◎篠田英朗著『憲法学の病』(新潮新書)

 

 

六年ほど前に刊行された著書ですでに一度読んでいる。再度読んだ理由は、前回『シン・アナキズム』を取り上げたときに、社会を織り上げる縦糸と横糸という私めの見方を開陳したけど、そう言えば国際法に関連づけて日本国憲法を解釈するという篠田氏の見方が、まさにこの縦糸と横糸の結節点として日本国憲法を見ることに等しいように思えてきたこともあって、それを確かめたかったからなのよね。この新書本を読むと、そもそも憲法学者を名乗る人物にロクなヤツがいないことがわかる。つまり憲法を研究しているというより、イデオロギーに凝り固まって、ちゃっこいちゃっこいフィルターバブルを形成して、そこから大上段に一般ピープルをばかにし(何しろ東大法学部出身の憲法学者は自分たちが無謬だと思い込んでいる)、おかしな世論を喚起している憲法学者があとを絶たないらしい。著者の篠田氏は憲法学者ではなく国際政治学者であり、しかも早稲田大学出身の東京外国語大学教授のようだし、その点で外部の立場から、この憲法学のすさんだ現状を見ることができる立場にあると考えられる。なお「ヘタレ翻訳者の読書記録」では、彼の著書としてすでに地政学を扱った『戦争の地政学』を取り上げたことがある。

 

ということでさっそく参りましょう。「はじめに」の冒頭で著者の意気込みが次のように語られている。≪日本国憲法は、ガラパゴス主義に支配されてきた。解放する試みが必要だ。¶ガラパゴス主義の憲法解釈は、国際社会を警戒する。そして自らの優位を誇り、国際法を軽視する。¶しかし本当の憲法は、日本が正当な国際社会の一員となる条件を示している。そして国際社会で名誉ある地位を占める国際主義を望んでいる。¶私は国際政治学者である。憲法学を専門としていない。しかし長年にわたって日本国憲法について考えてきた。国際社会の歴史や国際法の仕組みと、憲法学における通説との間の、大きな断絶について考えてきた。¶そして一つの結論に達した。¶国際社会に背を向けているのは、憲法ではない。ガラパゴスなのは、憲法解釈を独占しようとしている日本国内の一部の社会的勢力である(3〜4頁)≫。ガラパゴスとはもちろん、外界の影響から断絶されたちゃっこいちゃっこい領域に胡坐をかいて、奇怪な特徴(ここではものの考え)を発達させる進化的な袋小路を意味する。まあ一種のフィルターバブル、エコーチェンバーと言い換えても差し支えないと思う。そんな場所に安住していると、ものの考えが煮詰まって自家中毒を引き起こし始めるのですね。ちなみに篠田氏の論調では、この「外界の影響」は国際法に該当すると見てもよいと思う。それに続けて篠田氏は次のように述べている。≪日本国憲法は、長年にわたって、日本国内の一部の社会的勢力の権威主義によって毒されてきた。¶国際社会を見ず、国際法を無視し、日本国内でしか通用しない「憲法学通説」の独善的な解釈によって、毒されてきた。¶しかし、本当の日本国憲法は、ガラパゴスなものではない。本当の憲法は、国際主義的なものである。本当の憲法は、日本が正当な国際社会の一員となり、国際社会の規範にしたがって活躍することを望んでいる。¶本書は、そのことについて書いた本である(4頁)≫。≪国際社会を見ず、国際法を無視し≫というくだりは、国際連盟を脱退した戦前の日本を思い起こさせる。つまり現代日本の憲法学者は戦前日本の政治を批判しておきながら、自分たち自身も戦前の日本と同じ罠にはまっていると見ることができる。

 

ということで本文に参りましょう。最初に扱われているのが憲法9条1項。ググればすぐわかることだけど、まずここで9条1項を書き写しておく。≪日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する(20頁)≫。9条1項を扱った章の冒頭の枠で囲まれた部分に次のようにある。≪9条1項「戦争放棄」条項は、国際法で違法化されている「戦争(war)」行為を行わないことを、日本国民が宣言した、現代国際法遵守のための条項である。国際法秩序を維持するための自衛権は放棄されていない(19頁)≫。国際政治学者の篠田氏は、あくまでも国際法上の観点から日本国憲法を捉えていることに注目されたい。続いて次のようにある。≪憲法9条は、平和主義の条項である。そのことに疑いの余地はない。¶しかし長い間、憲法9条は、国際社会に背を向けて、独自の価値規範を一方的に掲げたものだと解釈されてきた。¶憲法9条が打ち立てようとしているのは、国際社会が標準としている平和主義のことではなく、何か全く別のものだという解釈が、憲法学通説となってきた。¶そのため、憲法を守るためには、国際社会から距離を置き、国際法に対する憲法の優位を宣言しなければならない、とされてきた。¶憲法9条があるがゆえに、日本は世界で最も卓越した国になっており、それ以外の解釈はすべて日本を戦前の軍国主義に引き戻すことに等しい、と主張されてきた。¶だが、そのような憲法9条解釈は、ガラパゴス主義に依拠したものでしかない。なぜなら憲法9条は、日本を国際社会の正当な一員とするために制定されたものだからだ。憲法9条は、国際法を遵守し、国際法に従って活躍する日本を作り上げるためのものである(19〜20頁)≫。≪憲法9条があるがゆえに、日本は世界で最も卓越した国になっており≫などという妄想を抱いていた人が、かつては9条でノーベル平和賞がもらえると思っていたのでしょうね。さすがにテロ、対テロ戦争、中世に戻ったかのようなイスラム国の台頭、19世紀に戻ったかのようなウクライナ戦争と立て続けにとんでもない事態が発生するようになった21世紀の今でこそ、その手の主張をする人はあまり見かけなくなったとはいえ。何しろ世界のいかなる紛争も日本国憲法第9条で解決されたことがないのに、どうしてノーベル平和賞がもらえると信じている人がいたのか私めにはまったく理解できん。

 

