藤原為家 ふじわらのためいえ 建久九〜建治元(1198-1275) 通称:民部卿入道・中院禅門

定家の二男。母は内大臣藤原実宗女。因子の同母弟。子には為氏(二条家の祖)・為教(京極家の祖)・為相(冷泉家の祖)・為守、為子(九条道良室)ほかがいる。宇都宮頼綱女・阿仏尼を妻とした。御子左家系図
建仁二年(1202)十一月十九日、叙爵(従五位下)。元久三年(1206)正月十七日、従五位上に昇る。承元元年(1207)より後鳥羽院に伺候し、同三年(1209)四月十四日、侍従に任ぜられる。同四年七月二十一日、定家の権中将辞任に伴い、左少将に任ぜられる。承元四年(1210)の順徳天皇践祚後はその近習として親しく仕えた。建暦二年(1212)十一月十一日、正五位下。建保二年(1214)正月五日、従四位下。同四年(1216)正月十三日、従四位上となり、同五年十二月十日には左中将に昇進した。承久元年(1219)正月五日、正四位下。承久の乱後、順徳院の佐渡遷幸に際しては供奉の筆頭に名を挙げられたが、結局都に留まった。後堀河天皇の嘉禄元年(1225)十二月二十六日、蔵人頭。同二年四月十九日、参議に就任し、侍従を兼ねる。同年十一月四日、従三位に進む。寛喜三年(1231)正月六日、正三位。同年四月十四日、右兵衛督を兼ねる。貞永元年(1232)六月二十九日、右衛門督に転ず。四条天皇の文暦二年(1235)正月二十三日、従二位。嘉禎二年(1236)二月三十日、権中納言(右衛門督を止む)。同四年七月二十日、正二位。仁治二年(1241)二月一日、権大納言に任ぜられるが、八月二十日定家が亡くなり服喪し、その後復任せず。後深草天皇の建長二年(1250)九月十六日、民部卿を兼ねる。康元元年(1256)二月二十九日、病により出家し、嵯峨中院山荘に隠棲した。後宇多天皇の建治元年(1275)五月一日、薨。七十八歳。
建暦二年(1212)・建保元年(1213)の内裏詩歌合など、十代半ばから順徳天皇の内裏歌壇で活動を始めるが、若い頃は蹴鞠に熱中して歌道に精進せず、父定家を歎かせた。歌作に真剣に取り組むようになるのは建保末年頃からで、承久元年(1219)には内裏百番歌合に出詠し、貞応二年(1223)には慈円の勧めにより五日間で千首歌を創作した(『為家卿千首』)。やがて歌壇で幅広く活躍、寛喜元年(1229)の女御入内御屏風和歌、貞永元年(1232)の洞院摂政家百首に出詠するなどした。仁治二年(1241)、定家が亡くなると御子左家を嗣ぎ、寛元元年(1243)の河合社歌合、宝治二年(1248)の後嵯峨院御歌合などの判者を務めた。宝治二年七月、後嵯峨院より勅撰集単独編纂を仰せ付かり、建長三年(1251)、『続後撰集』として完成奏覧。正元元年(1259)には再び勅撰集単独撰進の院宣を受けたが、その後鎌倉将軍宗尊親王の勢威を借りて葉室光俊(真観)らが介入、結局光俊ほか四人が撰者に加えられ、これを不快とした為家は選歌を放棄したとも伝わる(六年後の文永二年、『続古今集』として奏覧)。出家後も歌作りは盛んで、正嘉元年(1257)には『卒爾百首』、弘長元年(1261)には『楚忽百首』『弘長百首』を詠むなどした。晩年は側室の阿仏尼安嘉門院四条)を溺愛し、その子為相に細川荘を与える旨の文券を書いて、後に為氏・為相の遺産相続争いの原因を作った。
新勅撰集初出。勅撰入集三百三十三首。続拾遺集では最多入集歌人。家集は『大納言為家集』『中院集』『中院詠草』『別本中院集』の四種が伝わる。歌論書に『詠歌一躰』、注釈書に『古今序抄』『後撰集正義』がある。

  9首  2首  7首  3首  9首  6首 計36首

建長二年詩歌をあはせられ侍りける時、江上春望

難波江や冬ごもりせし梅が香の四方(よも)にみちくる春の潮風(続千載50)

