◎小林正弥著『サンデルの政治哲学』(平凡社新書)
この新書本は2010年に刊行された本で以前一度読んだことがあるんだけど、わがペットフレーズ「中間粒度」(共同体)を重視するコミュニタリアンの思想を再度確認したかったので読み直した。ちなみにサンデルの本は『これからの「正義」の話をしよう』の原書を一度読んだだけだけど、同様にコミュニタリアンでサンデルの師匠のチャールズ・テイラーに関しては『Sources of the Self』(HUP, 1989)を2回、本書でも言及されている『A Secular Age』(HUP, 2007)を1回、また同様に本書でも言及されているアラスデア・マッキンタイアの『After Virtue』(Notre Dame, 1981)を2回読んだことがある。
さて「序 新しい「知」と「美徳」の時代へ――なぜ、このような大反響となったのか」では、例の「白熱教室」がなぜかくも話題になったかが解説されている。私めは21世紀に入ってからはほとんどテレビを観ていないので「白熱教室」なるものがいかなる番組だったのかすらまったく知らない。今でも「白熱教室」型の講義は人気があるのだろうか? それとも単なる流行にすぎなかったのか? 私めにはまったくわかりましぇん。
次の「第一講 「ハーバード講義」の思想的エッセンス――『正義の探求のために』」では、ベストセラー『これからの「正義」の話をしよう』と「白熱教室」の内容が解説されている。まあ功利主義とかカントとかロールズとかアリストテレスが取り上げられているわけだけど、お馴染みのテーマなのでこれに関してはここでコメすることは何もない。ただ「第一講」に関して二点だけ取り上げておく。一つは功利主義に関して例のトロッコ問題が取り上げられていること(あちゃらでは「トロッコ」ではなく「trolley」とされているようだけどね)。一時期この手の本を読むと必ずトロッコ問題が出てきて辟易させられたことがあったけど、さすがに最近はあまり見かけなくなった。ところでこの「五人を救うために一人を犠牲にするか」という問題は、功利主義的に考えれば「イエス」となるわけだけど、個人的な見方では、最初、日本人を含め「運命」を重視する人々のなかには、「勝手に運命を操作して五人より一人を犠牲にするのはけしからん」と思う人も大勢いるのではないかと思っていた。でもよくよく考えて見ると功利主義の陥穽からはそんなに簡単に逃れられないことに気づいた。というのもこれが五人対一人ではなく、一万人対一人ならどうか、あるいは極端に言えば(世界の総人口−1)人対一人ならどうか(「数十億人をトロッコ一台でひき殺せるわけないじゃん」とか言わないように。サールの思考実験「中国人の部屋」を考えてみればわかるように、思考実験だから何でもありなのです)と考えた場合、運命論者であっても、よほどの狂信者でない限り、一人を犠牲にしてX人を助けると答えるだろうからね。つまり結局数字がものを言って、功利主義的な考えが入り込まざるを得ないということ。
そう考えて見ると、功利主義批判のために取り上げられている「救命ボート」の事例も批判としてかなり怪しくなる。次のようにある。「四人が乗っていたボートが難破してしまい、食糧難に陥った。そしていよいよ飢餓状態が極まり、ついに船長トーマス・ダドリーは、一番衰弱していた一七歳の見習いリチャード・パーカーを殺して、残りの三人の食料にするという決断を下した。救援後、これが発覚し、裁判になった。こういう実話である。¶功利主義からすると、衰弱していずれは死んでしまう見習いを殺して、他の三人が生きながらえたことは許されるかもしれない。{結果から考える/傍点}と、一人の犠牲で三人が助かったのだから、これは正しい行為と考えられるからである。だが、果たして人間は、自分が生き延びるために、他の人を殺してよいのだろうか。¶このような倫理的な問いに対して、“人間には当然、生きる権利があり、そして「他人を殺してはいけない」という義務がある”という見解がある。このような人間の権利や義務から考える見方(自由型正義論)からすれば、いかに命が救われるためとはいえ、殺人はやはり誤りである。功利主義とこの考え方との相違が、この救命ボート事件では典型的に示されている(47〜8頁)」。
