◎ジョセフ・ヘンリック著『The WEIRDest People in the World』(Farrar, Straus and Giroux

 

 

本文だけで500頁近くある大著だけど、すでに三回通して読んでいる。ちなみに人類学者のヘンリックは、けっこう有名な同名の論文をスティーブ・ハイン、アラ・ノレンザヤンとの共著で2010年に刊行している。この論文はかなり前に刊行されたわが訳書、ジョナサン・ハイト著『社会はなぜ左と右にわかれるのか』でも言及されていた。「WEIRD」という用語はハイトが言い出したかのようなコメントを見かけることがときにあるけど、ハイト自身、同書で言い出しっぺはヘンリック、ハイン、ノレンザヤンだと明言している。「WEIRD」とは、この手の本を読んでいる人にはもはやお馴染みの言い回しになっているけど、いちおう何の略語か示しておくと、Western(欧米の)、Educated(啓蒙化され)、Industrialized(産業化され)、Rich(裕福で)、Democratic(民主主義的な)文化のもとで暮らす人々といったところ。しかし肝心なのは、「weird」という一般的な形容詞が「奇怪な」とか「ケッタイな」を意味することからもわかるように、そこには「WEIRDな人々」が実のところ世界的な観点からすれば外れ値だというコノテーションが含まれている。

 

これまで長く、心理学者や社会学者が被験者として実験の対象としてきた人々は、多くの場合外れ値のWEIRDな人々、とりわけ学生であったにもかかわらず、どういうわけかその結果が普遍的なものとして解釈されてきた。どう考えてもこれは大問題と言わざるを得ない。もちろん最近は、なるべく欧米人以外の人々も被験者に含めたり、欧米人と比較したりするようにはなってきているんだろうけど(この本では、そのような文化間の比較対照実験が多数取り上げられている)、それでも被験者は欧米で暮らしている人々や、欧米の大学に留学している学生、あるいは本国にいても、とても代表的なサンプルとは言えない、都市に位置する大学の学生であることのほうが圧倒的に多い。ちなみに本書にも、「はるか昔から警鐘が鳴らされてきたにもかかわらず、今日でも実験研究の被験者の90%は WEIRDのまま(57頁)」なのだそう。また著者は本書の後半で、パーソナリティ特性の分類法として知られ、心理学で盛んに使われているビッグファイブ(開放性、誠実性、外向性、協調性、神経症傾向)をWEIRD5と呼び、それがWEIRDに特異な心理特徴であると述べている(382〜6頁)。WEIRD研究の動機の一つには、そのような状況はおかしいという思いがあるんだろうと思う。日本では欧米に見習えと主張する人があとを絶たないようだけど、その欧米の学者でさえ、自分たちWEIRDは外れ値だと白状しているという事実を、その手の欧米追従者はどう説明するのだろうかと思わざるを得ない。むしろG7に属する唯一の非欧米国として独自の姿勢を示したほうが、世界における多様性推進にも貢献できるはずではないのか。

 

いきなり話が逸れてきたけど、このヘンリックの大著は、WEIRDがいかにして、またなぜ外れ値なのかを統計データを駆使して説明している(このタイプの本としてはグラフがけっこう多い)。ちなみに著者は序章で、次の四つの点が本書の主旨であると明言している。

 

1.宗教的な確信は意志決定や心理や社会を強く彫琢しうる。教典を読むことは、第一には神聖性と結びつくことであるが、意図されていない効果も大きく、特定の宗教的グループの存続や拡大をもたらす。

2.信念、実践、テクノロジー、社会規範――文化――は、動機づけ、心的能力、意思決定におけるバイアスを含め、脳、{生物学的機制/バイオロジー}、心理を形作ることができる。

3.文化によって引き起こされた心理的な変化は、その人が何に注意を払うか、いかに意思決定を下すか、いかなる制度を好むか、どの程度ものごとを革新するかに影響を及ぼすことで、のちに起こるあらゆる形態のできごとを形作ることができる。本書の例で言えば、文化はリテラシーを向上させることで、より分析的な思考や長期記憶を引き起こし、学校教育、本の出版、知識の普及を促進する。かくして「聖書のみ」という考えは、革新の原動力となり、法の標準化、参政権の拡大、立憲政治の確立の基盤を据えた。

4.リテラシーは、欧米人がいかに心理的に例外的な人々になったかを示す一例を提供する。もちろん、キリスト教徒やヨーロッパの制度(小学校など)の世界への拡散によって、今日世界の多くの人々が、高度のリテラシーを身につけるようになった。とはいえ1900年当時の世界を調査してみれば、西欧で暮らす人々はかなり特異に見え、脳梁は太く、顔認識能力は貧弱であったことがわかるはずだ。(17頁)

