◎玉木俊明著『商人の世界史』(河出新書)

 

 

開口一番、河出新書なんてものがあるとは最近まで知らなんだ。だからこの本は一年以上前に刊行されているにもかかわらず河出新書としてはお初になる。著者は経済史家の玉木俊明氏で、彼の新書本、選書本のたぐいは10冊読んでいる(わが脳に揮発性メモリしか装備していない私めは、同じ本を二度買ったりすることがあるので、買った新書本や選書本のタイトルと著者の一覧をエクセルファイルに記録していて、それを検索した結果なのでこの数に間違はない)。同じ著者の本を10冊も買っているのは、玉木氏以外にはない。なぜそれほどたくさん買っているかと言うと、彼の著書はそもそも刊行点数が多いことと、そこには既存の見解にとらわれない独自の視点が見られるから。ちなみにウィキによれば、玉木氏は私めと同じ同志社大学出身で、京都産業大学教授とのことだが、関西の大学に所属しながら、おそらくはすべてが東京の出版社から出版されているだろう新書本や選書本をこれだけ多く刊行している学者は、管見では(出た! この用語一度使って見たかったのよね)彼の他には何の専門家なのかよくわからん、荒俣宏タイプの岡田温司氏しか個人的には知らない。ただしこの本に関しては歴史的な事実に関する記述が大部分を占めるので、いつも以上に引用が多くなるでしょう。

 

と、前置きしたうえで、まずこの本の主題をあげておくと、それは「中間商人」になる。では、「中間商人」とは何ぞや? それについては冒頭で次のように説明されている。「そもそも中間商人とは、元来は商人と商人をつなぐヒトのことであり、彼らは、それにより収入をえる。私の専門とする経済史では、商品の生産が研究の中心であり、彼らのようないわば「媒介となるヒト」への関心は比較的薄かった。また、これまで歴史家も、そもそも人々がどのようにして商品を購入するのかということは、あまり考えてこなかった。それが、中間商人への関心が少なかった理由であろう。だが、それでは、経済の実態はつかめない。彼らは、仲買人やブローカーなどともいわれる。要するに、「つなぐヒト」なのである(9頁)」。従来の経済史家は、「媒介となるヒト」への関心は比較的薄かった」というのは意外に思えるけど(経済は「つなぐヒト」なしには成立し得ないのだから)、専門家がそう言うのだから間違いないのでしょう。では中間商人は歴史的にいかなる役割を果たしてきたのか? それに関して次のようにある。「中間商人は、文明の発生と共に誕生した人たちである。そして文化と文化、文明と文明をつないだ人々なのである。文明の定義にもよるが、メソポタミア、エジプト、インダス、黄河、長江、メソアメリカ(…)の各文明は徐々に統一されていき、やがて世界が一つの経済圏になった。中間商人こそ、それを実現させた人たちなのである。¶それだけではない。中間商人が築いたネットワークを使い、宗教家が宗教を伝え、文学者が文学を学び、国家が武器を輸入した。中間商人は、歴史上きわめて大きな役割を果たした人たちであった(10頁)」。まさにそのことを、第一章から第一〇章までで、おおむね通時的に数々の具体例を取り上げることで見ていくといったところが本書の構成をなしている。

 

というわけでトップバッターはメソポタミアの商人。次のようにある。「よく知られているように、メソポタミア文明とエジプト文明が一体化し、オリエントという一つの文明圏が生まれ、それがインダス文明と融合し、広大な文明圏が誕生した。¶メソポタミア南部には、金・銀・銅・錫などの金属、木材など、文明を発展させるために不可欠な資源は存在しなかった。これらの資源はイランやアナトリア半島から輸入された。したがってメソポタミア文明の発生は、必然的に商業圏の拡大を意味することになった。¶そのために、メソポタミア文明が、インダス文明との関係を強めたことは広く知られる。インダス文明は、メソポタミア文明の影響を強く受け、この二地域は商業的にも一体化していったのである。¶このように、文明と文明がつながっていったわけだが、その媒介となったのが、中間商人であった(29頁)」。紀元前二〇〇〇年以前に成立していたメソポタミア文明に、すでにその頃から文明と文明を結ぶ中間商人が活躍していたということになる。

 

