◎重田園江著『シン・アナキズム』(NHKブックス)

 

 

いきなり冒頭に≪忘れもしない(忘れてたけど)二〇二〇年九月四日、私はアナキストとしての自己覚醒を経験した(11頁)≫とあって、買おうかどうしようか迷ってしまった。アナキストとは、日本語で言えば一般に無政府主義者であり、無政府主義という言葉はわが辞書には存在しないからなのですね。つまり、個人的には国民国家を基幹とする政府なくして、人々の生存や生活は保証(保障)されないと考えている。でも、著者の重田氏の言う「シン・アナキズム」がゴリゴリの「無政府主義」を指すのでなければ、それはそれで読む価値はあるだろうなと思い直して買ったというわけ。そもそもタイトルが「シン・アナキズム」であり、先頭に「シン」が付いていることだし。実は私めは『シン・ゴジラ』という場合の「シン」が「新」を意味しているのかよく知らない。もしかして、ゴジラは脊椎動物だから、芯が通っているという意味で「芯ゴジラ」なのかなと思ったこともあるけど、それだと冗長なので、つまり「ゴジラ」と言うだけで十分だよね。あるいは「真ゴジラ」なのか? でもそれだと円谷氏に失礼なので違うでしょうね。なので「新ゴジラ」なのだろうと思うことにした。そこから類推すると、「シン・アナキズム」とは「新アナキズム」、すなわちきょうびの表現で言えば「アナキズム2・0」なのだろうと思う。

 

ところでアナキズムを取り上げた本には、あまり芳しくない思い出がある。タイトルは忘れたけど、講談社新書にアナキズムに関する本があって、その著者(女性だったはず)も「アナキスト」を公言していた。ところがアナキズムを擁護するその論調が私めにはあまりにも牽強付会に思えたので、一応最後まで読みはしたが、結局ゴミ箱に放り投げてしまったのですね。その論調とは、保守やリベラルのさまざまな考え方を取り上げてはその欠点をあげつらい、だからアナキズムがもっともすぐれていると結論していたように覚えている。それを読んだ私めは、この著者は、政治というものを勘違いしているのではないかと思った。政治とは、現実を扱う営為なのだから、いかなる方針を立てようが、そこには利点もあれば欠点もある。だから個々の政治思想を取り上げて、欠点だけをあげつらえば欠陥ありとしてあらゆる政治思想を退けなければならなくなる。その本の著者がやっているのはまさにそれに思えた。そうではなくて、本来は利点と欠点を合わせて考えたときに、利点がもっとも多く得られる考え方を取るべきなのであり、しかも状況が変われば利点と欠点の総合評価は変わってもおかしくない。極端なことを言えば、ある状況下ではリベラルな政策がもっとも有効であったとしても、状況が変われば保守的な政策がもっとも有効になることもある。たとえば個人的には、東西冷戦下では日本はリベラルな安全保障政策を取るべきだと考えていたが(それでも九条が平和を守ってきた、あるいは守ってくれるなどといったおかしな妄想は抱いていなかったが)、中国やロシアなどの八九三国家が軍事的に台頭してきた二一世紀の今日においては保守的な安全保障政策を取るべきだと考えるようになった。それは矛盾でも何でもない。考え方を変えた理由を明確に示せれば、政治家がそのような転向をすることにはまったく問題がないとも思っている。しかも各個撃破戦略を駆使してあらゆる政治思想をケッチンしたあと、「アナキズム」がもっともすぐれていると結論するのはさらに笑止千万。無政府主義という意味での「アナキズム」が実際に成立したことは歴史的に言ってもほとんどなかったはず。だから「アナキズム」を採用すれば実際にどのようなとんでもない問題が出来するのかを示す実例は、他の政治思想に比べてほとんどない。というか、¥1000賭けてもいいけど、国民国家を基幹とする政府という存在がなくなれば、世界は百鬼夜行の状態になることはまず間違いがない。だから銀河系一のヘタレの私めは、無政府主義という意味でのアナキズムは到底肯定できないのよね。だって真っ先に自分が淘汰されることに間違いはないんだから。でもその次に淘汰されるのは、きっとアナキズムを肯定している青二才の学者先生たちに違いないと思うぞ。

 

それからくだらないことを言わせてもらえば、アナキズムと言うと『聖トリニアンズ女学院』というタイトルの、イギリスはイーリング・スタジオ産の二〇〇七年製作の映画とその主題歌をどうしても思い出してしまう。イーリング・スタジオと言えば、イギリスでは、ホラーならハマーかアミカスか、コメディならイーリング・スタジオかと言われていたほどの老舗であるにもかかわらず、久々にその名を聞いたような気がする。まあオネエぴゃんたち(なんか小学生くらいの女の子から女子大生くらいの娘までいて、さらには女装したおっさん(ルパート・エヴェレット)までいるというケッタイな女学院なんだが)が暴れまくるという、はっきり言って変態島国国家の西の横綱イギリスらしい、実にアホくさい映画なんだけど、けっこう個人的にこういういかにもばかばかしい映画は嫌いではない。私めはヒアリング能力がお粗末なので一部しか歌詞を聞き取れないが、聞き取れた部分だけを抜き書きすると次のようなものになる。「We are the best. So screw the rest. We do as we darn well please. Until the end, St. Trinian’s, defenders of anarchy」。どうおもしろそうでしょ? 関係ないけど、映画を観ていて思わず「コリン・ファースさん! あなたウインクができないタイプの人だったのね!」と思ってしまった。ちなみに調べてみると、天ぷらでは現在でも無料で視聴できるみたい(無料と言っても月に¥500だか¥600だかの天ぷら料は払わねばならないが)。なおこの「Defenders of Anarchy」という曲は映画の最後で歌われている。メインで歌っているのは、ガールズ・アラウドというオネエぴゃん五人組のグループで、中央で歌っている金髪のとっぽいお姉さまはサラ・ハーディングだと思うが、残念ながら彼女、数年前に乳がんで若くしてお星さまになってしまったらしい。

 

さていずれにしても、そのような印象を持っている「アナキズム」がテーマらしい本を買ったのは、著者が重田園江氏だからなのですね。重田氏の本は、フーコー関係の本を何冊か(そのうちの一冊は編集者の加藤氏からちょうだいした『フーコーの風向き』(青土社))や『ホモ・エコノミクス』などの新書本を読んだことがある。いずれもなかなかおもろかったように覚えている。だからまあちょっと賛同はできないことが書かれている可能性はあれど(実際にちょこちょこあり、それについては適宜説明する)、読んでみることにしたというわけ。それと目次にジェイン・ジェイコブズとカール・ポランニーの名前を見かけて、一般には彼らをアナキストとは呼ばないはずなのでますます読んでみたくなったということもある。

 

ということでいよいよ本の中味に入ると、「序」にアナキズムについて次のように書かれている。≪アナキズムは体系的ではない。「体系的アナキズム」とは、かなり笑止な語義矛盾に陥っている。またアナキズムは「全体」を{標榜/ひょうぼう}したり、唯一の正しさを主張したりはしない。そういうことをすると一瞬にしてアナキズムでなくなるのが、この立場の信頼できるところだ。それは理論ならざる理論であり、ある種の生の様式である。アナキズムは自ずと断片的な思想表明となり、考え方や行動の傾向を表すにすぎない場合も多い。それ自体がアナキズムの一部であり、この特徴を壊さないように文章で表現することは難しい(20頁)≫。最後の一文は主語が明確でないので、意味がよくわからない。てか、主語が存在しないから前文の主語を受け継ぐ決まりが発動するが、そうすると「アナキズムはそれ自体がアナキズムの一部であり」という文になる。それってどういう意味? この手の意味不明な文は他にも見かけられ、もう一つ例をあげておきましょう。「第5章 デイヴィッド・グレーバー」にサミュエル・ハンティントン批判があって、そこに次のように書かれている。≪当時から私は、ハンティントンの文明実体主義に呆れつつ、この流行を苦々しく眺めていた(子どもが0歳で論争に参加するどころではなかったので、遠くから睨んでいただけ)(282頁)≫。()内の意味がわかる人がこの世にいるのだろうか? そもそも重田氏は一九六八年生まれなので、私めより8歳若いにすぎないのだから、私めも読んだことのあるハンティントンの『文明の衝突』が刊行された頃、0歳であったはずはない。こんな意味不明なカッコ書き不要なのでは? よくNHK出版の編集者に削られなかったとすら思えてくる(翻訳者が訳者あとがきにこんな意味不明なことを書いたら編集者に確実に削られるよ!)。まあ重箱の隅をつつくような真似はそれくらいにして、これがアナキズムの定義なら、私めは反対しないどころか大賛成すると述べておきましょう。

 

ということで、まず登場するアナキスト?は、ジェイン・ジェイコブズ。実を言えば、私めは、彼女の本は主著の『アメリカ大都市の死と生』を含め、まったく読んだことがない。ただし彼女への言及はさまざまな本で読んできた。でももちろん、彼女をアナキストとして紹介した本はなかった(はず)。園田氏はまずモンテスキュー的な鳥瞰的視点と、ルソー的な大地を歩く人の視点を比べている。後者の視点に社会契約論のルソーをもってくるのは意外に思えた。というのも、ベンヤミンの「フラヌール」の概念を持ってきてもよさそうに思えたから。でも重田氏が「フラヌール」を知らないはずはなかろうから、それではイメージが違うのでしょう。ジェイコブズ(と園田氏)は、もちろんフーコーというかベンサムのパノプティコンを思い出させるような鳥瞰的視点よりも、地に足をつけた人の視点を重視し、次のように書いている。≪アナキズムの視点は、ルソー的なものだ。これは最大の特徴と言っていい。だが、地に足のついた、あるいは生活のリアリティに即した、といった退屈なことばでは、この内実はつかみきれない。というのは、アナキズムは明確かつ意識的に、モンテスキュー的俯瞰を拒みそれに対抗して、徒歩と身体性の視角を導入するからだ。アナキズムにははじめから闘争の契機がはらまれている。抵抗すべき巨大な支配の存在が、人にアナキスト的生き方を選ばせるのだ(28頁)≫。≪抵抗すべき巨大な支配の存在≫が具体的に何なのかは一考を要するとしても、基本的に異論はない。ジェイコブズはアメリカ社会が郊外化の過程を経ている頃に、逆に都会に目を向けたらしい。ちなみにアメリカ人が都会を憧れの対象にしていた頃から郊外化の過程を経て、逆に都会が否定的に捉えられるようになる逆転のプロセスは、一九五〇年代から一九七〇年代にかけてのアメリカ映画を観ているとはっきりとわかる。これは非常に興味深い主題ではあるけど、それについて書き始めるとそれだけで終わってしまうので、その話はいずれ別の機会にすることにしましょう。