 

2と3は、まさに昨今の脳科学で大流行りの生物(脳)と心と社会(環境)の相互作用によって裏づけられる。それに関してはもっと明瞭に次のように述べられている。「読み方の学習は、記憶、視覚処理、顔認識を含むいくつかの領域にまたがる心理の領域に影響を及ぼす、特化した脳のネットワークを形成する。リテラシーはバイオロジーや心理を、その基盤をなす遺伝情報を変えることなく変化させる。(…)かくしてリテラシーは、遺伝的差異にまったく関係なく文化が人々のバイオロジーを変えうることの一例になる。文化は、私たちの知覚、動機づけ、人格、情動などのさまざまな心の側面と同様、脳、ホルモン、解剖学的構造も変えることができるのである(5頁)」。なお生物と心と社会の相互作用についてさらに知りたければ、わが訳書、『誰も正常ではない』や『眠りつづける少女たち』の訳者あとがきを参照されたい。ちなみに「序章」では、いきなりヴィッテンベルクからのプロテスタントの教義の拡散とリテラシーの度合いのあいだに相関関係があることが歴史的なデータを駆使して論じられているので、この段階では本書はプロテスタントがおもな記述の対象になっているのかと思わせてくれる。

 

さてここから本章に入るわけだけど、「第1部 社会と心理の進化」は、WEIRD社会とその心理の進化に焦点を絞る。WEIRD社会が個人主義的で分析的な思考様式を持ち(WEIRDの心理は56頁のテーブル1・1にまとめられているので、本を持っている人はそちらを参照されたい)、それに対して非WEIRD社会の多くが集団的で総体的な思考様式を持ち、社会関係に重きを置くことはよく知られているけど、前者が個人の行動の原因をその人の内面の性質に帰そうとするのに対し、後者が内面より行動やその結果に焦点を置くという指摘には留意しておきましょう(33〜4頁)。というのも、必ずしも他者に対する内面性の帰属ではないとしても内面性それ自体は、『マルクス・アウレリウス』で見たように、古代ローマ時代のアウグスティヌス(四〜五世紀)や限定的ではあれマルクス・アウレリウス(二世紀)にさえ見出せるから。とはいえ確かに内面性が徹底されるのはもっとあとの時代になってからで、それについてはこれも『マルクス・アウレリウス』のレビューに書いたように、中世において神や供儀などといった外的な力の枠内で行動し、ヘンリー2世と対立したカンタベリー大司教のベケットと、近世においてそのような枠を超えて自己の内面性に強く依拠してヘンリー8世と対立したトマス・モアを比較してみるとよくわかる。詳細を記すと長くなるので、ベケットについては映画『ベケット』に関するわがレビューを、またトマス・モアについては映画『わが命つきるとも』に関するわがレビューを参照されたい。ちなみにヘンリー8世とトマス・モアは、ルターとほぼ同時代人ですね。

 

では、WEIRD的な心理や制度の起源はいったい何に求められるのか? 一般に考えると、あるいはマックス・ウェーバーが資本主義の源泉をプロテスタントに見ていたことなどからすると、プロテスタントの誕生が最有力候補に思われる。また本書でも、先に述べたように「序章」ではプロテスタントが取り上げられている。だから本書はもしかしてア・ラ・ウェーバーな本なのかなと最初は思わせてくれる。補足しておくと、この本が刊行された2020年はウェーバー没後100周年で、日本でも新書ですらウェーバーを扱った本が3冊ほど刊行され、律儀な私めはそれらすべてを読んだ記憶がある。ところが予想に反して、プロテスタントに関する記述はこのあと四〇〇ページほどほとんど言及されることがない。

 

いずれにしても著者は、WEIRD的な心理や制度の起源について論じる前に、自分の専門領域である文化的進化について説明する。ここではそれについて詳細には説明しないが、文化制度(親族関係、婚姻、近親相姦のタブーなど)が脳の配線に影響を及ぼすあり方を三通りあげていることを紹介しましょう。一つは「心的能力に対する効果(facultative effect)」で、目下の状況を解釈しそれに対する自己の反応を調整するために脳が用いるきっかけを変えることで、その都度オンラインで作用する(83頁)」。二つ目は「文化的学習と直接的経験」で、次のように作用する。「私たちは、制度によって作り出されたインセンティブに適応するにあたり、進化によって得られた文化的学習の能力を動員して、動機づけ、{経験則/ヒューリスティクス}、メンタルモデル、注意のパターンを他者から学ぶ(83頁)」。三つ目は「発達への影響」で、次のように作用する。「脳の発達の多くは、思春期、子ども期、さらにはそれより早い時期を通じて起こるので、私たちの早期の生活経験を形成する社会的規範は、私たちの心理にとりわけ大きな影響を及ぼしうる。(…)私たちの早期の生活を形作ることで、文化的進化は脳、ホルモン、意思決定、さらには寿命さえ操作することができる(83頁)」。つまり制度は、瞬間的にも、学習を通じても、発達を通して中長期的にも脳の配線を始めとした生物学的機制に影響を及ぼしうるということ。

