◎友松夕香著『グローバル格差を生きる人びと』(岩波新書)
実のところこのようなタイトルの岩波の本だから、左派イデオロギー全開の本なのではないかと心配しながら買ったんだけど、そういうことはなかった。なぜそんな心配をしながらも買ったかというと、副題に「「国際協力」のディストピア」と、またオビに「なぜ、西アフリカ諸国は、中国とロシアに信頼を寄せ始めたのか。欧米利益優先の国際協力に失望する人びとの声を聞き歩き、その偽善を暴いた人類学者が探る、地球社会再構築への道」とあり、その謳い文句が正しければ、左派イデオロギーの開帳ではなく、国際援助の実態を暴くことが目的なのだろうと期待したからなのですね。実際最後まで読んでその期待が裏切られることはなかった(てか、裏切られていたら「ヘタレ翻訳者の読書記録」に取り上げたりはしていない)。
国際援助と言えば、今年に入ってから話題になったのがトランプ政権によるUSAIDの解体だよね。日本ではとにかくトランプをぶっ叩きたい左派オールドメディアがやたらにトランプとイーロン・マスクを批判していたように覚えているが、USAIDの解体にはそれなりの理由があった。日本の左派メディアはまったく触れていなかったのかもしれないが、ネットを探せばトランプ政権の弁の立つカワイコぴゃん報道官が、USAIDの支援金が何に使われていたのかを各国ごとに一覧して発表している様子が映し出された動画がたくさん見つかった(今でも見つかるかはようわからん)。それらの動画によってわかるのは、LGBTを典型とする左派イデオロギーを開発途上国に広めるためにたくさんの資金が使われていたということ。要するに現地での生存や生活に不可欠の必需品よりも、左派イデオロギーを輸出するためにUSAIDの資金が使われていたことになる。もちろん生活必需品も援助していたのは確かとしても、それすら一種の隠れ蓑としても機能していたという話もある。いずれにせよ生活必需品などのほんとうに必要な支援を司る部署については、トランプ政権は国務省内に残したはず。ところで左派イデオロギーの浸透が目的になれば、左派の活動家グループに資金が回る。たとえばLGBTを広めるために開発途上国に資金を流せば、現地に赴いてLGBT教育を行なう人材が必要になるが、そのような人材はまず間違いなく左派イデオロギーに染まった人でなければならない。つまり国際支援という名目でUSAIDの事業が利権化し、一種の公金チューチュースキーマと化していたのですね。これでは現地民が、「欧米利益優先の国際協力に失望する」のも無理はない。本書にも「USAID」という用語は二度出て来るけど、トランプ政権によるその解体についてはまったく触れられていなかった。岩波さんの本だからさすがに実態を書けなかったのか、USAIDはアメリカの機関だから著者は実態をよく知らないからなのか、単に新書本の刊行に間に合わなかっただけなのかはよくわからない(6月刊行の本であり、またUSAIDの解体は2月に始まっているので、書こうと思えば、少なくとも「あとがき」に追加できたと思うが)。というより、私めがこの岩波新書を取り上げてこんなことを書いていることを岩波さんが知ったらひっくり返るのかもしらんね(著者がどうかはよくわからん)。いずれにしても、この本の主題に大いに関係しそうにもかかわらず、USAIDの解体について言及がほとんどないことに関しては、最後にもう一度取り上げる。
ところで、トランプ政権がUSAIDを解体したときに、「そんなことをすればロシアや中国が得をするだけだ」という批判が浴びせられていたように覚えている。しかし、オビにあるように「なぜ、西アフリカ諸国は、中国とロシアに信頼を寄せ始めたのか」という問題のほうが先にあることを忘れてはならない。それについてこれから細かく見ていくわけだが、簡単に言えば、不信を招くようなやり方で欧米諸国の援助がこれまで行なわれてきたからなのですね。本書では扱われていないが、USAIDによる左派イデオロギーの輸出はその一例に当たる。だからトランプ政権は、開発途上国のためを考えてUSAIDを解体したのではないとしても(彼の目的はアメリカの省庁の無駄を省くことにある)、結果的に現地の人々の不信を招くようなスキーマを破壊したと見なすことができる。それから新書本に入る前にもう一点指摘しておきたいのは、このような欧米、とりわけアメリカのやり方は、『アメリカ 異形の制度空間』(講談社選書メチエ)で取り上げたアメリカの第二の顔と、『コミンテルン』で取り上げた世界革命を目指すコミンテルンの左派思想の二つのルーツに淵源があると言い切っていいと思う。今やそれがグローバリズムという形態で世界全体を覆っていて、それが国際支援にも大きな問題を引き起こしていると見ることができる。
しかも同じことは生活必需品の支援だけではなく、民主主義などの政治制度の導入においても起こっているのですね。欧米は日本を近代化のモデルとして開発途上国に欧米の政治制度を導入して結局失敗していると、よく言われる。たまたまたった今読んでいる進化生物学者の長谷川眞理子氏の新書本『美しく残酷なヒトの本性』(PHP新書)に次のようにあった。≪文明開化が起これば、どんな社会もやがて、西欧白人社会のようになる、という考えを支持する証拠の1つが、じつは日本であったようだ。明治時代、文明開化によって、日本は西欧社会のようになろうとした。次に、太平洋戦争に敗北して、アメリカの占領下に入ったあと、占領軍は日本をアメリカのような民主主義の国にしようとし、戦後日本もそれに{倣/なら}おうとしてきた。¶ところが、それと同じようになるかとアメリカが思ったが、ならなかったのが、イラクではないか? サダム・フセインを倒し、独裁をやめさせれば、かつての日本のようにイラクは民主国家になるだろうと思っていたところ、そうはならなかった。¶その後、BRICSという国々が強力になり、グローバル・サウスという言い方も出現した。いまや、第二次世界大戦後に築かれてきた秩序も崩壊するかという事態に直面し、もはや、単純な進歩思想をもち続けられる人は少ないのではないだろうか?(同書116〜7頁)≫。長谷川氏は進化生物学者だからか、政治に関連する発言をしている箇所には個人的には疑問に思えるものもいくつかあったとはいえ(このレビューの最後の部分で、そのうちの一つトランプに関するおかしな言明を取り上げる)、少なくともこの見立ては正しいと思う。そもそも他の著者もよく言っていることだしね。日本はかなり特殊なケースだと見たほうがよい。