◎西谷修著『アメリカ 異形の制度空間』(講談社選書メチエ)

 

 

二〇一六年一〇月の刊行なのでちと古く、すでに一回読んだことがあるんだけど、現在のアメリカではトランプが再選され、いろいろと劇的な改革を進めているので、アメリカとはどういう国なのか、そしてトランプがやっていることの本質は何なのかを確認するためにも、もう一度読み直してみた。もちろん二〇一六年一〇月の刊行ということなので、第一次トランプ政権すら発足していなかった、というかたぶんトランプが当選するとさえ思われていなかった頃(だよね?)に刊行されており、よって当然ながらトランプに対する言及は、このメチエ本には一切ない。というわけでトランプに対する言及は、完全に私めの考えに基づいており、著者の主張ではまったくないことを念頭に置かれたい。とにかく左に大きく傾いて沈没寸前の日本のオールドメディアは、何としてでもトランプを貶めることにしか関心がないらしい。しょうもない日本のオールドメディアのどうしようもない報道、てか、自分のイデオロギーだけを頼りに書いたいわゆるコタツ記事、もしくはCNNなどの米左派メディアのカーボンコピーでしかない記事に頼っていては、ことの本質がまったく見えてこない(とはいえ他の本を取り上げたときに何度も述べているように、当然ながらトランプには良い側面もあれば悪い側面もあることを否定するわけではない)。

 

まず指摘しておきたいのは、よく知られているようにアメリカには二つの顔がある。一つは南北アメリカから構成される西半球内に充足しようとする傾向で、古くはモンロー主義がそれにあたるが、その後はおもに共和党が体現し、現在はトランプに代表される自国第一主義的な顔。ただし自国と言っても、アメリカの場合正確には南北両アメリカ大陸、ならびにその周辺の島嶼部から成る西半球がその範疇に属する。だからトランプは、グリーンランドやカナダやメキシコやパナマ運河にちょっかいを出そうとしているわけね(ここでは、グリーンランドやパナマにおける中国の影響や、メキシコやカナダから不法移民や、フェンタニールなどの麻薬が流れ込んでいるという現実的な問題はひとまず置いておく)。ここでは、これを「アメリカの第一の顔」と呼ぶことにする。もう一つは、アメリカが体現する「自由」や「民主主義」を世界中に広げ均質的な世界を実現しようとする傾向を持ち、現代ではおもに民主党が体現している、国境のないユートピアを妄想する左派的かつグローバリスト的な顔。ここでは、これを「アメリカの第二の顔」と呼ぶことにする。ただし単純に共和党が「アメリカの第一の顔」を、また民主党が「アメリカの第二の顔」を代表しているというわけではない点に留意しておく必要がある。というのも、共和党に属していてもグローバリスト的な思考様式を持つ政治家は、ネオコンのブッシュ父子を始めとしてかなりいるし、逆に大統領就任演説で「国があなたのために何ができるかを問うのではなく、あなたが国のために何ができるかを問え」と述べたJFKのように、民主党にもかつては保守的とまでは言わないにしろ、共和主義的発想を持つ政治家はいた(今回の大統領選で民主党から共和党に鞍替えしたロバート・ケネディ・ジュニアや、彼のお父っつあんのロバート・ケネディもそのような傾向を持っている(た))。その意味では、「世界の警察はやんぴにする」と言い出したオバマは、左派でありながら「アメリカの第一の顔」の側面も多少は持っていたと言えるかもしれない。このように分類すると、二〇世紀以後に起こった戦争はすべて、民主党、もしくは共和党でもブッシュ父子というグローバリスト的なネオコンの政治家が大統領のときに始まっている理由が明確になる。要するに「アメリカの第二の顔」を持つ彼らは、自分たちのイデオロギーを世界にゴリ押ししようとするのですね。実はトランプが現在やっていることとは、世界を不安定な状態に陥れてきたグローバリスト的で好戦的な(好戦的と言っても、実際に土地を征服するのではなく現在のウクライナ戦争がそうであるように代理戦争の形態を取りやすい)「アメリカの第二の顔」を徹底的につぶすこととして読み解けるが、これについてはあとで述べる。実はこのメチエ本を読んで、「アメリカの第二の顔」がいかに成立したかがよくわかるという印象を持った。

 

さてでは、目次の前に置かれている「序」に書かれている本書の目的をまず引用しましょう。次のようにある。「ここ[本書]で試みるのは、アメリカ合衆国の成立事情やその政治や社会の考察というのではなく、〈アメリカ〉と呼ばれるものを作り出し支えている規範性の特徴を、とりわけ創設の原理とされた〈自由〉の観念に着目しながら考察し、今日の世界のあり方や人びとの考え方に刻み込まれ浸透する〈アメリカ〉なるものの意味を明るみに出すことである。それはたんに合衆国という国のあり方というより、今日、世界のすみずみにその規範的効果を深く及ぼし、世界を作り変えている〈自由〉の観念とその作用とをよりよく理解するための作業でもある(4頁)」。ちなみに著者は、本書を通じてほぼ一貫して〈自由〉と自由を〈〉で括って使用しているけど、その理由は、「自由」という言葉が非常にポジティブな意味を込めて使われるのが普通であるのに対し、アメリカの〈自由〉には大きな問題が含まれているという点を強調したいがためだと思われる。わが訳書のなかに、同様に主題としてアメリカの自由の問題を扱うケント・グリーンフィールド著『〈選択の神話〉――自由の国アメリカの不自由』があるが、グリーンフィールド本は、アメリカが育んできた「自由」の概念が現代においていかに「不自由」を生み出しているかを扱っていた。ただ、この本は刊行当時はやっていた行動経済学の観点が非常に色濃く出ていた。それから、そこでも言及したことだが、アメリカ史家のリチャード・スロットキンは、「自由」や「自立」や「自己責任」などといった概念がアメリカで神話化されていった経緯を三冊の大著で論じている。その詳細をここで紹介することはしないが(そもそも大半は忘れている)、メチエ本の著者の用語を拝借すれば「〈アメリカ〉なるものの本質」を知りたい人には、(英語を苦にしなければ)読んで損はないはずとだけ述べておく。

 