さてそれはそれとして、前述したように前回『シン・アナキズム』を取り上げたときに社会を織り上げる縦糸と横糸という話をした[ページ内検索キーワード:縦糸or横糸](この話は私めの見解であって『シン・アナキズム』の著者である重田氏の見解ではない)。そして縦糸とは、「部族社会から始まって地方自治体や国家に至る、階層的に作用する垂直的な制度を意味」し、横糸とは「もっとも大きな単位では、国連などの、国家間を連携する水平的な国際的組織」を指すと述べた。この話を篠田氏の日本国憲法の話に当てはめると、日本国憲法は日本国政府をトップとし地方自治体を経て個々の国民へと至る垂直的な政治制度によって実装される縦糸と、国際法によって体現される横糸の結節点をなすと捉えることができると思う。こう考えてみれば、篠田氏の日本国憲法解釈が非常に理にかなった、きわめて適切なものであることがわかる。そしてさらに、横糸をなす国際法を無視して、縦糸をなす日本の独自性や優秀さのみをあげつらえば、それはまさに戦前の軍国日本と大して変わらないことがはっきりする。憲法学者には左派が多いと思われるが、その左派が蛇蝎のように嫌っている戦前の軍国日本と、現代の憲法学者の考え方が大して変わらないというのは笑えないジョークとしか思えない。『シン・アナキズム』を取り上げたときには、アナキストを自認する著者の重田氏と、重田氏が現代のアナキストとして論じているデイヴィッド・グレーバー(『ブルシット・ジョブ』を書いた人)が、横糸ばかりを強調して縦糸を無視もしくは軽視しているのではないかと批判したが、ここではそれとは逆に日本の憲法学者は縦糸ばかりを強調して、横糸を無視しているのではないかという印象を強く受ける。個人的には、社会を捉えるにあたってどちらの見方にも大きな問題があると思う。日本という社会が、すべてを均質化するグローバリゼーションの波を怒涛のごとく浴びて解体しないためには縦糸が必要だし、戦前の日本のようにガラパゴス化して軍国主義をまっしぐらに突き進まないためには横糸が必要なのだから。

 

ということで9条1項の話に戻りましょう。篠田氏は続けて次のように述べる。≪憲法9条1項は、1928年[パリ]不戦条約のみならず、1945年国連憲章が成立した後に、これらの国際法規を前提にして、1946年に作られたものだ。その文言は、両者の「コピペ」とさえ言えるものであり、両者の国際法規範を遵守する意図を表現していると考えるのが、妥当だ。(…)日本は、1928年不戦条約に加入していながら満州事変を起こし、不戦条約の体制を揺るがせた国として世界史に記録されている。憲法起草者は、そこで不戦条約の文言を、国内法の最高法規である憲法典に挿入することによって、さらにいっそう不戦条約の内容を日本が守る仕組みを作ろうとしたのだろう(22頁)≫。要するに9条1項は、あくまでも国際法という文脈に照らして規定されたと考えるべきであることになる。さらに次のようにある。憲法9条1項は、「国権の発動としての戦争」だけでなく、「国際紛争を解決する手段として」の「武力による威嚇又は武力の行使」も放棄した。「武力による威嚇又は武力の行使」という文言は、1945年国連憲章2条4項を模倣したものだと言える。日本は1928年不戦条約に加入していたが、1946年の時点では1945年国際連合憲章には未加入であった。そこで国連憲章によって強化された新しい国際秩序をも遵守するという意図をもって、9条1項は、「国権の発動としての戦争」だけでなく、「国際紛争を解決する手段として」の「武力による威嚇又は武力の行使」も放棄した、と理解するのが、妥当だ。したがってこれらの国際法規において、自衛権が放棄されていないことについては、疑いの余地がない。1928年不戦条約が放棄した「戦争」は、19世紀ヨーロッパ国際法における「戦争」のことであり、そこに自衛権や国際連盟が発動できる集団安全保障の制裁措置は含まれていないことは、確立された理解である。それが、憲法9条1項が模倣している、「国際紛争解決のため」の「国家の政策の手段としての戦争」という文言が意味することである(23〜4頁)≫。翻訳者としてあえて指摘させていただくと、二段落目(¶が段落替えを意味する)の冒頭の≪したがって≫は余分でしょうね。というのも、一段落目の記述は二段落目の内容の根拠になっていないから。≪したがって≫をカットするか、あるいは≪したがってこれらの国際法規において≫をしたがって9条1項において≫に置き換えるべきでしょう。新潮社の編集者さんサボりましたね? まあそれはいいとして、要するに篠田氏が言いたいのは、「9条1項は、もともと自衛権が否定されているわけではない国際法を参照して起草されたのだから、そこでも自衛権は否定されていない」ということになる。

 

国際法における自衛権についてはさらに次のように述べられている。≪国連憲章51条は、「この憲章のいかなる規定も、国際連合加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間、個別的又は集団的自衛の固有の権利を害するものではない」と定め、1928年不戦条約と同じように、自衛権と集団安全保障を2条4項が否定していないことを、明文で確認している。それが憲章2条4項の「国際連合の目的と両立しない他のいかなる方法による」「武力による威嚇又は武力の行使」という文言が意味していることだ(24頁)≫。まあ日本には、普段は国連を崇拝しているにもかかわらず、この国連が定めている集団安全保障、ならびにそれが発動し機能するまでの暫定措置である集団的自衛権を含めた自衛権の行使に反対するおかしな連中がいる。その手の連中は、結局国際法と日本国憲法のつながりをまったく無視しているガラパゴス憲法学者の見解を、直接的、もしくは左派メディアを介して間接的に取り込んで脳が洗脳されているのでしょう。何しろ「偉い東大法学部の憲法学者さまの言うことに、間違いがあるはずはない」と思い込まされているのだから。しかし前述したとおり、彼ら憲法学者は、イデオロギーは右でなく左だとしても、本質的には国際法、私めの言い方では横糸を無視し、国内事情にしか目が向いていなかった戦前の軍国主義者たちとほとんど変わりはない。そのような日本の憲法学者のガラパゴスぶりを篠田氏は次のように容赦なく批判する。≪事実とは異なるガラパゴス議論がいかに根深いかは、言葉では言い尽くせない。それによって、いつのまにか日本国民の間に、根本的に間違った考え方が刷り込まれてしまった。つまり、国際法は戦争を認めており、[日本国]憲法だけが戦争を放棄している、などといったガラパゴス的な誤謬が刷り込まれてしまった。実際は全く逆で、国際法が戦争放棄の先祖であり、日本国憲法はその国際法を守ることを確約したにすぎないにもかかわらず。¶そもそも現実が、憲法学者の議論とは真逆の内容を示している。日本の安全を現実に維持しているのは、日米安全保障条約を中心とする国際法規範にのっとった国際的な安全保障体制だ(28頁)≫。この事実をまったく理解していない人々が「日本国憲法第9条にノーベル平和賞を」などといった寝ぼけたことを言っているのでしょう。