前々回取り上げた『日本群島文明史』(ちくま新書)で論じられていたように、日本は「群島文明」という独自の文明を発展させながら、同時に「大陸文明」も柔軟に取り込む姿勢を古代からずっと持ち続けてきた国家なのですね。だから民主主義も比較的楽に受け入れることができた。でも、他の国、たとえばイスラム圏の国々(イラクもその範疇に入る)は、そのような二本立ての文明、文化を発展させてきたわけではない。だから日本に楽に導入できたからといって、イラクにも楽に導入できると考えるのは、大きな間違いだし、そもそも傲慢だとさえ言える。前回『フーコーの言説』を取り上げたときに述べたように、近代西洋のエピステーメーはあくまでも近代西洋に特化した知の体系なのであって、日本のようにそれを受け入れる余地があれば別としても(それどころか日本は欧米社会の手先と化してさえいる)、第三世界の国々の多くは、それにまったく馴染まない。アメリカを筆頭とする欧米諸国は、その点をまるで理解していないとしか思えない。そんな状態で民主主義をゴリ押しすれば失敗しないほうがむしろ不思議だとさえ言えるかもしれない。ということで私めの見立ての開帳は、これにて終わり。
さて、ここからは新書本の内容に参りましょう。まず前置きとして、「はじめに」に次のようにある。≪「豊かな国」の人びとは、「貧しい国」の人びとを助けなければならない――。このように、高所得国が主語になり、低所得国を客体化する「善意の国際協力」で世界の共存を語ることができる時代は、すでに終わりを迎えている。アフリカ大陸の人びとは、富裕国による開発援助や軍事支援に対して、単純に感謝しているわけではない。資金や物資、技術的な支援を受けながらも、その「国際協力」に欺瞞を感じてきた。そしてこんにち、現行の世界秩序に対し、より多くの人びとが疑問を投げかけ、水面下で抵抗している。¶ところが日本では、国際協力に対する現地の不信はほとんど知られていない。いまなお、自国を「先進国」として主語に置き、現地を「途上国」として客体化し、日本の援助が現地の暮らしを向上させ、人びとに喜ばれてきた、と考えられているのではないだろうか。たとえば日本では、国際協力と開発援助が同義語のように認識されているが、「開発援助」という言葉は対等な「パートナーシップ」というより、上下関係のニュアンスをもつ。これは、政府やマスメディアが他国との国際協力を語る際、日本を「先進国」、相手国を「途上国」として位置づけ、日本の優越的な立場や援助額の大きさを強調してきたからである(B頁)≫。ここで、国際援助で生じている他のすべての現実的な問題を棚上げしたとしても、≪高所得国が主語になり、低所得国を客体化する「善意の国際協力」≫や、≪自国を「先進国」として主語に置き、現地を「途上国」として客体化し、日本の援助が現地の暮らしを向上させ、人びとに喜ばれてきた、と考えられている≫といった態度は、率直に言えば一種のパターナリズムだとも見なせる。現地民は、そんなパターナリズムを心底から認める、ましてや喜ぶはずはないのですね。だから結局、≪現実には、国際協力の主体間の関係は対等ではありえないことが暗黙の了解になっている。グローバル格差は国際協力の権力関係もかたちづくることで、相手国の人びとの不信感を招くことにもなっている(C頁)≫という事態に陥っているというわけ。この「はじめに」の記述を読んだだけでも、おかしな左派イデオロギーの宣伝とは無縁な、著者が現地で得た事実をベースにして書かれた本であるらしいことが伝わってくる。何しろ新書本とはいえ税込みで¥1000超えるし(てか最近では、新書本でもそれが普通)、そんな宣伝をされたらたまったものではないしね。
「序章 グローバル格差の感情」では、さらにチビシイ次のような指摘が続く。≪現在の国際協力では、資金の流れが権力の不均衡を生み出している。たとえば国連などの国際機関では、より多くの資金を拠出した国が力を持つ。二国間の枠組みでは、資金を供与する側が供与される側に対し主導権を握ることは自明視されている。形式上では対等な「パートナーシップ」が掲げられても、非対称的な力関係による矛盾が継続しているのである。¶グローバル格差の増大は、新たな権力のダイナミクスを形成している。「慈善行為」としての「フィランソロピー」は、グローバル化した時代、国際協力の政策に直接影響を与えるようになってすでに久しい。ジョン・ロックフェラーやビル・ゲイツなど、国家予算規模の資産をもつ資本家が創設した巨大な財団が、関係企業とともに国々の政策に介入している。¶同様の構造は、企業による国際協力でもみられる。たとえば日本では、国連のSDGs(持続可能な開発目標)が二〇二一年の新語・流行語大賞にノミネートされるなど、ポジティブなイメージで社会に浸透した。これによって企業は、ちょっとした環境保全や貧困削減の取り組みをSDGsと題して海外で実施するだけで、トレンド感を演出することが可能になり、ブランドイメージを向上させた。こうして、企業から支援を受ける海外の人びとは、企業をキラキラさせるレトリックの素材と化したのだ(14〜5頁)≫。≪企業から支援を受ける海外の人びとは、企業をキラキラさせるレトリックの素材と化した≫というくだりはまさに、イメージ戦略という形態で、ネットスラングで言うところの「被害者ビジネス」を企業がやっていることを意味する。これでは近代西洋のエピステーメーに基づく特異なイデオロギーの伝播か、企業のイメージ戦略(ロックフェラーやゲイツなどの大金持ちはその口でしょうね)のダシに現地民が使われているのとほとんど変わらない。その近代西洋のエピステーメーに関しては次のようにある。≪グローバル格差が生み出す世界では、経済的な豊かさにもとづく権力だけが人類の繁栄と平和を実現する基準になっているわけではない。富裕国、ないしは「西洋」の価値観や認識が基準となって、世界の人びとに優劣がつけられてきた。これは、富裕国や国際機関が、低所得国で生じている問題を、グローバリゼーションの結果ではなく、その国・地域の「後進性」に起因するものとして理解してきたことからも明白である。これにより、たとえば貧困や紛争をはじめとした問題は、途上国が克服すべき後進性の課題として語られてきた。その象徴が「アフリカ」であり、「アフリカ」という言葉を聞くと、貧困や紛争のイメージが即座に想起されるメカニズムが、すっかりできあがっている。¶このような国際協力の枠組みや基準では、グローバル格差が生み出す負の感情、そしてそれにともなう軋轢や暴力、特定の人びとの困難を解決できない(15頁)≫。
