◎國分功一郎著『スピノザ』(岩波新書)

 

 

二年半くらい前に刊行された本で、やや古い。哲学者スピノザを扱った本としては、すでに吉田量彦氏の『スピノザ』(講談社現代新書)を取り上げたことがある。ちなみに吉田氏の業績には、この國分氏バージョンでも何回か言及されている。実のところ、スピノザの著書に関しては、主著の『エチカ』があのような幾何学本のような体裁なので、ヘタレブケダンの私めは、他の本を含めまったく読んだことがなかった。でも吉田氏の新書本を読んで、なかなか興味深い思想が展開されていることがわかって、久しぶりに今度は國分氏バージョンのスピノザ入門(入門と呼べるかはやや微妙だけどね)を読んでみることにしたというわけ。筑摩書房からも最近『スピノザ』というタイトルの選書本が出ていたので、どちらを買おうか迷ったけど、まず古いほうから買うことにした。選書本より新書本のほうが安いしね。ということで、筑摩書房の新書・選書本を扱う部署におられる編集者、加藤氏に「す、す、すんましぇん!」と謝罪しつつ、筑摩バージョンはそのうち買うことにした。

 

吉田氏の『スピノザ』を読んだとき、そこに書かれているスピノザの考えが、現代の認知科学や神経科学にも通じるものがあることに気づいて、それに関してジョセフ・ルドゥー著『存在の四次』の訳者あとがきの後半でそれについてチラと言及した。今回も同様、おもにその観点から國分氏の『スピノザ』を読んでみることにした。そのようなわけで、今回は、認知科学や神経科学にも通じそうな章をおもに取り上げることにしたので、やや強引な部分もなきにしもあらずだけど悪しからず。具体的に言えば、「第4章 人間の本質としての意識」と「第6章 意識は何をなしうるか」をメインに取り上げ、それ以外の章に関しては、簡単に言及するに留めるか、もしくはまるまるスキップすることにした。

 

ということでさっそく参りませふ。「第1章 読む人としての哲学者」は、デカルトとスピノザの考え方が比べられている。それについては以下のいくつかの箇所を引用するに留めておく。まず次のようにある。≪[デカルトの]「私は考える、故に私は存在する」の命題はこの要請に応えるものとして考案されている。だからこそ、それは証明する形をとっている。デカルトは自分に対して一つの真理を証明し、それによって懐疑に取り憑かれた自分を説得しようとしている。それに対し、[スピノザの]「私は考えつつ存在する」はどうだろうか。それは事実らしい何かを描写しているだけである。そこには、疑っている自分を、あるいは相手を説き伏せる力は見出せない。実際、スピノザは[『デカルトの哲学原理』の]本論の中で、各々の人は自分が考えながら存在していることを確実に知覚しているのであって、そのことは誰も疑いえないと述べている(第一部定理四備考)。これは言い換えれば、そのようなことを疑う人物はスピノザの議論の射程に入っていないということである。スピノザのこの態度は一貫している。『知性改善論』では何もかもをただ疑うためにだけ疑う「懐疑論者」が言及されているのだが、そこでは、「このような人間とは、学問について語ることができない」とすら述べられているからだ(第四八節)(44〜5頁)≫。このような人間とは≫と「と」が加えられているので、「そんなやつに学問ができるかああああ!」という意味であるより、「そんなやつと学問の話ができるかああああ!」って意味だろうと思われるが、いずれにせよ、スピノザさんは「デカルトさんは学問をしていないじゃん!」と考えていたってことになりそう。でもこれは、デカルトさんがどうこうは別として、非常に鋭い見方で、現代人の思考様式にもそのまま当てはまるように思える。というのも、現代人は、直観を軽視して、現代人が言うところの理性という思考能力を過大評価しているようなきらいがあるから。ちなみに現代人による理性の捉え方のおかしさについては、たとえば『身体と魂の思想史』(講談社選書メチエ)などを取り上げた際にも述べたのでそちらも参照されたい。

 

では、スピノザは「私の存在」をどのように捉えていたのかというと、それは次の四つの定理に見て取ることができる。≪定理一 我々は自分が存在することを知らない間はどんなものについても絶対に確実ではあり得ない。¶定理二 「私は存在する」ということはそれ自体で知られなければならない。¶定理三 「私は存在する」ということは、私が身体から成るものである限りにおいては第一に認識されることでもないし、またそれ自体で認識されることでもない。¶定理四 「私は存在する」ということは、我々が思惟するものである限りにおいてのみ第一に認識されることである(51〜2頁)≫。とりあえず、スピノザによる「私の存在」の定義を念頭に置いておきましょう。定理三と定理四から、「身体から成るものである限りにおいての」私と、「思惟するものである限りにおいての」私が異なり、後者の私である限りにおいて「私は存在する」ことが認識できるとスピノザは考えていたことになる。その意味については、以後の章でわかってくるはず。

 

