森崎東監督との大衆映画についての論争

対談者................ 森崎 東
白井 佳夫
森崎東     白井佳夫
出典................ 監督の椅子
著者................ 
発行................ 話の特集
発行年................ 1981年3月10日
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装丁................ 和田 誠

監督の椅子 by 白井佳夫


  プロローグ

 森崎東監督は一九二七年生まれで、一七歳で敗戦の日を迎えたという時代の、映画作家である。日本が戦いに敗れた日の翌日、当時海軍予備学生出身の特攻隊員だった彼の次兄の森崎湊が、割腹死している。この時の彼の思いは、後に彼がATGと提携して作った映画『黒木太郎の愛と冒険』(一九七七)に、色濃く影を落としている。この作品の中に出てくる『遺書』という本は、その次兄、森崎湊の遺稿を一冊にまとめたものである。
 京都大学法学部時代に、日本共産党に入党、六全協による運動転換の大転換を迎えた、という世代でもある。松竹京都撮影所に入って、助監督となり、やがて京都撮影所の閉鎖で大船撮影所に移籍、山田洋次監督作品のシナリオ共作をやり、助監督をつとめる。山田監督がハナ肇を主人公に、「馬鹿」シリーズや『なつかしい風来坊』(一九六六)などを撮っていた頃のことである。
 処女作『喜劇・女は度胸』を作ったのが、一九六九年のことである。松竹映画らしい庶民喜劇の形をふみながら、図太い人間凝視の視点と、笑いの底に下層社会の人間の居直った怒りを秘めた、面白い作品であった。久しぶりの大型新人の出現、という思いがあった。
 劇画の映画化である『高校さすらい派』(一九七〇)では、七〇年代の学生造反運動への無念の思いを託した、日本的ロマンティシズム横溢のみずみずしい青春映画を造形して、私をあっと言わせた。
 この映画の試写が終って、場内が明るくなった時、たまたま私は森崎監督に、ばったりと会った。即座に「よかったよ!」と言おうと思ったのだが、なぜか彼は急に、傍らにいた助監督らしい人に、プリントの現像処理の手直しなどを声高に命じながら、あらぬ方向に足早に歩いていってしまった。
 その後、私は映画雑誌に『高校さすらい派』絶賛の文章を書き、出演したテレビ番組でこの映画がその年の日本映画の、私のベスト・ワン作品であることを、しゃべりまくった。それからしばらくたって、再会した時、彼は真剣な眼をして、私に言った。「あの評価は、本当なんだね? 本当にそう思ってるんだね? 白井さん」と。
 彼は、会社企画でおりてきた劇画の映画化などという仕事をやってしまって、とんでもないことになった、と思っていたらしいのである。「口の悪い白井などに会ったら、何を言われるかわからない!」という思いで、試写室では居たたまれずに。あらぬ方向に逃げ出してしまったのだ、というのである。
 それからも彼は、「女」シリーズなどという、ユニークな森崎人間喜劇の連作を、松竹でやったりするのだが、どうも彼と私との対立をめぐる論争の焦点は、既にこのへんから芽生えていたのだ、という思いがしてならない。
 森崎監督は、会うと気がねなく話のできる、私の親しい友人である。それだけに、いつも突っ込んだ議論が、他人行儀でなく、できる。このあたりから、会えば夜を徹して、論争をやるようになった。この日の対談でも、いつもやる議論に、たちまち話が突きすすんだ。
 お互い、言いたいことはだいたい、わかってはいるのである。だが、どうしても譲れないものが出てきて、議論は、えんえんと果てしがなくなってしまう。この論争の決着は、またどこかで会った時に。必ずつけましょうぜ、森崎さん!
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白井 森崎さんが、松竹株式会社を辞めたのは、一九七五年ですが、ケンカして辞めたんですか、それともクビだったんですか。
森崎 クビですね。ケンカなんて出来ないですよ。今、考えますと、ある作品撮影中、製作主任がぼくに近づいて来て、「城戸さん(今は亡き城戸四郎松竹会長)が、ハンコを押さないと言ってるが、どうします?」って言われたことがあるんです。
白井 どういうことですか?