サンデル自身の考えは書かれていないけど、ほんとうに「功利主義とこの考え方との相違が、この救命ボート事件では典型的に示されている」のだろうか。私めに言わせれば、この事例は、実際にあった事例であって純粋な思考実験ではないという点がそもそもズルい。なぜなら思考実験であれば、トロッコ問題同様、助かるのが三人ではなく一万人にも、あるいは(世界の総人口−1)人にもできるんだから、そう仮定したときにほんとうに「いかに命が救われるためとはいえ、殺人はやはり誤りである」と言い切れるのか否かは定かでないから。もし「殺人はやはり誤りである」とは言えないのなら、ここでも数字が問題になってくるわけで、それでは功利主義の批判にはならず、むしろ功利主義を原理的に認めることになる。だから実際にあった事例を使うのはズルいと言ったわけ。功利主義を批判するなら、こういうやり方ではなくもっと別の方法でなければならないような気がする。ちなみにトロッコ問題を徹底的に分析していておもしろかったのは、ジョシュア・グリーン著『Moral Tribes』(Penguin, 2013)だった。この本は『モラル・トライブズ』というタイトルで邦訳が出ている。
それともう一点は、リバタリアニズムとネオ・リベラリズムとリベラリズムの違いが説明されていること。けっこうこのあたりの用語は混乱していて、ちょうどよい機会になるのでちょっと長めに引用しておきましょう。次のようにある。「一般にネオ・リベラリズムは、市場の効率を最大にして経済成長という結果を実現するという経済学的な議論なので、その点では哲学的には功利主義ないし帰結主義の考え方に近い。これに対してリバタリアニズムは哲学的な原理を主張しており、自由型正義論ないし義務・権利論の一種である。(…)簡単に言えば、ネオ・リベラリズムの論者は経済成長という結果を可能にするためにこれらの政策[民営化・規制緩和や減税・福祉削減]を主張し、リバタリアニズムは自己所有に基づく正義を実現するために課税に反対するのである。¶また、リバタリアニズムは自己所有の考え方から、課税や福祉政策に反対するが、それと同時に、(…)妊娠中絶や代理母契約などの擁護、売春や同性愛の合法化・自由化といったような文化的問題についても主張を行っている。他方、ネオ・リベラリズムは経済政策や福祉に対する議論に限定されているので、リバタリアニズムのように文化的問題について主張することはあまりない。¶リベラリズムという言葉は、ヨーロッパで一七世紀頃からさまざまな形で使われてきており、(…)今日の政治的自由を実現してきた、重要な思想である。リバタリアニズムも自由を強く主張するが、政治的自由だけではなく、企業も含めた経済的自由を主張する。その意味で、歴史的な自由主義とは違う言葉としてリバタリアニズムという概念が使われている。¶これに対して、アメリカのリベラリズムは意味が異なる。独立後のアメリカでは政治的自由主義は前提になっている。その上でリバタリアニズムやネオ・リベラリズムが経済的自由を強調する保守主義的な考え方ということになり、それに対してリベラリズムは、{政治的には/傍点}福祉を擁護するなどのように進歩的な考え方を意味する。¶また、{政治哲学において/傍点}リベラリズムという言葉が用いられるときには、ロールズのように、自由や権利の概念を善などの倫理的価値と分離して捉える見方を意味するのである。{その意味で/傍点}、アメリカの政治哲学にいうリベラリズムは「非倫理的な自由主義」である(58〜60頁)」。けっこうややこしい。そういえばジョナサン・ハイトもわが訳書『社会はなぜ左と右にわかれるのか』で、リバタリアンの分類に苦慮していた。ではネオコンと略される「ネオコンサーバティズム」とはいったい何者?ってなるけど、あれは正式な用語ではないのかな? よくわからん。
ではリベラリズムとコミュニタリズムはどう違うのか? その点が次のように説明されている(なおそこに登場するロールズについては第二講で詳しく取り上げられている)。「ロールズ的なリベラリズムには、「正[義]は善より優位にある」という考え方があり、「善き生の様々な考え方に対して正義は独立しており、政府はその諸観念に対して中立的であるべきである」とする。サンデルは、(…)この自由観や正義感に反対する。「[ロールズが言う]無知のベール」のもとの自己は、具体的状況を欠いた抽象的で形式的な自己であり、道徳的・政治的責務を負わない。これをサンデルは、「負荷なき自己(unencumbered self)」という言葉で批判し、「正の善に対する優位性」という考え方を批判した。このような批判者たちの思想が、コミュニタリアニズムと呼ばれたのである。¶現実には、実際の人間は家族やコミュニティや国家など、さまざまな具体的状況を負っている。自己とは、そういう背景や文脈を負った「負荷ありし自己(encumbered self)」である。