藤原季経 ふじわらのすえつね 天承元〜承久三(1131-1221)

左京大夫顕輔の子。清輔の異母弟。重家の同母弟。系図
中宮亮・宮内卿・後白河院別当などを勤め、非参議正三位に至る。建仁元年(1201)、出家。法名は蓮経。
治承元年(1177)の清輔没後、清輔の和歌文書や人麿影を相伝し、歌道家六条藤家を率いたが、歌才は御子左家(みこひだりけ)の指導者俊成に遠く及ばず、歌界の主導権を奪われるに至る。九条家歌壇に出入りし、治承二年(1178)の兼実家百首、同三年十月の右大臣兼実歌合に出詠。また、文治六年(1190)には任子(兼実女。後鳥羽院后)入内の屏風歌を詠進するなどした。ほかに治承二年(1178)の別雷社歌合、建久四年(1193)の六百番歌合、建久六年(1195)の民部卿経房歌合などにも参加し、正治二年(1200)には後鳥羽院初度百首に出詠した。千五百番歌合では判者の一人となった。家集『季経入道集』がある。千載集初出。勅撰入集二十一首。

文治六年女御入内屏風に

風さゆるとしまが磯のむら千鳥たちゐは波の心なりけり(新古651)

【通釈】風が冷たく吹く敏馬(としま)が崎――海岸に群れている千鳥は、飛び立ったり、下り立ったりしている。それは波の心しだいなのだ。

【語釈】◇女御入内屏風 九条兼実のむすめ任子が後鳥羽天皇に入内した時の祝いの屏風。◇としま 『歌枕名寄』などによれば摂津国の歌枕。神戸市灘区岩屋付近かという。万葉集の「敏馬(みぬめ)」と同一視されて歌枕化したか。『八雲御抄』によれば淡路の歌枕。「をしま」(雄島)とする本もある。◇たちゐ 立ち居。波が寄せれば飛び立ち、引けばまた浜に下りたつ、ということ。

【本歌】源顕仲「金葉集」
風はやみとしまがアを漕ぎゆけば夕波千鳥立ちゐなくなり

摂政右大臣の時の家の歌合に、恋の歌とてよめる

思ひ出づるそのなぐさめもありなまし逢ひ見て後のつらさなりせば(千載701)

【通釈】一度でも逢ってくれた後、冷たい態度を見せられるのだったら、辛いとは言っても、まだしもその逢瀬を思い出して心を慰めることもできただろう。しかしあなたは逢ってさえくれないのだから、私には何の慰めもないのだ。

【語釈】◇摂政右大臣 九条兼実。

【補記】「…せば、…まし」という反実仮定条件文の倒置形。「もし…であったなら、…であったろうに」の意になる。

【参考歌】藤原敦忠「拾遺集」
逢ひみてののちの心にくらぶれば昔は物も思はざりけり

右大臣家十首会中に、海上見月と云ふ題を

こぎいでて生田の浦にうきながら心は月のみ舟にぞのる(季経入道集)

【通釈】生田の浦に漕ぎ出して行って、波の上に浮きながら、辛い境遇を生きてはいるものの、こうしていると心は月の船に乗っている気分なのだ。

【語釈】◇右大臣家十首会 原文は「同家十首会」。九条兼実家の十首歌会。◇生田(いくた) 神戸市の生田神社のあたり。「生く」を掛ける。◇うきながら 浮きながら・憂きながらの掛詞。◇月のみ舟 月を舟に譬える。万葉集の人麻呂歌集歌「天の海に雲の波立ち月の船星の林に漕ぎ隠る見ゆ」を踏まえた言い方。


最終更新日:平成15年01月21日