次に登場するのはフェニキア人。フェニキア人と言えば海洋民族でアルファベットを発明した(この新書本には「アルファベットを改良した民族(32頁)」とある)ことによって知られているよね。まず玉木氏は、海洋民族としてのフェニキアの意義について次のように述べている。「ヨーロッパ文明とは、元来、オリエントから派生したものである。オリエントの影響下から脱したギリシア人は、そして長期的にはヨーロッパ人は、独自の文明をもつようになった。そのためには、地中海を東から西へと移動する必要があった。この点において、きわめて重要な役割を担ったのが、フェニキア人であった。¶古代地中海世界とは一般に、ギリシア人とローマ人によって形成されたと思われているが、ここではフェニキア人こそが地中海世界を形成したと主張する。¶ギリシア人もフェニキア人も、地中海に植民市を築いた。ギリシア人はどちらかといえば地中海の東側に、フェニキア人は西側に植民市を形成した。(…)フェニキア人こそ、地中海文明の母なのである(32頁)」。ちょっと意外に思えるのは、「現在のレバノンあたりに居住していた(32頁)」、つまりギリシアよりさらに東側を根城にしていたフェニキア人が、ギリシアのなわばりを飛び越えて地中海の西部に植民地を築いたという点。この事実もフェニキア人が海洋民族であることを如実に物語っているように思える。というか実のところそれどころではなかったらしく、次のようにある。「フェニキア人の交易路は、全地中海におよんだ。そればかりか、西アフリカ、さらには紅海をへてインド洋にまで達した。また、紅海からアフリカ東部をへて喜望峰を回り、アフリカ一周をもおこなったらしい。さらに前一一〜前一〇世紀に、東南アジアの交易を開始したことがわかっている(…)。フェニキア人の海上ネットワークは、大航海時代がはじまった頃のヨーロッパ人のそれと、あまり変わらないほどに広かった。ローマ帝国が東南アジア諸国と取引したことは知られているが、じつはそれは、フェニキア人の航路をそのままたどったにすぎないのである。(…)地中海の物流の支配が、フェニキア人台頭の大きな要因であったことは間違いない。彼らは前一一世紀から地中海の物流をほぼ独占するようになった。地中海の物流は、フェニキア人によって一体化していったのである。そしておそらくフェニキア人が開拓した航路は、以降も、ローマ人、イスラーム商人、イタリア商人、オランダ商人、イギリス商人らが使うことになった。地中海商業は、フェニキア人からはじまったのだ(35〜6頁)」。しっかし、「紅海からアフリカ東部をへて喜望峰を回り、アフリカ一周をもおこなったらしい」というのはすごいよね。紀元前一〇世紀頃に、はるか未来の大航海時代にポルトガルがやった偉業を、西から東ではなく東から西であったとしてもすでに成し遂げていたというのだから。

 

ところでもっとも有名なフェニキアの植民都市は、かのカルタゴでしょうね。そのカルタゴについて次のようにある。「カルタゴは、地中海を東西から見た場合、そのほぼ中央に位置する。さらにシチリア島に近く、北アフリカからイタリアに至る地中海の南北路を押さえることができた。したがって、地理的にカルタゴは地中海の交易網の中央部に位置しており、地中海交易の結節点として機能するようになった。西地中海では、すでに前六世紀に、カルタゴは交易の中心になっていた。フェニキア人のこのような商業拠点の移動は、彼らが地中海商業を拡大したことを意味した(39頁)」。まあのちにローマがカルタゴを脅威と見なすようになるのは無理もないと言える。それから「ローマ帝国の経済・商業発展の基礎はカルタゴがつくった」という節に移民に関する記述があって、なかなか興味深かった。次のようにある。「ローマ帝国は、その名の通り「帝国」であった。どのような時代においても「帝国化」すれば、本国に移民が入ってくるのは避けられない。それは現代のヨーロッパ、とくにイギリスでさまざまな旧植民地出身の人々が旧宗主国に移住していったことにもあらわれている。¶帝国は、本国と植民地に分かれる。植民地の人々は、より高い賃金、より豊かな生活を求めて本国へと移動する。あるいは、より高度な文明に憧れて本国に渡る。それゆえ、「帝国化」と移民の流入は表裏一体の関係にある(43頁)」。今日盛んに議論されている移民問題の淵源は「帝国化」にあったということになる。もちろん、たとえば現在のアメリカの南部国境から入ってくる(不法)移民の多くは、アメリカのかつての植民地の出身ではないのだろうが、今日ではそれに「グローバリゼーション」の問題が絡んでくるから、問題はさらに錯綜していると言える。つまり「グローバリゼーション」推進派と見られるバイデン/ハリス政権が、国境での入国者の審査をユルユルにしているせいでアメリカでは移民が大きな問題になっているということ。ヨーロッパも似たような状況と見なせる。

 

