徳大寺実定 とくだいじさねさだ 保延五〜建久二(1139-1191)通称:後徳大寺左大臣

右大臣公能の一男。母は藤原俊忠女、従三位豪子。忻子(後白河天皇中宮)・多子(近衛天皇二条天皇后)の同母弟。大納言実家・権中納言実守・左近中将公衡の同母兄。子に公継がいる。俊成の甥。定家の従兄。
永治元年(1141)、三歳で従五位下に叙される。左兵衛佐・左近衛少将・同中将などを歴任し、保元元年(1156)、十八歳で従三位。同三年、正三位に叙され、権中納言となる。永暦元年(1160)、中納言。同二年、父を亡くす。応保二年(1162)、従二位。長寛二年(1164)、権大納言に昇ったが、翌永万元年(1165)、辞職した(官途の競争相手であった実長に官位を先んじられたこと、あるいは平氏に官職を先んじられたことが原因という)。同年、正二位。以後十二年間沈淪した後、安元三年(1177)三月、大納言として復帰。同年十二月には左大将に任ぜられた。寿永三年(1184)、内大臣に昇り、文治二年(1186)には右大臣、同五年には左大臣に至る。摂政九条兼実の補佐役として活躍したが、建久元年(1190)七月、左大臣を辞し、同二年(1191)六月、病により出家。法名は如円。同年十二月十六日、薨ず。五十三歳。祖父の実能(さねよし)を徳大寺左大臣と呼んだのに対し、後徳大寺左大臣と称された。
非常な蔵書家で、才学に富み、管弦や今様にもすぐれた。俊恵の歌林苑歌人たちをはじめ、小侍従・上西門院兵衛・西行・俊成・源頼政ら多くの歌人との交流が窺える。住吉社歌合・広田社歌合・建春門院滋子北面歌合・右大臣兼実百首などに出詠。『歌仙落書』には「風情けだかく、また面白く艶なる様も具したるにや」と評されている。『平家物語』『徒然草』『今物語』ほかに、多くの逸話を残す。日記『槐林記』(散佚)、家集『林下集』がある。千載集初出。代々の勅撰集には計79首入集。

  3首  3首  5首  2首  5首  3首 計21首

晩霞といふことをよめる

なごの海の霞の間よりながむれば入日(いるひ)をあらふ沖つ白波(新古35)

【通釈】なごの海にたなびく霞の切れ間をとおして眺めると、水平線に沈んでゆく太陽を洗っているよ、沖の白波が。

【語釈】◇なごの海 越中などにも同名の歌枕があるが、ここのは摂津国とするのが通説。本歌(下記参照)との関係からしても、住吉あたりの海を想定して詠んだにちがいない。

【補記】治承三年(1179)成立の歌合形式秀歌撰『治承三十六人歌合』に二番「晩霞」の題で掲載。鴨長明の『無名抄』では俊恵が「上句思ふやうならぬ」歌の例として挙げられている。「入日をあらふ」は素晴らしい表現であるが、第二・三句が釣り合っていないと批判しているのである。

【他出】治承三十六人歌合、林下集、無名抄、和漢兼作集、歌枕名寄、六華集、題林愚抄

【本歌】源経信「後拾遺集」
沖つ風吹きにけらしな住吉の松のしづ枝をあらふ白波

【参考歌】大伴家持「万葉集」巻十七
奈呉の海の沖つ白波しくしくに思ほえむかも立ち別れなば

【主な派生歌】
なごの海のいる日をあらふ浪のうへに春の別れの色をそへつつ(後鳥羽院)
見渡せば空のかぎりもなごの海の霞にかかる沖つしら波(頓阿)

花歌とてよめる

身にしみて花をも何か惜しむべきこれも此の世のすさみと思へば(林下集)

【通釈】しみじみと我が身のことのように、散る花を惜しむべき道理などあろうか。これもまた、私にとっては所詮現世のはかない慰めごとにすぎないのだと思えば。

【語釈】◇すさみ スサビの転。慰み。もてあそびごと。

【補記】玉葉集では初句「身にしめて」。結句「すさびと思へば」。

題しらず

はかなさをほかにもいはじ桜花咲きては散りぬあはれ世の中(新古141)

