◎鈴木隆美著『誤読と暴走の日本思想』(光文社新書)
光文社新書ってあまり読んだことがなく、この「ヘタレ翻訳者の読書記録」で取り上げるのもようやく二冊目にすぎない。光文社というとどうもカッパ・ブックスのイメージが強すぎてあまり買う気にならないというのが実のところ。それでも取り上げたのは、タイトルが興味深かったことと、冒頭に書かれている≪人を人たらしめてきた知性とは何だったのか。こんな時代だからこそ、最新の認知人類学、脳科学、遺伝子工学、進化生物学、文化進化学、どこからでも知識を総動員して、腰を据えて考える必要があるでしょう(11頁)≫というくだりがいたく気に入ったからなのですね。何がそんなに気に入ったかというと、現代人は「知性」とは何かをまったく勘違いしていると個人的には考えているから。単にフランス革命以後の近代西洋で生まれたイデオロギーを振りかざすことを「知性の行使」だと勘違いしていると思しき自称知識人は多い。それについてはこれまでさんざん指摘してきたのでここでもう一度繰り返すことはしない。ただひとこと言っておきたいのは、直観、想像力、情動、常識(さらには集合知や暗黙知や創造力や{きゅりおっしち/好奇心})は人間の生存や生活の維持、改善にとって必須の能力であることを忘れれば自殺行為に等しいとも言える。たった今読んでいるある英書はまさにそれについて書かれているのだが、商売にする可能性が無きにしもあらずのため、現時点では取り上げない。ひみつ、ひみつ、ひみつのだっこちゃん(あ、ちょっと違うか。てか、あれ顔の色をピンクくらいにしておけばいいものを迂闊にも黒くしたから黒人蔑視とかで問題になってたがeye of the beholderって感じだね。それよりも、いい大人があの人形を腕にくっつかせている写真がけっこう見つかるけど、それがとってもとっても気色悪い)。いずれにしても、私めが追求したいテーマの一つがまさにこの新書本で展開されていると思ったわけ。とはいえ結論を先に言うと、引用文中で言及されている科学には、少なくとも文面上はほとんど言及されていなかった。まあ、著者はフランス文学が専門の文系の教授さまのようだし、ちょっと期待し過ぎた面があることは確か。
ただし、その部分では少なくともポピュラーサイエンス本の翻訳者である私めには不満が残るとしても、記号設置問題(その意味はあとで説明する)として日本における西洋文化の取り込みという主題を論じていて非常に興味深かった。それに関して「序章」に次のようにある。≪日本思想は西洋思想を権威として、それを忠実に輸入しようとしたことは否定できません。しかしながら、あまりにも土壌が違い、言語の性質も文化も歴史も違うので、そこでは絶対的な意味の変質が起こるのです。すると日本思想は、西洋思想の紛い物でも何でもなく、ある種の創造的な言語文化であると、と見なすことができるはずです(50頁)≫。先日取り上げた『日本群島文明史』では、日本は「群島文明」という独自の文明を発展させつつも、「大陸文明」を巧みに取り込むことに長けていたことが論じられている。近代日本における、この後者の特徴が『誤読と暴走の日本史』で論じられていると見ればよいのかもしれない。要するに日本の西洋思想の取り込みは、「誤読で暴走気味だけど創造的」だと著者は考えているのですね。この新書本を読んでいればわかることだが、著者は「誤読と暴走」という言葉を通常のネガティブオンリーの意味では使っていない。そこにはマイナス面とプラス面の両方があり、著者はできる限り後者の側面を抽出しようとしている。だからたとえば哲学に関しては次のような見立てになる。≪欧米の文化圏と日本文化圏は、別の土壌、別の水質、気候、風土があって、別の植生が支配する空間なのです。接木の比喩を使えば、日本における哲学の輸入というものは、菊の枝先にトマトの花を咲かせ、ついでに生花にして不思議なオブジェを作った、とでもいった方が、より正確になるでしょう(45頁)≫。これは必ずしも悪い意味で言っているわけではなく、そもそも≪菊の枝先にトマトの花を咲かせ≫るなどという芸当は、特殊な技能がなければとても不可能だと言える。哲学に限らず、日本はずっとそのような芸当をやり続けてきたのですね。
ところで先にあげた記号設置問題とは、元来AI分野での問題であり、それについて簡単に説明されているが(56〜8頁あたり、あるいはググってもよいかも)、それに関連して次のようにある。≪AI時代にあって、人間の身体知がますます重要になっています。19世紀から20世紀初頭、身体の問題系というのが哲学的なトピックとして注目されました。それまでは精神に比べて下位に置かれていた身体ですが、古くはニーチェから、ベルクソン、メルロ=ポンティあたりで、身体というのは単なる精神の道具ではない、認知において、主体のあり方において、決定的だぞ、という話になってきたのです。¶そして認知科学、脳科学、生態心理学、心の哲学などの隆盛により、身体論はさらなる発展を見せました。ギブソンの心理学、オブジェクト指向哲学、その他様々な思想家が心身の問題に取り組み、総じて近代の精神性の哲学、主体の哲学に抗して、意識は身体なしには成立しない、外界、身体、心の相互作用の中で我々の認識が成立している、という話になってきました。そしてAIの進化は、まさにこの身体知を工学的に考え直す絶好の機会を提供してくれました。というのも、汎用人工知能の開発、要するに人間と同じことをAIにさせようと思うと、どうもうまくいかない。なぜなら、究極的には人間が持っている身体がAIにはないからだ、という話になるわけです(51〜2頁)≫。私めとしては、身体知には冒頭であげた直観、想像力、情動、常識、集合知、暗黙知も含めたい。それらをAIが代表する情報工学によって説明することが困難なのは、それらはいずれも身体の存在を前提とし、その根底に記号設置問題が存在するからだと言わざるを得ない。ところで個人的には、以前から身体知の問題には関心があり、ここに名前があがっているベルクソンやメルロ=ポンティはよく読んでいた(日本の哲学者では市川浩あたりか)。また脳科学者ではアントニオ・ダマシオが身体知を論じる科学者の代表だと言えようが、彼の著書『進化の意外な順序』を訳したこともある。また≪意識は身体なしには成立しない、外界、身体、心の相互作用の中で我々の認識が成立している≫という見方は、既存のわが訳書ではスザンヌ・オサリバン著『眠りつづける少女たち』やロイ・リチャード・グリンカー著『誰も正常ではない』が扱っているし、来月刊行予定のわが訳書、アンディ・クラーク著『経験する機械』でも、その基盤となる脳のメカニズムが説明されていると見ることもできる。いずれにしても、この元来AI分野の記号設置問題を、日本における西洋文化(本書ではおもに哲学や思想を指す)の受容に対して隠喩的に適用することが本書の目論見だと見ればよいでしょう。実際、「序章」に次のようにある。≪同様のことが、哲学が日本に輸入された際にも言えるでしょう。のちに見ることになる、主体、客体、権利、自由、主観、客観、真理、弁証法、心理、存在、実存などなど、これらはすべて、明治以降、日本で生まれた西洋語の翻訳語です。これらは、記号設置があやふやなまま、日本の様々なメディアを{賑/にぎ}わせてきたタームです。¶しかしながら、これらは元々ユダヤ・キリスト教文化圏、一神教文化圏の個人主義の文化に設置している記号群です。つまりユダヤ・キリスト教文化圏の個人主義文化は、日本文化における「醤油」のようなもので、しっかりと欧米の身体知のシステムに組み込まれているのです。これらが個人主義的傾向の薄い日本文化の中に接木される、つまりきちんと記号設置していないまま使われるのです(59〜60頁)≫。