森崎 製作費認可のハンですよ。多分ぼくの作る作品は、みんなちょこっとずつ予算をオーバーしてたんだと思いますね。「絶対に予算内に押さえろ」というのは至上命令でしたから。それが、ついつい欲張る。
白井 それは、何の作品の時ですか?
森崎 三作目の『喜劇・男は愛嬌』(一九七〇)の時でしたかね。もっと後なら「あっ。これはいけないな!」とぼくも感じるはずですが、監督になって三本目なんていう頃は、カーッとなっているじゃないですか。そう、この映画を撮ってた時ですよ。城戸さんが現場に来られて、ぼくをつかまえて「おお、オレの弟子!」なんて言いましてね。ぼくはビックリしましたよ。なんでこんなに受けがいいのかしら?なんてね。城戸さんの考えてらっしゃる、松竹調喜劇路線に、そのころのぼくは、まだ近かったんでしょうね。第一作『喜劇・女は度胸』(一九六九)は城戸さんの命令で撮った、山田洋次さんと一緒にホン(脚本)書いた作品でしたし。
白井 松竹大船調の、観念的なことや政治的なことを一切抜きにして、庶民のドラマをやれ、という路線に即していた、ということですね。
森崎 その時点までは、山根成之さんも言ってたけど、シットを感じさせるほど、ぼくはモテてたんですね。
白井 その第一作の評価がまた、評論家やジャーナリズムに、圧倒的に良かったしね。久し振りに、松竹に重喜劇の大型作家が出現した、と。
森崎 歴史的に言っても、当時の松竹は日活などに差をつけられて、山田洋次監督しかいない、といった感じだったし、しかも、ヌーヴェル・ヴァーグ一派の脱退の後ですからね。城戸さんには、日本の映画の大半の監督は、オレが育てたんだ、という自負があったと思いますね。ところが、その城戸さんの意向に背く気風が一般的で、それを白井さんあたりが、またほめる(笑)。ですから、淋しくていらっしゃったんだと思いますね。そこに山田洋次のおとうと弟子みたいにして、ぼくがポッと出て来たんで「うん、これよ!」と、こうなってきたんですね。
白井 松竹大船映画の正嫡子、というわけですな。
森崎 ぼくにとっては意外でね。ぼくは京撮(松竹京都撮影所)育ちで、企業合理化で、無理矢理に大船に合同された人間ですし。
白井 松竹京都撮影所閉鎖によって、大船撮影所に合流させられたわけですね。
森崎 だから、ぼくなんか、悲愴な気持ちで貯金をはたいてビラ作ったりしていろいろやった末、京都撮影所の労働者たちを裏切って大船に来たっていう気持が、どうしてもあったんですね。何と言いますか、大船撮影所の持つ、ある落ち着いた芸術的な雰囲気の中で、桜の木の下を、名匠小津さんが歩いていらっしゃる、というような気風に、正直言って大反発を感じてたんですよ。京撮に残った労働者たちは泥沼的な闘争を続けて。ぼくらに言わせれば「ぼくらがやろうと言った時に、なぜやらなかったんだ」ってことはありましたけれど。そして、ぼくは、その移転の最後の一人になりたい、というんで、それは実行したんですけれどもね。まあしかし、そんなものは、ごまめの歯ぎしりでしかなくってね。ですから、大反発だったわけですよ。ぶっちゃけた話は。何だ大船がって、ことですよ。
白井 小市民的でお茶の間ムキのドラマを作るぬるま湯的撮影所、ってなもんですね。
森崎 それと、大島渚の出現は、ぼくらにとって、大ショックでしたからね。
白井 同じ京大の同輩だし。
森崎 彼が安保闘争をもろに画面に撮ったときは「ありゃあ、作っていいのか、オイ!」という感じでしたねえ・
白井 『日本の夜と霧』(一九六〇)ですね。
森崎 「やるなあ!」という気持もありましたし。だから、城戸さんに気に入られてた分だけ、ぼくにはシッペ返しが強かったんだ、と思いますね・一言で言えば、製作費に象徴される松竹大船管理体制の中で、常にハミ出していたんですね。結局、ぼくのクビの原因はそれだと思います。城戸さんが「森崎をクビにするのは、オマエらへのみせしめだ」と、みんなにおっしゃったそうだけれど。
白井 昔から、日本映画界でいい仕事をしてきた人というのは、左翼くずれと、やくざあがりが多い、という通説がありますね。やる気のある会社というのは、そういう野性のある人間を企業内に定着させ、御しながら、いい映画を作らせたという構造がったんですがね。野性のある人間は大事にしなくちゃ、いけないんだけどね。で、クビを通告された時の気持は?