アラスデア・マッキンタイアによれば、人間は、目的論的な物語の探求としての人生を生きる存在である。この観点から見れば、人間には、コミュニティの構成員としての責任が存在するから、普遍的な自然的義務(duty)や同意による自発的義務(obligation)の他に、構成員としての個別的な連帯の責務が存在することになる(85〜6頁)」。だからコミュニタリアニズムに基づけば、次のような帰結が得られる。「このように、人間の責務は自由な意思や選択によるものばかりでなく、構成員としての責務も存在する。なぜなら、物語を通じて私たちは自分の人生やコミュニティを解釈しており、その物語が構成員としての責務と結びついているからである。だから、アリストテレスが言うように、物語的な善き生を考慮せずに正義を考えることは不可能である。だから、正義や権利を考える際には、道徳的・宗教的問題を取り上げることは不可避なのである(87頁)」。まさにこれは、私めが言う「中間粒度」を重視する思想だと言えるでしょうね。「中間」という言葉は著者の小林氏自身ものちに使っており(「コミュニタリアニズムは、企業経済や官僚制国家に反対し、中間的なコミュニティが浸食されることを懸念している。これは、個人と国家の中間にあるコミュニティであり、家族やローカル・コミュニティなどが含まれる(148章)」など)、これは必ずしも私めの個人的な憶測などではない。
さて次の「第二講 ロールズの魔術を解く」は、サンデルによるロールズ批判が取り上げられている(ううう! あとで紀伊國屋さんにしばかれそう)。ロールズの考えについては、紀伊國屋書店から初期の主著『正義論』も出ているし(これで許してもらおう)、入門書もいくつもあるだろうから、ここでは省略する。新書本によれば、サンデルによるロールズ批判は次のようなものになる。「ロールズは「負荷なき自己」を考え、その人たちが合意できる原理として「正義」を考えた。しかし、サンデルはこの「負荷なき自己」という人間観に問題があると考えたのである。現実の人間は、様々な具体的な属性を持ち、あるコミュニティ、あるグループの構成員であって、そのメンバーとして道徳的ないし政治的な責務を負っている。それぞれ独特の状況の中で、状況づけられた「負荷ありし自己」が一人ひとりのあり方そのものなのである。そして、その状況の重要なものの一つがコミュニティである。だからサンデルは「負荷なき自己」というロールズの自己観、人間観を批判して、「負荷ありし自己」という自己観・人間観を提起し、その自己の置かれている状況としてコミュニティを重視した(113頁)」。まあ個人的な印象では、ロールズに限らず、アングロサクソン流の社会契約論は、アルゴリズミックな雰囲気が濃厚に漂っているように思われる。だからそこでは、価値、さらにはそれを評価する主観は捨象されているように見える。なんかアサヒスーパードライにも似た、ひっかかりのなさが気になる。ちなみに「アルゴリズミック」という言い方はそれほど的外れではないと思う。というのもサンデルは、おもにリベラリズムの考えに基づいて運営されている国を「手続き的共和国」と呼んでいるらしいから。
それとはやや角度が違うけど、著者も次のように述べている。「英米の政治哲学者の多くは、ロールズも含めて、「他の人ではなく、自分の合理的な利益を考える」人間像を想定する。主流派経済学でもやはり、利益の最大化をいわば公理として考えている(119頁)」。それに対してサンデルらのコミュニタリアンは、「自己はそれぞれの個々人以上のものを含んでいると想定し(121頁)」、「このような自己に基づくコミュニティをサンデルは「構成的意味[本質的意味、constitutive sense]におけるコミュニティ」と表現している(121頁)」のだそう。「中間粒度」は、まさにこの「構成的意味におけるコミュニティ」によって構成されるというのが私めの見方だけど、次のようにある。「リベラル派の理論家でも、現実にコミュニティが存在することは認めるだろうが、「そのコミュニティの一人ひとりが、多元的な個人であり、独立した意思を持って選択する」という見方をする。つまり、ばらばらな個々人が先に存在して、その人間たちがコミュニティを作るのである。それに対して、「構成的な意味のコミュニティ」というのは、家族や地域コミュニティなどの一員としての自覚が自己のアイデンティティを構成している状況のことを指す。この場合、何かを選んだり考えたりする際の価値観も、すでにコミュニティとの関係においてあるわけだから、コミュニティから独立した自分が前もって存在して、その個人がその独立した意思で選ぶのではない(122頁)」。
