましたからね。
 山根 大牟田に移ったのは……。
 森崎 小学校一年生のとき、二年生かな、そんなもんです。
 山根 大牟田での映画体験はどんなふうでした?
 森埼 映画館の数は四つか五つぐらいあったでしよう。こまかいのを含めると六つぐらいあったかな。もうしょっちゅう行きました。だいたい六つぐらいある映画館、ほとんど行きましたねえ。大天地館とか鎮西館。熊本県境を越した向こう側に荒尾って町があるわけですよ。そこにも映画館があって、だから県境を越えて行くとつかまんなかったりするんで、友達と三人で、「高峰三枝子の裸が出るぞ」ってんで、わざわざ熊本県まで見に行ったことがあるんですよ(笑)。
 山根 何て映画ですか?
 森埼  『暖流』ですよ。
 山根 ああ、吉村公三郎の作品(一九三九)。
 森埼 肩のあたりに花びらがついてて、みんなで見に行ったら「なに、向こうむきじゃないか」ってんでね、さんざ怒ってね。バスト・サイズで、しかも向こうむきでね、風呂からすーっとフレーム・インして、下からあがって花びらをとったら、それっきりでおしまいじゃないかってんで、憤激したおぼえがね。あれは何て映画館だったっけなあ。なんか懐かしいなあ。そこで『弾痕』っての見たなあ。外国映画ですけビ。蛋がいたですよ。客席が下も上も畳敷でね。蛋がうつっちやってね。
 山根 『暖流』を見たのは、いくつぐらいのときですか。
 森埼  ぼくは商業学校ですけどね、三年生か四年生、そんなもんじやないですかね。
 山根 映画狂の少年だったんですかね。
 森埼 それほどでもないと思いますがね。ぼくの周囲でそんな奴がいたかっていうと、一人ぐらぃいましたね、三好君てのが。肺病でちょっとおくれて、ぼくより三つぐらい上の男なんですけビ、彼はひじょうに映画好きで。他はなべて同じような感じで。その中じゃわりかしぼくは映画好きだったんじやないでしょうか。
 山根 それで<キネマ旬報>読むとかの習慣はあったんですか。
 森埼 ええ、何しろほら、水着美人なんか出てますからね。ぼくの性の目ざめは、ですからそういう写真ですよ。<キネマ旬報>ですよ(笑)。
昔の<キネマ旬報>の表紙の字って、変な字体だったですよ。あの字体を見るとね、何ていうのかな、性に目を開かれた雑誌。<新青年>なんて、昔あったでしょう。マンガというか、イラストがいろいろ載ってたですよ。軟派雑誌ですからね。あれも変な字体だったけど。つまりああいう洋風字体というやつは、ぼくら昭和初年生まれとしては、自分の性体験、自分だけの性の目覚めと印象が一致してて、何か非常に変な気持がしますね。
 山根 大牟田の小学校を出て、そのあと……。
 森崎 商業学校です。大牟田商業です。
 山根 大牟田で映画をいっぱい見たってのは、その商業学校時代ですね。
 森崎 そうです。
 山根 商業学校を出たあとは……。
 森崎 商業学校を出たあとは、まだ戦争中だったですよ。福岡の高等商業学校ってのがあったんですよ。……経済専門学校って名前に変わってましたけど……そこへ入ったんですよ、一応、どこかへ行くべしってんで、つまり商業学校に入ったことを呪ってましたんですな。
 山根 どうしてですか。
 森崎 上の学校へ行きたいから。商業学校ってのは、上の学校へ行けないようになってんですね、科目も。
 山根 じゃあ、どうして商業学校に行ったんですか。
 森崎 いや、二番目の兄貴が行ったから、つい行っちゃったんですよ。これも入ってすぐ後悔しだしたらしいんですがね、彼ものちに上の学校へ行ってますから。ついつい商売人の息子ですし、三池中学よりは大牟田商業の方が近いみたいな、バカみたいなことがあったりして、兄貴も入ってるしってんで、・ついつい…:。小学校六年生ですから、その上の大学まで行こうなんて、まだ毘ってなかったんでしょうね。何となく入れりゃいいやって。しかも大牟田商業だって昔の中等学校ですし、あそこは三井の町ですからね、大牟田商業を出れば、まあ中堅の職員になれたわけですよ。まあ、けっこうだったわけですよ。一つのクラスから、四、五人しか行かなかったんですからね。
でもすぐ後悔しだして、高等学校に行きたかったわけですね。とりあえず高等商業に進んだものの終戦になったら、すぐやめちゃいました。で、浪人ですよ。どだい行く気はなかったんですからね。
 山根 どれくらいの期間?
 森埼 三年間。だってね、戦後だから、新なんとかってんで、ぜんぜん変わっちゃったんですよ。解折(1)とか(2)か、聞いたこともないような。山の高さはこうで、こうやって調べろとか(笑)。要するに実業学校から上の学校へ行くのは一割以内だっていうふうに、受けるのも制限されてたぐらいで。どだい、受けたって、通んなかったですよね。ただ二番目の兄貴が当時、難しいといわれてた建国大学というところへ一発で通ったんですよね。これはもうひじょうに秀才の兄貴でしたから。一高の英語だけなら絶対受かるなんていわれてた奴ですからね。その兄貴との何かあれがあるわけだから、兄貴が建国大学だったらっていうふうなこともあったんでしょうなあ。とりあえず五高に入りたいというのが全目的みたいになってましたな、そのころは。
 山根 映画はどうでした?
 森埼 エー……。黒沢明でしたね。黒沢明の出てきたのは戦争中ですからね。『姿三四郎』、これはデカかったですよ。その前に『無法松の一生』があって、これは死んだ兄貴といっしょに見に行ったんですけど。そのあとデカいのはやっぱり『姿三四郎』でしたね。それはもうほとんど映画に圧倒的にいかれたって感じがありますよね、今考えると。こんなすごいものが世の中にあってもいいのかっていうぐらい、圧倒的に圧倒されたという感じ。 ただ浪人時代は、そんな映画なんか見ちゃおれないですからね。しかも食糧難ですからね。親父が田畑持ってたところに ちっちゃな温泉町ですけど そこに行ってて、とりあえず勉強せなあかんみたいな。独学でやるみたいなもんですから、全部。だからそのころ、映画って、行ったんでしょうけど、映画館一館しかなくて、あまり覚えてないですねえ。あ、そうだ。日奈久の映画館で見た。映画館とぃったって、半分は芝居やってるみたいな、しょうもないところでしたけど、何か時代劇を一本見たのだけ覚えてますなあ。阪妻…:阪妻だろうな。戦争中につくってね、それを戦後も出したっていう映画が、だいぶあるんですよね。『望楼の決死隊』なんてそうですよ。たぶんあれもそうですよね。いや、そうじゃないなあ。戦後的につくった時代劇ですよ。こういうセリフ、あったですよ。 「破れ障子とと私の権利、張らざなるまい秋の風」っていう都々逸を歌うんですよ、阪妻だか何だかが(笑)。だから戦後民主主義鼓吹の時代劇…:。

    七朗義兄さんと湊兄さん

 山根 今井正の『望桜の決死隊』 (一九四一三)は、ごらんになってますか。
 森崎 見てます。満州の警察官の話。
 山根 そうです。で、いわゆる国策映画なんですが、どう思われました?