最後に玉木氏は、ローマ帝国とフェニキアの関係について次のように述べている。「ギリシア人の植民市が東地中海であったのに対し、フェニキア人の植民市は西地中海であったという事実は、フェニキア人の航海範囲の方が広かったことを意味する。フェニキア人の方が海洋民族として偉大であり、地中海の海上ネットワークは、主としてフェニキア人によって形成された傍証になろう。¶それに対しローマ帝国は、イタリアから発生した。ローマは元来陸上国家であり、海上ルートの発展は、フェニキア人が築いた航海ルートをおそらくそのまま使用した。地中海がローマの内海になり、アフリカの属州から穀物を輸送できたのは、フェニキア人が形成した航海ルートがあったからであろう。フェニキア人なくして、ローマはなかった(44〜5頁)」。フェニキアがのちの西欧世界に及ぼした影響は、アルファベットに限られるわけではないということですな。

 

次に登場するのはパルティア。とはいえ、パルティアという名称は聞いたことがあっても、その国が何をしたのかを知っている人はあまり多くはいないはず。かく言う私めがその一人だしね。そこで玉木氏は、パルティアについて第三章の冒頭で次のように説明している。「パルティアは、前五世紀から前三世紀にかけ、イラン高原を支配したイラン系民族の国家である。パルティアはローマと対立し、彼らの前に大きく立ちはだかった。そこに居住したパルティア人は商業の民であり、シルクロード商業で活躍した。シルクロードを使い、古代ローマと中国をつないだ中間商人は、パルティア人だったのだ。つまり彼らこそ、東西文明の仲立ちをした人たちだったのである(48頁)」。イスラーム商人を扱った第四章をはさんだ第五章では、パルティア人とともにシルクロード交易で活躍した民族としてソグド人があげられている。このソグド商人については次のように述べられている。「ソグド人は中国にゾロアスター教やマニ教を伝え、{突厥/とつけつ}帝国のもと、シルクロード交易に従事した。八世紀のユーラシア大陸では、大唐帝国とアッバース朝という二つの大帝国が並立していたが、この二国は、シルクロード交易により、一つの商業圏を形成するようになった。それが機能したのは、ソグド商人の力であった(84頁)」。これは紀元後八世紀の話だけど、国際貿易商人としてのソグド人の東方活動は、すでに紀元後一世紀から始まっていたとのこと。さらに次のようにある。「ソグド人がシルクロード交易で圧倒的に重要な商人であったという事実は消えない。彼らにはたしかに、ユーラシア大陸最大の中間商人として活躍した時代があった。彼らは中国からビザンツ帝国までを取引範囲として、巨額の手数料収入をえたと考えられる。¶ソグド人は、(…)ユーラシア大陸の商業を支えた人々であった。彼らのような商業の民は、歴史上のマイノリティではなく、主役だったというべきであろう(100〜1頁)」。ここで「手数料収入(コミッション)」とあるのに注目しましょう。というのも、のちに登場する大英帝国は、まさにこのコミッションによる収入によって世界中に幅を利かせるようになったということがあるから。それについてはのちの章で取り上げられる。

 

さて実は、ソグド人に言及されるこの第五章の前にイスラーム商人(玉木氏は「イスラーム」と表記しているので、引用文以外でも「イスラーム」と記す)が取り上げられている。イスラームが基本的に商業の民であったことは、ほぼ誰もが知っているはず。中間商人としてのイスラーム商人に関して次のようにある。「七世紀になり、ムハンマドによりイスラーム教が創始されると、その影響力は瞬く間に中東、ヨーロッパ、アフリカに広まった。イスラーム教徒はたしかに多くの土地を征服した。それと同時に、彼らは国際貿易商人として活躍することになる。ヨーロッパから東南アジアに至る商業ルートでイスラーム商人が活躍し、世界は大きく変化したのだ。¶ヨーロッパでは、六世紀にユスティニアヌス一世が実現したビザンツ帝国による地中海の統一が、イスラーム勢力の進出により瓦解した。イスラーム教徒は聖戦(ジハード)を戦い、多くの敵国を壊滅させたが、異教徒であっても、ユダヤ教徒とキリスト教徒という啓典の民は、ジズヤ(人頭税)を支払えば、信仰と生命・財産は保護された。イスラーム教はそのため、ユーラシアの海上、さらには陸上での商業を担うようになっていった。¶イスラーム教徒は、世界最大の中間商人となったのである(66頁)」。

 