 

ただその次にある≪世界中を見渡しても、主権国家が宣戦布告をして始める国家間紛争などは、実際には現代世界でほとんど発生していない。現代世界で頻発している武力紛争のほとんどは国内紛争である(29頁)≫というくだりは、ウクライナ戦争が起こった今となっては色褪せて見える。まあ6年前の本だから仕方がないと言えば仕方がないし、まさにそれだからこそウクライナ戦争は世界の人々を驚かせた(ている)と言えるわけでもあるし…。

 

それから篠田氏は、侵略戦争と防衛戦争をいっしょくたにする日本の憲法学者の傾向(というか左派には全般的にこの傾向が見られる)について次のように述べている。≪侵略者によって攻撃された際に自衛行動をとることも「戦争」だ、という乱暴な決めつけが、憲法学通説の世界ではまかり通ってきた。憲法学では、自衛のための措置も、「自衛戦争」などと言い換えさせられる。「自衛戦争」も「戦争」だから違憲だ、と断定したいからである。結論先取りの概念操作である。¶しかし「自衛戦争」は、戦前の日本の議論を引きずっている憲法学の造語であり、国際法の用語ではない(30頁)≫。国際法には「自衛権の行使」という概念しかないのであって、「自衛戦争」などという考えは存在しない。それどころか篠田氏によれば、≪「自衛戦争」は、憲法学者が作り出した造語であり、日本国憲法典の言葉ではない(31頁)≫。では国際法における自衛権の考え方はいかなるものかと問われれば、次のようなものになる。少し長めに引用しましょう。≪本来、侵略者に対する自衛措置は、「自衛権の行使」である。それは、違法化されている「戦争」とは区別される行動だ。そもそも武力行使一般を、いちいち「戦争」と言い換えたうえで、「だから全て違憲です」と結論づけようとするのは、極めて暴力的なことなのである。¶放棄しているのが19世紀ヨーロッパ国際主義の意味での「戦争」であることを示すために、日本国憲法の起草者はあえて親切にも、「国権の発動としての戦争(war as a sovereign right of the nation)」という説明的な文を入れて、意味を明確にしようとした。絶対主義的な19世紀ヨーロッパの国家主権の概念にのっとって、宣戦布告をすれば主権国家は自由に戦争を開始できる、という考え方を、日本国憲法を否定した。そして、憲法9条は、不戦条約の内容を再確認する条項である、ということを強調しようとした。憲法9条は、19世紀ヨーロッパ国際法を否定し、現代国際法を遵守することであることを、疑いのないものにする宣言をした。¶「国権の発動としての戦争」に、自衛権の行使は含まれない。「自衛権の行使」とは、違法行為を除去するための合法的な公権力の行使であり、違法化された「国権の発動としての戦争」でも「国際紛争を解決する手段としての武力による威嚇又は武力の行使」でもない(32〜3頁)≫。これが国際法の「自衛権の行使」の概念であり、日本国憲法はそれを受け継いでいるのですね。ところがフィルターバブルに閉じこもった憲法学者は、国際法をまったく無視するから話がおかしくなってくる。

 

そこで篠田氏がやり玉にあげるのが東大出身の憲法学者、芦部信喜の『憲法』。ところでこの『憲法』という本は100万部を売り上げたらしい。ぬぬぬ、よくて1、2万部程度しか売れないポピュラーサイエンス本の訳者である私めは、羨望のあまり発狂しそう。きっと単価が張る本なのだろうから、印税率X%(通常印税率は、著者と訳者の両方に払わねばならない訳書より、基本的に著者が一人しかいない和書のほうが高いが、専門書の印税率の相場がどのくらいかはよくわからん)として100万部ということは、芦部氏はこれ一冊で億単位は稼いだのでは?とか思わず計算してもた。下世話な話はそこまでにして、篠田氏の芦部氏批判を引用しておきましょう。≪まず芦部は、「『国権の発動たる戦争』とは、単に戦争というのと同じ意味である」と、一切の議論を許さない態度で、決めつける。¶では芦部にとって「戦争」とは何か。芦部によれば、「『戦争』は、宣戦布告または最後通牒(…)によって戦意が表明され戦時国際法規の適用を受けるものを言う」。¶これは19世紀ヨーロッパ国際法の「戦争」の概念である。1945年の国際憲章以降の現代国際法では否定されているものだ。したがって芦部が、国際法が否定したように、日本国憲法も19世紀ヨーロッパ国際法の「戦争」だけを否定した、と言ってくれるのであれば、それでよかった。ところが芦部は、この19世紀ヨーロッパ国際法の「戦争」が、あたかも普遍的で超歴史的にあてはまるものであるかのように語るのである。芦部ら憲法学者は、19世紀ヨーロッパ国際法の「戦争」が、現代国際法においても存在していると断言することによって、憲法9条の内容を根本的に覆してしまう。¶さらに芦部によれば、「『武力の行使』とは、そういう宣戦布告なしで行われる事実上の戦争、すなわち実質的意味の戦争のことである」。そこで芦部は、「自衛戦争」なるものを否定することを含めて、「九条一項は、このように、国際法上の戦争も、事実上の戦争も放棄し、あわせて、戦争の誘因となる武力による威嚇をも禁止したのである」と述べる。¶恐るべきガラパゴス世界観である(33〜5頁)≫。まさに≪恐るべきガラパゴス世界観≫だけど、困ったことに日本では、そのような世界観が、権威者たる東大法学部出身の憲法学者と、その権威を盾に取る朝日・岩波フィルターバブルというちゃっこいちゃっこい領域で自家中毒を起こしている一部の左派自称知識人のあいだで当然のごとく語られている。国際法をまったく理解していない、あるいは誤解している連中が改憲、いやそれどころか改憲の議論さえ阻止しているのは、やばい国々に囲まれている日本にとって大きな悲劇だと言わざるを得ない。

