◎田所昌幸著『世界秩序』(中公新書)
いわゆるグローバリゼーションを扱った本で、185頁しかないので新書本としてもちゃっこい。最初に述べておくと、本書を読み通して一点気になったことがある。それは、本書では「グローバル化(globalization)」と「国際化(internationalization)」の区別がなされておらず、「グローバル化」も「国際化」も、さらにはその両方を含むいわば「広域化」までをも「グローバル化」と十把一絡げに呼んでいるようなので(「国際化」という言葉はまったく出てこない)、説得力もやや低下しているし、誤解も招きそうだという強い印象を受けた。タイトルが「世界秩序」であって「国際秩序」ではないことからも、肯定的な存在としての主権国家をどうしても議論から抜きたかったのかもしれない。それに近いことを著者自身第4章で述べているが、結局そのせいでかえって議論があいまいになっている部分があるような印象を受けた。それでもなかなか興味深い内容だったので取り上げることにした。
何度も説明していることだけど、ここでもう一度「グローバル化」と「国際化」の違いを明確にしておきましょう。たとえばリベラリストの法哲学者である井上達夫氏の著書『世界正義論』に次のようにある。「国際化においては、秩序形成の基本主体は主権国家であったが、グローバル化においては、世界秩序形成において国家と競合する新たな主体が現出している。この新たな主体は、「超国家体({supra-state/斜字} entities)」と「脱国家体({extra-state/斜字} entities)」に大別できる(同書333〜4頁)」。個人的な考えを言えば、「グローバル化」は、「国境のない世界」などといった均質的な世界を実現するようトップダウンに作用し、統治・支配・一元管理が基本になることを意味する。したがって、そのような世界では基本的に多様性は認められない。それに対して「国際化」は、まず国家という単位があって国家間の外交関係を通じて世界の秩序を保つという連携を意味する。だから基本的にボトムアップに作用する。日本語の「国際」にも英語の「international」にも「国(national)」という語句が含まれていることに注意されたい。また「グローバル化」を統括する組織は「世界政府」であるのに対し、「国際化」を統括する組織は現状では「国連」だと考えればよいと思う。ただし、現在の国連が実際に本来の国連の役割を果たしているか否かはまったく別の話になる。『シン・アナキズム』を取り上げたときに社会を織りなす縦糸と横糸という話をしたが[ページ内検索ワード:縦糸or横糸]、「国際化」はまさに国家という「縦糸」と、国際法という「横糸」を折り合わせることを言うのに対し、「グローバル化」は「縦糸」と「横糸」の両方をなしくずしにして社会という織物それ自体をバラバラにすることを意味する。だから『憲法学の病』を取り上げたときに、著者の篠田氏の考えに沿って、日本の憲法学者が「横糸」を構成する国際法を無視して日本国憲法を解釈することがいかに危険かについて述べたわけ。また「縦糸」を無視する移民政策がいかに社会を破壊する結果をもたらすか、なぜ自国第一主義が重要なのかについてあちこちで論じているわけ。社会の維持にとっては、縦糸も横糸も重要なのであり、そのどちらかを否定したり(たとえば自国第一主義を唱えるのはけっこうなことだとしても、それを拡大解釈して国際的規約(パリ協定など)という「横糸」をときに無視するトランプ米大統領や、前述のとおり「横糸」を無視する日本の憲法学者)、両方を否定したり(グローバリスト)することは、国内社会(「縦糸」を無視した場合)、もしくは国際社会(「横糸」を無視した場合)、あるいはその両方(「縦糸」と「横糸」の両方を無視した場合)を破壊することにつながる。なおこのレビューでは、説明の便宜上「国際化」と「グローバル化」の両方を合わせた用語として「広域化」という言葉を用いることにする。
前述のとおり。この新書本は、以上が示すように実態が大きく異なる「グローバル化」と「国際化」(ならびに「広域化」)を明確に分けては記述していないので、大きな誤解を招く怖れがあるように思われる。このような語句の意味の混同は些末なものではなく、私めのような反グローバリストの言説が誤解される原因にもなっているのですね。たとえば反グローバリストは「国境のない世界」や「世界政府」などといった概念には断固として反対するとしても、必ずしも「国連」を概念的に否定しているわけではい。それどころか私めの場合には、前述のとおり(国際)社会を織りなす「横糸」として国連は必須の存在として機能しなければならないと考えている。だから私めのような反グローバリストが「国連」を批判する場合、それは「国連」という概念それ自体を否定しているのではなく、本来の国連の機能を果たしていない(それどころか、IMFのように「世界政府」の一部門であるかのようにトップダウンに機能していると思しき国連機関すらある)現在存在している具体的な機関としての「国連」を批判しているのですね。ということで、本書を引用するにあたっては次のような措置を取ることにした。まず私めが書いた文章中では、以上の分類に従った箇所は〈グローバル化〉〈国際化〉〈広域化〉と〈〉で括った。また原文で「グローバル化」とある箇所には、[]内にそれが本来〈グローバル化〉か〈国際化〉か〈広域化〉のいずれを意味すると考えられるのかを示しておいた。ただしその判断は私めが下しているので、必ずしも著者の意図と一致しない場合があるかもしれないことは念頭に置かれたい。
と前置きをしたうえで、さっそく新書本の内容に参りませふ。「はじめに」の冒頭で、著者は次のように述べている。≪黄金の拘束衣――。アメリカの有名ジャーナリスト、トーマス・フリードマンが、グローバル化[〈グローバル化〉]が進む世界でよい生活がしたいのなら、アメリカ流の政治経済モデル、つまり「黄金の拘束衣」をまとう以外に道はないと言ったのは1999年のことである。¶¶わたしは、拘束服を身につけなきゃならんとは言っていません。あなたの国の文化と社会的伝統が、この拘束服に体現された価値観に反するのなら、その点には心から同情します。しかしわたしが言いたいのは、今日のグローバル市場システム、高速世界、黄金の拘束服を生み出したのは、通信方法、投資方法、世界を見る方法を根本から作り替えた、歴史の大きな力なのだということです。もし、こうした変化にどうしても抵抗したいのなら、どうぞ、お好きなように。それはあなたがたの問題だ。しかし、もし、こうした変化に対して、法外な代価を払わずに、あるいは高い壁を張り巡らさずに抵抗できると思っているなら、それは心得違いというものです。(トーマス・フリードマン『レクサスとオリーブの木』上、東江一紀・服部清美訳)(@〜A頁)≫。このフリードマンの見解はまさに、〈国際化〉とはまったく異なる〈グローバル化〉の賛美だと言える。このフリードマンの見解に対して、著者はまず次のようにコメントする。≪あとから批判するのは簡単だが、21世紀が始まったころには、それはそれで説得力のある主張だった。20世紀に自由市場経済に対する最大のイデオロギー的挑戦だった社会主義は、ソ連の崩壊とともに事実上消滅し、国際政治では歴史的にもまれなアメリカ一極優位の状態が出現していた。冷戦終結を劇的な形で象徴したベルリンの壁が崩壊した1989年には、中国では{天安門/てんあんもん}事件が起こった。非武装の市民に人民解放軍が容赦なく銃口を向けたこの事件は、中国共産党が一党独裁制を維持する決意をはっきりと示すものだったが、その中国は経済面では、グローバル化[〈グローバル化〉]の波に乗って目覚ましい経済成長を遂げた。(…)アメリカ流の市場経済と自由民主主義という政治経済モデルが最終的な勝者なのだという考え方が支配的になった。グローバル化[〈グローバル化〉]は歴史の不可逆的な波であり、アメリカ人は自分たちこそがその波頭に乗っているという勝利の感覚に酔うことになる。(…)ソ連の地政学的脅威が消滅したヨーロッパでも、欧州統合の進展によってこれまた楽観的なムードに包まれた。歴史は今や{終焉/しゅうえん}し、市場経済と民主主義という政治経済の制度、そして個人の自由が尊重される自由主義的規範の下に世界中の人々が結ばれる、一つの世界が生まれつつある。