では、このメチエ本は、いかなる観点からアメリカの「自由」を論じているのだろうか? それについてさらに次のようにある。「[アメリカの]〈自由〉とは、まず初めに「発見」された空間の属性(「自由の領域」)だったが、これがヨーロッパからの移民の入植によって、入植者たちの固有の権利として主張されることになった。この〈自由〉はまた、聖書に依拠する「新世界」の創設神話によって根拠づけられ、新しく開かれた社会の意識原理となり、その社会はやがて「独立」してみずからの政府(統治権力)をもつようになったのである。¶その〈自由〉の基盤は、排他的で不可侵の権利としての私的所有権だった。この権利はジョン・ロックによれば、個人を自由にし、その自立を保障し、個人を社会的に責任の主体とするという。その理念が、「アメリカ」と命名された大地に実現され、実質化されたのである(4〜5頁)」。ここまでの最初の段落はリチャード・スロットキンの、二段落目は、このような大げさな言い方こそしていないとしてもグリーンフィールドの議論に近いものがあるように思える(なお、¶は段落替えを意味する)。しかしそこから先は、二人の議論とはやや異なってくるように思える。次のようにある。「〈自由〉の空間は、もうひとつの空間、先住民の属していた別の名もない空間、いわば自然的空間を排除した。合衆国はやがてその旧来の空間をくまなく排除し、そこを法権利に覆われ制度化された空間に置き換えたのである。「西への運動」とは、大陸全土への〈自由〉の制度性の拡張であり、それが文字どおりの大陸の「アメリカ化」として作用した。たしかにそこでは「解放=自由化」が目指されたのだが、それはそこに生き死にしていた人びとを大地から切り離し、じゃま者として厄介払いして、大地とそこに含まれるものを資産として「解放」することでもあった。無益に「野蛮人」の手に委ねられていた大地は、ときに手荒いこの操作によってついに自然状態から解放され、人為的な権利の対象となり、登記簿上の資産つまりは「不動産」へと転換されたのである。それが「文明化」のベースであり、自然は市場というヴァーチャルな空間で売買され、利潤を生む財産となる。そしてこの原理が、土地ばかりでなくあらゆる存在物の領域に適用され、やがてこの世界全体が市場価値に換算される経済的財の総体に転化する。それが、〈アメリカ〉と名づけられた「〈自由〉の制度空間」の基本的特徴でもあった(5〜6頁)」。この過程を象徴的に示している歴史的できごとはホームステッド法の施行だと言えようが、それについてはあとで言及する。

 

ということで本論に参りましょう。「第一章 「アメリカ」という呼称」は、章題どおり「アメリカ」という名称の起源が説明されている。もちろんアメリゴ・ヴェスプッチから取られていることは中学生でも知っている話だけど、ここでは次の点だけ指摘しておきましょう。実はこの名称は、ヴェスプッチ本人が意図して命名したのではなく、「人びとの好奇心に乗じて稼ごうとした印刷業者」「それに飛びついて「命名」の功名にはやった地図製作者」「あんぐりとあいた待望の口が飛び込んだ餌を吞み下すように、折よく与えられた響きのよい名前をそのまま鵜呑みにしてしまった世間(26頁)」の所業によるものだとのこと。印刷業者や地図製作者をオールドメディアと言い換えれば現代の日本の状況と何も変わらんよね。その点は「現代の日本の状況」とまでは述べていないものの、メディアに関する著者の次のような指摘からも窺える。これは「メディア化した社会ではよくあることだ。折しも活字印刷術が広まり、ヨーロッパは印刷メディアの時代に入ろうとしていた。まさにその時代に出現した新大陸の命名は、他でもないメディアの働きそのものによって担われたと言ってもよいだろう。不意に登場したこの名前は、何の検証を受けることもなく、誰の命名でもないがゆえにかえって誰もが受け入れ、受け入れて反復することがその妥当性を一段と強化するという、メディア情報にありがちなプロセスを経てついに不朽のものとなったのである(27頁)」。まあネットでよく「嘘も100回つけばほんとうになる」とコメされることがあるけど、あながちデタラメではないのですね。それがファクトチェックを受けない(オールド)メディアの怖さでもある。

 

本筋とはあまり関係ない話になってしまったので、どんどん先に参りましょう。「第二章 〈自由〉の前史」は、大航海時代の「発見」がテーマとして扱われている。次のようにある。「先に到達し「発見」した、ということが領有の根拠となり、権利はそこから発生するとみなされた。ただ、その「発見」というのが、あくまでキリスト教世界から見ての「発見」だということは言うまでもない。ロワールからラインまでと言われる内陸に重心を置き、ようやく地中海に出口を開いた当時のキリスト教世界にとって、未知の場所はすべて「発見」の対象となりうる。そしてその「発見」を{権原/けんげん}とした領有も、キリスト教世界にとってしか効力をもたないものだが、それがその後五世紀以上にわたる世界の基本的構成を条件づけているのは、キリスト教世界の法的原理が「名づけ=洗礼」の拡大を通してその後の世界の規範状況を決定づけたからにほかならない(50〜1頁)」。英語に「finders keepers」という表現があるけど、まさに大航海時代のキリスト教徒は、「発見」を「領有」の条件としてきたのであり、そのやり口が五世紀以上経過した今日でも、キリスト教をベースとした欧米社会では有効と見なされているのですね。まあそんな調子では、日本とは違って、落とし物をしたらまず戻って来ないということになりそう。ここで、その根底にキリスト教的な「名づけ=洗礼」という概念が存在することが指摘されている点に注目しておきましょう。この点については、第二章の最後で次のように述べられている。「この一連の出来事[大航海時代に起こった一連の出来事]は現在から見れば、地球上の一地域の人びとが、自分たちの「発見」を絶対的なものとみなして、「発見」されたものに名をつけることから始めて、それを「自由」に扱った空前絶後の独善だと言うことはできるが、その後の歴史が、というよりその後の世界秩序の形成をこの「発見者」たちが担ったため、「発見者」たちの見方や立場が一般化し、現在の世界秩序のベースになっているということだ(52頁)」。

 