森崎 意外ではあったけど、最終的に城戸さんに会った時「おまえみたいなのは、どっかよそで苦労したほうがいいんだ」って、謎めいて言われたんで「あ、こりゃヤバイな」って思った・ですから、来るべきものが来た、という感じはしましたけどね。ただ、ぼくらは、映画のドン底を、昭和三〇年に助監督で入って、急坂を駆け下りるように経験して来たわけでしょう。監督にだってなれるのかどうかっていう気がしてましたからね。監督契約解除になった時も、松竹にいたって年に一本ぐらいしか撮ってませんでしたので、大した変わりはないな、とは思った。
白井 今から考えると、森崎さんの第一作『喜劇・女は度胸』は、松竹ヌーヴェル・ヴァーグ流のやり方ではなくて、一応、庶民喜劇としての松竹映画伝統のスタイルをふみながら、今までの松竹にないものを内容的に出していたという、うまくいった作品でしたね。ぼくに言わせれば、この辺が企業内にいる意欲的な作家の作品の面白いところで、企業のカセがあるために、在野の作家にありがちな、野放図にやりすぎて、一般の客にはわけがわからなくて、しかし当人は、大芸術映画のつもり、といった作品でないものが出来た。会社の要請、つまり、大衆性、庶民性というものをふまえながら、しかも、独自の図太いテーマを打ち出していた。また、森崎さんがまだ第一作を撮る前の、山田洋次監督のシナリオ共作者であった当時の、山田作品の「馬鹿」シリーズ喜劇なんていうのは、「寅さん」シリーズにはない、ふてぶてしい野性があって、面白かったですね。
森崎 あれは、ぼくも、好きでしたね。自分が、彼と一緒にホンを書くようになって、やっぱり非常に学びましたし、ぼくの内部に、大衆映画と芸術映画を分けるような論理を持ってないといいますか、そういう気持がありましたね。そうそう、そういえば、こういうことがあった。当時大船撮影所n助監督たちの間で、ある日「いったい、誰に見せるために映画を作るのか?」という話が出たんです。多分、ぼくが言い出したことじゃなかったかと思いますが。その時、ある助監督は、こう言った。「おれはおれをふったあの女に見せるんだ」と。これは非常に正直で、わかるんですね。今、考えても彼は正直だったと思うな。
白井 わかる、わかる(笑)。
森崎 それから、これまた正直に「おれは批評家に見せるんだ。今時、大衆なんかに見せてたまるか」と言うのが、いた。
白井 これも、正直といえば正直だけれど。
森崎 「城戸会長に見せるのよ!」と言ったのも、いたなあ。何を甘っちょろいことを言うか、という感じでしたが、「批評家なんかに見せてたまるか、会長がいいと言えばいいのよ」という考え。
白井 これも松竹では正直な、というべきかな(笑)。しかし、面白い助監督さんたちがいたんだなあ、松竹って所には。
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森崎 ぼくがその話を言いだしたのは、 あるイメージがあったんですよ、単純に。 ぽくの姉のムコ さん、つまり義理の兄貴に、小学校しか出てなくて、丁稚奉公して、今は中小企業の社長になっているのが、いるんです。
 この人はかつての映画青年でね。映画の原点感党みたいなものが、残ってる人なんだ。この人にぼくは、随分影響されましてね。彼は平家の落人部落に住んでて、昔はそこに映画は、ごくたまにしか来なかったというんですね。そして映画が来ると、もう村をあげて全部の人が見る。みんなが都会文化に触れる、唯一の機会なわけです。
 ところが、村の爺さんたちは、 「あんな影絵を見て、涙を流したりする奴は馬鹿だ!」なんて言うっていうんですねえ。その話がぼくには、非常に印象に残っているんです。
