◎井上達夫著『世界正義論』(筑摩選書)

 

 

10年ほど前に刊行された少し古い選書本。正直なところ、かなりむずかしい。「第4章 世界経済の正義」あたりは、途中で話がようわからなくなった。それでも、非常に重要なことが書かれているという印象を受けたので気づいた点をいくつかあげてみる。

 

まず一つは今回のウクライナの件で、わらわらと湧いてきたウクライナ降伏論が論理的にさえ成立しないことがはっきりわかった点(ちなみにこの本は今回のウクライナ侵攻どころかクリミア侵攻が起こるよりはるか以前に刊行されている)。

 

ウクライナ降伏論の誤謬については、私めも何度かツイしたけど、その要旨は、@そのような論は、ロシアのような専制国家が、被征服国が持つ法や政治や文化などの体系の維持を認めることを前提としているとしか考えられないが、どう考えても、また歴史的にみてもそれは間違いである点。専制国家に征服されれば、日本国憲法もへったくれもなくなって、下手をすれば侵略戦争の片棒をかつがされる可能性すらある、Aウクライナ降伏論を主張するなら、たとえば第二次世界大戦中の軍国日本に対する中国の祖国防衛も間違っていたってことになるが、「ほんとうにそう考えているわけ?」という点。

 

以上の二点は論理的に本質的とは言えない部分があるけど、本書の「第2章 メタ世界正義論」にある諦観的平和主義に対する批判は、ウクライナ降伏論のような考えが論理的な誤謬であることを数式まで用いて論じている。そのような批判は道義的な批判よりも強力かもしれない。なお諦観的平和主義とは、ロシアのような専制国家の不正義を不問に付して、国民が殺されないよう降伏して平和を保てばよいという考えを指す。この考えは、そのような不正義を絶対に許容しない、たとえばガンジーの非暴力主義に基づく絶対平和主義とは異なる。

 

いずれにせよ著者の井上氏は、「第5章 戦争の正義」で消極的正戦論を支持し、諦観的平和主義のみならず絶対平和主義をも批判しているけど、ウクライナ降伏論は諦観的平和主義の範疇に入るはずで、論理的にもまったく許容され得ないものであることがよくわかる。

 

さて次に言及すべきは、よくわからない側面がかなりあった第4章で、後期ロールズの徹底的な批判がなされていること。批判の要点は、後期ロールズにおいては『正義論』に代表される初期ロールズの議論を、国内レベルから世界レベルに拡張して適用することを拒否してるということ。ちなみに井上氏の批判のポイントは、ロールズがその拒否の根拠として「きわめて恣意的かつ薄弱な論拠しか示していない(186頁)」、つまり国内と国外の正義の適用に関して根拠なくダブスタを適用しているという点にあるらしい。

 

そのこと自体に関しては、後期ロールズなど何も知らない私めがどうこう言えるものではないけど、ここでハタと考えねばならないのは、「世界正義」と言う場合、二通りの解釈が可能だということ。つまり「世界正義」とは、国家と世界という粒度の異なる二つの実体を貫通して適用しうる、いわば「絶対普遍正義」という意味と、国家と世界を分けた場合の「世界」にのみ適用される「世界という粒度に内在的な正義」という意味の二通りに解釈できる。で、第4章の後期ロールズ批判だけを読んだ場合、著者は「絶対普遍正義」の意味で用いているような印象を受けたが、「第6章 世界統治構造」で世界政府の考えを真っ向から批判している点などからすると「世界という粒度に内在的な正義」の意味で用いている気もしてきた。

 

それに関して言えば、私めは、タレブさんが主張するように「Things don’t scale」であって、国家と世界という、そもそも粒度の異なる実体をまたがる普遍的な原理を措定することはきわめて危険であると考えている。

 

たとえば移民問題にはその危険性を垣間見ることができる。中間選挙が行なわれたばかりのアメリカを例に取り上げると、バイデン政権になってから、前任のトランプ政権とは対照的に、不法移民(ちなみに主流メディアは移民と不法移民を区別せずに印象操作していることがときに見受けられるけど、ここでははっきりと不法移民と明言しておく)にきわめて寛大な国境開放政策を取って今もその状態が続いている。

 