 

ところでジェイコブズは、足を地につけたルソー的な観点から都市開発計画に反対していく(当然、彼女にとってはル・コルビュジエなど≪恐ろしくグロテスクだと感じ(34頁)≫ていた)。次のようにある。雑多な人々による偶然性をはらんだハドソン通りのバレエは、誰かが計画して作り出すことはできない。多くの人が緩やかに集い即興で自らの役を演じ、その都度の調和を作り出す。事前に決められたプラン、計画、合理性や整理整頓、整然とした秩序(に見えるもの)をジェイコブズは嫌っていた。雑多性こそが都市の活力である。「『一体感』というのは計画理論における古くさい理想にふさわしい、ひどく不快な言葉です」。彼女は、そうしたものが本来の都市には必要ない、あるいは都市の生命をつかみ損ねていると考えていた。生きるものとしての都市。その生命の源は、無名で無数の登場人物であり、小さな{憩/いこ}いを提供して対価を得る商店主、子どもの安全を願う親たち、通りを眺めて楽しむ人々、お気に入りのレストランを毎週末訪れる若者、休日に公園で演奏するのを楽しみにするミュージシャンやダンサーたちなのだ(45〜6頁)≫。「ハドソン通のバレエ」とは、ジェイコブズが住んでいたハドソン通りで繰り広げられていた、見知らぬ人々が織りなす生活絵巻を指す。基本的には私めもこの考えに賛成する。どこかに書いたことがあるが、わが八階建て超高層ウルトラモダンマンションの隣の埼玉が世界に誇る丸広百貨店の地下にある食品街は、かつてレイアウトが滅茶苦茶で雑多性の権化のような雰囲気、というかオーラに満ち溢れていた。私めはそれがとってもとっても気に入っていたのですね。ところがある年、改装されて整然としたレイアウトに変更されていた。するとまったくオーラは消え失せて、かつては燦然と輝くオーラに惹かれて毎日のようにそこで昼メシメシの弁当を買いに行っていたのに、今ではまったく行かなくなった(コロナのときにマスクをしていなかったから地下食品街から叩き出されたということもあるけどね)。だからこの話は個人的にもよくわかる。

 

ただし一点留保したいことがある。それは、「雑多性は無法とは違う」という点。いくら雑多性が人を引き付けたとしても、そこでやたらに殺人や窃盗が起これば、そこに住んでいる人の暮らしも危険になれば、そこに引き付けられてやって来るような人もいなくなる。なんでわざわざこんなことを言ったかというと、上記引用文の直前に、かつてのニューヨーク市長ジュリアーニの「割れ窓」理論に基づく政策が次のように批判されているからなのよね。≪「割れ窓」が九〇年代にニューヨーク市長ジュリアーニ(かつてのトランプ応援団の中枢。二〇二〇年大統領選挙での虚偽主張をめぐる裁判で、多額の賠償金を支払えないと主張し破産申請)のゼロトレランス政策に利用されたのは、この自称「理論」がもともとこうした排除と分断の政治に親近性があったことの証左となっている(45頁)≫。まず指摘しておきたいのは、一九九〇年代の話をしているのに、二〇二〇年の大統領選挙を持ち出す必要があるのかってこと。日本では左派メディアのせいでトランプの名前を持ち出しさえすれば非常に悪い印象が与えられると思われているきらいがあるが(日本におけるアカデミックのトランプの扱いについては前回取り上げた『グローバル格差を生きる人びと』(岩波新書)のレビューの最後の部分に具体例をあげておいたので、それを参照されたい)、一九九〇年代のジュリアーニはトランプとは無関係だったと思うので、この()内の記述は悪質な印象操作にしか思えない。また「割れ窓」理論が自称理論だったとしても、ジュリアーニがニューヨーク市の犯罪率を低下させたことは事実。ウィキには、≪就任から5年間で犯罪の認知件数は殺人が67.5%、強盗が54.2%、婦女暴行が27.4%減少し、治安が回復した。また、中心街も活気を取り戻し、住民や観光客が戻ってきた≫とある。通りに出たら、後ろからナイフでグサされるのを心配しなければならないとしたら、雑多性のオーラを楽しむどころではなくなる。市民の安心、安全を確保することは、市長ならまずやらねばならない責務だったはず。もちろんロックダウン時の習近平みたいな人権無視のとんでもないやり方をしたのならそれは問題だし、実際にウィキには≪無実の人間が警官により射殺されるという深刻な事態も発生≫したとあるので、いいことずくめではなかったことは間違いない。ただ街を歩く人の視点を取るべきだと考えるのなら、重田氏は、なぜこの件に関してはその視点からものごとを見ようとしないのか疑問に思える。あるいは仮にその視点から見ていたとしても、権力批判という自分の主張に都合のいい側面しか目に入っていないように思われる。そもそも犯罪率が高ければ、安心して街を歩くことすらできなくなるのだから。それどころか、そんな環境のもとでは、雑多性はかえって犯罪者に都合よく利用されて犯罪の温床を生み出しかねない。日本の埼玉県にある丸広百貨店の地下食品街は雑多でも犯罪はまず起こらない。だが、銃社会アメリカの大都市ニューヨークは犯罪者の巣窟だった(今でもそうなんだろうが)。ジュリアーニが犯罪対策で何の成果も出していなかったのなら非難されてしかるべきだが、成果は実際に出している。それを≪排除と分断の政治≫と呼ぶのは、いかにも象牙の塔にこもった、少なくともこの件に対しては何の責任もない学者の言いそうなことだという印象を拭えない、とヘタレ引き籠り翻訳者が申しておりまする。繰り返すと雑多性は無法とはまったく異なる。市民が法とその執行機関によって守られていない限り、雑多性をうんぬんしても意味はない。だからこそ、無政府主義という意味でのアナキズムは認めてはならないのですね。要するに、重田氏は「優先順位を間違えてね?」ってこと。

 

まあ以前も思ったことだけど、重田氏ってときどき興に乗って、あるいは熱くなって軽率なことや、言わずもがなのことを書く傾向があるように思える。たとえば中央線を時間軸に見立てて甲府を原始時代、新宿を現代にたとえるような説明(ご丁寧にも図までついていたように覚えている)を何かの新書本でしていた。誰もが笑って済ませるはずと思って冗談のつもりで書いたのだろうが、きっと山梨県人は「差別だあああ!」と怒るよと思った。この本でも他にも言わずもがなの記述があった。舌の根も乾かないうちに、またまた重箱の隅をつつくような真似をすることになるけど、一つだけ例をあげておく。それは312頁と313頁にあるお天気お姉さま批判。313頁には次のようにある。≪お天気キャスターが、きれいな服を着てニコニコ笑ってお天気を伝え「行ってらっしゃい」と言わずに、地球が終わりかけていることをグレタ・トゥーンベリばりの危機迫る表情で毎朝毎晩伝えてくれたら、世の中の意識も多少変わるだろうか。テレビの確信犯的に能天気なイデオロギーに染まっていないお天気キャスターがいるなら、ぜひよろしくと言いたい(314頁)≫。さすがに中央線のたとえの件くらいで「差別だあああ!」と怒る山梨県人はほとんどいないと思うけど、お天気キャスターの件は「これって、職業差別じゃね?」と言われても仕方がない。お天気お姉さまにしてみれば心外な言い草だろうね。確かにテレビは確信犯的に能天気な左派イデオロギーに染まっているのは明らかだとしても、さすがに無害なニコニコお天気お姉さまは、イデオロギーとはほとんど無縁だろうと思うぞ。こんな批判はお天気お姉さまをターゲットにするのではなく、選挙期間中に特定の政党を批判して(断っておくが、私めはその政党の支持者ではない)、公職選挙法?を平気で違反するどうしようもない自称ニュースキャスターをターゲットにするべきではないだろうか? てか、そもそも重田氏はお天気お姉さまにいったい何を期待しているのだろうか? これではハリウッドのアクション映画を観て、悪漢は次々となぎ倒されるのに、なぜジェームズ・ボンドやイーサン・ハントには弾が一発も当たらないのかと愚痴をこぼしているのとあまり変わらない。そして「だいたいグレタちゃんのようなおっかない顔を毎日見せられたら、ただでさえ激減しているテレビの視聴者がまったく寄りつかなくなるべさ!」と思ったところで、ハタと気がついた。「も、も、もしかして重田氏は、百害あって一利なしのテレビを破滅に追い込むための深淵なる戦略を提案しているのかも。す、す、すごい策士だ!」と思い直した。

 

くだらない話はその程度にして、ジェイコブズの話に戻ると、ただしジェイコブズは市場を否定していたわけではないとのこと。それについて次のようにある。≪アナキズムとの関係では、ジェイコブズが市場を決して否定しない点は強調しておきたい。行政の頭ごなしの開発推進に強い不信感を抱いていたジェイコブズは、都市再生においてはビル所有者や地主など、民間の力の活用を重視していた(48頁)≫。とまあここまでジェイン・ジェイコブズに関する記述をざっと眺めてきたわけだけど、そこで感じた個人的な印象は、彼女はアナキストというよりボトムアップ思考家と言う方が妥当であるようにも思えた。しかも市場を否定しないのなら、この前『ハイエク入門』で取り上げたボトムアップ思想家ハイエクにも近そうにも思えてくる。でも新自由主義者と見なされているハイエクに近そうなどと言ったら、ジェイコブズも重田氏も激怒しそうな気もする。とりわけ重田氏は、補論として挿入されている桑田学氏との対談で次のように述べているからね。≪しかしその[ハイエクの]全体主義への批判を一般化して、他の体制や経済理論にも当てはめたことは罪深いと思います。自由主義と全体主義なら、人間一般にとって自由主義の方がいいんだという主張に、全ての「敵」が結びつけられていくわけですからね。市場主義者には、自身の特殊な経験や歴史をその一回性を認めないで一般化していく議論が散見されるところがあり、この部分は気をつけて見ていかなければと思います(136〜7)頁≫。正直言って、これは具体的に何を指しているのかよくわからないので、何とも言えないところではあるけどね。

 