 映画を作る側としては、そんな爺さんは、ぶん殴ってやりたくもなるんだけれども。しかし、本当は、実はそういうお爺さんがスクリーンを見て、「本当に涙が出るばい!」なんて言ってくれるような映画を作れないかな、とも思うんですよね。
 それで、少々話が長くなるけれど、ぼくにとって、「自分の作った映画を見て欲しい人」というのは、 この話をしてくれた義理の兄貨、というわけなんですよ。もっとも「自分の義理の兄貴に見せたい」というのは、ちょっとはばかられて、これは別の言葉でいえば「大衆」ですよ。民衆・庶民で しょう。そんなこと言ったら、共産党のまわしものだ、なんて言われそうでね、助監督仲間には、 それは言えませんでしたが。
 だけど、あの義理の兄貴が「東さん、よかばい!」って言ってくれるのが、ぼくには一番嬉しいんですね。
白井 以前、森崎さんは、ぼくとの対談で「自分の作品は、深夜興行に映画を見に来るような大衆のために作る」ということを、言いましたね。
森崎 そういうことですね、つまりは。松竹にいながら、東映的な映画を作りたいと思ってました ね。ただ、まったくヤクザ映画でいいかと言うと、ぼくの義理の兄貴はヤクザでもなんでもないしね。いつだったか東映の「冬の華」(降旗康男・一九七八)を見たそうなんですね。彼は、健さんが出てるから行った、と言うんですが、「どうも最後にプツンと切れて終るのは、いかんなあ」と言うんですね、もっと自然にわれわれをいい気分にしながら終ってもらいたい、と言うんですね。
白井 この頃の映画は、確かにプツンと切れて終るんですよね、よく(笑)。
森崎 このプツンと終るというのは、作り手から言うと、ひとつの逃げなんですよね、いろいろ考えた末に、結局、プツソと終らせて、見てる方に総て、おっかぶせてしまう。
白井 現代は結論の出ない時代だしね。どんなやり方しても、文句は出るでしょう。そうすると、プツンと、いろいろにとれる暗示的な終り方にした方が、いいという気持にもなるわけでしょうね。ヌーヴェル・ヴァーグ風とでもいうか。ぽくは小さい時に、映画を見てて新しい人物が画面に登場してくると、必ず、「あれいい人、悪い人?」ってオヤジに聞いたものだった。今は、いい人か悪い人か、わからないのが多いから、難しいねえ(笑)。でも、この現代に、そういう平家の落人郁落のお爺さんたちを感動させるような映画を作るというのは、アート・シアターで芸術映画を作るのなんかより数十倍、数百倍難しい、至難のことなんですね。しかし、松竹大船時代の森崎さんは、それをやってましたよ。
森崎 今でもやってるつもりですけど(笑)。ですから■「映画を作ることは社会的発言だ」なんて言われると、非常に嫌でね。だから、映画観客との座談会なんかの時は、ぼくが言うんじゃなくて 「どういう映画を見たいか?」って、こっちの方が聞きたいくらいですね。この前、京郁の京一会館って名画座での、ディスカッションで、若いダンプの運ちゃんという人が発言しましてね、「最近は女をやる映画ぱかりだけれども、やりそうで、やらん映画は出来ないものか?」って言うんです(笑)。これは、難しいねえ。
白井 そりゃ、本当に難しい。
森崎 見てる方は濡れちゃうんだけれど、「やりそうで、やらない」という所に、何か激烈なドラマがあるはずだと、彼は喝破してるわけですね。非常な難題を、ぼくはあの男に背負わされた、と思ってますね。
白井 「高校さすらい派」(一九七〇)なんて森崎映画は、かなりそれをやってたという気が、しますけどね(笑)。当時の人気劇画を、会社の要請に応じて、青春スターである森田健作を主演にポピュラーに映画化しながら、性的にも政治的にも「やれそうで、やれない」青春のまっただ中にある高校生たちを、みごとにしたたかに、描いていたな。