こんな議論は決して突飛なものではなかった(A〜C頁)≫。アメリカに関する記述で一点注意しなければならないのは、そのような風潮は、実は『アメリカ 異形の制度空間』を取り上げたときに述べた「アメリカの第二の顔」を反映するものであって、アメリカは他方で、モンロー主義的な「アメリカの第一の顔」も持っていることも忘れてはならない(トランプ大統領はこの「アメリカの第一の顔」に属する)[ページ内検索キーワード:アメリカの第一の顔、アメリカの第二の顔]。しかし著者も言うように、≪フリードマンの高らかな勝利宣言の賞味期限が切れるのにそう時間はかからなかった(C頁)≫のですね。何しろ≪2016年には「アメリカを再び偉大にする」、「アメリカ・ファースト」を{標榜/ひょうぼう}するドナルド・トランプが大統領に当選し、あろうことかアメリカ自身が率先して黄金の拘束衣を引き裂き始めた(D頁)≫のだから。著者は≪あろうことか≫と余計な副詞をつけ加えているが、前述のとおりトランプは「アメリカの第一の顔」を代表しているだけであって、彼の振る舞い自体は特に驚くべきことではない。いずれにせよ、著者の言葉を借りれば、≪アメリカ流のグローバル化[〈グローバル化〉]の挫折は、後から見れば明らか(E頁)≫になっているのが現状だと言える。
ということで本論の「第1章 統合の条件」に参りましょう。まず次のようにある。≪地球上に広がった人類は、様々な集団を形成しつつ、それらの間で交流のネットワークを築いてきた。それは、モノの交換、つまりは通商であり、情報や知識のやりとりであり、さらには宗教や思想といった世界観の伝達であったりした。こういった交流のネットワークは、時代とともに密度を増し、相互の連結はますます密接なものとなるはずだ。こういった人類の交流の緊密化をグローバル化[〈広域化〉]と呼ぶのならば、人類の歴史はまさにグローバル化[広域化]の進展の物語のはずだ(2〜3頁)≫。この引用文中の≪グローバル化≫はかなり微妙で、個々のノード(国家は粒度の大きなノードに相当する)の集まりである「ネットワーク」が強調され、一様な空間を前提としているわけではないという点に鑑みれば〈国際化〉を意味するとも考えられるが、全体的な論調からすれば〈グローバル化〉が完全に除外されているとも思えないので、両方を含む〈広域化〉として理解することにした。
次に著者はグローバル化の条件として次のように四つをあげている。≪第一は、それぞれの時代の当事者の努力では変えることのできない所与の、物理的、技術的な条件であり、ここではひとまずそれを構造的要件と呼ぶことにしよう。第二は権力的、政治的な条件で、それは究極的には暴力の管理を意味する。第三は、多様で大規模な交流を秩序づけるルールの体系、言い換えれば制度的条件である。そして第四に、人々の行動を規制する規範的な条件である。それは世界の意味を解釈し、人間を内面から規制する象徴的な枠組みである(4〜5頁)≫。もちろんこれら四つは〈グローバル化〉にも〈国際化〉にも当てはまるが、それらの条件を満たす際の難易度に関しては〈グローバル化〉と〈国際化〉のあいだでは差があると考えられる。次に述べる見解は、あくまでも私め個人のもので、著者のものではないので留意されたい。構造的条件は、そもそも≪それぞれの時代の当事者の努力では変えることのできない所与の≫条件であり、難易度それ自体が地理的条件や時代に応じて大きく変化するという点に相違はないので、〈グループ化〉と〈国際化〉のあいだにおけるその差をうんぬんすることに意味はないでしょう。権力的、政治的な条件は、間違いなく〈国際化〉の場合よりも〈グローバル化〉の場合のほうが厳しいと考えられる。なぜなら世界の人々を政治的に一様に扱い統治・支配・一元管理するためには、それだけ大きな暴力を行使する必要があるから。〈国際化〉では、おもに個々の国家がこの条件を満たすことになり、あとは個々の国家を連携する際にもこの条件を満たす必要があるとしても、それは連携に関するものであっても統治・支配・一元管理に関するものではないので、〈グローバル化〉に比べれば難易度は低くなるはず。ただし一つの国家には、文化を異にする複数の民族が同居している場合も多いので絶対的に難易度が低いとは言えない。確実に言えることは、〈グローバル化〉の場合には、この条件を満たすことは非常にむずかしくなるということ。歴史的にラテン語、キリスト教という共通の基盤を持つ諸国を合わせたEUでさえ、権力的、政治的統合がうまくいっているとはとても言えないしね。それどころか少し前のギリシャ問題を考えてみればよくわかるように、経済面でさえ万全と言うにはほど遠い。制度的条件も、連携のみを考えればよい〈国際化〉のほうが、基本的に統治・支配・一元管理を考えねばならない〈グローバル化〉より難易度は低いと見ることができる。最後の規範的な条件は、四つの条件のなかでも、〈グローバル化〉が満たすことがもっとも困難な条件だと見ることができる。というのも≪世界の意味を解釈し、人間を内面から規制する≫ためには、文化、習慣、宗教などにおけるさまざまな相違を克服する必要があるから。〈国際化〉においては、それを担当するのは各国家ということになり、世界中の文化や慣習や宗教のあいだの相違を克服する必要はないという点で、かなり難易度は低くなる。ただし権力的、政治的な条件の場合と同様、一国の内部でも、文化、習慣、宗教などが異なる人々が暮らしているのが普通であり、絶対的に難易度が低いわけではないが、〈グローバル化〉よりは低いと考えられる。というか、一つの国家の内部にしてもそうであれば、世界中の人々を統治・支配・一元管理する必要がある〈グローバル化〉において、世界政府のような組織がこの条件を満たそうとすれば、現実的にとんでもない難題に直面せざるを得ないことがわかろうというもの。また、国家の内部において、無条件に、もしくはきわめて安易な基準に基づいて移民を受け入れてはならない理由は、その点に求められる。もちろん以上四つの条件に対する私めの見立ては妥当ではないかもしれないが、一つ確実に言えるのは、繰り返すと〈グローバル化〉と〈国際化〉ではそれら四つの条件を満たす際の難易度が大幅に異なるということ。だからこそ、それら二つを一つとして扱ってはならないのですね。
ここまでは個人の勝手な見解だけど、次に著者の記述に沿って、もう一度、〈グローバル化〉と〈国際化〉のあいだでそれらの条件を満たすための難易度がどの程度異なるのかを見ていくことにしましょう。構造的条件の一つ環境に関しては、お約束のジャレド・ダイアモンドの『銃・病原菌・鉄』が最初に登場する。まあ、著者がどこまでダイアモンドの説を信奉しているのかはようわからんけどね。技術に関しては水上交通主体から鉄道による陸上移動に主体が移ったことが述べられている。ただ鉄道は、ヨーロッパの内部でさえも、二〇世紀の終盤にシェンゲン協定が締結されるまでは、鉄道による国境を越えての人やモノの移動は煩雑だったので、〈グローバル化〉にはほとんど貢献していなかったように思える。むしろそれ以前の水上交通の時代の方が、〈グローバル化〉に有利な条件が整っていたのかも(ただしそれは商業などの経済的な側面に限られる)。いずれにしても、構造的条件はある意味で偶発的な条件なので、これ以上検討することはしない。
