◎スザンヌ・オサリバン著『眠りつづける少女たち』

 

 

本書はThe Sleeping Beauties And Other Stories of Mystery IllnessPicador, 2021)の全訳である。著者のスザンヌ・オサリバンはアイルランド出身で、ダブリン大学トリニティ・カレッジで医学を学び、現在はロンドンの病院(National Hospital for Neurology and Neurosurgery)で神経科医を務めている。既存の邦訳はないが、二〇一六年にIt's All in Your Head: True Stories of Imaginary Illnessで、イギリスのウェルカムブック賞を受賞している。本書は、「眠れる少女たちとその他の謎の病に関するストーリー」という原題が示すように、著者が専門とする心因性疾患(機能性神経症状症)の摩訶不思議な症例を、世界各地を旅して関係者にインタビューしながら綴っていくという形態が取られており、よって基本的にはエピソード主体であるため非常に読みやすくおもしろい。その意味では、原書のカバーに「オリバー・サックスの真の継承者」とあるように、オリバー・サックスの著書のおもしろさを本書でも十分に堪能することができるはずだ。とはいえ本書は、よくあるサックスの亜流本とは一線を画す。というのも、本書には「心因性疾患は、生物(脳を含めた身体)と心と環境(社会)が複雑に相互作用し合うことで生じる」とする生物心理社会モデルが、全編を貫いているからである。このモデルは本書を読むにあたって非常に重要なポイントになるので、本書の概要を簡単に説明したあとでやや詳しく述べよう。

 

最初に訳語について三点だけ明確にしておく。「病」は「illness」の、また「疾患」は「disease」の訳である。病気の社会的側面も重視される本書において、「病」は単に生物学的な病気という意味だけでなく、社会的、心理的な意味合いを含んだものとして用いられていることに留意されたい。それに対して「疾患」は、ほぼ生物学的側面に限定される。「narrative」は各章の初出時に「{物語/ナラティブ}」と、またそれ以降の出現箇所は「ナラティブ」と訳した。ちなみに医療に言及して用いられる「ナラティブ」には、医療従事者が患者の語る病の経験に耳を傾けることで、患者の立場から病の状況を判断し、診断や治療を行なうという意味が含まれる。「embody」「embodiment」の訳である「身体化」は、一般には心の様態が身体症状となって表れることをいう。もっとも単純な例は赤面だが、本書においてはそれより厳密な意味がある。第3章に次のようにある。「また、私たちは文化的に形成された病の概念を身体化する。言語の学習と同様、病の{ひな型/テンプレート}を内面化し、脳にコード化するのだ。そして引き金が引かれるとそれを身体で表現する(94頁)」。つまり「脳へのコード化」「身体による表現」という二つの段階から成り、それらが生物と心と社会の相互作用を可能にしているメカニズムの一つだと考えられている。

 

次に全体概要を簡単に説明しよう。本書は八つの章、ならびに「はじまり」と「おわりに」で構成される。八つの章のそれぞれで、特定の心因性疾患に関するエピソードが紹介されている。いわゆるネタバレにもなりうるので、ここでは取り上げられている「謎の病」の名称を列挙するに留める。詳しくは本文を参照されたい。それには、スウェーデンの移民家庭の少女たちがかかった「あきらめ症候群」(第1章、第4章)、幻視を主症状とするニカラグアの「グリシシクニス」(第2章)、カザフスタンの鉱山町で発生した眠り病(第3章)、キューバ駐在のアメリカとカナダの外交官だけが罹患した「ハバナ症候群」(第5章)、コロンビアの女子学生のあいだ起こった心神喪失の集団発生(第6章)、アメリカ北東部の地方都市ル・ロイと南米のガイアナで発生した、いわゆる集団ヒステリー(第7章)がある。なお第8章のみは、著者が地元の病院で実際に医療を担当した解離性発作患者の症例が取り上げられている。

 

ここで本書の理論的な核心をなす生物心理社会モデルについて少し詳しく説明しておこう。このモデルが現在重要になりつつある理由は、脳科学を始めとする生物学が急速に発展し、脳の可塑性、あるいは本書でも第3章で言及されている予測符号化などの生物学的メカニズムが次々に明らかにされるにつれ、心因性疾患の要因を生物学的根拠にのみ求めることが誤りであることが明確になってきたからだ。ここで、それについて専門家の見解に耳を傾けてみよう。精神医学史の第一人者アンドルー・スカルは最新刊Desperate Remedies: Psychiatry’s Turbulent Quest to Cure Mental Illness (The Belknap Press of Harvard University Press, 2022)で次のように述べている。重要なので、やや長めに引用する。

 