ということで「第2章 準備の問題」に参りましょう。この章ではおもに『知性改善論』が取り上げられている。まずこの本の特徴が次のように述べられている。≪ここ[知性改善論]には認識が感情に対してもつ力に注目する『エチカ』の思想の萌芽が見出される。人間はしばしば意志を強くもつことで自らの感情を抑え付け、生き方を変えようとする(この考えを哲学的に洗練すれば、ストア派の哲学になる)。しかしそれはスピノザ自身が経験したように結局は失敗する。感情に働きかけることができるのは感情だけだからだ。スピノザが気づいたのは、認識もまたそのような感情を生み出しうるということである。認識には、感情に引きずられている状態にある人間をその受動性から脱出させる力がある(87頁)≫。これを読んでまず思ったのは、最後の6文目は、2+3+4文目と矛盾していないかということ。だって≪感情に引きずられている状態にある人間をその受動性から脱出させること≫は、感情に働きかけることの一つであるように思えるが(違うのかな?)、≪感情に働きかけることができるのは感情だけ≫なのであって、認識の働きではないのだからね。それに対して中間の5文目≪スピノザが気づいたのは、認識もまたそのような感情を生み出しうるということである≫は、2+3+4文目とも6文目とも矛盾しない。というのも、5文目は感情の構築について語っているのであって、すでに存在している感情に対する働きかけについて語っているのではないのだから。実はその5文目がとりわけ私めの目を引いたのですね。というのも、現代の認知科学者や神経科学者のなかには、感情(情動)の構築には認識(認知)が関与していると主張する、わが訳書で言えば『情動はこうしてつくられる』の著者リサ・フェルドマン・バレットや、前述の『存在の四次元』の著者ジョセフ・ルドゥーらもいるから。ただしもちろん、スピノザの言う認識や感情の概念が、バレットやルドゥーの言う認知や情動の概念とまったく同じであると見なすべき根拠は何もないことは言うまでもない。ちなみに≪スピノザ哲学において「知覚」の語は「「認識」と同義で使われている(175頁)≫らしく、さすがに現代科学においては知覚と認識がイコールであるとは見なされていないし、感情と情動の違いに至っては現代の学者のあいだでさえまちまちなので、「スピノザの見方はバレットやルドゥーの見方に似ているような印象を何となく受ける」と言いたかったにすぎない。

 

さて、次に真理とは何かに関して次のような実に興味深い指摘がある。≪スピノザが標識という第二の形象によって示したのは、認識の外側に真理の基準を設けることはできないということである。認識の外側とは、認識するのとは別に、認識した後で、という意味だ。つまり、認識するのとは別に、認識した後で、基準に照らしてその認識が真かどうかを確かめることはできない。認識が真であることは、認識することそのものの内部で、認識することと同時に確かめられねばならない。したがって、次のようになる。「真理であることが確かになるためには、真の観念を持つこと以外何ら他の標識を必要としない」(第三五節)。すなわち、真の観念の保証とは{真の観念を持つことそのもの/傍点}である(93頁)≫。冒頭にある≪標識という第二の形象≫が何なのかは、とりあえず無視しておくんなまし。重要なのはその後の記述だから。現代人は、ある人の認識(考え)が真であるためには、その認識の外側に何らかの客観的な基準が存在し、それに参照することでしか決定できないと考えたがる傾向がある。でも、それはほんとうに正しいのか? ≪真理であることが確かになるためには、真の観念を持つこと以外何ら他の標識を必要としない≫と主張するスピノザは、その問いに対して「ノー」と答えたというわけ。スピノザのこの主張は、最近の認知科学で言えば「直観」という概念がそれに近いのかもしれない。直観は、何らかの外部の基準に参照して真偽が決定されるわけではなく、直接的に与えられるものだからね。もちろん、これは直観が間違えることはないという意味ではない。ただ直観を生存・生活に関係することがらに関するものに限定するのであれば、正しい確率はかなり高いと言える。というのも、人間が進化的に獲得してきたものだから、生存や生活に関して間違った直観ばかり抱く個体は、通常は淘汰されるはずだからね(ここでは、長い進化の過程で獲得された能力が、現代社会では不適応なものと化しバックファイアーする可能性はとりあえず無視する)。なお、ここで言う「直観」とはあくまでも現代の認知科学的、神経科学的な意味での直観なのでスピノザの言う直観とまったく同じであるはずはないが、後者に関しては、第6章で言及されているので、その際に取り上げる。

 

新書本に戻ると、さらに次のようにある。≪いかなる知ならば確実であるのか、いかなる観念ならば真理と言えるのか、それをあらかじめ伝えることは絶対にできない。これが意味しているのは、{他者に伝達可能であり、他者と共有できる真理の基準は存在しない/傍点}ということだ。真理であること、確実であることを人間が知るのは、ただ、その人が自ら、真の認識、確実な観念を得た時だけである。(…)真理を公共的に共有することはできない。真理を公共的に示すこともできない。真理とは、自分でそれを獲得した時に、真理自身によってそれが真理であることを告げられる、そのようなものでしかありえない(94頁)≫。現代人がスピノザのこの主張を聞いたら、きっと「スピノザさん、あんた逆張りして受けを狙ってんの?」と思うのが普通だろうね。でも、私めはかなりの程度正しいだろうと思っている。ところで、スピノザ自身は真の観念は次のようにして得られると考えていたらしい。≪スピノザの方法は真の観念の獲得を指導したり、制御したりすることを目指している。そして、その方法は観念の獲得に先立って、観念の獲得とは別に存在するものであってはならない。そのようなことはいかにして可能であるか。スピノザはこう考えた。{然るべき出発点から、然るべき順序で/傍点}観念が導き出されていくならば、{観念を獲得していく行為それ自体が/傍点}、観念の獲得を指導し、制御していく、と。(97頁)≫。「行為」それ自体を、真の観念の獲得の必要条件と見なす考えは、きわめてダイナミック、すなわち動態的な捉え方で語の本来の意味で実践的(プラグマティック)と言え、客観的な基準に照らして真理を知るという静態的な見方とは大きく異なる点に留意されたい。

 

ただ、これだけではさすがに抽象的すぎてわかりにくいと思われるからか、著者は三平方の定理を具体例として取り上げながら次のように述べている。≪たとえば、三平方の定理のような数学の定理を証明する時のことを考えてみればよい。その証明が真であることは、何かに照らして真であるというより、その証明自体によって示されている。証明を終えた時、証明を行った本人にはそれが真であることが分かる。確かに三平方の定理自体は公共的に共有されうる。しかし、それが真であることは自ら証明してみないと分からない。そして証明してみれば分かる。真であることは公共的に共有されるものではなくて、各自によって経験されることだと言ってもよい。スピノザがイメージしている方法としての道もまた、それ自体で真であることの明らかな観念から別の諸々の観念が導き出され、それらの真であることが次々に理解されていく、そのような経験の連鎖である(98頁)≫。でも、最初の≪それ自体で真であることの明らかな観念≫がどうやって得られるのかはこの説明ではわからないが、どうやら少しあとの記述に≪「最高完全者の観念idea entis perfectissimi」を出発点とする(101頁)≫とあり、スピノザは≪{出来るだけ早く/傍点}こうした完全者の認識へ到達することに専念しなければならない(101頁)≫と考えていたのだそう。ちなみに、≪『知性改善論』における「最高完全者」(…)は、『エチカ』では端的に「神」と呼ばれる(101頁)≫とのこと。「ここで機械仕掛けの神さまの登場ですかあああ!」ってヤジりたくなるけど、スピノザの神の概念はかなり特殊で、それについては次の第3章で論じられている。