 

それから著者は、文化的進化と制度に関して次のように述べ要約している。

 

1.人間は文化的な動物である。私たちの脳や心は、他者の心や行動から情報を獲得、蓄積、組織化するべく特殊化している。文化的学習の能力は、私たちの心を直接的に再プログラムし、嗜好を調整し、知覚を変化させる。これから見ていくように、文化は私たちの生物学的機制に穴を掘り、脳やホルモンや行動を変化させるためのさまざまなトリックをあみ出してきた。

2.社会的規範は、文化的進化によって制度へと集約される。私たちは強力な規範学習者として、数々の恣意的な社会的規範を獲得する能力を備えている。とはいえ、獲得し内面化することがもっとも容易な規範は、私たちが持つ進化した心理機制の諸側面に深く分け入ってそれを活用することができる。(…)

3.制度は通常、そのもとで生活している人々にとって詮索可能なものではない――魚にとっての水のようなもの。文化的進化は一般に、意識の埒外でゆっくりと微細に進行するため、人々は、自分たちの制度がいかにして、またなぜ作用するかに関して、それどころか制度がいかなることでも「する」ことさえ、めったに理解していない。自分たちが持つ制度に関する人々の明示的な理論は、一般に後づけのものであり、しかも間違っていることが多い。(85〜6頁)

 

著者は次に、前近代的な親族関係に支配された社会や共同体({氏族社会/クラン}、{首長社会/チーフダム}など)の構造や特質について、人類学的な知見(ジュホアンシ、マチゲンガなど)を駆使して説明しているが、それについては省略する。では、親族関係に依拠する前近代的な氏族社会や首長社会から、いかにしてWEIRD社会が出現したのだろうか? それに先立って、社会がいかに{大規模化/スケールアップ}したのかがまず検討される。ダンバー数(150人)などからもわかるように、一つの共同体が無事に存続するには、その構成員の数が通常は限定される。つまり私めが言う中間粒度は、本来ならばせいぜい150人(この本では特に「ダンバー数」とは書かれておらず、数も300人とあったけど、いずれにせよ数百人である点に違いはない)から成るにすぎない。しかし、その程度の少人数だと、そもそも外敵から効率的に自集団を守れない。したがって何らかの方法で、このいわゆるダンバー数を突破する、言い換えると共同体をスケールアップする必要が生じる。だからスケールアップの契機としてグループ間競争が、また人々のあいだを結びつける接着剤として宗教が重要な役割を果たすことになる。次のようにある。「本書の考えでは、グループ間競争によって駆り立てられた文化的進化は、人間の行動に対する関与や、懲罰を課したり報酬を与えたりする能力を、徐々に神々に授けるようになっていった、超自然的な存在に関する信念の出現や流布を選好した(139頁)」。あるいは「とりわけ農耕が始まって以来、グループ間競争の圧力のもとで、文化的進化は、社会のスケールアップを促進し安定化させるよう、人々の超自然的な存在に対する信念や儀式を形作っていった。(…)前章で氏族や祖先神に見たように、社会がより緊密な親族関係に基づく制度を用いて、より大きく堅固な社会的単位を築き始めると、文化的進化は超自然的な存在に対する信念や儀式を真剣に役立てるようになった(139〜40頁)」。

 