ということで、本論に入るわけだけど、この本に関しては章ごとに説明していくやり方はとらず、注意を引いた文章を順次取り上げていくことにする。最初に興味を引いたのは、「国際協力」とはほとんど何の関係もなさそうに思えるけど、国際ロマンス詐欺に関する記述。「国際ロマンス詐欺」というのは、言葉自体は聞いたことはあっても詳細は知らなかった。しかもアフリカの二〇代のデジタル世代の若者が関与していて、なかには大金持ちになって「ビッグマン」と呼ばれるようになる奴もいるとか。とはいえアフリカの二〇代の若者に日本語ができるとはとても思えないから、少なくともアフリカの若者に日本人が騙されることは、英語でやり取りしない限りほとんどないんだろうね。ちなみにウィキの「ロマンス詐欺」の頁には次のようにある。≪ロマンス詐欺は、主にインターネット上の交流サイトなどで知り合った相手を言葉巧みに騙して、恋人や結婚相手になったかのように振る舞い、金銭を送金させる特殊詐欺の一種。¶国際ロマンス詐欺、国際恋愛詐欺などとも呼ばれる≫。また、≪犯人はナイジェリアなどのアフリカ人、マレーシア人、カナダ人が多く、アメリカ人になりすまし、金銭を送金させる≫とあるから、やっぱり下手人はアフリカ人が多いらしい。国際ロマンス詐欺ではないが、有名な国際詐欺にナイジェリア中央銀行詐欺というのがあった。まだIT業界にいた頃、会社のわがメールアカウントにもこの詐欺メールがときどき舞い込んでいた。同僚のところにも来ていて、その人は英語がまともに読めなかったから、「これ何?」と言いながら期待に顔を輝かせながら私めのところに訊きにきたので、「いや、それは国際的に有名な詐欺メールでっせ!」と言ったらがっかりした顔をしていた。ちなみになぜきょうび小学生でも騙されそうにない文面を送ってくるのかと思うかもだけど、あれはわざとなんだそうな。つまり情報弱者のダマちゃんを一本釣りするためらしい。不特定多数の人間を相手にするのはコストがかかるからね。
国際ロマンス詐欺に戻ると、新書本に次のようにある。≪いまや国際ロマンス詐欺は、学校に通う若者たちの「通過儀礼」だ。よくないことではあるが、興味もあり、ゲーム感覚で試してみる。(…)そして、当初は遊びであっても、お金を得ることに成功したり、高校や大学を卒業しても仕事が見つからないとき、国際ロマンス詐欺は若者たちの主な生計手段になっていく(49頁)≫。また国際ロマンス詐欺に熱中する高校生の欠席が問題になっているとか。てか、二〇代どころか高校生までやっているらしい。次のようにある。≪日常的に国際ロマンス詐欺に従事している学生は、授業を欠席がちになる。高校教員の職を得て地元の高校に着任した私の友人によると、二〇二四年時点で約九〇〇名いる三年生のうち、二〇〇名以上がこの状況に当てはまる。頻繁な欠席は、以前であれば親の経済的な問題によるものだった。ところが、いまの高校生の主な欠席理由は国際ロマンス詐欺だ。友人が面談をした教え子の女子高校生は、別の男子学生と一緒にチームを組み、アメリカ在住の男性を標的にしている。その標的の相手が暮らすアメリカの夕方以降の時間帯は、ガーナの真夜中になるため、アメリカの相手が就寝するガーナの明け方までチャットを続け、そのあとに寝る。「だから朝起きれない」と、悪びれもなく話したという(63〜4頁)≫。高校三年生の五分の一強が国際ロマンス詐欺に励んでいるとはすごいね。ていうか、そもそも釣れるかどうかすらまったくわからない相手と朝までチャットするなどという芸当は高校生にしかできないのかもしれない。むしろプロ?の詐欺師は、ナイジェリア中央銀行詐欺のように不特定多数の人々に、まともな人間ならとても信じないような文面を送り付け、私めのような銀河系一の超ダマちゃんを特定してから一本釣りモードに入る。そう考えると、詐欺としてはナイジェリア中央銀行詐欺のようなやり方のほうがはるかに合理的であることがよくわかる。
次はアフリカでロシアが人気になっている点に関して。まあロシアや中国がアフリカの国を取り込んで、一国一票の国連で優位な立場に立とうとしていることは周知のことではあるけどね。次のようにある。≪二〇一九年には、プーチン大統領は初の「ロシア・アフリカ首脳会議」も開催し、軍事のみならず、資金や物資面でのアフリカ諸国への援助を進めてきた。¶とくに二〇二三年開催の第二回目の会議は、アフリカ諸国の親ロシア化をいっそう強化した。(…)ロシアによるアフリカ諸国への呼びかけでは、西側諸国が明確な対立軸に置かれてきた。プーチン大統領は、第二回ロシア・アフリカ首脳会議の演説でアフリカ諸国のインフレーションに言及し、その原因は原油や食料価格の高騰と同様に、多額の貨幣を発行して市場の通貨供給量を増加させてきた西側諸国にあると主張した。プーチン政権は、このロシア・アフリカ首脳会議のみならず、アフリカ諸国の政府との個別会談で「帝国主義」、「植民地主義」、「人種主義」、「内政干渉」という言葉を、西側諸国を批判する文脈で多用することで知られている。ロシアは常に西側諸国による支配に抵抗し、アフリカ諸国に寄り添って西側諸国からの解放に尽力してきた、という内容を繰り返してきたのである(91〜3頁)≫。「「帝国主義」、「植民地主義」、「人種主義」、「内政干渉」とか、プーよ、お前が言うな!」と、いわゆるおまいうを指摘したくなるとしても、言っていることそれ自体は必ずしも間違いではない。もちろん21世紀にもなって、あからさまな帝国主義や植民地主義を実践しているわけではないとしても、欧米諸国は、要するにおじぇじぇとイデオロギーによるアフリカ支配を意図していると見ることができる。冒頭で述べたようにUSAIDなどにはモロにそのような性格があったと見なせる。ロシアがアフリカで人気になっているのは、逆に欧米諸国に対するアフリカ諸国の不満が高まっているということでもある。