 

それに対して、煮詰まった憲法学者などではない国際政治学者の篠田氏から見た日本国憲法とは次のようなものになる。≪日本国憲法の文言は、19世紀ヨーロッパ国際法の概念構成を振りかざして、現代国際法を否定しないことの約束である。逆に言えば、19世紀ヨーロッパ国際法で認められていて、現代国際法では否定されるに至った、「国際紛争を解決する手段としての武力行使」には該当しないもの、たとえば自衛権や集団安全保障の延長戦で行使される武力は、否定しない。日本国憲法の文言は、こうした現代国際法の規範枠組みを遵守することを示していると考えるのが、最も自然な解釈である(36頁)≫。≪集団安全保障の延長戦で行使される武力≫には「集団的自衛権の行使」が含まれることは言うまでもない。この概念もこれまでおかしな議論をさんざん生んできたわけだが、それについては少しあとの章で述べられているので、そこで取り上げる。芦部批判はこの後もまだまだ続くけど、話が細かくなるのでスキップする。ただコラムとして「芦田修正」の解説が書かれており、知らない人のために全文引用しておきましょう。≪芦田修正とは、1946年に国会で日本国憲法を審議した衆議院帝国憲法改正小委員会(委員長:芦田均)が、憲法9条1項の冒頭に「正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し」という文言を挿入したうえで、2項の冒頭に「前項の目的を達するため」という文言を加えた措置を指す。¶憲法学の世界では、「本来は戦力は全面的に禁止されてしかるべきなのに、『前項の目的を達するため』などという表現を付け加えることで、芦田は自衛戦争の権利の留保をはかった。しかし文言解釈上、この試みは破綻しており、失敗した」とされている。憲法学者の多くが、憲法9条1項に自衛権の留保があっても、「自衛戦争」は9条2項で否定される、という立場をとるため、「芦田修正」という言葉は一種の「負のレッテル」として一般化している。¶しかし、実際には、芦田均は、国連憲章が代表する国際秩序の中に日本国憲法を位置づけるため、前文との連動性を強調した追加的な文言を付け加えたにすぎない。芦田を、破綻した修正主義者とみなす見方は、反米・非武装中立・絶対平和主義の文脈に日本国憲法を位置づけ、それに反する解釈はすべて「破綻した芦田修正説」というレッテルを貼って抹殺しようとする見方に他ならない(41頁)≫。まあ左派はレッテル貼りが好きだからね。

 

ところでこの芦田修正に関して、高橋和之・元東大法学部教授は、≪9条2項が「前段と句点で区切られているため、『前項の目的を達するため』を後段にまで及ぼすことができず、自衛のための『交戦権』は否定されないと読むことが困難である」と主張(42頁)≫したらしい。この高橋和之氏の主張の意味がわかる人がいるのだろうか? 私めは翻訳者だけど、≪前段と句点で区切られている≫から、後段の先頭にある≪『前項の目的を達するため』を後段にまで及ぼすことが≫できないっていったいどういうことなのかさっぱりわからん。そんな文法解釈は聞いたことがない。さすがにあまりにもケッタイな言い草なので、篠田氏が熱くなりすぎて引用し間違えた可能性すらあるようにさえ思えるが、いすれにせよそれよりもっと驚きなのは、句点がどうしたこうしたなどといった点をあげつらうのは、まるで聖書を一字一句細かく解釈しようとする聖書原理主義者とほとんど変わらないという点。要するに、彼らは日本国憲法原理主義者なのですね。

 

ただし冷戦後は、自衛権は認めるという風潮が憲法学会でも生まれたらしい。次のようにある。≪冷戦が終わった後、国際情勢も変動し、日本国内における憲法学界に対する見方にも変化が生まれた。そして東京大学法学部で憲法学担当教授となっていた長谷部恭男が、自衛権を認める内容、つまり自衛隊は違憲ではないとする内容の著書を出し、学界を動揺させた(46頁)≫。ちょっと気になったのは、「憲法学界の見方」ではなく≪憲法学界に対する見方≫でよいのだろうか? いずれにせよ篠田氏によれば、≪憲法学者がようやく自衛権を認めるそのやり方は、実はまったく19世紀ドイツ国法学的なものであり、現代国際法的なものではない。つまりガラパゴス的なものである(46頁)らしい。次にドイツ国法学の説明があるけど、ここでは「国家の自己保存」という考えに基づいているとだけ述べておく。

 