 森崎 うーん……何かね、ぼくの姉婿が海軍から引き揚げて来て、よく福岡に遊びに来てたんですよね、米さげて、ぼくに食わせるために。その人が来ると映画を見に行って、そのときに『望楼の決死隊』を見ましたなあ。そんな、まわりのことばっかり覚えているなあ、その人と、うどん食った話とかね、肉がちょっと入ってた(笑)。ついでだからこの人について言うと、ぼくの義理の兄貴で板井七朗さんというんだけど、小学校しか出ていない人で……。ぼくの姉がもらわれてったんですよ。お袋の姉さんつまり板井さんおところへ。子供がいなかったから。そこで婿養子をもらったんですよ。その板井七朗さんが、ぼく以上に映画少年だったんでしょうね。あのね、ひとつだけ話すと、こういうのがありますよ。いや二つ話さないかんかな。ちょっと重要なんだ。『望楼の決死隊』だと絶対この人が出てくる人ですよ。一緒に見たから。
 この人は平家の落人部落の仏の尾っていう山奥の産の人で、そこはほんとに一村十何軒しかないとこなんじゃないかと思うんですけどね。七朗さんが子供のころ映画が来ると、映写機持って来て、どっか公民館みたいなとこで上映するっていうんですね。そうするとみんな、一人残らず集まる、材中の人が。たぶん上原謙が出てるような映画でしょうね。すると、そのセ朗さんが言うには、「うちの親父たちはほんとに腹が立つ、"あんな影絵見て泣いたり笑ったりする奴の気が知れん"とののしって」……。ぼくも会ったことあるんですけど、禿頭の頑固親父(笑)、そんな爺さん連中が一か所に固まるらしいんですよ。みんな出て行っちゃうから、爺さんだけ取り残されたってしょうがないというんで、四、五人で、一村全部集まってるところに来てね、そこで何か煮炊きして食ったり酒飲んだりするってんですよ、クソ爺ビもが(笑)。
 山根 邪魔しに来るんですかね(笑)。
 森崎 いや、淋しいから来るんですよ。だって、みんないなくなっちゃうんだから。一種の文化的イベントが起こるわけでしょ。映画なんて、年に何回かしか釆ないんじゃないかしら。で、言うわけですよ、「ああいう影絵を見て泣いたり笑ったりする奴の気が知れん」ってね。ほんとの芝居ならともかくっていうわけでしょうな。しかも東京が出てきて、鎌倉の女と恋愛して、なんて話でしょぅ、どうせ、ね。病院の院長さんがどうしたとか、関係なぃわけですからねえ。だから、来て、酒飲むっていうんですよ、昼間から。それで兄貴が怒るには、「スクリーンにケツ向けてる」と。
 親父どもは車座になって、背を向けてね、で、体裁悪いもんだから、ときたま……いや、これはそのへんの方言なんですけども、「いやーもう、あたいはよかー涙の出るごた」と、こう言うってんですね。兄貴としては、映画がすばらしくて、涙の出るごとく感動しとると言いながら「ケツ向けて、この爺どもが!」(笑)とね、腹が立って腹が立って……。みんなは「シッ!」て言うんだけれビも、悪い爺ビもとはいえ、ほら、やっぽり長老みたいなもんでしょ、だからみんな、ちっちゃくなりながら見たってことです。
 この義兄が肥料商の丁稚なんかで苦労して頑張るんですけど、実に映画が好きで、ぼくの姉と結婚してずーっと後になって、つまり中小仝業の社長として成功したあと、自分とこの従業員を連れて阿蘇山に社員旅行するわけですね。で、噴火口の傍で、その噴火ロがラスト・シーンになった映画を、彼はふと思い出したってんですね。噴火口を見てるうち、懐かしさのあまり、 「福田さーん!」って呼んだってぃうんですよ。
 山根 何ですか、「福田さん」というのは(笑)。
 森崎 映画のラスト・シーンで、女が「福田さーん!」と呼ぶんですって(笑)。だからもう懐かしかったんでしょうねぇ。社長が呼んだ、「福田さーん!」って(笑)。これがおかしいんだな、ちょっと方言がかってるもんだから「フゥクダさーん!」って。そうしたら麓の方から「オーイ」(笑)。誰かがふざけたと毘ってまた「フゥクダさーん!」「オーイ!」(笑)。だんだんそいつが上がってくるってんだよね。よく見たら巡査だった。下の駐在所の初老の巡査が汗ふきふき、「福田さーん」 「オーイ」と上がってきて、「あんた大牟田の坂井さんじゃなかですか」「はいそうです。何で知っとんですか」 「いやいや、今、お宅が火事です」 (笑)。
 山根 えっ、火事を知らせに上がってきたんですか(笑)。
 森崎 そのぐらい映画好きの人なんですよね。この人がやっぱりね、庶民代表というか つまり彼の親父が、あんな影絵を見て泣くのはインチキじゃないかと喝破するのは、ある意味じゃひじょうに正しい 。それと同じように、彼も、映画の中の世界ってものは楽しみでしかなくて、そこは相当にうまく計算された擬似の世界であるってことを、常に喝破するわけですね。「いやあ、丁雅が苦労する、ああいうもんじゃなかもんの」とか、 「しかし、まああの監督はうまい」とか、いろいろ言うわけてすよ。たとえば『めし』の成瀬(己喜男)さんなんてのは、ひじょうに買うわけです。で「黒沢は上手ばってん、ちょっと上手すぎるもんのー」ってなことを言う。ひじょうに鋭ぃことを。
 だからぼくは、後年、映画をつくるようになって、その人がどういうふうに思うとるかなあってのが、ひじょうに気になってて、つまり大衆映画なんか、つくるんなら彼なんかが「うーん」とうなるような……つまり彼の親父さんなんかがケツ向けて「あたしゃ涙が出るばい」と言うようなもんじゃなくて、その親父さんどもが、スクリーンの方を向いて泣いたりするような、……そんなものを作りたいという隠された願いが、その兄さんを通じてぼくにはあったんですね。
 話をもとに戻しますと、『望楼の決死隊』をその七朗さんと一緒に見に行ったというだけで、内容としては何ものこっていないですね。何の反発も、感動を受けたとかも、まったくないですよ。
 山根 映画を見て、たとえば人生観とか世界観とか、そんふうなものに衝撃を感じたという経験は……。
 森崎 最初は『無法松の一生』ですね。
 山根 稲垣浩監督の一九四三年の作品」。
 森崎 商業学校の何年生でしょうかねえ。三年生か……。三つ違いの二番目の兄貴がですね、建国大学に入って、心臓脚気で帰って来てたんですよね。そのとき、姉がなぜか家にいて、婿さんが海軍に行ったから来てたんでしょうな、姉と兄貴とぼくと三人で『無法松の一生』を見に行ったんです。いちばん上の兄貴はもうインパールに行っていて戦死したんじやないかって状況だったんですよ。だから、三人で映画を見に行ったってのは、ひじょうに大きな思い出なんですね、ぼくの中で。だからああいう世界、その面白さに、やっぽりドーンといかれたんじやないでしょうかねえ。それで子供が出たりするじやないですか。少年時代の無法松が。そういうことで、こうビタッと一致するみたいな お婆ちやんちへ置かれてね、親父に会いに行くとか、そういう淋しさみたいな ぼくはたぶん、すごく泣いたんじやないですかねえ、ああいうシーンで。
 アタマ覚えてますよ。「ボンさーん!」と言って松がね、オフでどなる、オフじやなかったかな。裏長屋のドブ板横丁みたいなところに杉狂児がいて、白い服の警官が現われて、それで杉狂児がいる車屋さんに行くんじゃないすかね。それで「松つぁんが帰って来たそうじゃのう」「いいえ、松つぁんが?」ってとぼける。「松が帰って来たって噂じやが」「いえいえいえ」上から無法松が「ボンさーん!」ってでかい声を出すと、杉狂児があわてて……。
とにかくその出だしの面白さ。そういう出だしから、どんどんひきつけていく。もちろん作品の持ってるリリシッズムみたいなものに、ものすごくいかれたんでしょうけども、おそらくその表現する何かによって、こんなに面白いものがこの世の中にあるのかって思ったんじやないですかね。
 そうそう、ふと思ぃ出したな。『民族の祭典』って覚えてます?
 山根 ええ。一九三六年のべルリン・オリンピックの記録映画。
 森埼 タイトル・バックが、裸の、こう、円盤投げかなんかで、ぐーっと回るんですよ。移動なのか、人が回るのか。それを、みんなして連れて行かれて見てた。そしたら前にいた、女の子だったと思うな、こう前のめりになって…:。回っていくので少しずつ見えてくるわけですよね。すると、こう、要するにぺニスが見える角度へ、こう……(笑)。強烈に覚えてますけどね。そんなふうに断片的なものはいろいろありますけど、トータルな作品イメージとして圧倒的だったのは、『姿三四郎』ですよ。それもモラルっていうことより、とにかく面白かったですね。つまり俯瞰で人力車から飛びおりた大河内伝次郎の足袋の白さとかね。黒足袋だったのかなあ、足袋の裏かな。ナイト・シーンでしょう、あれは。そういうのが眼に焼きついてるみたいな。要するに面白かった。
 山根 じゃあ、映画の見方としては、たいへん素直に見ていたんですね。
 森埼 そう、映像的に。ほら、ぼくのことを友達が言うとき、「森崎君はマンガを描ぃてた」って言うくらいで、みんなの思い出ではぼくは絵を描いてた。
 山根 だから、画面のあり方に注意が強く向いてたんですね。
 森埼 そうですね。だから今の、イラストレーターだとか、劇画作家とか、ぼくは今生まれてたとしたら、もうあれにいかれてますよ。もう職業にしてる。絶対間違いないですね。楳図かずおなんて人のところへ行って、こう、門を叩いてますねえ(笑)
 山根 森崎家は商人の家といっていいと思いますが、森崎さんのような、いわゆる自由業で表現者というか芸術家というような人は 近い家系にいますか。
 森崎 いません、まったく。家系にはないらしい。
 山根 じゃ、森崎東は、森崎家ではちょっとした突妖異変(笑)。知的な影響を特にだれかから受けたってことは?