 

ということで次はその「第3章 総合的方法の完成」。前述のとおり、この第3章ではスピノザの「神」についておもに論じられている。なお、「神」は認知科学や神経科学などの科学とは対立する概念だと一般に考えられているわけだけど、のちの意識を扱う章でも「神」という用語が頻繁に登場するので、スピノザの「神」が何を意味しているのかをできるだけ明確にする必要があると思って、この章をスキップすることはしなかった。まず「神の本質」という節にある次の記述を引用しておきましょう。≪神が神であるのはその「本質essentia」ゆえのことである。¶では神の本質とは何か。スピノザはそれに対し、「その〔神の〕存在はその本質に他ならない」という答えを与えている(第一部定理一一備考)。また次のようにも言われる。「神の存在とその本質とは同一である」(第一部定理二〇)。(…)この定理は、神が存在しているという{事実そのものが/傍点}神の本質であると言っている。我々は本質というとその物の奥底にある何かを想像してしまう。しかし、神の本質は、神のうちに想定される〈もの〉ではなくて、神が存在しているという事実そのもの、無限に多くの属性からなる実体として存在しているという〈こと〉そのものである(146〜7頁)≫。≪実体として存在しているという〈こと〉そのもの≫として神の本質を捉えるというスピノザの見方は、これも静態的ではなく動態的な視点と言えるでしょうね。さらに続けて次のようにある。≪だから、神の本質をその能力と同一視する定理、「神の能力は神の本質そのものである」(第一部定理三四)を読む際にも注意が必要である。ここに言う「能力potentia」とは発揮されるべく神の中で待機している潜勢力のようなものではない。神の能力とは、神を貫く法則にしたがって神が作用している〈こと〉そのものである。『エチカ』においては神の存在と能力と本質が等しい。神が自然と同一視される根拠の一つもここにあるだろう。スピノザはどこかに存在しているはずの神の存在証明を行ったのではなくて、神が自然として{ここに存在していることを描写している/傍点}のである(147頁)≫。

 

また「神の自然科学的意義」と題する節にある次のような記述はどうだろう。≪外部からの影響が一切考えられないのだから、神は存在し、また作用するにあたって、自身の法則以外のものに左右されない(第一部定理一七)。有限である人間はたとえば他人からの影響で行為の仕方を変えることがあり得るが、神にはそれはあり得ない。したがって神が存在し、また作用する際の法則は不変である。そして無限なる神に外部がないのだから、この法則には例外がない(例外とは法則の外部である)。すべては神の法則、すなわち、{自然の法則/傍点}にしたがって起こる。だから自然の法則に背く奇跡など存在しない。¶「神」という言葉は現代人には宗教的な信仰を想起させるかもしれない。だが、スピノザの考える無限なる神という観念が、実のところ、実に自然科学的な発想を基礎にしていることが分かるだろう。「神」という語が使われているからといって、必ずしも宗教的な信仰に基づいているとは限らないのである(152〜3頁)≫。ならばもう、「神」ではなく「自然」でもよさそうだよね。まあスピノザを無神論者と見る人もいるようだし。確かにキリスト教の神のような人格神でないことだけは間違いない。

 

最後に「内在原因と表現の概念」と題する、第3章の最後の節を取り上げておきましょう。次のようにある。≪神は万物の原因であるとは言っても、それは「他動原因」ではありえず、「内在原因causa immanens」として理解されねばならないと述べている(第一部定理一八。…)。¶では内在原因とは何だろうか。(…)そこ[第一部定理三六証明]では神は万物の原因であり、その結果である個物すなわち様態は、その原因である神の力を{表現する/傍点}と言われていた。内在原因において捉えられた因果性の中では、原因は結果を引き起こすというより、{結果によってその力を表現する(156〜7頁)≫。そう言われてみれば、確かに≪スピノザの考える無限なる神という観念が、実のところ、実に自然科学的な発想を基礎にしている≫ことがよくわかる。たとえば自然科学的な概念である引力を取り上げてみても、いかにそれが二つの物体を引き寄せるのかは不問に付されているわけであり、≪結果を引き起こすというより、結果によってその力を表現≫していることの現れとして引力を捉えていると見なせるだろうからね。

 