「第三章 キリスト教世界の転換」では、キリスト教の権威が凋落したあとの〈自由〉の意味が次のように説明されているのが興味深かった。「一七世紀になると件の子午線[カトリック教会が引いた子午線]は(…)状況の変化によって、最初のイベリア両国による世界分割とはまったく違う意味を帯びるようになる。この線の彼方に両国以外のイギリスやフランスが進出するようになり、教皇の権威も通用しなくなると、この分割線はむしろ端的に旧世界と新世界、ヨーロッパとアメリカとを分ける分割線へとその性格を変えていく。旧世界ヨーロッパでは、既存の世俗権力が{鬩/せめ}ぎ合い、そこに伝統的なしがらみが絡んで、それがひとつの秩序の条件になっている。だからそこでは抗争があるとはいえ(だからこそ)、一定の友好の儀礼を保たなければならないが、大西洋の彼方は、未決の領域で、これから分割や秩序が作られるはずの、それゆえ自由に奪い合うことができる領域(ゾーン)なのである。ヨーロッパ内部にすでに「無主」の土地はなく、大地の領有と確保のルールは決まっている。けれども、大西洋という広大な海の彼方、とりわけ「ラインの向こう」は「自由」取得に委ねられているというわけだ(64〜5頁)」。

 

さらに、次のような興味深い記述がある。「かつて旧世界は共通の信仰のもと、教皇の権威を共有のものとして持つひとつの秩序で、教皇が裁定者として存在していたが、その枠組みを保持して秩序が再編され、主権国家間の相互承認秩序が形成された。それが国際法秩序である。諸国家は存立するために国際法にしたがわなければならない。だがそれは「ラインのこちら側」の話であって、「ラインの彼方」ではその拘束は解除される。それは国際法秩序の外部に置かれた「例外地帯」だということだ。つまり、「ラインの彼方は自由」、そこでは何をしても許される、ただし「自己責任」で(だれも面倒は見ません)、ということだ。¶言うまでもなく、これが伝統や慣習その他社会の内在的な規制をもつ秩序の「例外地帯」としての〈自由〉の空間の範型であり、これと同じ性格をもつのが〈市場〉である(72頁)」。ここには、まさしくグローバリスト的思考様式の起源を見て取ることができるように思われる。「国際法」で規定されていた旧世界のほうが、グローバリスト的な思考様式に近かったのではないかと思われるなら、それは「グローバル」と「インターナショナル」を混同しているからそう思えてしまうのだと言わざるを得ない。「国際法」とは、「international law」であって「global law」ではない。また「international」とは「inter+national」であって、対応する訳語の「国際」でもわかるように国と国のあいだで成立するものを意味し、よって国家の存在が前提とされている。それに対して「global」は世界を一個の均質的な全体として捉える概念だと言える。その意味で国際法が支配する旧世界は、あくまでも個々の国家の存在が前提となっている。そのような旧世界の概念を〈自由〉の空間という概念でなし崩しにしたのが新世界だと言える。かくして新世界に成立したアメリカという国が、経済力と軍事力を駆使して旧世界や、第三世界を席巻して均質的な世界を作り上げようとしているのが、冒頭で述べた後者の顔を持つグローバリスト的アメリカ、つまり「アメリカの第二の顔」だと捉えられる。その起源がまさに一七世紀という近代にあることが、上の引用文からもわかる。

 

実はその点は、「第七章 〈自由〉の繁茂と氾濫」の最後のほうの節「脱領土的拡張とその破綻」でさらに明確に述べられているので、ここにその箇所を先回りして引用しておく。なお非常に重要なので長めに引用する。次のようにある。「ただし、確認しておけば、〈アメリカ〉の拡大傾向は領土的なものではない。ヨーロッパのウェストファリア的現実主義は、主権国家の領土保全をねらいとしていたし、それをベースにヨーロッパ諸国はその余[り]の世界を領土分割しようとした。けれどもアメリカは、一三の植民地が独立し、ヨーロッパ諸国に対峙するために連邦政府をもったことにも表れているように、「アメリカ合衆国」が主権国家であるのは外的事情による偶発的なことにすぎない。〈アメリカ〉とはまず何より、例外的に成立した「異形の制度空間」なのである。〈アメリカ〉の拡張とはその制度空間の拡張であり、その制度性そのものの世界化傾向である。それによって〈アメリカ〉は例外どころではなく世界の規範となりうる。そしてそれだけが、その展望だけが〈アメリカ〉の「原罪」を帳消しにするのである。全世界が〈アメリカ〉になること、それがアメリカの見果てぬ夢だが、その野心はけっして領土的なものではない。現実的にみればそれは制度空間の拡張ということになるが、「新しい世界を作る」というその「使命感」に関するレトリックを真に受けるなら、むしろはっきりと「神学的」だと言った方がよいだろう。しばらく前に人口に{膾炙/かいしゃ}したいわゆる「帝国論」が見落としているのはこのことである。¶〈アメリカ〉の世界史的意義も、じつはこの点にかかっている。コロンブス以来五世紀にわたる西洋の「世界化」運動が、二〇世紀のなかばに〈世界戦争〉のうちに完遂されたとき(…)、主権国家間の領土的抗争が破綻した世界に、ウェストファリア体制を離脱して生まれた――正確にいうならその「例外域」として生まれた――〈アメリカ〉の時が訪れる。もはや領土拡張が問題ではない。領土的に飽和したこの地球(グローブ)にブルドーザーをかけ、ひとつの制度空間に作り変えることだ。そのとき〈アメリカ〉に対抗したのが、別の原理に立つもうひとつの制度空間〈ソビエト〉だった(〈ソビエト〉もひとつの制度形態であり、連邦国家を作る)。それが、いわゆる体制間対立(冷戦)と呼ばれるものだったが、〈ソビエト〉の自壊によって〈アメリカ〉を押しとどめる「壁」はもはやなくなり、それ以後、「古いヨーロッパ」の世界化運動を更新して「グローバル化」が一気に進んだということである(188〜9頁)」。「〈アメリカ〉の拡大傾向は領土的なものではない」「アメリカ〉とはまず何より、例外的に成立した「異形の制度空間」なのである。〈アメリカ〉の拡張とはその制度空間の拡張であり、その制度性そのものの世界化傾向である」というくだりに留意されたい。「アメリカの第二の顔」の大きな特徴の一つは、領土的な拡大ではなく、独自の「異形の制度空間」の拡大なのですね。

 

