天智天皇 てんじてんのう 推古三十四〜天智十(626〜671) 諱:葛城皇子 略伝

舒明天皇の皇子。母は斉明天皇大海人皇子・間人皇女(孝徳天皇皇后)の同母兄。倭姫王(古人大兄の子)を正室とする。大友皇子・大田皇女・菟野皇女(持統天皇)・建皇子・川島皇子・御名部皇女・阿閉皇女(元明天皇)志貴皇子らの父。
大化元年(645)、藤原鎌足らと共に蘇我入鹿を討殺し、叔父の孝徳天皇が即位すると、皇太子として改新政治に参与する。白雉五年(654)、孝徳天皇は崩じ、母が再祚(斉明天皇)、引き続き皇太子となる。斉明七年(661)、百済救援を目的とする斉明天皇の新羅征討に同行するが、天皇は筑紫で崩じたため、即位の式をあげぬまま皇位を継承した。
天智元年(662)、近江令を制定(『藤氏家伝』)。翌年、兵を新羅に派遣するが、白村江の戦で唐軍に大敗し、百済は滅亡した。同三年、唐・新羅の侵攻に備え、防人を置き、筑紫に水城を築造する。同六年、近江大津宮に遷都。翌年、即位。同九年、日本最初の全国的な戸籍「庚午年籍」を作成する。同十年、大友皇子を太政大臣に任命する。同年十二月三日、崩御。四十六歳。
その皇統は壬申の乱によってひとたび途絶えたが、奈良朝末期、志貴皇子の子白壁王が即位して(光仁天皇)復活し、その子桓武天皇が平安京を開くに至る。以後も皇位は天智天皇の系譜が引き継がれることとなった。
日本書紀と万葉集に歌を残す。万葉に御作と伝わるのは四首。勅撰集では後撰集に一首、新古今集に一首、玉葉集に一首、新千載集に一首採られている。後撰集の「秋の田の…」の歌は百人一首にも採られた。

冬十月、癸亥(みづのとゐ)(ついたち)にして己巳(つちのとのみのひ)の日、天皇の喪、帰りて海に就きき。ここに皇太子、一所に()てて天皇を哀慕(しの)び奉り給ひ、すなはち口づから(うた)ひ給ひしく

君が目の()ほしきからに()てて居て斯くや恋ひむも君が目を()(日本書紀)

【通釈】あなたの面影が恋しいばかりに、ここに舟を泊めています。あなたをこんなに恋しがるのは、ただもう一度お会いしたいからなのです。

【語釈】◇天皇の喪 同年七月、筑紫で亡くなった斉明天皇の柩。◇君が目 あなたが私の目に映ること。私の目に映ったあなたの姿。「君」は母である斉明天皇を指す。

【補記】斉明七年(661)十月七日、筑紫で亡くなった母斉明天皇の棺が船に乗せられて海に出た日、当時皇太子であった天智天皇が亡き天皇を哀慕して、自ら唱えたという歌。

中大兄(なかちおほえ)三山歌(みつやまのうた)

香具山は 畝傍(うねび)()しと 耳成(みみなし)と 相争(あひあらそ)ひき 神代より かくなるらし (いにし)へも (しか)なれこそ 現人(うつせみ)も (つま)を 争ふらしき (万1-13)

反歌

香具山と耳成山とあひし時立ちて見に()印南(いなみ)国原(万1-14)

 

わたつみの豊旗雲に入日さし今夜(こよひ)月夜(つくよ)さやけかりこそ(万1-15)

【通釈】[長歌]香具山の神様は、畝傍山の神様を愛しいと思って、耳成山の神様と争った。神代からこんなふうに恋の争いがあったらしい。神様の昔もそうであったからこそ、現代の人も、結婚相手をめぐって争うものらしい。
[反歌一]香具山と耳成山が恋争いをした時、出雲の阿菩(あぼ)の大神が様子を見に国を発ち、ここまでやって来たという、印南国原。
[反歌二] 大海原の上にたなびく豊旗雲に今しも沈む日が射している、今宵はさやかに照らす月夜であるぞ。