前述したようにこの新書本では、USAIDには名前が言及されているだけで詳しい記述があるわけではないが、別の観点から欧米諸国に対する不満が取り上げられている。まず著者は、欧米のメディアの問題を取り上げ、次のように述べている。≪旧宗主国のイギリスやフランスをはじめとする欧米のメディアは、衛星放送などをとおしてアフリカ諸国の視聴者にニュースを提供してきた。しかし、人びとは、その欧米の視点での「アフリカ」の描かれ方に強い不信感を抱いてきた(96頁)≫。では、その描かれ方とは具体的にどのようなものなのか? それについて次のようにある。≪ある日、県局長が海外のメディアや国際協力でのアフリカの描かれ方について私[著者]に話をした。それは、これらメディアやNGOが過去にどこかで起きた飢饉の写真を使い回したり、貧困や紛争などアフリカに関する悪い情報ばかりを流している、という内容だ。(…)実際、貧困は現地の一側面でしかないし、紛争は広いアフリカ大陸の一部の国の一部の地域でしか起きていない。飢饉は、紛争や干ばつが一年を越えて続くと発生したりするが、まれである。欧米によるアフリカに対する眼差しと現地のメディアとのあいだの資金力による報道格差が、「アフリカ」にネガティブなイメージを植え付けてきたのであり、この問題は日本にも当てはまる。¶「アフリカ」に関する偏向報道は、欧米をはじめとする富裕国側による国際協力の広報でもみられる。国際協力の活動には資金が必要だ。困難に直面している人びとや支援を求めている人びとの存在を広く世の中に伝え、募金や寄付金を集めて活動資金を調達する必要があるのだ。こうして「途上国」や「アフリカ」という枠組みで、やせ細った子ども、泣いていたり無表情の不幸せそうな子ども、無力そうに見える女性の写真を選んで使い、富裕国の人びとの感情に訴えてきた。また、嬉しそうな笑みを浮かべた子どもや女性の写真においては、資金・技術支援を受けたあとの状況を想起させる構図に使用してきたのである。国際協力の資金を多く集めるためであっても、この広報戦略は現地の人びとの尊厳をひどく傷つけてきたのだ(97〜8頁)≫。
それから話が少し逸れるけど、ソーシャルメディアに関して次のような興味深い指摘があった。≪たとえソーシャルメディアであっても、現地に居住しながら自国の政権を批判することは危険だ。権威主義的な体制では、捕まったり、殺されたりする恐れもある。こうした歴史と現状において、欧米の対アフリカ政策やアフリカ諸国の親欧米政権を率直に批判する内容を積極的に発信してきたのが、アフリカ大陸の外で暮らすディアスポラの活動家たちなのである(108頁)≫。歴史的な典型例はナチス支配下のドイツになろうが、専制的、権威主義的な体制下においては、政権批判はレジスタンス活動のように地下にもぐってやるか、海外からやる以外にないのですね。さもなければ自分や家族や仲間の命が危険にさらされる。これまでも何度も指摘してきたことだが、東京オリンピック時に「政府は私たちを殺しにきている!」だとか、安倍政権時に「安倍はヒトラーだ!」だとかツイしていた人は、まるでこのことがわかっていない。直観的に「政府は私たちを殺しにきている!」、あるいは「安倍はヒトラーだ!」などとほんとうに信じているのなら、身元がバレるツイのようなSNSでそんなツイをしたりするわけはない。つまり彼らは直観的に自分が信じていることと行動がまったく一致していないのですね。逆に言えば、直観的には「政府は私たちを殺しにきてなどいない」、あるいは「安倍はヒトラーではない」と心底信じているからこそ、そんなツイができるというわけ。そのことは、ナチスが支配していた頃のドイツにツイがあったら、ドイツ国内で地下に潜ってレジスタンス活動をしていた人々が、その手のツイをしたかどうかを考えてみればよい。答えは明らかだよね。今の自称リベラルがいかにイデオロギーに絡み取られて愚かになっているかが、この一件を取り上げてもよくわかる。
少し脇道に逸れたけど、新書本に戻りましょう。ここまでは、アフリカでロシアの株が上がっていることを見てきたわけだが、その裏には、欧米の支援に対する不満や懐疑が募ってきたという事情が存在する。それに関して次のようにある。≪現地における、日本を含む西側諸国の国際協力に対する批判は、インフラ整備や平和構築にかぎらない。開発援助事業でも聞かれる。独立以降アフリカ諸国では、長年にわたって開発援助として資金協力や技術協力事業がおこなわれ続けてきた。しかし、その効果が不明瞭な一方、現地行政が援助の受け皿になることでさまざまな問題が生じてきた。¶まず、不透明な資金の流れだ。第1節に登場した旧仏領出身のコンサルタントのミシェルは、西側諸国の開発援助事業で働いているにもかかわらず、「国際協力は好きではない」と私に明かした。その理由を尋ねたところ、「国際協力は政治家や役人を肥やすだけで、貧しい人びとのためになっていない」と述べた。これは、政治家や官僚、地元のエリート層、ならびにその親族たちの私邸の豪華さ、そして彼らによるビジネス事業の展開によって、現地の大衆の目に明らかになり、海外のジャーナリストや研究者たちも長年批判してきたことである。(…)また、いまでも続く行政の肥大化と非効率性である。現地の政治家や官僚にとって、開発援助事業を呼び込むことは、省庁や地方自治体での新規雇用、ならびに政治家や官僚をはじめとする役人への追加的報酬を生み出すことになる。そこから、事業を下請けする、多くの場合政権とかかわりがある民間企業へもお金が流れる。これは、現地行政に対する直接的な予算支援ではなく、特定の事業への支援においても当てはまる。したがって、国々の政府は有能な開発コンサルタントの手を借りて、国際機関や各国の援助機関が好む国家開発計画を策定するようになる。こうして、実施している援助事業の効果を充実させる取り組みより、世界銀行や国連、ならびに各省庁が関係する国際機関が打ち出す開発概念やフレームワーク、レトリックを駆使して次の援助を得るための書類作成に勤しむことになる。開発援助では、現地行政は事業の意義を高める努力より、援助資金の確保や管理に集中しがちになるのだ(119〜20頁)≫。一見すると地元の政治家や官僚が第一の問題なのであって、欧米諸国側の問題はおじぇじぇを投下する場所を間違えているだけのように響くかもしれない。でも実際にはそれ以上の問題があるのでしょうね。引用文中に≪国々の政府は有能な開発コンサルタントの手を借りて、国際機関や各国の援助機関が好む国家開発計画を策定するようになる。こうして、実施している援助事業の効果を充実させる取り組みより、世界銀行や国連、ならびに各省庁が関係する国際機関が打ち出す開発概念やフレームワーク、レトリックを駆使して次の援助を得るための書類作成に勤しむことになる≫とあるが、ならばその過程において、援助側が被援助側と何らかの取引をしていることは十分に考えられる。本書で言及されているわけではないが、それには、たとえば極端な例では被援助側から援助側へのキックバックであろうし、あるいはUSAIDの例に見たように一種の利権化が含まれる可能性はきわめて大きい。地元の政治家や官僚が主たる問題であるのなら、強権的なロシアの株がそこまで上がるとは思えないしね。やはり欧米の援助の仕方それ自体にも大きな問題があると見たほうがいいように思える。その一端を明らかにしたことに関して、USAIDの査察は、大きな意義があったと思う。
