◎アントニオ・ダマシオ著『進化の意外な順序』
『進化の意外な順序』は、The Strange Order of Things: Life, Feeling, and the Making of Cultures(Pantheon Books, 2018)の全訳である。著者のアントニオ・ダマシオは著名な神経科学者で、南カリフォルニア大学で教鞭をとっている。邦訳にはすでに、『デカルトの誤り―情動、理性、人間の脳』田中三彦訳、筑摩書房、2010年)、『自己が心にやってくる―意識ある脳の構築』山形浩生訳、早川書房、2013年)など多数あり、脳科学に関心を持つ読者なら、実際に著書を読んだことがあるか否かは別として、その名をご存知のことだろう。とはいえ本書は、著者の専門領域である神経科学を大きく超えて、細胞生物学から脳科学を経て文化、社会に至るまできわめて広範なトピックを扱っており、著者がこれまで行なってきた研究の応用集大成ともいえるような内容になっている。大雑把にいえば、第1部では細胞生物学的なミクロの事象から神経系の誕生までが、第2部では高度な神経系の発達にともなって生じた心、感情、意識などの生物学的現象が、そして最後の第3部では文化や社会などのマクロの社会学的事象が取り上げられている。
本書の主題をひとことでいえば、「生物学的観点から見たとき、細菌のような単細胞生物から高度な文化を持つ人類に至る進化は、どのような作用、機能、メカニズムが、いかなる順序で出現することによって可能になったのか」を検討することにある。図式的に表わすと、この順序とはおおむね、ホメオスタシス(単細胞生物でも作用している)→全身体システム(多細胞生物の登場以後)→全身体システムの内分泌系、免疫系、循環系、神経系への分化→神経系によるイメージ(表象)形成能力の獲得→感情→主観性→意識→文化(言語を含む)になる。訳者の印象では、これらの概念のなかでもキーワードになるのは「ホメオスタシス」「身体」「感情」であるように思われる。神経系も重要な要素ではあるが、ソマティック・マーカー仮説で知られる著者は、神経系を特権的な地位に据えることはせず、神経系が既存の身体と連携することで感情、主観性、意識、文化の進化がもたらされたとしている。ちなみにこの順序は歴史的、継時的なものではあるが、同時におおむね構造的なものとしてもとらえられるだろう。したがってたとえば、ホメオスタシスは全身体システムの登場とともにそれに置き換えられたということではなく、現在の私たちの体内においても他のすべての作用の基盤をなしている。だからそれなくしては感情も意識も、それどころか生存に必要な身体の機能も失われる。つまりその人は死ぬだろう。次にこれら三つのキーワードについて簡単に説明しておこう。
まずホメオスタシスから説明すると、著者は、人類文化の登場に至る進化の過程の根源には「ホメオスタシス」が横たわっていると見なしており、この「ホメオスタシス」の概念が、本書全体を通じて一種の通奏低音として流れている。著者はこの用語を、従来の定義を超えて「何があっても生存し未来に向かおうとする、思考や意思を欠いた欲求を実現するために必要な、連携しながら作用するもろもろのプロセスの集合(p50)」という意味で用い、このプロセスは原初の細菌の細胞レベルですでに作用していると主張する。先にあげた進化の順序からもわかるとおり、ホメオスタシスがまず存在していなければ、以後の進化はなかったことになる。
身体(body proper)は、本書の定義では神経系を含まない。著者はこの神経系を除外した身体に、次に説明する感情の形成をめぐって独自の意義を与えている。それについて簡単に説明しておくと、著者は身体の領域を、@外界からの情報を収集する任務を担い、外界の様相の特定の側面をサンプリングし記述することに特化した器官である感覚プローブ(五感の入力を司る各器官)、A古い内界(心臓、肺、腸などの内臓、平滑筋、皮膚)、B古い内界を堅牢に包み込むより新しい内界(骨格、骨格筋)に分類したうえで次のように論じる。A、Bの内界に属するあらゆる事象の質が、ホメオスタシスの観点から評価され、その結果として健全と評価されれば快の感情が、また不健全と評価されれば不快の感情が自発的に生じる。明確には述べられていないが、体性感覚や内受容感覚がそれに該当するのだろう。それに対し@の感覚プローブから入力された刺激は、自発的な感情ではなく{喚起された/傍点}感情を生み、著者はこの作用を感情表出反応(emotive response)と呼んでいる。これは、一般にいう情動作用(それによって引き起こされた感情は情動的感情)に相当するものと考えられる。
感情については、著者自身の言葉を引用しておく。著者は以下のように述べる。「感情とはホメオスタシスの心的な表現であり、感情の庇護のもとで作用するホメオスタシスは、初期の生物を、身体と神経系の並外れた協調関係へと導く機能的な糸と見なすことができる。この協調関係は意識の出現をもたらし、かくして生まれた感じる心は、人間性のもっとも顕著な現われである文化や文明をもたらした。このように感情は本書の中心的なテーマをなすが、その力はホメオスタシスに由来するのである(p15)」。感情はホメオスタシスの心的な表現であると述べられている点に特に留意されたい。