ということで次はヴァンダナ・シヴァ。ヴァンダナ・シヴァという名を知っている人は少ないかも。かく言う私めも、何かの本で名前を見かけたことがあったけど、何をした人かはまったく忘れていた。重田氏によれば、なんでも≪ヴァンダナ・シヴァは、インドでタネの多様性を守るために活動している。彼女は、タネを貯蔵し生物多様性を次世代につなぐための、タネの図書館を作った(67頁)≫とのこと。ところでシヴァとはほとんど関係ないのだけど、ヴァンダナ・シヴァを扱った章の最初のほうにある、環境アクティヴィスト批判に対する次の批判は、私めにはまったく的外れに思えた。≪海外での講演旅行の依頼に対し、航空機のビジネスクラスを条件にしたといった下世話な批判は、環境アクティヴィストへの反対者がよく使う手で、取り上げるまでもないことだろう。グレタ・トゥーンベリも、電車に乗ってもヨットに乗っても「プロパガンダ」と批判されてきた。なぜ「セレブ」がファーストクラスを使うのは当然なのに、地球環境や貧困者や弱者のために発言する人には、自らも全面的に困窮者や「庶民」のような生活を送ることを要求するのか。金持ち代表と庶民代表(?)とで、要求される倫理の水準がかけ離れているのは不思議なことだ(69頁)≫。そもそも≪地球環境や貧困者や弱者のために発言する人には、自らも全面的に困窮者や「庶民」のような生活を送ることを要求する≫というのは、勝手な決めつけだよね? そんなことを要求しているのではない。重田氏は、なぜ環境アクティヴィストに一般ピープルから批判が出るのかを正しく理解していないように思える。それはあえて言うまでもなく、環境アクティヴィストの発言と行動が一致していないからなのですね。たとえば気候変動を問題にしていながら、飛行機に乗るという行為は矛盾に思える(なお、あとでも述べるが私めは気候変動懐疑論者ではない)。もちろんだからと言って泳いで大西洋を渡れと言うわけにはいかないのは確か。しかし飛行機には乗らざるを得ないにしても、ビジネスクラスを要求したりすれば、一般ピープルからその手の反感を買うのは人間の本性からして当然なのですね。もちろんそれが完全なデマであれば話はまったく違ってくるが、重田氏はそれがデマだとは書いていない。いくら「そんなん些末な違いじゃん」と息巻いたところで、反感が生まれるのを避けることはできないどころか、かえって逆効果になる。

 

とはいえ、本質的な問題はそこではなく別のところにある。それは、環境アクティヴィストは一般ピープルを説得しなければならない立場にあり、したがって問題のある、あるいは誤解を招く言動や行動を慎まなければならないのはアクティヴィストのほうであることを、そしてそれゆえ基本的に一般ピープルがアクティヴィストの言動と行動を判断するのであって、アクティヴィストや重田氏が一般ピープルの言動や行動を判断するのではないということを重田氏が完全に失念している点にある。だからアクティヴィストに対する批判を、それがまったくのデマであれば別としても、≪取り上げるまでもない≫と切って捨てるのはきわめて傲慢な態度だと言える。そんな態度を取っていたら、一般ピープルを説得することは絶対にできないのだから。要は誰が何を判断すべきなのかについて重田氏は完全に勘違いをしているのですね。あるいは環境アクティヴィストを特権化しようとしているようにも思える。結局重田氏のこの発言は、知らず知らずのうちに、環境アクティヴィストをこの本でさんざん非難している鳥瞰的な権力者と同類項に仕立て上げているとさえ言えるかも。重田氏自身、桑田学氏との対談のなかで≪環境問題はグローバルな問題として多くの人々に共有されるべきものですが、実際には閉鎖的共同性にこもりがちです(126頁)≫と述べている。それを読んだ私めは、「重田さん、あなたも閉鎖的共同性にこもっていませんか?」と言いたくなってもた。ではどうすればよいかと問われれば、ここでは批判を率直に受け止めて、その手の反感を買わないような言動や行動を心掛けるべきだというごく一般的なことしか言えない。

 

さらにおもろいことに、重田氏は大学教員のさがについて本書のかなりうしろのほうで次のように述べている。≪大学教員というのは大した力もないのにその世界では頂点に立っていると思っているので、職員や学生はつねに教員の機嫌をうかがい、その真意を推測しなければならない。これに対して、教授と名のつく人はそんな配慮をする必要はない。彼らは配慮してもらうことにすっかり慣れてしまっている。だから教員同士が対立すると、十分な知性をもたない動物同士の争いのようになる。それは多分に、私も含め大学教員という職に就く者たちが、相手の意図や動機を自ら進んで解釈することに慣れていないからだ。ふだんはその必要がないのでそれに気づくこともない(403頁)≫。要するに、ちゃっこいちゃっこいお山の大将に成り下がっているということなのでしょう。≪教員同士が対立すると、十分な知性をもたない動物同士の争いのようになる≫というくだりには笑ってもた。

 

実は左派の人々は(重田氏が左派なのかどうかはここでは問わない)、自分や自分のお仲間がちゃっこいちゃっこいお山の大将に成り下がっていることをまったく認識していない場合が多い。一例をあげましょう。かつて左向きの人々が集まる飲み会に参加したときに、「なんで俺らが応援している政党は政権を取れないのだろう?」などとつぶやいて、政治と野球の話はしてはならないという飲み屋の厳然たる掟?を破るヤツがたまにいた。そのとき何度か聞いた答えに「小選挙区制が悪い」というものがあった。それを聞いた途端、私めは心のなかで笑い転げていたが、その答えのおかしさを指摘することはあえてしなかった。何しろ多勢に無勢だからヘタレの私めは口にできなかったというわけ。「小選挙区制は二大政党制を推進することを目指して導入されたのだから(名前は忘れたけど、確か政治学にはその根拠となる法則さえあった)、二大政党の片割れにもなれないなら、それは小選挙区制が原因だなどとはとても言えないじゃん!(しかも実際には民主党が一度は政権を取っている)」とかいうテクニカルな反論は置くとして、それよりもっと重要かつ根本的かつきわめて単純な原因があることにまったく気づいていないのがおかしかったというわけ。その原因とは、「彼らが支援している政党の政治家の言うことが、一般ピープルの直観にまったく訴えない、つまり心にまったく響かない」こと。そしてその当たり前田のクラッカーの事実にまったく気づいておらず、「小選挙区制が悪い」などという、きわめてテクニカルで表面的なことしか言えない愚かしさに呆れたというわけ。進歩主義を気取るヤツほど、人間の直観をバカにするものだが、人間の直観は進化の過程で得られた能力なのでおおむね正しい場合が多い。もし人間の生存や生活にマイナスになる形質、たとえばオツムをバカにする形質などというものがあるとするなら、そういう形質はやがて淘汰されるはずなのですね。

 

要するに一般ピープルの直観をバカにしているから、少数派に属する左派は、自分たちのほうが一般ピープルを説得しなければならない立場にあるにもかかわらず、「俺たちや俺たちが支持する党が言っていることが絶対に正しい」と思い込んで、「国民はバカだ(日本国民でそう主張する人は、論理的に言って「自分もバカだ」と宣言しているか、非国民であるかのどちらかだということになる)」「トランプに投票したアメリカ国民は学歴が低い(もしこれがほんとうなら、民主党は弱者を救うという自分たちの使命を果たせていないことを意味する)」「蓮舫に投票しなかった都民はアホだ(「蓮舫に投票すべき」と言うなら、それはその人の勝手だが、蓮舫に投票しない人はアホだと主張することは、他者の自由意思を、ひいては民主主義を否定する一種のファシズムであることになる)」みたいなことを平気で言い放ってしまうのですね。つまり、少数派である彼らが一般ピープルを判断するのではなくて、一般ピープルが彼らの見解を判断するのだということがまるでわかっていない。これでは、お仲間以外には完全に見離されるのは当たり前だよね。そもそも彼らの態度は少数者が多数者を説得するときのものではまったくない。彼らは朝日・岩波文化圏のような、はっきり言えば少数者しか属していないフィルターバブルに包まれて悦に入っている有様だから、そんな単純なことにさえ気づかない(ちなみに私めは、これまでにもこの「ヘタレ翻訳者の読書記録」でそれなりに岩波新書本を取り上げていることからもわかるように岩波新書の愛読者であり、岩波書店自体を否定するつもりはまったくなく、それを中心に凝り固まっている、エリートとはとても言えないにもかかわらずエリート主義的に振る舞っている、ああ!勘違い少数者集団を嫌っているだけ)。参院選で自公がボロ負けしても、立民は横ばい(共産は減)なのは、そういう左派のファシスト的な態度が一因になっているのだと思う。それでも彼らは自分たちの態度を反省しないのだろうね。率直に言わせてもらえば、左派のメディア、政治家、自称知識人は、右から左にイデオロギー的な立場を変えただけで、エリート主義的でファシスト的な心性という点、そしてそれに起因する愚かさ、さらにはその愚かさにすら気づかないダブルの愚かさという点では、戦前から何一つ変わっていないのですね。今の日本の石なんちゃら左派政権やそれを擁護する大政翼賛的なメディアや少数の自称知識人の態度は、戦前のそれに非常に似通っているのではないだろうか。それと似たような構図が環境アクティヴィストの話にも見え隠れしているということが言いたかったわけ。

 

ということで、例によって大きく脱線したので、ヴァンダナ・シヴァの話に戻りましょう。次は彼女の「緑の革命」に対する批判が取り上げられている。緑の革命については前回取り上げた『グローバル格差を生きる人びと』でかなり詳しく論じられていたし[ページ内検索キーワード:緑の革命]、そこでも書いたようにわが訳書ロブ・ダン著『世界からバナナがなくなるまえに』(青土社)でも「第10章 緑の革命」で一章を使って説明されていた。『グローバル格差を生きる人びと』では、おもにアフリカにおいて「緑の革命」によってもたらされた問題が取り上げられていたのに対し、シヴァはインド人であることもあって、こちらではインドにおける「緑の革命」の問題が取り上げられている。たとえば次のようにある。≪シヴァの立場を明確に示す著作が、一九九一年に出版された『緑の革命とその暴力』だ。まだ三十代で書かれたとは思えない力強さと洞察を備えた名著である。ここでシヴァが取り上げるのは「パンジャーブの悲劇」だ。これはインド−パキスタン分離以降のパンジャーブ地域の不安定を要因とする動乱で、シク教徒の分離独立運動として理解されてきた。¶だがシヴァはこの動乱を、宗教戦争とは別の観点から捉えようとする。一九八〇年代の政情不安が、それまで二十年にわたってパンジャーブで実践された「緑の革命」を主要因とするというのである(78頁)≫。パンジャーブで起こったことをもう少し具体的に述べると次のようなものになる。≪ボーローグ[緑の革命を主導した植物学者]らが開発した高収量品種は大食いである。それは在来種よりずっと多くの化学肥料と水がないと、高い収穫を期待できない。パンジャーブで起こったことは、数年の大豊作の後の不作であった。考えてみれば当たり前だ。いくら化学肥料を{撒/ま}いても、土壌から栄養を吸い上げなければ穀物は育たない。そのサイクルを早めれば土が滋養を回復する暇はなく、除草剤と化学肥料で汚染されてやせ細り、土地は死んでしまう。¶また、パンジャーブでは別の次元の問題も生じた。単一品種の小麦栽培は地域の伝統社会や土地所有を破壊し、貧富の差が急速に拡大した。大規模経営と市場への組み込みがもたらす、これまたどこにでも起こる現象である。それによって生じたのは、民族・宗教対立の激化であった(86〜7頁)≫。『グローバル格差を生きる人びと』には、それと似たような事態がアフリカで起こったことが記されていた。まさに≪どこにでも起こる現象≫なのですね。

