藤原隆信 ふじわらのたかのぶ 康治元〜元久二(1142-1205)

長良流、長門守為経(寂超)の子。母は若狭守藤原親忠女(美福門院加賀)。定家の異父兄にあたる。画家として名高い藤原信実の父。藻壁門院少将(そうへきもんいんのしょうしょう)・後深草院弁内侍らの祖父。
父は隆信が生まれた翌年に出家し、母と離縁。まもなく母は藤原俊成と再婚した。
上野介・越前守・若狭守などを歴任し、正四位下右京権大夫に至る。
建仁二年(1202)、出家。法名戒心。源空(法然)に帰依した。元久二年(1205)二月二十七日没。六十四歳。
画家として名高く、似絵(肖像画)の名人。神護寺蔵の伝源頼朝像・伝平重盛像・伝藤原光能像は隆信の作とする伝がある。物語『うきなみ』や歴史物語『弥世継』を書いたとされるが、いずれも現存しない。
歌人としては、若い頃は俊恵の歌林苑に出入りし、その後九条家歌壇・後鳥羽院歌壇などで幅広く活躍。永万二年(1166)の中宮亮重家歌合を始め、守覚法親王家五十首・正治二年院初度百首・六百番歌合・千五百番歌合など、当時有数の歌会・歌合に列席している。源頼政・清輔・西行・小侍従ら多くの歌人との交流が知られる。建仁二年(1202)、後鳥羽院の和歌所寄人となるが、三年後、新古今集の竟宴直前に没した。家集は二系統伝わり、寿永元年(1182)成立の寿永百首家集と、元久元年(1204)成立の自撰家集がある(以下、前者を寿永本、後者を元久本と呼んで区別した)。千載集初出。色好みとしても聞こえ、家集にはあまたの恋の贈答歌を収めている。建礼門院右京大夫も恋人の一人。

  3首  3首  5首  3首 計14首

後京極殿、左大将の御ときの百首歌合に、秋夕

野辺の色はみな薄墨になりにけりしばしとみつる夕霧の空(元久本隆信集)

【通釈】草花に彩られていた野辺の色は日が沈むとともにすっかり薄墨色になってしまった。夕霧のたちこめる空も、あとしばらくで同じ色になってしまうと見えたよ。

【補記】「六百番歌合」秋中、八番秋夕、右負。歌合本文は第四句「しばしとみゆる」。判者俊成は「『みなうすずみに』の詞あるべからず」と批判し、負とした。薄墨色は喪服の色で、不吉なため、歌合には相応しくないと判断したのである。

夜の(とまり)の鹿といふ心をよめる

うき寝するゐなのみなとに聞こゆなり鹿のねおろす峰の松風(千載313)

【通釈】夜、猪名の湊に停泊した船の上で、旅の辛さに憂鬱な思いで身を横たえていると、鹿の悲しげに鳴く声が聞えてくる。峰の松林から音立てて吹き下ろす風に乗って。

【語釈】◇うき寝 浮き寝(水の上に浮いて寝ること)・憂き寝(辛い思いをしながら寝ること)。◇ゐな 猪名。摂津国の歌枕。今の兵庫県伊丹市・尼崎市あたり。かつては六甲山地が目近く望まれたであろう。

月前眺望といふ事を

くもりなく月すむ峰にきてみれば千里は山のふもとなりけり(寿永本隆信集)

【通釈】月が曇りなく澄んでいる、山の高みを目指して登って来て、頂きから眺めると、千里の果てまでが山の麓なのだった。

【語釈】◇峰 山頂の尖ったところ。◇千里(ちさと) 漢語「千里(せんり)」の訓読語。遥かな道のり。◇千里は山のふもとなりけり 山の高大さを感じさせるとともに、月の光が千里の果てまでも照らし出しているさまを髣髴とさせる。

【補記】文治四年(1188)の西行勧進「二見浦百首」。『玄玉集』では初句「くまもなく」、第三句「ながむれば」。また元久本の題は「西行上人伊勢百首中に」。

たれすみて宿の梢とながむらん時雨にくもる(をち)の山もと(正治初度百首)

【通釈】遠くの山のふもとが時雨にけむっている。ぼんやりと家も見えるが、いったい誰があそこに住んで、麓の木々を庭の梢と眺めているのだろう。あわれ深い住まいだなあ。

【語釈】◇時雨(しぐれ) ぱらぱらと降ってはやむ、晩秋から初冬にかけての通り雨。

暁更時雨といへる心をよみ侍りける

うたたねの夢やうつつにかよふらむさめてもおなじ時雨をぞきく(千載407)

【通釈】うたた寝の夢は、現実との境界を往ったり来たりするのだろうか。目がさめても、夢の中で聞いていたのと同じ時雨の音を聞くのだ。

【語釈】◇暁更時雨 暁更(げうかう)の時雨。明け方に降る時雨。

山家時雨といへる心を

雲はれてのちもしぐるる柴の戸や山風はらふ松のした露(新古573)

【通釈】雲が晴れてのちも、私の住む庵には、まだ時雨が降っている。これは、松の下葉に宿った露を、山風が払い落しているのだろう。

【語釈】◇柴の戸 雑木を編んで作った粗末な戸、または門。ここでは山の庵を言っている。

題しらず

われゆゑの涙とこれをよそに見ばあはれなるべき袖のうへかな(千載757)