 森崎 姻戚関係からはないですね。すく上の死んだ兄だけですよ。
山根 たいへんな秀才で、のちに割腹なさる湊兄さんですね。影響を受けたってのは、具体的に例えば兄さんが読んでた本を読んだとか……。
 森崎 ええ。日本文学全集ってのを、だいたい揃えてましたよ。
 山根 もともと家になかったものですね。
 森崎 ないです。いちばん上の兄貴は、もう満洲へ行ったきりですから、そういう知的影響を与える接触がなかったですよね。そのまま兵隊へ行っちゃったから。ずーっと一緒に育ったのは、その兄貴だけ。姉さんもよそへ行っちゃったから。だから二人兄弟みたいにして……。もう、すごい秀才だったですね。なにしろ頭が良かったんじゃないですかねえ。
 山根 頭が良いといっても、いろいろありますね。学者になるタイプなのか、文学者になるタイプなのか、高級官僚になるタイプなのか。もしずっと生きていられたら、どういう感じだったんでしょう?
 森崎 日記が残っていますけども、その日記の最初の部分なんてのは、ゲーテだとか何とかが出てきて、つまり軍国主義なんてのを呪ってて、文学青年ですよね。それで途中から、太平洋戦争の勃発からか何が契機だか、まったくわからんのですけど、民族主義者になっていくわけですね。
 だから、彼が予備学生で入隊するときに、ぼくに「本箱の中にある文学書なんか読むな、百害あって一利なしだ」と、そうはっきり言いましたね。で、そのとおりだったですよ。たとえば倉田百三の『出家とその弟子』も、兄貴の本箱から読んだんですけども、今から考えると、どうってことないんですけど、「霊が一致するためには肉体も一致しなければならない」と言って、女の子に肉体的なセックスを迫る男の描写なんかがあって、そうぃうのを読んですごく興奮したりして、いわばそういうことでは、兄貴の本箱が、すべてぼくのそういうものを開ぃて行ったという作用をするわけですね。兄貴が言った「百害あって一利なし」ということは、ズバリいえますね。
 ただ兄は、単純な右翼ではなくて、つまりトロツキーだとかブハーリンだとかレーニンだとかいう本が、ずらっと並んでましたからね。だからある意味では、満州によく流れて行ったといわれる社会主義者たちの気風というのがあっただろうし、もともと上の学校に行くのに、親父たちに一銭も負担をかけたくない、行くならば、その昔あったじゃないですか、 師範学校に親孝行の息子が行くという、あれですよ。だから建国大学へ行ったんですよ。
 山根 建国大学へ行くと?
 森崎 それはもう、給料が出るぐらいなもんですよ。
 山根 どこにあったんですか。
 森崎 新京です。満州国初代総理大臣、張景恵っていたですね、あれが学長なんですから。こんな大学なんて、いまだかつて存在しないですよ、ええ。その代りすごい。一高、海兵よりもある意味ではたぃへんだったですね、競争率からいっても。それに一発で通っちやった!
 山根 そんな秀才の兄さんがいると、弟はコンプレックスを持っちやうじゃないですか。
 森埼 そうそう、そのとおりですよ(笑)。いまだに思い出しますねえ。カボチャって仇名の、せむしの英語の先生がいたんですよ。正則英語字校かなんか出てる人でね、爺さんで、そういっちやまずいけども、身の丈このぐらいしかなくて、ぼくらもう軽蔑してたんですよね。その西山先生というカボチヤ先生が、ぼくの顔を見ながら、しみじみと言ったですよ。学徒動員で、なぜかダルマストーフがあって、今でも覚えてんだなあ、それ言われたとき、何かで集まってたのね、カボチヤが来て、「森崎、お前は、おっかさんの腹の中で、チエを全部とられてしもうたっちやねえ」って、こうぬかしやがんですよ(笑)。
 そのときにぼくは錯覚した。「血をとられた」と。「おっかさんの腹の中で兄貴さんに全部血をとられたっちやねえ、お前は」と、そう言われたような気がした。後でよく考えてみると、あれは「知恵」なんでね。でも、そのときは、まさしく自分の肉体、脳味噌から、全否定されたようなね。しかもそのカボチャ、背中がこんなんで、この辺に頭があるような、身の丈このぐらいのね。だから、大ショックっていうか、
 山根 いまだに覚えてますねえ。自分はなんか、血のないもぬけの殻だけみたいな(笑)。
 森埼 そういう生理学的な、つまり、ひとつお袋の腹があって、先に出た奴が勝ちだみたいな、生物学的な、どうしようもない、競争にならないっていうか…。いくら年月たっても、兄貴は自分より年が上で、しかもこれ、死んだりされるとね、これはもう、ますますねえ、越えがたいっていうか…:。だから、人と変わりたぃという欲求のひねくれ具合なんてのは、そこからも出てきてますよね。
 ひとがやったとおりやりたくないという、作品でも何でもね、このぐらいの変わりようじやいやだと。もう単純にそう思うわけですよ。でね、あんまり変わりすぎると今度は世の中でも通用しなぃから、これはヤバイぞと思う。だから、頭隠してるつもりではいる。しかし、頭隠しても尻隠さずってのは、見る奴が見るともろに見えてるなという、そんな後めたさがずーっとつきまとうってのは、そういうことじやないですかねえ。
 山根 湊兄さんが割腹自殺されたのは八月の…。
 森崎 十六日ですね。
 山根 敗戦の翌日ですね。森崎さんがその死を聞いたのは、どこですか。
 森崎 えーと、終戦の日は、ぼくは福岡の浪人谷っていうとこの下宿にいたんですよ。
 山根 じゃあ、そこで兄さんの死を?
 森崎 おかしいなあ。西鉄の電車に乗ってる最中に、たしか天皇の終戦の放送があったんで、ぼくは聞いてないわけですよ。下宿に帰ったら、昔下宿してた九大の学生で、そのときは予備学生になっているのが、短剣さげて「おばちゃん、ぼくらこれから上海に行って、海軍は負けとらんからもう一戦やるんだ」って言いに来たのを覚えてんですよね。おばちゃんが「そんなばかな、やめときなさい」なんて言ったのも覚えてます。で、ぼくも、何を今頃言ってんだ、しかしそんな奴もいるんだな、それはそれですごいな、と思ったりして。それにひきくらべて俺はなんだ、なんてね。
 それで終戦になったんで、これは兄貴が帰って来るんだろうって毘ったんでしょうね。それはぼくにとっては喜びだったですよね。兄貴が二人とも生きて帰るのは。つまりぼくが予科練に行くときに、「やめろ」って言ったやつで、それで、ぼくはやめたわけですから。だから、そのオトシマエがつくという……。うまくいえませんけど、国に報いるために兵隊に行くとか何とかっていうことにおいては、兄弟三人とも同等になるわけですからね。ぼくにとってはひじょうに大きな問題であるわけですよねえ。だから、それが帰って来るというのは、いいことなわけですねえ。
 大牟田はもうさんざん爆撃されて、そのときは能本県の山奥に疎開してたんですよ。リンゴ畑がありまして、一軒だけポツーンとあるようなところに。そこに帰りましたよ。着いた頃はもう夕暮だったんですけども。
 あれっ、そぅすると、あの人はそんなに早く帰って来たのかなあ……。そうだ、姉婿の七朗さんが海軍に行ってて、呉にいたんですよ。七朗さんの乗ってた軍艦(出雲)が沈んで、三日ばかり経ってたんですね。その間の三日間、ぼくは何してたか思い出せません。
 帰ったら、ドラム躍にお湯を湧かして、彼がいるわけですよ。風呂が漏ってたんですね。それで「やあっ」って言って。変な顔してんですよ。ソッポ向いて。ひじょぅに仲が良い人だったから、おかしいなあ、と……。そしたら電報が着いてたんですよ。公用電報が。三日くらい遅れてね。
 山根 湊兄さんが割腹した場所はどこですか。
 森崎 三重海軍航空隊のそばの香良州海岸ですね。
 山根 そこからだと、電報が着くのが遅すぎますね。
 森崎 遅いですよ。かわいそうに。
 山根 電報のことを七朗さんから聞いたんですね。
 森埼 いやあ、七朗さん、言わなかったんじゃないかなあ。風呂に入ってましたからねえ。ドラム躍の風呂に入って、「東さん、湊さん死んだばい」とは、ちょっと言えんじゃないですか。だからこう、横向いたんじゃないですか。だから、聞いたのは姉からじゃないですかねえ。覚えてないですねえ。
ショックは覚えてます。すごい泣きましたねえ。ええ、ギャアギャア泣いたですよ。つまり、「何だい」 「どうしてなんだ」という、「何で親をこんな目に合わすんだ」と。その死んだ兄と姉夫婦とは、すごい仲良かったんですよ。「みんな待ってるじゃないか。終戦だってほんとは悲しいんだけども、お前が帰って来るから喜んでんじゃないか。何でぶっこわすんだ」と。何ていうか、悲しみで泣いたっていうんじゃなくて、 「冗談じゃない」っていうか…。
 山根 理不尽に思ったんですね。
 森埼 理不尽に思った、やり方が。大変だったんですから。汽車がもう終戦後の殺人列車のころでしょ。 それにお袋が乗って、二日か三日かかって遺骨を持って帰って来たんですから。親父にいわすと、お袋は気狂いみたぃになったってんですよ。そらそうだわねえ。だから「許せない」って気があるわけです。と同時に、何ていうか、どーんとエエカッコして、今までもこっちと水あけてたのを、もうどうしょうもなく水をあけやがった、という……。
 山根 湊兄さんのような大正末に生まれた世代は、優秀な人ほど純粋軍国青年になることが多かったんじゃないですか。いわゆる右翼じゃなくて、アジア解放の夢をちゃんと持って。だから、大東亜戦争の大東亜ってことを信じて、たぶん太平洋戦争じゃなく、アジア解放の世界大戦というふうに…:。
 森埼 そうです、そうです。
 山根 じゃあ、その三つ年下の森崎さん自身が、そういう兄さんにそれだけ強烈な印象があるんだったら、同じように軍国少年になるってことはあったんですか。
 森崎 それが、兄貴の持ってたトロツキーの『自己暴露』だとか、勝本清一郎の『赤色戦線を行く』とかいうのを読んだんですね。そっちの方が、何か写真なんかも多くてね。『推神の道』だとか大川周明がどうとかは、漢文的素養がぼくは兄貴ほどないわけでね、そういうのが出てくるといやなんですね。
 山根 すると、日本浪漫派的なものは、敬遠してた?