もちろん欧米の援助がバックファイアーした例は、二〇世紀の後半から存在していた。もっとも顕著な例として「緑の革命」があげられている。緑の革命を扱った「第6章 自分たちの農法を忘れた人びと」は次のような記述で始まる。≪アフリカの人びとは、作物の正しい植え方も知らず、{畝/うね}や{畔/あぜ}もつくらない。人びとの栄養状態の改善や食料の安全保障のためには、技術支援によって生産性を高めることが重要である――。¶「アフリカの農業」は、一般的にこのような決まり文句で説明される。私も現地で実際、バラバラに植え付けられたトウモロコシが貧弱に伸びている畑や、育ちが悪い落花生が散在している畑を見てきた。しかし、研究を進めるなかで明らかになったのは、粗放的な畑は、現地で実践されていた緻密で持続可能な農法が、「緑の革命」として知られる「近代農業」で瓦解した姿である、ということだ(147頁)≫。では「緑の革命」以前の現地の農法とはいかなるものであったのか? それに関して次のようにある。≪在来農法は、各地で異なる自然条件のもと、そこで暮らしてきた人びとが長い年月をとおして培ってきた作品である。気候や生態環境、土壌の性質の違いや肥沃度の変化、病害虫の発生などに応じて、耕作区画や作物の組み合わせ、手入れの方法を変える、柔軟で精工な循環型の農法だ(149頁)≫。そしてさらに、≪農業を持続可能にする移動耕作(149頁)≫≪緻密化された輪作と間作(149頁)≫≪丁寧な手入れ(150頁)≫という三つの特徴があげられ、そのそれぞれについて詳しく説明されている。
では「緑の革命」では何が起こったのか? それについて次のようにある。≪「緑の革命」とは、一九四〇年代から始まった、改良品種の開発と化学肥料の普及によって作物の生産性と収量が劇的に向上した現象を指す。緑の革命を牽引したのは、ロックフェラー財団、アメリカ国際開発庁(USAID)、そして化学肥料会社だ。一九七〇年にノーベル平和賞を受賞した植物学者のノーマン・ボーローグは、ロックフェラー財団に所属し、高収量の種子の開発に貢献した。ラテンアメリカの小麦栽培、またアジアの稲作が緑の革命の成功事例としてよく知られている。しかし、アフリカ大陸の内陸部にも緑の革命は起きていた(151頁)≫。ここに「USAID」の名前が登場する。とはいえもちろん、その当時は、トランプ政権のカワイコぴゃん報道官が報告していたような、LGBTなどの左派イデオロギーを広めようとしていた現代のUSAIDとは異なり、マジでアフリカの食料危機を救おうとしたことに間違いはない。でも、その善意は結局バックファイアーしてしまうのですね。もう少し具体的に見てみましょう。次のようにある。≪現ガーナ北部で緑の革命が本格的に始動したのは、独立直前の一九五〇年代である。その拠点となったのは、(…)ニャンパラだ。ニャンパラ農業訓練センター(現サバンナ農業研究所)の試験農地から、アフリカ大陸で緑の革命の象徴的な作物となった、改良品種の「白いトウモロコシ」の栽培の実演が始まったのだ。¶当時現地では、従来からの黄色のトウモロコシが栽培されていた。(…)人びとは、試験農地で化学肥料を使って栽培された「白いトウモロコシ」の収量に驚き、その栽培の拡大を望むようになった。(…)この改良トウモロコシは、主食にする作物の種類だけではなく、現地の農法も抜本的に変えた。(…)新たな農業技術の導入や改良方法を農家に広める農業普及員たちは、収量を上げるために、ほかの作物と一緒ではなく単体で白いトウモロコシを植え付けるよう指導したのだ。さらに翌年以降も、輪作として別の作物をつくるのではなく、トウモロコシを栽培した同じ土地で、化学肥料を使ってトウモロコシを単作し続けられるという利点を強調した。¶こうして一九六〇〜七〇年代にかけ、人びとは化学肥料とともに改良品種のトウモロコシの作付面積を拡大し、新たな単作の方法を定着させた。この結果、現地では、世代を超え長い年月をかけて培われた間作と輪作の技法は実践されなくなっていった。しかし、高い生産性は、化学肥料への補助金がなければ継続できるものではなかった(152〜3頁)≫。
そして次第に補助金は出なくなっていくのですね。それについて次のようにある。≪一九八三年、ほかの重債務国に続いてガーナも、国際通貨基金(IMF)と世界銀行が提案した構造調整政策を受け入れた。こうして農業部門でも民営化が進み、一九九一年に肥料の流通が自由化して補助金がほぼ完全に撤廃され、緑の革命の動力となっていた化学肥料の価格が高騰したのだ。一九九〇年代前半にガーナ北部で実施された農業調査の報告書には、調査対象となった人びとの大半がほぼすべての作物に化学肥料を使えていなかったことが記されている。(…)化学肥料なしでは、穀物のまともな収穫は困難だった。長年の連続耕作による栄養分の収奪と化学肥料の使用による集約的な農業は、土壌をすっかり劣化させていた。また、農業の機械化も耕作地に悪影響をもたらしていた(154〜5頁)≫。要するにロックフェラー財団、USAID、化学肥料会社(おそらく悪名高いモンサント社のようなアグリビジネス企業を指しているのでしょうね)のような欧米の組織や企業が、アフリカで緑の革命を推進しておきながら、今度はIMFや世界銀行のような実質的に欧米の組織による構造改革要求によって、「緑の革命」に基づく農業では必要不可欠な化学肥料が使えなくなってアフリカの農業が崩壊したということになる。つまり、欧米の組織や企業がやりたい放題やって、アフリカの農業をメタメタにしたということになる。この体たらくでは、欧米の援助にアフリカ諸国が不満を抱かなかったとしたらその方がおかしい。なおステマ、もといアカラサマをしておくとボーローグによる「緑の革命」については、わが訳書、ロブ・ダン著『世界からバナナがなくなるまえに』の「第10章 緑の革命」もぜひ参照してね。