またイスラーム教徒とモンゴル帝国の関係が次のように述べられている。「モンゴル帝国では、一三世紀からイスラーム化が進んだ。たとえばフビライはユーラシア全土におよぶ流通機構をつくり上げたが、その担い手となったのが、オルトクといわれたイスラーム商人の組織だったのである。しかもイスラーム教徒は、モンゴル帝国では財務官僚として活躍していた。モンゴル帝国の商業・経済を支えたのはイスラーム教徒であった(75頁)」。さらにはアジアに対するイスラームの影響が次のように述べられている。「早くも一一世紀後半には、アラブからの使者が東南アジアをへて、中国を訪れている。この時代には、中国の海上貿易の拠点が広州から泉州へと移っており、泉州には、すぐにイスラーム教徒の礼拝堂であるモスクが建てられた。同時代のキリスト教社会がほぼヨーロッパにかぎられていたことを想起するなら、イスラーム勢力の浸透のスピードがいかに速く、その範囲がいかに大きかったのかがよくわかる現象である。¶一四〇〇〜一四六二年に、マラッカ、スマトラ、モルッカ(香料)諸島の一部がイスラーム化している。イスラーム勢力の台頭は、かなり長期間にわたり続いたのである。さらにブルネイ、マニラ、チャンパーなどもイスラーム化した。イスラーム化のピークは、一七世紀中頃にあった。このとき、東南アジアには、ますますイスラーム勢力が浸透していったのである。ヨーロッパ人が東南アジアに到達したときも、この地でのイスラームの影響力は依然として強かったのである(75〜6頁)」。

 

それから玉木氏は、ベルギーの歴史家アンリ・ピレンヌの「商業の復活」という学説を批判しているので取り上げておきましょう。このピレンヌの説とは次のようなもの。「これは、七五一年にカロリング朝が生まれたときには、イスラーム勢力が地中海に進出したことによってヨーロッパ商業は衰えたけれども、一一〜一二世紀になると復活してくるという学説である(76頁)」。ピレンヌは、私めも著書を何冊か読んだことがあるほど有名な歴史家であり、その影響を受けた歴史家も多いはずで、事実この説を別の本で何度か読んだことがある。しかしそれに対して玉木氏は次のように述べている。「だが、むしろヨーロッパの商業は、むしろ[sic]イスラーム商業と結びつき、それによって強化されたと推測すべきであろう。ピレンヌ氏はヨーロッパの側に立ち、地中海へのイスラーム勢力の進出により、ヨーロッパ経済はダメになったと考えていたが、これは、やはりいいすぎであろう(77頁)」。その手の従来の見解は、中世を暗黒時代と見なしていたかつての歴史観の産物の一つとも言えるのかも。それに対して玉木氏は、地中海商業におけるヨーロッパ文化とイスラーム文化の相乗効果を重視しているわけ。そして玉木氏は、イスラーム商人の貢献に関して次のようにまとめている。「中央アジアから地中海に至る世界が、一つの広大な商業空間になった。地中海は、いくつもの異文化を含む交易圏の一部となった。地中海のネットワークは、長期的にはイスラーム勢力によって消滅するどころか、逆に大きく広がったと考えるべきなのである。¶そしてイスラーム商人は、明らかに中間商人として大活躍することになった。この事実の重みは、きわめて大きい。ヨーロッパよりもアッバース朝の方が経済力は強かった。したがってヨーロッパは、広大な異文化間交易圏の比較的小さな一部を構成したにすぎなかったのである(79頁)」。

 

ということでイスラーム商人(と前述のソグド人)の次に、イタリア商人、セファルディム、アルメニア商人が登場する。ここではそのうち、セファルディムのみを簡単に取り上げることとする。セファルディムとは、「一五世紀末にイベリア半島を追放されたユダヤ人(107頁)」を指し、「一部のセファルディムは、オランダのアムステルダムとロッテルダムに避難先を見つけ、元来の居住地イベリア半島と、外国の植民地との貿易に大きく寄与したことで知られる(108頁)」のだそう。そのセファルディムが取ったビジネス戦略とは次のようなものだったらしい。「セファルディムはマイノリティであり、信頼できる人々は、同じユダヤ人しかいなかった。そのため家族企業を選択し、同胞内部では契約書も作成しないほどの信頼関係があった。もし、あるセファルディムが詐欺的行為をしたとすれば、それはたちまちのうちにヨーロッパ全土に広がるセファルディム共同体に広まり、評判を落とし、取引を続けていくことは不可能になった。¶セファルディムが、すべての構成員が無限責任を有する合名会社を選択したのは、無限責任を受け入れられるほど互いの信頼関係が強かったことを意味する。(…)ディアスポラの民であるセファルディムは、地理的に拡散しており、地域横断的な家族の紐帯があった。したがってセファルディムは、地域を超えた取引をおこなうことが比較的容易だったのである(111〜2頁)」。まあ現在でも世界に大きな影響力を行使しているユダヤ資本のルーツには、このような特徴があったということで、ロスチャイルド家など、まさにそのタイプの一族と見なすことができるのでしょうね。イタリア商人、セファルディム、アルメニア商人を扱った第六章は次のような文章で締め括られている。「世界の商業が拡大すると、中間商人の役割も拡大した。彼らは、地域と地域、ヒトとヒトを結びつけた。地中海商業は、このような大きな商業ネットワークのなかで見ていくべきである。すなわち、新世界から地中海、インド洋、東南アジアの諸海、ユーラシア大陸、さらには東アジアに至る広大な異文化間交易圏の一部として機能したのだ。そのなかで、中間商人として際立った役割を果たしたのが、セファルディムとアルメニア人であった。¶彼らと比較すると、イタリア商人の役割は、あまり大きなものではなかったのだ(119頁)」。