第二次世界大戦が終結してから、アメリカ精神医学界のリーダーたちは、――精神障害の原因を解明しその治療に役立てるために――生物学と脳を蔑視し、心理のみに着目していた。この「心を偏重する見方」の支配は一九七〇年代終盤に突然終わりを告げる。そしてそれ以来、「脳に焦点を絞る」精神医学が、ほぼ無条件の優位性を保つ状況になり、精神病は脳の疾患としてとらえられるべきだと教えられるようになった。

思うに、どちらの一元論も根本的に間違っている。すでに述べたように、多くの重度の精神障害の発症に生物学的な要因がまったく関係していないとしたら、私は驚くだろう(…)。しかしそれと同時に、人間が生きている文化的、社会的、心理的な基盤から精神病を截然と切り離すことなどできないと、私は確信している。精神病の発症と経過に社会的な要因が深く関与しているという事実を否定することは、環境がきわめて重要であることを私たちに教えてくれる、膨大な量の疫学的な、あるいはその他の形態の証拠から目を逸らすことでもある。

もちろんもっと大きな意味でも、社会と生物の分離は完全に間違っている。動物界では先例が見られないほどの程度で、人間の脳は出生後、環境に強く条件づけられながら発達し続ける。文化や社会は、マクロのレベルでもミクロのレベルでも生活様式の選択や生物学的メカニズムと強く相互作用する。そしてありとあらゆる複雑なあり方で、脳の物理的な構造や機能は、社会心理的な刺激や、その他の感覚入力によって形作られるのだ。人間の可塑性は、幼少期をはるかに超えて作用する。よく知られているように、脳の形状や、脳内で発達する神経結合――人間の情動や認知を支える物理的な基盤をなす生物学的メカニズム――は、社会的な刺激や心理的な刺激、とりわけ個人が成長を遂げる家庭環境によって深く影響される。思考や感情や記憶は、さまざまなあり方で、成熟する脳の内部に形成される複雑なネットワークや相互接続の産物なのだ。発達や環境に関する要因は、ある個人が精神病を発症するか否か、あるいはその発現形態を決定する重要な要素になるのである。

したがって脳を社会とは無関係なもの、もしくは社会以前のものと見なすこと、あるいは精神病――認知や情動生活の崩壊――は脳の疾患にすぎないという粗雑な考えは、根本的に間違っている。またその逆も真であり、生物学的要因の役割をまったく認めず、心や家族のみが重要だと主張することも、まったく異なったタイプの目隠しをまとうことに他ならない。どちらの目隠しも、同程度に有害である。(同書382〜3頁)

 

さらにスカルは近年の精神医療の状況に関して次のように指摘する。「米国精神医学会の会長を務めていたスティーブン・シャーフスタインの言葉を借りれば、精神医学は、精神障害の理解に関して、生物─心理―社会モデルから生物─生物─生物モデルへと移行した。より正確に言えば、精神医学は精神病を理解し治療するにあたり、心理社会的なアプローチを事実上捨て去って、ほぼ完全に生物学的側面に焦点を絞るようになったのだ(同書320頁)」。ここで言われている生物─生物─生物モデルが誤りであることを明確にしたのも、脳科学を中心とする生物学であったのは、ある意味で皮肉と言えるかもしれない。かつて「意識は脳が活性化してから〇・五秒遅れてやってくる」などの言い回しで、ベンジャミン・リベットの実験がもてはやされていたことがあった。この言明はもちろん間違いではないどころか、意識のような心的特徴が物質的な変化を引き起こしうると見なすオカルト的な解釈に走らない限り、むしろ至って当然の結果にすぎないとすら言える。しかしここで留意しなければならないのは、リベットの実験の対象は瞬間的な判断であって、長期的な観点から見た場合には、心(心理、思考様式など)や環境(社会)は、可塑性によって特徴づけられる脳の配線を変えうるということが近年になって明確になりつつあり、瞬間的な判断のレベルと長期的な脳の配線のレベルを混同すべきではないということだ。精神病や心の病を考えるにあたっては、生物─生物─生物モデルでは不適切なことはもちろん、フロイト流の心理─心理─心理モデルでも、R・D・レインらの反精神医学的な社会─社会─社会モデルでも同程度に不適切であり、生物、心理、社会の相互作用を考慮することこそが肝要になる。そして神経科学によってその相互作用の基盤が明らかにされつつあるのだ。

 

