九條武子 くじょう・たけこ(1887—1928)


 

本名=九條武子(くじょう・たけこ)
明治20年10月20日—昭和3年2月7日 
享年40歳(厳浄院釈尼鏡照)
東京都杉並区永福1丁目8–1 築地本願寺別院和田堀廟所(浄土真宗)



歌人。京都府生。西本願寺法主大谷光尊の次女。明治42年男爵九條良致と結婚。佐々木信綱に師事し、竹柏会に参加。大正9年京都女子専門学校(現・京都女子大学)を創設した。歌集『金鈴』『薫染』、遺歌集『白孔雀』、随筆集『無憂華』、戯曲『洛北の秋』などがある。







 四面、炎につゝまれたなかに、纔かに生をとゞめてゐる人たち、───そこには貴きも賎しきも、学問ある者もなき者も、老いたるも若きも、凡そ世のありとあらゆる階級、あらゆる種類の人たちがゐた。
 しかし、刻々に迫る惨ましき運命の前に臨んで、心から念じられるのものは、みな一様であった。久遠の生命へ。    
 それは、一切の仮象から放たれた者の、最後の願ひであった。人生最後の念願においては、貴賎貧富、老若男女の差別はない。

(無憂華・臨終)



 

 西本願寺法主大谷光尊の次女として生まれた九條武子は、明治42年、男爵九條良致と結婚、渡欧したが1年余で単身帰国。武子23歳で、新婚わずか半年の夫と別居。以後10年余、夫の帰国を待ちながら、仏教婦人会を創設し、運営に精励した。
 逆境に忍従し〈生るるも死するも所詮ひとりぞと しかおもひ入れば煩悩もあらず〉と歌った武子は、敗血症のため高熱と痛みに苦しみながら「また来ます。」との約束を言い遺して昭和3年2月7日午後7時25分、浄土へと旅立った。武子の遺骨は満中陰を待ち、築地本願寺和田堀廟所と西大谷本廟へ分骨された。
 ——〈きえずてあれ なき世の後も我といふ 者の遺せる一すじの跡〉。



 

 参道を突き当たった先にある墓標は、武子の容姿に似てたおやかな横縞模様の平らな水成岩の自然石であった。左手前には夫良致と並記された武子の碑があり、朝早い晩秋の陽翳りをうけて、互いに揺らめきあっていた。
 ——〈夫人間の浮生なる相をつらつら観ずるに、おほよそはかなきものは、この世の始中終まぼろしのごとくなる一期なり。さればいまだ万歳の人身をうけたりといふ事をきかず、一生過ぎやすし。いまにいたりてたれか百年の形体をたもつべきや。我やさき、人やさき、けふともしらず、あすともしらず、をくれさきだつ人は、ものしずく、すゑの露よりもしげしといへり。されば朝には紅顔ありて夕には白骨となれる身なり〉。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


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