領土の拡大という意味では、西半球に限定されるとしても、むしろ「アメリカの第一の顔」に見られる特徴だと言えるのかもしれない。現代の「アメリカの第一の顔」を代表するトランプのグリーンランド、カナダ、メキシコ、パナマ運河に関する発言にも、この傾向が現れている。いずれにしても、トランプがやろうとしているのは、異形の制度空間の拡大を目指す「アメリカの第二の顔」を叩き潰すことだと見なせる。その象徴がUSAIDの解体だと言える。USAIDは領土を拡大するための機関ではなく、まさに支援という名目のもとで(ほんものの支援は全体の二〇パーセント未満だったようで、それらは国務省の管轄下で継続されるらしいね)異形の制度空間を世界中に拡大するプロパガンダ機関だと見ることができる(CIAのフロント組織だったという話もあるけど真偽のほどはよくわからん)。もちろんたとえば、独裁国の政治家や、イデオロギーに染まった活動家が運営するNGOや、はては(キックバックという形態での)アメリカの政治家による公金チューチューという現実的な問題はあるのだろうが、USAIDの解体においてそれよりも重要なのは、アメリカ独自の異形の制度空間を世界中に浸透させようとするそのグローバリスト的なやり口を瓦解させることにある。その点に関して個人的な見解を言えば、トランプやイーロン・マスクのやっていることは、やり方の良し悪しは別として、原則的に正しいとして擁護できる。「アメリカの第二の顔」が、これまで各地で引き起こされた戦争を含む、不安定な状態に世界を陥れてきたのだから。ただしトランプにも、「インターナショナル」と「グローバル」を混同している傾向が見られ、気候変動問題などの、本来「グローバル」ではなく「インターナショナル」なものとしてとらえるべき問題を軽視しているのは大きな問題ではあるけどね。これらの論点をまったく理解しないで、日本のどうしようもないオールドメディアのイデオロギーにまみれた報道(てかプロパガンダ)ばかりを信じ込んでいれば、現在アメリカのみならず世界で起こっている事態の本質がまったく見えなくなる。

 

さてメチエ本の著者は、それに続けて経済面に言及し、次のように述べている。「グローバル化は〈経済〉をベースにしたものだといわれる。国家の課題も、政治的統治から経済的統治へと軸足を移す。そして国家の規制を排除して、市場による決定(あるいは「民営化」)に社会の再編を任せようとし、そのための制度整備や治安警察を国家が受けもつことになる。脱領土的な「経済」が領邦的「政治」をコントロールするのだ。そのような制度空間を地球規模に拡大し、あらゆる人びと(自然人よりむしろ「法人」)に「自由」な活動と「チャンス」を与え、規模の効果で「チャンス」のもたらす{射倖/しゃこう}を最大化するシステムに、つまりは〈アメリカ〉に全世界を作り変えること。それが「グローバル化」と呼ばれる事態であり、まさに世界の全域を〈自由の制度空間〉に作り変えることなのである。¶この改造は、〈アメリカ〉そのものの設営と同じように、制度的かつ軍事的に展開される。それが「新自由主義的」と呼ばれる制度改革であり、また「テロとの戦争」と呼ばれる世界化された「インディアン戦争」なのである(189〜90頁)」。ここで「おや〜〜ん?」と思った人は、なかなか鋭い。というのも、私めは、この引用を「アメリカの第二の顔」の本質を説明するものとして取り上げているわけだが、新自由主義(やその帰結としての小さな政府)は、「アメリカの第一の顔」の代表として言及したレーガンや、トランプに典型的に見られる思想ではないかと思えてくるから。しかしながら、新自由主義を大きく二つに分けて考えればこの不整合は解消できると思う。これら両者を混同することは同じ、「国」という漢字が含まれているせいで一つの国家に充足する国家主義(ナショナリズム)と拡張主義的な帝国主義を混同することにも等しい(それについては『権力について』などを参照のこと[ページ内検索ワード:帝国主義、ナショナリズム])。

 

一つは純粋に経済的な新自由主義で、それには基本的に政治支配の問題が含まれない。「市場絶対主義」と言い換えてもいいかもしらん。これは、一般になぜか保守に分類されているリバタリアンに対応すると見ればよいと思う。もちろん、市場絶対主義による格差の拡大という大きな問題は存在するとしても、あくまでもそれは結果的、構造的なものであり、意図されたものではない。だから純粋に経済的な意味での新自由主義は、必ずしもグローバリズムに結びつくわけではない。むしろ特定の国家や領域に新自由主義の囲い地を作ろうとすると言ったほうがいいのかもしれない。その囲い地の外側では、あなたがたの好きなようにやってくださいというわけ。西半球に引き籠ろうとするモンロー主義的なトランプはまさにその傾向を代表しており、トランプ第一次政権時にアメリカがTPPから離脱したのも、この観点から理解することができるかも。古い話なので確信はないが、レーガンもこちらに分類されるべきでしょうね。いずれにしても、レーガンについては彼を扱った本を取り上げたときに考えることにしませふ。もう一つは、経済の拡大とともに政治支配も世界全体に拡大しようとする新自由主義であり、こちらこそがグローバリズムに必然的に結びつく。また、そこには利権構造が複雑に絡んでくる。市場絶対主義者の観点からすれば、利権などというものは、市場の自然な働きを歪曲するだけに害悪でしかない。だからこそ、純粋な経済的新自由主義者と見なせるトランプや彼の右腕のイーロン・マスクは、USAIDなどの政府機関に巣くう利権構造を破壊しようとしているわけ。そもそもトランプやマスクは、純粋な経済的新自由主義の恩恵を受けて大富豪になった御仁なわけで、そんな彼らにとっては今となってはおじぇじぇを稼ぐための利権構造などまったく不要であり、だからこそ、このような搾取の構造をつぶす側に回ることができる。また利権構造に起因する格差は、市場の働きによるものではないという意味で意図的であり、良くも悪くも純粋な経済的新自由主義によって結果として生じた純粋な市場絶対主義に起因する格差より、さらにとんでもない格差をもたらす。なぜなら、特定の立場にある一握りの権力者や、それにおもねるNGOなどの団体、さらにはマスメディアが、複雑怪奇な利権構造を利用して巨額の公金をチューチューすることができるからね。個人的には、この搾取構造をつぶそうとしているのがトランプ政権だと見ている。

 