では本来の国際法では自衛権はどのように考えられているのか? それについてはすでに述べられていたが、念のためかさらに次のようにある。国際法では、自衛権の行使は違法ではない。それは自衛権の行使が例外的な戦争行為だからではなく、全く別の理由によって正当化されるものだからだ。¶戦争が違法なのは、それが国際法秩序を揺るがすものだからだ。そうだとすれば、違法行為に対する対抗手段が正当化されなければならない。自衛権の行使は、違法行為に対する対抗手段である。違法行為が行われているところでのみ、自衛権は行使される。¶憲法学通説のように、自衛権の行使をいちいち「自衛戦争」と言い換え、要するにそれも一つの戦争さ、といった態度をとるのは、全く無責任である。¶そうではない。侵略行為としての戦争が違法なのであり、違法行為に対抗する手段、つまり自衛権の行使は、合法なのである。そうでなければ、法秩序は維持できない。侵略者が現れても対抗措置をとってはいけないとしたら、国際社会は崩壊する(54頁)。自衛権の行使は、≪違法行為に対する対抗手段≫であって「国権の発動としての違法な戦争」ではない。左派はよく「侵略戦争と防衛戦争はコインの裏表だ」などといった主旨のことを言いたがる(実際、この言葉はAbemaに出演していた、どこかの市の中革派のおねえぴゃん議員が使っていた)。これは明らかに侵略戦争と防衛戦争を一緒くたにして、後者に前者の意味合いを滑り込ませる左派特有の詭弁だと言える。何度も書いているように、防衛戦争を侵略戦争と同等の悪だと見なすのなら、防衛戦争を強いられている現在のウクライナも、第二次世界大戦中に軍国日本に侵略されて防衛戦争を行なった中国も、侵略したロシアや軍国日本と同様に悪であると言わなければならなくなる。左派はほんとうにそう考えているのだろうか? そう考えている人は、ここで篠田氏が述べている、防衛「戦争」、つまり自衛権の行使は国際法で認められている正当な権利だということをよく理解したほうがよい。要するに横糸を無視した議論は、戦争とは何なのかさえ正しく捉えることができない。なぜなら、端的に言えば戦争とは(内戦や対テロ戦を除けば)国と国のあいだで起こることだから、憲法を含めた国内法では律しきれないから。その国内法を無理やり適用してきたのが憲法学者であり、その見解が朝日・岩波フィルターバブルを通じて拡散され煮詰まったといったところが実態なのでしょうね。

 

次は9条2項。まず9条2項を書き写しておく。≪前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない(64頁)≫。篠田氏はこの9条2項に関して、冒頭の括弧内で次のように述べている。≪9条2項「戦力不保持」条項は、国際法で違法化されている「戦争(war)」を行うための潜在力である「戦力(war potential)」を保持しないことを日本国民が宣言した、現代国際法遵守のための条項である。自衛権行使の手段の不保持は宣言されていない(63頁)≫。もう少し詳しく見てみましょう。次のようにある。≪9条2項で不保持が宣言されているのは、あくまでも「戦力」としての「陸海空軍」である。「戦力(war potential)」ではない軍隊は、不保持が宣言されていない。¶1項に対応する部分で、「戦争」一般の放棄の内容が確定したのにともなって、2項に対応する部分で、「戦争」遂行の潜在能力(war potential)の不保持を定めるようになった。そして、「戦力(war potential)」の概念が登場するようになったのである。したがって9条1項が自衛権を否定せず、「国権の発動としての戦争(war)」を放棄したのに対応している以上、9条2項も「戦力(war potential)」の不保持を定めて、自衛権行使の手段の不保持を除外していると考えるのが、最も論理的である。(…)この非常に簡明な1項と2項の関係さえつかめば、9条2項解釈は単純である。¶9条1項は、国際法上の違法行為である「国権の発動としての戦争」を放棄する、という国際法遵守の宣言であった。9条2項は、その違法行為である「国権の発動としての戦争」を行うための「潜在能力(war potential)」を保持しない、という宣言である(66〜7頁)≫。9条2項に関してはこれで大筋はわかる。ところでこれを読むと、篠田氏は、少なくとも9条に関しては改憲の必要なしと考えているのかもしれない(もちろん改憲の焦点は9条だけにあるわけではないので全体としての改憲についてどう考えているかは本書だけではわからない)。ここに書かれているように解釈すればいいわけだから(ただし護憲派を批判している箇所がかなりあるので改憲派である可能性は高いと思う)。

 

9条2項に関する記述はさらに50頁ほど続くんだけど、あとは細かな話になるので、現代日本における憲法解釈に関するおかしな状況について述べられた部分だけを引用しておく。まず次のようにある。≪問題になるのは、イデオロギー色の強い立場を前提にした憲法解釈を、あたかも絶対的な真理であるかのように主張する社会運動があることだ。問題なのは、大学人事や、司法試験・公務員試験の運営の事情まで組み合わせて、偏った世界観に依拠した憲法解釈を日本社会に押し付けとうとする社会勢力があることだ(109頁)≫。あるいは憲法学の「憲法優位説」によって、9条2項は国際法を遵守するのではなく、国際法上の自衛権などを否定する条項だ、などと説明されることになってしまった。国際法を遵守する宣言が、国際法にしたがわないための論拠に言い換えられてしまった(110頁)≫。さらに章の最後に次のようにある。今日、憲法学通説を信奉する社会勢力は、ほとんど反米主義者である。護憲のエネルギーは、反米主義のエネルギーから借りてきており、「憲法を変えるとアメリカの属国になる」といった荒唐無稽な脅かしがまかり通っている。そうしたイデオロギー的心情を背景にして、ガラパゴス化現象としか描写できないような空間が、日本にだけ生まれた。異論を唱える者には、「軍国主義者」「戦前の復活」といった罵詈雑言が浴びせられる国になってしまった。¶しかし、実際の日本国憲法は、そのような社会的勢力が作ったものではない。むしろ、アメリカとの特別な関係を基盤としながら、国際法秩序との整合性も確立することによって、新しい戦後日本の国家体制の樹立を宣言したのが、日本国憲法だった。憲法学通説のレンズを通して憲法を見るときのみ、憲法の本当の姿は曇ってしまう(112〜3頁)≫。「軍国主義者」や「戦前の復活」というレッテルを貼るとすれば、その対象は国際法という横糸を無視している憲法学者や護憲派のほうがはるかにふさわしいということはすでに述べた。彼らはそのことにすら気づいていないのだからどうしようもない。

 