ということで本論に参りましょう。本論では西周、福沢諭吉、中江兆民、西田幾多郎、和辻哲郎、中沢新一、東浩紀、落合陽一という八人の哲学者、思想家におのおの一章ずつをあて、彼らがいかに西洋哲学を日本に「記号設置」してきたかが論じられる。ただし450頁ほどあるメタボリルドルフ本なので、八人全員を取り上げると、またまたK点越え最長不倒を記録してしまうので、おもに西周、福沢諭吉、中沢新一、東浩紀を取り上げ、中江兆民と落合陽一に関しては一点だけ指摘し、西田幾多郎と和辻哲郎は他の本を取り上げたときにまた扱う機会も多々あるだろうということで全編をカットする。
ではトップバッターの西周から。西周と言えば「哲学」という用語それ自体を始めとしてさまざまな哲学用語をひねり出した人として、たいていの人は知っているでしょうね。それに関して最初に次のようにある。≪まず日本における哲学・思想の歴史を考えるにあたって、日本哲学の父、西周から始めるしか道はありません。何といっても「哲学」という翻訳語を生み出したのは彼だからです。「哲学」だけではありません。「概念」「主体」「客体」「分析」「総合」「分解」「帰納」「{演繹/えんえき}」などなど。これらの概念は西周が翻訳語として作り出したもの(あるいは旧来あったものの無茶な転用)なのですが、日本と西欧の文化的差異を考えると「翻訳」というよりは「創作」という方があっていると思われます。¶西は儒教、朱子学の途方もない教養を基に、今も使用している様々な西洋哲学の翻訳語の大半を作り出してしまいます。その数はおよそ1400語とも2300語に上るとも言われます。福沢諭吉などと比べると知名度は低い西周ですが、この数を見るだけでも「日本哲学の父」の通称は伊達ではないことが見て取れます。そこに留まらず、「哲学」という翻訳語、その他いくつかの重要な概念の翻訳語は、中国などの漢字文化圏に逆輸出されるに至り、現在では広く漢字文化圏の共通翻訳語になってさえいるのです(66頁)≫。一点些細なことを指摘しておくと、≪今も使用している様々な西洋哲学の翻訳語の大半≫は、主語が≪西≫なので西氏がまだ生きていて使用しているかのようにとれる。実のところ、「今も使用されている様々な西洋哲学の翻訳語の大半」が正解でしょう。光文社の担当編集者さん、サボりましたね。まあそれはいいとして、≪「翻訳」というよりは「創作」という方があっている≫というのは、訳語に関してのみならず、技術を含めた他のあらゆる事象に当てはまるように思われる。まさに日本はネットスラングで言うところの「魔改造」の国で、ただ海外のモノや技術を輸入するだけでなく、それを日本独自のものに作り変えてしまうのですね。それと同じことが、哲学や思想の用語、のみならずそれらの内容にまで当てはまる。本書には八人の哲学者、思想家によるその種の作り変えの例が、たくさん紹介されている。
さて「哲学」という翻訳語をめぐっては次のようにある。≪西はそのような[ヨーロッパ啓蒙主義のディドロ&ダランベールによって書かれた]百科全書の哲学から想を得て、日本と西洋の「百教」を一致させようとする。「百教を視野に入れる高所」から俯瞰的に見て、東洋と西洋を一望のもと統合しようというわけです。こういうのが哲学ですよ、と日本の民衆を{諭/さと}す。そしてこんな「教え」こそが「哲学」というものです、という理屈が展開されます。¶「教え=哲学」、当時よく知られている儒教的、仏教的な「教」も含めて「哲学」である、という西の結論は、かなり強引な論理です。¶重要なのは、ここにおいて、日本語文化圏、漢字文化圏に初めて「哲学」という言葉が導入されていることです。この経緯は、非常に重要な歴史的意味を持つと考えられます。すなわち日本語でいう「哲学」とは当初から儒教、仏教と西洋思想の謎のハイブリッドだった、ということです。西洋哲学を儒教の教養で受容した、という事態は、まさにこうした意味論的カオスであったはずです(93〜4頁)≫。次に「原理」「真理」「理性」「心理」「物理」などの「理」に関して次のようにある。≪実際、この「理」は様々な翻訳語を生み出しています。それこそ、原理、理科、物理、理論、論理、理性、理念、心理などなどいくらでも挙げられますね。これらは全て西が作った翻訳語ですが、現代の我々にとっても非常に{馴染/なじ}みの深い言葉であります。¶現代社会にあって、こうした言葉なしで済ますことは、もはや不可能であるわけですが、もともとこれらの言葉が生まれた経緯を見ると、かなり混沌としています。つまり、元々は朱子学の仁義などと結びついた権威主義的な「理」の意味が、西洋哲学に接木され、その意味が科学主義の方向へ拡散しているのです。日本の哲学の営み、もっと言って近代化の営みは、この「理」の意味の拡散のプロセスとして、「理」という記号改造のプロセスである、とさえ言えそうです(100〜1頁)≫。これに関して数頁先でさらに次のように敷衍されている。≪ここで西が行っているのは、東洋の「理」に西洋哲学を接続し、そこから翻訳語を多数生み出し、西洋風の考え方を日本に導入した、ということです。「理」という朱子学の考え方が、欧米流の「心理」と「物理」に強引に分けられ、元々は異種類の文化的産物が強引に接木され、翻訳語が多数生まれていったのです。¶言い換えれば、それまで渾然一体となり、分けるべきものでもなかった心とモノの世界、封建的な、さらにはアニミズム的な「道理」の世界に、主体と客体という個人主義的二元論が導入されるのです。それは、一方では客観の世界にあって、西洋科学を理解する助けとなり、一方では主観の側にあって、欧米流の民主主義国家を作る個人主義の原理となりました。¶西が道理を二つの理に分け、それを心理と物理として、主観と客観に分けたのは、欧米流の科学の威力を理解させるためであり、近代国家としての{体/てい}を整えるためであり、それはまた欧米流の思考の背後にある欧米流の個人主義を導入するためでした(103〜4頁)≫。
とはいえ著者は、このような「接木」を必ずしも否定的に見ているわけではなく、むしろ評価していることは、たとえば西周を扱った第1章の最後に次のようにあることからもわかる。≪むしろ、西洋の論理では、奇異に見えてしまう日本思想の「道理」こそ、非常にクリエイティブな何かだ、と考えてみてはどうでしょう。¶ここでは西の理論が非常に実学的であり、五感を離れたものは信じられない、とする{現世利益/げんぜりやく}追求型の知であり、観念論に対し距離を取っていることが重要です。¶「信」というと、基本的には教えのように、目に見えないものを信じる、原理原則、真理に信を置く、という話にならざるを得ないのですが、西はこのような観念論的な傾向を切って捨てています。当時の日本の外国文化輸入によくあるように、極めて実学的な部分を重視しています。と同時に、どこかこの「信」は、西洋の科学的、工学的なものから離れ、日本的な文化へと回収されていくようにも見えます(113〜4頁)≫。≪観念論に対し距離を取っていることが重要です≫とある点に着目されたい。ここで言われている≪観念論≫とは哲学的なものに限定されているとしても、思想的なイデオロギーもそれに含めても構わないように思える。冒頭で述べたように、現代の日本の自称知識人は、そのようなイデオロギーを知性の産物だと取り違えているのですね。しかし著者に従えば、もともと西周のような人が、西洋の知を取り込んだときには、実は日本独自の思想のうえに西洋の知を接木したために、≪五感を離れたものは信じられない、とする{現世利益/げんぜりやく}追求型の知≫として捉えられていたと考えられる。だから欧米のイデオロギーを含めた観念的な思考様式にはそれほど染まらなかったのでしょう。要するに、ここで私めは、現代の分断状況を生んでいるイデオロギーの影響を免れる方法を日本独自の思想のなかに見出すことができるのではないかと言いたいわけ。
