本名=楠本憲吉(くすもと・けんきち)
大正11年12月19日—昭和63年12月17日
享年65歳(燦功院憲誉紫泉方壷大居士)
東京都目黒区中目黒5丁目24–53 祐天寺(浄土宗)
俳人。大阪府生。慶応義塾大学卒。慶応義塾大学俳句会を興し、日野草城主宰の『青玄』同人。『野の会』創刊。評論、エッセイでも知られ、新聞・雑誌の選者など幅広い活動を続けた。句集『隠花植物』『孤客』などがある。

春ゆうぐれ少年にねじひとつねばる
汝が胸の谷間の汗や巴里祭
天にオリオン地に我等の靴音のみ
青葉騒きれいな嘘はきたなく吐くき
終い湯の妻のハミング挽歌のごと
墓地抜ける生色少女のふくらはぎ
枝豆は妻のつぶてか妻と酌めば
郭公や過去過去過去と鳴くな私に
背後より薔薇の一撃 喜劇果つ
失いしことば失いしまま師走
大阪北浜の高級料亭『灘万』の跡取り息子として生まれた楠本憲吉は、日野草城に師事、俳誌『野の会』を創刊・主宰するなど、前衛の俳人として精励したが、〈失いしことば失いしまま師走〉の辞世の句を残し、昭和63年12月17日、喉頭がんのため、足早く次の世に逝ってしまった
。
遠藤周作とは神戸の灘中学校で机を並べて以来の友人であった憲吉は、その軽快な語り口と洒脱さにおいてマスコミに大いにもてはやされたものだ。私にとっては、人物像と作句について、おおよそ相容れないところがあったが、ときおりその紡ぎ出された句が、雪解けの景色にも似た苦々しくも哀しく軽快な音色を伴ってくるのに戸惑いさえ感じたのだった。
東急東横線の祐天寺駅から徒歩で5、6分、駒沢通り沿いにある明顕山祐天寺。安住敦が編集、大町糺が発行、久保田万太郎を主宰として創刊した俳誌『春燈』の同人であった住職の関係からか、この寺の第二墓地には、同じ新興俳句、日野草城門下の安住敦の墓もある。
塀を挟んだこちら側の墓地には大正天皇の生母柳原愛子の墓があり、その墓と背中合わせに「楠本家之墓」があった。洒脱を好み、風刺、諧謔、ユーモアを愛して生きてきた性格のなせる業か、毀誉褒貶の激しさにもめげず、自らを「孤客」となぞらえてきた洒脱俳人楠本憲吉の墓。冬の冷酷な朝日を背にうけ、同じ月命日の平成21年4月17日に亡くなった節子夫人とともに眠っている。
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