◎小林登志子『古代オリエント全史』(中公新書)
タイトル通り、古代オリエントの歴史に関する事実が淡々と記述されている。その意味では、コメントすることはあまりないんだけど、ただし本書を読むにあたって一つだけ着目した点がある。なので、ここではもっぱらその点について検討する。その点とは「帝国主義」について。
先日、『人口の経済学』という本を取り上げたとき、帝国主義(とナショナリズム)について言及したけど、『古代オリエント全史』を読めば、「では古代の帝国主義はどうだったのか?」がわかるかと思ったわけ。『人口の経済学』に関するツイでは、「愛国主義すなわちナショナリズムが帝国主義の淵源だ」という、イギリスの経済学者で帝国主義の批判者でもあったホブスンの主張は誤りだと指摘した(もちろん彼の帝国主義批判を批判したわけではない)。
アッシリアは、国民国家が成立するより何千年も前に存在した帝国だけど、そもそも諸国(都市国家?)が征服したりされたりを繰り返していて、明確な国境などまったく存在していなかった当時にあっては、どう定義しようが「ナショナリズム」が存在していたとは到底思えない。この見方が正しければ、「ナショナリズムが帝国主義の淵源」であるはずはないことになる。その点について、この新書本を参考にして考えてみることにする。
まずアッシリア帝国に関する記述を二か所ほど抜粋してみましょう。「前八世紀後半には、アッシリアはほぼ連年軍事遠征を断行し、大規模な強制移住政策が本格化した。北方では勢力を拡大していたウラルトゥを封じ込め、南方ではバビロニアの王権を掌握し、東方はザグロス山脈、西方はアナトリア南部、地中海沿岸そしてエジプト国境にいたる、さまざまな言語、文化をもつ民族を支配する大帝国がつくりあげられた。¶前八世紀後半にアッシリアの強制移住政策は本格化した。移住の対象になったのは古代オリエント世界各地の人々で、記録があるだけで一五七件、関与した人数は一二一万九二人にもなる。アッシリアは征服地の住民に対してその居住地から別の土地へ強制的に移住させる政策を頻繁に実施し、新バビロニアも継承した。これが後述する「バビロニア捕囚」(「バビロン捕囚」)である。捕囚民の多くはアッシリア本土の主要都市に連行され、働かされた。また、防備のため周辺地域へ移され、兵力増強にも役立てられている(65頁)」「アッシリアは征服地の住民をほかの地域に強制移住させ、逆にその土地へはほかの地域の住民を強制移住させた。この政策は、生来の土地と住民との結びつきを断ち切り、アッシリア帝国の市民としての意識を高めることが目的といわれる(111頁)」。
これこそまさに、その後の世界の歴史を通して繰り返し出現した、覇権主義的、拡張主義的な帝国のやり口なのですね。とりわけ、アッシリア帝国は民衆と固有の土地の結びつきを断ち切って帝国市民を作ろうとしたという指摘はきわめて重要だと思う。なぜなら、このことは帝国主義が民衆と土地(国土)との結びつきを重視するナショナリズムとは元来正反対であることを意味するから。あとで述べるように、帝国主義者がナショナリズムを利用する場合には、このナショナリズムの肝を逆手にとらえて「だから民衆と固有の土地の結びつきを断ち切れば異民族の統治が容易になる」という結論を引き出し、アッシリア帝国が行なったのと同じような移民政策が取られることになる。
固有の土地とともに帝国主義者が民衆から切り離そうとするものがもう一つある。そう、察しのとおりそれは言語だよね。そのことは現代の中国を見ればはっきりとわかる。ナショナリズムには本来その手の覇権主義的な要素は含まれていない。ただし覇権主義者に巧妙に利用される可能性があることは確かで、ナチスドイツのゲルマン民族の理想化や、プーチンの「大ロシア主義」はまさに覇権主義者によるナショナリズムや民族主義の巧妙な利用だと言える。
