◎吉田量彦著『スピノザ』(講談社現代新書)
400頁くらいあって、新書にしてはけっこう肥満しているけど非常に読みやすかった(新書や選書のたぐいでも分野が哲学ともなるとかなりむずかしい本もある)。著者のスピノザ理解が一般的なのか否かはよくわからんけど、入門書としてはお勧めかも。
ただ最初のほうの、スピノザの兄弟姉妹がなぜ兄弟姉妹と言えるのかなどといった経歴に関する話は、個人的には長すぎて辟易した。そう言っただけでは身もふたもないので、ここではわが訳書との関連で興味深かった箇所を二つあげることにする。
一つは「第一三回 ひとは自由になれるのか――スピノザの思想(八)」の感情に関する記述であり、これはリサ・フェルドマン・バレット著『情動はこうしてつくられる』(紀伊國屋書店,2019年)(や、おっさんたらしのリサたんの軍門に下った最近のルドゥーさんの本)の主張とも重なる。次のようにある。「スピノザによると、わたしたちがこれまで取り上げてきた愛や欲望といった感情も「思考様態 modi cogitandi」、つまり考えるという営みの一つのあり方です。理由は単純で、(…)愛も欲望も{何かに対する/傍点}愛であり欲望であるわけで、この何かの「観念」つまり考えを伴っていなければそもそも感情として成立しないからです(316頁)」。
これはまさに情動作用には「概念」が必要であるとするリサたんの考え、あるいは情動における認知作用を重視するルドゥーの考え、あるいは情動の評価(appraisal)理論にきわめて近いと言える(なお「情動」と「感情」の違いについては人によっても異なるけど、ここでは「情動」≒「感情」ととらえてもよいでしょう)。
もう一点さらに重要なのは、同じく第13回の最後のほうにある直観知に関する記述。著者によれば、スピノザは知のあり方を「想像知」「理性知」「直感知」に分け、後二者を前一者に対置していたらしい。では直観知とは何か? 著者によれば「わたしたちは現実世界で出会うありとあらゆるものごとを、{その具体的な細部に関する理性的吟味を一切すっ飛ばし/傍点}、先ほどの根本原理に直接照らして、神の何らかの様態、いわばXモードの神として、わたしたちの精神のうちに「直ちに」位置づけることができます。これこそスピノザが直観の知と呼ぶものに他ならない(333頁)」とのこと。
では理性的吟味を一切すっ飛ばすにもかかわらず、なぜそれが重要になるのかに関しては、次のようにある。「そしてこの「[直観]知」は、神である実体についての十全な観念にストレートに根拠づけられていますから、理性の知とは別系列でありながらも、やはり十全であり「必然的に正しい」知なのです。十全な知である以上、この知をふまえつつ当のものごとや感情と向き合うなら、その時そこには、ある種の能動性が生まれるはずです(334〜5頁)」。
この見方が現代的にもいかに重要かは、「神」(スピノザの神は一神教の神とは異なるけど、それについては本書を読んでくださいませ)という用語を、「進化によって人間が獲得し遺伝子として受け継がれてきた形質」と読み換えてみればわかる。これこそまさに、わが訳書、ヒューゴ・メルシエ著『人は簡単には騙されない――嘘と信用の認知科学』(青土社,2021年)の主題であり、メルシエ氏の言う「開かれた警戒メカニズム」の意味なのですね。
ネットでときに「国民は愚かだ」「(自分や自分の仲間以外の)人々はすぐに騙される」という主旨のツイを見かけることがときにあるけど、その手の発言がまったくの間違いである理由もここにある。そのようなツイをしている人は、人間の知性や認知の働きを誤解していると言わざるを得ない。まさにイデオロギーはスピノザの言う「想像知」であり、それに振り回されている人のほうが「愚かで騙されやすい」というのが本当のところなのですね。バレットやメルシエがスピノジストなのかどうかは知らんけど、逆に現代の脳科学や認知科学の成果を予見していたとも言えるスピノザはすごいと褒め倒しておくことにしましょう。
さて最後にこの新書本でちょっと残念だった点を一つあげましょう。それは「(国民)国家」と「自由民主主義」の関係についてスピノザがどう考えていたかがわかるかなと思っていたけど、はっきりしなかったこと。「国家」と「自由」の関係に関しては「第八回 自由は国を亡ぼすか――スピノザの思想(四)」にあったけど、民主主義についてはほとんど言及されていなかった。
私めは基本的に、「民主主義」は「国民国家」が誕生して初めてその成立が可能になったと考えている(ではアテネの民主主義はどうなのかと言われそうだけど、『古代ギリシアの民主制』のレビューを参照されたい)。実のところ、国民国家成立のきっかけになったと言われているウエストファリア条約(1648年)は、スピノザが生きていた1632〜77年のあいだに締結されている。だからスピノザが、「民主主義」と「国民国家」の関係についてどう考えていたのかが知りたかったというわけ。
そこはちょっと残念だったけど、全体としてはスピノザに関心があろうがなかろうがぜひ読むべき本だと思う。
※2023年4月28日