【通釈】難波江では、冬ごもりしていた梅が咲いて、その香が至るところ満ちて来るよ、春の潮風と共に。

【補記】建長二年(1250)九月、仙洞詩歌合。為家五十三歳。岸辺の梅林に潮風が吹き、その芳香が難波江いちめんに満ちてくる。「みちくる」は「しほ」と縁語になり、梅の香に潮の香がまざりあう。難波と梅の取り合せは、古今集仮名序に引かれた「難波津の歌」に由来する。仁徳帝の聖代を遥かに想起させつつ、大らかな春の讃歌を謳い上げている。

【本歌】王仁「古今集」仮名序
難波津に咲くやこの花冬ごもり今は春べと咲くやこの花

百首歌人々によませ侍りけるに

初瀬女(はつせめ)の峰の桜の花かづら空さへかけてにほふ春風(続古今103)

【通釈】初瀬の少女の花縵のような峰の桜――空にさえ及んで匂う春風よ。

【語釈】◇初瀬女 初期大和朝廷の中心地であった泊瀬地方(奈良県桜井市)の若い女性。特殊な霊威をもつと考えられたことは、万葉集の歌などから窺われる。◇花かづら 花縵。花の髪飾り。花を緒で貫いて挿頭としたもの。◇空さへかけて 空にまで及んで。「かけて」は「花かづら」の縁語として「頭に掛けて」の意を帯びる。

【補記】泊瀬の山の頂近く咲く桜を、泊瀬女の花縵(髪飾り)に見立て、春風が空にまでその薫香を漲らせている情景を詠んだ。貞永元年(1232)の洞院摂政家百首。藤原教実が定家・家隆をはじめ当時の主要歌人に詠出させた百首歌である。為家は三十代半ばであったが、艶にして柄の大きな詠風は、すでに大家の風格充分である。

【参考歌】笠金村「万葉集」巻六
泊瀬女のつくる木綿花み吉野の滝の水沫に咲きにけらずや
  藤原忠通「金葉集」
吉野山みねの桜や咲きぬらむ麓の里ににほふ春風
  藤原家隆「壬二集」
たをやめのうちたれ髪の花かづら曙かけてにほふ春風

【主な派生歌】
久かたの空さへかけてまきもくのあなしの山は花かづらせり(浄弁)

文永二年七月、白河殿にて人々題をさぐりて七百首歌つかうまつりける時、橋霞を

にほの海やかすみて暮るる春の日にわたるも遠し瀬田の長橋(新後撰33)

【通釈】鳰の湖――霞が立ちこめるなか暮れてゆく春の日にあっては、渡り切るのも遥かな瀬田の長橋よ。

【語釈】◇にほの海 鳰の海。琵琶湖の古称。◇瀬田の長橋 琵琶湖から南へ流れる瀬田川に架けられた大橋。瀬田は勢多とも勢田とも書く。

【補記】文永二年(1265)七月七日、後嵯峨院主催の「白河殿七百首」。詞書に「題をさぐりて」とあるのは、いわゆる「探題」、籖引きなどをして、当たった題で歌を詠むことを言う。為家は「橋の霞」という題を探り当てたわけである。鳰の海(琵琶湖の古称)に夕霞が立ちこめ、日は沈んでゆく。湖に注ぐ瀬田川に架かる長橋は、渡りきるのに大層時間がかかる。が、春の日だから、暮れてゆくのもゆっくりだ。

弘長元年百首歌たてまつりけるに、はなを

よしさらば散るまでは見じ山ざくら花のさかりを面影にして(続古今125)

【通釈】ええいままよ、散るまで山桜を見ることはしまい。この花盛りを目に焼き付けておいて、いつまでも俤のうちに賞美しよう。

【補記】弘長元年(1261)、後嵯峨院主催の百首歌。作者六十代、円熟味のある歌を多く収めている。このように線の太い、率直な抒情性も歌人為家の一面である。『六華集』を始め中世の秀歌撰に採られた、代表作の一つ。

【他出】弘長百首、為家集、三百六十番歌合、六華集、東野州聞書、雲玉集

【主な派生歌】
よしさらば夢路はたえね草枕月を都の面影にして(頓阿)
ねぬる夜も目はさめにけり夕暮の花のにほひを面影にして(飛鳥井雅親)

