行尊 ぎょうそん 天喜三〜長承四(1055-1135)

三条院の曾孫。敦明親王(小一条院)の孫。参議従二位侍従源基平の子。母は権中納言良頼の娘。兄に季宗・権大僧都頼基・同覚意、弟に権大僧都厳覚・大蔵卿行宗ほか、姉に後三条天皇女御基子(実仁親王・輔仁親王の母)がいる。
康平七年(1064)、十歳で父を亡くす。麗景殿女御延子(後朱雀天皇女御)の猶子となり、厚い庇護を受けたという(『古今著聞集』)。二年後、出家して園城寺に入る。頼豪阿闍梨に師事し、密教を学ぶ。やがて園城寺を出、大峰・葛城・熊野など各地の霊場で修行に打ち込む。承暦三年(1079)、頼豪より三部大法灌頂を受ける。永保元年(1081)、園城寺はかねて対立していた延暦寺の襲撃を受け、堂塔僧坊の殆どを焼失。
応徳二年(1085)十一月、甥にあたる皇太子実仁親王が疱瘡に罹り薨去(十五歳)。帰洛して喪に服し、多くの哀傷歌を詠んだ。その後再び山林修行に入るが、一時なんらかの冤罪事件に巻き込まれることがあったらしい(行尊大僧正集)。
まもなく修行を終えて山を下る。この頃すでに歌人としての名が立ち、寛治三年(1089)八月の太皇太后宮寛子扇歌合、寛治五年(1091)八月の右近衛中将宗通朝臣歌合に出詠している。 嘉承二年(1107)五月、東宮祈祷の効験により法眼和尚位権少僧都に任ぜられる。同年十二月、鳥羽天皇(五歳)が即位すると直ちに護持僧の宣下を受けた。以後天皇のみならず白河院や待賢門院の病気平癒、また物怪調伏などに数々の功績あり、験力無双の高僧として朝廷の尊崇を受けた。天永二年(1111)八月、護持賞により権大僧都に進む。この時五十七歳。
永久四年(1116)正月、増誉大僧正が入寂し、後継者として園城寺長吏に指名される。同年五月、権僧正に任ぜられる。保安二年(1121)には園城寺が再度の焼き打ちにあう。同年、僧正に昇る。同四年、天台座主となったが、拝命直後辞任。天治二年(1125)五月、大僧正覚助入寂の跡を嗣ぎ大僧正となる。大治二年(1127)、白河院・鳥羽院の熊野臨幸に供奉。同三年八月、広田社西宮歌合・同南宮歌合に参加(後者では判者も務める)。同年九月、住吉社歌合に出詠。長承三年(1134)八月には再建なった園城寺金堂の落慶供養が営まれ、年来の宿願を果した。同四年二月五日、病により入滅。「僧正阿弥陀仏に向ひ、一手に五色の五孤を持ち、念仏を唱へ、開眼しつつ、居ながらに死すと云々」(『長秋記』)。八十一歳。
歌壇的な活動は必ずしも多くなかったが、藤原仲実加賀左衛門ほか歌人との交流が知られる。主に修行時代の歌を集めた家集『行尊大僧正集』がある(以下「大僧正集」と略す)。金葉集初出。勅撰入集四十九首(金葉集は二度本で計算)。小倉百人一首に「もろともに…」の歌を採られている。

歌は時代順に排列した。と言っても、制作年を確定できる歌は稀で、ほとんどは推測に基づいている。作歌年の推定に関しては、近藤潤一著『行尊大僧正―和歌と生涯―』に負うところが大きい。

若年修行時代 10首実仁親王哀傷 3首再び修行時代 10首晩年 3首 計26首

若年修行時代 応徳二年(1085)まで

修行に出で立ち侍る時、「いつほどにか帰りまうで来べき」と人の言ひ侍りければ、よめる

かへりこむほどをばいつと言ひおかじ定めなき身は人だのめなり(千載482)