 森崎 敬遠というか、エr−トたちが読む本だ、と。上級生の、しかも成績のいい9丁が読む本だ、浪漫派は。俺は級長じゃねえんだもんな、てな感じでしょうねえ。
 山根 じゃあ、兄さんのように軍国少年になっていかなかったんですね。
 森崎 ええ。宮城遥拝するときに、「天皇のケツのまわりには金の環がはまっててヨウ」ってな話をしてたんですからね。
 山根 三つの歳の違いは大きいんですね。
 森崎 でもぼくの場合は、兄貴との競争心でそうなったと思いますよ。
 山根 兄さんに対する反撥、リアクションですね。
 森崎 そうです、そうです。だから、「お前、天ちゃんなんかはョウ」って、こうなるわけですね。敵を打とうとしてそうしてるわけですなあ(笑)。
それがあるからね、ぼく自身の左傾傾向についても、もひとつ自信がないわけね、正直いうと(笑)。 兄貴との競争心で出て来てんだから。もちろん河上肇の『貧乏物語』を読んだときに、眼からうろこが落ちたような気がしましたよ。でもやっぱりね、「これだと兄貴のあの思想と対抗できるな、しめた!」という感じが……(笑)。
 山根 お兄さんの割腹自殺の意味がある確かさで了解できるようになるのは、いつごろですか。
 森崎 エー……もうずーっと謎でね。なんていうかなあ、『無法松の一生』を姉さんと三人で見たという、そういう楽しみをひじょうに大事にするって感じがあるわけですよ。それを彼はすべて捨てちゃうんですけどねえ。そういうのは、ぼくなんかの感性よりもっと優れて微細なわけですねえ、腹が立つことに(笑)。だからその……。
国が敗戦になったからって殉ずるってことはまったくなかったろうと、これはわかるわけですよ。だってもう、軍人嫌いの、代議士嫌いの、政治嫌いの、でしょう。東条英機ってのは落語家だって言ってたんですから。陸軍大学を主席で出るような、口先だけの関東軍で偉そうにしてたけど、あんな奴が国の将来をメチャクチャにするんだ、と。だから、この国はヤバイ、と。もろに先取りして、見えてたんですからねえ。
 だから、国に殉ずるだとか、天皇がダメになるから自分のよって立つすべての思想の根底が失われたとか、そういうもんじゃないと思ぅんですよ。とにかくよくわからんわけ。自分で書いてるんですものね、終戦の詔勅に背き奉ってるんである、と。生きてりゃ何かやるに違いない、これはまずい、と。だからね、ぼくにいわせれば、やっぱり天皇を否定してんですよね、あの瞬間に。その矛盾がバッと来たじゃないかって気はしますよ。それにしても、なんであんな痛い、痛い目っていうか、そこまで:…。何ていうんですか……。
 やっぽりぼくは、詩的魂の人間だったって気がしますよ。彼みたいな詩的魂は耐えがたかったんじゃないですか。日記の最後に、戦争のおかげでメチャクチャなことやって、みんなもう何かバラバラだ、嘘だ、というようなことを書いてて、でも黙って死んだ人たちの中に、ものすごくいい人間が、好漢がいたに違いない、と。その人たちに百年の知巳のごとき愛着を感じる、と。その人たちのことだけを考えていきたいっていうのが、最後のことばなんですよね。となるとね、もう死ぬしかなかったんじゃないですかねえ。その人たちのことだけ考えようと決意した。それはどういうことかっていえは、その人たちと同じように死ぬってことだったろう、と思うんですよね。だから、イデオロギーでも何でもなくて、詩的死である、と。
 山根 もし殉じたというなら、そういった人たちとの共同性に殉じたんですね。国でも天皇でもなくて。
 森埼 彼は大東亜共宋圏の嘘っ八性なんてのは、もうメチャクチャ言ってましたからねえ。建国大学が植民地大学でインチキきわまるってことも。軍隊のインチキさ、これも言ってましたね。
 もう最後には、いっさいの幻想がさめちゃったんですね。……建国大学には何かが残ってるはずだ、他はだめだ、陸軍士官学校も兵字校も含めて出世主義者の果だ、と言ってたのが:…国を救うとすればそんなところでしかないと言ってたのが、いちばん頽廃してたってのを見て来たわけでしょ。インチキで満人たちを食いものにしてぃるということを、もろに見ちゃったわけでしょ。だから何も信用できなかった。
 三重海軍航空隊で兄がしょっちゅう行ってたクラフがあって、そこの後家さん 戦争が始まるとすぐ、その人の旦那さんは戦死するんですけビ その未亡人、最後には軍国の妻だということで三重海軍航空隊に雇われて行ったって言うんですね。経理のことで。で、この経理のずさんさたるや、ものすごかった、と。士官がみんな、これ(懐に手を入れる)やってて。それで終戦直後、そいつらのすごかったのは殺されたっていうんですからね、兵隊たちに。というのはこれやってたから。「それをあなたのお兄さんは全部知ってたはずです」って、こう言ったからねえ。ああ、そこまでも絶望してたかと思いますねえ。ものすごい憤激があったに違いない、と。もう、グライダーを大破するまで自分たちの班だけで乗り回すとか、夜は寝ないで貴賓室に入っちゃ何だか読んでたとか、消燈後に脱柵して酒飲みに行くとか、ものすごい規律違反をやったていうんだから、そういうのがあったんじゃないかと思いますな。
 山根 湊兄さんの死について、お父さんやお母さんはどういうふうな反応でした?
 森崎 何か打撃受けてましたなあ、やっぱり。いちばん出来のいい子ですからねえ。誇りの子ですよ、それは。たとえば親父は、今はどういう考えか知りませんけど、その直後はこう言いましたね、「帰って来て政界にでも打って出りゃいいのに」と。
 山根 いちばん上の兄さんは?
 森崎 帰って来たとき、ボケてましたけどね。南方ボケで。荷物背負って帰って来たんですよね。両親がいないで、ぼく一人のところへ。それで湊兄貴の写真が飾ってある仏壇を見とるわけですよ。そこには「森崎湊」って書いてあるんだからねえ。それなのにぼくのこと「湊」って呼ぶのね。だって、十年近く会ってないんだからね。で、ぼくは成長してるわけだから。「湊」ってぼくを呼ぶ。「いや、湊兄貴は死んだのよ。腹切って「」「ほう、あいつのやりそうなこっちゃねえ。あいつは死ぬだろう」ってこういいましたよ。びっくりしましたねえ。あ、さすが兄貴だなあ、と思いましたけど。ところがそう謂いながら「お前、湊なあ」ってこう言うんで、やっぱりボケてんのかと思いました。

   香川京子にファン・レター

 山根 兄さんをめぐる衝撃的な事件があったあと、五高に入るんですね。五高に入ったのは…:。
 森崎 昭和二十三年ですか。歳は二十一かそこらでしょうね。
 山根 五高での映画体験はどんなでした?