次にこの選書本のなかでも、私めがもっとも注目した「第四章 人間の本質としての意識」を取り上げましょう。なぜ注目したかというと、章題にあるようにスピノザの意識の捉え方が扱われているから。最初に述べておくと、意識に関してはわが最新訳書ジョセフ・ルドゥー著『存在の四次元』でも扱われている。でもスピノザの意識の捉え方は、それよりもむしろ、神経科学者アントニオ・ダマシオの理論に近いように思えた。それについては後述する。まず人間の「精神」について次のようにある。≪人間精神とは身体の観念である。つまり、精神としての我々は、我々自身の身体の観念であるということになるわけだが、しかしこれは人間精神が身体を隅から隅まで正確に認識しているという意味ではない。実際、そんなことはありえない。人間精神がたとえば心電図モニターのように心臓の活動を記録した正確なデータを受け取っているわけではない。スピノザははっきりと述べている。人間精神は身体の観念であるが、「人間精神は人間身体を認識しない」(第二部定理一九備考)(173頁)≫。身体の観念であるが、身体を認識しないとはいったいどういうことか? この問いに対して著者は次のように答えている。≪『エチカ』において認識するとは、観念を獲得すること、観念を有することを意味している。だとすると、ここで問題になっているのは、観念{である/傍点}ことと、認識すること、すなわち観念を{有する/傍点}こととの違いである。スピノザは、〈我々がそれ{である/傍点}ところの観念〉(the idea that we are)と、〈我々が有する観念〉(the idea that we have)とを区別しているように思われる(…)。つまり、我々は精神として確かに観念であり、その観念の対象は身体であるが、しかし、そのことは我々がただちに身体についての観念を有していること、つまり身体を認識していることを意味しない(174頁)≫。まあここまでは、173頁の引用箇所を少しだけ詳しく説明しただけであるように思える。しかし、人間がいかにして身体を認識するのかに対する次の説明は非常に重要に思える。≪では、我々が身体の観念を有するに至るのは、すなわち身体を認識するのはいかにしてであるか。スピノザの答えは明確である。身体に生じる差異によってであるというのがその答えだ。腕が何かにぶつかれば腕に刺激がある。指が動くだけでも指の筋肉に刺激がある。そうした差異の経験が繰り返される中で、我々は自らの身体を次第に認識していく。スピノザはこれをおなじみの変状の概念によって説明する。「人間精神は身体が受ける変状の観念によって{のみ/傍点}人間身体を認識し、またそれの存在することを知る(第二部定理一九。…)。変状とは何かが刺激を受けて形態や性質を帯びることを言うのだった。つまり精神が身体について認識するのは、{身体に起こることだけ/傍点}である(174〜5頁)≫。

 

この見立ては現代の神経科学で言えば、内受容感覚、あるいはむしろ固有受容性感覚に近いようにも思える。行動によって外界に埋め込まれた自己の身体の状態、ひいては世界の状態が認識されるという見方は、やや牽強付会気味ではあるが、たとえば次のわが訳書になるはずのアンディ・クラーク著The Experience Machine: How Our Minds Predict and Shape Realityなどの脳科学書にも見られる。ちなみにクラークは、脳科学の比較的新しい概念である「脳の予測」を軸に論を組み立てているが、ここではそれを説明するのが目的ではないので「脳の予測」とは何かについては説明しない。興味があれば、ぜひ訳書が刊行された暁に、買って読んでね。一箇所だけ同書から引用しておきましょう。次のようにある。≪この例[近くの港で鳴いているカモメの姿を確認するために、首をひねって窓越しに外を見るという例]ではまず、「甲高い鳴き声をあげているカモメのほうへと頭を向ける」など、感覚的結果がきわめて抽象的なレベルで規定される。しかし予測処理が進むにつれ、抽象的なトップレベルの予測は一連の低レベルの予測を生み出す。重要な指摘をしておくと、それらの感覚的結果には、「固有受容性の」感覚情報と呼ばれるもの、すなわち空間内での身体の位置や向きや動きを反映する(筋肉、腱、関節、皮膚から到来する)身体シグナルによって伝達される情報も含まれる。もっとも低次の予測は、身体を動かす脊髄反射を動員する。したがって予測プロセスの全体は、抽象的な予測が、次第に具体性を増していく予測の連鎖を生んでいくことで、望みの結果を示すトップレベルの表象が、それを実現する身体の動きを引き起こすという順序になる。¶以上の説明で、(予測処理における)深層における知覚と行動の統合のあり方が、明らかになったのではないだろうか。世界と遭遇する際に、予測エラーを最小限に抑えるための同程度に効果的な方法が二つある。一つは、予測エラーを用いて世界の状況に関する最善の推測を発見することだ。だがもう一つは、それとは逆に行動することで外界を予測に合うよう作り変えることであり、感覚的証拠(知覚)にもっとも適合した予測を発見するのではなく、予測にもっとも整合する感覚的証拠を見つけたり作り出したりするのである。この方法は、行動に至る予測処理の道筋をなす。つまり行動とは、自分自身が発した固有受容性の感覚情報に関する予測を実現するための脳の手段にすぎないのだ(同書75〜6頁)≫。つまり既に得られている固有受容性感覚と、行動によって得られる固有受容性感覚の差異をもとに予測エラーを減らしていき、それによって当初の予測(目標)が達成されることになる。そしてその過程を通じて、スピノザの用語を借りれば「変状した」自己の身体が認識されることになる。

 

新書本に戻ると、「観念の観念」という節にさらに次のようにある。≪このことはしかしさらに説明されねばならない。精神は身体に生じる差異、すなわち変状によってのみ自らの身体を認識するのだとして、そのことは我々が導入した、〈我々がそれであるところの観念〉と〈我々が有する観念〉との区別からはどのように説明されるのであろうか。たとえば身体が飢餓の状態に置かれた時、それに対応する観念、飢餓状態にある身体の観念が精神の中に現れる。だが、これだけでは、〈我々がそれであるところの観念〉に差異がもたらされたに過ぎない。我々が自らの身体を認識したと言えるのは、飢餓状態にある身体の観念について、{さらに/傍点}観念が形成された時である。この時はじめて、飢餓状態にある身体の観念が、〈我々が有する観念〉として存在し始めたと言うことができる(175頁)≫。「観念の観念ですかあああ? なんかずいぶん都合がよくね?」と言いたくなるところだけど、≪「観念の観念idea ideae」はスピノザ哲学においてカギとなる概念(175〜6頁)≫なのだそうな。だから無視はできない。そこで神経科学から類似の概念を取り上げ、多少わかりやすくしてみましょう。≪自らの身体を認識する≫とは≪自らの身体を意識する≫ことでもあるのだろうから(あとで取り上げるように、実際に≪意識とは、{身体の変状の観念の観念/傍点}である(184頁)≫とある)、意識に関する神経科学の知見がここでは有用になると考えられるのですね。具体的に言うと、さすがに古風な「観念」という用語ではなく「心的表象(representation)」のような現代的な用語が使われるとしても、「観念の観念」のような概念は、現代の神経科学における、意識の高次理論にも見られる。この、意識の高次理論については、『存在の四次元』で、リンゴを意識的に見る経験を取り上げて次のように説明されている。≪「高次理論(Higher-order theory, HOT)」は、次のように考える。視覚的な意識に感覚処理は必要だが、それだけでは十分でない。外界に関する主観的な視覚経験は、視覚皮質で形成された表象が、さらにPFC[前頭前皮質]で認知的に処理されると生じる。この追加の処理は、認知的な再表象、あるいは再記述と呼ばれることが多い。HOTでは、外界のできごとに関する意識的な経験には、この再表象/再記述が必須だとされている(同書240頁)≫。ここではリンゴを見る経験が具体例として取り上げられているために、視覚という外受容感覚が対象になっているけど、内受容感覚や固有受容性感覚に関してもおそらくほぼ同じことが当てはまるはず。再表象とは英語で言えば「re-representation」であり、要するにスピノザの言う「観念の観念」と同様、「表象の表象」を意味する。