西園寺入道前太政大臣家三首歌に、花下日暮といへる心を 

ながしとも思はで暮れぬ夕日かげ花にうつろふ春の心は(続千載87)

【通釈】春の日は永いと言うが、心にはそうとも思えぬうちに暮れてしまった。夕日を映す花とともに移ろってゆく我が心には。

【補記】構文はなかなか複雑で、「思はで」の主語は結句「春の心」であり、「暮れぬ」の主語は第三句「夕日かげ」であって、二重の倒置をなしている。また「花にうつろふ」は、前句との続きから「夕日が花に映る」意をあらわすと共に、下句に掛かって「花に動かされる春の心は」ほどの意になる。かくも用意周到の作であるが、一首の姿は題意にふさわしく物憂いような情緒纏綿の調べを奏でている。
西園寺家の歌会での作。続千載集では入道前太政大臣とあって公経を指すことになるが、為家集の詞書は「建長三年前太政大臣西園寺三首」とあり、正しくは西園寺実氏主催の会か。

【参考歌】藤原家隆「水無瀬恋十五首歌合」
恨みても心づからの思ひかなうつろふ花に春の夕暮
  藤原定家「拾遺愚草員外」
いかならむ絶えて桜の世なりとも曙かすむ春の心は

【主な派生歌】
咲きしより花にうつろふ山里の春のこころはちるかたもなし(本居宣長)

春歌の中に

山ふかき谷吹きのぼる春風に浮きて天霧(あまぎ)る花の白雪(玉葉221)

【通釈】山奥の深い渓谷を吹き昇ってくる春風に、浮んで空いちめんを曇らせるように散り乱れる花の白雪よ。

【参考歌】鴨長明「続古今集」
吹きのぼる木曾のみさかの谷風に梢も知らぬ花を見るかな

【主な派生歌】
初瀬風谷吹きのぼる梅が香にかすむ尾上の月ぞいざよふ(正徹)

正嘉二年五十首

峰の雲ふもとの雪にうつろひて花をぞたどる志賀の山越え(為家集)

【通釈】峰の雲、あるいは麓の雪にと変化して舞い散る桜の花、その花をしるべに辿る志賀の山越えの道よ。

【補記】ある時は峰にかかる雲と見え、またある時は麓に降り積もる雪と見えて舞い散る山桜。あたかも花をしるべに辿るかのような山越えの道。「志賀の山越え」は、京の白川から近江へ越える道で、日吉大社や三井寺に参詣する都人に盛んに利用された。小川に沿ってつづら折りの続く、変化に富んだ山道である。正嘉二年(1258)、還暦を過ぎた作者円熟の作。

春暁月を

鐘のおとは霞の底に明けやらで影ほのかなる春の夜の月(新後撰143)

【通釈】鐘の音は霞の底にくぐもったように響き、朝はなかなか明けきらない。空には光ほのかな春の夜の月――。

三月尽

今ひと日あらましかばと思ふにも春のかぎりの雨ぞかなしき(為家集)

【通釈】もう一日あればなどと思うにつけ、春と別れる今日という日に降る雨が切なく感じられることよ。

【補記】建長五年(1253)三月の作。

【参考歌】よみ人しらず「後撰集」
をしめども春の限のけふの又ゆふぐれにさへなりにけるかな

夏の歌の中に

あまの川とほきわたりになりにけり交野(かたの)御野(みの)の五月雨のころ(続後撰207)

【通釈】あまの川は雨で増水し、向こう岸は遥か遠くなった。交野の御野の五月雨の季節――。

【語釈】◇あまの川 滋賀県の伊吹山麓に発し、琵琶湖に注ぐ天野川。同名の天の川を意識して詠まれることが多い。◇交野 河内国の歌枕。今の交野市・枚方市あたりの平野。皇室の狩猟地だったので「御野(みの)」と呼ぶ。

【補記】天上の川かと思いきや、下句で一転、五月雨で増水した地上の川の情景が現われる(天の川は「雨の川」であった)。のみならず上句・下句で声調も転ずる面白さ。貞永元年(1232)、洞院摂政家百首。題は「五月雨」。『新時代不同歌合』『六華集』『正風体抄』などの秀歌選に採られた、為家の代表作の一つ。