 

さてさて次に登場するのは、ヴァイキングとハンザ商人、ならびにオランダ商人。まず冒頭に次のようにある。「ヴァイキングは一般に戦士として知られるが、じつは商業に従事する人たちでもあり、彼らを中間商人としてみなすことも可能である。彼らのおかげで、北海とバルト海を中心とする北ヨーロッパの商業圏は統一されていった。その後継者ともいえるのがハンザ同盟の商人(ハンザ商人)であり、北海とバルト海をより強く結びつけた。さらにその後継者となったオランダ商人は、バルト海貿易を母体とし、ヨーロッパ商業の覇権を握るようになった。そしてオランダ商人は、一七世紀には、おそらくヨーロッパで最大の中間商人となったのである(122頁)」。ちなみに、ヴァイキングに関してさらに次のようにある。「[アンリ・]ピレンヌ氏の存命中には、ヴァイキングは単なる掠奪者のイメージしかなかったのかもしれないが、現在では、(…)イギリスからロシアに至る広大な商業ネットワークを有する商人として活躍していたという見方が主流である。たとえ時代的制約はあったとしても、これほど広大な商業ネットワークの存在をピレンヌ氏が知らなかったという事実は、「商業の復活」の前提条件が、そもそも間違っていたことを意味するように思われる(130頁)」。ところで、ヴァイキングはキリスト教の修道院などに退蔵されていた富を略奪してヨーロッパの商業ネットワークに還流したという説があったと思うが、還流するには略奪だけでは不十分なことは明らかであり、まさにヴァイキングが確立したこの「イギリスからロシアに至る広大な商業ネットワーク」があったからこそそんなことが可能になったのでしょう。ピレンヌの仮説が信じられていれば、このような見解も生じようがなかったことは容易に想像できる。なお本書の内容に直接は関係しないことだけど、古代ローマの富がいかにして修道院などの中世のキリスト教組織に流れ込んだかについては、歴史家ピーター・ブラウンの大著『Through the Eye of a Needle: Wealth, the Fall of Rome, and the Making of Christianity in the West, 350-550 AD』(PUP, 2012)に詳しので機会があれば是非読まれたい。オランダに関しては、一点だけ引用しておきましょう。次のようにある。「一六世紀末から、穀物を積載したオランダ船が地中海にまで進出するようになったことで、オランダは、北ヨーロッパだけではなくヨーロッパ全土の中間商人となった。そのため一六世紀後半から一七世紀前半の時代に、オランダが経済的覇権を握ることができたのである(139頁)」。その後、鎖国中の日本とも交易をしていたというね。

 

次はポルトガルとスペインが取り上げられている。とはいえ、この二国は大航海時代の話となると必ず出て来るので、ここでは取り上げない。

 