このような利権構造の問題の典型例の一つは、本書の「補論 〈自由主義〉の文明史的由来」に取り上げられている、ソ連崩壊後のオリガルヒーの台頭にも見てとることができる。次のようにある。「社会主義システムから市場システムへの移行を、調整しながら徐々に行うというのでは手ぬるい、あるいはそれでは中途半端になる、というので、混乱を恐れず一挙に市場のルールを導入して従来の機構をぶち壊してしまう。それは社会にパニックを起こすかもしれないが、それで市場化は果たせるし、あとは市場が解決する、といったことでした。¶けれどもそれは、市場経済の導入などという上品な事態ではなく、それまで国家管理であったあらゆる社会資産の全体を、国が責任を放棄して闇市に放り込むようなことで、実際このとき、多くの共産党幹部や湧き出した夜郎自大の連中が、「民営化」の名のもとに、いつの間にか国の共有財産を、兵器から機密書類まで、私的に詐取して(「民営化」というのは「私物化」です)しまい、その結果オリガルヒーと呼ばれる富裕層が形成されました。かれらは手にした国家資産を外国に売って私財に換えますが、その間に、何百万、何千万の人びとが文字どおり路頭に迷ったのです。さすがに、オリガルヒーに関しては、後に国家主義者のプーチンがこれも強力にだいぶ整理してしまいました(213〜4頁)」。現代の日本にも、国家資産のバラマキをやっている、オリガルヒーにも似た政治家がいるように思ってしまうのは私めだけかな? いずれにせよソ連崩壊直後のロシアには市場システムが存在していなかったから、逆にそれを作り出す必要があった。そのとき中心になったのが、それまで政治的な権力を握っていた人々であり、この状況は、市場絶対主義を前提とする「アメリカの第一の顔」よりも、市場よりも政治支配が強く関与する「アメリカの第二の顔」に近いと言えるでしょうね(というかそもそもソ連には自由市場それ自体が存在していなかった)。結局そのオリガルヒーを整理したのが国家主義者のプーチンであったというのは(ほんとうにプーチンを国家主義者と呼べるのか否かはここでは問わない)、現代のアメリカを中心とした利権構造を粉砕しようとしているが自国第一主義者のトランプであるのと符合しているようにも思える。

 

ということで、ちょっと第七章まで先走ったけど、ここでもとに戻って「第四章 所有にもとづく〈自由〉」に参りましょう。まずイギリス植民地としてのアメリカについて次のようにある。「イギリス植民地の場合、「アメリカ」の名において本国からの独立が果たされることには、何ものにも代えがたい、まさに神学的かつ政治的な意味があったのである。その意味でこの国は、大西洋を中心にした近代の世界史の展開において、〈アメリカ〉が何であるかをもっとも明白に体現しており、だからこそ、他のどこでもないまさにそこが「自由の大地」であり、優れて〈アメリカ〉なのである(84〜5頁)」。しかし言うまでもなく、アメリカという大地には「先住民」が暮らしていたのであり、「自由の大地」とはその存在を抹消したうえで成立したにすぎない。それに関して次のようにある。「かれら[先住民]の生存空間は、ヨーロッパからの移住民の作る〈アメリカ〉の出現とともに、名のない無規定な〈外部〉の位置に追いやられた。〈アメリカ〉は土地を確保し、境界を作る。そうして柵や壁で囲って(いまでも「ウォール街」の名に名残をとどめている)みずからの実在性を確保すると、まさにそのことによって、もうひとつの世界が、固有性も実体も認められない影であるかのようにして締め出されるのである。こうして大陸には〈アメリカ〉とその〈外〉という二重の空間が設定される。もっと正確に言うなら、〈アメリカ〉の創設が同時に排除として機能し、この新たな空間の設定は大陸を二重化したのである(87〜8頁)」。では、本源的に〈アメリカ〉とはいったい何なのか? それに関して次のようにある。「では、この〈アメリカ〉とは何なのか。この名前の実質化、実体化を支えた内実は何だったのだろうか。もちろん、たんなる武力による征服で〈アメリカ〉が可能になったわけではない。長く「インディアス」と呼ばれた南アメリカはいざしらず、北にこそ形成された〈アメリカ〉は征服によって成ったのではない。事実、アメリカ合衆国は、独立革命で「自由」を勝ちとったとは言われても、「征服国家」だとは言われない。また、白人がインディアンの土地を奪ったとはよく言われるが、「移民の国」とは言われても「強奪の国」とは言われない。それは、この「土地取得」が「権利」として合法化されており、その「合法性」が一方的に〈アメリカ人〉の側に属していたからである(90〜1頁)」。要するに、〈アメリカ〉は最初から制度空間として誕生したということになる。ということは、その制度空間当てはまらないものは、存在しないものとして、たとえ現実的には北アメリカ大陸に存在していても外部に排除されてしまうのですね。この制度空間のダイナミクスが起点となって次第に〈アメリカ〉は南北両アメリカ大陸をはるかに超えていき、最終的に今日のグローバリズム的なアメリカの第二の顔が形成されていくことがわかる。ちなみに著者は〈アメリカ〉とアメリカを〈〉で括っているけど、この〈アメリカ〉は、まさに異形の制度空間から成る「アメリカの第二の顔」を意味しているとも見なせる。このような異形の制度空間に関して、著者は次のように述べている。「新大陸では、土地は先住民との事実上の関係以外の束縛を受けておらず、その先住民は領有・所有の法的関係の埒外にあって原理的に「無権利者」であるため、ひとたび土地が〈アメリカ〉(英仏等の領土)の管轄に入ってしまうと、〈アメリカ人〉(この制度とともにやってきた移民)は何の支障もなく「所有権」を設定することができた。開拓されていない、つまり入植者の手のついていない地域は「処女地」と呼ばれ、この「市民的権利」の設定が土地との関係を確定する最初の様態になったのである。こうして、領有された土地は積極的に「私的所有」に委ねられ、それによって〈アメリカ〉は、所有権に基づく市民法(私法)秩序という社会的骨格を得ていった(95頁)」。

 

