◎バチャ・メスキータ著『文化はいかに情動をつくるのか』
本書はBetween Us: How Cultures Create Emotions(W. W. Norton & Company, 2022)の全訳である。
著者のバチャ・メスキータはオランダ生まれの社会心理学者であり、アムステルダム大学のニコ・フライダ教授のもとで情動研究を始め、イタリア、ボスニアでの生活を経てアメリカに移住し、ミシガン大学で博士研究員として文化心理学の研究を深めた。ノースカロライナ州にあるウェイク・フォレスト大学での准教授を経て、現在はベルギーのルーヴェン・カトリック大学で教授を務めている。なお、著者の両親はナチスの迫害を受けており、巻末の註(はじめに―1)によれば父親はアンネ・フランクの級友で、彼女の日記に言及されているという。
著者の研究対象は情動に対する文化や社会の影響で、著者は文化心理学のパイオニアとして高く評価されており、『情動はこうしてつくられる――脳の隠れた働きと構成主義的情動理論』(紀伊國屋書店、二〇一九年)の著者リサ・フェルドマン・バレットとも親しく、彼女の情動に関する理論の影響を強く受けている。ただし、本書はバレットの本のように脳生理学や神経科学に基づくミクロな記述はなく、社会心理学的なマクロの視点からの記述が大半を占めており、自身の異文化体験にもとづく{具体例/エピソード}も多いので読みやすい。
また、解説を寄せてくださった唐澤真弓氏(東京女子大学教授)をはじめとして、何人かの日本人研究者とも共同研究をしており、本書にもその成果として日本人の事例がいくつか紹介されている。日本人の情動には欧米人から見ればわかりにくい一面があり、第3章に書かれている「甘え」についての記述を読めば、日本文化に対する欧米人からの視線の一例として読者もその特異さに気づかされるであろう。
本書の概要については、「はじめに」の後半(一三〜一四頁)にまとめられているのでそちらを参照していただき、本稿では、いくつかの訳語について補足しておきたい。
前述のとおり、バレットの構成主義的情動理論で提起されている概念が本書でもいくつか使われているが、本書は、情動という現象をバレットほど細かな{粒度/りゅうど}でとらえてはおらず、心理・社会レベルに絞られているため、それらの概念を厳密に把握していなくても十分に理解できるだろう。
たとえば情動(emotion)」と感情(feeling)の区別は、バレットの本では独自の意味を持つが、本書では、「情動」は生理的な作用を指し、「感情」はその主観的な現われを指すという一般的な意味で捉えても{的外/まとはず}れではないはずだ。
とはいえ、著者は内面の感情が情動の唯一の表現形態であるとは考えていない点に留意する必要がある。そう考えられているのはMINE型情動が流布している欧米社会においてであって、OURS型情動が流布している日本を含めた非欧米社会では情動は必ずしも内面の感情によって表現されるとは限らない(MINE型情動、OURS型情動については第2章を参照)。
概念とインスタンスもバレットが『情動はこうしてつくられる』で使っている言葉だが、本書においては、第6章にあるように「(情動)概念」は{容器/コンテナ}、「インスタンス」はそれに収められる個々の具体的な内容(一回ごとの情動の発露)ととらえればよいだろう。
また、情動エピソードも容器に収められる内容と見なせるが、ただし{エピソード/傍点}とあるように、インスタンスのように個別的ではなく、ストーリー性を帯びており、そのストーリーは文化ごとに異なる。これは、たとえば「怒り」の情動エピソードを説明した次の記述でよくわかる。「怒りには、道徳的なストーリーが織り込まれている。その怒りは正しいか、間違っているか? 誰は怒ってもよくて、誰が怒ってはならないのか? 標的となるのは誰か? これらの文脈に合うストーリーはそれぞれの文化ごとに異なる」(本書一四〇頁)
ところで、訳者は本書を、移民問題への処方箋として高く評価したい。
著者の研究テーマのひとつに「移民の情動」があり、本書でも移民を対象にした数々の研究が紹介されている。また、著者自身がアメリカへ移住した当初にオランダ文化との違いに戸惑ったエピソードも第1章に描かれているように、十数年間の移民経験がある。
昨今、欧米で移民問題が盛んに論じられている。大手メディアの記事では移民問題が「右傾化」という括りで捉えられているように読めるが、訳者はそれを疑問視しており、移民問題とはイデオロギーに関する問題ではないと考えている。
現在のヨーロッパでは、デンマークやスウェーデンなど、左派政権が移民を制限する方向に走り始めている。ここで「左派や中道でも移民制限に走るようになりつつあるからこそ、右傾化と言えるのでは?」と疑問に思われる人も多いのかもしれないが、そこに大きな落とし穴がある。「移民制限は本来右派がやるものだ」という前提そのものが誤っている、という可能性を見落としていないだろうか。
要するにこの疑問は、移民制限は右派がやるものと{端/はな}から決めつけておいて、中道や左派も移民制限をやり始めたのだから「まさに右傾化が起こっているのだ」と見なし、それによって元来無意味な前提をさらに補強するという、同語反復、もしくは論点先取の{誤謬/ごびゅう}の{類/たぐい}にすぎない。
移民問題はイデオロギーに関するものではなく、「庶民の生活」に関するものだと訳者はとらえている。ここで言う「庶民」とは、移民側と受け入れ側の双方を指す。庶民の生活が一定の限度を超えて損なわれていけば、思想信条など関係なく、人々のあいだで移民が「移民問題」としてクローズアップされるようになるのは当然のことであろう。欧米で現在起こっている現象は、まさにそこに起因する。
では、なぜ庶民の日常生活に影響が及ぶ問題が、移民と受け入れ側の住民のあいだで生じてしまうのだろうか? その理由は本書を読めばよくわかるので、この点をもう少し詳しく見てみよう。
とりわけ邦題にあるように、「文化が情動をつくる」のであれば、受け入れ側の住民と、別の文化圏で育った移民のあいだでは、自己の情動の表現や他者の情動の知覚のありかたが大幅に異なりうる。そしてこの「情動の実践」方法が異なれば、相手を理解することも困難になり、そこに{軋轢/あつれき}が生まれる。
本書にはその具体例が数多く紹介されているが、要点だけあげておこう。
自分の感情をどう理解するかは、自国の文化のもとで利用可能な情動概念によって決まる。情動概念は社会的なコミュニティーの内部で共有されている。私が利用できる情動概念は、情動的なストーリーを「描く」ための特定の方法を提供し、そこに書かれていない結末で終わることを困難にするのだ。(二二七頁)
特に最後の一文に注目されたい。自国の文化の情動的なストーリーに書かれていない結末でストーリーを締め括ることは困難であるという、この文化・社会・心理をめぐるジレンマが、移民問題の根底に存在するのだ。
では、どうすればこのジレンマを解決できるのか? それについては著者が第7章と第8章で具体例とともに提案しているので、ぜひご自身で一読いただきたい。いずれ日本も移民問題のジレンマに直面せざるを得ないのだから、その心の準備を整えておくためにもきわめて有益な一冊である。
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