本名=窪田通治(くぼた・つうじ)
明治10年6月8日—昭和42年4月12日
没年89歳
東京都豊島区南池袋4丁目25–1 雑司ヶ谷霊園1種9号八側20番
歌人。長野県生。東京専門学校(現・早稲田大学)卒。明治35年同人雑誌『山比古』を創刊。短歌や小説を発表。38年第一詩集『まひる野』を刊行。田山花袋を知る。大正3年文芸雑誌『国民文学』を創刊。歌集『濁れる川』『鳥声集』『土を眺めて』を刊行。歌人として評価された。歌集『さざれ水』『郷愁』などがある。

生きてわれ聴かむ響かみ棺を深くをさめて土落す時
鐘鳴らし信濃の国を行かばありしながらの母見るらむか
桜咲けるを見つつ訝しきもの見る如く思ひたり我は
誰が墓か無縁ならざる遠つ祖の墓の在所は我も知らなくに
我はもよ跡はとどめじ夏ゆきて秋づく山の見のさやかなるを
路のべに枯るる八千ぐさ己がじし実をこぼしゐる寒きひかりに
窪田空穂はまず第一に自分の弱さを知っていた。その弱さは求める物を持つ者の弱さで、諦められないための悲哀だった。それゆえにこそ生涯を通じて冷静に自身の存在を見極めていったのであった。
願うべくもない90年にも及ばんとする現世の営みにも終わりが来た。空穂は昭和42年4月12日、心臓衰弱のため東京・目白台の自宅で天に召されていった。27歳のころキリスト教と出会ったことが空穂の歌を決定づけ、最晩年に到るまで、創作を続けたクリスチャン歌人の絶筆二首がある。
〈四月七日午後の日広くまぶしかりゆれゆ如くゆれ来る如し〉。
〈まつはただ意志あるのみの今日なれど眼つむればまぶたの重し〉。
6月の陽を遮って、湿りきった気を漂わせた霊園の赤みを帯びた「窪田家之墓」は、雑草がはびこった参道の傍らで南西を向いて建っていた。碑の裏に、合祀された妻や捕虜となってシベリア抑留の末亡くなった次男茂二郎等と並んで空穂の名がある。また平成13年4月15日に死去した長男で歌人の窪田章一郎もここに合祀されたとのちに聞いた。
30歳で逝き、遅咲きの桜が咲く頃に埋葬された妻藤野の墓参に際し、〈亡ぶべくも余りに惜しき魂のこの土の下に埋もると思はむ〉と詠んだが、この心のありさまは墓参の際に私が常に持つ感慨でもある。
——突然、樹葉が大きく揺れて歌人の想いを潜めた碑が一瞬翳ったとき、近くの木立からバサッと一羽の烏が飛び去った。
|