本書は以上の枠組みに沿って、細菌から高度な文化を発達させた人類に至る進化の歴史を検討していく。ここまでの説明からも予想されるはずだが、本書は気軽に読めるたぐいの本ではない。そもそも英文そのものが読みやすいとはとてもいえず、また、生物学的な知見をベースにしているとはいえ、ときに観念的かつ晦渋な記述に陥る傾向が見られることは否定できない。訳者は翻訳の過程を含め七、八回本書を通読しているが、何度も読み直して初めて意味が理解できた箇所も少なくない。しかしだからといって本書は、観念的な思索に終始する、現実的、実践的な意義を欠いた本として過小評価されるべきではない。次にそれについて、AIと政治という互いにまったく異なる二つの分野の例をあげて検討しよう。それによって本書の実践面での射程の広さがわかるはずである。
私たちはよく、脳を論理的なアルゴリズムの実行に基づいて作動するコンピューターにたとえる。確かに私たち人間は、論理的に思考する能力を持つ。しかしだからといって、人間の思考の基盤をなす脳が、論理的なアルゴリズムに従って、いわゆるノイマン型コンピューターのごとく作動していると言い切れるわけではない。脳科学の知見からすれば、むしろそうではないように思われる。ではなぜ、それにもかかわらず私たちは脳をコンピューターにたとえたがるのか? 思うにその理由は、進化の過程のなかで最近になって出現したにすぎない思考能力を用い、かつその働きのあり方に参照しながら遡及的に脳の誕生という過去の事象を解釈しようとしているからではないだろうか。本書に結びつけていえば、進化の順序を正しく理解し、その知見に基づいて考察していないからではないかということだ。
たとえば著者は第11章で、いずれは人間の心をコンピューターにアップロードできるようになるとするトランスヒューマニストの主張を批判して次のように述べる。「この考えは、〈生命とは何か〉に関する理解の限界と、いかなる条件のもとで生身の人間が心的経験を構築しているのかをめぐる理解の欠如を露呈している。(……)本書の主たる考えの一つは〈心は脳だけではなく、脳と身体の相互作用から生じる〉というものだ。トランスヒューマニストは、身体までアップロードしようとしているのだろうか?(p247-8)」。ソマティック・マーカー仮説を提唱する著者の面目躍如といったところだが、トランスヒューマニストの主張の問題は、身体のみならず、人間の心が登場する以前に生じ、その前提条件をなすはずのホメオスタシス、身体、感情などの必須の要件をすべて無視して意識をアップロードできると主張しているところにある。トランスヒューマニストの見方は、まさに進化の順序を無視した極論だといえよう。
とはいえAI分野には、程度は別としてトランスヒューマニストのような考えを持つ人々もいれば、いわばリアリストとでも呼べるような人々もいる。個人的にAIに詳しいわけではないが、特に最近は、意図的であるかどうかは別として、本書に示される進化の順序に少なくとも逆行しないニューラルネットワークモデルに基づく仕組みが広範に用いられるようになってきたようにも思われる。昨今では機械翻訳がかなり精度を増したといわれるようになってきたが、その要因の一つはAIにおける基本的な考え方のシフトにあることがよく指摘される。最近読んだ本The Deep Learning Revolution(The MIT Press, 2018)をもとに、一例をあげよう。このシフトを可能にしている技術の一つに、ディープラーニングがあるが、計算論的神経科学の開拓者の一人である著者のテレンス・J・セイノウスキーは、「進化は私たちより賢い」という生化学者レスリー・オーゲルの言葉をとり上げ(つまり私たちは進化に学ぶべきであるということだろう)、AIでも、論理的に思考する一般的知性より学習が重要である点を強調する。本書の視点から言い換えると、AIは進化の最近の成果である一般的な知性(それには論理的な思考力も含まれる)を遡及的に適用して脳を論理的にシミュレートするより、進化が生んだ脳の学習メカニズムにできるだけ忠実に実装されるべきだという主張としてとらえられるだろう。それに関してセイノフスキーは以下のように述べているが、この見解は本書のダマシオの主張に非常に近いものがある。
私たちの脳は、ただじっと頭部に座して抽象的な思考を生み出しているのではない。脳は身体のあらゆる部位と密接に結合しており、また、その身体は感覚器官や運動器官を介して外界と密接に結びついている。つまり生物的知性は身体化(embodied)されているのだ。さらに重要なことに、私たちの脳は、外界と相互作用しながら長い成熟のプロセスを経て発達する。学習とは、発達に即したプロセスであり、成人になっても長く続けられる。したがって学習は、一般的な知性の発達に中心的な役割を果たす。(……)またAIでは無視されることの多い情動や共感も、知性の重要な側面をなす。情動とは、脳の局所的な状態によっては決定し得ない活動を行なえるよう脳に準備を促すグルーバルな信号なのである。