【通釈】はかなさというものを、桜の花のほかには、何にも喩えて言うまい。咲いては散ってしまう、ああ、人の世というもの。

【語釈】◇ほかにもいはじ 桜の花以外の喩えで言う必要はない、ということ。◇世の中 人間の一生・人間関係・俗世・栄枯盛衰・男女の仲など、さまざまなニュアンスを含む。

【参考歌】蝉丸「新古今集」
秋風になびく浅茅の末ごとにおく白露のあはれ世中
  崇徳院「久安百首」
はかなさは外にもいはじ百歌のその人かずは足らずなりにき

暁聞時鳥といへる心をよみ侍りける

ほととぎす鳴きつる方をながむればただ有明の月ぞのこれる(千載161)

【通釈】暁になって、やっとほととぎすが鳴いた。その声のした方を眺めると、鳥のすがたは跡形も無くてただ有明の月が空に残っているばかりだ。

【語釈】◇暁聞時鳥 暁に時鳥(ほととぎす)を聞く。◇有明の月 明け方まで空に残る月。ふつう、陰暦二十日以降の月。

【補記】「初学云、郭公のそなたに鳴つるはとて見やれば、名残あとなき空に、有明の月のみあると也、といへり。実にけしきみえて、郭公にとりては、当時最第一の御歌といふべし」(香川景樹『百首異見』)。『素然抄』『幽斎抄』にも「郭公の歌には第一ともいふべきにや」とあり、古来郭公を詠んだ秀歌中の秀歌とされた。現代の注釈書でも評価は高いが、聴覚(ほととぎすの声)から視覚(有明の月)への転換の鮮やかさがよく指摘される。

【他出】林下集、歌仙落書、治承三十六人歌合、定家八代抄時代不同歌合百人一首

【参考】「和漢朗詠集・郭公」(→資料編
一声山鳥曙雲外

【主な派生歌】
時鳥過ぎつる方の雲まより猶ながめよといづる月かげ(*宜秋門院丹後[玉葉])
ほととぎす鳴きつる雲をかたみにてやがてながむる有明の空(式子内親王[玉葉])
袖の香を花橘におどろけば空に在明の月ぞのこれる(藤原定家)
時鳥いま一こゑを待ちえてや鳴きつるかたを思ひさだめむ(長舜[新後撰])
ほととぎす鳴きて過ぎ行く山の端に今一声と月ぞのこれる(浄弁[新拾遺])
一声の行方いかにとほととぎす月も有明の名残をぞおもふ(冷泉為村)
時鳥なきつるあとにあきれたる後徳大寺の有明の顔(蜀山人)

ゆふべの風如秋

夕かけてならの葉そよぎふく風のまだき秋めくかむなびの森(林下集)

【通釈】夕方にかけて、楢の葉をそよがせて吹く風の、早くも秋めいて感じられる、神奈備の森。

【語釈】◇かむなびの森 「かむなび」はもともと「神の坐(ま)すところ」を意味する普通名詞。「かむなびの森」は、特に奈良県生駒郡の龍田神社あたりの森を指す。

夏の歌のなかに

秋きぬとおどろかれけり窓ちかくいささ群竹(むらたけ)かぜそよぐ夜は(林下集)

【通釈】秋が来たのだと驚いたのだった。窓の近く、ささやかな竹林が風にそよぐ夜は。

【語釈】◇いささ群竹 ほんのわずかな竹の群。下記本歌を踏まえる。

【本歌】大伴家持「万葉集」巻十九
我が屋戸のいささ群竹ふく風の音のかそけきこの夕へかも
  藤原敏行「古今集」
秋きぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる
【本説】白氏文集・和漢朗詠集「夏夜」(→資料編

はるかに鹿を聞くといふことを

駒とめてなほや聞かましはるばると朝たつあとのさをしかの声(林下集)