さて次は一万円札をクビになった福沢諭吉さん。いきなり次のようにある。≪{巷/ちまた}に流通した海賊版を合わせ、国民の10人に1人は手にした、とまことしやかに言われる超ベストセラー『学問のすすめ』。これは17の小冊子が次々に刊行されたものですが、今だったら人口比で計算して総計1000万部超えの超ヒット作です。¶その意味では才能溢れるコピーライターでもあった福沢諭吉は、ベストセラー作家として慶応義塾を設立経営し、日本の文明化に凄まじい貢献をしたわけです。その最中に、今のお金に換算すると一説では年収17億円は稼いでいた、と半ばスキャンダラスに、週刊誌にまで書かれてしまうのが福沢諭吉という人物です(116頁)≫。要は商売上手だったということ。おじぇじぇがあああ!病にかかったヘタレ引き籠り翻訳者からすると、羨ましい限り。でも≪慶応義塾を設立経営し、日本の文明化に凄まじい貢献をした≫とは言うものの、慶應義塾は石何ちゃらとかいうとんでもないサイコパス・モンスター・史上最悪・無能・総理大臣も生んだよね? いったいどんな教育しているの? また次のような記述もある。≪ともかくも刺激的な『福翁自伝』を読むだけでも、この人はまず間違いなく、ホラ吹きの傾向があり、詐欺師スレスレの振る舞いをしていたことが分かります。できもしない囲碁で、さも実力者のように振る舞ったり、船賃もないのに強引に船に乗り込んだり、政府のお金を私的に流用した{廉/かど}で出入り禁止を食らったりと、多くのエピソードが落語調で自伝に描かれています。まさに稀代の詐欺師としての福沢諭吉の自分語り、といったところでしょうか。何をどこまで信じてよいのやら、よく分からない著作です(118〜9頁)≫。これを読んだ私めは、「公約を守る必要などない」と国会で平然と嘯いた石何ちゃらにどこか似ているように思ってもた。ただ福沢諭吉と、ネットスラングで言えばせいぜい「小物界の大物」でしかない石何ちゃらでは人間のスケールがまったく違うだろうけどね。
まあ半ば冗談はこの程度にして、先に進みましょう。まず次の記述に注目されたい。≪儒教の中でも親と子の「孝」の価値と、支配者と臣下の「忠」の価値がぶつかり合い、どちらが大切か、という議論はよくあるのですが、福沢諭吉はこのような儒教内部の対立から外に出て、この親の敵、という「孝」をいわば言い訳にして、西洋の価値観や考え方を日本に輸入し、旧来の身分社会の原理である「忠」に攻撃を仕掛けたのです。確かにアンチ福沢の人々が言うように、ある程度は日本文化を破壊してしまったわけです(123頁)≫。ここには当時の文明開化の風潮の反映という側面があり、またそれを推進する原動力として作用した面もある。それについて次のようにある。≪命をかけて日本の文明化に貢献する、この信念は現代人から見ると、とても理にかなっていた、と言えます。実際にアメリカやヨーロッパにわたり、その文明のパワーを肌で感じた諭吉が持った文明開化の信念です。このような信念が時代を駆動していきます。もちろん彼だけではないですが、西や福沢のような人がいたお陰で、ある意味で日本は価値観のイノベーションが可能になり、他国には真似のできない空前絶後の速度で文明化を進め、欧米の列強国に渡り合えるほどになったのです。それが歴史のうねりの中で、侵略戦争につながってしまったので、何が良かったのか悪かったのか、本当に難しいところですが(128頁)≫。≪何が良かったのか悪かったのか≫は別として確実に言えるのは、非欧米諸国のなかで≪欧米の列強国に渡り合えるほどになった≫のは、つい最近まではほぼ日本しかなかったということ、また現在でも日本はG7のなかで唯一の非欧米国だということ。ここには日本が持つ何らかの特殊性が関与していた(る)と考えられる。もう少し読んでみましょう。それに続いて次のようにある。≪そこで問題になるのが、その価値観のイノベーションであり、我々の文脈では、儒教によって西洋哲学を受容した、とされるそのプロセスです。さらには西洋諸語を翻訳語として日本文化に接木し、強引な記号設置を試みたそのプロセスです(128頁)≫。
そして福沢におけるその例として「自主独立」の概念があげられ、『学問のすすめ』から次の文が引用されている。なお太字は著者によるもので、この本で著者が他の本を引用している箇所はすべて太字で記されている。≪独立とは、自分にて自分の身を支配し、他に{依/よ}りすがる心なきを言う。自ら物事の理非を弁別して処置を誤ることなき者は、他人の{知恵/ちえ}に依らざる独立なり。自ら心身を労して私立の活計をなす者は、他人の財に依らざる独立なり。人々この独立の心なくしてただ他人の力に依りすがらんとのみせば、全国の人は皆依りすがる人のみにて、これを引受くる者はなかるべし。これを{譬/たと}えば、盲人の行列に手引きなきが{如/ごと}し、{甚/はなは}だ不都合ならずや(129頁)≫。この福沢の文章に対して、著者は次のようにコメントしている。≪文章の流れが見事なので、自然と理解される向きがありますが、「他に依りすがる心なき」「自ら物事の理非を分別して処置を誤ることなき」というのは、実はほとんど日本文化には存在しなかった、デカルト的な西欧思想の真髄です。¶「我思うゆえに我あり」というデカルト哲学、主体の哲学ですが、これは自らの理性を基に判断する、その主体こそが諸学の根本であり、真理の根源である、という考え方です。これをもっとわかりやすく訳すと「真理の基準は私だ」、さらにくだけて訳すと「私の方が周りの人よりも正しい」、となります。細かいデカルト解釈になると色々と反論はできますが、ヨーロッパ文化を支配している通俗デカルト主義、さらには個人主義はこの傾向が明らかにあります(130〜1頁)≫。そもそも真理の絶対的な基準があるか否かすら怪しいのに≪「真理の基準は私だ」≫とか、≪「私の方が周りの人よりも正しい」≫と思い込んでいる自称知識人が現代の日本にもうじゃうじゃいることは、ツイを見ているだけでもよくわかる。そういう輩が己の信じ込んでいるイデオロギーを丸出しにして、「国民はバカだ」とか、「蓮舫に投票しなかった都民はバカだ」とか、自分がいかに愚かに見られているかも想像できずに、平然とツイしているのですね。確かに、ネットでよく言われているように、「ツイは体の良いバカ発見器」なのですね。ところでここで一つ注意しておかねばならないのは、「イデオロギー」は「理性」の働きとは何の関係もないという点。それはスピノザの言う「想像の知」であり、彼はそれを誤りの唯一の源泉として捉えていた(「理性の知」「想像の知」「直観の知」については『スピノザ』や『スピノザ』を参照してね)。西洋の哲学者のなかでもスピノザはかなり異端的に扱われていると思うけど、それは彼が理性というものの本質を見抜いてからだと言えるのかもしれない。今こそスピノザを読み直すべきかもね。と、『エチカ』の記述に面食らってそれ以来スピノザは一切読んでいないヘタレ翻訳者の私めが申しておりまする。