【通釈】修行から帰るのはいつ頃になるか、それは言わずに置きましょう。どうなるとも分からないこの身でそんなことを言っても、人にむなしい期待を抱かせるだけです。

【補記】『大僧正集』には見えない歌。千載集以外では『続詞花集』『定家八代抄』に採られている。

寒さに人わろく思ひて籠り居て侍りしに、梢さびしくなりて侍りければ

山おろしの身にしむ風のけはしさにたのむ木の葉もちりはてにけり(大僧正集)

【通釈】身にしむほど冷たい山下ろしの風はあまりに険しくて、冬までは寒さを防いでくれるかと頼みにしていた木の葉も散り切ってしまったなあ。

【語釈】◇人わろく思ひて 体裁が悪いと思って。寒い季節になったのに、庵に冬の備えが出来ないことをみっともなく思ったのだろう。

【参考歌】大江匡房「江師集」
群鳥のたのむ木の葉もちりはてて空に別るるここちこそすれ

年久しく修行しありきて熊野にて験競べしけるを、祐家卿まゐりあひて見けるに、ことのほかに痩せおとろへて姿もあやしげに窶れたりければ、見忘れて、かたはらなる僧に「いかなる人ぞ、ことのほかに験ありげなる人かな」など申しけるを聞きて遣はしける

心こそ世をば捨てしかまぼろしの姿も人に忘られにけり(金葉587)

【通釈】心はこの世を捨ててしまいましたが、幻のような姿だけは、まだこの世に残っていたのですよ。それも人から忘れられてしまったのですねえ。

【語釈】◇験競(げんくら) 修験者が神通力を競う行事。火渡り、熱湯浴び、空中飛行などを競ったらしい。◇祐家卿 藤原長家の子。忠家の弟。中納言に至る。行尊少年期の顔見知りだったのであろう。◇見忘れて 行尊の変わり果てた容姿に、祐家は彼を行尊と見分けることができなかったのである。◇まぼろしの姿 痩せ衰え、幻影のようになってしまった姿。

【補記】『大僧正集』では祐家の名を出さず「親しく知りたる上達部」としている。また第二句「身をばすてしか」。

熊野へ参りて大峯へ入らむとて、年頃やしなひたてて侍りける乳母(めのと)の許に遣はしける

あはれとてはぐくみたてし古へは世をそむけとも思はざりけん(新古1813)

【通釈】私を可愛がって育ててくれたその当時は、出家遁世するようにとは思いもしなかったでしょうに。

【補記】『行尊集』の詞書は「めのとどものもとへ」。

【参考歌】遍昭「後撰集」
たらちめはかかれとてしもむばたまの我が黒髪を撫でずやありけん

修行し侍りける比、月の明(あか)く侍りけるに、もろともにあそび侍りける人を思ひ出でて

月影ぞむかしの友にまさりけるしらぬ道にも尋ねきにけり(玉葉1152)

【通釈】月の光は、昔からの親友にもまさって情に篤いなあ。どこへ行くとも告げていないのに、知らない山道を尋ねて私のもとにやって来てくれた。

【語釈】◇もろともにあそび侍りける人 出家以前、共に遊び歩いた友達。『大僧正集』では「具して遊び侍りし人々」とある。

月あかく侍りける夜、袖のぬれたりけるを

春くれば袖の氷もとけにけりもりくる月のやどるばかりに(新古1440)

【通釈】冬の間、孤独な修行の辛さに涙で濡らした袖は氷が張っていた。それも春になったので、やっと解けたなあ。庵の屋根の隙間を漏れてくる月を映すほどに。

【他出】行尊集、定家十体(麗様)、時代不同歌合、新三十六人撰(行意の作と誤って撰入)

【本歌】二条后「古今集」
雪のうちに春は来にけり鶯のこほれる涙いまやとくらむ

修行し侍るとてたかせ舟にのりてよみ侍りける

いづくともさしてもゆかず高瀬舟うき世の中を出でしばかりぞ(玉葉1212)