【通釈】馬をとめて、もっとよく聞きたいものだ。早朝、遥々と発って来た私の背後から遥かに響いてくる、牡鹿の声を。

【語釈】◇なほや聞かまし ヤは強調の助詞。マシは仮想の助動詞。実際には馬を停めることが出来ないが、もしそれが可能なら、もっとよく聞きたいのに、といった気持ち。作中の主人公に旅を急ぐ必要があることを想像させる。◇はるばると 遥々と旅立って来た意と、鹿の声が遥かに聞えてくる意と、両方にかけている。◇朝たつ (作中の主人公が)「早朝出発する」意に、(鹿が)「朝の餌を食べに出る」意を掛けている。◇さをしか さ牡鹿。オスの鹿。サは接頭語。中世以後は「棹鹿」と書かれることも多くなる。

文治六年女御入内屏風に (二首)

いつもきく麓の里とおもへども昨日にかはる山おろしの風(新古288)

【通釈】ここは、山から吹き下ろしてくる風なんてしょっちゅう耳にする麓の里とは思うけれども、やはり昨日とはちがって聞える、山颪の風の音だなあ。

【語釈】◇文治六年女御入内屏風 九条兼実のむすめ任子が後鳥羽天皇に入内した時の祝いの屏風。◇昨日にかはる 暦の上で夏であった昨日と、秋になった今日とでは、違って聞える。

【参考歌】紀貫之「古今六帖」
いつもきく風とはきけど荻のはのそよぐ音にぞ秋はきにける

 

住吉の松のうれよりひびき来て遠里(とほざと)小野に秋風ぞふく(続後撰267)

【通釈】住吉の浜に生えている松の梢に吹きつけ、そこから音を響かせながら、遠里小野にまで秋風が吹いて来る。

【語釈】◇住吉 今の大阪市住吉区あたり。昔は白砂青松の海浜があった。◇うれ 木や草の伸びた先端。◇遠里小野 大阪市住吉区から堺市にかけての丘陵地。萩の名所。

題しらず

夕されば荻の葉むけを吹く風にことぞともなく涙おちけり(新古304)

【通釈】夕暮になると、荻の葉を一方になびかして吹く風で、あっけなく露が落ちる。そのように私も何ということもなく、涙が落ちてしまった。

【本歌】小野小町「古今集」
秋の夜も名のみなりけり逢ふといへばことぞともなく明けぬるものを

旅のみちに秋つきぬといふことを

ゆく秋のたむけに紅葉ちりまがひかむなび山をともにこえつる(林下集)

【通釈】去ってゆく秋への餞別に紅葉が散り乱れ、神奈備山を紅葉と共に越えたことだよ。

【語釈】◇たむけ 手向。もとは峠の神などに捧げたお供え。その後、旅立つ人への餞別の意にも用いる。◇かむなび山 奈良県生駒郡の神奈備山。龍田神社の背後。紅葉の名所。

題しらず

夕なぎに()渡る千鳥波間より見ゆる小島の雲に消えぬる(新古645)

【通釈】夕暮、風のやんだ頃に海峡を渡ってゆく千鳥――波間に見える小島にかかっている雲の中に、消えてしまった。

【本歌】「万葉集」巻十一
波の間ゆ見ゆる小島の浜久木久しくなりぬ君に逢はずして

雪のあした、後徳大寺左大臣のもとにつかはしける  皇太后宮大夫俊成

けふはもし君もや問ふとながむれどまだ跡もなき庭の雪かな

【通釈】今日あたり、もしかしたら貴方が来てくれるかと思って庭を眺めて見たけれども、積もった雪にはまだ足跡もついていなかったですよ。

返し

今ぞきく心は跡もなかりけり雪かきわけて思ひやれども(新古665)

【通釈】それを聞いて今初めて気づきました。心は足跡を残すことなんてなかったのでしたね。思いだけは、雪をかきわけて、貴方のもとへ遣っていたのですが。

【語釈】◇今ぞきく 今こそ聞いて分かった。初句切れ。

【本歌】在原業平「古今集」
忘れては夢かとぞ思ふ思ひきや雪ふみ分けて君をみんとは

かたらひ侍りける女の、夢にみえて侍りければ、よみける

さめてのち夢なりけりと思ふにもあふは名残のをしくやはあらぬ(新古1125)