またまた脱線してもたので新書本に戻りましょう。それからやや細かな議論が続くけど、基本的に≪福沢諭吉は、西洋流の個人主義、独立自尊を、実に奇妙な形で儒教システムに接木したのです(156頁)≫という点が説明されていると見なせる。そして、著者はその点を強調するために『福翁百話』から次の文を、福沢が「自由」「平等」「権利」「個人」などの欧米の概念を儒教的な用語で取り入れた例として引用している。≪人には自信自重の心がなくてはならない。自分は、これだけの知恵と徳行を備えていて、世間に対して恥ずかしくない人間である。よって、自分の身は尊い者であると、自ら信じ自ら重んずるという意味であって、独立心の生ずる一番の源である(160頁)≫、あるいは≪独立というのは、まず他人の厄介になることをやめて、すべて自分の身に引き受けて自分の力で衣食し、親子の間であってもそのけじめを明らかにして、その後に、自分の考えていることを言い、自分の考えていることを行うという意味である(160頁)≫。この福沢の提言に対する著者のコメントは次のようなものになる。≪このような福沢の解釈は、一般民衆の心を打ち、今でも多くの日本人に説得的に響くかもしれません。賛成するか反対するかはさておき、非常に分かりやすい言い方であることは確かです。¶問題はその分かりやすさです。なぜならこの分かりやすさは、文化的なカオスであり、クリエイティビティに他ならないからです。¶ここで言われる独立心は、明らかに欧米的な個人主義の翻訳であり解説なのですが、その翻訳は「知恵」「徳行」「世間」「親子の間」という仏教的、儒教的な世俗主義のタームで受容されています。すなわち、元々のキリスト教的な文化とはかなり異質な文化の言葉です。それら出自の違う、文化的な産物が、翻訳語のちゃんこ鍋にぶち込まれて、謎の{旨/うま}みを発している、というのがこれらの文章の正体です(161頁)≫。
最後に≪旨み≫などという表現が使われていることからもわかるように、著者は、このような「接木」を必ずしも否定的に捉えているわけではない点に留意されたい。そのことは続けて次のようにあることからもわかる。≪福沢的文化的接木、これは福沢ならではのアクロバットであり、独特のバランス感覚と、詐欺師スレスレの大胆さと、天才的キャッチコピーのなせる業です(162頁)≫。福沢が非常にアンビバレントに捉えられていることがよくわかる。そのことは第2章の最後にある次の結論にもはっきりと見て取れる。≪まさに彼[福沢諭吉]の創造性とは、日本にあって、絶妙のバランス感覚、身体感覚で儒教システムを西洋文化に接木したことによります。その軽やかな独創性は、他に類を見ない、見事な言葉の{舞/まい}であったと言えます。それは、意味論的なカオスから発生する{麗/うるわ}しき創造性です。開花を加速するための「個」の誤読です。¶そのようにして、不可思議な形で西洋文明が日本に接木され、福沢に続く文明開化論者の言説の中で、個人、自由、権利といった西洋個人主義のタームが、次第に日本語話者の身体に捻じれた形で記号設置していったのです(162〜3頁)≫。確かにネットに氾濫している「個人」「自由」「権利」などといった言葉、あるいは「民主主義」や「人権」などといった言葉は、どうもなんか日本的な空気に染まっているように思えて、腑に落ちないことが多い。この本を読んでいると、その要因の一つとして、日本におけるそれらの用語の出自自体がきわめてヌエ的だという点もあるのだろうと思わざるを得ない。
それに関連して言えば、次のような著者の提言も非常に興味深い。≪この記号設置の捻れが、実は比較文化論的には非常に重要で、むしろ日本文化の固有性を担保するものになり、日本語言語文化圏の主たるコミュニケーションの形態を、むしろオリジナルにしている、というのが、本書の主張の一つです。¶大正教養主義、昭和の民主主義思想くらいまでであれば、日本人は欧米風の精神性を取り入れ、市民としての自覚を持ち、責任ある主体となるべきだ、西洋に倣うべきだ、とする論も可能でした。しかしながら、インターネット革命、グローバリゼーションの進行以後は、もはや「西欧に学べ」という言説に大した説得力はありません。欧米の価値観で日本人を評価するのではなく、日本文化特有の型を、もっと積極的に評価すべき時代に来ているのでしょう(144〜5頁)≫。グローバリゼーションと言うと、国境を取っ払って世界を均質化することだと思い込んでいる人が多いように思える。しかしそれは断じて違うのですね。世界の統合とは均質化のことではない。『シン・アナキズム』を取り上げたときに社会を織り上げる縦糸と横糸という話をした[ページ内検索キーワード:縦糸or横糸]。ここで言う縦糸とは、部族社会から始まって地方自治体や国家に至る、階層的に作用する垂直的な制度を、また横糸とは、最大の単位では国連などの、国家間を連携する水平的な国際的組織を意味する。つまり世界の統合を達成するためには、まず縦糸をなす個々の国家が安定していなければならず、その安定した国家と国家のあいだの関係によって横糸が形成されなければならない。多様化はまさにこの構造を通じて担保されるのですね。一部の右派グローバリストや左派が、得意気に語るような「国境のない世界」などというものは地獄に至る門戸を開くことに等しい。これまで何度も引用してきたがここでもう一度繰り返すと、ジョナサン・ハイトはわが訳書『社会はなぜ左と右にわかれるのか』で次のように述べており、どうやら私めと同じような直観を抱いているらしい。≪この手のコメントを聞いていると、あの忘れがたい名曲『イマジン』で、ジョン・レノンはリベラルの夢を実にみごとにとらえていたことに思い当たる。国も宗教もない世界を想像してみよう。私たちを隔てる国境や境界を消し去ることができるのなら、世界はきっと「一つ」になるだろう。これはいわばリベラルの天国だが、そんな世界はすぐに地獄と化すはずだと保守主義者は考えている。思うに保守主義者の直観は正しい(同書470〜1頁)≫。ちなみにかの『イマジン』は、ジョン・レノンが日本人のオノ・ヨーコの影響を受けて書いたという話を聞いたことがある。それがほんとうなら、「国境のない世界」などといった、まさにケシの花が満開に咲くお花畑のあだ花は、そもそも西洋の思想を捻じ曲げて記号設置した日本人の発想であるということになるのかもしれない。その是非は別として合理的な思考を重視する近現代の欧米人(てか、えげれす人)が、「国境のない世界」などという、ふわっとした空気のような概念を弄ぶというのは、どこか腑に落ちないところがあるような気がする。
というか、実際「国境のない世界」などといったような考えは、古くは中江兆民にも見ることができる。前述のとおり中江兆民は基本的に取り上げない予定ではあるけど、この点に関してのみ一部を取り上げておく。そこでは中江兆民の次のような文章が引用されている。≪理想を追い求める組織が必要とされる理由とは何か。理想というものが、たとえその実現が今日ただちには不可能であるとしても、純粋に理義の正しさという理念でしかなかったとしても、それを言葉にし、文字にして、いつか必ず実現される日を目指すべきである。すなわち、自由、平等、博愛といった理念を掲げ、国家同士を隔てる国境を取り払い、戦争を廃絶し、世界中の通貨を統一し、あらゆる国々に共通の役所を設け、土地の私的所有権や財産の世襲制を廃止するといったようなことも、探求すべき課題の中に含まれているのである(196頁)≫。これがいかに現在の日本の左派やグローバリストの、現実を無視して理念に執着する世界観や言説と酷似しているかは火を見るより明らかだけど、ここではそのことではなく、このような考えが一見すると西洋的に思えても実はきわめて日本的に歪曲されているという点を指摘したかったわけ。この中江兆民の引用に対する著者のコメントとして次のようにある。≪理学者として、「理」を想うのが理想なわけですが、これはもちろんイデアル、イデア的なという西洋哲学の伝統の翻訳語であります。それは兆民にとっては「純然たる理義」と地続きなのですが、朱子学的な「理」「義」と、やはり西洋的なイデア論、観念論は別物です。¶しかしながら、それがあたかも同じであるかのような説明が続くのです。兆民自身の中でも、かなりの程度それらは混じり合い、ハイブリッドな概念、思考のイメージになっていたのではないかと思われます。そしてそれが兆民の創造性となり、自身の哲学へと結晶するのです(196〜7頁)≫。なお「理学」とは、≪哲学とは西洋の文化的土壌の中で生まれた西洋語文化圏の産物ですが、そこに東洋の文化を接木し、独特の理論を展開し、「理学」として展開しよう(171頁)≫と考えていた中江兆民の用語で、よってここでは「哲学」と捉えればよいでしょう。