学習が一般的な知性の発達に中心的な役割を果たしているという主張に特に着目されたい。これは単に観念をもてあそんでいるのではなく、たとえば強化学習(reward learning)などのメカニズムを組み込むことで、進化が脳に組み込んだ学習メカニズムを具体的に実装する試みが最近のAIでは行なわれているらしい(詳細はセイノフスキーの著書や他のAI関連の本を参照されたい)。俗な言い方をすれば近年ではフルボッコにされることが多くなった行動主義心理学の巨頭の一人B・F・スキナーをとりあげて、認知を理解するにあたり強化学習に着目していた点で彼は正しい道を歩んでいたのだと指摘するセイノウスキーの見解には、良い意味で非常に考えさせられるところがあった。
また『進化の意外な順序』は、文化、政治、経済、社会、道徳のさまざまな側面で、感情が理性や論理的な思考に多大な影響を及ぼしている、あるいはそれらを動機づけているとする、近年支配的になりつつある見方の裏づけにもなるだろう。それに関してもっともよく知られている分野は行動経済学であろうが、訳者が翻訳を担当したという点では、本書でも言及されているジョナサン・ハイト著『社会はなぜ左と右にわかれるのか――対立を超えるための道徳心理学』(紀伊國屋書店,2014年)やポール・ブルーム著『反共感論――社会はいかに判断を誤るか』(白揚社,2018年)で提起されている考えもあげておきたい。ハイトは同書で「象(情動、直感、感情)」と「乗り手(理性)」のたとえを用いているが、このたとえは、理性が情動や感情の背にまたがって機能していることを示唆している。彼は次のように述べる。「数百万年前にヒトが言語と思考能力を発達させ始めたとき、脳は、既存の配線を変えて、新たに出現した未経験な〈乗り手〉に手綱を委ねたわけではない。むしろ〈象〉の役に立つからこそ、〈乗り手〉(言語に基づく思考)は進化したのだ」。ハイトは同書でダマシオの理論に何度か言及しており、生理学的な側面でダマシオの理論に強く依拠している。
ダマシオは「第12章 人間の本性の今」でリベラリズムの危機について述べているが、同様にハイトも理性と感情に対する独自の見方を応用して政治的な側面に触れ、なぜ現代において、保守主義がリベラリズムに対して優位に立てるのかを論じている(ちなみにこの本を手にとる読者にはリベラルが多いであろうと予想されるので付記しておくと、ハイトのこの問題の立て方は奇を衒ったものではなく、たとえば最近読んだ本ではリアリスト系政治学者ジョン・J・ミアシャイマーがThe Great Delusion: Liberal Dreams and International Realities(Yale University Press, 2018)で、なぜリベラリズムが国内政策ではナショナリズムに、外交政策ではリアリズムに屈せざるを得ないのかをハイトとは別の観点から論じていた)。それに関して『進化の意外な順序』に即しながら訳者なりの解釈を加えると(したがってダマシオやハイトが明示的にそう主張しているわけではないので留意されたい)、少し大げさに聞こえるかもしれないが、「リベラリズムが保守主義に勝つためには、進化の意外な順序を正しく把握し、それに即した戦略を立てなければならない。現実的な政治においては、進化の前段階で起こった他のすべての事象を軽視もしくは無視して特定の理想や理念に固執するなら、リベラリズムは負け続けざるを得ない。なぜなら政治の対象であり参加者でもある多くの人々、つまり意外な順序で生じた進化のプロセスを経て誕生した人類の一員たる一般国民は、良し悪しは別として、リベラリストが想定しているような理想や理念に従うことで自らの生を営んでいるわけではないからである」というようなところになろう。長くなってきたのでポール・ブルームについてはひとことだけ述べておく。彼のいう情動的共感が人々の思考や行動にきわめて強い影響を及ぼしてそれらを偏向させ得るのは、理性や思考能力が進化する以前に、その前提条件として感情が進化する必要があったからだと見なせる。なお、誤解のないようつけ加えておくと、ハイトもブルームもましてやダマシオも、だから理性より感情を優先すべきだと主張しているのではなく、理性と感情の関係を正しく把握したうえでその対策を講じるべきだと論じているのである。たとえばブルームは、情動的共感に関する問題のソリューションを提供するのはやはり理性であると結論づけている。
そろそろまとめに入ろう。本書は、確かに難解な部分が多く、十全に理解するには何度か読み直す必要があるだろう。しかし、上に例としてあげたAIや政治のみならず経済、倫理、教育、医療など他のさまざまな社会文化的側面にも応用できる長い射程を持っている。現代世界では、それらのすべての領域にわたって、大なり小なり問題が噴出している状況にあるが、その根本原因を考えるにあたり本書は一つのヒントを提示してくれるというのが訳者の見立てである。
(読書ツイート書庫メイン画面以外からアクセスしている場合、メイン画面を新規ウインドウで表示させることができます)