加賀左衛門 かがのさいも 生没年未詳

加賀守丹波泰親の娘(『勅撰作者部類』)。但し「呂保殿歌合」勘物は父を三河守菅原為理、母を丹波泰親女とするという(『平安人名辞典』)。
はじめ入道一品宮脩子内親王に仕え、のち麗景殿女御延子(藤原頼宗女)の入内に付き従う(『栄花物語』)。長久二年(1041)、権大納言師房歌合に出詠。また永承から承暦年間にかけて、禖子内親王家の歌合にたびたび詠進した。源経信・橘為仲ら歌人との親交が窺える。
後拾遺集初出。勅撰入集は計十首。

老いたる親の七月七日筑紫へ下りけるに、はるかにはなれぬることを思ひて、八日の暁おひて船にのる所につかはしける

天の川そらにきこえし舟出には我ぞまさりて今朝はかなしき(新古873)

【通釈】天の川の空に名高い船出の別れよりも、同じ七月八日の朝に父上と別れる私の方が、もっと悲しゅうございます。

【補記】老いて九州へ赴任することとなった父親にあて、船出する港へ届けた歌。新古今集巻九、離別歌。第二句を「空にきえにし」とする本もある。

題しらず

宿ごとにかはらぬものは山の端の月待つほどの心なりけり(後拾遺843)

【通釈】家ごとに住む人は異なり、それぞれに暮らし向きは違うのだけれども、どの家でも変わらないことは、山から昇る月を待つ時の心なのであるよ。

【補記】永承五年(1050)前麗景殿女御歌合。

橘為仲朝臣陸奥(みちのおく)に侍りける時、歌あまたつかはしける中に

白浪のこゆらむ末の松山は花とや見ゆる春の夜の月(新古1474)

【通釈】「あだし心を我が持たば」と詠まれた末の松山は、もう白波が越えていることでしょう。春の夜の月に照らされて、泡立つ波が花のように見えるでしょうか。

【補記】遠国の歌枕の幻想的な景を詠む裏に、「あなたと離れても決して浮気心など持つまい」と誓った古今集本歌を踏まえ、旅立った男友達への皮肉を籠めている。橘為仲は和歌六人党の一人で、おそらく作者とは風流の友であったか。

【本歌】「古今集」みちのくうた
君をおきてあだし心をわがもたば末の松山浪もこえなむ
  藤原興風「古今集」
浦ちかくふりくる雪は白浪の末の松山こすかとぞ見る


最終更新日:平成15年01月07日