【通釈】どことあてがあって行くわけでもないのだ。高瀬舟が川に浮く――ではないが、憂き世を厭って遁れてきたばかりなのだよ。

【縁語】舟の縁語―さし(棹の縁)・うき(浮き)。
【語釈】◇高瀬舟 川舟の一種。「高瀬」は浅瀬。この歌は『大僧正集』によれば粉河詣での際の作であるから、紀ノ川を航行していた高瀬舟であろう。

明暮(あけぐれ)は木のもとにのみ過ぐし侍りしかば、身をかへたる心地して

木のもとぞつひの住みかと聞きしかど生きてはよもと思ひしものを(大僧正集)

【通釈】釈迦は沙羅双樹の下で涅槃に入られ木の下こそ最後の住み処だと聞いていたが、まさか生きているうちからこうなろうとは思っていなかったなあ。

【語釈】◇生きてはよもと 生きている身で、まさか…あるまいと。「よも」は万一にもそんなことはあるまいという予測をあらわす副詞。

【補記】新千載集では初句「木のもとは」。

大峯にて思ひもかけず桜の花の咲きたりけるを見てよめる

もろともにあはれと思へ山ざくら花よりほかにしる人もなし(金葉521)

【通釈】山桜よ、私がおまえを愛しく思うように、おまえも私を愛しく思ってくれ。知合いもいないこんな深山では、おまえのような花よりほかに友とすべき相手もないのだ。おまえだってそうだろう。

【語釈】◇大峯 吉野から熊野へと連なる大峰山脈。修験道の行場が数多くあった。◇思ひもかけず 百人一首の古注の多くは、初夏に遅桜を発見した驚きを言うとした。契沖は改観抄でこの説を批判し、常磐木の中に桜を発見した感懐として、以後有力な説となった。因みに金葉集の詞書は『行尊大僧正集』の異本に見える詞書「おもひかけぬ山なかに、まだつぼみたるもまじりてさきてはべりしを、風に散りしかば」に拠るか。◇もろともに 山桜も私も、共に。◇あはれと思へ 「哀と思へとは、此山深く開たれば我も花より外の友なく、花も我より外のしる人もなければと云心也」(百人一首経厚抄)とある通り、この「あはれ」は親愛の情をあらわすのであろう。

【参考歌】藤原興風「古今集」
誰をかも知る人にせむ高砂の松もむかしの友ならなくに

【補記】『行尊大僧正集』(流布本)では、この歌は次のような排列の中に置かれている。

   山の中に桜の咲きたるに、つぼみたるをさへ吹き散ら
   されて侍りしを見て
 山桜いつを盛りとなくしてもあらしに身をもまかせつるかな
   風に吹き折られて、なほをかしく咲きたるを
 折りふせて後さへ匂ふ山桜あはれ知れらん人に見せばや
 もろともにあはれと思へ山桜花よりほかに知る人もなし

二首目の詞書「風に吹き折られて…」が三首目にもかかるかどうかは判断を留保するが、この並び方に置いて「もろともに…」の歌を見ると、おのずと一首から受ける印象は異なって来ざるを得ない。山中、風に吹き折られた枝に、なお健気に咲いている桜。それは、厳しい山岳修行に心身打ちひしがれながら、なお独り修行に打ち込む作者の姿に重なる。そして「もろともにあはれと思へ」の「あはれ」には、やさしい友愛の情というよりはもう少し烈しく、哀憐と共感の情がせり出してくる。山桜よ、修行に耐えている我が孤独な心中を知るものは、おまえばかりだ、と。