そのあとはリバタリアニズムを擁護するロバート・ノージックが取り上げられているけど、それには触れない。ただしそこで触れられているロールズ批判には注目しておきましょう。次のようにある。「[ノージックらの]公正な能力主義では、「自らの実力で、ある地位に到達した人は、その報酬に値する」と考える。それに対してロールズは、“所得などは道徳的に恣意的で適価ではないから、課税や再配分は正当である”とする。ロールズは、“人々の持つ特徴は単に属性としてその人に関係しているだけの「私のもの」であって、その人を構成している「私」そのものではない”とする。つまり、ロールズは、適価という考え方に必要な、強い構成的[本質的な]意味では、自己は何も持っていない、とするのである。だから、ロールズには、正当的期待への「資格=権利」という考え方しかなく、「誰かが何かに値する」というような「適価」の考え方は否定する。つまり、誰も「何かに値する」ということはできなくなり、人々は何も内在的な価値(intrinsic value)を持たない、とされるのである(133頁)」。
ところがサンデルは、このようなロールズの考えに矛盾を見出すのですね。次のようにある。「「共有資産」という考え方を用いてロールズは「分配の正義」を正当化しているが、よく考えてみると、「構成的な意味におけるコミュニティ」とか、そこにおける「私たち」という考え方がなくては、「分配の正義」は成り立たないのではないか。ロールズは“才能などは共有資産だから、その成果は再分配できる”と言うが、この考え方が成り立つには、強い意味のコミュニティの感覚が必要ではないか。個々人の区別を超えた感覚がなかったら、なぜ自分の才能や努力の結果としての所得を、課税を通じて他の人に与える必要があるのか。だから、ロールズの「共有資産」という考え方の中には、実はコミュニティの考え方に近いものがあるのではないか――サンデルはこう示唆するのである(135〜6頁)」。この指摘はなかなか鋭い。というのも、いかにアルゴリズミックに、抽象的にものごとを考えようが、それを実践する際にはどこかで価値観を持ち込まなければならないことを示唆しているから。政治は現実の諸側面を調停する営為であり、いかなる普遍的概念(たとえば人権)であれ、それを政治的に実践に移そうとすれば必ずや「インプリメンテーションの問題」が発生する。個人的な見立てでは、この問題があたかも存在しないかのように見せかけているのがロールズ流の議論の問題だというのが、サンデルの言いたいことなのだと思う。ロールズに限らず今の左派は総体的にその陥穽にはまっていると私めは見ているんだけど、サンデルはその点をみごとについていると見ることができる。
新書本の著者の小林氏も「ロールズの魔術を解く」という節で次のように述べている。「この[ロールズの]魔術に幻惑されたからこそ、多くの人々が政治哲学の必要性に気づき、福祉政策の正当性に納得した。ロールズの卓越した魔術がなかったら、そもそも、それを批判するサンデルらの議論が影響力を持つこともなかったかもしれない。でも、その大きな思想史的役割を果たした後では、サンデルが指摘したように、ロールズの「正義論」の魔術を見抜いて、「福祉のためにはコミュニティや『私たち』という考え方、同胞愛の発想が必要である」と率直に認めるべきではなかろうか(137頁)」。ここでは詳細は述べないけど、現代の難民の問題も、この点を無視して、左派メディアが吹聴しているように右傾化のせいにしているようでは絶対に解決しないと思っている。というのもそれは、難民にとっても受け入れ側にとっても大勢の人々がかかわる「中間粒度」、すなわち「構成的な意味におけるコミュニティ」の安定性の維持に関わる問題だからなのよね。