その前後では、神や宗教の発達に関する記述が続いているけど、本書でも何度か言及されているブリティッシュコロンビア大学の同僚アラ・ノレンザヤンの業績を参照していると思われる。ちなみにノレンザヤンのBig Gods: How Religion Transformed Cooperation and ConflictPUP, 2013)は刊行直後に読んだけど、内容はすっかり忘れてもたのでそのうち本の山から掘り出してもう一度読み直す予定(誠信書房から『ビッグ・ゴッド――変容する宗教と協力・対立の心理学』として邦訳も出ているもよう)。とりわけ欺瞞や偽証などのインチキを決してしないと神さまの前で宣誓することは、商業の発達にも影響を及ぼし、よって社会のスケールアップにも寄与した(神さまが見ているぞってわけね)。著者は次のように結論づけて「第1部 社会と心理の進化」を締めくくっている。「宗教は、私たちの行動や心理を強力に形作る力が備わっているため、社会がスケールアップするにつれ高次の政治的、経済的な制度の形成に中心的な役割を果たしていった。宗教の力は、超自然的な存在に対する信念や儀式の実践を巧妙に形作って、社会的サークルを拡大し、社会内の調和を育み、外集団に対する競争的優位性を強化する、文化的進化のさまざまな様態に由来する。神の欲望、懲罰、自由意志、死後の生などに関する信念が心に及ぼす影響は、繰り返される儀式の実践と結びついて、衝動的に行動しようとする傾向や、他者を騙そうとする傾向を抑えるとともに、同じ宗教を信奉していながらも未知であるような人々に対する向社会性を強化した。集団のレベルにおいては、これらの心理的特異性は、犯罪率の低さや迅速な経済成長に結果した(151〜2頁)」。とはいえここまでは、社会のスケールアップにおいて宗教が中心的役割を果たしたことが述べられているだけで、なぜWEIRDな人々が誕生したのかに関する説明にはなっていない。そもそも世界中で何らかの宗教が信奉されているわけだしね。

 

その説明は次の「第2部 WEIRDな人々の起源」へと持ち込まれる。そこで満を持して登場するのがプロテスタントではなくカトリックというわけ。いきなり次のようにある。「WEIRDな家族の起源は、西ローマ帝国が崩壊する前から、カトリック教会が徐々に採用し、熱心に促進することでゆっくりと拡大してきた一連の原理、禁制、規定に見出すことができる。古代後期、また中世に入って数世紀にわたり、カトリックの婚姻や家族に関する施策は、より大きな文化的進化の一部をなしていた。そしてそのあいだ、カトリックの信念や実践は、ヨーロッパ人の心や魂を求めて、他の多くの神々、精霊、儀式、制度の形態と競い合っていた(159〜60頁)」。なお著者は「カトリックの婚姻や家族に関する施策」を「MFP(Marriage and Family Program)」と呼んでいる。カトリックは独自の施策を推進するにあたって、「他宗教のみならず、親族関係に基づく集約的な制度や部族的な忠誠心とも競い合った。カトリックの婚姻や家族に関する施策は、集約的な親族関係の基盤を掘り崩すことで氏族や家が課す責任や義務や恩恵から徐々に個人を解放し、カトリック教会や、のちには他の自発的な組織に献身するための機会とインセンティブの両方を作り出した(161頁)」。

 

まさにこの戦いにおいて、カトリックは圧倒的な勝利を収めることになる。その過程で教会がいかに裕福になっていったかが説明されているけど、このテーマはピーター・ブラウンの大著Through the Eye of a NeedlePUP, 2014)が扱っていた(このブラウンの大著は参考文献にあげられている)。ここで集中的な親族関係に基づく社会、つまり非WEIRD社会と、その紐帯が緩んで出現が可能になったWEIRD社会の特徴について、著者の言葉を用いてまとめておきましょう。まず前者の非WEIRD社会については次のようにある。「親族関係に基づいた制度の性質は、私たちが自分自身について考えるあり方、社会関係、動機づけ、情動に影響を及ぼす。濃密で相互依存的、かつ世代をわたって受け継がれていく社会的関係の網の目に個人を織り込むことで、集約的な親族規範は、人々の行動を巧妙かつ強力に統制する。親族規範は、個人や自集団の他のメンバーを互いに監視させ、全員が同調し合うように仕向ける。また若者に対する実質的な権威を年長者に与えることも多い。そのような社会環境を無事に渡っていくにあたっては、仲間との同調、伝統的な権威の尊重、恥の感覚、自己より集団(たとえば氏族)を優先することが有利になる(198頁)」。

 

またWEIRD社会については次のようにある。「それに対して社会関係の絆がまばらになったり弱くなったりすると、各個人は互恵的な関係を結ぶ必要が生まれる。見知らぬ人々と互恵的な関係を結ばなければならない場合も多い。それを達成するためには、各個人は独自の属性や性格を養い、卓越した業績をあげることで、自己を群衆から区別しなければならない。その種の個人を中心とした世界で成功を収めるには、独立心を高め、権威をあまり尊重せず、罪悪感を覚え、個人の業績に関心を持つことが有利になる(198頁)」。

 

