本名=川崎澄子(かわさき・すみこ)
昭和6年3月27日—昭和27年12月31日
享年21歳(清照院殿芳玉妙葉大姉)
兵庫県神戸市中央区葺合町布引山2–3 徳光禅院(臨済宗)
小説家。兵庫県生。神戸山手高等女学校卒、相愛女子専門学校(現・相愛女子大学)中退。島尾敏雄の紹介で、昭和24年、雑誌『VIKING』に参加し、富士正晴の指導を受けた。25年『ドミノのお告げ』は芥川賞候補となる。四度の自殺未遂をおこす。27年の大晦日に鉄道自殺を遂げた。

私たち——私と信二郎と叔母と春彦は、父の部屋の次の間で、電燈の下に集って、カードの卓をかこんでいました。もういくら夢中になって、父の部屋から怒鳴られる心配はありません。父のたたかいは終っていました。兄のたたかいはまだつづいています。母のお祈りもつづいています。信二郎はどうしたでしょうか。いつかの夜のとき以来、信二郎はすっかり自分のからの中に閉じ寵ってしまいました。毎日うかない顔をして出かけて行っては、同じような顔をして帰って参ります。その顔の奥の方に起っていることは、窺うことが出来ません。そんなことを気にかけても仕方がないことを知りながら、私はそんないろいろなことをぼんやり気にかけながら、うっすらと生きています。結婚はいそがなくてもよいでしょう、と八卦見は申しました。十年も生きればいい方だろう、人間長命が倖せとは限らんとも申しました。でも、それは短命でもいいのです。倖せでなくてもいいのです。お荷物が重くてもいいのです。ただ人間が生きるよう生きられさえすれば−。いのちがすりへって行くのを待っているのでなく、それを燃やして、燃しつくすことが出来さえすればーー。しかしそれはこの嘆ぎ薬の匂いのこもっている、祈りのつぶやきの充ちている家の中では、恐らく無理なことなのでありましょう。
(ドミノのお告げ)
久坂葉子の原稿の中に挟まれて残っていた二枚の文章がある。
〈久坂葉子は死んだと新聞は伝えた。六甲駅で最終の電車に轢かれて死んだ。これは過失死であろうか、自殺であろうか。(略)Aは云った。「自殺だ。(略)」Bはつぶやいた。「かわいそうに(略)」Cは笑っていった。「過失死だよ。(略)」Dはさみしそうに、「彼女が死んだという事実はもう堪らない。(略)」一週間たった。もう誰一人彼女のことをいう者はいなかった。小さい命は誰の頭にものこらなかった。〉
昭和27年大晦日、新年を迎えるため家路につく乗客のあふれた阪急梅田駅ホームにアナウンスが流れた。「神戸行き特急は事故のため少し到着が遅れております。年末お急ぎの所誠に恐れ入りますが、もうしばらくこのままお待ちください」。
二枚の文章のEはいう。〈ゆきづまりを克服出来なかったんだ。誰でも一度経験する行きづまりをね〉——。
曽祖父、川崎造船創立者川崎正蔵が明治39年、川崎家の菩提寺として建てた徳光禅院。室町期の多宝塔を手前に、境内の奥、半円球を座とした観音菩薩像が深緑の樹影を映して立っている。慈愛のほほえみを浮かべたこの像の下に久坂葉子は眠る。名家の宿命に縛られ、身動きできぬ自身への嫌悪、軽蔑、抵抗……。陰気で閑かな家を飛び出し、森閑とした石室に収まる葉子。戦後を引きずったまま、君の望んだ愛は叶うはずもない。
——いまひとりの男は述懐する。〈久坂葉子は実に神戸の女だったなあ、しかも山手の女の子だ〉。
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