その次に登場するのは、われらが大英帝国。「なぜわれらが?」ってか。大した意味はないんだけど、日本と同じ変態島国なので親近感が湧くよね。すでに触れたように近代のイギリスはコミッションビジネスによって世界の経済を支配するようになる。それに関して冒頭に次のようにある。「一九世紀末になると、イギリス経済の中心は、金融業やサービス業となった。商船隊が発展したイギリスで世界の商品の輸送を担い、さらにロンドンで国際貿易の決済が、主としてイギリス製の電信を用いてなされるようになる。電信がイギリス経済を支えるようになり、イギリスは世界経済の覇権国になったのである。¶イギリスはヒトとヒトを結びつけるのではなく、電信を媒介とする中間商人国家に変貌することで巨額の利益をえたのである。イギリスは、インビジブルなものを商業の媒介としたのだ。電信はまた、コミッションビジネスを大きく変え、イギリスに膨大な手数料をもたらすことになった。(…)電信の誕生により、カネと情報はヒトとモノの動きから離れることができた。ヒト以外の中間商人として電信が登場し、カネと情報を伝えることになった(162頁)」。その後イギリスにおける海運業の発展について解説されているが、それはスキップして、以上のようなイギリスのコミッションビジネスについて、玉木氏は次のように論じて大英帝国を扱った第九章を締め括っている。「イギリスは、すべてが自分たちの利益になるようなパッケージをつくり上げ、その中核に位置したのが電信であった。世界経済が成長し、国際貿易での取引が増えることで、イギリスの収入が「自動的に」増加する――それが、イギリスのコミッション・キャピタリズムの最大の特徴であった。¶電信は、今もなお国際的な商行為の主要な決済手段の一つである。二〇世紀初頭に世界中を覆った電信による収入はきわめて多く、イギリスには、信じられないほど巨額のコミッションが流入することになった。そして、大英帝国は金融の帝国になった。世界中が電信による金融ネットワークで結びつけられるようになり、大英帝国はそれによって維持された。その影響は、いうまでもなく、現在でも強いのである(180頁)」。まあ現在でも金融におけるイギリスの影響力は大きいとしても、主役はすでにアメリカに移っていることは周知のこと。それについては、別の本を取り上げた際に検討することにする。

 

実は第九章の次の第一〇章では日本の総合商社が取り上げられているんだけど、さらにその次の第一一章でイギリスのタックスヘイブンがテーマになっていて、大英帝国の話の続きで流れがよいのでそちらを先に検討しておく。章の冒頭に次のようにある。「タックスヘイブンは、かつての大英帝国と関連した地域が多く、それは大英帝国が金融の帝国であり、政治的帝国ではなくなったとしても、その金融力はまだまだ世界に強い影響力をおよぼしているからである。しかもそれは、イギリス王室の特異性と関係しているのだ(202頁)」。最後の一文に着目されたい。イギリス王室がグローバリズム(陰謀論者の言葉を借りればDS)に関わっているとか何とか主張する人がいるが、こうして見るとそれはまったくの無根拠ではないらしい。では、タックスヘイブンがイギリスの王室の特異性と関係しているとは、具体的にはどういうことなのか? それに関して次のようにある。「現在のケイマン諸島とBVI[イギリス領ヴァージン諸島]の君主は、チャールズ三世である。これらは王室属領である。¶王室属領とは、「グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国」には含まれず、イギリスの国王(the Crown)に属し、高度な自治権をもった地域のことである。内政に関してはイギリス議会の支配を受けず、独自の議会と政府をもっており、しかも、海外領土や植民地と異なり高度の自治権を有している。EUにも加盟していないため、イギリスの法律や税制だけではなく、EUの共通政策さえ適用されないのである。ただし外交と国防に関しては、イギリス政府に委任しており、主権国家とはいえない。¶それらは、伝統的に国王が王国外に有していた領地である。イギリス周辺ではチャンネル諸島(英仏海峡)の一部とマン島(アイリッシュ海)が王室属領であるが、じつはこれらの地域は近世には密輸基地として知られていた。そして現在では、タックスヘイブンとしても知られる地域でもある。(…)すなわちイギリスの王室属領は、密輸とタックスヘイブンと大きく関係しているのである。ここからイギリスという国、イギリス王室、さらに大英帝国は、王室属領を利用して巧みに租税回避行動を促進したことが示唆されるのである(206〜7頁)」。

 

さらに次のようにある。「エリザベス二世の国葬は、王室属領の君主が替わったことを示す儀式でもあった。イギリスの国制は非常に複雑であり、それが旧植民地だけではなく、世界の経済、とくに金融に大きな影響を与えていることを、私たちは認識すべきである。¶イギリス王室とは、コミッション・キャピタリズム、さらにはタックスヘイブンによる税の中抜きシステムの象徴なのである(208頁)」。「エリザベス二世の国葬」で思い出した。あのとき普段は国王(天皇)や君主と聞いただけで全身がさぶいぼになるような人々が、何やかやと理由はつけていても、実際には安倍錯乱症候群にかかっているがゆえか、彼の国葬と比べて「エリザベス二世こそ国葬にふさわしい!」と叫んでいたよね。反君主制主義者が国王の国葬を称賛している時点で矛盾しているだけでなく、エリザベスさん本人の問題とは言えないとしても、こんな諸悪の根源のようなタックスヘイブンをイギリス王室が保護?していることを知っていたら、そんなことを言えたのだろうか? タックヘイブンを利用した納税回避額は、昨今日本で話題の「裏金」などとはケタがまるで違う。もちろん安部氏が国葬に相応しいか否かに関しては議論があってしかるべきだとしても、タックスヘイブンを可能にしているイギリス王室の代表者であるエリザベス二世のほうが、安倍氏より国葬にふさわしいなどとどうして言えるのだろうか? 「裏金」は確かに問題だとしても、それならタックスヘイブンはもっと声高に批判されるべきだよね。