 

それから「緑の革命」によって開発された高収量品種のタネ、すなわち奇跡のタネの問題について述べられている。なおここでは政治的な問題のみを取り上げる。次のようにある。≪では、奇跡のタネは本当に奇跡をもたらしたのか。シヴァはさまざまな角度からこれに疑問を投げかける。まずは種子の流通である。(…)タネは農民のものではなく、種子会社と肥料会社のものになった。自家採種の禁止によって、農家は毎年企業からタネを買わなければ作付けができなくなったのだ。緑の革命は、ボーローグが推奨する高収量品種を農民が自発的に選ぶことで達成されたのではない。それはアメリカの政治的圧力、世界銀行や民間財団の豊富な資金、インド政府の政治的取り込み、そしてタネの「特許」を駆使することで達成された。市場化が強制される過程で外国の大資本が入り込むという、南米のショック・ドクトリンやアフリカなど他の地域でもくり返されたやり方である。表向きの政治支配を伴わない植民地主義の継続と言ってもよい(83〜4頁)≫。≪アメリカの政治的圧力≫というのは、まさしく私めが『グローバル格差を生きる人びと』や『アメリカ 異形の制度空間』(講談社選書メチエ)のレビューのなかで述べたアメリカの第二の顔による政治的圧力だと言える。また、≪種子会社と肥料会社≫の両方を一つの企業でやっていたのが、悪魔のモンサント社だと言えるでしょうね。

 

次に、そのモンサント社の悪行の数々が列挙されている。農業に関係するモンサントの悪行はよく知られているので、ここでは私めが知らなかったPCB(ポリ塩化ビフェニル)が関係する話だけを引用しておく。次のようにある。≪『モンサントの不自然な食べもの』では、一九三五年から一九七七年までつづけられたアメリカでのモンサントのPCB製造を原因とする、河川・土壌汚染による健康被害が冒頭で取り上げられている。アラバマ州アニストンでは、一九六〇年代から秘密裏に垂れ流され、また不法投棄されたPCBによる被害を受けた二万人の住民による集団訴訟で、二〇〇三年にモンサントに七億ドルの支払いが命じられた。また全米の多くの都市が、河川や海水に含まれるPCB[の]除去費用をモンサントに請求しており、二〇二〇年にはじめて出た判決では、ワシントン州に対してだけで九千五百万ドルの支払いが命じられた。¶これらの訴訟の中で明らかになったのは、モンサントが早くも一九三七年に、PCBによる健康被害を把握していたことを示す内部文書の存在だ。それなのに会社は戦後もずっとこの事実を隠しつづけた(92頁)≫。まず指摘しておくと、日本でもPCBは、私めが小学生の頃に起こったカネミ油症事件でよく知られている。どれだけ広く知られていたかというと、小学生の私めがPCBはポリ塩化ビフェニルのアクロニムであることを知っていたくらいにね。また、「トランスやコンデンサはやばいぜ」みたいなことを小学生が偉そうに言い合っていた。それから二段落目の記述(¶が段落替えを意味する)は、別のある事件を思い出しませんか? そうサリドマイド事件のこと。あれも製薬会社が、薬に問題があることがわかっていたのに隠し続けていたために被害が拡大したんだよね。私めは反ワクチン論が猖獗する原因の一つには、過去とんでもないことをやらかし続けてきたビッグファーマ(モンサント社は医薬品ではなく農薬企業だったとしても)がまったく信用されていないこともあると思っている。なおワクチンに関する私めの考えは、『倫理学原論』を取り上げたときに述べたのでそちらを参照されたい[ページ内検索キーワード:ワクチン問題]。

 

ここまでシヴァに関する記述を読んできて、シヴァがなぜアナキストなのかよくわからんと思う人もたくさんいるはず。私めもその一人だし。重田氏もそう思われるだろうと考えてか、次のように述べている。≪ここまでの叙述をふまえると、シヴァのアナキスト性はどこにあるだろう。まず、シヴァの活動がアナキスト的な志向を持つことは分かるはずだ。グローバリゼーションと大企業の利益に対して徹底してオルタナティヴな生を提示し、地域に根ざしてそれを実践する。(…)いまあるもの、いままであった手近なものをそのまま用いることで、市場の利益を追求するグローバル化の流れに対抗する。そして手近なものを意味づけ直し、それが全体の中で持つ役割に注目する。これ自体とてもアナキスト的だ(108頁)≫。他にもいくつか彼女がアナキスト的である理由が述べられているが、ここではカットする。いずれにせよ、グローバリゼーションのようなトップダウン的な所業に反対するボトムアップ的な思想家という点では、ジェイコブズと同じであるように思える。とすると、「アナキズム」という用語を重田氏がどう定義するかが気になってくる。すでに引用した序(20頁)の説明にも、≪それは理論ならざる理論であり、ある種の生の様式である。アナキズムは自ずと断片的な思想表明にとなり、考え方や行動の傾向を表すにすぎない場合も多い≫とあったように、なんかイマイチしっくりこない部分がある。ここに書かれているシヴァの言動や行動には、グローバリズムが大嫌いな私めも大いに同調できるけど、だからと言って自分がアナキストだとはまったく思っていない。まあそのあたりは今後の説明でわかるのかも。

 

次は対談を飛ばして森政稔。どうやら政治思想史家のようで、実のところ私めは、名前は聞いたことがあっても、彼の本はまったく読んだことがない。たぶんアナキズム研究者であって本人自身がアナキストなのではないのだろうと思う。彼は何でもネコちゃんが好きらしい。私めは、ネコちゃん派でもおイヌさま派でもなく、トリピーちゃん派なのでネコちゃんにはあまり、というかまったく興味がない。それどころか屋内で飼っていたら毛が落ちてあちこちがかゆくならないのとすら思ってしまう。ただし森氏は東大に住み着いていたネコちゃんを可愛がっていたとのことだけど(過去形で書いたのは森氏がすでにお星さまになっているからではなく、ネコちゃんのほうがお星さまになっているから)。ただお船も好きらしく、次のくだりはおもろかった。≪森政稔にとっては、船に乗ることそのものが目的である。だからたとえば、二〇二一年七月に就航した横須賀から新門司までを二十一時間かけて結ぶ「東京九州フェリー」に乗っても、横須賀から二十三時四十五分発に乗って翌日の二十一時に新門司に着き、そのまま新門司二十三時五十五分発に乗って翌日二十時四十五分に横須賀に帰ってくる。私みたいな人間にはまるで分らない旅程を組んでいる(157頁)≫。重田氏にはまるでわからなくても、私めにはよくわかる。というのも、私めは船には乗らないとしても、乗り鉄だったので(今はゆ〜ちゅ〜ぶで鉄道動画を観るアームチェア鉄っちゃんだけどね)、全国の路線に乗るために常人では考えられないような旅程を組んでいたから。たとえば学生の頃には、その頃住んでいた京都から旅立って北上し一旦青森まで行き、それから180度方向転換して九州へ行き、それから再北上して北海道まで行くなどといったことをやっていた。それには確か一か月以上をかけたと思う。観光地などはほとんどいかず(待ち時間があればちょっと市内を回ることくらいはした)、ただただ電車や気動車に乗っていたかったのですね。「え? 学生の分際で一か月もそんな旅行するだけの金があったの?」と当然の質問が出てくるはずなので、それに先回りして答えておきましょう。まず昔は北海道ワイド、東北ワイド、九州ワイドなどといった周遊券が販売されていたので、それを利用すれば交通費はそれほどにはならなかった。それから宿泊はユースホステルか、周遊券があればそれ以上払う必要のない夜行急行列車の自由席で済ませていた。ユースも現在では民宿並みになっているようだが、(はっきりとは覚えていないけど)昔は一泊二食つきで¥2000程度だったと思う。おかげでユース宿泊数の合計(つまりその時以外も含める)は100泊を軽く超えていたはずなので、銀バッジをもらえる権利を持っていたものの、申請はしなかった。それからもう時効だろうから白状すると、『エスノグラフィ入門』に書いたように、ユースでは周遊券の交換という阿漕な真似をやっていたのですね[ページ内検索キーワード:周遊券]。だから総額でも10万をやや超える程度だったように覚えている。そういうことをやってきた経験があるので、ネコの件では共感しなくても、乗り物に乗ることだけが目的の旅行の件には大いに共感できる。

 

と、またしても脱線してしまったので、重田氏の本に戻ると、ではその森氏のアナキズム研究とはいったいいかなるものなのか? ところがこれがまたはっきりしない。森氏が依拠しているプルードンになんだかよくわからないところがあり、森氏もそれにつき合っていて、だから重田氏自身もはっきりとわからないとかなんとかいったようなことが書かれていて、さすがにそれでは私めにもようわからんかった。ただ日本におけるアナキズムの「世間での一般的な理解」、というか誤解の起源は、ソレルの『暴力論』にあるという記述があった。そして≪これまで抱かれてきたアナキズムのイメージに抗して、それ以前のいわば「初期アナキズム」の中にあった、破壊衝動やテロリズムとは異なった考え方を救い出すこと、これが森政稔の企て(170頁)≫なのだそうだ。ちなみにその「初期アナキズム」を提起したのがプルードンなのでしょう。

 