 森埼 それほど圧倒的に、処女がいかれたみたいな感動はもうないですよ。何ていうか、インテレクチャルに、『マルタの鷹』がどうのとか。だからあんまり覚えてないですね。いや、見たんですよ、いっぱい。覚えてるのはイタリアン・ネオリアリズムだけですよ。『無防備都市』とか『自転車泥棒』『ドイツ零年』、それにいかれたことは確かですね。それも映像的にね。つまりネオリアリズムの真骨頂のショットにいかれた。これは『無法松』をつくった稲垣さんなんかの絵づくりとまったく違うわけでしょ。これまたびっくりしたとかね、それはありますよ。まったく映像的なんだな。でも、ぼくは、映画研究部なんかは、軟派の集まりと思って もちろんそんなふうに高級に映画を見れないという引け目もあったのかもしれないけれビ
 山根 いわゆる映画青年ではなかったんですね。
 森埼 政治青年だったですよ、もうすでに。
 山根 だから、映画を志すなんてことはなかった……。
 森埼 ええ。でも、民主主義映画みたぃなものがつくられはじめたころじゃないでしょうかねえ。やっぱり、政治青年がひかれる過程なんですよね。田舎の少年が出て行ったら、待ちかまえていたようにストライキの連続で、寮に入ったら、寮の半分は共産党員みたいなもんで、連日連夜洗脳にくるみたいな状況だったですから。それにある種の反撥もあったり、論争もしたりするんだけれども。そういうことが、すごい体験として印象的だったですからね。
たとえばレコード部なんてのが寮にあって、何を聞くかっていうと、『森の歌』のショスタコビッチ。要するに党員の音楽鑑賞部なわけですから。行くと、みんな『森の歌』か何か聞かされて、「芸術だ」なんて帰って来る。そういう戦後第一期の口マンチックな共産主義学生運動みたいな只中で、映画的にもそういうのに触れて行ったんじゃないでしょうかねえ。
 山根 じゃあ、ソビエト映画なんかは:…。
 森埼 ええ、見ましたね。あんまりピンとこなかったですな(笑)。きれいだったですけど、何のこっちゃようわかんなかったし、べつに感動しなかったですね。色彩のきれいさだけが圧倒的でね、こんなきれいでいいのかって……。
 山根 京都大に入られたのは何年ですか。
 森崎 昭和二十四年です。
 山根 京大時代も政治青年だったんですか。映画は?
 森崎 入って二回生のときにもう党員候補になったですからね、もうそのことが頭のほとんビを占めてたですから。感性的には映画青年でしたよ。左翼独立プロ映画の全盛期になるわけでしょ。たとえば歌を歌うとですね、左翼映画主題歌しか歌わんわけですよ。♪ララ……ララ……父母はどこ……。
 山根 それは『戦争と平和』(一九四七)の主題歌ですね。亀井文夫と山本薩夫の共同監督作品。
 森時 東宝の組合管理映画の、作品はぜんぜん覚えてないんだけど(笑)。そういうのばっかり見てた。たとえぼくは、岸旗江さんにファン・レターなんて書きましたからね。
 山根 『戦争と平和』の主役で、左翼独立プロ映画のスターでしたね。
 森崎 ええ、スターだった。それとあの人、色の浅黒い、今の出てるけどテレビに、あの人にもファン・レターを書いた。
 山根 誰ですか?
 森崎 いっぺんアメリカに行った、もう生え抜きの映画スターですよ。清順派の。色が黒いのが玉に傷で。
 山根 香川京子かな。
 森崎 そうです、香川京子。
 山根 彼女も左翼独立プロ映画のスターでしたからね。
 森崎 東宝映画にも出てましたけどね。いや、その人の演技が良くて作品が素晴らしくってというよりも、左翼映画に出てた、きれいなプリマ・ドンナっていう感じでね。
山根 そうしますと、政治青年から映画青年になったのは、いつ頃ですか。
 森埼 もう卒業真際ですよ。卒業まで、ぼくは<学生新聞>にいたんですよね。火炎びん闘争なんか激しくなってきて、このまんまいるとヤバイなんて感じがあったでしょ。それてほら、大学新聞にいた人は新聞記者になるでしょ。だいたいね。それでまあ、新聞社を受けるかなんていうふうに思ってたけビ、通らないと思つてたですよ。調べりゃね、学生運動やってたことがモロバレになるわけだし。で、例えば(社会タイムス)なんかに入るしかないか、なんて考えてました、自分ではね。それで夏休みに家へ帰って、大学に戻つてきたら、何とバカな話で、もう大新聞は試験をやっちゃってたのか、もう締め切ってたのか、そんなことだったですねえ。結局受けなかった。そのころじゃないですかね。『雲ながるる果てに』で家成組が京都に撮影に果てたんですね。それで、<学生新聞>で「独立プロを語る」という題で座談会をやったんですよ。ぼくはそのころ、主幹だったんですよ。今でも覚えてますけど、丸大町の教育会館に集まってね、バケツの中にビールを冷やして。利根はる恵さんとか、沼崎勲さん、神田隆さんだとか…:。鶴田浩二は来ませんでしたね。だってこっちは赤い人たちですから。
 死んだ沼崎さんなんぞは、ひじょうに先鋭だったわけですよね。あのときたしかに来たのかなあ、あの人は…:。そこの重要なところがちょっとわからんなあ。岡田英次さんが、次の作品『ここに泉あり』の準備のためにバイオリンの猛特訓をやってましてね、暇さえあればそれを練習するというふうなこともあったんでしょう、他に理由があ-つ
たかどうか知りませんが、座談会に出なかったら、そのことが座談会が始っまたらすぐ問題になっちゃって、我々俳優はスクリーンの上で大衆と向かい合えぼいいんで、岡田英次さんはそういう考えであるからして、出ないのも当然であるという説があるかもしれないが、そうではないだろう、と赤い気炎を吐きはじめたんですね、沼崎勲さんが。ありゃあ、とぼくは思ったですよ。つまり映画なんてのは別の世界だと舐ってたわけでしょ。それが、ナマの人間がつくっとるんだと。ものすごい天才が一人いて、ポンとつくるものじゃないんだ、というふうなバカみたいなことを目の前にしたわけですね。
 で、たとえば、新聞記者になったような先輩たちがロを揃えて言うには、新聞社なんか来たって、いわゆる人民のための報道なんかできっこないんだ、と。単純に組織の中のある鋲になって、そういう場の中でやるしかないんだ、と。それで自殺者が何人も出たりしたときなんてすけビね。そういうこともあったりして、どこに就職試験受けたらいいのかまったくわからん状況だったところへ、その座談会があって、そのとき映画をやろうと毘ったわけですね。もっと前だったかもしれませんけど。
 山根 要するに映画の現場の、何かにおいを嗅ぎとったということですね。
 森埼 そうです、そうです。面白い世界なんだなあ、と思ったですね。口をきわめて罵るわけでしょ、座談会で。「だめだ! こんなことしてたんじやあ!」なんてね。
 山根 それは大学の卒業が近いころの話ですか。
 森埼 そうです。でも、卒業できなかったんです。その年に大島渚が松竹に入ってるわけです。大島といっしょですから、本来の卒業は。
 山根 じゃあ、森崎さんは大学にいつづけた。
 森崎 卒業も就職もできないもんですから、大学なんてのは隠して職安に行ったりしたんですけども、バレたりして、結局政治がらみでね、民主主義診療所連合会、民診連てのがあったんですけビ セッツルメントみたいな そこの事務長やってたですよ。そのへんの下駄屋さんも二コヨンも朝鮮人も、みんなに百円ずつ出さして、一つの診療所を建てるとこから始めて、朝鮮の人たちがいちばん力になって、できあがったっていう……。
 診療所の事務長といったって、男は一人しかいないわけてすからね。薬を包むのから、力ルテの整理をするのから、堕胎手術をした女の人を担いで二階に運びあげるのから、みんなやったですよ。最後には自分で注射までしてね(笑)。静脈注射なんて、今から考えるとぞっとするんですけどね(笑)。先生がいないもんだから代わりに往診にいって、丸太町の橋の下に夫婦の屑やさんが住んでてね、痛くてしょうがないってんで、やっちゃいけないんですよ、医師法違反ですから、それをやったですねえ。入んなかったですよ(笑)。だから、皮下注射を打ったんですよ。何とかパンビタンみたいなやつを打ちゃ、すぐ治っちゃうんですよ。そんなことまでやったですねえ(笑)。