【語釈】[題詞]◇中大兄 長男・末男以外の皇子に対する敬称。ここでは天智天皇を指す。この例のように、「皇子」を付さないのが正しい用い方である。
[長歌]◇香具山 奈良県橿原市南浦町にある小さな丘。畝傍山・耳成山と共に大和三山と称される。◇畝傍山 橿原市にある死火山。標高199メートル。山麓に橿原神宮がある。◇を愛しと 原文は「雄男志等」。「雄々しと」「を善(え)しと」など訓義は諸説ある。◇耳成山 橿原市木原町にある山。標高140メートル。別名青菅(あおすが)山・梔子(くちなし)山。◇褄 性を問わず、結婚相手を言う。
[反歌]◇あひし時 相争った時。原文は「相之時」。長歌において香具山・耳成山を男、畝傍山を女と解した場合、この「あひ」は「戦う」意に取らざるを得ない。◇立ちて見に来し 『播磨国風土記』によれば、大和三山の争いを諌めようと、出雲の阿菩大神がみこしを上げたが、播磨国揖保郡の上岡までやって来た時、争いがやんだと聞いて、その地に鎮まったという。◇印南国原 播磨国印南郡の平野。今の加古川市から明石市あたり。◇わたつみ 海。本来は海の神を意味した。◇豊旗雲(とよはたぐも) 未詳。「豊」は美称、「旗雲」は旗(吹き流し)のように水平方向にたなびく雲であろう。◇さやけかりこそ 原文は「清明己曾」。「こそ」は誂えの終助詞。他にスミアカクコソ・アキラケクコソ・キヨクテリコソなど様々な訓み方がある。いずれにしても、夜の航海の安全を予祝する心である。

【補記】解釈は様々あるが、神代の恋争いの伝説を想起し、現代にも恋の争いが絶えない感慨を詠んだものであろう。

【古説】源俊頼「俊頼髄脳」
「日の入らむとする時に、西の山際に、あかくさまざまなる雲の見ゆるが、旗のあしの、風に吹かれて、さわぐに似たるなり。はたといふは、常に見ゆる仏の御前にかくる幡にはあらず。まことの儀式に立て、戦ひの庭などに立つる旗なり。その旗に似たる雲の絶え間より、入日のさして入りぬれば、三日ばかりは雨降らずして、空も心よくなるなり。されば、今宵の月は、すみあかからむずらむと詠めるなり」

【他出】俊頼髄脳・和歌童蒙抄・夫木和歌抄・玉葉集・雲玉集など。
玉葉集秋歌下には天智天皇御製、題不知として次の形で載る。
 和田つ海のとよはた雲に入日さしこよひの月夜すみあかくこそ

【主な派生歌】
[反歌一]
見渡せば天の香具山畝火山あらそひたてる春霞かな(賀茂真淵)
[反歌二]
入日さすとよはた雲に分きかねつ高間の山の嶺の紅葉ば(崇徳院[新拾遺])
はては又とよはた雲の跡もなしこよひの月の秋の浦風(津守国冬[続千載])
時鳥とよはた雲に過ぎぬなり今宵の月に又や待たれむ(頓阿)
月もげにすめる今宵かわたつ海や豊はた雲の跡の浦風(二条為重)
入日さす塩瀬もとほしわたつ海やとよはた雲の末のしら波(藤原経宣[新千載])
待つ人は今夜もいさや入日さすとよはた雲の夕ぐれの空(大江忠幸[新拾遺])
入日さす豊はた雲の色暮れてうす雲なびく秋の海原(中島広足)

天皇の鏡女王に賜ふ御歌一首

妹があたり継ぎても見むに大和なる大島の嶺に家()らましを(万2-91異文)

【通釈】おまえの家のあるあたりを、いつもいつも眺められるのになあ。大和の大島の嶺に、俺も家があったらなあ。

【語釈】(いも) 親愛な女性に対する呼びかけ。鏡女王を指す。◇大島の嶺(ね) 不詳。一説に、大和生駒郡三郷町の高安山。山麓に鏡女王の家があったのであろう。

【補記】脚注にあげている異文の方がすぐれていると思えるので、そちらを採った。本文は「妹が家も継ぎて見ましを大和なる大島の嶺に家もあらましを」。

題しらず

秋の田のかりほの(いほ)の苫をあらみ我が衣手は露にぬれつつ(後撰302)

【通釈】秋、稲を刈り取る季節――田のわきの仮小屋に宿っていると、屋根の苫は目が粗いので、私の袖ときたら、しとしとと落ちて来る露に濡れとおしだよ。

【語釈】◇かりほの庵 仮庵の庵。同語を重ねて言ったもの。「刈り穂」と掛詞か。「一説に、刈り穂の庵。一説には、かりいほのいほ。(中略)かりいほのいほ、よろしかるべきにや。いにしへの哥は同事をかさねよむ事みちの義也」(宗祇抄)。仮庵とは田のそばに臨時に建てた小屋。物忌みのために籠ったり、農具を納めたり、夜間宿泊して田が荒らされないよう見張ったりした。◇苫をあらみ 苫の目が粗いので。「苫」は小屋の屋根などを覆うために草を編んだもの。「あらみ」の「み」は形容詞の語幹について原因・理由などをあらわす接続助詞(または接尾語)。「…を…み」の形は万葉集に多く見られる。「とま」に「間」の意が響き、「間を粗み」、すなわち恋人の訪れの間遠である意を帯びて、涙を暗示する「露」と呼応する。◇衣手 衣の手の部分。袖のこと。◇露にぬれつつ 露に濡れながら。《つつ》は動作の反復・継起・継続などの意をあらわす接続助詞。和歌では末尾に置かれることが多く、断定を避けて詠嘆を籠めるはたらきをしたり、余情をかもす効果をもったりする場合もある。