ということで、消化不良のまま次のカール・ポランニーに参りましょう。カール・ポランニーは著書を一冊だけ読んだことがあるけど、どれだったか忘れた。そもそも暗黙知で知られる弟のマイケル・ポランニーのほうが、個人的には興味がそそられるからね。とりわけ最近の認知科学や進化科学の知見によってマイケル・ポランニーを解釈すると、どうなるのかは実におもろそう。いずれにしても、本書で扱われているのは経済学者のあんちゃんのほうなので、ここでは弟ちゃんにはこれ以上触れないことにする。伝記的な記述は飛ばすとして、まず商品になり得ないものが三つあるというポランニーの見立てが取り上げられる。それは労働・土地・貨幣で、それらのそれぞれについて説明されている。その詳細はスキップするとして、「貨幣」に関する≪そもそもポランニーの発想は、人間生活が社会的なシンボルや規約によって取り囲まれているとしても、そこにはなんらかの「実体」との結びつきがあるという考えからきている(202頁)≫という指摘だけを取り上げておきましょう。だから彼にとって実体経済から遊離した金融市場などというものは、存在していてはならないのですね。その話の延長で『マネー・ショート』という映画に言及されている。確かリーマンショックのときに大損ではなく大儲けした投資家が主人公だったはずで、天ぷらで観てメチャクチャおもろかったように覚えている。お薦めだよん。何とかという金融商品を駆使して儲けたらしいが、そのあたりのテクニカルな説明は、金融音痴の私めにはよくわからんかったとはいえ(確か行動経済学者のリチャード・セイラーが本人役で出演し、やたらにド派手な顔をしたマーゴット・ロビーちゃんに何やら説明していた)。そのリーマンショックに関して重田氏は次のように書いている。≪実体的な存在である土地と労働を商品にすることは、地球環境と人間の尊厳に対する重大な侵害をもたらした。そして貨幣を商品にすることは、商品経済が社会の実体からどんどんかけ離れていく大いなる契機となった。その遊離がただの金融ごっこ、金持ちたちのゲームとして閉じていてくれればいいのだが、資本主義は弱者を食い物にするのが常なので、貧困者の住宅ローンに巣食って破綻したのがリーマンショックだった。そして案の定、このときも金持ちと大企業はアメリカ政府によって救済された(205頁)≫。まあ金儲けのために金儲けしているやつらが巨万の富を築いているんだから、重田氏や墓の中のポランニーでなくても怒るわな。ちなみに企業の救済って英語で「bailout」と言うよね。通常は「飛行機からパラシュートで緊急脱出すること」とか単に「ずらかること」を意味するので、英語のほうがはるかに皮肉が利いててよろしい。

 

ところでポランニーによると、市場の拡大が止まらなくなるのが十九世紀イギリスにおいてらしく、彼はその事態を「悪魔のひき臼」と呼んだとのこと。ただその時点では、まだ金融市場が実体経済から遊離してはいなかったのだろうけどね。それに関して次のようにある。≪機械文明の広範な利用は商品を生産する原材料や労働、そしてできたものを売り{捌/さば}く場=広範な市場システムを必要とする。市場規模が大きいほど多くの商品を捌けるので、その拡大の勢いを抑えることは難しく、こうしてあらゆるものが「悪魔のひき臼」に吞み込まれる。グローバル資本主義をイメージすれば分かりやすい。市場機構は商品の存在を必要としており、したがって自然と人間は例外も際限もなしに商品化される。市場社会では、商品経済の渦に呑み込まれなければ人は経済過程に入ることができず、生きていくことも利益を得ることもできない(214頁)≫。これを読んだ私めは、この「悪魔のひき臼」というやつは、ハンナ・アーレントが『全体主義の起源』で書いていた、燃料を投下し続けるか完全に止まるかしかないファシズムのメカニズムに似ているなと思った。すると次の段落に、まさにそのことが書かれていた。≪さらに、商品化と市場化のプロセスは無限の過程であり運動なので、決して完成や終局には至らない。市場社会がとどまることのない無限運動であることは、マルクスやアーレントの指摘を想起すると分かりやすい。アーレントが『全体主義の起源』で考察した、経済から借り受けて全体主義の政治に持ち込まれたとされる「運動」には、無限に増殖するか消滅するかの二択しかないという恐ろしい特徴がある。また、マルクスが『資本論』で行った予言によるなら、資本は増殖しつづける以外に生き延びる道がない(214〜5頁)≫。アーレントの見立てによれば、ファシズムという政治形態のダイナミズムは、資本主義という経済形態のダイナミズムから持ち込まれたということらしい。うぬぬ、それは予想していなかった。

 

では、ポランニーはこの「悪魔のひき臼」にいかに対処すべきと考えていたのか? それに関して次のようにある。≪すべてを商品化する市場という悪魔のひき臼に対抗するには、その外部に出なければならない。同時にそれは、自己調整的市場を特権視する自由主義経済学のドグマを脱し、市場そのものをもっと幅広く、柔軟性をもって捉える道行きでもあった。ポランニーは脱市場主義というこの道筋において、とても豊かな風景を見せてくれる。これこそ彼の思想の魅力を尽きないものにし、またそこにアナキストの{片鱗/へんりん}を感じさせる場所でもある(216頁)≫。ということは、ポランニーに関して言えば、脱市場主義がアナキズムになるかのように聞こえる。でも、それではあまりに恣意的な気がしないでもない。まあでも、それは勇み足の判断かもしれないので、もう少し先まで読んでみましょう。ポランニーの取っていた立場は、「機能的社会主義」と呼ばれるらしい。それに関して次のようにある。≪以下では主に「社会主義経済計算」の叙述に拠りながら、ポランニーの議論を見ていこう。冒頭に書かれているのは、ポランニーにとって機能的社会主義と資本主義の違いを特徴づけるのが、市場の有無ではないということだ。ポランニーの考えによるなら、機能的社会主義は資本主義とは異なった形のものではあるが、市場機能を内に含んでいる(239頁)≫。これを読んで「あれれ! ≪ポランニーは脱市場主義というこの道筋において、とても豊かな風景を見せてくれる≫はずだったのでは?」と思ってもた。だとすると、216頁の「脱市場主義」と239頁の「市場機能」では、「市場」の意味が違うとしか考えられないよね? と思って読み進めると、≪ところがポランニーがいう「ある種の」市場というのがどうもイメージしにくい。論考を読み進めていっても、この部分が機能的社会主義における市場の要素ですよ、とはっきり書いてあるところはない(239頁)≫とある。これではポランニーのどこがアナキズムかどころか、彼が市場をどう捉えていたのかさえわからん。

 

それでも重田氏は、ポランニーの市場の考えについて苦労しながら次のように述べている。≪ポランニーの書き方からすると、次のような条件を満たす取引はすべて市場[取引]ということになる。それは、生産者と消費者がそれぞれ異なる欲求を持って登場し、あらかじめ定められた強制的・外在的取り決め(固定価格など)によらずに、その都度の交渉を通じて財やサービスを配分するという条件である。価格の決定プロセスが匿名の市場圧力によるのか、それとも当事者間の交渉によるのかは、ここでは問われていない。¶そしてこの広い意味での市場像からするなら、機能的社会主義において生産アソシエーションと消費アソシエーション(あるいは「コミューン」)との間の交渉によって定められる協定価格もまた、ある種の市場機能を通じた価格決定だということになる(240頁)≫。次にそのような価格決定は、ソ連型集散主義における固定価格と、自己調整的市場の価格決定の両方と異なると述べられている。そしてさらに、機能的社会主義それ自体について次のようにある。≪機能的社会主義においては、生産は資本家や経営者が労働者を雇用する私企業を通じて行われるのではない。そもそも生産手段の社会化(工場などの設備を私的に所有するのではなく、そこで働く人たちや地域の人たちが共同で所有すること)は、機能的社会主義の主要な特徴である。それは、雇い主不在の、それでいて国家や中央権力などによって統制されていない、現場主義に立つ経済の組織化なのだ。¶そこでは、生産は私企業に代わるさまざまなアソシエーションによって行われる。生産アソシエーションの例として、ポランニーは「生産共同組合、ギルド、「自主管理工場」、「業務提携(…)」、「社会作業所」、「自律的企業」、生産労働組合、産業組合、生産者全国労働アソシエーション、単一大労働組合(…)」を挙げている。こうした例示から、労働者自ら工場を運営する方式にはさまざまな組織形態があるとポランニーが考えていたこと、また当時実際に多様な形態のアソシエーションが形づくられていたことがうかがえる。現に存在するさまざまなアソシエーションの試みを生かし、つなぐことで、働くこと(生産)、運び届けること(流通)、そして買うこと(消費)の現場から、新しい社会の組織化を実現する。これがポランニーの描く機能的社会主義だったといえる(242〜3頁)≫。

 

その次に社会正義や社会的公正の話が出てくるけど、そろそろ「それらがアナキズムとどう関係するの?」という疑問がふつふつと湧いてきて、フラストレーションが溜まりそうなのでそれについて引用するのはやめておく。結局ポランニーは、何を目指していたのか? それについて次のように書かれている。≪ポランニーが目指したのは、経済という人間の物質代謝のプロセスの中に、政治的な民主制の諸要件を確保することだったといえる。つまり、経済という利害と損得勘定と欲求充足の世界に、社会正義や公正、そして人々の自由と意思表明の機会、交渉による取り決めなどの政治的な価値観と仕組みを導入するということである。それを可能にするのが機能的社会主義であり、そこでの多元的なアソシエーションの重層化された構造であった(250頁)≫。言いたいことはわかるが、やはりなぜ、あえて使い古されたアナキズムと言う言葉を「シン・アナキズム」と呼び変えてまでポランニーの思想に言及する必要があるのかはよくわからない。トップダウンに管理されるのではなく、ボトムアップに自生的かつ互助的な秩序が保たれることを「シン・アナキズム」と呼んでいるのだろうか? それが正しいのなら、いくらソレルが悪いとはいえ、ネガティブなイメージがこびりついている「アナキズム」という用語を使わなくてもよかったのではないかという印象を受けざるを得ない。確かに「アナキズム」と呼べば逆張り的な効果が得られることは確かとしても。

 