【本歌】柿本人麻呂「拾遺集」「和漢朗詠集」
あまの河とほき渡にあらねども君がふなでは年にこそまて

【主な派生歌】
袖したふかた野の露や天の川遠き渡りの秋の夕暮(正徹)

納涼

まだきより秋かとぞ思ふ小倉山夕暮いそぐ松の下風(為家集)

【通釈】まだその季節にならないうちから、もう秋かと思うのだ。小倉山では、日暮に遅れまいと急ぐかのように松の下を風が吹いている。

小倉山
小倉山 二尊院より

【語釈】◇まだきより まだその季節(秋)ではないうちから。◇小倉山 京都市右京区嵯峨。父定家の山荘があった所で、為家晩年の隠棲地。歌枕としては「小暗し」との掛詞を意識して読むのが常道である。◇夕暮いそぐ日が短くなった晩夏の夕、慌ただしく吹きすぎる風の形容。定家に先蹤がある(下記参考歌)。

【補記】弘長元年(1261)、後嵯峨院百首歌。上句の率直な抒情と、下句の叙景の響き合いが程よく調和し、微かな余情を生んで、父の歌に全く見劣りしない。因みに為家は文永八年(1271)最晩年の作にも「山人のかへる嵯峨野のおひかぜに夕ぐれいそぐをぐら山かな」と詠んでいる。

【参考歌】藤原家隆「大僧正四季百首」
まだきより秋とぞ名のるたそかれや朝倉山のよその松風
  藤原定家「大僧正四季百首」
をぐら山松にかくるる草の庵の夕暮いそぐ夏ぞすずしき

宝治百首歌めされける時、萩露を

乙女子がかざしの萩の花のえに玉をかざれる秋の白露(玉葉503)

【通釈】少女の挿頭の萩の花――その枝に、玉のように光って飾りを添えている秋の白露よ。

【補記】発想にさして新味はないが、秋の野に遊ぶ少女の姿から、髪飾りの白露へとなめらかに焦点を絞ってゆく描写は鮮やか。宝治二年(1248)、後嵯峨院主催の宝治百首出詠歌。

野月をよみ侍りける

草の原野もせの露に宿かりて空にいそがぬ月のかげかな(続古今424)

【通釈】草野原いちめんの夜露――その露に宿を借りて、急ぐ様子もなく空を渡る月であるよ。

【補記】これも宝治百首。草原には夜露が一面に降り、その玉のような滴に月の光が宿っている。見上げれば、月は急ぐ様子もなく空を渡ってゆく。秋の夜の静寂を閑雅に描いている。

家百首歌に

浦とほき白洲のすゑのひとつ松またかげもなくすめる月かな(玉葉656)

【通釈】入江に遠く突き出た白砂の洲――その先端には一本松が照らし出されていて、他には物の影ひとつなく澄みわたる月の光であるよ。

【補記】月夜の海に浮かび上がる白い砂嘴(さし)。視線をさらにその先へ伸ばせば、松の木が皚々たる光の中に孤影を刻んでいる。作者のイメージ造形力の非凡さが遺憾なく発揮された一首。

【主な派生歌】
波のうへは雨にかすみてながめやる沖の白洲に松ぞ残れる(為子[玉葉])

弘長元年百首歌たてまつりける時、霧

朝ぼらけ嵐の山は峯晴れて麓をくだる秋の川霧(続拾遺276)

【通釈】朝がほのぼのと明ける頃、嵐が吹いていた嵐山の峰は晴れて、麓を秋の川霧が下ってゆく。

【補記】「嵐の山」は、為家が晩年隠棲した嵯峨の嵐山であり、「嵐吹く山」の意を掛ける。夜の間吹き荒れていた嵐は、明け方までに止んだ。桂川からたちのぼる川霧もやがて晴れて、頂から麓まですっかり姿を顕わす嵐山。六十代の作で、さすがに円熟味を見せる。

秋雨を

秋の雨のやみがたさむき山風にかへさの雲もしぐれてぞ行く(玉葉772)

【通釈】秋の雨が止もうとする頃、寒々と吹き始めた山風に、帰りがけの雲も時雨を降らせてゆく。

【補記】初出は『新撰和歌六帖』。寛元元年(1243)から翌年にかけ、家良・知家光俊ら当時気鋭の歌人が集まり、『古今和歌六帖』の題で競作するという意欲的な試みであった。雨が止もうとする頃、山風が寒々と吹きだした。その風によって山の方へ吹き寄せられる雲も、帰りがけに今一度通り雨を落として行く。「やみがた」のような非歌語を用いて自然の動きを精細に観察し、京極風の先駆をなしている。