ちなみに「軍国主義」というのは、戦前の日本のように自ら積極的に軍国主義を取る場合のみならず、現在の中国のような軍拡を続ける国を見て見ぬふりをする場合も、軍国主義を暗黙的に認めているという意味で消極的な軍国主義だと言える。私め流の言い方をすれば、日本は憲法学者が主張しているような絶対平和主義国ではなく、世界でもっとも嫌われるフリーライダー主義国に成り下がってしまったとも言える。戦前の反省をすべしと言うのなら、今まさに戦前の日本のごとく軍拡を続け、周辺の国々にちょっかいを出し続けている中国のような国を目の前にして、見て見ぬふりをしてはならないはず。なのに見て見ぬふりをするようになったどころか、与野党を問わず親中・媚中議員が堂々と幅を利かせるような体たらくになってしまったのは、まさに日本がフリーライダー主義国に成り下がってしまったからなのですね。

 

次は憲法前文だけど、これに関しては個人的な関心を引いた箇所のみを取り上げる。まずは立憲主義と日本国憲法に関する次の記述を引用しておきませふ。≪英米思想に依拠するならば、国民が国家の最高権力者だということを強調するのではなく、人民と政府の間に結ばれている「信託」関係を強調し、政府が契約関係によって成立しているものであることを強調する。言うまでもなく、その「信託」の内容を記した契約書が、憲法典と呼ばれるものであり、それは国の根本的な構成(constitution)を定めた文書のことである。¶この人民と政府の間の関係を規定し、国の根本的な構成を定めた「信託」契約を根本規範と考えるのが、言葉の純粋な意味で「立憲主義(constitutionalism)」と呼ばれるものである。¶いたずらに「国民主権」主義を唱える態度は、「信託」契約の重視を強調していない点において、「立憲主義的(constitutional)」なものではない。国民主権論の名のもとに、ひたすら政府を制限しなければならないことだけを唱える日本の憲法学的な「立憲主義」は、日本国憲法が前文で謳っているような「立憲主義」とは異なる(137〜8頁)≫。憲法学者を頂点とする朝日・岩波フィルターバブルにどっぷりと浸かった左派のツイで、「憲法は政府を制限するものだ」という見解をよく見かけた。それを見た私めは、「そんないにしえの抵抗権みたいな話を、まだしているのか。アメリカでは、その抵抗権に基づいて規定されている合衆国憲法修正第2条のせいで銃規制が遅々として前に進まないのに。そもそも左派は銃規制に賛成しているのではなかったのか?」と思ったものだが、それはアカデミックなどではない私めの単なる個人の感想にすぎない。だが基本的に憲法学者ではないにしても憲法を研究し日本国憲法に関する本を何冊か書いているアカデミックの篠田氏によれば、その手の左派の見方は憲法で規定されている立憲主義とは異なるということらしい。

 

また篠田氏は前文の国際協調主義について次のように述べている。≪この憲法前文で表明されている国際協調主義は、日本国憲法の考え方を特徴づけている重要な「法則」だ。そのことには重要な含意がある。憲法学者が主張する絶対平和主義と、実際の憲法典が表明している国際協調主義のどちらがより重要なのか、という大きな問いが、そこにひそんでいる。¶日本の憲法学では、憲法9条を必要以上にロマン主義的に捉え、世界でも類例のない画期的な規定であると説明するのが普通である。そのため、もし憲法9条と国際社会の間に乖離が見られる場合には、国際社会に憲法9条を見習わせて協調を目指していくべきだ、といった主張をすることが珍しくない。(…)そのような経緯で、国際協調主義は絶対平和主義に屈服するべきだ、という考え方が、あたかも日本国憲法が発しているメッセージであるかのように誤解されることになった。憲法解釈にあたっては「中立外交」を強調する憲法学通説に従うべきだ、といった話を憲法論に仕立て上げようとする運動が勝利することになった。¶しかし実際の憲法典は、そのようなことは言っていない。憲法が表明しているのは、国際協調主義の法則にのっとって、戦争を回避していく、という姿勢である(155〜6頁)≫。絶対平和主義とは結局フリーライダー主義なのですね。戦前の反省の結果がフリーライダー主義であるのなら、こんなケッタイな話はない。そんな考えが出てくるのは、ここまで何度も述べてきたように国際協調主義という横糸を憲法学者が実質的に無視しているからなのですね。

 

篠田氏も主張するように、憲法の前文は、「日本は戦前のように縦糸だけに拘泥するのではなく、横糸もしっかりと織り上げていく」という宣言として見るべきでしょう。とりわけ権威主義的な東大法学部の憲法学者の見解や、同様に権威主義的な朝日・岩波フィルターバブルで流通している見解を信じ込んでいる人は、その点をしっかりと認識したほうがよい。篠田氏も最後に次のように提言している。≪通俗的な憲法解釈は、憲法9条は世界に先駆けて日本が導入した画期的な条項であり、世界は憲法9条を持つ日本を見習うべきだ、そうすれば世界は平和になる、という物語を広めようとする。しかし、実際の憲法典は、そのような独善的で他人任せの夢想を語っているものではない。¶ぎりぎりの状況の中で、日本がそれでも生き残っていくために、国際社会に向けて協調の姿勢をアピールするために作られたのが、憲法である。その精神は、簡明に憲法前文に謳われている。9条は、その具現化だ。¶それを知るには、憲法学通説ではなく、学校教科書ではなく、ただ日本国憲法の実際のテキストだけを読んでみることだけが、必要だ。そうして、自国中心主義的で歴史感覚の欠如したガラパゴス的なロマン主義を排したとき、素朴で素直な憲法の理解が可能となるのである(159〜60頁)≫。≪他人任せ≫とはまさにフリーライダー主義のことであり、結局憲法学者を頂点とする左派護憲派は、彼らがもっとも嫌っているはずの≪自国中心主義的で歴史感覚の欠如したガラパゴス的なロマン主義≫を語っているにすぎないのですね。

 