 

それだけでなくイギリス王室は、昔からかなり阿漕な真似をしてきた。私掠船の利用はその最たる例でしょうね。それは周知の事実ではあるとしても、現在たまたま読んでいる西尾幹二著『日本と西欧の五〇〇年史』(筑摩選書)に次のようにあったので引用しておきましょう。「一五〇〇年代、日本は戦国時代だが、欧州はスペインの全盛時代を迎えた。イギリスはこのうえなく哀れで、みっともない国家だった。新大陸から財宝を運んでくるスペイン船の成功が羨ましくて、これを海上で掠奪する行為を国家が合法化した。イギリスの王室財政はこの海賊行為によって支えられた。女王エリザベス一世は海賊の親玉に{騎士/ナイト}の称号を与え、英雄として称賛した。海賊たちはいざ戦争となると特殊部隊を編成し、国家を勝利へと導いた。イギリスがずっと後に達成する海洋帝国としての成功の背景には、海賊が国家権力と一体化した一六世紀の基本的性格が横たわっている。海賊の存在なくしてイギリスが世界史に残る一大展開を成し遂げることはできなかったことは忘れるわけにはいかないだろう(日本の倭寇も盛んだったが、日本の朝廷と一体化したことはない)(同書107〜8頁)」。まあイギリスは変態島国であるのみならず昔からとんでもない八九三国家だったということ。同じ変態島国の日本にも倭寇があったなと思いかけた途端、最後の括弧書きで釘を刺された。

 

横道に逸れたのでタックスヘイブンの話に戻りましょう。では本来支払われるべき税金が、どの程度タックスヘイブンなどの手段を利用して納税を免れているのか? それに関して次のようにある。「フォーチュン五〇〇企業(世界でもっとも収益性の高い企業)のうち、AmazonやIBMを含む九一社が米国連邦法人所得税をまったく支払っておらず、五六社の税率は、法定法人税率の二一パーセントよりはるかに低い〇〜五パーセント(平均二・二パーセント)であった。大企業が、これほどの税逃れをしているのである。¶GAFAMに代表される巨大IT企業は、ユニークなビジネスモデルを展開することで世界経済を席巻する一方、その巨額の利益を税率の低い国やタックスヘイブンに留保し、利益を上げている消費者のいる国には十分な税負担をしていないと指摘されてきた。OECDの試算によると、世界の法人税収の四〜一〇パーセントに相当する一〇〇〇億〜二四〇〇億ドルにも上る税負担が回避されているという(217頁)」。もちろんタックスヘイブンのすべてが王室属領であるわけではないとしても、このような事態の少なくとも中心を占めているのがイギリス王室だということになる。このあたりの話は、金融・経済音痴の私めにとっては、目からうどん粉ではあった。

 

大英帝国の遺産とインターネットが結びついてタックスヘイブンが誕生したことについては、次のようにある。「インターネットの発達は、資本の動きを急速にスピードアップさせた。それに加えて、資本が簡単に移動できるようになり、大英帝国の遺産とインターネットが重なり合い、タックスヘイブンを生み出す要因となった。むろん、イギリスに関係しない地域にもタックスヘイブンはある。¶けれどもOECD租税委員会の調査によれば、世界のタックスヘイブンリストの三五地域のうち、二二がイギリスに関係していたことからも、大英帝国がタックスヘイブンのかなりの部分を生み出したといって間違いではない。しかも、国王が海外にもつ王室属領とインターネットとが巧みに連動し、少なくともイギリスと関連するタックスヘイブンのシステムが機能しているのである(218〜9頁)」。グローバリゼーションの主翼を担っている多国籍企業がこのタックスヘイブンを利用していることからも、イギリス王室がグローバリズムに関わっているという説があながち間違いではないことがよくわかる。最後に著者は、現代の中間商人たる多国籍企業のコミッションビジネス、インターネット、グローバリゼーション、タックスヘイブンが合わさることで生じている現代の大きな複合問題について次のように述べて本書を締め括っている。「インターネット社会においては、われわれはAmazonで商品を購入するたびにコミッションをとられる。キャッシュレス社会になればなるほど、われわれはあまり気にすることがないまま、コミッションをとられている。そして、コミッションレートがどの程度のものか、ほとんど意識しない。¶それが、ITが中間商人になった時代の特徴であり、彼らのえるコミッションの総額は高く、明確にはわからないにせよ、それはタックスヘイブンと結びついている。¶これが現代社会の実相である。現代社会においては、ITという中間商人のせいで、われわれの所得と富の格差はますます大きくなっているのである(224頁)」。「明確にはわからない」とあるように、グローバリゼーションの裏にはきわめて不透明なメカニズムが働いていると推測される。そしてそのグローバリゼーションが、私めが言う各国の中間粒度を破壊している。私めがグローバリゼーションを批判する理由の一つもその点にある。一般庶民のよくわからないところで、グローバリゼーションは作用しているのであり、端的に言えば一部のお金持ちの超エリート層が世界を操っているという見立ては陰謀論でも何でもないのですね。