さて「第三講 共和主義の再生を目指して」に移りましょう。タイトルにある共和主義とは何か? 冒頭にその簡単な定義が示されている。次のようにある。「共和主義とは、簡単に言えば、公民的美徳に基づいて人々による自己統治を目指す考え方である(153頁)」。ここでのキーワードは「自己統治」で、共和主義の肝にはこの「自己統治」が存在するらしく、この言葉は第三講に頻繁に登場する。さらにそれについてさらに次のようにある。「共和主義においては、人々が{自己統治/セルフ・ガバメント}に加わることに自由が存在するという考え方が基本にある。逆に言えば、王政のように、人々が自己統治を行えない時には自由はない。このように、共和主義の考え方では、自由と自己統治とは内在的に関連している。つまり、「自己統治ができるところに自由があり、自己統治がない所に自由はない」というのが共和主義的な自由観なのである。¶この自由観に対して、アイザイア・バーリンのような自由主義者とかホッブスのような理論家は、あくまで個々人の物理的な行動の自由を強調している。政治権力に妨害されないことこそが自由である、とするのである。この場合、例えば王政のもとで政治が行われても、個々人の行動が妨害されなければ個々人は自由である、という主張になる(167頁)」。アイザイア・バーリンについては『J・S・ミル』で言及したのでそちらを参照していただくとして、ここでは共和主義者は自由をバーリンの言う積極的自由、つまり「〜への自由」と見なしているのに対し、リベラリストのバーリン自身は消極的自由、すなわち「〜からの自由」と見なしているように思える。これについては著者の小林氏も、「「自己統治」の自由に注目するか、「個々人の行動が妨害されない」という意味の自由に注目するか。これが、「共和主義の自由」と「リベラリズムの自由」との決定的な違いとなるのである(167頁)」と述べている。
実際リベラルはよく、政府の圧政からの自由を主張するよね。たとえば憲法は、政府の権力を制限するためにあるなどと言いたがる。しかし憲法は、そもそも社会契約論の土壌から生まれてきたように思えるから、特に政府の権力を制限することが目的であるようには思えない。憲法という一種の社会契約書は、もちろん政府も守らなければならないのだろうけど、国民一人ひとりも守らなければならないはず。にもかかわらず、なんでその憲法が下剋上的な抵抗権、革命権の考えにのみ基づいて解釈されなければならないのかが、私めにはよく理解できない。だからたとえば、修正第二条という形で合衆国憲法に紛れ込んだ抵抗権、革命権の概念が、今日になって銃規制の進展を阻んでいる事実を、日本のレベラルはどう考えているのだろうかと思わざるを得ない。少し脱線したけど話を元に戻すと、そのように考えるリベラルとは異なり、共和主義者は次のように考えるとのこと。「自己統治のためには{同朋市民/フェロー・シチズン}と共通善について熟議することが必要であり、その熟議においては公共的事柄への知識やコミュニティへの帰属意識、全体への関心、そしてコミュニティでの人々との絆が必須になる。そこで、こういったことを実現するためには、{公民的美徳/シビック・バーチュ}(civic virtue)も必要となり、そういう美徳を会得するために人格形成が必要になる。従って共和主義的政治とは、人格形成的(formative)な政治なのである(167〜8頁)」。
このような共和主義的な見方は、実のところ昨今の進化生物学的な社会の見方にも合致すると言えるかも。ステマ、もといアカラサマも兼ねて、10月にわが訳で邦訳が刊行される予定になっているマイケル・トマセロ著『The Evolution of Agency』(MIT, 2022)から一か所だけ引用してみましょう。「このように、初期人類の緩く結びついた小集団を、集合的行為主体をなす現生人類の文化集団へと後押しした生態的問題は、集団間の競争だったのである。このプロセスは非常に強力だったため、文化集団が自然選択の一つの単位になるほどだった。ロバート・ボイドとピーター・リチャーソンの主張によれば、集団の個々のメンバーによる忠誠と遵守によって支持された「強い」慣習、規範、制度を持つ文化は、自然選択の単位として生き残り存続しやすいのに対し、集団の個々のメンバーによる忠誠と遵守によって支持されていない「弱い」慣習、規範、制度を持つ文化は、断片化し、やがて死滅する運命にある(同書106頁)」。
新書本に戻ると、その後はアメリカ建国時からのアメリカにおける共和主義政治の流れが紹介されているけど、ここでは細かくなるので省略する。ただケインズ主義に関して興味深いことが書かれていたので取り上げておきましょう。次のようにある。「ケインズ的な政策においては、消費者の需要を喚起することが一番重要になってくる。それまでは例えば、「計画経済を行うか、それとも自己統治と公民的な美徳の観点から分権化を行うか」といったような政治的な論争が行われていたが、経済成長のための、財政政策による有効需要の喚起や完全雇用という目標には双方が合意することができ、経済構造改革をめぐる政治的な論争を回避することが可能になった。