 

ここで、「え? でも観念の観念だろうが何だろうが、スピノザはそもそも≪「人間精神は人間身体を認識しない」(第二部定理一九備考)≫と主張したのではなかったのか?」と訝る、鋭い、というか意地の悪い人がいるかもしれない。実は、それに対する回答が「身体についての非十全な観念(176〜8頁)」という節を通じて述べられている。ただしすでに十分に錯綜した議論がさらにややこしくなるので端折って言うと、人間精神は人間身体を妥当で十全なものとして認識することはできないということらしい。だから「観念の観念」として捉えられた自己の身体も、妥当で十全なものではないということなのでしょう(違うかな?)。

 

次にスピノザによる自由意志の否定について論じられているけど、それは飛ばしてスピノザの「意識」の概念について論じられている箇所を取り上げる。次のようにある。≪意欲や衝動や行動をその対象としている以上、意識とは、{身体の変状の観念の観念/傍点}である。先の区別に従うなら、それは〈我々がそれであるところの観念〉から区別された〈我々が有する観念〉である。それが意志として現れ、行為についての一元的決定のイメージを作り出す(184頁)≫。さらには、必然的に目的論的にものごとを捉えようとする意識の転倒したメカニズムに関するスピノザの見方が次のように述べられる。≪スピノザは目的原因という概念の根幹にある原因と結果の取り違えを説明して、「目的に関するこの説は自然を全く転倒する」と述べている(第一部付録)。意識こそはこの転倒の担い手である。意識は原因の代わりに目的を置き、因果性を目的性へと変換し、原因と結果を転倒する。人間は万事を目的のために行っていると信じ、「この結果として、彼らはできあがったものごとについて常に目的原因のみを知ろうとつとめ、これを聞けばそれで満足する」(186〜7頁)≫。ということは、意識を獲得した人間は必然的に目的論者になり、よって全く転倒した形態で自然を捉えるしかなくなるということになりそう。

 

ならば、意識を持つことにはデメリットしかないということなのか? そんなことはないでしょうね。進化科学的に考えても、意識にデメリットしかないのならそんな形質が進化の過程で獲得されるはずはないのだから。この問題について、著者は次のように述べている。≪確かに意識は原因について知らない。だが、それは意識が無知という単なる空虚であることを意味するのだろうか。¶もちろんそうではない。意識は何も知らないわけでも、何も知りえないわけでもない。言うまでもなく、意識は目的を知っているのである。つまり、意識は空虚ではない。確かに意識のもたらす転倒は人間精神に課された強い制約である。だが、この制約は意識の性格を否定的に限定するだけではない(原因を知ら{ない/傍点})。これを積極的に説明するものでもある(目的を{知っている/傍点})。意識にとって、知るとは、目的を知ること、目的を通じて知ることだ。意識は目的を通じて、我々を取り巻く現実を、そして我々自身を知る(…)。¶ならば、意識は確かに転倒のメカニズムを免れ得ないけれども、むしろこのメカニズムがもたらす目的によって、我々を{我々に独自の仕方で/傍点}諸々の事物へと結びつけていると考えることができる。我々は意識をもつ存在である限りにおいて、{意識をもたない存在とは異なる仕方で/傍点}この現実と結びついている(188〜9頁)≫。要するに、それが欠点であるのか否かにかかわらず、それこそが意識ある人間の存在様式だということなのでしょう。ところで、≪意識は目的を通じて、我々を取り巻く現実を、そして我々自身を知る≫というくだりは、先にあげた現代の神経科学における予測理論の考え、すなわち既に得られている感覚と、行動によって得られる感覚の差異をもとに予測エラーを減らしていき、それによって当初の予測(目標)が達成されるという考えにも整合する。ただし当初の予測から派生した細かな予測は、必ずしも意識的に作用するわけではないとしても。

 

次に認識の三区分と呼ばれるスピノザの認識論が紹介される。まずは第一種認識から。次のようにある。≪最初の区分、第一種と呼ばれる認識は「意見opinio」や「表象imaginatio」とも呼ばれている。スピノザはこれを、感覚を通して得られる知識と諸々の記号から得られる知識の二つの様式において説明している(第二部定理四〇備考二)。感覚を通して得られる知識とは、ここまでの用語で言い換えれば、身体の変状の観念の観念のことである。身体の変状の観念の観念とは意識のことであるから、ここでは{意識の特徴が第一種認識として描き出されている/傍点}ことになる。(…)説明にあたって参照される第二部定理二九系では、人間精神がその初期状態において、自分自身、自分の身体、外部の物体のいずれについても混乱・毀損した認識を有していることが確認されている(190頁)≫。吉田量彦氏の『スピノザ』では、この第一種認識は「想像の知」に該当する。≪スピノザは第一種認識について、これは虚偽の唯一の原因であると指摘している(191頁)≫とあり、吉田氏も「想像の知」に関して同じことを指摘していたしね。なお、引用文中にある≪記号から得られる知識≫とは、≪主として言語による認識を指している(190頁)≫のだそうな。

 