さて細かくなるので具体的には述べないが、その後二一世紀に入って「新たな緑の革命」が推進されることになるらしい。ところがこの「新たな緑の革命」は、「援助による農業のビジネス化」と「援助による格差の拡大」という新たな問題を引き起こすことになる。どういうことか? 次のようにある。≪二〇世紀の緑の革命では、公的機関の研究・普及体制の強化と零細農家への技術支援に注力していた。これに対して二一世紀の緑の革命では、公的機関ではなく「民間」を主体として位置づけ、零細農家を「市場に統合」することを目的にしている。このため、注力するのは商業的な作物生産、農業資材(種子、化学肥料、農薬、農機)の流通、そして生産物の加工と流通を促進する支援である。したがって、政策投資の対象を、大規模農家や農産物加工企業、農業資材の販売会社などアグリビジネスの事業体に広げている。そして、零細農家に優先し、これらアグリビジネスの事業体がトウモロコシや米、大豆などの生産で農業資材を得る際に、開発援助機関が積極的に補助金や融資を提供するようになった。¶この結果、エリートの大規模農家が台頭してきた。議員をはじめとする政党関係者や公務員、さらにはこれら政治家や行政関係者とネットワークをもつ者、都市在住で高学歴の資金力がある者など、これまで農業を主な生計手段としてこなかった人びとである。彼らは新たに「農家」ないしは「農業経営者」として、開発援助機関が主導する事業で農業資材の配布や貸付を得て、居住地から遠く離れた農村部で広い土地を獲得し、人を雇って耕作するようになったのである(164〜5頁)≫。
ここで開発支援という文脈をやや離れて、モンサント社などのアグリビジネス企業がやってきたアコギな真似に頼り切った支援を続けた場合、未来の展望がいかなるものになるのかを考えるにあたって、先にあげた『世界からバナナがなくなるまえに』から一箇所だけ引用しておきましょう。≪農業において、少数の巨大なアグリビジネス企業によって作り出された作物(遺伝子組み換え作物であるか否かは問わない)の占める割合が増大すればするほど、新たな害虫や病原体の移動や進化、さらには気候変動に対応する役割は、これらの企業が担わなければならなくなる。ところがアグリビジネス企業は、作物を多様化しようとする動機を持たないばかりか、消費者の要求が単純である限り、遠い未来を見越して計画を立てようとする動機さえ持たない。他の産業でも事情は変わらないが、純粋に経済的な動機に突き動かされるアグリビジネス企業は、最大の利益をあげられる一握りの作物品種に資金を集中投下し、それらをいやというほど生産するまで、他の品種には見向きもしない。一世紀はおろか一〇年先のことすら考慮に入れず、今日明日のために季節や状況に関係なく同じ作物を大量に供給し続ける。(…)アグリビジネス企業は、何が作物畑で栽培され、輸出され、スーパーで売られるのかを決定づけ、その過程で世界の大部分を覆う生態系を形作ってきた。問題は、それによって未来が決定づけられ、私たちの運命がアグリビジネスの双肩にかかる世界と化す可能性が高まったことにある(同書264〜5頁)≫。つまり、アグリビジネス企業に頼った支援は、長期的に見ても、また今後もアフリカの農業を破壊するしかないのですね。
ちなみに開発支援という文脈からははずれるかもだけど、善意からであるにせよ、欧米諸国が現地の状況を無視して独自のイデオロギーを途上国にまき散らそうとするとバックファイアーする例の一つとして「アラブの春」をあげることができる。最近読んだ『クーデター』(中公新書)に次のように書かれていた。≪「アラブの春」によって不安定化した中東・北アフリカでは、フセイン政権とリビアのカダフィ政権の崩壊が欧米諸国の介入によってもたらされた。シリアは内戦の泥沼に陥り、米国は「イスラム国」への攻撃を強いられた。民主化や人権というリベラルな価値観を掲げて独裁政権の打倒を後押しした結果、血みどろの内戦と過激派の台頭という最悪の事態を呼び込んでしまう(同書57頁)≫。ましてやLGBTなどといった現地の生存や生活とは次元がまったく異なる左派イデオロギーをまき散らそうとしたバイデン政権下のUSAIDは、トランプ政権になってから解体されても文句は言えないだろうね。
ということで農業支援に関してはこれくらいにして、もう一つアフリカの女性に対する欧米流の支援のまずさについて簡単に取り上げておく。その手法の一つに社会人類学者のキャロライン・モーザらによる「エンパワーメント」があるらしい。「エンパワーメント」という考えは次のようなもの。≪モーザによると、男女間の不平等と女性の男性への従属の根源は家庭にある。妻が夫に対して交渉力を高め、抑圧の状態から解放されるには、夫から経済的に自立することが有効であり、そのために女性に生産資源を与える支援が重要になると説いた(183〜4頁)≫。家庭に問題の根源を求めるなど、これは明らかに欧米の左派イデオロギーに基づく考えだと言える。そんなものが、アフリカ諸国のような開発途上国にプラスに働くのか? 仮にプラスに働く側面があったとしても、それ以上にマイナスの側面が問題にならないのか? 理念や理想ばかりを追求して、そのような現実的な顧慮をまったくしないのが左派の特徴なのですね。で、実際にはどうなったのか? 次のようにある。≪こうして農村部では、作物の生産に必要な土地や化学肥料、技術、情報を女性に提供する農業開発事業が次々に実施されていった。この結果、支援を受けた女性たちは作物の生産量を増加させた。よって従来と比べて女性は、作物を生産してきた夫や息子などの男性家族に対する経済的な依存度を低下させることで自立性を高めたと解釈できる。しかし、家で食事を用意する役目がある女性たちは、本来であれば男性が生産・供給しなければならない穀物が不足するなか、自分で耕作して得た追加的な収入を、まさに研究で指摘されてきたように家で食事を用意するために使ってきた。つまり、従来の家事だけではなく、耕作して家に食料を供給することも女性の負担になったのである。¶このように、エンパワーメント手法は女性の地位向上の実現を絶対的な目標に掲げるあまり、自己を犠牲にして労働と家計負担を増やす女性たちを生み出した(184〜5頁)≫。これに対する左派の反論は、容易に想像できる。つまり「自己を犠牲にすること自体が、エンパワーメント手法に反している」という反論。しかし、それはポイントをはずしている。というのも、現地の経済、社会、習慣、文化などすべての要因を考慮したうえでエンパワーメント手法が実施されているのなら、そのような反論は有効だろうが、ただ単に≪男女間の不平等と女性の男性への従属の根源は家庭にある≫などという欧米的なイデオロギーを現実に無理やり当てはめただけなのであれば、「女性が自己を犠牲にする」などといった事態は必然的に起こったと考えざるを得ない。現地の人にとっては、イデオロギーより生存や生活がもっとも重大な問題なのだから。というより実際にそのような結果が出ているわけで、その事実自体が、エンパワーメント手法には現地の独自の状況がまったく考慮されていなかったことの十分な証拠になる。