さて次はお約束どおり西田幾多郎と和辻哲郎は飛ばして、現役の思想家、中沢新一までワープドライブを全開にする予定だけど、その前に本論とは関係のない些細な指摘を一つだけしておきたい。それは和辻哲郎を取り上げた第5章にある次のくだりに関して。≪最近では文化進化学を唱えるジョセフ・ヘンリックなどが、自由と個人を重んじる個人主義の分析として、貨幣経済を発展させた西洋文化の進化過程を追った論考が刺激的です。ヘンリックは、西洋の個人のあり方の起源をプロテスタントの歴史的展開、特に家族制度の制定に見たりしています(286頁)≫。これは正確とは言い難いですね。287頁の欄外注にあるように、このヘンリックの業績は、『WEIRD 「現代人」の奇妙な心理、経済的繁栄、民主制、個人主義の起源』(白揚社)に書かれているもので、私めはこの大著を原書のThe WEIRDest People in the World(Farrar, Straus and Giroux)ですでに三度は読んでいる。確かにとりわけ冒頭にプロテスタントに関する記述はあるとはいえ、そのほとんどは、とりわけ家族制度に関してはカトリックに言及して立論されていたはず。そもそもプロテスタントに限定するのであれば、何も人口に膾炙しているとはとても言えないジョセフ・ヘンリックなど持ち出す必要はなく、誰もが知るマックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』に言及すればいいだけなんだから。
ということで中沢新一に参りましょう。私めも一時期中沢新一の本を熱心に読んでいたことがある。だいたい若者はその手の本にけっこうはまるんだよね。そのことは、たとえばケン・ウィルバーの『意識のスペクトル』を始めとするトランスパーソナル心理学や、かつて工作舎から刊行されていたフリッチチョフ・カプラの『タオ自然学』、ルパート・シェルドレイクの『生命のニューサイエンス』、ライアル・ワトソンの『生命潮流』などといったオカルトとも見なせるような本にも当てはまる。何を隠そう、かく言う私めも由緒正しき若者の一人として、それらの本をきっちりと読んでいた。まあそれはよいとして、これらの本は新書本にはまったく関係がないので、ここでは中沢新一に焦点を絞りましょう。そこではまず『チベットのモーツァルト』が取り上げられている。この本は間違いなく読んでいるはずだけど内容はまったく覚えていない。著者は、文庫版前書きの文章を引用して、次のように述べている。≪中沢はそんなフランス思想[構造主義やポスト構造主義のフランス思想]から生まれた分析道具を、その文脈からひっぺがし、チベット仏教に応用してみせます。しかも自らその身をチベット仏教にどっぷりと浸しつつ、内側からその経験を分析していくのです。つまり、フランス学術的記号を、その根が生えている文化的土壌から引っこ抜いて、自らの身体性を頼みにチベット文化に融合させつつ、かつそれを日本語言語文化の中に捻じ込むわけです(315頁)≫。ということは、中沢氏においてはフランス思想とチベット仏教と日本文化がちゃんぽんにされていることになる。かなり無茶苦茶だとはいえ、西や福沢も欧米思想と、元来は中国文化の産物である儒教と日本文化をちゃんぽんにしたわけだから、同じと言えば同じではあるが(ただし儒教は古くから日本に定着していたのに対しチベット仏教はそうではないという違いはある)。
そのあと中沢氏による、クリステヴァやドゥルーズらポストモダン思想やブルーノ・ラトゥールの議論と仏教的な言説の融合について長々と論じられているけど、話がややこしくなる、というか一度読んだだけではまとめ切れないので詳細は述べない。さて中沢氏は、この『チベットのモーツァルト』を書いたあと、≪彼自身がその行者であったチベット密教から{華厳経/けごんきょう}へと研究の重心をシフト(336頁)≫させたらしい。そして≪そこで中沢は、{南方熊楠/みなみかたくまぐす}の華厳経研究、{山内得立/やまのうちとくりゅう}のアジア文化研究、井筒俊彦などの大乗仏教研究、つまり西洋ベッタリの輸入学問ではなく、それぞれ独自の視点をアジア文化に向けた日本人研究者、オリジナリティ溢れる日本人研究者の視点に寄り添って、独自の道を歩んでいきます。山内の「レンマ」という概念を中沢なりに再解釈したレンマ学という学問が展開されることになるのです(337頁)≫。はて? 「レンマ」とは何ぞや? それについて次のようにある。≪「レンマ」とは、事物を整理し論理づける「ロゴス」に相対する言葉です。「ロゴス」は「ロジック」つまり、「論理学」や「論理」などの語源になった言葉ですが、ヨーロッパ文化は、このギリシャ思想の伝統であるロゴス的なものから始まります。通常ロゴスに対するものはミュトス(神話的)だったりするのですが、ここで中沢は山内に{倣/なら}って「レンマ」を持ち出してくるのです。ざっくり言えば「論理ではなく直感」ということです(337頁)≫。ということはおそらく、「レンマ」とは私めが冒頭であげた「直観」「想像力」「情動」「常識」などを指すのでしょう。ちなみに著者は「直観」ではなく「直感」と記している。個人的には素朴心理学的な虫のしらせ程度の感覚としての「直感」と、またれっきとした認知能力としての「直観」を厳然と分けるようにしている(訳書でもそう使い分けており、一冊の訳書のなかに両方の表現があってもそれは表記の揺れなどではなく意図的に使い分けているのですね)。これに関して著者がどう考えているかはまったくわからないので、この「直感」が私めの言う「直観」と等しいのか否かはよくわからない。さらに次のようにある。≪中沢によれば、人類が数万年前に「認知革命」を起こした時から、つまり言葉を発達させ、象徴や宗教儀式が生まれ、複雑なコミュニケーションをするようになった時から、人間の知性はロゴスとレンマの複合体です。本来、人間の知的活動では、論理と直感が混じり合って作動しているのです(337〜8頁)≫。「ロゴス」と「レンマ」とはまさに、先に取り上げたスピノザの「理性の知」と「直観の知」に対応していると見てもよいでしょう。ちなみにこのような複合性を、中沢はバイロジック(多重論理)と呼んでいるらしい。バイロジックの説明として次のようにある。≪中沢は、(…)近代性から最も遠い場面から、アジア的、非近代的、古代の文化的磁場から語りを発していきます。野生の思考、神話的思考万歳です。そこには近代資本主義、近代合理主義が先鋭化してきた、非対称でバランスを欠いた世界は存在せず、全てがモノとつながっている、非個人主義的世界観があったわけです。そこは矛盾が排除されない、無意識の世界が、神話の非科学的で不合理な論理が{跋扈/ばっこ}する空間です。¶中沢はそれを「バイロジック」(多重論理)と呼びます(334頁)≫。