【通釈】もしあの人が今の私を傍(はた)から見て、「私のせいで涙を流しているのだ」と知ったなら、あの人も可哀想だと思うにちがいない。それほど、私の袖の上には涙がいっぱい溜まっているのだ。

【語釈】◇これをよそに見ば 袖の上の涙を、よそながら見たなら。「よそに見ば」は「たまたま見でもしたら」ほどの気持ちであろう。

【補記】永万二年(1166)の中宮亮重家朝臣家歌合。

後法性寺入道前関白家百首歌に、忍恋

あはれともたれかは恋をなぐさめん身よりほかには知る人もなし(新後撰780)

【通釈】可哀想だとでも、誰が私の恋を慰めてくれようか。自分のほかに、この恋心を知る人などいないのだ。

【語釈】◇後法性寺入道前関白 九条兼実◇忍恋 忍ぶる恋。ひたすら押し隠している恋心。◇たれかは 一体誰が…だろう、いやそんなことはない。「かは」は反語。

初めて逢ふ恋の心をよめる

君やたれありしつらさは(たれ)なれば恨みけるさへ今はくやしき(千載809)

【通釈】あなたは誰ですか。以前、あんなにつれなかったのは、いったい誰であったからというのですか。今のあなたは、別人のように情け深いではないですか。あの頃、あなたを恨んだことさえ、今は悔やまれますよ。

【語釈】◇初めて逢ふ恋の心 「初めて逢瀬を遂げ、共に夜を過ごした」という状況設定における恋心。

【補記】初句「君やそれ」とする本もある。元久本隆信集も「君やそれ」。

【鑑賞】想いを遂げたのち、逢ってくれなかった頃の相手の冷淡さを「別人ではないのか」と言って責める気持ちを込めている。しかし、この難詰も後悔も、恋の成就の喜びに包まれ、ユーモアを帯びていることを読み落としてはなるまい。

師光歌合し侍りけるに、恋の心をよめる

恋ひ死なむのちのうき世はしらねども生きてかひなき物は思はじ(新勅撰838)

【通釈】恋しさの余り死んでしまったあと、どんな世の中に生まれ変るかは知らないけど、生きていても何の甲斐もないような物思いは、もうしないつもりだ。今生(こんじょう)で懲りたからね。

さんざん恋に虚しい思いをしたから、来世では轍(わだち)を踏みたくない、ということ。

【本歌】よみ人しらず「拾遺集」
ひたぶるに死なば何かはさもあらばあれ生きてかひなき物思ふ身は

同右大臣家にて人々に月十首よませさせたまひしに、月をみて恋をますといふ事を

もろともにながめし夜はのむつごとを思ひ出でよとすめる月かな(寿永本隆信集)

【通釈】一緒に月夜を眺めたあの晩の語らいを、まざまざと思い出せとでもいうように、曇りなく照る月だなあ。

【語釈】◇同右大臣家 九条兼実家。

【補記】元久本隆信集には重出するが、「もろともに契りし夜はのむつごとを思ひいでよとすめる月影」「もろともにながむるよはのむつごとをおもひいでよとすめる月かな」と、語句に異同がある。

二条院御時、殿上のふだのぞかれて侍りけるころ、臨時祭の舞人にて南殿の花を見て、内侍丹波がもとにつかはしける

わするなよなれし雲ゐのさくら花うき身は春のよそになるとも(新勅撰1044)

【通釈】忘れないでくれよ、見馴れた宮中の桜花よ。たとえ不遇の我が身は、華やかな春とは無縁に、出世から見放されても。

【語釈】◇殿上のふだ 清涼殿の殿上の間の壁にかけた名札。これを「のぞかれ」たとは、除名されたということ。永暦元年(1160)七月二十二日、院宣により除籍されたことが『山槐記』に見える。◇臨時祭 石清水八幡宮の臨時祭。ふつう三月中の午の日に行なわれた。◇内侍丹波 女房名。不詳。◇雲ゐ 宮中の暗喩。◇春のよそになるとも めでたい季節である春とは、無縁な存在になっても。

摂政前右大臣家に百首歌よませ侍りける時、法文の歌の中に、般若経の心をよめる

くれ竹のむなしととける言の葉は三世の仏の母とこそきけ(千載1228)

【通釈】一切は空(くう)であると説く般若経の経典は、諸仏の母だと聞いています。

【語釈】◇摂政前右大臣 九条兼実◇呉竹の 竹は中空であることから「むなし」にかかる枕詞として用いる。◇三世(みよ)の仏 過去現在未来の仏。諸仏。「般若波羅蜜多是諸仏母」(大智度論)。

山家

とはばやななほ山深き(かど)もあらばこれより月やさびしかるらむ(正治初度百首)

【通釈】訪ねてみたいものだ。さらに山深いところに人の住む門があったなら、私の庵で見る以上に、そこからの月の眺めは寂しいだろうか。

【語釈】◇門 家の門。ここでは出家者の庵のこと。

【補記】新編国歌大観第四巻『隆信集』(元久本)では第三句「宿もあらば」。

【主な派生歌】
こえかぬる岩根の道に宿とへば猶山ふかき鐘のおとかな(二条為藤[新続古今])
そむく身はさすがにやすきあらましに猶山ふかき宿もいそがず(兼好)


更新日:平成15年03月21日
最終更新日:平成23年02月22日