次は権力的条件について。まず次のようにある。≪いかなる集団も、基本的なルールや制度がなければ存続できない。そしてそういったルールや制度が侵害されたときに、合理的な話し合いと説得だけでルール破りを排除できると考えるのは、ユートピア的である。世界は、きわめて多数の多様な人々から構成されるだけに、顔見知りの間で関係が取り結ばれる小さな集団のように、自然にルールが共有されるようになることは{稀/まれ}である(13〜4頁)≫。ここまでは〈グローバル化〉にも〈国際化〉にも当てはまることは言うまでもない。また、それを満たす難易度も変わらない。〈国際化〉で言えば、ルールは「国際法」になろうが、中国、ロシア、北朝鮮のような、それを破る国はあとを絶たない。続けて次のようにある。≪まずはなんといっても安全が確保されていなければ交流どころではない。戦乱が続き人々が交流よりも相互に殺しあっているような条件の下で、商品の売買や文化や情報の交換が促進するはずはない。国家をはじめとするいかなる政治共同体(polity)にとっても、それに属する人々の安全を確保することは、もっとも基本的な任務である。このことは、安定した国家の下での生活に慣れてしまうと想像しにくいかもしれないが、有効な国家権力が消滅し警察も裁判所も機能しなくなると、人々の財産は暴力的に奪われ、商売どころではなくなる。国家が実際に破綻した地域が現在の世界にも少なくないが、そこでは暴力的手段を持つ{諸々/もろもろ}の集団が割拠することになり、人々はそういった地方豪族、軍閥、あるいは犯罪者集団などの武装集団に従属して、保護を受けなければ生きてはいけなくなるだろう。市場での商品の自由な交換も、知識の生産や交換も、暴力が横行する無秩序状態では不可能であり、一定の政治的秩序が確立して初めて可能になる。よって暴力の正統な行使を国家が独占し、人々の身体や財産を保全し、契約の有効性を担保することが論理的には解決策になる(14〜5頁)≫。この問題は基本的には、国家の存在を前提にする〈国際化〉には当てはまらない(それでも問題は多々生じるだろうけど)。では〈グローバル化〉を考えた場合には、このような国家の役割を代替する機能や機関の設置は可能なのか? 私めは不可能だと考えているが、少なくともこの引用文中にあるような問題がただちに立ち上がってくるだろうことに間違いはない。『シン・アナキズム』を取り上げたときに述べたが、アナキスト(無政府主義者)のように「横糸」ばかりを重視して、「縦糸」を無視あるいは軽視すればたちまちこのそのような問題が発生するはず。『シン・アナキズム』の著者は、割れ窓理論を行使してニューヨークの犯罪率を劇的に低下させた当時のジュリアーニ市長を、雑多性を無視する行為だとして批判していたが、まず犯罪を減らして、自分の命の安全に関する心配をせずに暮らすことのできる都市を作らない限り、雑多性などをうんぬんしても仕方がない。≪安定した国家の下での生活に慣れ≫た左派は(『シン・アナキズム』の著者が実際に左派か否かははっきりとはわからんが、アナキズムを擁護している点からみてもその傾向はあるのでしょう)、このことをまったく理解していないように思える。
ただし国内の話ではなく、国家間の話になれば〈国際化〉にも〈グローバル化〉と同じ条件が当てはまることは、次の記述からもわかる。≪一国内の話は一応これで済む。しかし世界には、暴力の正統な行使を独占し、人々の身体の安全を保護して、安定した人々の交流のネットワークを育む、世界政府は存在しない。よって、国家間の暴力の行使である戦争はもちろん、山賊や海賊が{跋扈/ばっこ}すれば交易は滞る。とりわけ公海では、国家による暴力の独占が及ばないから、遠隔地交易で取引される高価な品々は暴力的略奪にとって格好の獲物だった。通商路の確保は今日でも、貿易ネットワークのために欠かせないことは言うまでもない。エネルギーや食糧の供給を、遠く離れた場所からの輸送に頼りきって生活を維持している日本人にとって、このことは現在でも文字通り死活的な重要性を持つ(15頁)≫。〈国際化〉においては、このような法的事象は海洋法を始めとする「国際法」に依拠せざるを得ないが、ローグ国家が跳梁跋扈している現在の世界の状況を眺めれば、それが効果的に機能しているとはとても言い難い。確かに「世界政府」のような統治・支配・一元管理を司る機関が実際に存在すれば、それは「国際法」によって運営される国際社会よりは、効果的にローグ集団に対処できるのかもしれない。しかしその場合、「世界政府」に与えられる権力は途轍もなく巨大なものになるはずだから、誰が「世界政府」を動かすのかが非常に大きな問題になる。だから国家レベルどころか世界レベルの独裁者、もしくはエリート集団が登場してもまったくおかしくはない。中国やソ連の例(表面上は国家レベルの話になるが、中国やソ連は単なる国民国家とは見なせない巨大な広域組織、あるいは言い換えれば一種の帝国だしね)に参照すれば、格差も今よりさらにひどくなるかもしれない。個人的には、この問題を解決できるとは到底思えない。むしろ「国際法」社会の効率化を図って、有効な〈国際化〉を目指したほうが安全だろうね。
さらにそれ以前の問題として、そもそも国家レベルで実施されている治安維持の仕組みをそのまま世界大のスケールへと拡大できるのかという、いわばスケーラビリティーの問題が存在する。ナシブ・タレブさんも「Things don’t scale」と主張していることだしね。著者自身も、この問題を「帝国」という現象に言及しつつ、次のような問いとして提起している。≪では、グローバルな秩序を確保するには、国内で確立した秩序を世界大のスケールに拡大すればよいのだろうか。言い換えれば巨大な帝国が広域的統治をすれば済むことなのだろうか(17頁)≫。ここで一点指摘しておくと「帝国」という日本語には「国」という文字が入っているので、国家が拡大したもののように捉えられているかもしれない。でも英語では「帝国」は「empire」であり、そこには「国家」を意味する語句は含まれていない。にもかかわらず帝国主義をナショナリズム(いわば国家主義)に結びつけようとする輩がいるが、それがおかしいことはたとえば『人口の経済学』や『古代オリエント全史』や『権力について』などを参照されたい[ページ内検索キーワード:帝国]。ここでの議論に即して言えば、帝国は国家とは違って、たとえ地球全体を支配しているわけではなかったとしても、拡張主義(帝国主義)的な〈グローバル化〉戦略を駆使するという側面を持っていると見るべきであり、本質的に国家とは異なる(ただしナポレオン帝国のように、国家が一つの単位として帝国化することはありうる)。だから国民国家が成立するよりはるか以前の古代にもローマ帝国、いやそれどころかアッシリア帝国やヒッタイト帝国やマケドニア帝国など、さらに古い時代から「帝国」と呼ばれる実体が存在していたのですね。しかしそのような〈グローバル化〉を目指す拡張主義的な帝国は、すべてやがて滅亡している。
さてそれはそれとして、著者はこの問いをめぐって次のように述べている。≪しかし帝国には、より規模の小さい政治的単位にはない難しさがある。集団の規模が大きくなればなるほど、どうしても集合的な意思形成やその執行は難しくなるから、帝国には遠心力が作用し、ひどくなると分裂が起こる。人間が個別的に識別できる他者の数にはダンバー数と言われる限界があり、その具体的な数には幅があるが、ちょうど軍隊の中隊の規模に相当する150人程度とされることが多い。政党であれチンパンジーの群れであれ、一定の{閾値/いきち}を超えると派閥ができたり分裂したりしてしまう。そのため巨大な集団は一定数ごとの単位に分割して統御せざるを得ない(19頁)≫。ある意味で当たり前田のクラッカーだけど、だからこそ社会の統御には「縦糸」が必要になるのですね。しかしその縦糸も、最大粒度は国民国家程度だというのが私めの見立て。中国やソ連などの帝国規模になると、それらの国がそうである(あった)ように相当な強権を発動しなければ国がバラバラに分解する結果を招き(ソ連が実際にそうなった)、それを防ぐために独裁的な色彩が濃くなる。それは〈グローバル化〉にも当てはまる。それからそのあとで、≪主権国家の協調的秩序という分権的なシステムの下でグローバル化[国際化]が進んだこともあった(21頁)≫という記述が見られるが、この引用文中の≪グローバル化≫は、主権国家同士の協調がベースになるのだから、[]内に記したように明らかに〈国際化〉を意味している。それは現在言うところの均質的な「グローバリゼーション」とはまったく異質なものであり、それらをまったく同様に「グローバル化」と記してしまうと話が非常にわかりにくくなってしまう。反グローバリストは必ずしも反インターナショナリストではない。もちろん、なかには反インターナショナリストもいるのだろうが、そのような人は実質的に鎖国を主張しているに等しい。おそらくそんな人はごくわずかしかいないと思う。