 そんなふうに一年間、診療所活動をやったでしょ。で。そのあげく卒業できて、今度は試験が受けられるんだけども、映画会社は試験をしなかったんじゃないですかな。国へ帰ろうかとも思ったんですが、ぼくの友達が、国へ帰っちゃおしまいだぞ、とりあえず京都でもいろ、というようなことで残って……。
 山根 そのころですね。雑誌<時代映画>の編集は。
 森崎 そうです。もう映画に行こうと決めてましたから。滝沢一さんにお願いして。
 山根 何で滝沢さんにお知り合いになったんですか。
 森崎 <学生新聞>に北川鉄夫さんだとか。滝沢一さんとかに映画評を書いてもらってた。映画評はひじょぅに優遇してましたからね。みんな、映画が好きでしたから。
 山根 <学生新聞>の頃に好きだった映画って何ですか。やっぱりソビエト映画とか……。
 森埼 そうですよ。だってもう、只中ですから。『真空地帯』とか『どっこぃ生きてる』とか。ほんとうにある感動を受けたのは『真空地帯』だけなんですけどね。
 山根 <時代映画>の編集をしてたのは、どれぐらいの期間ですか。
 森崎 一年、ですね。一年目にまた試験を受けて、それで松竹に受かたんです。
 山根 六全協(共産党第六回全国協議会)のショックはそのころじゃないですか。一九五五年ですから。
 森崎 そうです。<学生新聞>のころのぼくは、左翼ジャーナリズムで飯を食えたらいいと思ってた。ところが六全協ってのがあって、今までの方針がオールまちがいであるというどころか、みんな代々木は総自己批判したりして、その人たちが下部に「自己批判せい」と言ったりして、何がなんだかわけがわからないような状態で、例えばフルシチョフの秘密演説なんてのがあって、あれは反共の宣伝であるなんて言われたんだけど、どうも本当らしいっていうふうなことがあったりして、それによるとスターリンてのは何百人も人殺しをしてる、悪逆非道の人間である、みたいな。終戦直後にぼくの思想が百八十度ぐるっと変わったとすれば、これでもう一回変わっちやったわけですねえ。
だから、何で飯食うなんてことの前に、基本的に自分の立ってるところ、天地がひっくり返ったみたいな、実に変な宙ぶらりんな気持でしたねえ。どういうふうに生きてったらいいのか、どう考えたらいいのか…。最初のひっくり返りなら、ある種の解放だったりするんでしょうけれども、二度もひっくり返ったんでね。それも何か似てるんですよね、終戦前の天皇に対する我々の考えと。たとえばスターリン神格化の中できてて、粛清がほんとであったみたいな形で出てくるわけで、まったく似たようなことをごていねいに二度まで、それも戦後十何年もたって、みたいなことで、相当ショックがきつかったんだろうと思いますけども。
 山根 そんななかでの松竹入社だったんですね。松竹に入ったのは……。
 森埼 昭和三十一年です。
 山根 松竹を受けたのはどうしてなんですか。 
 森埼 <学生新聞>の先輩を通じて大映に入ろうとしたこともあるんですよ。ところが試験しなかったんですね。東映と松竹だけでしょ、試験があったのは。日活もしなかったし……。東映は一度受けたけど、たしかあれは五百人に一人。落っこちましたなあ。
 山根 すると、松竹映画について特定のイメージがあったわけじゃなくて、映画がやれればいいということで…。
 森椅 そうです。最初はとにかく独立プロに入ろうと必死になって、いろいろやったことはやったんですよ。たとえば近代映協だとか。やっぱり入れてくれなかったですよ。近代映協の糸屋さんていう重役さんに、「君みたいのが来るんだよ、たくさん。給料いらないと言って」なんて言われたりして。でも、もぐりこめば何とか食わしてくれるだろうっていう気はありますよね、弁当ぐらいはっていう(笑)。
 山根 松竹へ入ったとき、森崎さんは、どんな映画づくりに参加しようというふうに思ってたんですかね。
 森崎 はじめっから独立プロの『雲ながるる果てに』だとか『真空地帯』だとか、近代映協の新藤さんの一連の作品、『どぶ』だとか、ああいうふうなつくり方がひじょうに派手に見えてたですからね。だから向こうが本命で、メジャーはメじゃなぃって感じだったですね。
 山根 メジャーは娯楽映画だっていうイメージで?
 森崎 そうです。
 山根 でも、少年時代から青年時代にかけての森崎さんの映画体験からぃうと、映画を思想とか何とかでとらえるより、まず面白く見てたってのがあるでしょう?
 森崎 うーん……たとえば『真空地帯』なんていうのは、ぼくにとってはやっぱり面白かったですよ。それで、日活の裕ちゃんの映画は、どれくらい見たかどうか覚えてませんけども、やっぱり面白かったような気がしますなあ。松竹はその頃、『二等兵物語』とか、やってたんでしょう。そんなの見たってねえ、軽蔑の対象でしかないですよ(笑)。
 山根 たとえば渋谷実とか小津安二郎とか、そんなイメージはなかったですか。
 森崎 もちろん渋谷実さんの『現代人』ですとか、必ず見てますよ。ええ、黒沢、木下さんなんてほとんど一本も逃がさずでしょう、そのころは。『日本の悲劇』だとか。
 山根 じゃ、自分が関わる松竹映画の具体的なイメージはほとんどなかったでsyね。
 森崎 もちろん!(笑)。そーっと、正体がバレないように……(笑)、後ろめたいのなんのって(笑)、ここでちゃんと仕事しようなんて思っていないですもん。そりゃ屈辱でしかない。だって、高田浩吉さんの白塗りの「ちょいとォ」なんてのやってるわけでしょ(笑)。
 山根 同期は誰ですか。
 森崎 貞永方久。あと監督になってるのはいないですね。やめたり、配置転換されたり。ぼくらのときは大船は入らなかったんです。京都だけとったんです。
 山根 京都撮影所だと、やっぽり時代劇が多かった?
 森崎 それが、わりかしぼくは現代劇につきましたねえ。時代劇ももちろんやりましたけど。
 山根 助監督として最初についた作品は何ですか。
 森崎 最初は『黒姫秘帖・前篇奪われた鬼面・後篇不知火の美女』(一九五六)という、芦原正監督の。松竹京都の組合の委員長だったですけど。芦原将軍ていわれてる人で。
 山根 カチンコからやったんですか。
 森崎 ええ、椅子持ちのカチンコ。
 山根 やはり徒弟制度がきびしいという感じで……?
 森崎 ええ、京都ですから。「とにかく人の顔を見たら"お早ようございます"と言え。誰でもいいから、お前らより偉くないのはぃないんだから」と言われました。
 山根 多くついた監督は?
 森崎 大曽根辰保さんです。というのは、ぼくはもう年齢を超過してましてね、二十五歳までしか松竹に入れないんですよ。それで公文書偽造しましてね。京大からもらったのをそーっと開けて、昭和二年生まれを五年に変えまして、それで<時代映画>って雑誌の同人でいらした大曽根さんに頼んで、縁故で……。それがバレたときの用心にってんで。だから大曽根さんについたことが多かったんですよ。
 で、案の定、本採用までの期間にバレましたね(笑)。人事課長は別に自分の縁故で入れたい奴がいたらしくて。「お前、荷物まとめて、今すぐ九州に帰れ」なんて言われちゃった。それで今の芦原さん 採用するについて助監督部が権威持ってたんですよ、昔は。で、幹事にお願いして、身柄を組合で引き受けるみたいなことで、やっと首がつながったんですね。
 大曽根さんは時代劇が多かったし、早く亡くなったんですけども、割合、影響は受けてるような気はしますねえ。
ただ時代劇ってなると、はじめっから拒否反応がこっちの中にありますからね。もう溝口さんなんかいなくなった後ですからね。だから、松竹の京都で現代劇はうんと少なかったんですけど、その中でわりかしぼくは、いろんな画策したんでしょうけども、少ない現代劇の中で多くついたってことですね。
 山根 たとえばどんな?