このようなやり方の典型例は、ホームステッド法の施行だと言える。このホームステッド法に関して、メチエ本には次のようにある。「「自治」の政体が連合し、いっせいに本国イギリスから独立してアメリカ連邦政府を作ることになるが、独立したアメリカ国家は「自由な個人」つまりは独立自営民あるいは有産市民をこの新しい社会の支柱とみなし、その管轄下に入った土地(公有地)を積極的に市民に払い下げ、そのような民間個人(私人)のイニシアチヴによる開拓や開発を促していく。¶その代表的な例として、一年余の占有居住者に安価で公有地を払い下げる先買権法(一八四一年)や、リンカーンが署名し西部開拓を大きく促進させたホームステッド法(一八六二年)がある。前者は、西部に入植した移民たちに土地と市民権を与えることになり、自営農地法とも言われる後者は、五年間の農業実績の申請だけで一区画約六五ヘクタールの土地を無償で払下げるというもので(一九七〇年代まで有効だった)、それが先住部族の残された居住空間からの追放を合法化し、かれらの住む場所を最終的に奪うことになった。こうしてアメリカ国家は、自作農・自営業者を広範に作り出し、この国を所有者(オーナー)たちの社会として組織しようとしたのである(98〜9頁)」。ホームステッド法で思い出す映画に『シマロン』があげられるけど(よく見ていたのは1960年バージョンで、アカデミー作品賞を受賞した1931年バージョンは見たことがない)、グレン・フォードや、アン・バクスター扮する主人公たちが、ホームステッド法に基づいて(のはず)少しでも条件の良い開拓地を確保しようと先を争って馬や馬車を駆る冒頭の壮絶なシーンは、象徴的な面では、まさにアメリカの大地に最後に残されたフロンティアを征服しようとする人々の野心や情熱を表していると見なすことができる。それからつけ加えておくと、同じくホームステッド法に基づく西部開拓を扱った有名な映画に『シェーン』がある。でも最近取り上げた『アメリカ革命』の著者も含めて、有名な作品であるにもかかわらずこの映画に関して勘違いをしている人がいるように思われる。というのも『シェーン』は開拓民と先住民の争いをテーマとした映画ではないのですね。そもそもインディアンは一人も登場しない。実のところ『シェーン』では、先に西部に来ていた白人(ライカー一味)と、ホームステッド法に基づいて新たに西部にやって来た白人(スターレット家)の争いが描かれている。西部劇にはすべからくインディアンが登場すると思い込んでいるなら、それは単なる先入観にすぎない(他にもたとえば『真昼の決闘』や『アラモ』にもインディアンは登場しない)。

 

またしても脱線したのでメチエ本に戻ると、次に著者はジョン・ロックの「所有にもとづく自由」の概念を紹介している。とはいえここでは、次の指摘を引用するに留めておく。「[所有にもとづく自由という]ロックの考えは、本国イギリスでは、王や封建領主などによる伝統的な支配体制からの解放をめざす市民階層にとって、かれらの自立の要求を根拠づけるものとして、市民革命の時代に社会変革を促す強力な指針となった。だが、イギリスでは歴史の負荷によってそのままでは実現されにくい[所有にもとづく自由という]考えは、まさに手つかずの「自然状態」にあるとみなされたアメリカでは、何の障害もなく導入され新しい社会と新国家の原理となったのである(100頁)」。アメリカにおける所有にもとづく自由とは、もう少し詳しく言うと次のようなものになる。「移民が「処女地」に築いた〈アメリカ〉では、オーナーシップに基づく社会が初めから実現した。土地は占有することで当人のものとなり、人びとはみずからの生活を築き、そして富を作る。そのようなオーナーたちが本国の束縛から自由になって新しい国を作る。そしてオーナーシップは、初めからこの新しい国の国是となったのである。アメリカの「自由」とはこのオーナーシップを存在根拠とするオーナーズの「自由」であり、そうした権利をもつ者たちの民主主義体制だった(104頁)」。さらに第四章の最後のほうに次のようにある。「そうしてみると、〈アメリカ〉という名の下に設定された新しい空間の基本的な特質が浮かび上がる。それは自然の実在を「所有」へと転化することで成立する制度空間だということである(109頁)」。

 

次の「第五章 独立革命と合衆国の拡大」は、私めの言うアメリカの二つの顔という観点からすると見るべき記述がなかったのでスキップする。その次は「第六章 〈自由〉の空間としての西半球」だけど、章題にある「西半球」は、まさに現代のトランプを始めとする、「アメリカの第一の顔」を代表するモンロー主義者が拘泥している空間、すなわち前述したように南北アメリカ大陸とその周辺の島嶼部を指す。そのモンロー主義に関して次のようにある。やや長めに引用する。「形成された「自由の制度空間」は、外に向かってもその〈自由〉を主張する。ヨーロッパ諸国はかつて、ヨーロッパ・キリスト教諸国間の「友誼」の果てるところとしてひとつのラインを設定し、そのかなたを「自由」な、つまり「友誼」に拘束されない、ヨーロッパ国際法の例外領域とみなした。だが移民たちの作り出した〈アメリカ〉は、独立によってその〈自由〉をみずからのものとし、新大陸に対するヨーロッパの支配を逆方向から「友誼線」のかなたに押し返そうとした。そしてその線の手前を「西半球」として区別し、ヨーロッパ諸国の影響力の外に置こうとしたのである。合衆国の独立に続き、ヨーロッパにおけるナポレオン戦争の混乱もあって、ラテン・アメリカの各地が本国スペインから相次いで独立しようとしていた頃、この姿勢はモンロー大統領の教書によって明確に打ち出された。¶この教書は、合衆国のヨーロッパ諸国間の争いへの不干渉を表明し、また南北アメリカでの植民地の独立を承認し、独立の動きのある植民地に対するスペインの干渉は合衆国の安全に対する脅威とみなす、という内容をもっていた。これによって合衆国は、合衆国だけでなく南北アメリカをひとつの圏域としてヨーロッパ諸国から切り離すという姿勢を示したのである。南北に伸びるアメリカ大陸は、大西洋と太平洋によって「旧世界」から隔てられており、二つの半球によって描かれる世界図に明確に示されるように、「西半球」はそれだけで分離されたひとつの内閉圏を形成することになる。¶もうひとつの半球の「旧世界」では、狭い大地に主権領土国家がフランス革命の{余燼/よじん}のなかでせめぎ合い、その圧力もあって海外に進出しそれぞれに植民地確保を競っていた。それに対して独立したばかりの合衆国アメリカには、アパラチア山脈の向こう側に〈自由〉に委ねられた広大な空間が広がっていた。そのアメリカによる「西半球」分離の主張には、いまだ手つかずのその大陸空間をヨーロッパ(イギリス、フランス、スペイン)の介入を排してみずから確保するというねらいもあった。¶そのような拡大の余地を大陸内でもつかぎりで、合衆国は一九世紀の間、海外に領土を求める必要はなかった(142〜4頁)」。これはまさに、「アメリカの第一の顔」の起源を示していると言ってよいでしょう。