そのような欠陥のある開発援助によって引き起こされたアフリカの女性の苦境について次のように述べられている。≪開発援助で事業を運営・実施する主体は、介入によるポジティブな成果を報告書に記すことになっている。たとえば女性支援では、どれだけの女性がどれだけの作物を生産し、生産性をどれだけ向上させることができたか、といった内容だ。その一方で、女性たちが事業活動以外の時間に朝から晩まで一連の家事をこなし、育児に追われ、どれだけ疲弊しているかは、支援による効果の評価対象外である。さらに、たとえ援助事業が女性の労働を増加させていることに気づき、問題を感じていたとしても、余計な事柄を報告書に書くことは、事業の前提となる事前調査の段階で不備があったことを自ら指摘するようなものである。人びとの生活の見えにくい部分に気づき、複雑で難しい問題を洗い出し、当事者たちとの対話と熟議を重ねて軌道修正することは、とりわけ海外で実施される援助事業ではきわめて難しいのだ。¶他方で、女性支援の前提である「男性による抑圧」といった大理論は、家族の男性と女性のあいだの生計関係を歪めてきた。たとえば女性を対象にした農業開発の援助事業では、女性たちが支援で得た農業資材や収入を夫や息子に渡して(取られて)いる、といった情報が問題になる。女性支援では、女性の経済的な自立を促すことで女性の地位向上を目指しているため、これを家庭内での男性による女性の抑圧だと解釈してしまうのだ。しかし、女性は一人では暮らしていけない。家で食べるための穀物が不足している状況では、女性が支援で得た肥料の一部を夫に渡して自家消費用につくるトウモロコシ畑に流用したり、女性が得た収入の一部を夫に渡して家で食べる穀物を買い足すために使う必要性が生じるのだ。¶男性たちは、自分が供給の責任をもつ穀物を十分に生産できず、妻や母親があくせく耕して手に入れている状況を、「楽」だとして喜んでいない。むしろ、無力感を募らせてきた。男性による作物の生産量が増加しなければ、同じ家で彼らと生計をともにする女性たちの労働も軽減されないのだ(186〜7頁)≫。これはアフリカで長年援助活動をしてきた、したがって現地の状況をよく知る著者が語っていることであり、欧米や日本の都会で「エンパワーメント」や「男性による抑圧」などと抜かしている連中が大上段に構えて主張していることとはわけが違う。その意味では、LGBTのような左派イデオロギーを開発途上国に広めようとしていたUSAIDの所業も、批判されてしかるべきだろうと思う。USAIDや左派イデオロギーに言及しているわけではないが、著者は「終章 国際協力の再構築」の冒頭で次のように述べている。≪「途上国の問題」の解決のためとして実施されてきた開発援助は、資金を提供する富裕国の側の価値観にもとづく知識生産と実践をとおして、現地に大きな矛盾を引き起こしてきた。これは、こんにちの世界秩序に起因する根本的な問題であり、これらの解決を望むのであれば、国々の優劣や上下関係が前提になる開発援助ではなく、グローバル格差を生み出す不均衡な権力関係そのものを中和できる国際協力を再構築することが重要になる(194頁)≫。≪富裕国の側の価値観にもとづく知識生産≫とは近代西洋のエピステーメーのことであり、当然それには左派イデオロギーも含まれる。まあ援助にはまったく無縁な私めではありまするが、この著者の見解には一〇〇パーセント同意する。
ということで、この新書本に関してはこれにておしまいだけど、最後に冒頭でもあげた、USAID解体に関して本書で一言も触れられていない点についてもう一度考えてみませふ。もちろん著者はアメリカのUSAIDの職員などではないのだから、詳しいことは書けなかったということもあるのでしょう。ただ今年あれだけ話題になったのだから、「あとがき」にそれに関する自分の見解をちょろちょろとでも書いておくことくらいなら、時間的にも可能であったように思われる。しかし「あとがき」でもUSAIDの解体にはまったく触れられていない。つらつらと考えるに現在の欧米のアフリカ支援の問題を赤裸々(ちとシアトリカルな言い方かな?)に述べる本書全体の論調からすれば、USAIDの解体は、全面的ではないとしてもある程度は肯定せざるを得ないように思われる。ところが日本では、トランプ政権のやることは何でもかんでも批判しなければならないという風潮(あちゃらでは、トランプとひとこと聞いただけでたちまち発狂する病気という意味で「トランプ錯乱症候群」と呼ばれているようだが)が、オールドメディアにもアカデミックの世界にもあるのは明らか。そんな世界で禄を食んでいるがゆえに、トランプ政権の政策を部分的にでも肯定する見解を書くことは憚られたというようなところがほんとうのところではないだろうか。まあハブられて、メシメシが食えなくなるのは大問題だしね。しかも大きく左に傾いた岩波さんの本でもあることだし。
そうそうアカデミックの世界におけるトランプ錯乱症候群の例として、最近読んだ二冊の本を取り上げましょう(そんな本は枚挙にいとまがないが、ここではこのレビューでも引用した、最近刊行され私めが最近読んだ二冊の本をとりあげる)。一冊目は「アラブの春」に言及した際に引用した『クーデター』。同書に次のようにある。≪2021年1月6日に、ドナルド・トランプという一人の政治家による扇動で、米連邦議会が襲撃されたように、同じSNSの発展によって、陰謀論が渦巻き、社会の分断が拡大し、民主主義の根幹が危機に陥ったことも事実だ(同書214頁)≫。著者がそれを「事実」と言い切っているのは、左派メディアの偏った報道を信じ込んでいるからではないのかね? ちなみに私めは、あの事件が起こったときトランプが議事堂の近くで行なっていた演説をFOXニュースのストリーミングで聴いていた。でも、襲撃を扇動することなど何も発言していなかったし、事件が発生したときには聴衆に向かって「go home」と言っていた。まさに「トランプが議事堂襲撃を扇動した」という言説のほうこそが陰謀論だと言える。その左派メディアが捏造した陰謀論に乗っているのが『クーデター』の著者なのですね。また、もし議事堂の近くに支持者を集めたことをもって「扇動」と言うのなら、日本でもデモをするために国会議事堂前に支持者を集めている政党や活動団体があるけど、それも民主主義の根幹を危機に陥れる「扇動」の範疇に入ることになるよね?