そして著者は中沢新一を扱った第6章を次のような言葉で結んでいる。≪そもそもこの論理という言葉の中の「理」という言葉も、合理という言葉の中の「理」という言葉も朱子学から来ていることは、[西周を扱った]第1章から[中江兆民を扱った]第3章までで見てきました。そこには西洋近代思想が{滅殺/めっさつ}した「モノの道理」が潜んでいるのです。合理性、つまり「理」に合っている、という言葉を使いながら、密かに別種の「理」が常に作動しているのです。それが日本語文化圏の特徴です。¶その「理」のシステムは、[中沢の手で]華麗なるフランス思想を簡単に取り込み、別物の文化に仕立て上げてしまいます。翻訳文化としての日本語の人文科学系学問の中には、こうした「バイロジック」の種が常に潜んでいます。ヨーロッパの「理」論を、論「理」を、「理」屈を輸入し、翻訳した時に、すでに翻訳語としての暴走が、翻訳語ならではの暴走が、日本文化に深く埋め込まれた「理」の暴走が始まるのです。¶中沢のいかがわしさは、日本語という思考システムに内在する暴走システムをうまく表出した思想であり、新たな記号の舞踏であると言えるでしょう。¶それが日本的誤読の祝祭空間を形作るのです(345頁)≫。私めなら≪日本的誤読の祝祭空間≫に「日本独自の魔改造文化」という文言をつけ加えるでしょうね。これを読むと、もう一度中沢新一を読みたくなった。でも、地震で山体崩壊を起こしたままにしている本の山から見つけるのは面倒だし、ましてやすでにわが家のなかのどこかに転がっているやもしれん本を新たに買う気もないからや〜〜めたと思い直した。
次は東浩紀。彼の本は『動物化するポストモダン』しか読んでいないし、しかも内容はまったく覚えていない。むしろ感心したのは、去年の秋の大統領選でトランプの当選が決まったとき、アメリカ人ですらない日本人の自称リベラルがこぞって発狂していたときに(そのときの自称リベラルの狂騒ぶりについては『国家の尊厳』の枠で囲まれた部分を参照されたい)、私めが見た限りでは彼一人が、「ちなみに、ぼく自身はトランプは支持してません。けれどもトランプが多くの人に支持されたという現実は認めるべきだと思う。それが認められず、大衆はバカで騙されているで片付け、なぜリベラルが負けたかを考えるつもりがないひとは、現実について語る資格はないですよ」という非常にマトモな発言をツイでしていたこと。朝日岩波フィルターバブルにズブズブに浸かった自称リベラルの発狂ぶりをさんざん見せられていると、当たり前田のクラッカーではあるが、「いやあ!まともなリベラルもいるもんだ」と思ったものだった(ちなみに私めは、まともなリベラルをリベラリストと呼ぶことにしている)。のみならず、彼のようなまともなリベラルがもっとたくさんいれば、21世紀というややこしい時代にあってもここまでリベラルは衰退せずに済んだのにとすら思ったのを覚えている。参政党の躍進はまさにリベラルの衰退を逆方向から照射していると捉えることができ、それを加速したのが石何ちゃらとかいう政権の極左ぶりだったと言える。自称リベラルと左派メディアが態度を改めない限り(とはいえその種の自浄能力がまったくないのも自称リベラルや左派メディアの大きな特徴でもあり、東氏のツイはまさにその点をまっとうに指摘しているのですね)、あるいは参政党自体がとんでもないヘマをやらかさない限り、この日本第一主義を掲げる政党は、いかに自称リベラルが泣こうが喚こうが発狂しようが、今後ますます躍進すると思う。何しろ「大衆はバカで騙されている」わけではないのだから(この点は最近の認知科学や脳科学、あるいは集合知の概念によって裏づけられるけど、これまで何度も言及しているので、それについてここで詳述することはしない)。
ここで一点明確にしておきたいことがある。それは「自称リベラル」などと頻繁に書いているので、私めが「反リベラル」なのではないかと思っている人がいるかもしれないけど、そうではないということ。すでに述べたように、私めは保守的な縦糸と、リベラル的な横糸の両方が不可欠だと考えている。だからサンデルのようなコミュニタリアンを評価するとともに、ロールズやローティのようなリベラリストも評価しているのですね。なおサンデルについては『サンデルの政治哲学』を、また、ロールズやローティについては『アメリカ現代思想』を参照してね。ところが、「国境のない世界」などといった、グローバリスト的で多様性のまったくない均質的な世界を目指すイデオロギーに染まった自称リベラルは(不思議なことに自称リベラルは、それにもかかわらず「多様性」を声高に叫び、その矛盾にまったく気づいていない輩が多い)、保守的な縦糸のみならず、本来のリベラル的な横糸も破壊しようとしている。だから私めは自称リベラルを嫌っているのであって、「反リベラル」では決してない。つまり本来のリベラリズムを否定する気はさらさらない。東氏も、上にあげたツイのみで判断すれば、私めと同様な見解を抱いているのではないかという気がする。
あっと! また大きく脱線した。もとい。東氏に関してまず次のようにある。≪本書にとって関心の的は、現代思想の担い手としての東の主張そのものではありません。そうではなくて、西洋思想のロジックを、奇妙なやり方で日本文化に記号設置した、その言論活動のあり方そのものです。自身のオタクとしての身体性を基に、欧米現代思想のロジックを日本のオタクカルチャーに接続した、その身振りにこそ東の真骨頂があります。『動物化するポストモダン』という奇妙な書物を世に問い、難解な現代思想の論者から分かりやすいオタク文化論者への転身を果たした「あずまん」こと東浩紀。「萌え要素」「データベース消費」「動物化」などなど華麗な論で次世代の批評家の目指すべき{頂/いただき}に君臨した東浩紀。彼のフランス思想と日本文化の接木について、ここでは見てみようと思います(352頁)≫。
ところで著者は、「ポストモダン」について次のような興味深い指摘をしている。≪日本のポストモダン文化の表面的な記号設置は、かなり複雑な装置です。なぜなら、ある意味で、ポストモダンの思想は、それがドゥルーズにせよ、デリダにせよ、フーコーにせよ、リオタールにせよ、日本文化に根を張る本音の部分に刺さるからです。¶というのも、ポストモダンの思想は、西欧近代の価値観を作る個人、主体、倫理、精神、自由など、それらの概念を統合する哲学的システムに「ノー」を突きつけたからです。一言で言えば、「アンチ主体」がポストモダンのノリなのです。それは一周回って日本人の生活感覚と合致するのです。¶モダンはダメだ、というポストモダンですが、モダンのない日本にとってみると、身体感覚的に分かるのです。だからこそ、ポストモダンはブームになり得たと見ることができます(365頁)≫。これは漠然とだけどよくわかる。何しろ一九八〇年代にはポストモダンが大流行で、かく言う私めも、ドゥルーズ&ガタリの『アンチ・オイディプス』や『千のプラトー』を読んで、ロクにわかりもしないのに悦に入っていたくらいだしね。やはりそれらの本は、日本人の生活感覚にフィットしていたと言われると、そんな気がしないでもない。そう考えてみると、それより前のページにある次のような指摘も合点がいく。≪これは東も繰り返し使うロジックなのですが、日本はモダンさえきちんと輸入しきれなかった。日本には自由と平等の理想も、それとセットになった民主主義もありません。それは漱石の言うように、常に上からの文明開化で、押し付けられたもの、強制されたものです。