最後に登場する人物は、私めは著書をまったく読んだことがないデイヴィッド・グレーバー。『ブルシット・ジョブ──クソどうでもいい仕事の理論』を書いた人ね。実はこの人に関する記述だけで150頁ほどある。とはいえ最初のほうには、私めがまったく知らないゲデスだとかソディだとかいった十九世紀後半から二十世紀前半にかけて活躍した科学者が取り上げられているので、その部分は省略することにする。ただ地球温暖化に関する次の記述だけは、指摘しておきたいことがあるので取り上げておく。≪二〇〇六年にアル・ゴアが、映画『不都合な真実』で地球温暖化について衝撃的な告発を行い、世界中で多くの人がこの問題を知るようになった。だがそのあとも、「地球はむしろ寒冷化している」「温暖化の証拠はない」と言いつづける自称科学者・専門家がいる(266頁)≫。「温暖化の証拠はない」という言い方は実は舌足らずで、気候変動問題の焦点は「温暖化が二酸化炭素排出などの人為的な手段によって引き起こされているのか否か」にある。なぜわざわざ断るかというと、もし自然的な条件だけで温暖化が生じているのだとすれば、二酸化炭素の排出を規制してもまったく意味がないことになり、よってそもそも論争自体が生じないことになるから(もちろん化石資源の埋蔵量には限りがあるなどといった別の問題は残るとしても)。重田氏が考えているほどこの問題が単純でないことは、次の例を考えてもよくわかる。私めが著書を読んだ科学者のなかには、ミランコビッチ・サイクルによる変動を考慮した場合、現在は本来氷河期でなければならないが、人為的な温暖化のために氷河期にならずに済んでいると主張する人もいた。なおミランコビッチ・サイクルが何なのかはテクニカルな話になるのでここでは説明しないのでググってくださいませませ。でもその科学者は、ならば二酸化炭素の排出を規制して本来の氷河期に戻したほうがいいのか、それとも今後も排出し続けて氷河期の到来を阻止したほうがいいのかに関しては、立場を保留していた。まあ科学者だけに政治的なえぐい論争に巻き込まれるのが嫌なのでしょうね。ということで、以下にある「温暖化」や「気候変動」と書かれた箇所は、頭に「人為的な」がついているものと考えられたい。と、まず前置きをしておく。

 

では、ここで何を指摘したいかというと、重田氏のような気候変動懐疑家批判は、気候変動論者と懐疑家の対立を煽ってかえって逆効果になるということ。はっきり言えば、気候変動懐疑家が自称科学者や自称専門家であるか否かは、この問題にはまったく関係がない。でも、かく言う私めは、すでに述べたように気候変動懐疑家ではない。つまり気候変動懐疑家を批判する立場にある。とはいえ、気候変動懐疑家の「温暖化の証拠はない」という主張が間違っているから彼らを批判するのではない。それどころか、温暖化の証拠がないのはむしろ当たり前田のクラッカーだと思っている。なぜなら気候などという、複雑系ダイナミクスが関与する現象に関して、確たる科学的な証拠を手にするのはとってもとってもむずかしいはずだから。要するに「温暖化の(状況証拠ではなく科学的な)証拠を出せ」と言うのは、現段階では悪魔の証明を求めるのに等しい。だから現時点で、科学的な証拠があるのかないのかという科学至上主義的な立場を取ることそれ自体が、自称科学者か否かよりよっぽど重要な問題なのですね。気候変動懐疑家が間違っているのは、まさに彼らがこの科学至上主義、つまり科学的な証拠がないから気候変動は起こっていないと見なすという立場を取っている点にある。だから彼らが自称科学者であるか否かなど、この問題に関して言えばまったく関係がないと言ったわけ。私めはポピュラーサイエンス本の翻訳者だから、まともな科学者が「人為的な温暖化の科学的証拠」はまだ得られていないという主旨のことを書いているのを、かなり最近の本を含め何度か読んだことがある。そしてそのたびに、先に述べた理由によってその見解(「温暖化の絶対的な科学的証拠」はまだ得られていないという見解)は正しいのだろうと思った。もちろん大企業のお抱え科学者がその企業に有利になるよう、でたらめを報告しているケースもあるのは確かでしょうね。でもだからと言って、逆に「科学的に決定的な温暖化の証拠がある」と言えるわけでもない。

 

とはいえ温暖化は大気という複雑系が絡む問題だから、科学的に絶対的な証拠が得られるまで待っていては遅すぎるのですね。それを待っているあいだに、複雑系特有の破局が生じてもおかしくはない。何が言いたいかというと、気候変動の問題に関しては科学的な判断より政治的な判断を優先させるべきだということ。これは南海トラフ地震などの地震の問題とも似た側面がある。南海トラフ地震がいつ起こるのかを科学的に正確に予測することはできない。でも、もたもたしていればいつかはやって来ると考えられるので、いざ起こったときに備えがなければ被害が恐ろしく拡大してしまう。だから、南海トラフ地震対策においては、科学的な判断よりも政治的な判断を優先しなければならない。なお、気候変動の問題については『神なき時代の「終末論」』を取り上げたときにも論じたのでそちらも参照されたい[ページ内検索キーワード:気候変動]。個人的には、気候変動問題に関しては、『疑似科学入門』(岩波新書)で宇宙物理学者、池内了氏が開陳している次の見解がもっとも妥当であろうと考えている。これまで何回か引用してきたけど、非常に重要なのでもう一度引用しておく。≪地球が複雑系であるために原因や結果が明確に予測できないとき不可知論に持ち込むのではなく、人間や環境にとっていずれの論拠がプラスになるかマイナスになるかを予想し、危険が予想される場合にはそれが顕在化しないよう予防的な手を打つべきなのである。それが複雑系の未来予測不定性に対する新しい原則で、「予防措置原則」と呼んでいる。たとえその予想が間違っていたとしても、人類にとってマイナス効果を及ぼさない≫。個人的には、このような懐疑家批判のほうがはるかに有効で、しかも気候変動論者と懐疑家の対立を煽る度合いが小さいと思う。何せ気候変動論者にも懐疑家にも科学者は多いことだろうし、科学者ともなれば自分の科学的見解にケチをつけられることを潔よしとはしない人が多いだろうからね。だから≪十分な知性をもたない動物同士の争い≫のようになりかねない。

 

まあ、あまりこの件にかかずらっているわけにもいかないので、このあたりで次に参りませふ。次に興味を引いたのは次の指摘。≪人類学者であるグレーバー、生態学者であるゲデス、化学者から異端の経済学者に転じたソディは三人とも、欧米が作り出した近代の外部にある別の何かに依拠して、現在私たちが置かれている社会状況の奇妙さと危険、破壊性を理解しようとした(271〜2頁)。なぜこの箇所に注目したかというと、重田氏がフーコー研究者であることを思い出したから。フーコーに関しては最近『フーコーの言説』を取り上げた。西洋のエピステーメーを解体しようとしたフーコーを研究している重田氏が、≪欧米が作り出した近代の外部にある別の何かに依拠して、現在私たちが置かれている社会状況の奇妙さと危険、破壊性を理解しようとした≫グレーバー(とゲデスとソディ)に注目するのは当然のことと言えるでしょうね。

 

次にグレーバーの持つアナキズム的特徴に関して次のように述べられている。≪私は彼ら[グレーバー、ゲデス、ソディ]の政治的方向性の一致は決して偶然ではないと考えている。現在の世界がどれほど破滅的な状況にあるのか、そして何より破局に向けて猛スピードで突き進んでいるのかを理解すればするほど、それに代わるべき社会像も自ずと定まってくるからだ。¶何につけても速いこと、目まぐるしいこと、最初であることが、グローバル資本主義で天下を取るには必須のようだ。そういう価値観に対抗するには、遅いこと、ゆったりしていること、最初でないこと、地道なこと、巨大化しないこと、天下を取らないこと、身の回りにあることから考え行動しはじめ、決してそこから離れず緩やかに遠くの賛同者とつながることが重要である。¶そしてこれこそ、アナキズム的創造性がいつも備えてきた特徴なのだ(272頁)。何やら全体的に自己啓発本、ビジネス本レベルに思える記述で、それをわざわざ「アナキズム的創造性の特徴」などと呼ぶ必要があるのか疑問に思えてくるけど、≪身の回りにあることから考え行動しはじめ、決してそこから離れず緩やかに遠くの賛同者とつながること≫という、ポランニーの説明箇所で出てきたアソシエーションの説明と同様に、ボトムアップ思考を思わせるくだりには注目したいところ。個人的には、社会は基本的にボトムマップに考えるべきだが、脳がボトムアップとトップダウンの双方向に作用するのと同じように、トップダウンに作用する部分も必要、あるいは社会に関して言えば必要悪であると考えている。なぜそんなことを述べるかというと、グレーバー(と重田氏が)社会のボトムアップ的な構成を最重要視する点には完全に同意するとしても、国家が持つトップダウンの機能を軽視しすぎているような印象を受けたから。それについてはこれから見ていく。

 

まずグレーバーの著書『民主主義の非西洋起源について』から見ていきませふ。次のようにある。≪この論考でグレーバーは、民主主義の理念が「西欧的」であるという根強い見解を修正しようとする。このことを通じて、民主主義のイメージそのものを刷新するという、なかなかに野心的な試みを行っている(281頁)≫。ではグレーバーの民主主義に対する見方はいかなるものか? それについて次のようにある。≪古代のアテネやローマに見られたのは、グレーバーによるなら、根底に暴力を含むような競争的な体制である。二つの古代社会はいずれも、貴族と平民、異なる出自や利害を持つ人々が互いに対立し、競合するような社会であった。そこでは、プラトンやその後のエリートたちが嫌ったように、民主主義とは「デモス」の支配であり、民衆の暴力的エネルギーの表明、しばしば暴動として表れる直接行動を意味していた。¶では、こうしたデモス支配としての民主主義の悪いイメージが変わるのは、いつのことだろう。グレーバーによると、ヨーロッパ世界の一部の人々が「欧米」という自己意識を持ち、自らを「西側」と考えるようになるのは、十九世紀末にすぎない。それ以前、ヨーロッパで「西West」とは南北アメリカを指していた。十九世紀は、労働者への選挙権付与によって、数で優る彼らの意見を政治に反映せざるをえなくなった時代であった。つまり時代の趨勢により、民主主義こそが欧米のよき政治体制とされることになったのだ(287〜8頁)≫。このような民主主義に対してグレーバーの想像する民主主義は次のようなものらしい。≪グレーバーが想像する民主主義は、(…)エリートたちに目の敵にされ、できるかぎりその役割を違法化するよう注意を払われてきた者の側にある。だがそれは、ほんとうは暴力による言論と秩序の無視ではない。秩序と称するものが抑圧と強制の装置として作用することへの反発であり、自己統治の原則に基づくコミュニティの創造なのである。エリートたちが最も恐れるのは、民衆が勝手に何かやりはじめ、自ら決めることだ。そんなことを認めれば、彼らは支配層の言うことを聞かなくなってしまうからだ(290〜1頁)≫。なんか最後のくだりは、現代のどこぞの国の石なんちゃら政権のことを言っているようにも聞こえる。ところで≪秩序と称するものが抑圧と強制の装置として作用することへの反発≫というのは、まさに森本あんり氏の著書『反知性主義』(新潮選書)の主題であるようにも思われる。近いうちにもう一度読んで確認するつもり。なお森本氏自身が動画で述べているように、「反知性主義」とは「反・知性主義」、すなわち「エリート主義的な知性主義に反対する」という意味であって、「反知性・主義」ではない。