森崎 原作劇画の主人公たちは、猛然と機動隊に向かって闘いを挑んでね、ものすごいんですよ。 「やりそうで、やっちゃう」話でね。ぽくの場合はそれを、二人の男が一人の女と結婚するみたいな話にして、セックス的にもやってないし。原作では機関銃で機動隊を皆殺しにするんだけれど。 それはぼくの映画では幻想になる、という具合でね。しかし、あの映画は白井さんもほめてくれたし、ああいう映画撮ってると、気がいきますね。
白井 というあたりで、そろそろ論争に入りたいと思いますが(笑)。
森崎 今日は敗けませんからな(笑)。
白井 森崎さんは、自分の映画を平家の落人部落の義理のお兄さんに見せたい、深夜興行に来る観客たちに見せたい、とおっしゃる。それは、非常に正しい、と思いますけれど。森崎映卿は、だんだん作品が増えていくにしたがって、頭から観念を打ち出すような構造が出はじめる。すると、初期の森崎作品を支持してきたぼくなどは、多少裏切られたような気がするわけですよ。やはり彼は京大法学部出身の観念的インテリだったのか、というね(笑)。
森崎 観念的インテリちゅうのは、ほめ言葉ですな(笑)。
白井 ぼくの好きな森崎映画「女」シリーズも『女生きてます・盛り場渡り鳥」(一九七二)あたりの最後の作品になってくると、庶民像が教条的に観念化されて出てきてしまって、何だかソビエト 映画でも見てるような気がしましたよ。
森崎 ソビエト映画って、『惑星ソラリス」(アンドレイ・タルコフスキー・一九七七)ですか?(笑)
白井 茶化しちゃいけない(笑)。スターリン時代の教条主義的民衆映画ってやつですよ。わざとブオトコとシコメを出して、これこそ庶民だ、みたいなね。
森崎 美男美女がチャラチャラする映画は、それだけでいやなんですよ。いいじゃないですか、それで。
 
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白井 なるほど、少し戦法を変えましょう(笑)。黒沢明作品の「野良犬」(一九四九)のリメーク である森崎版「野良犬」(一九七三)をお作りにたった。あれも、森崎東の典型的な観念主義が出た、作品だったな。なぜあなたは、ある犯罪行為があって、それを刑事が追う、そのことの追いつ追われつのスリルをまず描いて、それにのせて白己のテーマを観客の胸にうちこむ、という表現方法をとらなかったのですか。なぜ図式的に犯人を沖縄から木土にやって来た集団就職の青年たちに設定し、沖縄の若者たちが本土の大都会東京で、どんなふうに孤立して、疎外され、駄目になっていくか、といった観念的なノッセージが頭からミエミエの肩ひじ張った映画を、作ってしまったのですか?
森崎 黒沢さんの「野良犬」にあったような、警官だけに許された持ち物としてのピストルを、刑事が取られたなんて構造の話を、ぼくは撮りたくないんですね。あれは警察友の会映画でしてね。
白井 そういうことを言ってるんじゃないんです。
森崎 でも、いろいろスリリングなことをやった末にですね、刑事が犯人をふんずかまえる、ということになるわけでしょう。そのスリルだけが、楽しいんでしょうかね?
白井 映画的表現というのはね、まず作家が観念を最初に設定して、その図式的絵解きとして登場人物を動かし、ミエミエのドラマを作っていく限り、観客をシラケさせますね。作家の観念の図式を説明されてるにすぎないわけで、観客は少しも面白くない。そんな映画はまず、大衆の興昧をひきませんね。黒沢版「野良犬」を警察友の会映画だとおっしゃるなら、あのスリルとサスペンスたっぷりの行動描写で人を引っ張った作品にテーマ的に反発し、大衆の側に立った映画を作ろうとする作家が、頭から観念の図式映画を作ってどうしますか。警察友の会映画の大衆性にすら敗けた、 インテリ映画を作ってしまったってことじゃないですか?