【通釈】目が覚めて、そのあと「夢だったのだ」と思う。――そんな場合だって、逢ったことに変わりはないのだ。名残惜しくないわけないじゃないか。

【語釈】◇かたらひ侍りける女 親密な間柄にあった女。

題しらず

憂き人の月はなにぞのゆかりぞと思ひながらもうちながめつつ(新古1266)

【通釈】月は、つれないあの人と何の関係があるというんだ。そう思いながらも、何度も夜空を眺めずにはいられなくて…。

【他出】林下集、時代不同歌合

【補記】『林下集』の詞書は「白川歌仙どもうたあはせしはべりしに」。

【主な派生歌】
紫の月はなにぞのゆかりとて草葉もあはれ武蔵野の露(本居宣長)

題しらず

はかなくも()ん世をかねて(ちぎ)るかなふたたびおなじ身ともならじを(千載921)

【通釈】はかなくも、来世にわたってまで言い交わすことだよ。ふたたび同じこの身に生まれ変ることなどあるまいに。

女の許につかはしける

恋ひ死なんゆくへをだにも思ひ出でよ夕べの雲はそれとなくとも(続拾遺890)

【通釈】私はもう恋しさに死んでしまうだろう。そのあと魂がどこをめざして行ったか、せめてその行方だけでも思い出してくれ。夕空に、それらしい雲は見えないとしても。私の魂は、あなたのもとへ行ったはずなのだ。

【本歌】源俊頼「散木奇歌集」
とどまらむことこそ春のかたからめゆくへをだにも知らせましかば

恋歌の中に

心こそうとくもならめ身にそへる面影だにも我をはなるな(玉葉1531)

【通釈】あの人の心は冷淡になってゆくとしても、せめて我が身に付き添う面影だけは、私から離れないでくれ。

公時卿母みまかりて歎き侍りけるころ、大納言実国がもとに申しつかはしける

悲しさは秋のさが野のきりぎりすなほ古郷にねをや鳴くらん(新古786)

【通釈】悲しみは逃れ得ぬ運命で、秋の嵯峨野のこおろぎのように、貴方もやはり故郷で声をあげて泣いておられるのでしょう。

【語釈】◇公時卿母 権中納言藤原公時の母。実国の妻。◇さが野 京都市右京区嵯峨あたりに広がっていた野。女郎花や薄の名所。性(さが)と掛詞になり、「悲しい死は、どうしようもない運命である」の意をこめている。

大炊御門(おほゐのみかど)の右大臣身まかりて後、かの記しおきて侍りける私記どもの侍りけるを見て、よみ侍りける

をしへおくその言の葉を見るたびに又問ふかたのなきぞかなしき(千載590)

【通釈】伝え残してくれた父のこの文章を見るたびに、ふたたび質問する手立てのないことが悲しく思える。

【語釈】◇大炊御門の右大臣 藤原公能。作者の父。永暦二年(1161)、薨。◇私記 私人としての記録。家日記。公能の遺した漢文日記のこと。

大納言辞し申して出で仕へず侍りける時、住吉の社の歌合とて人々よみ侍りけるに、述懐の歌とてよみ侍りける

かぞふれば()とせ経にけりあはれ我がしづみしことは昨日と思ふに(千載1262)

そののち神感あるやうに夢想ありて、大納言にも還任して侍りけるとなむ

【通釈】数えるともう八年も経ったのだなあ。ああ、私が沈淪したことは、ほんの昨日のことのように思えるのに。

【語釈】◇大納言辞し申して 永万元年(1165)八月十七日、権大納言辞任。◇住吉の社の歌合 嘉応二年(1170)の住吉社歌合。◇神感あるやうに夢想ありて 夢の中で神の啓示を受けて。


更新日:平成15年05月24日
最終更新日:平成22年03月22日