次は三つ目の条件である制度的条件について。まず次のようにある。≪武力によって域内の諸勢力を帰順させて成立した帝国も、一定程度は彼らの自発的な服従を獲得しなければ、確実に力を消耗する。そのため恣意的な力による統治から、何が許容されて何が罰されるべきかを区別するルールを明示して、自発的な服従を獲得しやすい仕組みを整備し、権力行使を効率的にしておくことが合理的だ。(…)したがって、まずは伝統や慣習によるルールの明確化、共有化が図られ、それによって権力の制度化が試みられる。そしてこういった伝統や慣習が蓄積されると、それらの解釈も単純なことではなくなる。各々のルールの解釈の相違を処理し、有権的な解釈を確立する必要に迫られる。とりわけ広域的な秩序の場合、きわめて多数の多様な人々を統治しなければならないから、慣習による統治の限界も大きい(22〜3頁)≫。最後の一文が示すように、制度的条件は〈グローバル化〉には非常に厳しい条件にならざるを得ない。それに対して〈国際化〉の場合には、統治・支配・一元管理は個々の国家レベルでなされ、それによって「縦糸」が構成され、そのうえで国家間の連携という「横糸」が編み込まれるので〈グローバル化〉の場合より難易度は確実に低くなる。さらに次のようにある。≪権力が広域的に確立して秩序が守られなければ、民間の活発な経済交流は不可能だ。しかし、強力な権力が恣意的に行使されると、モノの流れもヒトの移動も停滞し、人々の行動も委縮して新たな試みや投資をする意欲も{削/そ}がれてしまうだろう。グローバル化[広域化]を支える統治には微妙なバランスをとることが求められるのだ。権力の恣意的な行使を防ぎ、予見可能性を高めるために、法の支配による制度化が求められるのは、このような理由からである(24頁)≫。直近では、ソ連の崩壊はこれに近い形態で生じたと言えるかもね。
最後に四つ目の条件である規範的条件を取り上げましょう。最初に次のようにある。≪広域的な制度が多数の多様な人々に受け入れられ有効なものになるには、力による強制だけでは不十分で、制度が合理的なものであることが必要だ。しかし人間の行動の根拠となっているものには、合理的でない部分も多い。そもそも何が「合理的」なのかも、人々の意識のより深い層にあるアイデンティティによって解釈が異なるかもしれない。(…)人のアイデンティティの大きな部分は、自分で合理的に考えた結果ではなく、自分の出自や育った環境の産物でもある。経済学が前提とするような合理的な個人がまず存在し、それぞれが自分の理想や利益を実現しようとして世界を生きていくというモデルは、物事を考える上で便利な仮定だが、やはり一つのフィクションにすぎない。人はみな、特定の文明の中に生まれ出て、それぞれの方法でこの世を解釈する。そして世界秩序の展開を起動するのも、結局はそういった人の営みだから、人々が世界をどう解釈し、何にどんな意味があり、何が正しいと考えるのかに、その行方も左右される(26〜7頁)≫。≪特定の文明≫というくだりは、個人的には「特定の文化」としたほうがよさそうに思える。続けて次のようにある。≪である以上、いかなる政治的秩序も、それが包摂する人々の世界観やアイデンティティの問題となんらかの折り合いをつけなくては、長期にわたって支えることはできない。政治権力も人々の持つ宗教的、民族的、文化的な規範と衝突すれば、大きな緊張を生む。権力によって強制しても、合理的な制度を作っても、人々の内面的な世界観と適合しなければ、いかなる秩序も{脆/もろ}い(27頁)≫。この条件は、非統治者のアイデンティティや内面がかかわるだけに、当然ながら統治・支配・一元管理の対象が広がれば広がるほど、それだけ満たすことが困難になると考えられる。四つの条件のなかでも、〈グローバル化〉が満たさねばならない条件としては一番厳しいと言える。
第一章の末尾に本章のまとめと言える次のような文章があるのでそれを引用して第1章は終わりにしましょう。≪今日の世界で国際社会を組織する基本的な制度である主権国家は、ヨーロッパのキリスト教世界で、宗教改革の結果、何が正しい信仰なのかをめぐる深刻な分裂が生じたことに、その起源をさかのぼることができる。主権国家とは、それぞれの国家によって正しい信仰が異なるため、教化による統合はあきらめ、お互いの領域主権を認め合って、それぞれの領域ごとに正統な信仰を決めるという最小限の共存のルールに合意することで、果てしない宗教戦争に終止符を打った苦肉の策だったのである。主権国家によって構成される伝統的な国際秩序の基礎はこの領域主権であり、それによって世界の秩序は、比較的同質的な空間である「国内」と、異質で無政府的な「国際」の二層構造となった。しかしグローバル化[〈グローバル化〉]とは、共通の市場や制度、規範に基づいて人々が自由に経済的、文化的に交流する秩序であるため、主権国家秩序が想定していた最低限の共存のルールより、多くの様々なルールを共有する必要がある(32〜3頁)≫。≪しかしグローバル化[〈グローバル化〉]とは≫より前が〈国際化〉の説明であり、それ以後が〈グローバル化〉の説明だと言える。ここで言われている≪果てしない宗教戦争≫とは直接的には三〇年戦争のことであり、それに≪終止符を打った苦肉の策≫とはウェストファリア条約のことであるのは言うまでもないでしょうね。さらに続けて次のようにある。≪広域的秩序を、域内の多様な規範や文化とどのように折り合いをつけながら維持するのかは、これまでも様々な主体が、それぞれの方法で解こうとしてきた難問である。単一の普遍的宗教や「世界文明」が成立しない限り、異なったアイデンティティをいかに共存させるのかという課題は、世界秩序のためには避けて通れない課題なのである(33頁)≫。≪単一の普遍的宗教や「世界文明」≫、あるいは「国境のない世界」などといったものが現実的に存在しうるとは思えないので、この≪避けて通れない課題≫を解決するための現実的な方法は、著者の言う≪比較的同質的な空間である「国内」と、異質で無政府的な「国際」の二層構造≫、私めのいう「縦糸」と「横糸」を撚り合わせた社会、すなわち〈国際化〉を洗練させることにしかないと、個人的には考えている。
ということで、お次は「第二章 広域的秩序の興亡」だけど、この章は個々に見れば誰もが知っているような歴史が記述されているので基本的にスキップする。ただし一箇所だけ興味深い記述があったのでそれを引用しておく。次のようにある。≪フランスでは、フランス革命によって貴族支配の身分制度が解体されフランス人はみな平等な市民となった。フランスはこれによって傭兵による常備軍ではなく、徴兵による市民軍を持つようになり、ナショナリズムに鼓舞された市民軍は、ヨーロッパを{席巻/せっけん}する圧倒的な威力を発揮した。これに衝撃を受けた他の諸国も身分制度を徐々に解体し、自由主義的な改革に乗り出さざるを得なくなった。¶それと同時に、それぞれの国の住民を民族としてまとめ、国家への帰属意識を強化しようとするナショナリズムが19世紀を通じてヨーロッパで強まった。今日では保守的な考えとされるナショナリズムだが、当時の文脈では身分制度を打破して広範な国民的連帯を作ろうとする進歩的な運動と結びついていた。人々がみな同じ民族のメンバーとして平等であり、男性はみなが兵役につくとなると、政治参加への要求が強まるのも理の当然である。19世紀後半以降、民主主義への流れがヨーロッパ全般の流れとなったのも、こういったメカニズムによる部分が大きい。主権、国民国家、市民的平等、民主主義、議会制度といった今日の日本人が慣れ親しんでいる基本的な制度や理念も、西洋近代の産物である(68〜9頁)≫。何点か指摘しておきたい。≪ナショナリズムに鼓舞された市民軍は、ヨーロッパを{席巻/せっけん}する圧倒的な威力を発揮した≫というのは、もちろんナポレオンの軍隊を指す。彼はフランス革命によって成立した社会を拡大しようとしたのですね。また最後の文に≪今日の日本人が慣れ親しんでいる基本的な制度や理念も、西洋近代の産物である≫とあるが、そうであっても日本はそれらの制度や理念を独自のあり方で捻って記号設置したというほうが正しい。なおこれについては、最近取り上げた『誤読と暴走の日本思想』を参照されたい。またこの記号設置によって、とりわけ日本の左派は、軍事と聞いただけで発狂する病に罹患しているようだが、引用文中にあるように徴兵制は彼らが範としていると思しきフランス革命の頃から始まっている。何しろそれまでは戦争のプロである傭兵(傭兵ではないにしろ日本では武士)や貴族が戦争をしていたのだからね。そのような伝統があるから欧米では左派でも軍事に対するアレルギーはあまりない。それどころか、北欧諸国やスイスでは現在でも徴兵制が実施されており、スイスに至っては二〇一三年に徴兵制廃止の国民投票を実施して、AIによれば「約73%という圧倒的多数で徴兵制の維持が決定」されている。国民の意識が日本とはまるで違う。それから≪当時の文脈では身分制度を打破して広範な国民的連帯を作ろうとする進歩的な運動と結びついていた≫という「ナショナリズム」の捉え方も興味深い。まあそのような特殊なケースを「ナショナリズム」と呼ぶべきか否かという議論はありそうだけど、そこには立ち入らない。