そのレトリックにみごとに引っかかると、たとえば帝国主義者のプーチンがナショナリズム的な「大ロシア主義」を掲げていることをもって、「帝国主義=ナショナリズム」のような誤った言説を吹聴する次第になる。つまりホブスンや現代の左派メディアのように「ナショナリズムが帝国主義の淵源」であると吹聴するのは、知らず知らずのうちに帝国主義者の片棒をかつがされているか、あるいはせいぜい印象操作でしかないってこと。
では「ナショナリズム」ではなく「民族主義が帝国主義の淵源」と言い換えれば正しいのか? これについても「民族主義」が何を意味するのかを明確に定義しなければ答えられないわけだけど、個人的にはそうではないと思う。そもそも共産党イデオロギーに支配されたかつてのソ連や現代の中国も、覇権主義の実践に余念がなかった(あるいは余念がない)わけだし。個人的には覇権主義、拡張主義、帝国主義は、「ナショナリズム」や「民族主義」のような庶民の運動に依拠するのではなく、独裁者やその取り巻き、あるいは少数のエリート集団によるものであり、その手の人々が、自分の悪行を正当化するために「ナショナリズム」や「民族主義」に訴えているのだと考えている(いくら独裁者でも民衆の支持を取りつけなければ、そのうち数の多さで倒される可能性がある)。
史実を列挙すると、この新書本で扱われているアッシリア帝国の場合にはサルゴン王とかアッシュル・バニパル王とか、同じく本書で扱われているペルシア帝国の場合にはキュロス、ダレイオス、クセルクセスらの王、マケドニア帝国の場合にはアレクサンダー大王、ローマ帝国の場合にはカエサルや代々の皇帝、モンゴル帝国の場合にはチンギス・ハンとその末裔、神聖ローマ帝国やオスマン帝国の場合には代々の皇帝、大英帝国を始めとする近代の欧米列強諸国の場合には国王(その典型はベルギーのレオポルド2世)や自称皇帝(その典型はナポレオン)や貴族や宰相(その典型はドイツ第二帝国の宰相ビスマルク)、さらには東インド会社などの今風に言えばグローバル企業や豪商などの富豪(や重商主義者)を中心としたエリート層、ドイツ第三帝国の場合にはヒトラーとその取り巻き、ソ連の場合にはスターリンを筆頭とする党の指導者、現代中国では習近平などといった具合に。
ところで現代のロシアが帝国と言えるか否かに関しては議論があるらしいけど、プーチン実権を握っている限りは帝国と言えると思う。たとえばプーチンは、アッシリアと同様、占領地域に住むウクライナ人の一部を強制移住させようとしているなどといったニュースがあったよね。それがどこまでほんとうなのかはよくわからんけど、かつてのソ連が実際に各共和国の住民を強制移住させていたことは確か。北方領土内で暮らす住民の4割がウクライナ人と言われているのは、かつてのソ連では、すべてが強制ではなかったとしても、ウクライナ人が東方に移住せざるを得ない状況に陥っていたからだよね(たとえばこれを参照)。ちなみにわが訳書、スザンヌ・オサリバン著『眠りつづける少女たち――脳神経科医は〈謎の病〉を調査する旅に出た』(紀伊國屋書店,2023年)には、カザフスタンのウラニウム鉱山で働くようソ連政府に命じられて移住して「眠り病」にかかった人々のエピソードが出て来る。
ところで、近代になって生み出された抵抗権の概念は、まさにその種の事態が発生しないようにするための予防策として発明されたと見ることができる。抵抗権はもともと左派的な概念なんだろうけど、個人的にはウェストファリア条約締結(1648年)後に国民国家が成立し、ナショナリズムや(間接)民主主義が誕生したことにもその成立の一因があり、主権国家としての国民国家(とナショナリズムや民主主義)を守るために専制政治を排除する権利、ズバリ言えば国体護持のための最終的な手段という意味において、保守主義との親和性もあると思っている。つまり左派にとっての抵抗権とは、フランス革命が示すように恣意的な専制君主を含めて現行の政治体制をまるごと倒す手段であるのに対し、保守派にとってのそれは、恣意的な専制君主から現行政治体制を守るための手段と見なされているのではないかってことね。