次に著者は、以上二つのタイプの社会に属する人々が持つ特質や行動様式を、統計データを駆使しながら示しているけど、それについては細かくなるのでここでは取り上げない。とはいえ一点だけ指摘しておくと、対象がWEIRD社会かそうでないかによって、その社会に属する人々の特質や行動様式が異なるがゆえに、政策がうまくいったり逆に悲惨な結果を生んだりする場合があり、その点をわきまえておかないと現実的にはとんだ災難を生みかねない。我田引水気味になるけど、これはいつも私めが用いている言葉を使えば、「中間粒度」の構成がWEIRD社会と非WEIRD社会では大きく異なるからだと言えるかもしれない。ちなみに本書にはさまざまな国別グラフ(横軸は親族関係の強さで、縦軸はたとえば分析思考の度合いや献血の度合いなどといった人々の特質や行動様式)が掲載されているけど、日本が含まれているグラフに関して言うと、たいてい日本はWEIRD国と非WEIRD国の中間くらいの位置にプロットされている。これは日本の持つ特殊性の現れの一つなんだろうと思うけど、どのような歴史的経緯があってそうなのかはとっても興味深い。今後の課題にすることにしましょう。さらに著者は、カトリック教会が課す婚姻制度(一夫一婦制など)がいかにホルモン(テストステロンなど)に影響を及ぼして、生殖などに関する人間の行動様式を変えたかを論じる。

 

さて次は「第V部 新たな制度 新たな心理」だけど、長くなってきたからやや駆け足で説明することにする。第V部ではWEIRDな心理や制度がいかに確立されたかが論じられている。最初の第9章のタイトルは「商業と協力について」なので、いよいよここからア・ラ・ウェーバーなプロテスタントの話になるかと思いきやさにあらず、ここでもカトリックが登場する。次のようにある。「一一世紀のヨーロッパの都市は、表面上は中国やイスラム世界の都市のミニバージョンのように見えるかもしれないが、実際にはそれとは異なる文化的な心理機制や家族構造に起源を持ち、そこから生じた新たな形態の社会的、政治的な組織をなしていた。前二章で見てきたように、移住が容易で流動的に社会関係を結べる、より小さな家族は、心理的な個人主義、分析的思考、伝統に対する献身度の低さ、自己の社会的ネットワークを拡大しようとする欲求、社会関係において忠誠よりも平等を求めようとする動機を育んだ。かくしてそれらの都市は、より個人主義的な人々が、家族のネットワーク、親族としての義務、部族への忠誠に制約されることなく、新たな社会関係や独自の組織化の方法を築き始めることを可能にする舞台を作り出したのだ(308頁)」。まさに大規模な親族や部族の紐帯を断ち切って、そのような小回りの利いた機動性のある小家族という一つの新たな制度を生み出したのがカトリックで、そこから個人主義や分析的思考などの新たな心理が醸成されていったというわけ。代議政治(間接民主主義)の採用にさえ、当該地域が中世カトリック教会にどの程度暴露したかが影響しているということを示す、歴史的データに基づく主張はなかなかの驚き。というのも個人的には、ウェストファリア条約後の国民国家形成を待ってその影響で間接民主制は拡大したのではないかと思っていたから。

 

それから戦争や大地震などの災厄の影響が語られているけど、戦争が起こると内集団のメンバーに対してはより平等主義的になり、外集団に対してはより競争的になるという結果が実験で得られているというのはおもしろい。ちなみに戦争で荒廃した世界各地の住民に独裁者ゲームなどのゲームをやらせたらしい。ヘンリック自身が行なった実験ではないようだけど、「ようやるわ!」って感じ。このあたりの記述は、戦争、革命、国家崩壊、疫病が不平等や格差を是正する契機になると論じたウォルター・シャイデルのThe Great Leveler: Violence and the History of Inequality from the Stone Age to the Twenty-First CenturyPUP, 2017)[邦訳『暴力と不平等の人類史――戦争・革命・崩壊・疫病』(東洋経済新報社,2019年)]をなんとなく思い出した(ただしシャイデルは内集団、外集団の区別こそしていなかったと思う)。またその種の大災厄が起こると人々の心理に影響が及ぶのは当然としても、そのあり方には二通りあると述べる。次のようにある。「心理的に言って、戦争は相互依存ネットワークの絆や重要な社会的規範への献身を強化し、信仰心を深めるよう人々を仕向けることが多い。これらの心理的な変化は、たとえば人々の信用、従順さ、公共善(道路清掃、投票、収賄しないなど)への貢献を高めて国家レベルの制度を強化することで、社会のスケールアップを促すことができる。しかし戦争は、国内における民族的な、あるいは宗教的な諸集団のあいだにさまざまな亀裂を生じさせ、政府の能力を急激に悪化させる場合がある。戦争の衝撃を受けたときに社会的な進化がたどる道筋は、集団のアイデンティティ、既存の制度(氏族制か首長制か自律的な都市かなど)、もっとも尊重されている規範(氏族への忠誠か、{公共的/インパーソナル}な公正さかなど)、そしてとりわけ「誰が」どの陣営に属していると人々が見なしているかなどの細かな条件によって変わってくる(331頁)」。つまり戦争が過去への退行をもたらすか未来への前進をもたらすかは、その地域の条件次第だということになる。