 森崎 野村芳太郎さんが多かったですよ。まず『伴淳・森繁の糞尿譚』(一九五七)、それから三本ぐらいついたなあ。『糞尿譚』はカチンコ打つのをやって、思い出の多い作品ですけど。『拝啓総理大臣様』(一九六四)ってのはホンも書いたですよ。
 野村さんは『張込み』(一九五八)という名作を撮って、やる気充分のころでしたね。京都の徒弟制度じみた時代劇の世界、つまり芝居のしきたりみたいなものを知らないと、時代劇なんてのは困っちゃうんですけども それなんかはまったくなくて、しかも現代生活というものが当然生み出す屈辱みたいなものを含んでる作品、そんな現代劇でしたから、そういう意味では野村さんの作品につくのはひじょうに励みになったですね。
 山根 松竹は助監督にシナリオを書かせますね。シナリオはすぐお書きになりましたか。
 森崎 助監督会が、雑誌まで出しましたからね。だいたい書きましたね。
 山根 それまでは、シナリオなんて書いたことなかったんでしょ?
 森崎 いや、あります。ぼくは、映画でメシを食うんだと決めたときから、助監督なんかにはこれからはすんなり入れないんだと、うすうす知ってたんでしょうんね。入れなければシナリオライターになってもぐりこみたいと、と。みちろん監督が希望ですけど。それに、シナリオ書けなきゃ映画監督もできないんだっていうことも……。だから、もうそのころから、雑誌<シナリオ>なんてのはとってました。それでたとえば八木保太郎さんにシナリオライターになりたいんだけど、みたいな相談の手紙なんか出してますねえ。だから、松竹に入る前からシナリオを書いてましたよ。本数はたくさんないですけどね。
 最初に書いたのは『西北ルート』っていうんですけれど。死んだ兄が満州の建国大学ってとこ行ってて、ものすごい侵略国策大学なんですけど、その中でもやっぱり民族運動みたいのがあったんでしょうねえ。憲兵が来て授業中にふんづかまえて行った、みたいな事件があったりして、そのころ重慶を支えるために、重慶なのかなあ、延安なのかなあ、とにかくソビエトから中国のそういう抗日勢力へのルートがあった、と、そういう西北ルートに、建国大学を出た満州浪人の若手みたいなのが、いわば国策の一番先兵となって侵入していくみたいな……。その逆に抗日の側にまわってしまうみたいなこともあったんでしょうけども。そういうところを素材にして書いてるんですよね。
 山根 やっぽり左翼独立プロふうな……。
 森埼 そうです、そうです。ひじょうに出来の悪い『人間の条件』みたいな(笑)。インチキなね。「北帰行」なんかが出てきたりしてね。
 山根 シナリオはどうやって勉強したんですか。
 森崎 雑誌<シナリオ>なんか読んだんじゃないですかね。野田高悟さんの『シナリオの話』『シナリオ構造論』なんて木もちゃんと読んでるんです。
 山根 そもそも映画を志した一つのきっかけは、『雲ながるる果てに』の人々と会って映画どくりの現場の雰囲気に感銘を受けたことだったんですが、実際に職場としての映画現場に入ったときは、どんな感じでしたか。
 森崎 今は屈辱時代なんだから、波の下にもぐって、いいたいこともいわずに、しょうがないから頭にきたら酒飲んでわめくとかね。要するに飲んだくれて、ひじょうにまずい精神状態ですよ。酔っぱらっては車がガンガン通る銀閣寺の十字路に寝たりね。車がひくんならひけ!なーんて思ったりね。
 山根 そういうときの仲間ってのは......。
 森崎 助監督ですよ、やっぱり。長谷和夫さん、よく飲みましたねえ。彼はいい男でバーでもてたですから。くっついて行って、先輩だし。あとは、やめちゃったりしましたねえ。電通に行ったりね。
 山根 そのころは、自分ではどんな映画をつくろうと思ってたんでしょうね。
 森埼 松竹に入ってから、シナリオを一本書いたんですけど、映画が出てくる話だったですね。でも、映画をつくる撮影所の中の話じやなくて、映画と実人生は違うんだみたいなモチーフの映画、例の爺の「影絵を見て何が嬉しい」みたいな、つまり自分の中で屈折していたのをそのまま出したみたいなンナリオを書いたんです。そんなものが企業映画でできるわけないですよね。あらかじめあきらめてたですよ。助監督のンナリオの雑誌に書いて『引金を引け』なんて題だったですけど。
 山根 わりあい観念的な映画青年というイメージですねえ。のちの監督になってからの映画作品からは、ちょっと想像できないんじゃないですか。
 森埼 そうですねえ。弱いなあ、そう言われると(笑)。

   ヌーベル・バーグと反合理化闘争

 山根 映画への毒がある一方、助監督としての労働現場がまるで別物としてあって、悩んだんでしょうね、青年森崎東は(笑)。
 森埼 独立プロの持ってたエネルギーだとか、ある作品群だとか、ある世界観だとかいうものに、ひじょうにひかれたわけでしょ。どれをとってみてもそれとは違う現場、映画製作ってことで、似てるけど違う現場に入っちゃって、しかも徒弟制度の中で、 じっとがまんして、今度問題を起こすとクビになる、例の偽造のことがあるから(笑)、政治的にもあまり突っ込まれるとよろしくない、だから、ただもう、いつくるかわかんないけどそのうちくるだろから、今はしょうがないから、もうやるんだ、と。そういう精神状態だったと思いますねえ。
 だからまあ、ひじょうにわかりやすくいうと、大島渚の第一作はともかくとして『日本の夜と霧』(一九六〇)っのが大ショックだったわけですね。あれ、安保ですからね。
 で、ぼくらが知ってる京大のそうそうたる演劇の人たちだから。つまり、ズバリやっちゃったわけですよ、奴は。「やれるのか、おい。やれるか、こんなのが」ってことですよ。ちきしょう、やりやがったな、てのもありますよ。やるんなら俺が、という気負いだってありますよ。そりゃもう、ある意味では己惚れのかたまりみたいなもんでしょう。助監督なんてのは。そのぶんしっぺ返しも大きいですけれども。だから、あれがものすごいこたえた。
 山根 京都にはいつめでいらしたんですか。
 森崎 十年ぐらいいましたよ。昭和四十年までいましたから。
 山根 そうすると一九六〇年安保の時は京都ですね。で、『日本の夜と霧』は大船作品だから、大船でこんなすごいものを作りやがったという気持ちもあるわけですね。
 森崎 あるわけです。ぼくの友達の不破君ってのが、週刊誌にものりましたけど、<声なき声の会>なんてのを作ったりして、心あるやつは、京都からでも東京へ行ってデモ隊に参加したり、ガンガンやってましたよ。こっちはほら、屈折居士みたいなところがあるじゃないですか。「何であそこへ行ってワアワアワアワア、自分たちだけ怒ってるような顔して。俺は行かない!」と、で、ちょうど三池闘争のころですよ。だから大牟田に帰りました。三池闘争を見たくて。
 つまり、ひじょうに低次元でのアンチ東京ってのが常にあったですよ。九州のころからね。で、京大ってのはアンチ東大の伝統みたいな感じがあるでしょ。しかも西国から出てきて京都ですからね。つまり漱石の『三四郎』ですよ。何もわからん小川三四郎ってのが田舎から出て来て、触れるわけでしょ、いろんなことに。意識されざる偽善ってのがテーマなんですって、あれは。やっぱり似たようなもんですね。つまり自分を取り巻く文化状況なり政治状況ってのが、というより人間たちが、そのアンコンシャスなんとか、意識されざる偽善ってのを持ってるようにしか、ぼくには感じられなかったですね。もちろん誤りなんですけど。だから「三池や!」っていう感じですよね。
 山根 京都撮影所で何かをしようとか、そういうことはなかったんですか。当然組合員でしょ?