洞院摂政家百首歌に、紅葉

くちなしの一入(ひとしほ)染のうす紅葉いはでの山はさぞしぐるらむ(続古今508)

【通釈】梔子の実で一入染めにしたような薄紅葉の岩手山――口に出して「言はで」という名を持つその山は、さぞかし涙ならぬ時雨が降ったのだろう。

【語釈】◇くちなし アカネ科の常緑灌木。晩秋赤黄色に熟する果実は、染料に用いられた。「口無し」を掛ける。◇一入染 染料に一度だけひたして染めること。◇いはでの山 陸奥国の歌枕。「言はで」を掛け、恋心を忍んで隠す意を響かせる。◇しぐるらむ 時雨は木の葉を染めると考えられた。忍ぶ恋の血涙を暗示。

暮秋の心を

とまらじな雲のはたてにしたふとも天つ空なる秋の別れは(続後拾遺406)

【通釈】止まることはあるまい。雲の果てに心を馳せて慕おうとも、天空にあっての秋の別れは。

【補記】古今集の恋歌を本歌取りして、秋との別れを惜しむ歌とした。遥かな人への憧れという恋の風趣が、空の果てへ去りゆく秋への慕情と響き合う。なお「雲のはたて」は定家著と伝わる『僻案抄』に「日のいりぬる山に、ひかりのすぢすぢたちのぼりたるやうに見ゆる雲の、はたの手にも似たるをいふ也」とあり、中世歌学では「雲の旗手」と解するのが普通だったようである。

【本歌】よみ人しらず「古今集」
夕ぐれは雲のはたてに物ぞ思ふあまつそらなる人をこふとて

題しらず

おのづからそめぬ木の葉を吹きまぜて色々に行く木枯しの風(玉葉861)

【通釈】おのずと、染め残した葉も交ぜて、様々な色に吹いてゆく木枯しの風よ。

【補記】染め残した葉も色づいた葉もこもごもに、赤黄緑、多彩な色を見せて吹いてゆく木枯しの風。この歌は家集に見えないが、玉葉集の撰者京極為兼の歌論書『為兼卿和歌抄』に為家の作として見える。「木」の字が重複して同心病を犯しているものの、無理に語句を差し替えれば「歌の体くだくる」例として挙げられている。伝統歌学への拘泥より描写の正確性を重んじた為兼の歌論に適った作と見なされたのである。

【参考歌】源頼行「夫木抄」
うすくこくちる紅葉ばをこきまぜて色々に吹く秋の山風
  藤原定家「拾遺愚草員外」
うすくこき紅葉を宿にこきまぜておのれとまらぬ山おろしの風

冬歌とてよみ侍りける

時うつり月日つもれる程なさよ花見し庭にふれる白雪(玉葉957)

【通釈】時が移り、月日が積み重なることの、なんという早さだろう。つい先頃花を見た庭に、いま降り積もる白雪。

【補記】「つもれる」は雪の縁語。第三句「程なさに」とする本もある。

冬月 弘長元年院百首

思ひ出づるかひこそなけれ世々ふるき豊明(とよのあかり)の冬の夜の月(為家集)

【通釈】宮廷を離れた我が身には、もはや思い出す甲斐もないことだ。代々古く、肆宴の座を照らして来た冬の夜の月よ。

【語釈】◇豊明(とよのあかり) 新嘗祭の翌日におこなわれた、豊明節会(とよのあかりのせちえ)

【補記】弘長元年(1261)、後嵯峨院に召された百首歌。作者は六十代、すでに出家の身であった。

初言恋の心を

今こそは思ふあまりに知らせつれ言はで見ゆべき心ならねば(玉葉1358)

【通釈】今こそは、恋しく思う余り、人に知らせてしまった。口に出さなければ、それと分かるような心ではないのだから。

【補記】初めて恋を告白する心を詠む。凄みのある父の恋歌とは比ぶべくもないが、為家の恋歌には真率な抒情の佳詠が散見する。初出は『新撰和歌六帖』で、題は「いひはじむ」。