 

しかし、一八九〇年に「フロンティアの消滅」が宣言されると、内陸への拡大の余地はなくなって、「外部」にもちょっかいを出し始める。そのような「アメリカの戦争」の特徴について次のようにある。「「アメリカの戦争」に特徴的なのは、それがアメリカ人自身のためというよりも、侵略や暴力的支配にさらされる他所の民衆を「解放」するためだと主張される点である。キューバにおいても、フィリピンでもそうだった。アメリカはカトリック・スペインの専制的な支配を非難し、みずからが「古いヨーロッパ」から独立して〈自由〉を勝ち取ったように、現地の民衆を粗暴な抑圧から解放して〈自由〉をもたらすのだと主張する。「マニフェスト・デスティニー」の拡張として、そのように〈自由〉を広めることがアメリカの使命だと宣伝され、そのため「アメリカの戦争」にはいつも「正義の戦争」だという主張が伴っている(147頁)」。まさにこれは異形の制度空間を世界に拡大しようとする「アメリカの第二の顔」だと言える。この引用を読めばわかるように、その最近の事例がネオコンの子ブッシュが始めたイラク戦争になる。「現地の民衆を粗暴な抑圧から解放して〈自由〉をもたらす」という名目のもとでの第三世界への介入は、右派に限らずコミンテルンのような左派社会主義勢力も戦前・戦中・戦後を通じて行なっていた。個人的には、これら両派が合体して現在のグローバリズムが生み出されたと考えている(その合体を促進したのは民主党のFDRあたりだったのだろうと睨んでいるが、憶測にすぎないのでそれについてはここでは述べない)。たとえば、現在読んでいる『コミンテルン』(中公新書)に次のような記述がある。「コミンテルンが、それまでの社会主義系のインターナショナルと大きく異なるきわめて重要な点のひとつは、こうしたヨーロッパ以外の地域[アジアやアフリカなど]も世界革命の舞台として認識したことにある(同書65頁)」。あるいは、日本も関連する次のような興味深い指摘もある。「第二回大会以後、コミンテルンはヨーロッパのみならず、植民地や半植民地状態にあるような経済後進国を含めた、まさにグローバルな規模での共産主義運動を開始した。しかし、中東で早々に躓いたこともあり、極東への関心を高めていく。当初はそのなかでも日本での革命が期待された(同書 127頁)」。まあ結局、日本は笛吹けど踊らずだったので、結局コミンテルンの関心は中国に向かうわけだけどね。

 

メチエ本に戻ると、続いて次のような記述がある。「たしかに、アメリカによる「解放」は〈自由〉をもたらしはする。だが、それは誰にでも歓迎される「自由」だというわけではない。〈自由〉の恩恵に浴するのはその地の民衆ではなく、まずはアメリカの企業家や投資家であり、ついでかれらと手を組んで収益を独占する現地の所有者・富裕層である。というのは、アメリカのもたらす〈自由〉は、何よりもまず所有権にもとづく〈自由〉であり、持てる者がその権利を拘束なく行使しうる〈自由〉だからだ。その〈自由〉は一人ひとりの人間をたしかに「解放」しはするが、持てる者には権力行使の自由を、何も持たない者には裸で「解放される」、つまりは無慈悲な労働市場に投げ出される権利しか与えないのである。¶そして、その〈自由〉は国境を越えて広がり、アメリカ人も現地の持てる者たちをも同じルールの作用するその「制度空間」に呑み込む。たしかに、それによって恩恵を受ける者たちもいる。そして富を計る指標が国ごとに示されるなら(GDPとかのかたちで)、数値上はその地も「恩恵」に浴していることになる。だから、アメリカの輸出する〈自由〉は必ず現地に同調者を見出すことができるし、できなければこのシステムは力ずくでも支持者を作り出す。その力はアメリカが「自由」のために派遣する米軍である場合もあれば、現地に生まれる軍事政権や独裁者であってもよい。ともかくも、そうして生まれるアメリカ支持者たちが、もたらされた「自由の恩恵」の証しだということになるわけだ(148〜9頁)」。最後のほうに「米軍」とあるが、これは必ずしも軍隊だけに限られるわけではなく、まさに現在トランプ政権が大鉈を振るっているUSAIDのような機関やそれに紐づいたNGOなども含まれると見たほうがよいのだろうと思う。ネットで流布している「ディープステート(DS)」という言い方は、陰謀論的に聞こえるし、そもそも定義がはっきりしていないので使わないようにしているけど、ここで言及されているようなアメリカ的な異形の制度空間の拡大や、ここでは詳細は述べないが左派的な世界革命の理念の実現を目指す、イデオロギーに篭絡された権威主義的な人びとの集団を指すと定義するのであれば、DSと呼んでしかるべき、世界を混乱に陥れている輩は確かに存在すると思っている。

 

話は変わるが、第6章の後半になかなか興味深い指摘があったので、それを引用しておきましょう。次のようにある。「最初に太平洋を越えたとき、アメリカはそこで「古いヨーロッパ」の列強秩序とふたたび遭遇することになったが、そのとき交錯していたのは、二つの異なる「世界化」の原理だった。ヨーロッパは国家間秩序としてのウェストファリア体制をベースに、列強がそれぞれ広域支配圏(植民地支配)を競合的に展開することで、ヨーロッパ国際法秩序の事実上の世界化=普遍化を進めていた。¶ところがアメリカは、それを牽制しながらみずからが創設した「自由のレジーム」の拡大でそれに対抗しようとする。その「自由のレジーム」は、ヨーロッパの負う歴史的拘束と地理的限定を超えるものとして、はじめから「普遍的」な性格が想定されており、そのうえそこには植民地支配とは異なる〈自由〉の原理の道徳的優位の主張が重ねられていた。ヨーロッパ的支配秩序を「征服」の論理に立つものだとするならば、アメリカの影響力の拡張は「解放」を基調とし、〈自由〉をもたらしてその「恩恵」を世界に広めるものだと主張されるのである(151〜2頁)」。私めなら前者の古いヨーロッパの世界化は「国際化」、後者のアメリカの世界化は「グローバル化」と呼ぶだろうね。ここで注意する必要があるのは、領土を実際に征服する植民地化などの過程を経てきたのは前者であり、異形の制度空間を拡大しようとする、つまりあえて実際に土地を征服することなく制度空間を拡大した(ている)のが後者だという点。こうしてみると前述したように、現代のモンロー主義的な「アメリカの第一の顔」を代表するトランプが、グリーンランド、カナダ、メキシコ、パナマ運河にちょっかいを出すのは、まさに彼が前者に属するからだと言えるように思われる。ウクライナに実際に手を出したプーチンも前者に属すると言えるのでしょう(その意味では、確かに彼は国家主義者と言えるのかもしれない)。