ということで、次はこれまた侃々諤々の議論が絶えない「集団的自衛権」について。いきなり次のようにある。≪2015年、平和安全法制が審議された際、集団的自衛権の合憲性が話題になった。憲法学者らは、取り憑かれたかのように集団的自衛権は違憲だと叫び、安倍首相は「クーデター」を起こしている、などと主張した。¶政治運動に奔走する憲法学者らの姿は、専門を異にする私の眼には、異様なものに見えた。なぜ彼らは、ここまで感情的になっているのか。私が日本の憲法問題について時間をとって調べなおし、著作を書き始めるようになったのは、安保法制成立の際の憲法学者の行動の異様さに強い印象を受けたからであった。¶首相は、誰に対してクーデターを起こしたのか。¶答えははっきりしている。首相は、憲法学者に対してクーデターを起こした、その罪で、憲法学者から断罪されたのであった。¶集団的自衛権は違憲だ、と叫ぶ憲法学者は、権威ある社会的集団としての既得権益を脅かされていた。それをクーデターという概念で描写するかしないかは、レトリックの問題にすぎない(161〜2頁)≫。私めも、当時の左派の狂騒曲を見て、呆れ果てたことを覚えている。一例をあげましょう。私めが卒業した同志社大学の当時の学長は、国際政治学者の村田晃嗣氏だった(関係ないけど、私めは講演会で彼に『社会はなぜ左と右にわかれるのか』を献本したことがある)。その村田氏が国会?で安保法制を擁護する演説を行なった。おそらく村田氏も篠田氏と同じ国際政治学者だから、国際法の観点から擁護したのだろうと思う。つまり村田氏はイデオロギー的な観点からではなく、まさに彼が専門とする国際政治学という学問的な観点から安保法制を擁護したことになる。それにもかかわらず、同志社大の左派教授たちは、言論を通じて反論するのではなく、署名を集めて彼を学長の座から引きずり下ろすという実力行使に訴えたのですね。この件はウォールストリートジャーナルが「日本の左派の異常性」みたいなタイトルで報じて(私めはネット記事で読んだ)、アメリカにまで知られる次第になった。そのとき署名した教授の名前の一覧がネットで出回っていたけど、残念ながら哲学専攻の教授も含まれていた。ただ幸いなことに、神学部ではイスラエル出身の教授の名前が一つあっただけだった。神学部の教授が、こんなイデオロギーまみれのトンデモ案件に署名をしたら世も末だからね。

 

と、個人的なぼやきはそのくらいにして新書本に戻りましょう。篠田氏は集団的自衛権について次のように述べている。≪自衛権の行使を違憲だとする説のガラパゴス的な性質は、すでに9条1項にからめて指摘した。さらにいっそう不思議な議論として扱いたいのは、個別的自衛権は合憲だが、集団的自衛権は違憲だ、という議論である。果たして憲法は、本当に、自衛権を個別的なものと集団的なものに分け、前者は合憲だが後者は違憲だ、などと言っているのだろうか。¶少なくとも憲法典を読む限り、そのようなことが書かれている形跡はない(166頁)≫。さらに、2頁ほどあとに次のようにある。≪国際法上の自衛権は、それ自体が公権力の行使であり、私人による緊急避難措置である正当防衛とは違う。自衛権は公権力の行使だ、ということに気づけば、国際法において個別的自衛権と集団的自衛権が同じ自衛権の概念でくくられて理解されていることの意味がわかってくる。¶自衛権とは、違法行為に対抗する措置として、国際秩序を維持するための公権力の行使なのである。その点では、一つの国家が単独で自衛権を行使する個別的自衛権も、複数の国家が集団で自衛権を行使する集団的自衛権も、その意義は同じである。さらに言えば、(侵略国家を除いて)国際社会を構成する諸国の全てが公権力を行使する集団安全保障の場合も、個別的自衛権や集団的自衛権の場合も、国際秩序の維持を図るための公権力の行使、という点では、同じ意義を持っている(168頁)≫。≪個別的自衛権は合憲だが、集団的自衛権は違憲だ≫という見解がいかにおかしいかは、普段は国家を諸悪の根源と見ているような人々が、結局は国家を単位としてしかものごとを見ることができなくなっている、つまり私めの言葉で言えば横糸をまったく無視している点にある。何度も言うように、この態度こそが国際連盟から脱退した戦前の軍国主義を生んだのですね。実力行使によって村田氏を学長の座から引きずり下ろしたような連中は、結局自分たちのほうが大嫌いな戦前への回帰を先導していることにまったく気づいていない。多くの大学教授のものの見方が、ここまで歪んでいることには、驚きを通り越して滑稽にさえ思えてくる。それと似たようなことは篠田氏も次のように述べている。≪憲法学者は、集団的自衛権は、「異物」だという。集団的自衛権の考え方を否定することは、戦前の大日本帝国を擁護して、連合国側の諸国の行動を否定することに等しい。反米・護憲派は、国連憲章を否定し、国連加盟国(連合国=United Nations)を否定し、ドイツ国法学の考え方を唯一の基準として、大日本帝国時代の議論を肯定するのである。恐ろしい話である(170頁)≫。

 

残りは「砂川判決」「芦田修正」、そして戦後の四人の憲法学者が提起する概念、すなわち宮沢俊義の「八月革命」、長谷部恭男の「立憲主義」、石川健治の「クーデター」、木村草太の「軍事権」を対象に各個撃破的な批判が書かれている。「砂川判決」は細かな話だし、「芦田修正」はすでに簡単に紹介したのでスキップする。また個々の憲法学者が提起している概念に対する批判も細かい話になるので、ここでは宮沢俊義の有名な「八月革命」だけを簡単に取り上げておく。それに関して、まず次のようにある。≪日本の憲法学のガラパゴス的な性格を決定づけたのは、宮沢俊義の「八月革命」説であろう。「八月革命」とは、日本がポツダム宣言を受諾した際に、「天皇が神意にもとづいて日本を統治する」天皇制の「神権主義」から「国民主権主義」への転換という「根本建前」の変転としての「革命」が起こったという説である。この「革命」があったからこそ、日本国憲法の樹立が可能なったという。¶かなり荒唐無稽な学説である。敗戦の決断であったポツダム宣言受諾を、革命の成就と読み替えるのは、空想の産物でしかないことは言うまでもない。国際的に全く通用しない学説であるばかりではない。日本国内ですら、かなり特殊な社会集団の中でしか通用しない学説だろう(223頁)≫。≪かなり特殊な社会集団の中でしか通用しない≫というか、憲法学者を頂点とした朝日・岩波フィルターバブルの中でしか通用しないとはっきり言うべきでしょうね。「学説」と言うことさえはばかられる「SF物語」だと言ったほうがよさそう。