 

それから民主主義に関するグレーバーの次の見方にはおおむね同意できるが、ただしなぜアナキズムという言葉にあえてこだわる必要があるのかは相変わらずよくわからない部分がある。≪グレーバーのいう「民主主義的即興の空間」とは、あちこちに現れる自治と自決の瞬間であり、支配と暴力への直接行動によるプロテストなのだ。それは誰かによって、何らかの制度によって「所有」されるようなものではない。むしろ人々の間に、「あいだの空間」に現れるのだ。それはまた「自律的コミュニティの自己組織化を通して民主主義を基礎づけなおそうという提案」でもある。その意味でグレーバーにとって「アナキズムと民主主義はおおむね同じもの」なのだ。本書をここまで読んできた読者は、私がアナキズムとして描いてきた思想や運動もまた、グレーバーがここで描き出した民主主義とほぼ同義であることに気づくだろう。テロリズムや暴力や秘密結社のイメージをまとわされてきたアナキズムを、即興による合意形成と変形可能な組織化としての民主主義に引きつけて理解すること。多数の意見への少数者の従属を制度化する原理となってきた民主主義を、その場その場で人々のあいだに創造される共同性として捉え返すこと。こうして、アナキズムは非言語的暴力のイメージから解放され、民主主義は作られたルールを従順に守ることではなく、ルールそのものを作り出し、作りかえる{所作/しょさ}となる(291〜2頁)≫。「あいだの空間」と言えば、先日取り上げた『日本群島文明史』の主題の一つであったことを思い出す。それによれば「群島文明」としての日本は、この「あいだ」を基盤に成立してきたのですね。同書に次のようにある。≪日本群島には、《文明》もなければ《人間》もいないのである。道徳というものによって全面的に規定され、それによって演繹的に理性や霊性や自由や自律や自覚を内在させられてしまっている《文明的人間》がいないのである。(…)これは日本人が不道徳に生きているという意味ではまったくない。〈自己の倫理を厳しく守る際に、一神教的な神や絶対的な価値や良心という装置を必要としない〉という意味である。ではなにがあるのか。ひととひとの〈あいだ〉、ひととものの〈あいだ〉に立ち現われるかもしれないいのちがあるのだ。それが日本人の倫理を厳しく鍛えているのである(同書253頁)≫。またそこでも取り上げたけど、わが訳書のバチャ・メスキータ著『文化はいかに情動をつくるのか――人と人のあいだの心理学』では、副題にあるように「人と人とのあいだ」、すなわち関係を重視する非欧米文化と、個人の内面を重視する欧米文化の比較が展開されている。なおメスキータ氏は前者をアウトサイド・イン情動に基づくOURS型文化圏と、後者をインサイド・アウト情動に基づくMINE型文化圏と呼んでいる(それらの言葉の意味はそちらを参照されたい)。これらの本を読むと、民主主義社会と呼べるかどうかは別として、非欧米社会ではグレーバーが是としているような社会に近い、「あいだ」を重視し≪その場その場で人々のあいだに創造される共同性≫を中心とする社会が発展することが多かったことがわかる。

 

ここまでの議論は、アナキズムと言う必要があるか否かは別として十分に賛同できる。しかしここから先で展開されている、人類学者ピエール・クラストルを持ち出しての国家批判には、賛同しかねる部分がある。たとえば次のようにある。≪私たちは、未開社会を「遅れた」幼児のような段階にある社会と見なす傾向がある。だがクラストルによるとそれは誤解である。実はこうした社会は、国家のような暴力と権威の独占装置が出てこないように財産と権力を巧妙に分散させ、社会の不平等の是正をつづける創意工夫に富んだ社会なのである。逆に言うなら、近代に現れるような中央集権国家は人類社会の進化の{賜物/たまもの}ではなく、不平等の固定化から人々を逃れられなくすることで形成された、いわば統治と政治の失敗例なのだ(297頁)≫。まず疑問に思えるのは、未開社会にはほんとうに暴力と権威の独占装置が存在しないのかという点。確かに近代的な意味における暴力と権威の独占装置は存在していなかったのだろうが、別の形態の暴力と権威の独占装置が存在していたという可能性はないのだろうか? また≪近代に現れるような中央集権国家は人類社会の進化の賜物では≫なく、また未開社会は人類社会の進化の賜物だなどとどうして言い切れるのだろうか? 個人的には、未開社会も中央集権国家も人類社会の進化の必然的な帰結だと思っている。そもそもダンバー数(確か150人だったはず)のことを考えれば、共同体がある程度の規模になった場合、何らかの抽象的な統治機構が必要になるのは理の当然であり、何らかの統治機構が成立すればそこに暴力や権威が生まれるのは自然だと思う。だから未開社会でもダンバー数を超える人間の集団が形成されれば、人間社会の進化の必然として「暴力と権威の独占装置」が生まれてくるように思われる。もちろん集団の規模に応じて、暴力や権威の程度は変わるかもしれないが、それは質的な問題ではなく量的な問題に属する。

 

要するに、ここで私めが言いたいのは、ある程度の規模に達した人間集団が自己の存在を維持するため、すなわち集団の構成員の生存と生活の安寧を保障するためには、必要悪として「暴力と権威の独占装置」を成立させざるを得ないというのがほんとうのところではないのかということ。人々の生存と生活の安寧が保障される単位を私めは中間粒度と呼んでいる。個人的には、中間粒度は複数の階層からなり、国民国家はその最大の単位だと考えている。端的に言えば、社会にはボトムアップ的な側面と、必要悪としてトップダウン的な側面の両方が必要だということ。前者だけで十分だと考えるのは楽天主義と言われても仕方がないのではないだろうか? いずれにせよクラストルは二〇世紀の人で、文化的進化を含めた現代の進化科学を知っていたわけではないので、クラストルがこの引用にあるようなことを主張するのは理解できないでもない。しかしそれに続く次の指摘には、思わず「重田さん、それってあなたの感想ですよね?」と、ネットスラングを使って言いたくなってもた。≪クラストルの説は近代国家憎しの空想の側面を持つとして批判も受けてきた。彼が未開社会をロマンチックに理想化しすぎたというのだ。だが考えてみてほしい。そもそも平等社会より不平等社会の方がいいという人はどのくらいいるだろう。現状で特権を握る人々、人よりいい暮らしができて優遇されているエリート層、そして富裕層として君臨するクソ金持ちたち。彼らは不平等社会が大好きだ。自分より下の人間がいなくなったら、生きる意味の大半が失われるのだろう。そして彼らは、人が現に持つ財や富はすべて自分の力で得たものだと思い込んでいる。だが、こうした図々しい思い込みを持たない大多数が、平等社会を選択しても何ら不思議ではない。¶国家権力によって職質されたり小突かれたり、マイナンバーカードを持ってないと手続きできませんと言われる社会より、権力が流動的かつ平等主義的で、ある種の無駄と非効率を有効活用して権力の集中が防がれている社会の方がいい。現在の主権国家秩序と国民国家体制が何をしてきたかを振り返るなら、こんな大仰な暴力装置より、もっと身軽な別の社会を選ぶ方がよほど賢いと言われると納得する(298頁)≫。

 

実のところ他の本を取り上げたときにもさんざん述べてきたことだけど、私めは反グローバリズムを支持し、グローバリゼーションによる格差の増大を非常に大きな問題と考えている。その点では重田氏と何ら変わらない。しかし現在のグローバリゼーションは、まさに国民国家の枠組みをなし崩しにすることで成り立っている。だからこそ「グローバリゼーション」と呼ばれているわけだよね。つまり、二〇世紀以前は置いたとしても、少なくとも現在の悲惨な状態をもたらしているのは国民国家ではない。他の本を取り上げた時にも述べたように、世界革命を目指していたコミンテルンの系譜を引く左派と、アメリカの第二の顔を構成している(ビジネス)右派がグローバリゼーションを推進しているのですね(前者は政治的グローバリゼーションを、後者は経済的グローバリゼーションを推進していると言えるかもしれない)。はっきり言っておじぇじぇを取っている本(税込み¥2420で、訳書がで〜んでん売れない私めにはけっこうキツイ値段)で、「クソ金持ち」とか「図々しい思い込み」とか「マイナンバーカード」とか、ツイレベルでしかない雑言によって国民国家をディスるのは、学者先生さまがやることではないように思える。さすがに重田氏もかなり古いクラストルだけでは心もとないと思ったのか、次に『ゾミア』と『反穀物の人類史』(後者は原書で読んだことがある)のジェームズ・C・スコットによるゾミア地域の山岳民の例を取り上げている。でもその特殊な事例をもって国民国家をディスるなら、それは冒頭で取り上げたアナキスト擁護者と大差ないと言わざるを得ない。

 

次はグレーバーの著作『価値論』と『負債論』が取り上げられている。でも、著者自身≪両著とも読みにくい。もちろん他の著作と比べたときの主題の抽象度の高さが、読みにくさの理由の一つである。だが根本的には、グレーバー自身の思考のあり方とその提示の仕方にも原因があるのではないかと思う(314頁)≫とあり、またすでにWord文書でのページ数が20ページを超え、またまた長くなってきたのでそれらについては基本的にカットする。なお『負債論』の「借りたもの(金)は返さなくてはいけないの?」という問いは、そう言えばかつての日本には徳政令などというものがあったことを思い出した。徳政令は基本的に当時の日本国政府と言える幕府が出していたんだよね? 徳政令に関しては、『徳政令』(講談社現代新書)という本を読んだことがある。細部は忘れたもののなかなかおもろかったように覚えている。本の山のなかから見つけ出すことができたら、もう一度読んでみようかなと思っている。やはり「群島文明」の日本には、「大陸文明」の欧米とは違う文化、国家、政府があったということなのかな? 徳政令と似た制度が西洋にもあったのかどうかはよう知らんけど、西洋では教会が贖宥状を発行しておじぇじぇ儲けをしていたくらいだからね。

