白河院 しらかわのいん 永承八〜大治四(1053-1129) 諱:貞仁

後三条天皇の第一皇子。母は贈皇太后藤原茂子(藤原公成女、藤原能信養女)。異母弟に実仁親王・輔仁親王、同母妹に聡子内親王ほか。中宮賢子(源顕房女。藤原師実の養女)との間に敦文親王・善仁親王(堀河天皇)・郁芳門院・令子内親王(鳥羽皇后)ほかを、典侍源経子との間に覚行法親王をもうけた。また崇徳院・平清盛の実父とする伝がある。
治暦元年(1065)元服し、同四年、親王となる。延久元年(1069)四月、立太子。同四年十二月、即位。第七十二代白河天皇。承保三年(1076)、大井川行幸。応徳三年(1086)十一月、善仁親王に譲位。以後、堀河・鳥羽・崇徳三代にわたって院政を執る。寛治四年(1090)、熊野に参詣し、初めて熊野三山検校を置いた。嘉保三年(1096)、落飾し法皇となる。法諱は融観。大治四年(1129)七月七日、崩御。七十七歳。
承暦二年(1078)、内裏歌合を挙行。応徳三年(1086)九月、藤原通俊に第四勅撰和歌集『後拾遺和歌集』を奏上させる。天治元年(1124)末か二年初め頃、源俊頼に第五勅撰和歌集『金葉和歌集』を上奏させる(初度本)が、返却し、天治二年四月頃、再奏させ(二度本)、さらに大治元年(1126)または翌年頃、再々奏させた(三奏本)。後拾遺集初出。勅撰入集二十九首。

承保三年十月、今上御狩のついでに大井河にみゆきせさせ給ふによませ給へる

大井川ふるき流れをたづねきて嵐の山のもみぢをぞ見る(後拾遺379)

【通釈】宇多法皇や醍醐天皇も訪れた、ここ大井川の由緒ある流れを訪ねて来て、嵐山に散り乱れる紅葉を見ることよ。

【語釈】◇大井川 桂川の上流、京都嵐山のあたりを言う。延喜七年(907)九月の宇多法皇の御幸、延長四年(926)十月の醍醐天皇の行幸で名高い。紅葉の名所。◇嵐の山 地名「嵐山」に「風の吹き荒れる山」の意をかける掛詞。

【補記】即位して三年目の承保三年(1076)十月、狩猟のついでに大堰川に行幸された時に詠まれたという歌。親政ゆえ聖帝と慕われた宇多法皇・醍醐天皇を偲び、嵐山の紅葉を見た喜びを歌う。

【他出】五代集歌枕、和歌初学抄、今鏡、宝物集、古来風体抄、定家八代抄、時代不同歌合、別本八代集秀逸(後鳥羽院・家隆撰)、十訓抄、歌枕名寄

待客聞時鳥といへる心を

ほととぎすまだうちとけぬ忍び音は来ぬ人を待つ我のみぞ聞く(新古198)

【通釈】ほととぎすはまだ里に出て来たばかりで人に心を許さず、馴れない忍び音で鳴く。耳を澄ませて来客の訪れを待っていた私ばかりが、その声を聞いたのだ。

【本歌】坂上是則「古今集」
山がつと人は言へども時鳥まつ初声は我のみぞ聞く

題しらず

庭のおもは月もらぬまでなりにけり梢に夏の影しげりつつ(新古249)

【通釈】庭の地面に月明りが漏らないほどになったよ。夏の木の葉が、梢にみっしりと繁り、陰を作って。

【補記】『匡房集』『和一字抄』は大江匡房の作とする。『江帥集』は結句「日数つもりて」。

【他出】時代不同歌合

【参考歌】大江匡房「江帥集」
庭の面は月もらぬまでなりにけり梢に夏の日数つもりて

承保二年四月、清涼殿にて、久契明月といふ事を講ぜられしついでに

しづかなる気色(けしき)ぞしるき月影の八百万代(やほよろづよ)を照らすべければ(玉葉1068)

【通釈】平穏無事な天下が続くことがはっきりとわかるよ。月の光は無窮に代々(よよ)を照らすべきものだから。

【補記】承保二年(1075)四月、御所での歌会に出詠された歌。

【他出】万代集、題林愚抄

熊野へまうで給ひける道に、花のさかりなりけるを御覧じて

咲きにほふ花のけしきを見るからに神の心ぞ空に知らるる(新古1906)

【通釈】参道に咲きほこる花の様子を見るにつけ、熊野の神の恵み深い心がそれとなく知られるよ。

【補記】熊野大社に参詣する道すがら、桜の花が盛りであったのを御覧になって詠んだという歌。


更新日:平成15年03月21日
最終更新日:平成22年03月11日