お次は第二種認識。それに関して次のようにある。≪第一種認識においては主として誤謬が論じられていた。それに対して第二種認識は十全な観念を受け持つ認識である。第一種認識は自らの身体の変状の観念を基礎としていた。第二種認識は「共通概念notiones communes」と呼ばれる、複数の物に適用可能な概念を基礎としている。共通概念はある対象について妥当する法則のことである。第一種認識は感覚ないしは表象と言われていたが、第二種認識は「理性ratio」と呼ばれている。理性は一般に推論を行う。共通概念という法則は理性の行う推論の根拠である。ある物がある共通概念の対象であるならば、その共通概念に基づいて、一定の帰結がその物について推論されるのである(192〜3頁)≫。吉田量彦氏の用語で言えば、第二種認識は明らかに「理性の知」に該当する。第二種認識に関して、さらに次のように述べられている。≪共通概念は人間身体にも適用されうる(第二部定理三九)。それは自らの身体の変状が、他の身体ともつ共通性の法則のことである。確かに、身体の変状の観念それ自体は混乱したものであることを余儀なくされているのだった。私が私の身体の変状について明晰な観念を形成することは困難である。だが、だとしても、たとえば人間の身体がある感情に対してどのような変状をもたらすかという一般的な法則を知ることはできる。[『エチカ』の]第三部以降で語られる感情論はそのような一般法則、理性に基づく共通概念をいくつも提供している(193〜4頁)≫。

 

≪私が私の身体の変状について明晰な観念を形成することは困難である≫ことが、第二種認識に及ぼす影響についてはもっとあとの第6章で詳しく述べられている。そこに次のようにある。≪自然の中に存在している観念に直接にアクセスしているといっても、我々は身体をもった存在である以上、どんな認識行為も身体の変状を伴わざるを得ないのではないだろうか。その通りである。いかなる理性的認識を受け取る際にも身体は変状せざるを得ない。たとえば言葉を通じてそれを受け取るならば、我々の身体は言葉によって必ず変状を起こす。また理性的認識そのものも、身体に変状という結果をもたらす。(…)だとすれば、理性的認識もまた身体の変状と切っても切り離せず、実際には{身体の変状という不純さを伴わないわけにはいかない/傍点}のだが、{にもかかわらず/傍点}、この認識それ自体には{特別な存在論的な地位が与えられているのだ/傍点}と考えねばならない。すなわち、意識から独立しているという地位のことである(305〜6頁)≫。つまり、スピノザは第二種認識、すなわち理性の知を意識とは独立したものと考えていたことになる。これは「理性は意識のもとで働く」と考えがちな現代人には意外に思えるでしょうね。その現代人の思い込みに対して、スピノザは≪『エチカ』において理性と呼ばれているものは{意識ではない/傍点}。なぜならば、身体の変状を基礎とする意識とは異なり、理性は共通概念と呼ばれる概念を基礎としているからである(303頁)≫と考えていた。あるいは理性というより認知という意味で言えば(理性と認知の関係をどう捉えるべきかはむずかしそうな問題だけど、認知能力なくして理性を働かせることはできないとだけは言えそうに思える)、ジョセフ・ルドゥーは、認知的次元と意識的次元を分け、前者に属するプロセスは後者なしでも作用しうると論じている。

 

ということで、次は私めがもっとも重視する第三種認識、吉田量彦氏の言う「直観の知」だけど、著者の國分氏は、第三種認識に関して、ここでは読者におあずけをして、この第4章ではなく、「第5章 契約の新しい概念」の次に来る「第6章 意識は何をなしうるか」で検討している。そのうちの第5章はここでの個人的な関心の対象外だったのでスキップする。ただし第6章に入る前に、先の引用で言及されていたスピノザの感情論に触れられている第4章の最後の部分は見ておきましょう。最初に次のようにある。まず、感情とは何か。感情とは身体の変状であり、また{同時に/傍点}その観念である(第三部定義三)。「同時に」と言われるのは、心身の関係が並行論において捉えられているから、より正確に言えば、「精神と身体とは同一物であってそれが時には思惟の属性のもとで、時には延長の属性のもので考えられる」にすぎないからである(第三部定理二備考)。たとえば怒りという感情は精神の中の怒りの観念としても、身体上の反応としても考えることができるが、それらは同一物が異なる秩序において、異なる質として表現されていると考えられるわけである(197頁)≫。引用文中の≪感情とは身体の変状であり、また{同時に/傍点}その観念である)≫という記述と、《意識とは、{身体の変状の観念の観念/傍点}である(184頁)≫という記述を組み合わせると「意識とは感情の観念である」という新たな記述を導き出せる。実のところこれは現代の神経科学で言えば、アントニオ・ダマシオが提起する意識の概念にかなり近い。ダマシオは、ホメオスタティックな内受容感覚(homeostatic interoceptive feelings)から意識が生じると考えているのだから。もちろんすでに述べたようにスピノザの感情と、現代科学で言うところの「feelings」がまったく同じであるという保証はどこにもないが、それでも一般に認知能力なくして意識は生じ得ない、あるいはその逆に意識なくして認知作用はあり得ないと考えられているような現代においては、ダマシオの見方は、近現代的な意識の概念よりも、この古いスピノザの見方にむしろ近いと言えるのかもしれない。おもしろいことにダマシオは、意識が依拠している感覚が、ミエリン鞘によって包まれていない神経、つまり進化的に古い神経によって生み出されると考えている。だから人間以外の生物にも意識があると考えている。その点で、ダマシオとスピノザは共通する(スピノザも、人間以外の生物にも意識があると考えていたことが、この新書本のどこかに書かれていたように覚えているけど、付箋を貼らなかったので何頁だったか忘れてもた)。

 