【他出】大僧正集、定家八代抄、八代集秀逸、時代不同歌合、百人一首、今鏡

【主な派生歌】
このもとは花よりほかの友もなしたれを見おきて春のゆくらん(寂然)
いくとせの春に心をつくしきぬあはれと思へみよしのの花(*藤原俊成[新古今])
もろともにあはれとおもへ秋の月見て久しくもなりにけるかな(藤原季経)
心あらばあはれとおもへ桜花ひとりながむる宿のけしきを(徳大寺実定)
あはれともたれかは恋をなぐさめん身より外にはしる人もなし(藤原隆信[新後撰])
ちらすなよ涙かたしく枕よりほかには恋をしる人もなし(藤原為家)
にほひくる花よりほかの友ぞなきかすみこめたる富士の山里(作者不明[閑谷集])
山里は花より外の友もなしちりなん後をいかに忍ばむ(藤原基名[新拾遺])
なれきつるよよを雲井にかぞふれば花より外のみし友もなし(三条西実隆)
きのふけふ里をあまたに契りきぬあはれとおもへ山桜花(幽真)

大峰の生(しやう)の岩屋にてよめる

草の庵なに露けしと思ひけむ漏らぬ岩屋も袖はぬれけり(金葉533)

【通釈】何をまた、草の庵だけが露っぽいものだと思っていたのだろう。雨漏りのしない岩屋でも、修行の辛さに流す涙で袖は濡れるのだった。

【語釈】◇生の岩屋 笙の岩屋。奈良県吉野郡、大峰山脈の絶壁にある岩窟で、名高い修行場であった。

【補記】行尊集では初句「ささのいほ」。

【本歌】天智天皇「後撰集」
秋の田のかりほの庵の苫をあらみ我が衣手は露にぬれつつ

【主な派生詩歌】
露もらぬ岩屋も袖はぬれけりと聞かずはいかにあやしからまし(西行)
笠寺や漏らぬ窟も春の雨(芭蕉)

皇太子実仁親王哀傷 応徳二年・三年(1084-1085)

御前の御忌のうちに正月二十日、人の許より

鶯の声より先にまづなきて霞ばかりを飽かずとぞ見る

【通釈】春になると鳴き始める鶯よりも早く、真っ先に泣いて、ただ山に立ちこめる春霞を亡き春宮(とうぐう)として偲びつつ、いつまでも眺めています。

【語釈】◇御前の御忌 皇太子実仁親王の喪。応徳二年(1085)十一月、薨。行尊は親王の叔父にあたる。

返し

朝まだき霞み果てぬと見てしより我も山路に立ちぞしぬべき(大僧正集)

【通釈】朝早く、山々にすっかり霞が籠めるようになりました。春宮の薨去から、それだけ時が経ったのです。それからすると、そろそろ私もまた山へと修行に出立するべき時が来たのです。

春雨いつよりも静かなる頃、遠江御乳母の許へ

まとゐしてもの思はざりしいにしへも静かなりしか夜半の春雨(大僧正集)

【通釈】みんなで輪になって座り、悩みごともなく楽しくお喋りした昔――あの頃も、夜半に降る春雨はこんなに静かだったのでしょうか。

【語釈】◇遠江御乳母 橘弘子。遠江守橘資成の妻で、実仁親王の乳母。

【補記】遠江御乳母の返しは「静けしと言ひこそせしか春雨に厭ふばかりのながめやはせし」(その頃も、静かだと言い合ったりしたでしょうねえ。でも、いやになるほど降り続いて、悲しい物思いに耽るなどということがあったでしょうか)。春雨に涙を暗示し、同じ静かな春雨でも、長く降り続く今の春雨は辛いものだ、と返した。

三月晦に兵部大輔実宗が許より

山桜木高き花も散りにしになど隠れゆく春はおほきぞ

【通釈】梢高く咲いていた山桜の花も散ってしまいました。それで花に隠れていた春の空は見えやすくなったはずなのに、どうして春はまたもや去ってゆこうとするのでしょう。春宮もお隠れになったばかりだというのに…。

【語釈】◇兵部大輔実宗 摂津守藤原資宗の子。正四位下常陸守に至る。妻は実仁親王の乳母。◇など隠れゆく春はおほきぞ 春という名をもつ春宮も、春という季節も隠れてゆく。それで「おほき」と言うのである。