 

ということで、この新書本に関する話はここまでにしておく。最後に日本国憲法に関する個人的な見解を述べて終わりにする。9条に関しては、安倍氏が主張していたように「自衛隊」を明記するというのであれば、そうではなく「国防軍」として軍隊であることをはっきりさせたほうがよいと思う。つまり9条1項で侵略戦争はしないことを明記し、2項で「ただし日本にちょっかいを出したら国防軍が出てくるのでタダでは済まないぞ!」とはっきり宣言したほうがよいということ。そもそも実質的な空母を所有しているにもかかわらず、軍隊を持っていないなどと言ったところでどこの国も信用しない。レーダー照射事件があったとき、公開された動画で自衛隊員は自分たちのことを「Japan navy」と呼んでいたよね。「navy」は海軍のことだから、実のところ国際的には自衛隊は軍隊だと見なされているのだろうと思う。とはいえ、さすがに「国防軍」と記述してしまったら、当分は(つまり東大法学部出身の憲法学者や朝日・岩波フィルターバブルが幅を利かせているうちは)国民投票でまず通らないだろうから、安全保障を重視する保守派の多くが主張するように2項削除でもよいと思う。

 

それから改憲が必要なのは何も9条に関してだけではないことはあえて言うまでもない。たとえばその一つとして「婚姻は、男女の合意のみに基づいて成立する」と規定している24条があげられる。この文言だと明らかに同性婚は認められないことになる。ところが地裁では、同性婚を認めないことが13条違反であるという判決が下されている。しかし「同性婚を認めないことが13条違反である」のなら、24条も13条違反にならざるを得ない。ところがこの件を報じた大手メディアの記事は、その点にまったく触れていなかった(新聞も読まなければテレビも観ない私めは、ネットにあがっている動画や記事しか見ていないので、もしかするとその点に触れた大手メディアの記事が存在する可能性はあるけどね)。なぜ触れないのか? おそらく触れると、改憲が必要であることが、さらに言えば日本国憲法は一般人が信じ込まされているように完全なものではなく特定の時代状況(80年近く前に同性婚などという概念はなかったから、13条と24条がバッティングするなどとは当時は誰も考えていなかったのですね)のもとで起草されたことがモロバレになるからなのでしょうね。もう一つ改憲に関して大手メディアが「報道しない自由」を行使した例をあげましょう。かなり以前の話なので細かいところは多少違っているかもしれないけどね。誤解されると困るので最初に述べておくと、私めは、少なくとも銃規制に関しては、すべきという民主党側の主張を支持する。かなり以前のことだが、ニューヨーク市が発布した銃規制に関する条例が最高裁によって違憲判決が下されたことがある。ところがそのとき日本の大手メディアは、保守派が大多数を占めている最高裁がおかしな判決を下したという論調で報じていた。日本の大手メディアのこの態度には二つの欺瞞がある。一つは米最高裁の保守派というのは、正確に言えば政治的な保守派を指すわけではなく、合衆国憲法に忠実な判決を下そうとする一派を言う。だから保守派が多かったということは、合衆国憲法に忠実に従った結果が銃規制条例の違憲判決になったということになる。もう一つは、合衆国憲法修正第2条がある限り、銃規制には違憲の判決が下されざるを得ないという点。このあたりのいきさつを描いたジェシカ・チャステイン主演の『女神の見えざる手』というなかなかおもろい映画があるので、お暇ならぜひ観られたい。ところが日本の大手メディアは、私めが知る限り修正2条のことにまったく触れていなかった。なぜか? おそらく、憲法の元祖というべきアメリカでさえ改憲の必要性があることを視聴者に知らせる結果になるからだろうと思う。要はそれを日本の改憲に結びつけられたくないから、「報道しない自由」を行使したのであろうと言いたいわけ。

 

あるいは「公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため、又は公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない」と規定している89条を文字通り厳密に適用すれば、私学に対する支援は違憲になる。いずれにしてもここで何が言いたいかというと、日本国憲法は神権法のような絶対的なものではなく、結局は特定の時代の特定の文脈に基づいて制定されたものにすぎないということ。だから時代が変われば、改正する必要が当然出てくる。憲法の元祖と見なせるアメリカでさえ、修正条項という形態で条項の修正や追加が行われている。出羽の守が大好きなドイツでさえ、戦後すでに60回以上修正を施しているらしい。だから日本国憲法は世界最古の憲法と揶揄されることがあるわけ。ということで、この本はぜひとも、普段は朝日新聞しか読まないような自称知識人が読むべきだと思う。それでもう一度頭を冷やしてよく考えてみたほうがよい。もちろんそれでも憲法学者の主張のほうが正しいと思うのかもしれないが、そうであったとしてもイデオロギーにほだされて判断するのではなく、事実や論理に基づいて判断する癖をつけたほうがよい。朝日新聞お抱えの憲法学者の主張をいつもいつも読んでいれば、頭が煮詰まってものの見方が歪んでしまうのは必定だからね。いずれにせよこの本によってはっきりわかるのは、東大出身の憲法学者の見解と朝日・岩波フィルターバブルにみごとに染まった護憲派は、国際法、つまり横糸を無視することで、結局自分たちがもっとも嫌っているはずの、国際連盟を脱退した戦前の軍国主義日本と大して変わらない存在に成り下がってしまっているということ。

 

 

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※2025年8月20日