【参考歌】万葉集巻十の歌(下記)の異伝または改作か。
秋田苅る借廬(かりほ)を作り吾が居れば衣手寒し露ぞ置きにける

【補記】後撰集当時の人々は、天智天皇の残した題詠歌として受け取ったものであろう。「秋田」を主題としつつ、恋人の間遠な訪れに涙する女の哀婉な風情が漂い、定家などが幽玄体として高く評価したのも、そうした効果を認めたためと思われる。

【他出】万葉集時代難事、古来風躰抄、定家十体(幽玄様)、五代簡要、定家八代抄、詠歌大概、近代秀歌、秀歌大躰、八代集秀逸、別本八代集秀逸(後鳥羽院・家隆・定家撰)、百人一首、八雲御抄、新時代不同歌合、心敬私語、歌林良材

【主な派生歌】
秋の田の庵に葺ける苫を荒みもりくる露のいやは寝らるる(和泉式部[続後撰])
草の庵なに露けしと思ひけむもらぬ岩屋も袖はぬれけり(*行尊[金葉])
秋の田に庵さすしづの苫をあらみ月と友にや守りあかすらん(藤原顕輔[新古今])
露だにもおけばたまらぬ秋の田のかりほの庵に時雨降るなり(藤原家隆)
唐衣かりいほのとこの露寒み萩のにしきを重ねてぞ着る(藤原定家)
秋の田のかりほの庵に露おきてひまもあらはに月ぞもりくる(後鳥羽院)
苫をあらみ露は袂におきゐつつかりほの庵に月をみしかな(〃)
足引の山田もるいほの苫をあらみ木の下露や袖にもるらむ(〃)
旅寝するあまの苫屋のとまをあらみ寒き嵐に千鳥さへなく(〃)
小山田のかりほのいほのとことはに我が衣手は秋の白露(順徳院)
秋の田のかり庵の露はおきながら月にぞしぼる夜はの衣手(藤原為家)
ことわりに過ぎてぞぬるる秋の田のかりほの庵の露のやどりは(〃)
秋の田のかりほの苫にふく稲のほの上渡る軒の月かげ(正徹)
苫をあらみ小田もる老の心にはなほたへかねて露はらふらん(東常縁)
晴るる間の雨にかりほのとまをあらみ漏りにし程は漏らぬ月影(藤原惺窩)
思へ世は玉しくとても秋の田の仮庵ならぬ宿りやはある(後水尾院)

題しらず

朝倉や木の丸殿に我がをれば名のりをしつつ行くは誰が子ぞ(新古1689)

【通釈】朝倉の丸木造りの御殿に私がいると、名を告げては通り過ぎて行くのはどこの者だ。

【語釈】◇朝倉 筑前国の朝倉。斉明天皇の行在所があった。◇木の丸殿(まろどの) 粗木で作ったそまつな御殿。◇名のり 北村季吟「八代集抄」は名対面(宿直の官人が自分の姓名を告げること)とした。「名対面」かどうかはともかく、新古今の頃も官人の名告りと解釈されていたと思われる。

【補記】催馬楽「朝倉」が原歌。源俊頼の『俊頼髄脳』、藤原清輔の『奥義抄』などにも天智天皇御製とあり、いずれも天皇が筑前国に世を忍んで住んでいた時の作とする。新古今集巻十七雑歌中、隠岐本除棄歌。

【他出】俊頼髄脳、綺語抄、和歌童蒙抄、奥義抄、万葉集時代難事、定家八代抄、和歌色葉、十訓抄、新時代不同歌合、歌枕名寄、悦目抄

【参考歌】催馬楽「朝倉」
朝倉や 木の丸殿に 我が居れば 我が居れば 名乗をしつつ 行くは誰

【主な派生歌】
ひとりのみ木の丸殿にあらませば名のらで闇に迷はましやは(藤原実方[後拾遺])
名のりせば人知りぬべし名のらずは木の丸殿をいかで過ぎまし(赤染衛門 〃)
橘の木の丸殿にかをる香はとはぬに名乗るものにぞありける(源俊頼)
さ夜ふかみ山時鳥なのりして木のまろ殿を今ぞすぐなる(藤原公行[新勅撰])
かるかやの関路になのる時鳥木の丸殿の昔をや思ふ(冷泉為村)


更新日:平成15年03月21日
最終更新日:平成21年02月28日