本名=久保田万太郎(くぼた・まんたろう)
明治22年11月7日—昭和38年5月6日
享年73歳(顕功院殿緑窓傘雨大居士)❖万太郎忌・傘雨忌
東京都文京区本郷5丁目29–13 喜福寺(曹洞宗)
俳人・小説家・劇作家。東京府生。慶應義塾大学卒。明治四4年小説『朝顔』と戯曲『遊戯』を『三田文学』に発表。翌45年第一作品集『浅草』を刊行、その後劇評論家・俳人としても知られた。小説に『末枯』『寂しければ』『春泥』、戯曲に『心ごころ』『短夜』『大寺学校』などがある。

……その坂は尽きた。が、それよりも、もつと広い、埃つぽい傾斜がすぐまた三人のまへに展けた。-----それを上りつめたとき、三人は、省線電車の間断なく馳せちがふ音響を脚下に、田端へつゞく道灌山の、草の枯れた崖のうへに立つた。-----み渡すかぎりの、三河島から尾久へかけての渺茫とうちつゞいた屋根屋根の海。----その中に帆柱のやうに林立する煙突の「新しい東京」の進展を物語るいさましい光景……。
「変つたなア。」と歎息するやうに三浦はいつた。「知るめえ、お前なんぞ。----ついこなひだまで、こゝいら、ずっと荒川のふちまで一めんのもう田圃だつたんだ。」
「一めんのねえ。」遠く田代も眸を放つた。
「三月から四月にかけての菜の花のさかりのころなんぞつたらなかつたもんだ。」
「菜の花のねえ。」
その光景のうへにひろがつた大空。-----水のやうに晴れたその大空に影を曳いた夕焼雲。………小倉はそれをみて無言だつた。-----淋しさやうかびて遠き春の雲、さうした句をしづかにかれはおもひ案じてゐた。
(春 泥)
明治の浅草に生まれ、浅草を愛し、浅草を書いた作家、久保田万太郎は浅草が文学生涯のすべてであった。
その処世術においては一筋縄では行かなかったようで、少なからずの毀誉褒貶があった人物と伝えられているけれども、旧制府立第三中学校(現・両国高等学校)の後輩芥川龍之介は〈久保田君と君の主人公とは、撓めんと欲すれば撓むることを得れども、折ることは必しも容易ならざるもの、---たとへば、雪に伏せたる竹と趣を一にすと云ふを得べし〉と評している。
この粘り強い意志の人も、昭和38年5月6日夕刻、梅原龍三郎画伯邸での会食中にすすめられた赤貝のにぎり寿司を喉に詰めて窒息、すぐさま慶応義塾大学病院に運び込まれたが、すでに手遅れで手当をする間もなく午後6時25分に絶命した。
東京大学赤門前にあるこの寺の本堂裏には、この界隈寺院墓地の大方がそうであるように、変則矩形の窮屈な墓域が無粋なコンクリートのビル壁に隠れるようにかたまってあった。その暑苦しい墓地隅の柿の木の下に一基の五輪塔が建っている。小さくか細い線で刻まれた「久保田万太郎之墓」の文字。その文学と我執の強い生き様を差し引いた残り滓であるような心細い印象を佇む者に感じさせるのは、台風雨の降り始めた夕闇のせいばかりでもあるまい。
10年先を生きた永井荷風が「われは明治の兒ならずや。その文化歴史となりて葬られし時 わが青春の夢もまた消えにけり」と嘆いたように、万太郎もまたこの奥まった土庭の下で平成の世を嘆いているのではなかろうか。
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