 

ではヨーロッパは、どちらの道筋をたどったかと言うと、カトリック制度のおかげで、「戦争への暴露によって引き起こされた社会的、心理的変化は、より個人主義的で公共的な心理に適合するよう築かれた、新たな公的制度、法、政府の形成を促し(333頁)」、前者の道を取ることになった。また、(経済などにおける)非暴力的な形態のグループ間競争も、人々のあいだの信用や協調を促すのに一役買ったと論じる。第三部の残りは、市場、機械時計の普及、労働時間、遅延割引などといったありふれたトピックや、すでに述べたビッグファイブに関する話が続き、ビッグファイブの問題点の指摘以外には特に斬新な見解が提示されているようには思えないので、それらについては省略する。

 

「第W部 現代世界の誕生」に入ると、まず「分析的思考」「個人に対する内的性質の帰属」「独立と不服従」「公共的向社会性」という、WEIRDな心理の四つの側面があげられる。それらの心理的特徴をもとに普遍法や個人の権利などといった概念が形成されていくわけだけど、それに関する次の指摘は重要だと思う。「中世盛期における、とりわけカトリック教会や自由都市でのWEIRDな心理のゆっくりとした出現は、政府や法などといった、欧米の思想の基盤となる概念が、「よりとらえやすく」、次第に直観に強く訴えるものになっていったことを意味する。それとともに集約的な親族関係が瓦解し、部族への帰属が失われたことで、個人を律する法の実施や、効率的に機能する議会の発達が促された。この変化は、高邁な知識人や哲学者や神学者が「民主主義」「法の支配」「人権」を高らかに宣言することで起こったのではない。そうではなく、それらの考えは、――僧侶であれ、商人であれ、職人であれ――より個人主義的な心理を備えた庶民が、互いに競い合う自発的な諸団体を形成するにつれ、徐々に、そして一つずつ築かれていったのである(398頁)」。つまり「民主主義」や「人権」などの現在でも人々が口にすることの多い概念は、ヘンリックによれば、WEIRDの心理を備えるようになった庶民が、自分たちの生活を通じて草の根的に、そして段階的に生み出したものであり、それゆえWEIRDの心理や生活様式に深く根ざしたものであるということになる。だからヘンリックも指摘しているように、直観に訴えるものとして安定したのでしょうね。この考えは、先日取り上げたメルシエ&スペルベル著『The Enigma of Reason』で提起されている、「理性は直観に含まれ、それに依拠している」とする見方にも通じるものがあり、非常に興味深い。ならば歴史的に言っても「民主主義」や「主権」という概念は、現代人の考えとは違って思想やイデオロギーとは無縁なところで形成されたことになる。

 

さてこの「民主主義」の話が始まってようやく、「序章」以来ほぼ四〇〇頁ぶりにプロテスタントが再登場する。とはいえ興味深いことに、ここでもプロテスタントがWEIRDな心理や制度を生んだというのではなく、逆にカトリックによって地盤が固められたWEIRDな心理や制度をもとにプロテスタントが開花したという議論が展開されている。たとえば次のようにある。「プロテスタントが行なったこととは、宗教改革に至るまでにヨーロッパに浸透していた心理的な{複合体/コンプレックス}の神聖化であった。ここまで示してきたように、多くの集団は、――初期の形態ではあれ――プロテスタンティズムを構成する一六世紀の宗教運動の心理的核心をなしていた個人主義的な心理をすでに発達させていた。(…)プロテスタント信仰が急速に拡大した理由の一つは、宗教としての核心的な価値と世界の見方が、当時の人々の原WEIRD心理とかみ合っていたからだ。()つまり、ここまで本書で論じてきたプロセス――核家族や公共市場や競い合う自発的な団体の出現など――によって、ヨーロッパの心理的沃野が開拓され、そこに宗教改革の種が蒔かれたのだ(416頁)」。もちろん「序章」でも述べられていたように、プロテスタントがWEIRDな心理や制度を促進したことに間違いはないが、著者によればそれは「ブースターショット」だったとのこと。ブースターショットとは「最初の注射が効果を発揮するようにするために打つ追加注射」のことで、つまりプロテスタントは、カトリックによる最初の注射がより効果を発揮するよう打たれた追加注射だったというわけ。だからもちろん、プロテスタントはWEIRDの心理や制度とは関係がないとも言っていない(そんなことを言おうものなら世に大勢いるウェーバー学者にタコ殴りにされることは確実だろうね)。