次にスピノザのよく知られた概念「コナトゥス」が取り上げられている。それに関して次のように述べられている。≪コナトゥスとはその個体が自らの存在に固執しようとする傾向性である。「おのおのの物が自己の有〔存在〕に固執しようと務める{努力/コナトゥス}はその物の現実的{本質/傍点}にほかならない」(…)。¶我々一人一人、そしてあらゆる個体は、自らの存在を維持しようとする力に貫かれていることになる。「おのおのの物は自己の及ぶかぎり自己の有に固執するように努める」(第三部定理六)。生物に限定して言えば、現代生理学で言う{恒常性/ホメオスタシス}の原理に近いものとして理解してもそれほど不正確ではなかろう(198〜9頁)≫。先に述べたようにアントニオ・ダマシオは意識の生成、維持に関してホメオスタシスを重視している点を強調しておきたい。ところで拙訳によるアントニオ・ダマシオ著『進化の意外な秩序』の文字通り「第3章 ホメオスタシス」に、ホメオスタシスに関して次のような興味深い記述がある。≪通俗的なホメオスタシスの概念は、「平衡」「バランス」という考えを思い起こさせる(…)。しかし生命を対象にする場合、「平衡」という概念はふさわしくない。なぜなら、熱力学的にいえば、「平衡」とは熱的な差異がないこと、言い換えると死を意味するからだ(…)。また「バランス」も、ふさわしいとはいえない。沈滞や倦怠を思い起こさせるからだ。私はこれまで長く、「〈ホメオスタシス〉とは、中立的な状態を指すのではなく、生命作用が健康や幸福に向けて上向き調節されるかのように感じられることである」と述べてきた。幸福の感情が基盤にあれば、力強い未来像が描けるということだ(同書66〜7頁)≫。≪生命作用が健康や幸福に向けて上向き調節されるかのように感じられること≫とは、スピノザの言う、≪自らの存在に固執しようとする傾向性≫たるコナトゥスによって可能になるとは考えられないだろうか? また熱的な差異がないことを意味する「平衡」の概念はホメオスタシスにふさわしくないとするダマシオの主張は、≪精神は身体に生じる差異、すなわち変状によってのみ自らの身体を認識する≫というスピノザの主張に通じるものがある。

 

新書本に戻ると、コナトゥスに関連してさらに次のようにある。≪あらゆる個物の本質はコナトゥスとして捉えられる。たとえば一頭の馬はその馬なりのコナトゥスをもつ。一個の石ですら、その形であり続けようとするコナトゥスをもっている。もちろん人間も一人一人がコナトゥスをもっている。そして、コナトゥスがあるからこそ、その人間は存在し続けている。より正確に言えば、その人間が存在しているということそのものがコナトゥスの表現であり、それがその人間の本質なのである。¶ただしスピノザは、人間のコナトゥスを考えるにあたっては、もう一つ、考慮しなければならない点があることを指摘する。人間精神が自己のコナトゥスを{意識している/傍点}という点である。「精神は明瞭判然たる観念を有する限りにおいても、混乱した観念を有する限りにおいても、ある無限定な持続の間、自己の有に固執しようと努め〔conatur〕、かつこの自己の努力〔conatus〕を意識している」(第三部定理九)(203〜4頁)≫。またスピノザは≪人間の精神と身体を実際に動かす力として捉えられたコナトゥス(204頁)≫を「衝動」と、「意識を伴った衝動」を「欲望」と呼んでいるとのこと。

 

第4章はこの後も細かい記述がしばらく続くけど、個人的な興味は第三種認識、すなわち吉田量彦氏の言う「直観の知」にあり、早くそちらに移りたいので第4章はこれでおしまいにする。また、前述の通り「第5章 契約の新しい概念」はまるまるスキップする。ということで「第6章 意識は何をなしうるのか」に参りましょう。ただこの章も、最初のほうでは善悪や良心に関するスピノザの考えが検討されており、私めが興味のある第三種認識、つまり直観とはあまり関係なさそうなのでここではそれらについては取り上げない。

 

まず第6章で第三種認識とは何かが語られている最初の箇所を引用しましょう。次のようにある。≪第一種認識としての意識、すなわち初期状態にある意識は身体の変状がもたらす結果を受け取っているだけの状態にある。自らの身体の内部に留まっていて、その外部にある一般法則についての認識に自らを届かせられていないという意味で、この意識は、極めて受動性が高い状態にあり、いわば静止している。それに対し第三種認識としての意識は、自らの身体のもたらす変状の観念を、「自己・神および物」に関係づける。第三種認識としての意識は、身体の変状をただ受け取る静止した状態にあるのではなくて、四つの対象[身体、精神、神、物]の間を経めぐるようにして運動している。ここに大きな違いがある。¶つまりこうだ。身体が何らかの変状を起こした時、意識は、その変状に適用できる一般法則を知っているならば、法則を手がかりとしながら、その変状が自らの身体および精神のいかなる特性と結びついているのかを認識し、この変状という結果を原因において捉え直すことができる。その際に意識は、当然、自らに関係する物――なお、「物res」は、物体的な事物だけでなく、非物体的な出来事をも意味する――へと、また、やがては、無限なる全体としての神へと向かい、これらとの因果関係を「永遠の必然性」において把握することになる。人間の意識はどんな場合もまずは第一種認識から始まる。{たとえ第三種認識を既に経験したことのある人物でも/傍点}、かならずそこから始まる。だが人間の意識は、第一種認識から始まりつつも、変状という結果をもたらした原因について観念を形成することができる。それは感情のあり方に影響を及ぼす(327〜8頁)≫。やや強引に言えば、≪第三種認識としての意識は、(…)四つの対象[身体、精神、神、物]を経めぐるようにして運動している≫というくだりは、「精神」を「心」、「物」を「環境」と置き換えれば、現代の認知科学や神経科学で言うところの「身体と心と環境の循環ループ」の概念を思い起こさせる。

 