こういう考え方は一九六〇年代のケネディ時代に確立した。ケネディ大統領は、一九六二年に、“この新しい経済学により、道徳的ないし政治的信念を棚上げすることによって、経済的問題は解決できる”と主張した。こうなると、経済成長が目標として合意され、善き生という論争的な観念は回避されたのである。¶ケインズ主義的な新しい経済学は、経済成長を目標にしていて、「計画経済か分権化か」といった競合する公共政策の間で中立であると同時に、人々の利害関心、欲求や欲望、目標などの間でも中立的であり、市民は他者の自由と両立する限り、どのようなものでも追及できる。だから、これはリベラリズムと整合的なのである。この新しい公共哲学は、「@共和主義が“市民の性格が仕事によって形成される”と考えて生産の方に注目していたのに対し、「消費性向」という言葉のように消費に焦点を合わせている。A人格形成の企図を放棄している、B政府が消費者の選択を規制することなしに総需要を調整する方法を提唱することによって、“自由で独立した個人の選択を尊重する”という主意主義的な観念を受け入れている」という点で、「手続き共和国」にふさわしいのである(202〜3頁)」。ちなみに、「サンデルは、訴訟社会と呼ばれる現在のアメリカを「手続き共和国」と呼んでいる(159頁)」のだそうな。要するに経済面では、ケインズ主義が「手続き共和国」の誕生を導いたということなのでしょう。
ところで第三講の最後に書かれているグローバリゼーションに関する見方は、私めの見方と合致していてとっても興味深い。グローバリゼーションに関する私めの見方は、たとえば『グローバリゼーション』など、さまざまな箇所で取り上げてきたけど、それとほぼ同じことが述べられているのですね。次のようにある。「サンデルが言うには、グローバリズムの問題の解決のために、一部の理論家たちはコスモポリタニズム(世界公民主義)と、それに基づくグローバルな公民性の育成を主張している。同様に、啓蒙主義の哲学者モンテスキューは、より大きな忠誠心が常にローカルな忠誠心に優先するとしたが、「普遍的な責務が特定のコミュニティに対する責務より優先する」と主張する点では誤っている。私たちは、多様なコミュニティから時には対立する責務を求められるが、前もってどれが優先するかを決めることはできない。それは道徳的内容・重要性・各人の人生の物語における役割などについての道徳的省察と政治的熟慮によって、個々に判断すべきことである(212頁)」。これは私めが言う「インプリメンテーションの問題」に相当すると思う。さらに次のように続く。「だから、主権と公民性を単に上方に拡大することを主張する点で、コスモポリタニズムは間違っている。そのような「主権の再配置(relocating sovereignty)」ではなく、「主権の分散(disperse)」に自己統治を再生させるための希望がある。単一の世界コミュニティにするのではなく、コミュニティと政治体を多元化させるのである。国民国家も消滅させる必要はなく、一方では上方、すなわち国民国家よりも大きな単位[EUなどの超国家的組織を含む]に分散させ、他方では主権を国民国家よりも小さな単位[文化的・民族的コミュニティを含む]に分散させる。そして、この多元化したそれぞれについて、人々は人生やアイデンティティの異なった側面で関わっていく(213頁)」。
多元化というのは、私めの言う、複数の「粒度」から構成される階層構造に対応すると思う。ところでジョナサン・ハイトは、わが訳書『社会はなぜ左と右にわかれるのか』で、コスモポリタニズム的な考えに関して次のような同様な見解を述べている。「あの忘れがたい名曲『イマジン』で、ジョン・レノンはリベラルの夢を実にみごとにとらえていたことに思い当たる。国も宗教もない世界を想像してみよう。私たちを隔てる国境や境界を消し去ることができるのなら、世界はきっと「一つ」になるだろう。これはいわばリベラルの天国だが、そんな世界はすぐに地獄と化すはずだと保守主義者は考えている。思うに保守主義者の直観は正しい(同書470〜1頁)」。そして進化生物学に依拠するハイトは次のように続ける。「本書を通して、大規模な社会は人類が達成した奇跡的な成果であることを、そして、複雑な道徳心理が、宗教や、部族、農業などのその他の文化的な発明とともにいかに進化し、今日の私たちへと人類を導いたかを論じた。さらには、私たち人類は集団選択を含めたマルチレベル選択の産物であることを、また、「郷党的な利他主義」が、人類をかくも偉大なチームプレイヤーにしている要因の一つであることを述べた。