本名=田中美佐雄(たなか・みさお)
大正11年2月14日—平成8年8月11日
享年74歳(清明院邦光慈修居士)
京都府京都市左京区南禅寺福地町86 南禅寺天授院(臨済宗)
本名=田中美佐雄(たなか・みさお)
大正11年2月14日—平成8年8月11日
享年74歳(清明院邦光慈修居士)
京都府京都市左京区南禅寺福地町86 南禅寺天授院(臨済宗)

死に方にもいろいろあるけれど、いずれも死は死であって、たとえ路傍でごろりと転んだまま息を引き取ろうとも、死はいつも孤独なものだろう。
どういうスタィルで死のうかなど、考えてみたところで、どんな死に方をするやらわかったものでなく、そんな当てにならないことを考えているより、よりよい一日を送り迎えるように、毎日精一杯生きていれば、それでいいのではあるまいか。
たとえどんなに見苦しい死に方をしようとも、死は浄化であって、すべてをちゃんと片づけてくれるから、素直に死の手に自分を預けるよりしかたあるまい。
それにしても、太閤秀吉のように、「かえすがえすも名残り惜しく候」であって、これで自分もその生涯もすベて消え去るのかと思うと、やはり名残り惜しかろう。
死に行く者の未練と無念が、この「名残り惜しく候」の一言に込められている。
札束の山を築こうと 名誉の花輪を何百並べようと、すべては空しく、一片の煙と化して消えていくのである。
(新『養生訓』)
一人っ子で友人も少なく、小学校時代は病院暮らしを重ねたほど病弱で、本ばかり読んで空想の世界で過ごしていた。小説家になったのも社会には適応しない人間だと悟っていたからだという邦光史郎は、平成2年12月14日早朝、心筋梗塞に倒れて入院し手術を受けた。手術は成功したが、集中治療室で術後の回復を待っている間、生態情報モニター画面が停止状態の中で〈彩雲とでもいうのだろう。明るい雲の上を、ふわふわと漂いつづけていた〉という臨死体験の最中に生還するという余人に希な出来事を経験した。回復のあとは何事もなく仕事にあけくれていたのだが、平成8年8月11日午後7時、京都市左京区浄土寺真如町の自宅で心筋梗塞のため亡くなった。
妻田中阿里子の祖父が生前に、俳友として親しかった住職に願って定めた京都の南禅寺塔頭天授庵の墓地に史郎が昭和39年に新しく建てた「田中家之墓」に埋骨され、分骨は冨士霊園にある「文學者之墓」に納められた。この墓地は意外に奥深く、深々と緑濃い木立が危うげな夕闇と雨煙に煙ってなおさらに寂寥感を増しているようだった。枯山水と苔庭で作庭された方丈の廻りをめぐり、南の方の林の中にある墓地へと通じる菱形に連ねた四角い石の幾何学的延壇は、かつてその寂しさから〈私の人生の終わりへの道を示している〉と述懐した妻阿里子も20年後、史郎の祥月命日の平成28年8月11日に95歳で亡くなり、同じ墓に眠ることになった。
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