さらに第三種認識によって能動性がもたらされることが次のように指摘される。≪ここ[『エチカ』第五部の前半]で明確にされるのは、能動性をもたらすのも第三種認識だということである。(…)これはつまり、{能動性もまた一つの結果である/傍点}こと、第三種認識によってもたらされる結果であることを意味している。確かに能動性を目指すことはできよう。だが、重要なのは第三種認識としての意識に到達することなのである。自らの身体と精神と物と神をよく意識している時、人は結果として能動的になる(329〜30頁)≫。能動性に関しては吉田量彦氏の『スピノザ』にも次のようにあった。≪そしてこの「知[直観の知、すなわち第三種認識]」は、神である実体についての十全な観念にストレートに根拠づけられていますから、理性の知とは別系列でありながらも、やはり十全であり「必然的に正しい」知なのです。十全な知である以上、この知をふまえつつ当のものごとや感情と向き合うなら、その時そこには、ある種の能動性が生まれるはずです(同書334〜5頁)≫。さてここで、ならば第二種認識、つまり「理性の知」は、この第三種認識、つまり「直観の知」とどう関係するのかが疑問に思えるのではないだろうか。それに対する答えが次のようにある。≪我々はいま、常に第一種認識を出発点とする運動の過程としての第三種認識という像を描いてみせたが、いかなる手助けもなければ、第一種認識のもとにある意識がこのような運動に身を乗り出すことは難しいと言わねばならない。因果関係についての知である第二種認識こそ、その手助けを担うものである。第二種認識の形成する概念――なお、ここで「概念」の語は、身体に根ざす「観念」と対比的に用いられている――は、意識が先に描いた運動に乗り出すに当たっての手助けをする(335頁)≫。

 

ところで、ここまで第三種認識は吉田氏の『スピノザ』における「直観の知」に該当するとしてきたが、実際のところスピノザは直観についてどう考えていたのか? それに関してまさしく「直観」と題する節に次のようにある。≪第三種認識は確かに個物の認識を産出するが、そこで産出される観念を言葉で言い尽くすことはできない。第三種認識に付された「直観」という形容はそのことを言っているように思われる。実のところ『エチカ』は直観を正面からは定義していない。だが、この語の伝統的用法を参照しながら言えるのは、それが推論から区別されるものだということである。共通概念、理性的な認識は言葉で箇条書きにすることができるのであり、それを組み合わせて推論を行うことができる。それに対し直観は、神という万物の原因のもとで個物が把握されて形成される観念であって、その対象のリアリティそのものである。¶リアリティそのものといっても、純粋に理念的な理性的認識の不可能性を指摘した際にも述べた通り、そこには何らかの不純さを伴っているに違いない。我々は有限な身体を持っているからである。第三種認識は第一種認識を出発点とする一つの過程なのだから、身体に根ざした欠損や瑕疵が完全に取り除かれることはないだろう。¶また、第三種認識が過程であるということは、直観がある程度の時間をもって形成されることをも意味しているだろう。直観を瞬間と結びつけるのはロマン主義に特有の考え方であるが、スピノザの言う第三種認識をそこから解釈することはできない。直観知は、私の身体に根ざした私の意識が諸対象を経めぐる過程において現れるのであり、また経めぐっている限りにおいて存在するものである(342〜3頁)

 

ここではとりわけ最後の三段落目に注目したい(¶が段落替えを意味する)。というのも、ここに提示されている考えは、最近の認知科学や神経科学の知見とも整合するから。たとえば≪直観がある程度の時間をもって形成される≫というくだりは、「直観も脳内の神経によって物理的に処理されるのだから時間がかかるのは当然だべ!」という身もふたもないことは言わないとしても、次のような科学的知見によっても支持される。認知科学者のヒューゴ・メルシエとダン・スペルベルの共著The Enigma of Reasonの冒頭に次のようにある。≪思考に関する最近の考えの多く(たとえばダニエル・カーネマンのよく知られた『ファスト&スロー――あなたの意思はどのように決まるか?』)は直観と合理的思考が、あたかも互いにまったく異なる形態の推論であるかのごとく対立するものとして論じられている。われわれは、それとは異なり、合理的思考はそれ自体、一種の直観的な推論であると主張したい(同書7頁)≫。この記述は、直観が推論(すなわち時間のなかで展開されるアルゴリズミックなプロセス)の一形式であることを示唆している。あるいはジョセフ・ルドゥー著『存在の四次元』では、直観は神経生物的次元と認知的次元の両方に属するとされている。ここでは詳細は述べないが、認知的次元は複雑な神経メカニズムを介して処理されているのであり、その意味で直観は、たとえ意識にはのぼらなかったとしても時間のなかで展開されるアルゴリズミックなプロセスとして見ることができる。また、≪直観知は、私の身体に根ざした私の意識が諸対象を経めぐる過程において現れる≫というくだりは、ヒューゴ・メルシエ著『人は簡単には騙されない』の次のような記述を思い出させる。≪反省的な信念は推論メカニズムや行動を志向するメカニズムの一部と相互作用するにすぎない。ほとんど特定の心の部位に包摂され、直観的信念のように心の中を自由に徘徊することができない。さもなければ反省的信念は無数の災厄をもたらすだろう(同書二三三頁)≫。冒頭の「反省的な信念」という用語は、第一種認識、すなわち吉田量彦氏の言う「想像の知」に該当すると捉えればよいと思う。「直観的信念は心の中を自由に徘徊することができる」というのは、この新書本で言えば≪諸対象を経めぐる過程≫、より詳しく言えば≪第三種認識としての意識は、(…)四つの対象[身体、精神、神、物]を経めぐるようにして運動している≫という記述に近いと言えよう。

 

ということで、ポピュラーサイエンス翻訳者という立場から、おもに現代の認知科学や神経科学と関連しそうな箇所を取り上げたので、かなり牽強付会、我田引水なところがあっただろうし、自由、自由意志、良心、永遠、国家、社会契約などといった重要そうな概念はここでは軒並みカットした。いずれにせよ、冒頭で述べたように、現代人は近代以後に成立した理性に関する誤った見方に囚われていると個人的には考えているので、その陥穽から脱出する一つのきっかけとしても、この新書本には読む価値があると思っている。

 

 

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※2025年5月29日