次の「第3章 アメリカ主導のグローバル化」に関しては次の点を述べるに留めておく。「アメリカ主導のグローバル化」とは、前述したアメリカの第二の顔による〈グローバル化〉を意味する。もちろんモンロー主義に代表される孤立主義的伝統、つまりアメリカの第一の顔という側面もアメリカは持っており、それについても最初に述べられている。トランプ政権はこのアメリカの第一の顔がはっきりと顔をのぞかせた政権だと言える。
次は「第4章 四つの世界秩序」。この章に関しては「グローバル化」と「国際化」が区別されていないがゆえに奇妙に思える箇所が散見されたので、やや詳しく見ていくことにする。まず本章の目的が次のように述べられている。≪制度にしても文化にしても、世界大での効果は、小さな集団にはない様々な限界が出てくる。アリストテレスは、国家の規模は声の届く広場に集まれる人数が限界だと主張した。そうでないと民会で国家の意思を決めることができないからだ。拡声器やビデオ電話といった技術、代議制や連邦制といった制度的工夫によっても、スケールに起因する困難は克服できない。プレイヤーの数が多くなると、それらの相互の関係の組み合わせの数は、指数関数的に増加するからだ。巨大な数の多様な人々の関係はどうしても形式的なものになるので、気心の知れた信頼できる仲間によって下位集団が形成されることになる。つまり集団が大きくなると、必ず内部で「他者」が生成されるので、空間の統一性は失われ、異質で独立した要素を内部に含む構造が形成されるようになる(109〜10頁)≫。まずここまででコメントしておくと、これこそがまさにダンバー数の問題であり、また、ナシム・タレブ氏が「Things don’t scale」と言ったスケーラビリティーの問題であることは言うまでもない。
先を続けましょう。≪以上のように、世界が統合されるためのハードルは高い。たとえある時期に統合度が高まったとしても、多数の多様な主体をなんとかまとめ上げていた力が弱まると、分解への力学が作用する。¶では分解した後には、どんな世界秩序が待っているのだろうか? ここで国際秩序ではなく、敢えて世界秩序というのは、主権国家が支配的な政治共同体であるという前提そのものを、問い直したいからだ(110頁)≫。≪国際秩序ではなく、敢えて世界秩序≫というくだりは(そもそも本書のタイトルが「世界秩序」だしね)、明らかに著者が多様な統合である〈国際化〉ではなく、均質的な統合である〈グローバル化〉のみを対象にしていることをいみじくも示している。〈国際化〉を対象にするなら、≪主権国家が支配的な政治共同体である≫という前提が立てられるのは当たり前田のクラッカーなのだから。縦糸・横糸理論をぶち上げる私めからすると、「国際秩序」による緩い統合以外には考えられないが、いずれにせよここは著者のお手並みを拝見することにしましょう。
本章では、それを議論するにあたって四つのwhat ifシナリオが提起されているので一つ一つ紹介していきましょう。最初のシナリオは≪一つの世界の回復――再グローバル化(112頁)≫で、それにはこれまで通りのアメリカ主導と、新たな中国主導が取り上げられている。アメリカ主導のグローバル化はそもそも第3章のテーマでもあったので、ここでは個人的な見解のみを述べておく。アメリカ主導による〈グローバル化〉は、もっぱら「アメリカの第二の顔」、すなわち政治勢力で言えば民主党と共和党のうちのネオコンによって推進されてきたのであり、したがってトランプのような「アメリカの第一の顔」がアメリカを支配している限りは考えられない。もちろんトランプに来期はないので三年半後にどうなっているかはわからないが、現状の移民問題が解決されなければネオコン以外の共和党の政治家が実権を握る可能性は高い。
次に中国主導について考えてみましょう。個人的には、中国共産党が中国を支配している限り、中国主導の〈グローバル化〉は悪夢でしかないと思っているが、もちろん私めの願望と現実は大幅に異なりうる。著者自身も、中国主導の〈グローバル化〉が現実化するための条件が非常に厳しいことを述べているが、私めの見立てでは、そもそも「信用」を軽視している中国共産党率いる中国が、世界中の国の「信用」を集めることなどあり得ない。一帯一路で発展途上国を経済援助しているように見せかけながら、スリランカのハンバントタ港の事例が示すように「債務の罠」の毒牙にかけるような阿漕なマネをやっていれば他国から信用されるはずがない。あるいは民間で言えば、ビルマで発生した地震のせいで、タイの首都?で中国の企業が建設中だったビルだけが崩壊する(確かそのあと関係者は逃亡したとか)などといった例を目のあたりにすれば、とても中国の途上国援助を信用できるものではない。いくら経済や軍事が強大になっても、「信用」が得られなければ、その国による世界の統合など土台無理なのですね。そういえば思い出した。サミュエル・ハンティントンが確か例の『文明の衝突』の末尾で、未来シナリオとして米中の対立を取り上げていた。そのシナリオによれば、日本はアメポチではなくシナポチとして扱われていた。当時は、米中の対立さえありそうにも思えなかったし、ましてや日本がアメポチではなくシナポチになるとは笑止千万だと思ったものだった。でも、中国が軍拡を続け、日本国内では親中、媚中議員が与党にも野党にもわらわらいる今日の現状を考えてみれば、ハンティントンが一九九〇年代にそれを見越していたことには驚きを禁じ得ない。
ということで著者のあげる二つ目のシナリオは、≪三つの世界――新しい冷戦(122頁)≫というもの。最初に次のようにある。≪ポスト・グローバル化[〈グローバル化〉]の世界は一つではなく、世界は三つの比較的安定した陣営に分かれ、それぞれの陣営の中と外とでは、異なった様式の関係が一般的になるかもしれない(122頁)≫。ここで言われている≪三つの比較的安定した陣営≫とは、「中ロ陣営」「欧米陣営」「グローバル・サウス」ということらしい。このシナリオに関して次のように指摘されている。≪アメリカを中心とする西側諸国が、多くの開発途上国にとって必ずしも魅力のある開発モデルを提示できたわけでもないことは、記憶しておくべきだ。ソ連崩壊後、大多数の「グローバル・サウス」の国々はアメリカが推進する新自由主義的なグローバル化プロジェクト以外に選択肢がなくなったが、これは一部の途上国にとっては非常につらい調整を強いられるものであった。というのも、欧米諸国の民間金融機関からの融資が返済できなくなると、IMFからの支援と引き換えに構造調整プログラムを課される。これは経済的占領に等しい苦い経験であり、かつての植民地支配の記憶を呼び起こすものだった。こう考えると、中国が一帯一路計画を通じて提供する援助や、アメリカが事実上支配してきたブレトン・ウッズ機構の外側から支援するAIIB(アジアインフラ開発銀行)やNDB(新開発銀行)が歓迎され、権威主義的政府に率いられた国家資本主義という中国の発展モデルに魅力を感じても、なんら不思議ではないだろう。¶世界は米中の率いる二つの陣営が地政学的に対立し、経済面でも相互依存は危険なため、たとえ完全な切断はできなくともリスクを減らすために経済的交流は縮小される。それと並行して、両陣営ともグローバル・サウスの陣取り合戦を展開する。こんな世界がこのシナリオのイメージである(127〜8頁)≫。要するに「中ロ陣営」と「欧米陣営」が対立するなかで「グローバル・サウス」がキャスティングボートを握っているというようなイメージかな? これはwhat ifシナリオと言うより、現在実際に起こっていることでもあるように思える。なお何点か指摘しておきたい。開発途上国に対する西側の援助の問題については、『グローバル格差を生きる人びと』に詳しく書かれているので、そちらもぜひ参照されたい。IMFの構造調整プログラムの問題はさんざん言われてきているけど(確か『グローバル格差を生きる人びと』にも書かれていたはず)、そういうことをやっていると欧米諸国は中国の「債務の罠」を批判できなくなってしまうのですね。それから私めは経済に詳しくないからあれれ?と思ったのかもしれないが、ブレトン・ウッズ体制って一九七〇年代の前半にニクソンのせいで崩壊したのではなかったっけ? なんでそれがAIIBやNDBなどと一緒に扱われているのか疑問に思ってもた。戦後のアメリカ主導のあり方をそういう言い方で喩えただけということかもだけど、奇異に思えるのは確か(これに関しては私めが無知なだけなのかもしれないが)。