森崎 沖縄の集団就職した若者たちが、ひったくり犯罪のほとんどをしていた、という現実。そしてなかなかつかまらない、という現実。なぜかというと、彼等は絶対に仲問を刺さない(密告しない)という激しい連帯意識があるからであって、そこいらは高度成長の中にあって、ぬくぬくとしているわれわれにはわからない、ということがありますね。そのわからないことが事実あって、それを想定することが図式化だということになると、困るんですね。
白井 そうじゃないんです。つまり彼等がどういうふうに合議し、計画して具体的な犯罪行為をやり、仲間の秘密を守ったか、ということ自体を具体的行動描写でスリリングに描くことが第一であって、それが成立し、追う刑事と彼等の関係が緊迫したサスペンスをはらんで描かれた後に、その結果として、そういうテーマが観客の胸に本当にうちこまれることに、なるのでなければ。
森崎 第一稿では、その通りのことを書いたんです。まず、彼等が集まってくるところからはじまる、というものですよ。でも、あの映画が二時間あるいは二時問半かかってもいいというならば、 白丼さんの言う通り出来たという自負はありますな。しかし、一時間半でしあげたあの作品が、それだから駄目だったと言われて、引っ込む気はまったくないんですね。
白井 しかし、あの映画は観念先行ドラマになっていなかったと、本当に思いますか?
森崎 けずった部分があったことは事実で。それを逃げ口上にする気はありませんが…-ぽくは、 黒沢さんの『野良犬』を見て、実は非常に感動したんですよ。ただ、もう一度見た時、木村功の犯人への思い入れというのは、それこそ観念的で、倫理的だと思った。もしそういう部分が、ぽくの映画にあったとすれば、同罪であると言いたい(笑)。
白井 しかし、黒沢明はあの作品を、まず具体的行動描写で人間が動いていくアクション映画として作って、観客を引っ張ったじゃないですか。
森崎 だから、もっと正確に言うと、そんなに引っ張りすぎていいのか、と思いますね。正直に言うと。そりゃ、自分も少しは引っ張ってるつもりで、言うんですよ(笑)。
白井 観念的メッセージなら、講堂で演説してくれ、映画で説教は聞きたくない、ということです ね。いったい、深夜興行にくる観客や、平家の落人部落の義理のお兄さんが、そんな映画を面白がると思いますか?
森崎 そのことが、もし当っていれば、恐れねばならないことですね。ぼくは恐れているつもりですよ。それは愚かで、醜いことだから。そこはカッコ良くいきたいから。が、そのことを恐れると同時に、白井さんのおっしゃることに同意するあまり、そっちに引っ張られることも、恐れるわけですね。
白井 黒沢の「野良犬」を一九七三年にリメークするということは、それに反逆し、越えた映画を作るんだということでは、正しい。しかし、一九四九年の『野良犬』が持ってるスリルとサスペンスとダイナミックな映像表現に敗けるような二四年後のリメイクでは、黒沢はまったく乗り越えら れない、と思うんです。
森崎 少くとも黒沢さんの意図した線上では、乗り越えられないですね。そして、ぼくの作品が観念的であるというなら、観念的でなくちゃいかん、ということですよ。そう反論したいですね。例 えば、日本テレビの『太陽にほえろ!』というのがありますが、あれは、この管理社会のもっとも強烈なメッセージなわけですよ。管理のためのね。
白井 そういう体制側の映像表現でさえもが観客を具体的な行動描写のスリルとサスペンスにまき込んで、体制のメッセージをPRしているというのに、それに反逆し、大衆をまき込もうという反体制映画作りが、頭から観念的メッセージの絵解きなんかやっていいのかってことですよ。これは、森崎東ならそれが出来ると思うから、言うわけですよ。
森崎 だけど、このちっぽけなぽくの中にある観念の総量と、ほくの中にある映像化出来る具体的な第一次体験とくらべると、そりゃ観念の方が勝ってますね。ただ作ろうと思う時は、具体的なものがひとつないと、不安で作れない。その不安さを観念でカバーしようというものが、ぽくの中で働くことは、確かですね。