 

ちなみにこのヘンリックの大著のように資本主義を始めとした現代の欧米の文化や制度の源泉を、ア・ラ・ウェーバー的にプロテスタントに求めるのではなくカトリックに求めようとする本は、最近になっていくつか見かけるようになった。たとえば商業に限定されるけど、ヨーロッパ経済史の専門家、玉木俊明氏の本がそうで『〈情報〉帝国の興亡』(講談社現代新書)には次のようにある。「本書との関係でほぼ確実にいえるのは、カトリックであれ、プロテスタントであれ、その商業活動が、ヨーロッパの経済成長に寄与したということである。やや詳しく述べるなら、情報の非対称性が少ない社会ができあがっていくことで、カトリックの商人であれ、プロテスタントの商人であれ、商業活動がしやすくなったという事実が大切なのである。実際、カトリック信徒の商人とプロテスタント信徒の商人が商取引をし、さらにはこの両者ともにユダヤ人商人と取引していた(異文化間交易)という事実を考慮に入れるなら、特定の宗派が経済成長に貢献したと主張すべきではなく、異なる宗派間の商取引が、どのようにして経済成長を生み出したのかが問われるべきだろう(同書49頁)」。タイトルに見て取れるように、この玉木氏の本は「情報」をテーマとしているので「情報の非対称性」という言葉が飛び出してくるわけだけど、ここにヘンリックの論理を導入すれば、カトリックが親族・氏族・部族の紐帯を断ち切るまでは、異文化間どころか異親族・氏族・部族間での情報の交換すらむずかしかったことがわかる。

 

玉木氏は続けて、「日本では現在もなお、プロテスタント、とくにスイスの宗教改革者カルヴァンの教義の影響でヨーロッパは経済成長したと思われているかもしれないが、今日のヨーロッパの歴史学界では、カトリックが信仰される地域でも大きな経済成長があったということが、ほぼ定説になっている(同書49頁)」と述べている。まあヘンリックなら、「カトリックが信仰される地域でも大きな経済成長があった」ではなく、「まさにカトリックが信仰される地域で、のちの大きな経済成長の種が蒔かれた」と言うだろうけど(もちろん種が蒔かれたときにはプロテスタントなど影も形もなかったことは確かとしても)。

 

もちろんヘンリックの大著にも、カトリックと情報に関する記述は見受けられる。代表的な例を一つだけあげておきましょう。次のようにある。「(…)カトリックによる集約的な親族関係の解体によって引き起こされた社会的、心理的な変化は、キリスト教世界に広範に分布するさまざまな心を結びつける、ますます拡大していく社会的ネットワークを介した情報の流れを切り開いた(467頁)」。そしてそれを導いた要因として、(1)徒弟制度、(2)都市化と公共市場、(3)超領域的な修道院制、(4)大学、(5)学問の世界、(6)知識科学(百科全書などの刊行物を含む)、(7)リテラシーや学校制度を促進するのみならず、勤勉さ、科学的な啓蒙、実践的な業績を神聖化した新たな信仰心の七つをあげている。情報の非対称性は、カトリックがもたらした以上の心理や制度によって徐々に解消されていったのでしょう。おそらく玉木氏も同意するのではないでしょうか?

 

あと2章ほど残っているけど、長くなってきたし、核心的な部分は出揃ったと思うのでそろそろまとめに入りましょう。本書は、世界的な観点からすれば外れ値とも言えるWEIRDな心理や制度を確立したのは(プロテスタントではなく)カトリックだと見ている。ではカトリックが何をしたかというと、著者がMFPと呼ぶ施策をもとに、既存の親族・氏族・部族関係に依拠する社会関係を断ち切った。かくして親族・氏族・部族関係のような郷党的で狭量な結びつきが断ち切られることで、家族の機動性が増し(都市への移住なども容易に可能になった)、さらには社会をスケールアップすることが可能になり、特定の人間関係への依存度の低い大規模な商業、法、民主主義などの諸制度の発展に至る道が開けた。そしてプロテスタントは、カトリックが築いた基盤をもとにこの傾向をさらに加速させた。