六帖題にて歌よみ侍りけるに「くちかたむ」といふことを

世にもらば誰が身もあらじ忘れねよ恋ふなよ夢ぞ今はかぎりに(玉葉1519)

【通釈】世間に知られたら、あなたも私も立つ瀬がなくなるだろう。忘れてしまえよ。恋い慕うなよ。これは夢だ。今この逢瀬を最後に…。

【補記】これも『新撰和歌六帖』の作。「くちかたむ」は口止めする意。恋人に対して、互いに身を慎むことを訴えた歌である。下句の畳みかけるような口調が切迫した心情を伝える。

女のもとにあからさまにまかりて、物語りなどしてたちかへりて申しつかはしける

まどろまぬ時さへ夢の見えつるは心にあまるゆききなりけり(風雅1101)

【通釈】まどろんでいない時にさえあなたが夢に見えたのは、恋い慕う余り、私の心があなたのもとを往き来したのでした。

【補記】詞書の「女」は、『うたたね』『十六夜日記』の作者であり、歌人としてもすぐれた才女、阿仏尼安嘉門院四条)を指す。二人の恋が始まったのは為家五十代、阿仏尼二十代のことであった。おそらく側室に迎える以前のことであろうが、かりそめの逢瀬のあとに贈った歌。「まどろまぬ時さへ夢に見えつる」とは、束の間の出逢いを夢に喩えて言う。恋い慕うあまり魂があくがれ出て、あなたのもとを往き来したのだ、と言い遣ったのである。「心にあまる」の句に、老いらくの恋の当惑と惑溺が垣間見えるようで面白い。女の返しは、「たましひはうつつの夢にあくがれて見しもみえしも思ひわかれず」。

暁の時雨にぬれて女のもとよりかへりてあしたにつかはしける

かへるさのしののめ暗き村雲もわが袖よりやしぐれそめつる(玉葉1456)

【通釈】帰り道、東雲(しののめ)の空を暗くした叢雲も、涙に濡れた私の袖に誘われてしぐれはじめたのだろうか。

【補記】これも阿仏尼に贈った歌。返歌は「きぬぎぬのしののめくらき別れぢにそへし涙はさぞしぐれけむ」。

女とよもすがら物がたりして、あしたにいひつかはしける

生きて世の忘れがたみとなりやせむ夢ばかりだに()ともなき夜は(風雅1096)

【通釈】我が人生の忘れ得ぬ記念、そしてあなたとの仲を思い出す唯一のよすがとなるのでしょうか、夢ほどにも寝たとは言えない昨夜の逢瀬が…。

【補記】これも阿仏尼に贈った歌。返歌は「あかざりし闇のうつつをかぎりにて又も見ざらむ夢ぞはかなき」。

恋歌の中に

逢ふまでの恋ぞ祈りになりにける年月ながき物思へとて(続後撰785)

【通釈】思いを遂げるまでは…と心に決めた恋は、もはや祈りとなってしまった。長の年月、恋に悩み苦しめとでもいうように、あの人は逢ってくれなくて。

【補記】貞永元年(1232)、洞院摂政家百首。題は「不遇恋(遇はざる恋)」。

題しらず

恋しさも見まくほしさも君ならでまたは心におぼえやはする(玉葉1681)

【通釈】恋しさも、顔見たさも、あなた以外の誰に対して、心に覚えることがあるだろうか。恋しく、逢いたいのはあなた一人なのに。

【補記】『新撰和歌六帖』、題は「わきておもふ」(特別に心を寄せる、程の意)。

洞院摂政家百首歌に、逢不遇恋

忘れねよ夢ぞと言ひしかねごとをなどそのままにたのまざりけむ(新後撰1074)

【通釈】「忘れてしまいましょう。これは夢なのです」と、あの人と言い交わした。どうしてそのまま、あの言葉に身を委ねることができなかったのだろう。

【補記】題「逢不遇恋」は、一度思いを遂げた後、逢い難くなった恋。

六帖題歌よみ侍りけるに

いさしらずなるみの浦にひく汐の早くぞ人は遠ざかりにし(続古今1387)