三つ目のシナリオは、「多数の世界――再近代化する世界(130頁)」というもの。最初に書かれている定義だけ取り上げると、次のようにある。≪米中両陣営が、冷戦期の米ソ陣営ほどには安定した集団にならないとすると、世界は主要大国が機会主義的に合従連衡を繰り返す流動的な姿になりそうだ。ポスト・グローバル化[〈グローバル〉化]の世界は、グローバルな関係を安定させる国際的な制度や規範も弱体化し、同盟やパートナーの目まぐるしい組み換えと大国間の露骨な実利的取引、時には儀礼や慣行を無視したとげとげしい言葉の応酬や、経済的圧力、そして軍事的な威嚇が繰り返される荒っぽい世界になりそうだ(130〜1頁)≫。確かにそうなる可能性はあるし、その兆候もあるけど、ただし個人的には、このような悲観的な見方は、〈広域化〉をもっぱら〈グローバル化〉と見なして、〈国際化〉をまったく念頭に置いていないから出てくるような印象も受ける。もちろん〈国際化〉の主体となるべき現在の国連はまともに機能していないのは確か。そもそも八〇年も前に、第二次世界大戦の戦勝国によって作られた枠組みが、二一世紀の今になっても継続されていること自体がおかしい(だから敗戦国条項なるものが今でも残っている)。それどころか、ウクライナ戦争をおっ始めたロシアや、第二次世界大戦が連合国の戦勝で終わった時点では影も形もなかった、中国共産党率いる中華人民共和国が、それぞれ安保常任理事国としてソ連や中華民国(台湾)の後釜に何食わぬ顔をしてすわっている。だから今存在している国連は大きく作り変える必要がある。それでも個人的には、国連を始めとする国際機関によって構成される横糸をもう一度しっかりと張り直しさえすれば、ある程度改善はできるはずだと楽観的に考えている。むしろ張り直すきっかけを作ること自体が、きわめてむずかしいと言えるのかもしれない。
四つ目のシナリオは「無数の世界――中世は再来するのか(142頁)」というもので、まず次のようにある。≪グローバル化の逆転が始まると、(…)人々は国家の役割に期待を強める。だが21世紀の構造的条件の下で国家はこの期待に応じることがはたして可能なのだろうか。実は大国であっても、勢力圏はもちろん自国領ですら独占的に統治することは、ますます難しくなっている。国家の持つ力の源は、自国領域の排他的支配にある。しかし、国境を越える交流を容易にする技術の発展はとどめようがないので、そうなると国家の力はむしろ弱まり、国家に代わってそれを利用できるごく一部の人々や集団が、今後の世界を支配するようになる可能性もある。こんな世界では、20世紀を特徴づけた国家間の巨大な紛争は抑制され、脱国家的な諸勢力の協力や取引によって、世界の行方を左右するような秩序が生まれるかもしれない(142頁)≫。現在でも、グローバル・エリートが支配する多国籍企業はその一例になるでしょうね。あるいはテロリスト集団や、ちょっと前に猛威をふるったイスラム国なども悪い意味でそれにあたるのかもしれない。さらには著者があげているサイバー空間や宇宙空間も国家の枠組みを超えた力関係を生み出している。
グローバル・エリートに関する次の記述は興味深い。≪2016年にリークされたパナマ文書からは、そうした21世紀のグローバル貴族階級の姿が{垣間見/かいまみ}える。カリブ海の英領バージニア諸島、ケイマン諸島、アメリカのデラウェア州などは、実態のないペーパーカンパニーを立ち上げて、国家の課す税を逃れることができるタックスヘイブン(租税回避地)で、違法な手段で得た資金を洗浄するためにも便利な場所だ。(…)ペーパーカンパニーを持つこと自体は違法ではない。しかしそこにつぎ込まれた資金の一部は、違法な手段で獲得した財産であると推測される。こういった現代のセレブ層の生活スタイルは、自国の一般大衆とはかけ離れたものだけに、自国社会への帰属意識も弱く、彼らにとっては国籍など面倒な制度にすぎないのかもしれない(145頁)≫。最後の一文に書かれている現象は、逆方向にも作用しているように思われる。つまり、自分はエリートのセレブであると人々に思われたいがために、国籍なんか関係ないとか言いながら日本や日本人をディスったりしているのですね。自称知識人に、そういう輩をよく見かける。おそらくその手の輩は、根底において何らかの劣等感を抱いているのでしょう。そうそうタックスヘイブンに関しては、それを歴史的なパースペクティブのもとで扱っている西洋史家、玉木俊明氏の『商人の世界史』が非常におもろかったので読んでみてみて。そこに次のような興味深い指摘がある。≪タックスヘイブンは、かつての大英帝国と関連した地域が多く、それは大英帝国が金融の帝国であり、政治的帝国ではなくなったとしても、その金融力はまだまだ世界に強い影響力をおよぼしているからである。しかもそれは、イギリス王室の特異性と関係しているのだ(同書202頁)≫。イギリス王室がタックスヘイブンに関与していることについては、それまでは陰謀論の一種かと思っていたけど、どうやらそうではないらしい。どのように関係しているかについては、『商人の世界史』を読んでみておくんなまし(レビューのなかでも少し引用しておいたけどね[ページ内検索キーワード:タックスヘイブン])。まあ金持ちは巧妙に脱税しているのに庶民は重税にあえいでいる、格差が増大した現代は中世とあまり変わらない。
いずれにしてもそんな格差が増大した環境のもとでの中間層の没落は、次のような由々しき事態をもたらしている。≪安定した民主的政治を支える上で分厚い中間層はなくてはならない存在だ。極端な格差がある状態では、民主主義に欠かせない妥協による合意形成は難しい。それでも経済的な不満だけなら、再分配政策で富裕層と庶民の間の折り合いがつけられるかもしれない。より難しいのは、社会の規範やアイデンティティの分断が激しくなることだ。合法、非合法の経済移民たちにとって移動先の国は、経済的機会を得るための場所にすぎず、ただちにそこに帰属意識を感じなくても不思議ではない。富裕層にとっては、世界中で自由にビジネスが展開できる環境こそが利益にかなうとともに、出身国がどこであるかよりも同様の階層の人たちに対する仲間意識の方が強いかもしれない。しかし大多数の中間層にとっては、自分たちの利害はもちろん、アイデンティティも生まれ育った国に結びつかざるを得ない。¶自分や自分の家族の運命が生まれ育った場所と結びつかざるを得ない人々、限られた収入から税金を払い、いざとなれば徴兵に応じなければならない人々には、エリート知識人が大学やメディアで説く普遍主義的理想は、{綺麗/きれい}ごとに聞こえるのではないか。グローバル化[〈グローバル化〉]がもたらした技術や機会を利用して恵まれた暮らしをしているグローバルなエリートに対して、移民や難民といった新たな隣人の間に挟まれて暮らしている人々の不満や焦燥感は強まる。彼らの怒りはしばしば反移民感情や既存のエリートへの反発という形で表出される。こういった社会的分断が強まれば、国家は機能不全状態に陥る。国境を邪魔もの扱いするグローバル・エリートからも、国家への期待が満たされない中間層からも、社会に統合されていない移民や難民からも、国家は必要な支持も資源も得られなくなるからだ(151〜2頁)≫。このような〈グローバル化〉によってもたらされる状態は、私めの言う縦糸も横糸も破壊された状態であり、グローバル・エリートというごく一部の人にとって以外は、最悪の状態だと言える。とりわけ自分たちは(グローバル・)エリートだと勘違いしていると思しき左派メディアは、引用文中にあるような社会的分断を「右傾化」が原因だとしきりにのたまっているが、この引用文を読んでもそこには根本的に「右傾化」などまったく関係のない構造的な問題が存在していることがわかる。そもそも左派メディアによる「右傾化」の強調自体が分断をさらに拡大しているのですね。この問題については、わが訳書『文化はいかに情動をつくるのか』に書いた訳者あとがきも参照されたい。