だからと言うとさすがに言い過ぎだろうけど、現代のアメリカで、左派の民主党支持者ではなく保守派の共和党支持者が、抵抗権の権化たる合衆国憲法修正第二条を盾に銃規制に反対しているという、一見するとねじれた状況に陥っている理由の一つはそこにあるのではないかと思っている。誤解を招かないよう述べておくと、私めは厳格な銃規制を実施すべきであるとする点では民主党支持者に同意する。しかし抵抗権の概念は、暴力革命主義的左派イデオロギーや、アメリカでの銃規制反対のように右派ポピュリズムに結びつくと、社会を破壊するまずい方向に暴走しかねない側面があるのは確か。
ただし前者の場合は暴力革命を国内のみならず国外にまで拡張して世界革命のようなものを起こそうとする拡張主義に陥る場合があるのに対し、後者はエリート層(や自称知識人)を中心とする前者と違って国内の民衆を中心とするというその本性上、アメリカの銃規制反対のように国内の治安紊乱や内乱や内戦に限定され、国外に波及することはほとんどないように思える。
この一事をとっても、民衆に基礎を置くナショナリズムや民族主義は国外に拡張しようとする帝国主義とは本質的に無縁であり、ナショナリズムと帝国主義が結びついているかのように見える場合でも、それは前述のとおり、現代で言えばプーチンや習近平のような覇権主義的な独裁者、もしくはエリート層がそれを利用して自分たちの悪行を正当化しようとしているからであると考えられる。
抵抗権の話に戻ると、アダム・スミスだったかロックだったかも、抵抗権の概念を擁護していたらしいけど、その理由は神が民衆の行動を見ているからというものであったらしい。要は宗教的、社会的な規範の存在を前提としていたということらしいけど、抵抗権や革命権の考えはその社会規範自体を破壊する行動を生みかねない。だから保守の親玉のエドマンド・バークはフランス革命を嫌っていたんだろうね。
いずれにしてもアメリカの場合には、禁酒法のときのように修正第2条を無効化する条項を追加しない限り、銃規制は無理でしょうね。その点がよくわかる映画としてお薦めなのがジェシカ・チャスティン主演の『女神の見えざる手』で、ハリウッド映画なので誇張はあるにしても非常に有益かつおもろい映画なのでぜひ観て下さい。
新書の話に戻ると、あとはエジプトやペルシアの帝国が取り上げられている。エジプト人は肥沃なナイル川流域で、かなり自足した暮らしをしていたこともあって、帝国主義政策に転換したのは新王国時代になってかららしい。
ペルシア帝国の場合は王が覇権主義を主導したわけだけど、この本によればキュロス2世は寛大な政策を取ったのに対して、「黒海北岸のスキタイおよびインドに行軍し、西方はエーゲ海東部およびエジプトから、東方はインダス河流域にいたる広大なオリエント世界の支配に成功(227頁)」したダレイオス1世はサトラップ制と呼ばれる徴税制度を帝国全土に適用するなど厳格な統治を行なったといった具合に、王ごとに対応はかなり違ったらしい。王個人の恣意的な態度によって統治の内実があっという間に変わってくることを示すこのペルシア帝国の例からも、帝国主義は国民や民族とはほとんど何の関係もないことがわかる。
長くなってきたので、そろそろ結論すると、本書が扱う古代を見ても、あるいは中世を見ても、近現代を見ても、現代の帝国主義者が己の悪行を正当化するためにナショナリズムや民族主義を都合よく利用して自己の言説に取り込むことはあったとしても、ナショナリズムは帝国主義の淵源でもなければ、ましてや帝国主義がナショナリズムの淵源でもないことは明らかであることがわかる。
※2023年4月28日