◎野原慎司著『人口の経済学』(講談社選書メチエ)

 

 

それほどむずかしいことが書かれているわけではないように思えるのに、なぜか読みにくい。とりわけ前半はそう感じた。わが脳の問題なのかもしれないけど、文章が頭にスムーズに入って来ないんだよね。

 

そもそも文字の消し忘れのような至って単純なミスが前半に三か所ほどあった。その至って単純な事実からも、「まともに校正されていないのでは?」という疑いがムクムク湧いてきた。それはその手の単純なミスに限らず、ある段落と次の段落が完全に矛盾しているように思える箇所や、一文内ですらたとえば「AなのでBである」というような因果性を示す表現をしていながら、AとBのあいだにいかなる因果性があるのかがまったくわからない箇所もちらほらあった。

 

そう思いつつ読み進めていたら、120頁に「こりゃあかん」、英語流に言えば「That does it!」と言いたくなるような文章があって読むのをあきらめようとしたけど、貧乏性の私めは、わが脳が「サンクコスト、サンクコスト」とわめいているのに、結局最後まで読んだ。

 

その文章とはアダム・スミスの『国富論』の冒頭について解説したもので次のようにある。「すなわち、労働者と働かずに暮らす階層に分化していない平等な社会は貧困と表裏一体だということであり、豊かな社会と不平等の関連を述べたのだということである。これは、(…)平等な社会は道徳上望ましいとしても、格差をもたらしがちであることをスミスが示したものだと言える(120頁)」。この文章だけを読んだ場合、前半はその前の段落(後述)をきちんと読んでいれば、わかりにくいとはいえ、ある程度理解できるんだけど、後半の「平等な社会は、(…)格差をもたらしがち」の部分は自己矛盾しているようにどうしても思える(これから説明するようにこれを書いたとき著者は混乱していたと思う)。

 

ここで注意しなければならないのは「平等な社会」と「豊かな社会」が何を意味しているかだけど、128頁に「『国富論』冒頭において、未開社会の平等に対して文明社会は不平等であるが豊かであるとして、不平等を止むを得ないとしたように見えたスミスではあるが」とあるので、「平等な社会=未開社会」「豊かな社会=文明社会」であることになり、120頁の前半部分に関しては、そう読み替えれば論理的に整合する。しかし問題は後半部で、この箇所を読み替えると「これは、(…)未開社会は道徳上望ましいとしても、格差をもたらしがちであることをスミスが示したものだと言える」となる。

 

実のところ、これは大問題なのですね。なぜかと言うと、120頁のこの箇所に先立つ段落に「狩猟や漁業で生活し、農業や商業を営まない「未開社会」では、働ける人はすべて働いている。しかし、極度に貧しく、幼児や高齢者や病気にかかっている者を時には殺害したり、捨てて飢え死にさせたりする。これに対して文明社会では、働かないで[も]働く人の一〇倍、時には一〇〇倍もの商品を消費する人がいる。このように不平等でも、最下層の職人ですら未開社会の人よりも多くの生活必需品や便宜品を享受する」とあるから。

 

ということは、著者は「幼児や高齢者や病気にかかっている者を時には殺害したり、捨てて飢え死にさせたりする」極度に貧しい未開社会が「道徳上望ましく」「格差をもたらしがち」であると主張していることになる。思うにこれは著者がこの文章を書いたときに頭が混乱していて、たぶん実際には「これは、(…)不平等な社会[つまり平等な未開社会ではなく不平等な文明社会]は、格差をもたらしがちだとしても、道徳上は望ましいことをスミスが示したものだと言える」と言いたかったのだと思う。そうすればその内容に同意するかどうかは別として、少なくとも論理的には筋が通る。

 

なぜこんな細かなことをくどくど述べたかというと、引き籠り翻訳者の生態を知ってもらおうと思ったから。そんな些細な点は全然気にならない読者がほとんどなんだろうけど、翻訳者はこのように論理を細かく追って読むクセがついていて(でなければきちんと訳せない)、この手の文章には敏感に反応してしまうわけ。まあ職業病と言えるかも。

 

とはいえ内容的には見るべきものがかなりあったので読み続けた。たとえば「第1章 重商主義の時代」の補説にあった「ベーコン主義」の解説はおもしろかった。高校の倫社だったか世界史だったかでは、フランシス・ベーコンは「経験主義」の元祖として扱われていたのを覚えている。実際に今でもそう思っている人は多いんだろうと思う。でもこの補説によれば、ベーコン主義の背景には神学的価値観があったとのこと。

 

一か所だけ引用しましょう。次のようにある。「『学問の進歩』によると、この第一哲学は「神の創造物の観想によって得られる、神に関する知識、または知識の基礎」であり、「すべての学問の共通の親」である。自然に関する学問は、自然現象の原因の探求のうち、可変的な原因は自然学が、恒常的な原因は形而上学が担う。その形而上学は「第一哲学」から出てくるものである。すなわち、自然についての知識は、終局的には神に由来するのである。その意味でもベーコン主義は、単にこの世の事物の知識の収集のみを目的とした、「世俗的」なものではない。ベーコン主義を経験主義と言い換えることは、ミスリーディングなのである(72頁、原書対応箇所に関する記述は省略した)」。

 

これは神の摂理を見出そうとして物理世界を探求したニュートン(錬金術にも手を染めていたことは有名な話だよね)にも言えることで、この頃は科学と神学と哲学がまだ未分化の状態にあった。ニュートンの主著のタイトルは『自然哲学の数学的諸原理』であって『科学の数学的諸原理』ではないことを忘れてはならない。だから今日の視点からベーコンを今日的な意味で「経験主義者」と呼ぶのはまさにミスリーディングだということがこの引用箇所からもよくわかる。