 

ここまでで本文最後の「終章」までを説明し終えたわけだけど、ペンディングにしておいた日本の総合商社に対する言及を最後に取り上げておきましょう。冒頭に次のようにある。「経済成長のためには、マーケットに関する正確な情報が必要である。第二次世界大戦前から戦後にかけ、日本経済が成長した背後にあった重要な組織である領事と総合商社は、その「情報」を武器としていた。領事は、領事報告により、日本の企業に必要な事業情報を伝えた。それに対し総合商社は、世界各地に社員を派遣し、正確な情報を収集し、日本企業の輸出に寄与した。どちらも、日本の企業が海外に進出するときに、日本と現地をつなぐ存在であった。¶現在の総合商社は、むしろ事業投資会社へと変化しているように思われるが、それは、今までに培った良質な情報収集能力がベースとなっている。領事も総合商社も、企業と企業をつなぐ中間商人としての役割を果たしていたばかりか、日本経済に大きな影響力[sic]をおよぼした。その総合商社が、コミションビジネスではなく、事業投資に力を入れるようになったのは、中間商人として世界の事業情報を収集していたからこそ実現できたことなのである(182頁)」。また総合商社の起源は次のようなところにあるらしい。「[幕末から明治にかけて]開国を迫られた日本には、海外に販売できるような商品はあまりなかった。しかし帝国主義時代の真っ只中にあって、いつ欧米列強の植民地になるかもしれない状況にあった日本にとって、少しでも多くの商品を売り、外貨を稼ぐことは、きわめて重大な国家的課題といえた。¶そのために領事館が開設されたのである。日本政府は、商業情報の重要性に十分に気づいており、領事と総合商社は、じつは同じような機能を有していた。明確な時期を決定することは不可能だが、当初は領事が、そして徐々に総合商社の方が重要になっていったというべきであろう(186頁)」。

 

次にその後の総合商社の歴史が説明されているけど、それはスキップする。ただし次の指摘だけは引用しておきましょう。「総合商社のビジネスの中心の少なくとも一つは、コミッションビジネスであった。すなわち、メーカーの代わりに外国で販売をし、手数料収入を増加させるのである。企業と企業をつなぐことで手数料収入をえるということである。¶それは総合商社が、他の業種ではありえないほど海外との関係が強く、良質な情報を入手していたために、実現した。総合商社がもっている情報は非常に多様であり、かつ多様な産業との関係が密接であるので、新たな分野への参入が容易だったと考えられよう(195頁)」。日本は総合商社という形態で、イギリスが得意としていた(る)コミッションビジネスを展開してきたということでしょう。さすがは変態島国同士ですわな。そして最後は次のように締め括られている。「総合商社が投資事業会社になれたのは、このように情報ビジネスに長年従事してきたからである。他の後発国なら領事館がおこなっていた業務を、日本では総合商社が代替して、日本経済の成長に寄与したのである(199頁)」。

 

ということでこの新書本の紹介を終えたわけだけど、実は非常に重要な民族商人に関する記述が欠けていたことに気づいたのではないか? それは華僑のことね。玉木氏が華僑にまったく言及していない理由はよくわからない。華僑は玉木氏の言う中間商人ではないのだろうか? あるいはいわゆる紙幅の都合なのだろうか? とはいえ、その点に疑問を持ったくらいで、商人の歴史を通時的に扱った新書本としては、非常に有益でわかりやすいという印象を受けた。なお玉木氏の他の本のほとんども同様に推薦できると指摘しつつ、この本に関しては終わりにしましょう。

 

 

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※2024年10月19日