白井 それを単純、安直にやられると、われわれは裏切られた、と思うわけです。森崎はやっぱり京大出の難解で荘重な映画を撮る人なのか、というね。
森崎 いやあ、難解・荘重とはほど遠いじゃ次いですか(笑)。
白井 ぼくは『高校さすらい派』も『喜劇・女は度胸』も、その年のベスト・ワンにしたぐらい、好きなわげですよ。だから、あの森崎が、というんで、なおひときわ切ない思いがするわけですよ (笑)。
森崎 あの森崎が、この退廃ですか(笑)。
白井 自分が『キネマ句報』の社長とケンカしてクビになって出たんだから、あなたのことはせめられないけれど。やはりあなたには、松竹体制内で頑張って、一見松竹メロドラマふうに見えなが ら、しかも魂胆のある、具体的な映像表現にのっとった、庶民の映画を撮りつづけて欲しかった、 という無念があるわけですよ、言ってみれば。
森崎 しかし、明らかにベクトルが、庶民映画に背を向けて、観念映画に向いているというのは、 白井佳夫の早計ですよ。そんなこと出来っこないんだから。
白井 そんなことは、わかってますよ。ぽくが言いたいのは、あなたの方法論の間違いを、誠心誠意指摘して、初期の作品の初心にもどしたいだけですよ。映画は具体が鉄則ですよ、安直な図式的観念主義は困るんだ。
森崎 白井さんは、ばくをかいかぶっているんだから、困るのよ、本当に。
白井 ないものねだりしてるつもりは、たいですね。あなたは半分以上の作品で、実際にそれをや ってるもの。観客というのは、作品の中に自分も参加したいんですよ。スクリーンに描かれたものが、ダイナミックな具体性を持っていれば、それに自分なりに参画出来るんですよ。ところが、頭からメッセージと観念の絵解きをされると、観客は、監督に強制されて、従っていくしかないわけですよ。これは知的スターリニズムですよ。
森崎 まだ言いますか、あ次たは(笑)。いや、しかし、だからと言って、白井発言にまっ向対立 しようとは、ばくはゴウも思わないですよ。ばくの恐れていることを、あなたはまさしく指し示してくれてる。でも、それじゃそのスリルとサスペンス作りの方に、あたしが突っ走ると、あたしなんていう能力はですね、すぐボロを出して、それは何もやらないに等しいと言うか、つまり、やっ ちゃいけないことをやっちゃうみたいな、恐れがあるんですよ。
白井 でも、そこまで利口に計算しないで、多少は馬鹿になった方が-…。
森崎 相当に馬鹿ですから、あたしは(笑)。
白井 観念馬鹿より、臭体馬鹿になってもらいたい(笑)。
森崎 そりゃ、そうです。「自分の映画を本当に自分が見たいのか?」という問いに対しては、誰も答えられ次いという、ぼくのある種の思い込みはありますね。「『野良犬』をぽくは見たかったのか?」という問いは、ぼくの中には自井さんの断罪とは別に、ありますよ。
白井 非常に理想論だげれど。城戸四郎会長全盛の頃に、城戸会長をも見事にまるめ込んじゃうような松竹大船調メロドラマの、具体的映像描写で一貫されていながら、なおかつ、それが最後まで見ると、ちゃんとテーマ的に、アンチ松竹大船調の大政治映画になってる、みたいな映画を作って欲しい。ないものねだりじゃないつもりですよ。
森崎 そうなると、あたしが答え得ることは、ただひとつですよ。あなた自身が、企業内であれ、企業外であれ、プロデューサーになるべきだ、と思う。あなたが想定する種類の、いわく言いがたい種類のドラマというものは、白井佳夫が作らんといかんですよ。あなたも同世代人なんだから。
白井 「そこまで言うのなら、実際にやってみろ!」というわけですか(笑)。
森崎 逃げ口上としてとられると、全然違うんですけどね。ぼくはぼくで、白井さんの言われたこ とをホン書きながら、日夜、反芻するしね。
白井 じゃどうですか、森崎さん、二人で組んで一本やりましょうか? ぼくは企画者になります から。それしか、この議論の具体的た決着のつけかたは、出てこないのかもしれませんよ。
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