 

とはいえ植民地支配や軍隊による征服戦争には走らなかったとはいえ、後者には後者独自の問題がある(後者においては、戦争は代理戦争になりやすいという点はすでに見た)。それについて著者は次のような鋭い指摘をしている。「ヨーロッパ諸国は、植民地支配とそれをめぐる世界戦争、さらには植民地独立戦争の経験を経て、遠隔地の民衆を抑圧して植民地を維持し続けることの不可能を知り、植民地支配の「不当性」を多かれ少なかれ認めて、歴史の負債を限定的に認めることで、様変わりした現代の世界秩序におけるそれぞれの国家の正当性を組みなおしてきた。¶ところがアメリカは、ヨーロッパ型の植民地支配に手を汚していないという「無垢」の幻想を抱いている。アメリカの侵攻は領土的野心によるものではなく、つねにその地の「解放と民主化」のためだったと主張する。そのような主張は今では国外ではほとんど通用しないが、それでもアメリカ国内ではじゅうぶん通用する。そのために、ブッシュ政権は全世界の反対の声を押し切ってイラク攻撃を仕掛けることができたし、イラク情勢に関する虚言に虚言を重ねても、アメリカ国民はかれに二度目の任期を与えたのである。¶アメリカは世界にアメリカ的〈自由〉を広げようとする。それはアメリカ国民の支持は受けているが、もはや世界ではそれが信じられなくなっている。そのような世界との亀裂が現在のアメリカの困難を生み出している(155〜7頁)」。イラク戦争を始めた子ブッシュは、トランプと同じ共和党に属しているが、「アメリカの第一の顔」に属するトランプとは違って、ネオコン(あるいは先ほどの定義によるDS)の彼は「アメリカの第二の顔」に属しているという点を忘れるべきではない。また、引用文中にある「解放と民主化」は、現代では「支援」に置き換えられる。トランプ&イーロンがUSAIDを解体しようとしている理由の一つは、まさにUSAIDによる「支援(AID)」が、異形の制度空間を世界に拡大するための(そして関係者が利権をむさぼるための)目的外の手段になり下がっているからだとも考えられる。第6章の最後の節の「アメリカ的民主化」も興味深いけど、長くなるのでここには取り上げない。ぜひこのメチエ本を買って読んでみてみて。

 

次の第7章については、すでに関心のある箇所は取り上げたので次の箇所のみ引用しておく。「〈アメリカ〉と命名されたこの制度空間は、あらゆる歴史的しがらみを旧大陸に捨てて設定された「新世界」だというその性格からして、どんな固有性にも縛られずどこでも適用できる自在さを備えており、そのため「普遍的」モデルだという幻想を人びとにもたらした。とりわけこの国が短期間に富と繁栄を実現して大国となると、多くのアメリカ人は〈アメリカ〉をすばらしいと思い、他の貧しい国々や〈自由〉でない国々の人びとを憐れみ、アメリカのようになればよい、できたらアメリカのようにしてやりたいと思い、ときには頼まれもしないのにそうすることをみずからの使命だと思い込んだりもする。そして一方、他国の少なからぬ人びともアメリカやそこで実現できると言われる「ドリーム」に惹き寄せられ、アメリカに行くこと、そこで〈自由〉を享受することを夢見たり、あるいは自国の社会をアメリカのようにしたいといった願望を植え付けられてきた。(…)〈アメリカ〉はそのように、みずからの力で膨張し外部に拡大するだけでなく、その外部に〈アメリカ〉への同化の欲望を喚び覚まし、それによってまた〈アメリカ〉を広めていく。けれども〈アメリカ〉が持ち込まれるとき、ほとんどの社会ではその自律性が崩壊してしまう。というのは、世界のどこも「更地」ではないし、住民は誰もが「孤立した個人」ではないからだ(184〜5頁)」。最近の日本でも、おそらくは左派のバイデン政権の政策の影響を受けて、移民政策やインバウンド政策のたぐいを実施したり、LGBT法を成立させたりした政治家がいるようだが、彼らは「〈アメリカ〉が持ち込まれるとき、ほとんどの社会ではその自律性が崩壊してしまう。というのは、世界のどこも「更地」ではないし、住民は誰もが「孤立した個人」ではない」ということをまったく失念していたか、最初からそんなことすら理解できないかのいずれかだとしか言いようがない。

 

最後に「結び」と「補論 〈自由主義〉の文明史的由来」と題する番号なしの章があるけど(後者に関してはすでに一箇所引用した)、それらは省略する。ということで、このメチエ本は、現代のグローバリズムに通じる「アメリカの第二の顔(すでに述べたようにこの用語は私めの造語であり著者の言葉ではない)」が成立した経緯がよくわかる本として推薦できる。ただし途中でも書いたように、現代のグローバリズムには、かつてコミンテルンが提起した「世界革命」的な共産/社会主義思想的な側面も加わっていると個人的には考えているが、このメチエ本の主題からはずれることもあり、当たり前田のクラッカーながら、それについてはまったく言及されていない。いずれ別の本を取り上げた際に考えることにする。ひとつ言えるのは、「アメリカの第二の顔」にせよ、共産/社会主義思想にせよ、その戦略の核心にはイデオロギーに基づく「異形の制度空間」の拡大という方針があり、土地の征服に焦点が置かれているわけではないという点で共通し、その点で両者の相性はきわめてよく、よって結びつきやすいと言えるでしょうね。この結びつきが顕著に見られるのが、とりわけバイデン+ハリス以後の民主党であり、それに対抗しようとして新たな制度空間を作り出そうとしている、というよりかつてのモンロー主義時代の制度空間に戻ろうとしているのがトランプ政権だと言えように思う。

 

 

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※2025年3月17日