返し

伏しまろび春てふ名さへ惜しきかなまたも見るべき花の影かは(大僧正集)

【通釈】春という名を聞くことさえ惜しくてなりません、春宮のことを思い出しては、輾転反側しているのです。花のように美しいあの御面影を、再び拝見することなどできないのですから。

再び修行時代 応徳三年(1086)より天永二年(1111)頃まで

霜月の御忌過ぎしままに、修行に罷り出でしに、三島江にて

三島江の水鳥さわぐ夕暮に袖うちぬらし今ぞ過ぎゆく(大僧正集)

【通釈】三島江でねぐらを求めて水鳥たちが騒ぐ夕暮、私は袖を涙で濡らし、今通り過ぎてゆく。

【語釈】◇御忌 実仁親王の一周忌。応徳三年(1086)十一月。◇三島江 かつて河内平野を満たしていた湖のなごり。現在の大阪府高槻市の淀川沿岸にあたる。

山家にて有明の月を見てよめる

木の間もるかたわれ月のほのかにも(たれ)か我が身をおもひいづべき(金葉536)

【通釈】木の間を漏れてくる半月の光のように、たとえほのかにでも、都にいる誰が私のことを思い出してくれるだろうか。

【語釈】◇有明の月 陰暦二十日以降の月。月の出が遅く、明け方まで空に残るのでこう呼ぶ。◇かたわれ月 片割れ月。半分に割れた月。七日、八日頃の月を言うのが普通。

【補記】『大僧正集』では詞書「そなへといふ泊りにて四日ばかりなる月の木の間より射し入りたるに」。第四句「たれかは吾を」。

歎くこと侍りける頃、大峯に籠るとて、「同行どもも、かたへは京へ帰りね」など申して、よみ侍りける

思ひ出でてもしも尋ぬる人もあらばありとな言ひそさだめなき世に(新古1833)

【通釈】京に帰った時、もしも私を思い出して「あいつはどうした」と尋ねる人があったら、生きているとは言わないでくれ。いつ死ぬかも分からないこの世なのだから。

【語釈】◇歎くこと 『大僧正集』の前後の歌によれば、何らかの冤罪事件が身に降りかかったことを言うらしい。◇かたへは 一部分は。

大峰の神仙といへる所に久しう侍りければ、同行ども皆かぎりありてまかりにければ、心細さによめる

見し人はひとりわが身にそはねどもおくれぬものは涙なりけり(金葉576)

【通釈】一緒にいた人たちは皆去り、一人として私に連れ添う人はいなくなったけれども、そんな時も遅れずについてくるものは、涙だったよ。

【語釈】◇大峰の神仙 釈迦ヶ岳と大日岳の間の平坦地。大峰山脈のほぼ中央に位置し、ここから北を金剛界、南を胎蔵界と称する。神仙宿があり、多くの修行者が参籠した。

【補記】『大僧正集』では詞書「あまり久しく侍りしかば、ありとある人もみな棄てて罷りしかば」。行尊だけが修行に熱心なあまり長居し、同行の修行者は一人また一人と去って行ってしまったのである。

懸樋の水の、暁になれは音のまさるを聞きてよめる

寝ぬほどに夜や明けがたになりぬらんかけひの水の音まさるなり(新後拾遺1347)

【通釈】床に臥さないうちに、夜はもう明け方になったのだろうか。筧の水の音が高く聞えるようになった。

【語釈】◇懸樋 節を抜いた竹などを渡し、水を導き入れるための管。

水車(みづぐるま)をみてよめる

はやき瀬にたたぬばかりぞ水車われもうき世にめぐるとをしれ(金葉561)

【通釈】流れの速い瀬に立っていないというだけのことで、水車よ、私もおまえとおんなじなのだ。この憂き世の中を、せわしなく廻り続けているのだ。それを知ってくれよ。

【語釈】◇うき世にめぐる 無常の世にあって忙しく立ち回り、生き長らえている。「めぐる」は水車の縁語。

【補記】第二句「たえぬばかりぞ」とする本もある。

修行し侍りける頃、春の暮によみける

()のもとのすみかも今はあれぬべし春しくれなば誰かとひこむ(新古168)