なおこの引用だけでは、著者がそれをクーデターと見ている証拠にはならないが、もっとあとに≪民主主義が成熟していたはずの米国や韓国で相次いだ「クーデター未遂」騒ぎ(255頁)≫という記述が見られる。米国での≪「クーデター未遂」騒ぎ≫っていったい何を指しているの? どうみても議事堂事件のことを指しているよね? でも著者は「第1章 クーデターとは何か――一撃による非合法の権力奪取」の冒頭で≪クーデターとは、政権の権力者を一撃で交代させる行為(同書5頁)≫だと述べている。議事堂事件が起こったのは、まだバイデン政権が発足する前のことだから、そのときの政権の権力者とはトランプ自身だった。ということは、著者はトランプがトランプ政権を倒すためにクーデターを起こそうとしたと言っているに等しい。こんな論理にすら整合しないことを書けばクーデターを主題とした著書全体の信憑性が失われてしまうことになる。なお著者からしてみれば1月6日の時点で次期大統領はバイデンに決まっていたのだから、トランプは未来予見的にバイデン政権を倒したのだと主張したいのかもしれない。もし著者がそのような未来予見的なケースもクーデターに含めているのなら、それはそれでよろしい。だけどその場合には、さらなる説明が必須になる。というのも著者はクーデターの成功条件として、いかにうまく軍を動かしたり、あるいは軍の動きを抑えたりできるかが肝要になると全編を通じて説いているから(たとえば「第2章 発生要因と成功条件――成功の見込みと軍の決意」を参照)。ならば、トランプはあのとき軍を動かしたりその動きを抑制したりしたのかね? もしかすると私めが知らないだけなのかもだけど、いずれにせよあれがクーデターだと言うのなら、あのときのトランプと軍の関係を説明しなければならないのは専門家の著者のほうなんだよね。ところが、そんな説明は一切ない。まさか著者は、議事堂前に集まった、まったく統制の取れていないあの群衆が、せいぜい小銃程度を振りかざして未来のバイデン政権を打倒できたとトランプが考えていたと思っているわけではないよね? それはいくらなんでもトランプをバカにしすぎ。あるいはまさか、北朝鮮がホワイトハウスを占領するというとんでもないハリウッド映画があったけど(あまりにバカバカしくて、もしかしてこれはアメリカの銃社会を皮肉っているのかとさえ思った)、あれと同じように群衆のなかにマシンガンやバズーカを隠し持っているやつがいたなどと思っていないよね? つまり、どう見ても著者のトランプに関する発言は妥当であるとは思えないということ。ちなみに著者の名誉のためにつけ加えておくと、トランプに関する記述以外では特におかしなことは書かれていないので(特に左派的な考えを意図して開帳しているわけではない)、とにかく冷静かつ客観的かつ論理的であるべき学者さままでもが、トランプ錯乱症候群にかかると自分に不利になることさえ書いたり言ったりしてしまうらしことがこの件でよくわかる。
『クーデター』の著者は文系の学者さまのようだけど、トランプ錯乱症候群のひどさは、理系の学者さまも負けてはいない。次に理系の学者さまの例として、冒頭で取り上げた進化生物学者の長谷川眞理子氏の新書本『美しく残酷なヒトの本性』を取り上げましょう。そこに次のようにある。≪米国の歴史学者で日米外交史が専門のジョン・ダワーは著書『戦争の文化〈上・下〉』(岩波書店)で、「自分に都合の良い思考、内部の異論を排除し外部の批判を受け付けない態度、過度のナショナリズム、敵の動機や能力を過小評価する上層部の{傲慢/ごうまん}」が「戦争の文化」だという。ロシアのプーチン氏の行動もまさにそうだが、ベトナム戦争からイラク戦争までのアメリカも同じであり、トランプ氏によりさらに復活した(同書132頁)≫。他の記述は置くとしても、最後の≪[「戦争の文化」が]トランプ氏によりさらに復活した≫という見解は、何か根拠があって言っているのか長谷川氏にぜひ訊いてみたいところ。実のところ、根拠なんて何もないんでしょ? トランプが始めた戦争が一つでもあるのかね? 確かにイランのテロリストの親玉を爆殺するようなことはやってのけてきた。しかしそれは戦争ではないし、そんなことはオバマ大統領のときから毎週やっていた。あるいはイランの核施設を爆撃して「わわわ! 第三次世界大戦が始まるううううう!」とかわめいていた人々がいたけど、結局戦争は終息していった。戦争とは、必ずしも平和を叫んでいる人々が想像するような方法、つまり話し合いで終結するわけではないのですね。さすがにウクライナ戦争は大統領に就任したらその日に止めてみせると豪語していたにもかかわらず、戦争はいまだ終結を見ていない。とはいえ終結させようと努力はしていたし、そもそもウクライナ戦争はバイデン政権のときに始まった戦争だしね。
長谷川氏は、結局左派メディアの言うことを鵜呑みにしているとしか思えない。というか左派メディアからトランプ錯乱症候群をうつされたに違いない。さらに言えば、進化生物学者だからか二〇世紀の歴史を理解しているようにはまったく思えない。二〇世紀と二一世紀における戦争は、「コミンテルン」の思想を受け継ぐ民主党のときか(第一次世界大戦、第二次世界大戦、朝鮮戦争、ベトナム戦争)、アメリカの第二の顔の現代版である共和党のネオコンが政権を担っているとき(湾岸戦争、アフガン戦争、イラク戦争)のいずれかのあいだに起こっている。アメリカの第一の顔を代表するモンロー主義者トランプは、むしろ東半球での戦争はできるだけ避けようとする。それを知っていたら、≪[「戦争の文化」が]トランプ氏によりさらに復活した≫などとはとても言えないはず。トランプにはトランプの問題があるが、それは長谷川氏が指摘しているようなところにあるわけでもなければ、トランプ錯乱症候群に罹患した左派オールドメディアがしきりに批判する自国第一主義にあるのでもない。著名な進化生物学者の長谷川氏でさえ、そんな的外れを平気で口にしているようなアカデミックの世界で、少しでもトランプ政権を評価するようなことは、少なくとも岩波さんの本には絶対に書けないでしょうね。とはいえ、だからと言って海外援助の問題を明確に示した、この新書本の価値が下がるわけではないことを最後につけ加えておきましょう。
※2025年7月23日