骨格も筋肉のつき方も、玄関の作り方もまるで違うのに、無理やり着せられた洋装や革靴のようなものでした。¶そもそもモダンの土台の土台たる欧米流個人主義の伝統がないのです。それは本書で見てきた通り、謎の記号設置、文化的接木の連続です。だから、その上でポストモダン(モダンの後の意)なんていっても、モダン=西洋近代がないんだから議論にならないでしょう、という話です。¶「モダンなきポストモダン」は意味不明。そうかもしれませんが、本書はむしろここに日本の良さを見ます。下手に外国コンプレックスに絡み取られて、外国人とのコミュニカビリティを担保しても、結局は外国人かまってちゃんになるだけです。日本の良さはそこにはない。日本人の良さは、謎の記号設置から生まれるオリジナルな発酵です。日本語文化圏に身を浸したその身体性が生む、誤読と暴走が日本の知的言説の味です。¶この「暴走」はあくまで欧米視点から見ての「暴走」であり、日本人視点からは「説得的」だったり「まっとう」だったりするのです(362〜3頁)≫。日本には今でも、出羽の守という≪外国人かまってちゃん≫がうじゃうじゃいるよね。それはそれとして、ここには私めが、現在では左派からすらポモとか言われて嘲笑されているポストモダンをかなりの程度評価している理由がつまっているように思われる。というか、それをみごとに意識化してくれたと言ったほうがよいかも。つまり、日本のポストモダン受容の根底には、まさしく日本独自の文化への接木から生まれた独自性があるのですね。だから、日本人たる私めには無視できない部分があると、無意識的にせよ、意識的にせよ感じさせてくれるのだということに気づいたというわけ。それを裏付けるかのように、著者も次のように述べている。≪西洋近代の主体の哲学、同一性、アイデンティティの思想を壊すのがポストモダンの潮流なのですが、そんな哲学を読んだ日本人は、「おお、この話なら分かる、自分のことだ」というような反応になる。皮肉なことに、西洋の反アイデンティティの思想が、日本人のアイデンティティを保証してしまっている、という事態です。ここで記号設置が奇妙な形で{捻/ねじ}れます。¶そんなこんなで「ポストモダン」が流行し、「脱構築」「生成変化」「リゾーム」「権力」「パノプティコン」などなどのタームが思想界隈でもてはやされ、やはりこのような概念は、それぞれが日本文化に謎の記号設置をすることになります(366頁)≫。
その後リオタールによる「大きな物語」の終焉に関する話が続く。これに関しては個人的にも言いたいことがあるが、ここでは次の指摘を取り上げるに留めておく。≪日本的な家族システムの崩壊がリオタールの「大きな物語の凋落」に「対応」している、と東は書いています。「対応」しているだけで「同じもの」ではありません。ここで東は、意識的に本来つながらないものを接続し、記号設置を暴走させているのです(376頁)≫。実のところリオタールの本来の主張とは次のようなものだったのですね。≪[「大きな物語の終焉」に関して]リオタールの言わんとすることは、マルクス主義や、近代の主体の哲学、特にドイツ観念論や、さらにはそれをベースにした大学制度、知の制度が終わった、くらいの意味でした。しかしこれは拡大解釈され、皆が信じられる共通の価値はなくなった、各人が勝手に自分の価値観を信じているだけだ、それがポストモダンだ、という定義にまでなっていきます(368頁)≫。つまり≪日本的な家族システムの崩壊≫の原因を、リオタールの「大きな物語の終焉」に帰するのは相当に無理があることになる。個人的には、何度も書いてきたように、「大きな物語の終焉」ではなく、むしろ作家の日野啓三氏の言う「中景の欠如」に近いと思っている。この新書本の著者は、そこに捻じれた記号設置とその暴走を見て取っているのですね。非常におもろい見解だと思う。
それから著者は私めも読んだことのある『動物化されたポストモダン』を取り上げて次のように述べている。≪東の思想についてのネット記事をいくつか検索してみれば、大抵はアレクサンドロ・コジェーヴの動物化の理論によりつつ、東は『動物化されたポストモダン』を書いたという話になっています。もちろんこれはレジュメとして正しいように見えます。¶しかしながら、コジェーヴの動物化の理論というのはほとんどなく、あくまで動物と人間を比べると人間の方が偉いよね、理性があるから、というアリストテレス以来の西洋伝統のやり方を思いっきり受け継いでいます。コジェーブは「動物」ではない「人間」の理論を展開しているのです。ヨーロッパ2500年の思索、文化の重みを正面から背負ったヘーゲル主義者をコジェーヴはやっています。¶その理論の派生の派生、冗談のような注から、極東日本で、東の動物化するポストモダンの言説群が生まれていくのです。¶ポストモダンとオタクの接続、大きな物語の失墜と、オタクの動物性の接続。これらは文脈がかなりずれた、謎の文化的接木以外の何物でもありません。そしてグローバル社会にあっては、フランスへと逆輸入され、フランス人の日本文化オタクたちの間で、日本のオタク文化を理解するための土台として共有されていきます。¶まあ、その共有はあまりうまくいっていません。東の理屈が、フランス人からするとよく分からないからです。そりゃそうです。これだけ捻じれているので、それをフランス流、欧米文化に記号設置した論理で理解しようとしても飛躍だらけで意味が通じないのです。ここには、論理的なコミュニカビリティがありません(384〜5頁)≫。むしろこれは論理重視の欧米側に、東氏が語るような言説を記号設置する装置がないからだと言えるかもしれない。だからこそ、日本の独自性をもう少し正当に評価すべきだと個人的に思っている。その点において本書や、少し前に取り上げた『日本群島文明史』はきわめて興味深いのですね。大袈裟に言えば、グローバリズムの潮流のなかで、いかに文化的な多様性を保つことができるのかという問いに答える際のヒントの一つが、そこにはあるように思えてくる。
それに少しばかり関連して著者は次のようにも述べている。≪兎にも角にもヨーロッパの精神=理性=知性=人間の本質、といった価値観セットは、近代を規定するヨーロッパ思想の中心に、政治体制の中心に位置し、ある意味で壊しようがないくらい強固なのです。¶ところが日本にはそれがない。ルネッサンスも啓蒙もモダンもユマニズム(人文主義)も碌にないのです。あるのは和辻が言ったような人と人の間、関係性、そしてその関係性を支配する謎の空気の哲学です。人間と動物が並列に位置するアニミズム的伝統です。一寸の虫にも五分の魂、そんな{諺/ことわざ}がまかり通る言説空間です。人間が動物よりも遥かに上、とするヨーロッパの伝統とはほど遠く、むしろ今風のエコロジックな、共生の思想の方が強かったのが日本です(386頁)≫。奈良公園のシカりんちゃんたちは、まさにそのような日本の文化の特徴がみごとに反映されていると言えるでしょうね。これは先の『日本群島文明史』で言うところの「群島文明」としての日本の特徴と言えるように思える。しかし話はそこに留まらない。続けて次のようにある。≪複雑なのは、その空気の政治の中に、欧米産の近代ヨーロッパの翻訳語が居座っていることです。そして法体制、政治体制、メディアの体制に至るまで、近代ヨーロッパ産の形式だけを受け入れたのです。それらは日本文化に深く根を下ろしているわけではないのですが、中途半端に空気の政治の中で使われています。本書で何度も見てきた通り、そこには文化的なカオスが常時、作動し続けています。¶東が一般人の思考に寄り添い、日本で一般的に読まれることを意図して、難解な西洋哲学言語ゲームかから、日本語で分かりやすく議論を展開する、というところに土俵を移した瞬間、東はこの日本言語文化の何でもアリかと思わせるほどの、野放図なカオスのエネルギーに身を{晒/さら}すことになったのです(386〜7頁)≫。これは『日本群島文明史』で言うところの「大陸文明」を、東氏を含めた日本の(自称ではない)古今の知識人たちが、巧妙に独自の「記号設置」を行なってきたことを意味する。