 

ということでお待ちかね、『ブルシット・ジョブ』に参りませふ。グレーバー本人によるブルシット・ジョブの定義は次のようなものらしい。≪「ブルシット・ジョブ」とわたしの呼んでいるものは、その仕事にあたる本人が、無意味であり、不必要であり、有害でもあると考える業務から、主要ないし完全に構成された仕事である。それらが消え去ったとしてもなんの影響もないような仕事であり、なにより、その仕事に就業している本人が[、]存在しないほうがましだと感じている仕事なのだ。¶現代の資本主義はこうした仕事であふれているようにみえる(370頁)≫。それからグレーバーが挙げている読者からの?証言を一つだけ取り上げておきましょう。次のようにある。≪わたしの仕事の大半は――とくに、{顧客/カスタマー}とじかに顔を合わせる前線から異動させられてからというもの――{書類を埋めたり/テイッキング・ボックス}、シニア・マネジャー……に対して万事うまく運んでいるふりをすること、あるいは概して「血税の無駄遣い(feeding the beast)」にかかわるもので、それには管理の幻想を抱かせる無意味な数字がついてまわります。自治体の市民の援助になるような仕事は、これっぽっちもありません。〔イギリスの地方自治体のシニア・クオリティ・アンド・パフォーマンス・オフィサー〕(370〜1頁)≫。「テイッキング・ボックス」とはいったい何のことか私めにはわかりましぇん。「feed the beast」に「血税の無駄遣い」という意味があるとはまったく知らなかったけど、おそらく(重田氏ではなく)訳者が文脈を考えて意訳したのでしょう。ただ「血税の無駄遣い」は、資本主義とはあまり関係なさそうにも思えるけどね。むしろかつてのソ連のような社会主義国のほうがひどかったとも言える。≪自治体の市民の援助になるような仕事は、これっぽっちもありません≫というくだりは、「自治体の市民」を「国民」に変えれば、今どきの日本の行政にもみごとに当てはまりそうだよね。いずれにしても「血税の無駄遣い」とは、昨今のネットスラングで言えば「公金チューチュー」であり、日本にもこのタイプのブルシット・ジョブは無限にありそう。ちなみに「公金チューチュー」のようなネットスラングを嫌う人もいるようだが、ネットスラングは、一部の自称エリートだけに受ける言葉とは違って、ネット上の大勢かつ多様な人々の直観に訴えなければならないから、核心をついていることが多い。この「公金チューチュー」もそうだし、「マスゴミ」もそうだと言える。「マスゴミ」と言うと確実にネトウヨ認定されるが、あえて言わせてもらえれば、現在のマスメディアの体たらくを見ればそう言われても仕方がない。個人的には「公金チューチュー」は好んで使っても「マスゴミ」は使わんとしても、核心をついた巧妙な言葉だとは思っている。言われたくなければ、まずマスメディアのほうが態度を改めるべきだね。

 

またもや脱線したのでグレーバーの話に戻ると、次にブリシット・ジョブをはびこらせている現代の官僚制や規制緩和に対する批判が続く。そして次のようなグローバリゼーション批判が展開される。≪そしてグレーバーによると、グローバル化自体が「地球規模の行政官僚システムの世界初の実質的な完成」にほかならない。これを推し進めたのは、NAFTA、EU、IMF、世界銀行、WTO、G8などであり、これらの機関はすべて巨大な官僚組織を備えている。その下に、ゴールドマン・サックス、リーマンブラザーズ、AIGのようなグローバル金融会社、S&Pのような格付会社がある。さらにその下に、いわゆる多国籍企業、つまりシェル(石油)やファイザー(製薬)などの古典的業態だけでなく、マイクロソフトやアマゾンといった巨大IT企業が連なる。それとは別に、国連のような国際組織の実質的な業務の多くを請け負う国際NGOがあり、さらにそこにそれぞれの国や地域の現地NGOがぶら下がっている。これらすべての場所で、官僚制的に編成された組織や下部組織がこぞって、莫大なブルシット事務仕事を生み出しつづけているというわけだ(386頁)≫。私めなら、そこに巧妙に隠蔽された公金チューチュースキーマが生まれるとつけ加えたいところ。トランプ政権がUSAIDを解体した理由もそこにある。ということで、この見立てには諸手を挙げて賛同する。

 

でも、このようなグローバリゼーション批判を見ると、余計にグレーバーと重田氏の国民国家批判が解せなくなる。すでに述べたように、そもそもグローバリゼーションは国民国家の枠組みをなし崩しにすることで遂行されている。グローバリゼーションが始まったのは、一九八〇年代頃だと思うが、国民国家はそれよりはるかに昔から存在している。一般には一六四八年にウェストファリア条約が締結されてから、しばらく経過してから成立したと見なされていると思う。ということは、国民国家批判はかえって一九八〇年代以後に生じたグローバル化の批判を骨抜きにする可能性があるのではないかと思えてしまうのですね。端的に言えば、国民国家が問題なのではなく、グローバル金融資本や多国籍企業が問題なのであって、後者が前者を破壊しようとしていることが現代のあらゆる問題の根源にあると個人的には思っている。

 

ここまでは単に、グローバリゼーション批判をするにあたり国民国家批判は戦略的なバッドムーブではないかという指摘にすぎないが、それよりもっと根本的な問題があるように思われる。その問題とは次のようなもの。一回しか読んでいないので誤解している部分があるのかもだけど、グレーバーや重田氏の議論を読んでいるとあたかも縦糸なしに横糸だけで社会という織物を紡ぐことができると考えているのではないかという、あるいは権力批判にあまりにも執着しすぎて現実を軽視し過ぎているのではないかという印象を受けざるを得ない。社会を織り上げるには横糸も必要なら、たとえ必要悪であったにせよ縦糸も必要なのですね。さもなければあっという間に横糸がバラけてしまう。というか、最初から織物が成立しない。ここで言う縦糸とは、もちろん部族社会から始まって地方自治体や国家に至る、階層的に作用する垂直的な制度を意味する。横糸としては、ここまでに出てきた用語ではアソシエーションがあげられるが、もっとも大きな単位では、国連などの、国家間を連携する水平的な国際的組織があげられる。ここで、「国際(インターナショナル)」と「グローバル」の区別に留意する必要がある。「国際(inter+national)」とは国家間の連携を意味し、したがって国民国家の存在を前提として、各国が持つ独自性、多様性を担保しようとする。それに対して「グローバル」は、国家間の敷居を破壊して国境のない世界を作り、地球大に広がる均質的なただ一つの空間を作り出そうとする。だからグローバリゼーションに反対する私めでも、国連などの水平的な国際組織が不要だとは思っていない。ただ現在の国連やIMFなどの国際組織は、国際関係の円滑化を企図しているというより、まさに世界政府の一部門ででもあるかのように振る舞いながらグローバリゼーションに加担して、本来の目的を達成していない点に大きな問題があるように思える。しかも「グローバリゼーション」は、前述したように左派による「政治的グローバリズム」と、右派による「経済的グローバリズム」が合わさって加速度的に進行している。この事態を逆転させなければならないと考えている点では、グレーバーも重田氏も私めも同じなのだろうと思う。ただグレーバーや重田氏のアナキズム的視点とは大きく異なり、私めの視点では、逆転させるためには国民国家、ならびにもろもろの国民国家を水平的に連携させる国際(inter+national)法、国際社会、国際関係の力をもう一度回復させる必要があると考えている。

 

それに関連して、本書には関係のないことをもう一点指摘しておくと、そのような見方に立てば自国第一主義はごく当たり前のことを言っているにすぎないことがわかる。国民国家をベースとして世界が構成されているのであれば、各国が自国を最優先するのは当たり前田のクラッカーなのですね。とはいえ、国家間の水平的連携という国際関係も無視あるいは軽視できないので、その範囲内で各国にできることはしなければならない。だからほんとうの難民を救わねばならないのは確か。他の本を取り上げたときに何度も述べているように、トランプのまずさは左派メディアが吹聴しているように自国第一主義を掲げている点にあるのではなく、国家間の水平的連携を、まったく無視とまでは言わないとしてもひどく軽視している点にある。ところで日本には、実質的な外国人ファーストを唱えるまことに奇妙な連中がいるが、彼らは明らかに世界を均質化しようとするグローバリスト的なアジェンダに従っているとしか考えられない。そういう連中が、自分に都合のいいときだけ「多様性」や「共生」を声高に叫ぶのはまったく矛盾している。その手の連中は、自国第一主義に差別主義というレッテルを貼り、外国人問題について発信している人々を差別主義者と呼んでいるようだが、日本の一般ピープルが主張している「外国人問題」とは、「日本人と共生する意思のない外国人をどうすればよいのか」というまさに「共生」の問題だと見なせる。どういうわけか日本人の共生意識だけを問題にしている一部の左派がわかっていないのはその点なのですね。この前、「自分たちと一緒に働いている外国人の顔を思い出してみなよ。なんでそういう人たちを排除しようとしているの?」とかいった主旨のツイを見かけた。この投稿者は一般ピープルが何を問題にしているのかがまったくわかっていないか、完全な論点ずらしをたくらんでいるかのいずれかにしか思えない。一般ピープルは、日本人と共生しようとしている至って善良な外国人ではなく、日本人と共生する意思がまったくない外国人を問題にしているのであり、まさしく「共生」を問題にしているのだからね。日本人の共生意識だけを問題にして、外国人の共生意識はまったく問わないその手の一部の左派は、頭が悪いか、狂っているか、あるいは一般ピープルにマウントを取ることで、概して無能なのにエリート意識だけはやたらに強い自分の自我同一性をどうにかして確保しようとしているかのいずれかだとしか言いようがない。

 

それから民主主義をめぐるグレーバーの議論が再び詳しく論じられているけど、それはスキップする。またシメの終章で映画『マッドマックス 怒りのデス・ロード』が取り上げられている。そう言えば、このあいだ天ぷらでなんとなくこの映画を観たことを思い出した。でも重田さん、すんましぇん。会話や役者のスピーチパターンを重視する聴覚派の私めは、「なんやね、この映画は!」と思ってしまった(でも最後まで観た)。しかもばかばかしさでは、最初のほうであげたイーリング・スタジオの『聖トリニアンズ女学院』のほうがおもろかった。ということで、グローバリズム批判には大いに賛成できるところだが、国民国家批判やその他些細な点で疑問に思う部分は多かった。でも、買って損はないと思う。

 

 

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※2025年8月7日