もう一つ、訳者が翻訳を担当し、よって内容を熟知している本から専門家の見解を紹介しよう。その本とは、ロイ・リチャード・グリンカー著『誰も正常ではない――スティグマは作られ, 作り変えられる』(みすず書房、2022年)で、そこに次のようにある。「それ[一九七〇年代前半]に続く数十年間、メンタルヘルスの専門家のあいだで、精神薬理学が精神医学を、軟弱で主観的な営みから堅実で客観的な営みに変えることができるという楽観的な見通しがますます広く浸透していく。(……)また研究者は、精神医学を生物学に近づけることで、精神病のスティグマを軽減し、精神病が他のいかなる種類の病いとも変わらないと見なされるようになることを期待していた。(……)かくして神経科学者は、精神病が〈患者のコントロールを超えた〉疾患であることを示すために、異常な代謝活動や、脳内の化学物質のアンバランスを量的に測定する方法を考案しなければならないと感じるようになったのである(同書273頁)」。その結果、どのような事態が生じたか? グリンカーによれば、そのような「精神病の生物学的モデルは、そのスティグマ化の中心的役割を果たしてきた(同書287頁)」のである。そして彼は「神経生物学的知識や遺伝的な知識は、脳が一部をなす、より大きなシステムの一構成要素を説明するにすぎない。(……)生物学的特徴と文化は合わさって作用するのであり、そうでないと考えることは、施設への収容、ロボトミー、断種、人種差別、さらには民族根絶さえ正当化するために、人々が〈生物学は運命である〉とする概念を使っていた過去に戻る危険を冒すことになろう(同書313頁)」と主張する。ここで言う「より大きなシステム」とは、もちろん生物と心理と社会が相互作用する統合的なシステムのことであり、スカル同様、それを無視して生物学的側面に焦点を絞れば、かえってより大きな問題が現実的に引き起こされうると論じている。本書の著者オサリバンは生物学的側面を重視する立場にあるはずの神経科医だが、それにもかかわらずスカルやグリンカーと同様に生物学一辺倒の医療のあり方にもの申しているのは興味深い。

 

ところで、マスメディアは社会を構成する要素の一つであり、それを通じて人々が情報を得る機会も多い。だから生物心理社会モデルを重視するオサリバンは、マスメディアによる心因性疾患の扱いにも憂慮の念を示す。もっとも顕著なマスメディア批判は「第7章 ル・ロイの魔女たち」に見られ、そこで著者は、ル・ロイの集団発生をマスメディアがどのように扱ったかについて詳細に説明したうえで、次のように結論する。「(……)ル・ロイで起こったできごとは、集団ヒステリーが通常続く期間よりはるかに長く続いた。私の考えでは、その理由と最終的な解決策は、個人ではなく文化社会的な領域に見出されるべきものだ。メディアの狂騒、転換性障害に関する不正確な説明、生物心理社会的な病に結びついた公的な{負の烙印/スティグマ}、そして何よりも単なる憶測が事実と同格に扱われる風潮、これらすべての要因が、ル・ロイにおける最悪の興奮状態を醸成したのである。だがそれでも、ル・ロイのストーリーは、あたかも外部的な要因などまったく存在しないかのように、もっぱら少女たち自身の心の問題として語られた。それに対して、メディアや、{有名人/セレブリティ}が大きな発言力を持つ文化が、少女たちに大きな影響を及ぼしたという認識はごくわずかしかなかった(本書325〜6頁)」。心因性疾患ではないが今回の新型コロナウイルス感染では、恐怖を煽るような煽情的な報道がときに見受けられた。だがそのような報道のあり方が、とりわけうつなどの心の病を抱えた人々にいかなる影響を及ぼすかが果たして考慮されていたのだろうか? メディアも、いや多くの人びとがその情報に接するメディアであればこそ、生物と心理と社会は複雑に相互作用するということをしかと認識しておくべきではないだろうか。

 

長くなってきたのでそろそろまとめに入ろう。本書に関してまず指摘できることは、エピソード主体であるがゆえに、よくできた映画を観るときのように関心を保ちながら読み進められることである。とはいえ生物心理社会モデルというしっかりした主題が全編を貫いているために、このタイプの本にありがちな珍奇なエピソードを集めたまとまりのないアンソロジーという印象をまったく受けない。本書を読めば現代の心の病の医療に何が欠けているかがはっきりとわかるはずである。またそれは医療関係者だけの問題なのではなく、前述のとおりマスメディアや、さらには私たち自身の心の病に対する姿勢の問題でもある。たとえば最近はLGBTQ、言い換えればセクシャルダイバーシティーに関する議論が花盛りだが、注意欠陥・多動性障害(ADHD)や自閉スペクトラム症(ASD)などのニューロダイバーシティーに関する議論は、メディアでもSNSでもあまりなされていないように思える。その理由の一つは、生物と心理と社会の相互作用が一般にあまりよく理解されていないために(ADHDやASDには遺伝要因のみならず環境要因もあることが明らかになりつつある)、LGBTQと比べてイデオロギー的訴求力に劣るニューロダイバーシティーが軽視されているからではないだろうか。そのような昨今の風潮に一石を投じるという意味でも、本書には大きな意義がある。

 

 

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