 

そのように総括すると、「なんだ! WEIRDは確かに外れ値だったとしても、結局いいことばっかりじゃん! だから非WEIRDたるわれわれもWEIRD諸国家に追随すればいいじゃん!」と思われるかもしれないので、つけ加えておくことにする。WEIRDな心理や制度から「民主主義」「法の支配」「人権」などの非常に有益な概念や制度が生まれたことは疑う余地がないとしても、それに匹敵するくらい多くの問題ももたらされてきた。本書で言及されているジェノサイド、征服、(植民地主義などによる)抑圧、奴隷制、環境破壊は言うまでもなく、それらのもとになっているイデオロギーも近代の欧米社会、すなわちWEIRD社会で生まれたものだと言える。それよりも何よりも、世界中の人々がWEIRD的な考えを共有すべきだとしてそれを世界中に押し付けようとすればあっちこっちで軋轢が生じる(同時多発テロはその現れの一つでしょうね)。

 

のみならずWEIRD社会内に限っても、WEIRD的なものの見方は問題を引き起こしている。先にあげた環境破壊は(WEIRD内に限られるわけではないとしても)その典型例だと言える。この本に限らず比較文化の本でよく取り上げられる実験の結果に、WEIRDの被験者は個物や個人に焦点を絞ってものごとを分析的に見ようとするのに対し、非WEIRDの被験者は個物や個人のあいだの関係に焦点を絞ってものごとを総体的に見ようとするというものがある。環境破壊はまさにWEIRD的なものの見方が引き起こしているように思える。現代は複雑な時代であって、たとえば環境問題をとらえても、気候変動、利用可能エネルギー、経済、安全保障、人々の生活レベルなどさまざまな事象の関係を考慮しつつ総体的に判断し最適解を求める必要がある。また条件が変われば当然最適解も変わるから、状況に応じて柔軟に対応していかなければならない。個別の諸事象にバラバラに焦点を絞って、おのおのの事象の最適解を求めるだけではダメだということ。WEIRD的な思考様式は、どうもその種の柔軟な思考が苦手なのではないかと思えてしまう。

 

もう一つ問題点をあげると、個人に内的性質を帰属させようとするWEIRD式のやり方は、WEIRD社会の内部でもときに問題を引き起こす。ここではステマを兼ねてわが訳書『眠りつづける少女たち』から引用してみましょう。集団心因性疾患を取り上げた「7 ル・ロイ[米北東部の町]の魔女たち」に次のようにある。「医療の世界では、集団心因性疾患は集団相互作用による障害と見なされ、したがって集団社会性疾患と呼ばれることもある。おそらくその名称のほうが適切であろう。要するに、真の精神疾患というより社会的現象と見なすべきものなのだ。ところが残念なことに、専門知識の乏しい人の手にかかると、集団心因性疾患はおおむね心理的な問題として扱われる。そして発病した個人に焦点が絞られ、コミュニティが果たしている重要な役割がほぼ完全に無視される。世間では、集団ヒステリーは時代遅れのステレオタイプ、すなわち若い女性の心理的トラウマに関する浅はかな仮説や{紋切り型/クリシェ}に非常に強く結びつけてとらえられているため、その描写はほとんどパロディーと化しているほどだ。ル・ロイの集団発生を題材とする、とあるフィクション作品では、少女たちの病が、最後にはひとりの少年をめぐる{諍/いさか}いのせいにされている。現実世界でも、ある新聞は、発病した若い女性を魔女呼ばわりする見出しの記事を掲載した(同書334〜5頁)」。ここではまさに、個人の内面的な性質に焦点が絞られ、背後にある社会関係が無視されて全体像が見失われている。だからこそ著者のオサリバンは、「欧米で暮らす私たちでも、病に反応し身体の変化を説明するために非欧米人が構築してきた文化的方法を調査し、それらが有効か否かを問うてみることで利益が得られる(同書97頁)」と主張しているのですね。WEIRDな人々には見えていない関係が、非WEIRDな人々には見えている場合があるということなのでしょう。

 

最後に一点つけ加えておくと、このヘンリックの大著は某社がすでに版権を取って翻訳に取り掛かっているそうなので、いずれ邦訳が出るはず。さすがに本文だけで五〇〇頁ある原書を読むのはきついという人は、ぜひ邦訳が刊行された暁には読んでみましょう。値段は張ると思うけど、買って損はないと請け合っておきます(あとで「つまんなかった。金返せ!」と私めに言われても困っちゃうけど)。

 

 

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※2023年5月27日