黒岩涙香 くろいわ・るいこう(1862—1920)


 

本名=黒岩周六(くろいわ・しゅうろく)
文久2年9月29日(新暦11月20日)—大正9年10月6日 
享年57歳(黒岩院周六涙香忠天居士)
神奈川県横浜市鶴見区鶴見2丁目1–1 総持寺中央ホ–9–13–2(曹洞宗)
 



ジャーナリスト・翻訳家。土佐国(高知県)生。成立学舎・慶應義塾大学中退。明治20年時代より今日新聞や絵入り自由新聞に勤め、翻案探偵小説『法廷の美人』などいわゆる涙香物で好評を得た。25年朝報社を設立して『万朝報』を創刊。翻訳小説に『鉄仮面』『厳窟王』『嗚呼無情』などがある。







 肉體の死は實に吾人に取りて重大の事件なり、然れども外包脱捨の主義に出ることは依然たり、之が爲に吾人の生命の一切が死するには非ず、吾人の生命は既に兒の體へ轉居せるなり、別言せば肉體の死の爲に吾人は死するに非ず、生ずるなり、古き外包を捨てゝ新なる外包を取るなり、故に曰く死の眞成の意味は生なり、生命は依然として不死の圭義なり、單細胞生物に在りては核が合體すると同時に外包は死す、吾人に在りては核が合體して生命が兒に移りて後も肉體は死せず、死する迄に多少の年月あり、是れ種々の原因に由ると雖も、兎も角も吾人の天幸なり、然れども天は故無くして吾人に此の餘命を與ふる者に非ず、向上圭義の爲に之を與へざるを得ざるなり、吾人は謹みて天意の在る所を考へ之に答へざる可からず、是れ人生の眞趣なり、
                                                                 
 (天人論)



 

 明治25年に創刊した「万朝報」に『鉄仮面』、『厳窟王』、『嗚呼無情』などの代表作を次々と発表し、東京一の発行部数を誇るまでになったが、大正初期の第二次大隈内閣に接近したころから、声望は衰え、黒岩も新聞経営への意欲を低下させていった。
 大正8年7月、欧州から帰国後の多忙さによって、持病の気管支はますます悪化。12月には大磯長生館に転地し、療養を続けたが経過が思わしくなく、翌年5月には東京帝国大学医科大学附属医院(現・東京大学医学部附属病院)に入院した。
 治療の甲斐もなく、肺腫瘍のため、大正9年10月6日午前2時13分に死去。8月に万朝報社同人・門下生が見舞いに訪れたときに書き記した俚謡〈磯の鮑に望みを問へば私しや真珠を孕みたい〉が絶筆となった。



 

 永平寺と並んで曹洞宗の大本山と名称される諸嶽山総持寺、炎天下の元で多数の修道僧が草むしりをしているこの大寺のお堂脇小道を抜けると、終わりかけた夏の空は輝きを取り戻そうとするかのように、鶴見ヶ丘の空一杯に広がってきた。
 神刀流開祖天下無敵日比野雷風居士の大太刀にも似た巨大な墓石を曲がると、かつてその辛辣な筆先から政界のスキャンダルを容赦なく暴露して〈まむしの周六〉とあだ名された人の墓はあった。臨終に際して自ら選んだ戒名「黒岩院周六涙香忠天居士」と刻まれた墓石が、万朝報社、扶桑社寄贈の灯籠の奥に建つ。彼が説く「天人論」のようにその魂も石柱の指すところの宇宙に永遠に生きていることか。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


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