 森崎 入って三、四年たって、じゃなかったですかねえ、もう毎日のごとく会議をやって、助監督で。反合理化闘争をどう仕組むかっていう。日記を見ればその連続ですよ。ストライキのまねごとみたいのをやったし、そういうときは必らず職場委員でぼくは出てて。
 山根 そういう活動をやったんなら、それほど屈折居士とはいえなぃじゃないですか。
 森崎 それはだって、通底してますからねえ。で、太秦労組ってぃう、松竹労組じゃなぃのが生まれて……。たとえば小道具さんだとか何とかには、社員じゃない臨時の人だとかが多いんですよね。ぼくなんてやっぱり臨時の人たちと気が合うみたいなことがあって、彼らが太秦労組っていう、未組織の臨時の労組をつくっちゃって、それが撮影中のステージになだれ込んで、撮影中止になったりしてね。それをかばわんのですよ松竹労組は。
 ぼくはこの太秦労組が生まれたときにね、「これだ!」と思ったんですよ。それで何と、ぼくは貯金してまして、貯金たって五万円くらいしかないんですけど、全部おろして、自分で印刷してビラをつくったですよ。「太秦労組を見殺しにするのか」っていう公開質問状を松竹労組に…。
ところがぼくは職場委員で、統制委員だったですよ。ゆるやかな、ずーっと闘争状態だったですよ。つまり助監督会が組織していったんですけど。松竹の京都が閉鎖されるってのは、相当前から言われてましたからね。
 山根 松竹の京都撮影所が閉鎖されたのは一九六五年(昭和四十年)でそれと太秦労組とは関係があったんですか。
 森崎 大ありです。撮影中止させたりしたんですから。
 山根 太秦労組ってのができたのは、安保、三池闘争から反合理化闘斗に至る流れの中でだったんですね。
 森埼 でしょうなあ。一九六〇年よりあとはあとですよね。ぼくらがしょうことなしにこっち(大船)に合同されてくる一年前ぐらいでしょうね。むしろ、それ調べたいんですよ。太秦労組がいつ頃で、ぼくがつくったビラはどうなったんだろうっていう…・:。
 太秦労組を戦力とするか敵対物とするかどうかは統制上の問題である、執行委員会で討議してくれないんだったら、ぼくは統制委員の責任において、自分で統制上の問題として自分の意見発表をやるといって、ビラを、出したわけですよ。
 山根 で、どうなりました?
 森崎 要するにガタガタで終わったんじゃないですか。
 山根 太秦労組は、その後、つぶれるんですか。
 森崎 つぶれます。やっぱりぼくらは、彼らを見捨てて、京都撮影所から助監督部だけ移籍したんですからねえ。向こうの手なんですから、ぼくはそこで決意すべきだったんですよ。大船なんかに行かない、と。しかし、そうとはいえないわけですね。だから移籍する最後の人間になりたい、と。何の意味もないですがね。みんな、ゾロゾロゾロゾロ行くわけですよね。それはもう、助監督部会ってのは、毎日のように会議をやったんですけど、悲惨なもんですよ。偉そうなこと言うんだけど、翌日やるときは「あいつはもう行ったんだってさ」 「何とか組はもうクランク・アップして、行く奴はもう行くんだってさ」 「向こうの社宅に入るんだって」という状況でね。だから、なし崩しにされちゃったわけですけども。
だから太秦労組ってのは、そういう浮いた存在になりながら、親会社の松竹労組からも困り者だ、鬼っ子だなんていわれながら、まあブスブスして、それで松竹京都撮影所が閉鎖されるまでやったんじゃないですか。絶望的な闘争を。と思いますよ。見捨てたんですよ、助監督会は。偉そうな、火だけつけておいて……。
 山根 太秦労組闘争史ってのは、たいへん興味深いですねえ。
 森崎 ええ。それはみんな、びっくりしたですからね。なだれ込んだんですからね、撮影中に。ぼくは撮影してなかったですけど。「やった!」と、こっちは思うわけですよ。彼らはほら、十七、八歳の中学しか出てないみたいな、そんなことをやったことないんだよね。それがカーッとなって。総評が指導してました。昨日まで「お早うございます」なんて言ってた可愛いい坊やが委員長になったりして、すごい顔してるわけ(笑)。
東宝争議なんていう経験がある割に、映画界の労働運動ってのは、松竹に限らず、ふるーい体質を持ってますからね。太秦労組が出て来た時には、まずいことをやったなあと、もう頭から切り捨てるという反応でしかなかったですね。そりゃ口では何か言ってましだけどね、共闘するとか何とか。でも、実際はそうじゃなかったですね。
 山根 森埼さんは助監督としてはどうだったんですか。有能だったんですか。
 森埼 いや、無能でした(笑)。
 山根 でも、やがてはチーフまで……。
 森崎 ええ、やりました。ヌーベル・バーグがあたったんで、そのときの白井和夫さんだったかなあ 専務が、京都でもヌーベル・バーグでいくんだってわけですよ。それで、ぼくは森川英太朗ってのとわりかし親しくて。
 山根 ああ、『武士道無残』(一九六〇)でデビューした監督。
 森崎 その脚本を手伝ったですよ。名前は出てませんけど。『武士道無残』は、田村孟の『悪人志願』だとか、自主的に書ぃた脚本を会社が採用しはじめたんです。大島渚の『愛と希望の街』も。
 山根 そうです。『鳩を売る少年』という題で、<7人>というシナリオ雑誌に発表された。
 森崎 それの京都版に載った『武士道無残』に会社が乗っかって、時代劇ヌーベル・バーグの第一発だってんで、ぼくがチーフですよ。セカンドもあんまりやったことなかったのが、ポンと。新人監督で親しいもんだから、お前やれ、みたいな。撮影になって、大島君、撮影所に釆ましたねえ。激励にね。森山英大朗と高校がいっしょなんですよ。ぼくとは京大の自治会で知ってるわけだから。
それでぼくはチーフだから、『時代劇の新しい波』ってタイトルの予告篇をつくって、持ってったんですよ。本社で検閲があるんですよ、月森仙之助氏が製作本部長だったでしょうねえ。ぼくは本社にそういう形で行ったのは初めてですよ。東京駅からどういうふうに行っていいかよく知らなくて、東京温泉ってのがあるっていうんで、行ったんですよ、とりあえず(笑)。それでフィルムをロッカーに入れて、出て来て、何かおかしいなあと思ったら、フイルムを忘れていやがんの(笑)。
 それを持ってって見てもらったらね、むつかしい顔してるわけ。ぼくは自信があったんですよ。ちょっとシヤープな、ちょっとしたヌーベル・バーク的な予告篇だと思ってたわけ、そしたら首脳陣が集まってコチョコチョやりだして、だいぶ待たされて。で、「“新しい波”ってのは外せ!」「えっ、だってヌーベル・バーグの時代劇第一作で売るんでしょ、これは」「いや、そうだったんだけビ外せ」と。「もっと馬の走りとかないのか、稲光りだとか。ギャンギヤーンってのを入れろ!」「それじゃ昔の予告篇と同じようにつくれって言うんですか」「そうだ!」「そんなんじゃないって言ったじゃないですか」と喧嘩や。
 その頃はもう松竹の首脳部がガラッと変わってたんですよ。だから『日本の夜の霧』の……大島渚はあれを撮ってる最中に来たのかなあ。
 山根 そうだ、思い出しました。『日本の夜と霧』の公開が途中で中止になって、大島渚はそのことを京都で知ったんですよ。森川組の激励に来てて。そんなことを大島さんはどこかで書いてましたね。 
 森埼 やっぽり。『日本の夜と霧』の打ち切りといっしょですね。だから、ヌーベル・バーグはもうやめだ、と。どこでどう決まったか知りませんが、その暁だったんですね。だから、つくったものの、ちゃんと封切られるかどうかってのも危ぶまれたですよ、「武士道無残」は。
 山根 じゃあ、助監督時代の映画的な体験のデカイやつってのは、松竹ヌーベル・バーグですね。
 森崎 それはもう最大ですね。それに京都で、自分でタッチしたってことですよね。
 山根 そのあと、大船に移るのは何年ですか。
 森崎 エー…よく覚えてないんですよ。思い返したくもないですからね(笑)。またすぐ反合理化闘争になるわけですよ、大船に来てからも。こっちだってヤバクなってきたんだから。しかし、うまくいかないわけですよ。大船助監督部会の悪口になるんで言いたかないんですけども。
 今でも覚えてますけども、反合理化闘争に敗れた後、みんな一言ずつしゃべれってことになったとき、ぼくは谷川雁のことばを引いたんですよ。いろいろセンチなことを言うわけ、みんなが。で、ぼくは……。三池の三百何日かの戦後最大の闘争を闘って、そのあと四百何十人かが爆発で一挙に死ぬでしょ。あれはぼくにとっても、ものすごく大きいんですよね。やっぱり大牟田の人間だから。あのなかで死んだ友達もいるわけだから。それで、谷川雁が言ってるんですよね、あの事故で四百何十人が殺されたって聞いたとき、自分はザマーミロと思った、だから言わないことじゃないと、こう言わざるを得ない、と。それを引いて、ザマー見ろ、とその時言った。ぼくは、要するに山猫ストを打てっていう派だったんですよ。でも、しょうがない論理なわけで……。
 それで敗れて、ぼくは配転になるわけですね。そのときには助監督が半分近く配転になってますが。
その2に続く)
その3 に行く)

II. 心の結ぼれをほどく芸能を求めて
その4に行く)

III. エトスを美的に娯楽的に刺激したい