【通釈】木の下に建てて住んでいた庵も、今頃は荒れてしまったに違いない。こうして春が暮れてしまい、花も散ってしまったなら、誰が訪ねてなど来るだろう。

【語釈】◇木のもとのすみか 出家後定住先とした庵を言う。行尊はあちこちの霊場で修行に打ち込むことが多かったため、留守がちだったのであろう。

【本歌】花山院「詞花集」
木のもとをすみかとすればおのづから花見る人となりぬべきかな

人のすむ里の気色になりにけり山路の末のしづの焼け畑(夫木抄)

【通釈】ようやく人の住む里の気配になってきたなあ。山道を下って来た末に、山人の焼け畑が見えた。

【主な派生歌】
里ちかく山路の末はなりにけり野飼ひの牛の子を思ふ声(寂蓮)

夏歌に

みな月のてる日といへど我が宿のならの葉風はすずしかりけり(玉葉425)

【通釈】真夏の太陽が照りつける日とはいっても、我が家の楢の葉をそよがせて吹く風は涼しいのだった。

【語釈】◇みな月 水無月。陰暦六月。

【補記】第四句「ならの葉かげは」とする本もある。

三井寺焼けて後、住み侍りける坊を思ひやりてよめる

すみなれし我が古郷はこの頃や浅茅がはらに鶉なくらむ(新古1680)

【通釈】長年私が住み慣れた懐かしい場所は、この頃はもう、浅茅の生い茂る野原になって、鶉が鳴いているだろう。

【語釈】◇三井寺 近江国の園城寺(おんじょうじ)。若き日、行尊が修学した寺。永保元年(1081)と保安二年(1121)、対立する延暦寺によって焼き打ちにあった。この歌がいずれの時の作か不明。◇浅茅がはら 浅茅は丈の低いチガヤ。王朝文芸では、屋敷などの荒廃をあらわすのに用いられた。◇鶉 ウズラ。荒廃した野で鳴く鳥とされた。

晩年 天永三年(1112)以後

題しらず

数ならぬ身をなにゆゑに恨みけんとてもかくてもすぐしける世を(新古1834)

【通釈】物の数にも入らない我が身を、何故恨んだりしたのだろう。今になって振り返れば、こんな私でもどのようにしてでも、ともあれ生きおおせることはできる世であったのに。

題しらず

くりかへし我が身のとがをもとむれば君もなき世にめぐるなりけり(新古1742)

【通釈】何度も繰り返し自分の罪業を探し求めると、それは君の亡くなった世にいつまでも生き永らえていることであった。

【語釈】◇君もなき世 作歌事情が判らず、この「君」が具体的に誰を指すか不明。実仁親王、嘉承二年(1107)に崩じた堀河天皇、大治四年(1129)崩御の白河院などが考えられようか。

病おもくなり侍りにければ、三井寺にまかりて、京の房に植ゑおきて侍りける八重(やへ)紅梅(こうばい)を「いまは花咲きぬらん、見ばや」といひ侍りければ、折りにつかはして見せければよめる

この世には又もあふまじ梅の花ちりぢりならんことぞかなしき(詞花363)

その後ほどなくみまかりにけるとぞ

【通釈】この世で再び梅の花を見ることはないだろう。そのように、おまえたちにも二度と出逢うことはないのだ。そしていずれ花が散ってしまうように、おまえたちも散り散りに別れてしまうのだろう。それが定めだとしても、やはり悲しいよ。

【語釈】◇京の房 京の僧房。◇折りにつかはして見せければ 行尊の弟子たちが使者を遣って八重紅梅の花を折り取らせ、臨終の床の師に見せたのである。


更新日:平成15年03月21日
最終更新日:平成15年03月21日