そしてさらに著者は次のように主張する。≪東の言説がある程度受け入れられ、ある意味では小さく「バズ」り、評価を得た、というのは、そのような背景があるのです。そこにあるのは西洋思想を中途半端に記号設置して、150年間ほど経過し、奇妙な身体−記号設置がなされてしまった、日本語文化圏と、言語文化の様態なのです(388頁)≫。つまり東氏は、「大陸文明」を独自に「記号設置」してきた日本の知識人たちの、現代における代表格の一人と見なせるということになる。もちろん著者は東氏のこのようなあり方を否定的に捉えているのではなく肯定的に捉えている。そのことは東氏を扱った第7章の末尾にある次のような記述を見てもよくわかる。≪東は自らのオタク的身体、PCの前に座り携帯に常時接続し、仮想空間に欲望を飛翔させるオタク的身体感覚をもとに、ルソーやデリダの二次創作を行ったのです。それはフランス語では決してできなかった言葉の舞であり、暴走であり、脱構築であり、創造行為だったはずです。¶そこは中江兆民や西田幾多郎、中沢新一とも奇妙に響き合う、バイロジックの論理が駆動する記号空間でした。郵便的、データベース消費、{萌/も}え、動物、訂正可能性、といったキーワードがそこで増殖し、新たな論理を創造していきます(410頁)≫。まあデリダさんより徹底的な脱構築が東氏には可能だったということになるけど、「大陸文明」のみならず「群島文明」の影響も濃厚に受けた日本人の東氏とは異なり、デリダさん自身がどうしても西洋の論理、つまり「大陸文明」の論理のみを基盤にせざるを得なかったがゆえにその徹底的な脱構築はできなかったということになるのでせふ。
ということで次は、落合陽一氏。他の七人とは異なり、そもそも私めは落合氏の名前を始めて知ったのでここでは一点だけ言及するに留める。なお落合陽一氏は、ジャーナリスト落合信彦氏の息子らしい。落合信彦氏の本であれば、中沢新一氏の本やらケン・ウィルバーやらカプラやらと同じで、かつて喜んで読んでいた時期がある。いずれも胡散臭いところが似ているが、彼らの本を読むことは、かつては若者の通過儀礼の一種だったと言えるのかもね。≪「落合信彦を批判するのは、プロレスを八百長だと言うようなもの」というテリー伊藤の有名なセリフ(414頁)≫があるらしい。まあそれはよしとして、言及したい一点とは、この章で紹介されている落合氏のキーワードである「機械親和性」という概念が、来月刊行予定のわが訳書、アンディ・クラーク著『経験する機械 ――心はいかにして現実を予測し構成するか』で提起されている「拡張された心」や「脳による予測処理」の概念に近いように思われたこと。たとえば新書本に次のようにある。≪機械親和性の非常に高い落合の人間観の特徴は、まず人間と機械を対立するものではなく、人間を、さらには生物全てを機械の一種と見るところから始まります(416頁)≫。あるいは≪ユビキタス社会とは、情報によって世界が統合された社会のことです。我々はすでに、旅行するにも食事するにも、インターネットにアクセスしつつ、行動しています。ネットを介して我々が作り出す集団脳の世界は、もはや人間中心主義などと楽観的なことを言っている世界ではないでしょう。そこは人間の意思や理性によるコントロールというのが、夢物語であることが暴露される場所でもあるからです(420頁)≫。対するアンディ・クラークは一九九〇年代に弟子の哲学者デイヴィッド・チャーマーズとの共同で「拡張された心」という論文を書いている。『経験する機械』には次のようにある。≪われわれは「拡張された心」と題するこの論文で、「個人の心という機械は脳や中枢神経系に、いやそれどころか、より一般的に言って自己の身体に限定される必要はなく、真の心の回路は脳、身体、そして物質的で技術的な世界の諸側面にまたがって存在しうる」と論じた(同書219頁)≫。ちなみにその論文で紹介されている「オットーとインガはニューヨーク近代美術館に行く」という有名な思考実験は、このような二人の考えを具体的に敷衍したものだと言える。落合氏の「機械親和性」という概念は、このクラーク&チャーマーズの考えに近い。また新書本にはそれに続いて次のようにある。≪例えばSNSを通じて、我々の脳の神経組織の発火パターンはつなげられています。そこは機械のアルゴリズムによって、我々の神経組織の発火パターンがコントロールされ、我々は画面とスマホに釘付けにされてしまいます。機械の中の0と1の電気信号による計算結果は、我々の脳に新たな神経回路を作り、脳の構造を変え、我々の精神を作り上げてしまいます。そして、我々はネットにほぼ常時接続し、欲望や嫉妬や羨望をネットに解放し続けているのです(420頁)≫。これは一見したところ、またまた文系学者が理系の知識を歪曲して自分の都合のいいように利用している例のようにも見えるけど、実は脳の予測処理理論の考えに依拠すればかなり理解できる部分があるのですね。ただしここでは脳の予測処理がいかなるメカニズムなのかいついては述べない。それに関してはぜひぜひ刊行の暁に『経験する機械』を買って読んでおくんなまし。と、ステマ、もといアカラサマをする私めであった。実はこの新書本にもアンディ・クラークへの言及が421頁の欄外注にある(落合陽一氏自身がアンディ・クラークに言及しているのか否かはよくわからん)。ただしそれは、最新刊の『経験する機械(原題はThe Experience Machine: How Our Minds Predict and Shape Reality)』ではなく、古い『現れる現在』(ハヤカワ文庫NF)と『生まれながらのサイボーグ』(春秋社)だけどね。
ということでこれで本文に関してはおしまいだけど、最後の「あとがき」に以上八人に関して次のように簡潔にまとめられているので、ここに引用しておきましょう。≪西周が儒教的な翻訳語を量産し、洋の東西を強引に接続します。日本語言語文化の最深部に、ヨーロッパコンプレックスがガッチリと組み込まれます。そこは、儒教、仏教、神道とキリスト教由来の文化が混ざり合う空間です。以降、そのカオスが様々な形で混ぜ返され、更新されていきます。¶福沢諭吉は、日本文化と相容れない個人主義を、その理想として組み込みます。中江兆民は自由と民権について、同様のことを行います。西田幾多郎はそのカオスの中から仏教的な要素を引き出して、さらに記号体系を{撹拌/かくはん}します。和辻哲郎は倫理、人との交わりについて、仏教的、儒教的要素を引き出します。中沢はそこにチベット仏教とフランス現代思想を混入します。東浩紀はそれを日本文化の誇るオタク文化と混ぜ合わせます。最後に落合陽一はテクノロジーの力を借りて、仏教とテクノロジーを融合させます。¶このように文化的接木が何重にもなされ、記号設置のあり方が更新されていくのです(458〜9頁)≫。日本による西洋文明の取り込みに関して書かれた本の中では、最近では前述の『日本群島文明史』と並んで出色の本だと言えるでしょう。思わずカッパ・ブックスの光文社でもこういうタイプの新書本も出すのねと感心してしまいましたと述べて、この本に関しては終わりにしましょう。
※2025年9月15日