ところで≪経済的な不満だけなら、再分配政策で富裕層と庶民の間の折り合いがつけられるかもしれない≫とあるが、〈グローバル化〉が進んだ世界では、先にあげたタックスヘイブンのような、再分配それ自体を無効化するような装置が巧妙に生み出されるので、経済面でさえ格差問題の解決はむずかしいと思う。だからこそ主権国家を前提としない〈グローバル化〉に未来はないと個人的には考えていて、国連を改革して〈国際化〉を洗練させたほうがよほど可能性が高いと見なしている。著者も同様に考えているであろうことは、続く次のような記述からも窺われる。≪富裕層は高い塀で囲まれたゲーテッドコミュニティで、警備員や民間軍事会社などの提供する治安サービスをカネで買って生活し、必要に応じて国外に移動することもできる。一方で国家が極度に弱体化したり、腐敗している場合は、多数派の人々は有力者たちの保護を受けるか、地域ごとに割拠する軍閥や宗教集団、民族集団に身を寄せ合って生き延びる姿が常態化する。そこまで極端ではなくとも、警備の行き届いたタワーマンション内の多(無)国籍的空間と、その外側に広がる没落した階層と移民たちからなる居住空間なら、十分想像できるだろう(152頁)≫。まさにタワマンに住んでいるような輩が下界を見下ろして、日本人と共生しようとしない外国人の問題を訴えている人々を、左派メディアと結託して差別主義者などとレッテル貼りしているのだから始末が悪い。そういう輩こそが分断を煽っているにもかかわらず。なおゲーテッドコミュニティの問題は、〈グローバル化〉が進む以前の一九八〇年代頃からすでに問題になっていたように覚えている。
著者はそのような状態についてさらに次のように述べている。≪こういった社会では民主主義は不可能だ。運命を共有しているという同胞意識があるからこそ、選挙の敗者も選挙結果に従うし、それによって選挙という制度によって国家の意思形成もできる。しかしゲーテッドコミュニティの住民とその外側で暮らす貧しい住民、パスポートを何種類も持って容易に移動できる人々と、移動したくても移動できない人々の間に、同胞意識は成立し難い。バラバラの人々からなる国では、国家は魂のない抜け殻のようになっているだろう(153頁)≫。まさにこの≪魂のない抜け殻≫と化した国家をさらに完全崩壊に導いているのが石なんちゃら政権だと言えよう。この輩はいちおう政治家のくせに時代の現実がまったく見えていない。著者はさらに続ける。≪普遍的な理想主義の観点からは、領域主権国家は国境によって人々を分断する装置だとして、批判的に見られることが多い。20世紀前半に起こった二つの世界大戦は、ナショナリズムの病理の典型的事例だ。しかし国家が極度に弱体化した結果現れるのは、自由市場経済と民主的政治を共通の枠組みにして国境を越えて人々がフラットに結びつく秩序ではなく、国内で階級的分断が固定化する新しい封建制のような世界になりそうだ。ダボス会議やノーベル委員会に出席するようなグローバル貴族たちは人類共通の諸問題について語り続けるだろうが、大多数の庶民は、地域共同体や、血族集団や、宗教集団に肩を寄せ合って生きるようになる。人々の帰属意識は、形骸化した国家からこういった集団へと多元化するから、これを「新しい中世」と呼んでもよいだろう(154〜5頁)≫。≪20世紀前半に起こった二つの世界大戦は、ナショナリズムの病理の典型的事例だ≫というくだりは検証の必要があると思うが、いずれにせよ著者はその先を言いたかったからそう前置きしただけのようにも思えるので、ここでは無視することにする。
確かに〈広域化〉を〈グローバル化〉としてのみ捉えればこの引用文のとおりだろうと思うが、〈国際化〉として捉えればもっとましな世界像を描けるようにも思う。〈国際化〉の基盤をなす主権国家が〈グローバル化〉のせいで瓦解に瀕しているのだから、〈グローバル化〉が退潮すれば、再び〈国際化〉を基調とする世界が戻って来る可能性があるのだからね。こうして見てくると、≪ここで国際秩序ではなく、敢えて世界秩序というのは、主権国家が支配的な政治共同体であるという前提そのものを、問い直したい≫という、最初の意気込みはどこへ行ったのかと思わざるを得ない。結局、どのシナリオが現実になったとしても主権国家以外の何らかの実体が新たに登場して現在よりマシな世界が生まれるなどという結末にはなっていないのだから。一つの問題は、著者が〈グローバル化〉と〈国際化〉を区別せず、〈グローバル化〉に起因する諸問題は、必ずしも〈国際化〉には当てはまらないという点を度外視していることに求められるように思える。だから私めは反グローバリストではあっても、反インターナショナリストや反国連主義者ではないのですね(なお前述のとおり現在存在している国連の是非に関しては、また別の話になるけどね)。
ということで最後の「第5章 ポスト・グローバル化と日本」に参りましょう。まず戦後日本の安全保障を含めた対外政策が次のようにまとめられている。≪危なっかしい日本の生存を過去80年間にわたって支えてきた基本的な制度は、戦後憲法と日米安全保障条約である。言うまでもなく両者は、日本の徹底的な敗戦と、その後の冷戦という国際政治の基本条件の下で成立した。戦後憲法は敵国日本を無害化するために、日米安全保障条約は日本を冷戦を戦う同盟国にするために、アメリカの強い意図の下で形成された制度であった。もちろん、だからと言ってそれは、アメリカが日本を思いのままに操れたということも、日本が何の主体性も発揮しなかったということも、意味しない。アメリカからすれば、もっと日本を利用したかっただろうし、日本人もその気になれば憲法を改正したり、安保条約を破棄したりすることもできたはずだ。¶これが意味するのは、日本がアメリカ帝国の下で生きるという選択をしてきたということである。軽武装の日本は、安全の究極的な部分をアメリカとの同盟に依存している。(…)敢えて身もふたもない表現をするのなら、戦後の日本はアメリカへの従属と引き換えに、経済的繁栄の機会と平和を享受したと言える(161〜2頁)≫。(…)の部分は経済的な側面について書かれているが、それは省略した。結局、戦後80年間、日本はアメポチをやって平和と安全を享受してきたということ。日本の左派は核兵器反対を叫ぶけど、実態としては、これまでの日本は、たとえ国内に核が持ち込まれていなかったとしても(それすらきわめて怪しいが)、アメリカの核の傘に守られて平和と繁栄を享受していた点を忘れてはならない。ところが今やトランプは、基本的に自分の国は自分で守れとのたまっているのだから、これまでの、基地は差し出すが人は出さぬというぬくぬくとした状況をいつまでも続けられるのかはわからない(安倍氏が平和安全法制を整備した際に多少は変わったが)。しかもそれは、トランプどころか「アメリカはもう世界の警察をやらないよ〜〜ん!」と宣言したオバマ政権のときから始まっている(バイデン政権のときはその傾向が弱まっていたが)。
それから憲法についてひとこと述べておく。私めは当然ながら改憲派だが、一部の改憲派が主張している押し付け憲法論には与しない。というのも、確かに≪戦後憲法は敵国日本を無害化するために(…)アメリカの強い意図の下で形成された制度であった≫としても、また成立の経緯を実際に調べてみると押し付けられた形跡はあるとしても、それを根拠にすると「いや、押し付けられたにせよ内容がよければそれでいいじゃん!」と反論できてしまうからですね。それよりも現行の日本国憲法は、二一世紀の世界の状況とはまったく異なる第二次世界大戦後の特殊な状況のもとで制定されたので、今やあちこちにガタが来ているのだから改正は必死であるという点を改憲の論拠にすべきだと考えている(それは九条に限った話ではない)。むしろ元祖憲法のアメリカでさえ、(追加条項という形態ではあれ)状況の変化につれ改憲を行なっているのであり、出羽の守がよく持ち出すドイツでさえ、すでに六〇回以上何らかの改正を行なっているらしい。ちなみに慣習法の形態を取るイギリスなど、最初から単一の憲法は存在していない。戦後八〇年間憲法を一字一句変えていない日本のほうがきわめて異常だと言える。著者も述べるように、≪今問われているのは、戦後の日本にとって前提となっていたアメリカの帝国としての役割を、アメリカ自身が放棄した後に、どのように生きてゆくべきなのかという問い(163頁)≫なのですね。