 

次に興味深かったのは、「第2章 スミスの時代」にあるアダム・スミスさんに関する記述。21世紀に入ってからアダム・スミスに対する見方はかなり変わってきているようだけど、それがここでもよくわかる。かつては、とりわけ市場至上主義者がアダム・スミスの「見えざる手」を引用して市場の絶対性(そして小さな政府)を主張していたけど、それはアダム・スミスの議論の半分をチェリーピッキングしているにすぎないことがバレてしまったということ。著書で言えば『国富論』だけを取り上げて、『道徳感情論』を閑却していたということね。

 

このメチエ本を読むと、むしろ堅実な制度的基盤があってこそ市場の自律性が担保されるとアダム・スミスが考えていたことがよくわかる。次のようにある。「スミスの市場メカニズムは通常は(教科書的には)自律的で政府介入を必要としない経済という考えを示すものと考えられているが、スミス自身に特徴的なのは、自律を支える制度という問題意識があるということである。(…)そして制度を整えるのは立法者に役割があるということから、経済学は「立法者の科学」なのである。そして、スミスの人口論は、社会の豊かさにもっとも良く導く制度は何かについての一八世紀の議論への応答とみなせる(136頁)」(「制度を整えるのは立法者に役割がある」は、「制度を整える役割は立法者にある」とすべきでしょう。このような表現があちこちにあるから読みにくいのですね)。

 

つまり科学が神学や哲学と未分化であったのと同じように、アダム・スミスにおいては経済も統治制度と未分化であったということになる。経済の合理性だけで経済は語れないというのは、とりわけコロナが流行しウクライナ戦争が起こった現在となっては自明であるように思われるけど、一時期は新自由主義者などによってその自明なことが無視あるいは軽視され、ましてやアダム・スミスの「見えざる手」だけが彼らに都合よく利用されていたこともあった。

 

実のところ、この本はタイトル通り「人口」を論じる本だけど、著者が人口を論じる理由もそこにある。「序文」に次のようにある。「経済学はある時代までは統治学・制度論に包摂されたし、経済学の学問としての独立以後も、統治学との関連を持ち続けていた。ただ、現代では、経済に特化した専門的分析が進み、統治学との関連は見失われつつある。(…)それは人口論にも当てはまることである。むしろ、人口という発想には、人の数の統計的把握が含まれ、それは、人の数を把握する存在としての統治や、人の数に影響を与える存在としての制度を伴う。したがって、通常は自律的なものと想定され介入不要な領域と想定される市場を、その底で支えているのが人口である。そして、人口の過剰や減少は、自律的市場では対応しきれない問題である(7頁)」。つまり市場経済には統治的、制度的基盤が存在することを、人口という側面から検証しようとするのが本書だということになる。

 

次に「第三章 マルサスと古典派経済学」だけど、この章では『人口論』と言えば「この人でしょ」という「ザ・人口論」のマルサスがおもに取り上げられている。ただマルサスに関しては、「こうした資源の稀少性についてのマルサスの認識は、彼の宗教観と結びついている(176頁)」という指摘と、「このように、『人口論』の人口法則は、平等をめぐる同時代の論争の文脈で、平等の擁護に反論する中で展開されたものなのである(184頁)」という指摘だけを特にとりあげておく。

 

最後に本書の本筋とはあまり関係ないことだけど、特に述べておきたい点が一つある。それはこれまで何度もツイしてきたナショナリズムの解釈に関する問題について。

 

「第4章 ケインズと転換期の経済学」の「3−2 ホブソン『帝国主義』」と題する節に、「愛国主義すなわちナショナリズムが帝国主義の淵源だと、ホブスンは考えているのである(232頁)」とある。ちなみにホブスンの『帝国主義論』は一九〇二年の刊行で、しかも彼は帝国主義に対峙した人物らしい。だからその点に関して文句をつける筋合いはないし、ましてやメチエ本の著者が「愛国主義すなわちナショナリズムが帝国主義の淵源だ」と考えているわけではないのだろうと思う。

 

ではなぜこの箇所を特に取り上げたかというと、とりわけ左派メディアが、「ナショナリズム」をきちんと定義することなしに、それに類する主張を繰り返しているから。そのような主張をするのなら、「ナショナリズム」をきちんと定義した上で、少なくとも次の三点をどう考えるかを明確にしてほしい。@アジアやアフリカを「帝国主義」の軛から解放する原動力になったのも「ナショナリズム」や「民族主義」であった点、A(これはナショナリズムの定義にもよるが)国民国家したがってナショナリズムが成立する以前の古代ローマ帝国や中世モンゴル帝国なども拡張主義や覇権主義に走った点、B近代になっても、(それをいかに定義しようが)ナショナリズムではなくイデオロギーに駆り立てられて拡張主義的、覇権主義的、帝国主義的行動に走った国がある点(現在の中国にも当てはまる)。それらをきちんと説明しないで「ナショナリズム=帝国主義=悪」などといった言説を垂れ流すのは無責任極まりない。これに関する個人的な見解はすでに何度もツイしているのでここでは繰り返さないが、たとえば『戦争と平和の国際政治』を参照されたい。

 

ということで最後にメチエ本について総括しておくと、内容的には興味深い点が数多くあるんだけど、一般向けの本としては文章にかなりの難があると言わざるを得ない。

 

 

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※2023年4月28日