部外者をいずれ排除し始めるのは必至としても、私たちは集団を必要とし、愛し、それを通して美徳を身につけていく。あらゆる集団を破壊し、すべての内部構造を破壊してしまったなら、道徳資本もすべて失われるだろう(同書471頁)」。集団選択やマルチレベル選択には批判も多いようだけど、ここではそれについて述べることはしない。いずれにせよこのハイト氏の提言は、まさにコミュニタリアニズムそのものと言ってよいと思われる。先にあげたトマセロもそうだけど、進化生物学的観点から見た場合にも、コミュニタリアニズムは妥当な見方ということになるのでしょう。ハイトがバリバリのリベラルから、上にあげたようなコミュニタリアニズム的考えを支持するようになった経緯は、同書の「第12章 もっと建設的な議論ができないものか?」に詳しく書かれているので、ハイト本を持っている人はぜひ読み直してみましょうね。
次の「第四講 「遺伝子工学による人間改造」反対論」は、タイトル通り非常に特殊なテーマを扱っているのでここでは触れない。なお倫理がメインでテクニカルな話はほとんどないので、2010年刊行といえども内容が古くて通用しないということはない。残りの二章も個別的な話が続いているので省略するけど二点だけコメしておきたい。一つはケネディ兄弟に関して。次のようにある。「戦後の民主党の大統領とその候補者のなかで、オバマ大統領の前にサンデルが最も共感していたのが、ロバート・F・ケネディである。ジョン・F・ケネディについては、リベラリズムの流れに即した発言や政策を行った点で、リベラル派の側に位置づけていて、高く評価しているわけではない。しかし、弟のロバート・F・ケネディは大統領候補になりながら暗殺されてしまったが、一九六〇年代の正統的なリベラル派ではなく、すでにコミュニタリアニズム的なビジョンを提起していた。¶ロバート・F・ケネディは、公民性とコミュニティのビジョンを持っており、当時の騒然とした状況の中で、公民的生活を中心にする公共哲学への問題提起を行おうとしていた、という。彼は、個人と国家の間にあるコミュニティの衰退を嘆き、コミュニティ自体の自己統治の重要性を強調した点で、サンデルの考えに近かったのである(292頁)」。コミュニタリアニズムというともっぱら共和党の政治家に関係するように思えるけど、必ずしもそうではなく、著者によればオバマやロバート・F・ケネディ(もちろん息子のことじゃないよ)などもそれに近い考えを持っている(た)ということらしい。ところでジョン・F・ケネディはコミュニタリアニズムとは無縁であるように書かれているけど、彼が大統領就任演説で「あなたの国があなたのために何ができるかを問うのではなく、あなたがあなたの国のために何ができるのかを問うてほしい」と述べていることを考えれば、経済など他の側面は別だったとしても、コミュニタリアニズム的な考えがまったくなかったというわけではないのではないかと思った。まさに彼のこの言葉の根底には、「自己統治」や「負荷ありし自己」という考えがあるように思えるから。
もう一つはサンデルの次のような考えに関して。「サンデルが重視するのは、「正義の原理が、競合する善の間で中立的でありうるかかどうか」という論点であり、いわゆる「正の善に対する優位性」の妥当性である。そして、「正は善に相関していて、善から独立していない」というのがサンデルの主張である(330頁)」。要するにサンデルは「善ありし正義」を主張していることになる。私めは、基本的にはこの見解に同意するものの、一つ大きな問題がここには横たわっている。それは何かと言うと、正義を基礎づける善が、マニ教的善悪二元論のような善に関する誤った概念に基づいていた場合、最悪は「オレたちこそ最高善に基づく正義を体現しているんだ」と考える一種のファシズムに陥る可能性が高いと考えられるが、それをどうやって防ぐかが判然としないこと。ロールズのようなリベラリストが提起する手続き指向的な見方を軽視できないのも、リベラリストのその見方が、この陥穽から免れているからだと言える(さてこれで紀伊國屋さんからしばかれることはないでしょう)。もちろんサンデルらのコミュリタリアンはその点を明確にしているのかもしれないけど、少なくともこの新書本を読んだ限りでは、その点はよくわからなかった。
ということで、サンデルのみならずコミュニタリアニズムとは何かを知るのに格好の入門書と言えるでしょう。ちなみにコミュニタリズムは私めの考えにも近いことを再度認識することができて非常によかった。
※2023年8月12日