先に進むと、そのような日本が進むべき方向の示唆の一つとして次のような提言がなされており、これには百パーセント同意する。≪あまり意識されることはないが、例えばラテンアメリカ諸国は、太平洋を挟んだ日本の隣国だ。アメリカと中国にばかり目が行きがちな日本だが、太平洋やインド洋を介して、驚くほど多数の国々と連携を強化できる機会が見出せるはずだ。¶このような日本にとっては、開放的な海洋秩序が文字通り命綱だ。日米豪印で形成されたQUADは、インド・太平洋の海洋の安全の確保に有益な枠組みだ。インドはBRICSのメンバーで、ウクライナ侵攻以降もロシアとの関係を維持していることからわかるように同盟国ではないが、インド洋の安全という限定された目標のためには協力を拡大する余地はあるだろう。それ以外にもオーストラリア、カナダなどの環太平洋の自由民主主義諸国、さらには英国やフランスといったNATO諸国とも、現在進行中の安全保障協力は深化させる余地があるだろう(165〜6頁)≫。要するに、日本は世界第六位の海洋面積を誇る海洋国家なのであり、中国やロシアなどの大陸専制国家と対峙するには海洋戦略を重視する必要があるということ。まさに故安倍氏が提案した、開かれたインド・太平洋構想に今日の世界を見据えたような先見の明があったのは、逆説的にもこの海洋国家としての伝統を忠実に継承したからだと言えよう。それに対してロシアに対する安倍氏の政策が失敗した原因の一つは、大陸国家としてのロシアの姿勢を見誤ったからだと言えるかもしれない。いずれにしても個人的には、欧米にも大陸専制国家にもない特徴を持つ日本こそが(それについては最近取り上げた本では『日本群島文明史』や前述した『誤読と暴走の日本思想』を参照されたい)、今後の(〈グローバル化〉ではなく)〈国際化〉に貢献していくべきだし、それが可能な数少ない国の一つだとも考えている。
それから「グローバル・サウス」との関係について非常に重要なことが述べられている。次のようにある。≪人類全体の視野から見れば、世界の長期的な将来は「グローバル・サウス」に住む人々がカギを握っている。(…)一般的に言って開発途上国の大多数では、米ソ冷戦の結果、自由民主主義と市場経済が最終的に勝利したという世界観に共感はないだろう。自由主義陣営もそれらの国々に魅力ある開発戦略を提供できたとは言えないし、ソ連による近代化の経験を、好意的にとらえている地域もある。20世紀末のグローバル化の時代にアメリカが推進した新自由主義は、途上国の実情に合わないものとしておおむね不人気であり、民主主義や人権や環境やジェンダー問題を援助の条件にする欧米の姿勢に比べれば、むしろ中国の国家資本主義モデルとそれによる経済的関与の方が魅力的に見えてもおかしくはない(167頁)≫。≪おかしくはない≫どころか、途上国が中国やロシアの援助を喜んで受け入れていることは、すでにあげた『グローバル格差を生きる人びと』に詳しく述べられている。
それに続けて次のようにある。≪幸い日本は東南アジアを中心に多くのグローバル・サウスの国々にODA(政府開発援助)を通じて長きにわたって関与してきた。30年もの経済的停滞によって、もはや日本のODAはその規模では中国に太刀打ちできないし、様々な官僚的制度をクリアする必要があるため、その機動性も指導者が即断即決できる中国には{敵/かな}わない。しかし、露骨な政治的手段としての戦略援助から距離をとって、現地の民生の改善を通じて関係の強化を続けてきた姿勢は、地道だがそれなりの成果を蓄積してきたことも確認すべきだ。わずかな大使館関係者を除けば、在留邦人の大半が援助関係者という途上国も珍しくない。しかも数年のシフトで任地が変わる大半の外交官とは違って、現地社会と草の根レベルで関与している援助関係の要因は、日本外交にとって貴重な資産であることは再認識されるべきだ。また、上から目線での規制緩和、民営化はもちろん、人権や民主主義、環境、ジェンダーといった「リベラル」な価値を一方的に押し付けがちな欧米の援助とも一味違う、現地社会に寄り添う姿勢は、日本の援助の持つ強みともなっている(167〜8頁)≫。なんか援助と称して支援金をバラまいているどこぞの国の政権があるらしいが、そもそもひも付きか否かは別として中国のような国でさえおじぇじぇをバラまいている。しかし前述したように、中国はハンバントタ港の件のような「債務の罠」を平然と仕掛けてくる。またトランプ政権になったアメリカは、ご存じのようにUSAIDを解体して、ここに書かれているようなイデオロギーの押し付けを抑制するようになった。しかしそれは途上国のことを考えてというより、自国の無駄な支出を削減するためだと言える(もちろん無駄な支出の削減も重要ではあるが)。だから重要なのはバラまきや、ましてやイデオロギーの拡散ではなく、日本がやってきたような≪現地の民生の改善を通じて関係の強化≫を図ることなのですね。だからこそ「欧米にも大陸専制国家にもない特徴を持つ日本こそが、今後の〈国際化〉に貢献していくべきだし、それが可能な数少ない国の一つだ」と述べた理由の一つでもある。一部の左派の言説とは異なり、日本人は実際には「共生」を非常に重視してきた国民でもある(人間ではないが奈良公園のシカりんちゃんたちは、その象徴的な存在だと言えるのかも)。著者もそれに関連して次のように述べている。≪また、日本の社会としてのまとまりが比較的高く、それによって政治的合意の不在を補い、人々が意見の相違に折り合いをつけることができたことも指摘されるべきだろう。そういった日本社会のまとまりを生んできたのは、「市民としての責任感」とか「愛国心」といった肩に力の入ったものではなく、これまで、またこれからもここに一緒に住んでいく以上、共存していくしかないという意識が共有されてきたことに由来していた(175〜6頁)≫。引用文中にある≪ここに≫はおそらく「日本」を意味していると思われるが、まさにこの意識を「世界」にまで拡大すれば日本は今後の〈国際化〉に大きく貢献できるだろうと思う。このように、今後は、石なんちゃら政権のように欧米諸国のイデオロギーに右に倣えをして「グローバル・サウス」を始めとする他の国々との関係を構築・維持していくのではなく、またもちろん中国やロシアのような阿漕なやり方をするのでもなく、日本独自の、そして日本がこれまで育んできたやり方を踏襲しつつ、改善すべき点は改善しながらそうすべきなのですね。そうすれば日本は、欧米や中国やロシアにはとても無理な信用を勝ち取れるのではないかと、そしてこれが、日本が取るべき今後の〈国際化〉のあり方の一つになっていくべきだと考えている。それから最後にどうでもいいことだけど、おもわず笑ってもた指摘を見かけたのでついでに引用しておく。次のようにある。≪ケネディ米大統領が、1961年の就任演説で「あなたの国があなたの国のために何ができるのかを問わないでほしい。あなたがあなたの国のために何ができるかを問うてほしい」と高らかに訴えたことは、もし日本の首相が国会の就任演説で言おうものなら、反発でなければ失笑を招くかもしれない(174頁)≫。就任演説ではなかったと思うが、石なんちゃら首相は実際にこれを言ってネットで失笑を買っていたよね? 本人がそう述べているところを確認したわけではないので作り話かもだけど、そのときそのときで自分に都合にいいことを恥も外聞もなく言いまくる石なんちゃらがいかにも言い出しそうなことであるのは確か。著者はその理由を≪それは戦前の軍国主義の下で、忠君愛国の美名のもとに国民が総動員され、多数の犠牲を出した挙句に徹底的な敗北を喫した苦い経験のためである(174頁)≫と述べているけど、石なんちゃらの場合はそんな高度なことではなく、単にケネディの名言まで持ち出して自分に都合のよい解釈をする、そのどうしようもない態度を思い切り笑っていたのですね。そんなことをすれば、ケネディとの比較で自分がいかに無能でチンケな政治家であるかがわかってしまうというのにね。ということで、非常に重要な指摘もある反面、〈グローバル化〉と〈国際化〉が区別されておらず、そのため〈国際化〉が〈グローバル化〉の一形態であるかのごとく思えてしまい、議論にまとまりがなくなってしまっているという印象も受ける。だから個人的には、それを明確に区別するような形態で、本書を紹介したというわけ。
※2025年9月26日