これはリベラルな民主党が個人の人権を国家レベルから世界レベルに拡大して普遍的にとらえて実施している政策と見なせるけど、実はそれによって国家レベルではさまざまな問題が生じている。一つは不法移民のみならず麻薬や人身売買のトラフィッカー、さらにはヨーロッパほどではないんだろうけどテロリストが簡単に米国内に入ってきて犯罪が多発し、とりわけ国境沿いの住民が大きな被害を受けていること。

 

それからそれだけではなく、実は中南米諸国にとってもアメリカに不法移民が大量に流出することは、本来自国の経済発展に寄与すべき人材が大量に国外に流出していることを意味する。この問題については、本書にも書かれているし、その問題が深刻なことはどこかの中南米の国の大統領が言っていた。

 

ここでの私めの意図は民主党の政策の批判にあるのではなく、人々の生活に直接関わる国家レベルと、より抽象的な世界レベルを通底する普遍的な原理を前提とすると、現実的には大きな問題が生じ得るという点を指摘したかったわけ。

 

著者は「グローバル化(globalization)」と「国際化(internationalization)」を明確に分けているけど、この区別は非常に重要だと思う。著者は「国際化においては、秩序形成の基本主体は主権国家であったが、グローバル化においては、世界秩序形成において国家と競合する新たな主体が現出している。この新たな主体は、「超国家体({supra-state/斜字} entities)」と「脱国家体({extra-state/斜字} entities)」に大別できる(333〜4頁)」と述べている。

 

私めの考えでは、グローバル化はトップダウンに、また国際化はボトムアップに作用する。そして「世界政府」は前者に、「国連」などの世界連邦組織は後者に該当すると思っている。そして、そのうちの前者は大きな災厄をもたらすだけなのに対し、後者は現状では大きな問題がありながらも、その問題を解決しつつ今後も維持し続けていくべきものと考えている。

 

実はその考えは著者も共有しているようで、とりわけ超国家体たる「世界政府」を「専制の極限形態」と呼ぶ批判は実に的を射ていると思った。著者はその理由として、大きく分けて「離脱不能性」「民主制欠損の巨大性と不可避性」「覇権的・階層的支配の拡大再生産」の三つをあげているけど、長くなるからここでは「民主制欠損の巨大性と不可避性」に関する著者の主張のみを紹介しておく。

 

次のようにある。「第二の論拠は、政治権力の民主的統制の困難性は、現存国家の場合よりも世界政府の方がはるかに大きいことである。人々は離脱(exit)オプションを剥奪されるだけでなく、政治的発声力(voice)も著しく喪失する。現存する平均的規模の民主国家でさえ市民が実効的な民主的自己統治を享受するには大きすぎるとみなされている。なぜなら、その人口規模から言って避け難い代表民主制は政府と市民との距離の縮減を困難にし、国政レベルの政治過程への市民参加を名目的かつ例外的なものにするからである。(……)さらに、後述するように、世界政府よりも権力においてはるかに弱く、管轄域においてはるかに狭いEUのような地域的超国家体も、加盟国市民が自国政府に対して行使しえた、限られた程度の民主的統制さえ掘り崩すことにより、不満・憂慮・批判を招いている。世界政府が、政治体の民主的統制可能性はその規模に反比例するという法則の極限的例証になるのは必至だろう(354頁)」。

 

個人的にはその通りだと思うし、『古代ギリシアの民主制』(岩波新書)を取り上げたときに「(間接)民主制は国民国家によって可能になった」と私めが述べた理由の一つがそこにある。特定の政治制度が機能するには、それが機能すべき粒度があり、それを無視すれば悲惨な結果に至る。「世界政府」とはいかにも聞こえがいいけど、本質的な面が完全に閑却された概念だと個人的には思う。

 

ところで最後に余談だけど、私めは井上氏はバリバリのリベラリストと聞いていたから、私めの考えとは正反対のことが書かれているものと思っていたんだけど、わからん部分を除けば本書の記述のほとんどが首肯できるものだった。著者紹介欄に著書の一つに『リベラルのことは嫌いでも、リベラリズムは嫌いにならないでください』というタイトルの本があって失礼ながら笑ってしまった。もちろん読んでいないから内容はわかないが、タイトルから判断すると、バリバリのリベラリストの井上氏にとっても、日本型(自称)リベラルは風評被害でしかないんだろうなと思ってしまった。

 

一覧に戻る

※2023年4月28日