【通釈】どう成る身か知れぬ――その「なるみ」の浦に引いてゆく潮のように、早くもあの人は遠ざかってしまった。

【補記】『新撰和歌六帖』、題は「しほ」。「なるみの浦」は、尾張国の歌枕、今の名古屋市緑区あたりにあった入江。「成る身」と掛詞になり、初句との続きから「どうなるか分からぬ身」の意が響く。「ひく汐の」までが「早くも」を導く序詞。すばやく引いてゆく潮によって、恋のあっけない幕切れを象徴させた。続古今和歌集巻第十五、恋歌の末尾を飾る。

【他出】新撰和歌六帖、秋風抄、歌枕名寄

【校異】第四句を「はやくも人は」とする本もある。

【主な派生歌】
追風にまかぢしげぬき行く舟のはやくぞ人は遠ざかりぬる(源貞世[新拾遺])
難波江やこと浦かけてひく汐のはやくぞ人はとほざかり行く(多多良重貞)

千首歌よみ侍りけるに

あかだなの花の枯葉もうちしめり朝霧ふかし峰の山寺(風雅1777)

【通釈】閼伽棚の供花の枯葉もしっとりと湿って、朝霧が深くたちこめたことだ、峰の山寺に。

【補記】貞応二年(1223)八月、二十五歳の時に詠んだ千首歌。

三河 建長五年八月

おちたぎつ岩瀬をこゆる三河(みつかは)の枕をあらふ暁の夢(為家集)

【通釈】激流さかまく岩瀬を越えて奔る三河――そのほとりで旅寝していると、暁に見た夢にも水は滾り立ち、枕にした岩を洗って流れる。

【語釈】◇岩瀬 岩の多い瀬。◇三河 滋賀県大津市下阪本の四ッ谷川(御津川)かと言う。万葉集に由来する歌枕。三途の川を暗示。◇暁の夢 目覚めの直前に見る短い夢。

【参考歌】作者未詳「万葉集」巻九
三川の淵瀬も落ちずさでさすに衣手ぬれぬ干す子はなしに

長谷寺十八首

思ふことなるとしならば初瀬山夢の世さませ暁の鐘(中院詠草)

【通釈】願いごとが叶うというのなら、初瀬山の暁の鐘よ、煩悩の夢の世から我が目を覚ましてくれ。

【補記】寛元三年(1245)の作。長谷寺は大和の古寺で、古来観音信仰で名高い。「初瀬山」はその寺のある山。願いが叶うなら、その鐘の音によって煩悩の世から我が目を醒ましてくれ、と呼びかけた。「なる」は「鳴る」と掛詞になって「かね」の縁語。『中院詠草』は為家晩年の自撰と思われる家集で、百七十余首の自信作を集めている。

光俊朝臣すすめ侍りける百首歌中に

たらちねのなからむのちのかなしさを思ひしよりもなほぞ恋しき(続古今1465)

【通釈】父が亡くなった後の悲しさは予想していたけれども、思っていたよりも更に恋しいことだ。

【語釈】◇たらちね 枕詞「たらちねの」を転用して親(特に母親)を指すようになった語。のち、「たらちめ」で母を、「たらちね」で父を言うようにもなった。この歌では、制作年からして父の定家を指していると思われる。

【補記】寛元三年(1245)、結縁経百首。

【他出】万代集、新三十六人撰、為家集

【参考歌】藤原俊成「新古今集」
昔だに昔と思ひしたらちねのなほ恋しきぞはかなかりける

康元元年きさらぎのころわづらふ事ありて、つかさたてまつりてかしらおろし侍りける時よみ侍りける

かぞふればのこる弥生もあるものを我が身の春に今日わかれぬる(続拾遺483)

【通釈】日を数えれば、三月にはまだ残りもあるというのに、今日剃髪して我が身の春に別れてしまった。

【語釈】◇我が身の春 人生の盛りの時。また官職の栄誉を指す(春は叙任の季節)。

【補記】為家は康元元年(1256)、五十九歳の時、病により大納言民部卿を辞任して出家した。

弘長元年百首歌たてまつりける時、懐旧

見し事のただ目のまへにおぼゆるは寝覚のほどの昔なりけり(続拾遺1256)

【通釈】かつて経験したことが目の前にありありと思い浮ぶ――それは、寝覚の時に回想される昔の日々なのだ。

【参考歌】源済「後撰集」
ゆくさきをしらぬ涙の悲しきはただめのまへにおつるなりけり


公開日:平成14年07月07日
最終更新日:平成21年01月11日