◎仲正昌樹著『アメリカ現代思想』(NHKブックス)
哲学者の仲正昌樹氏の本でフルタイトルは、『新版 集中講義!アメリカ現代思想――リベラリズムはどこへ行くのか』というもの。「新版」とあるからには「旧版」があるはずで、それに関して「新版を出すにあたって、旧版が刊行された二〇〇八年以降の変化を、サンデルを軸にまとめたWのパートを加筆した(31〜2頁)」と序章の最後に書かれている。ウィキによればこの二〇〇八年の著書は、『集中講義!アメリカ現代思想――リベラリズムの冒険』というタイトルらしく、当然ながら同じNHKブックスから刊行されている。ということは副題だけ「リベラリズムの冒険」から「リベラリズムはどこへ行くか」に変わっていることになる。ちなみに仲正氏は、本文では「リベラリズム」より「リベラル」という用語を多用しているようだけど、両者のあいだに何らかの区別をしているのか否かは一度読んだだけではよくわからなかった。現在のとりわけ日本の(自称)リベラルは、自由主義者というより全体主義者に近い印象があるので、『リベラルのことは嫌いでも、リベラリズムは嫌いにならないでください』という、そのものズバリのタイトルの著書を刊行しているリベラリストの井上達夫氏(本書でも最後の方で、ロールズの影響を強く受けた法学者として氏の名前に言及されている)や私めのように区別したくなったとしてもおかしくはないが、それに関して仲正氏がどう考えているのかはよくわからない。
私めが「リベラル」を怪しく思い始めたのはツイを始めてからで、タイムラインに並んでいる、リベラルを自称する人々のツイがあまりにもひどい、端的に言えば先述したように自由主義者よりも全体主義者の物言いに近いのでびっくりしたことに端を発する。ただし一点明確にしておくと、ネット上の世論は必ずしも世間一般の世論を反映しているわけではない、というよりほとんど逆である場合が多いとされている。ネットだとどうしても、エコーチェンバーのおかげで特定の言説が必要以上に流布しているように見えてしまう。それについては、最近読んだ本のなかでは、「ヘタレ翻訳者の読書記録」には取り上げなかったけど、『「ネット世論」の社会学』(NHK出版新書)のなかで実証的な研究の成果をもとに明確化されているのでぜひ参照されたい。いずれにしてもそのような自称リベラルのはっきり言ってとんでもないツイを頻繁に目にするようになって以来、私めは本来の自由主義を「リベラリズム」、エセ自由主義を「(自称)リベラル」と呼ぶようになったというわけ。そもそも自称リベラルは、リベラリズムがいかなる思考様式なのかもおそらく理解していないのだろうと思われる(だから私めは、頭に「自称」をくっつけているわけ)。もちろん仲正氏は、そのような区別をしているわけではないと思う。とはいえ「リベラリズム」に関しては序章で次のように明確化されている。「本講義では、ロールズの正義論を契機に引き起こされた、「自由」の現代的な課題をめぐる一連の議論を「リベラリズム」と呼び、従来的な意味での「自由主義」一般とは一応区別して表記することにする(26頁)」。なお引用文中の太字の部分は原文による(以下同様)。ちなみに日本におけるロールズ流の「リベラリズム」の受容については次のようにある。「ある意味現代アメリカの抱えている根本的な課題を反映したような形で展開・拡大するリベラリズム論議は、英語圏では七一年の『正義論』の刊行以来着実に進展していたわけだが、(…)日本の政治思想、法哲学、倫理学などの関連領域では九〇年代に入るまであまり注目されていなかった。マルクス主義の影響を受けた左派の学者たちからは、プラグマティズムと同様の、資本主義と妥協する思想として無視あるいは軽視されていたきらいがある(28頁)」。現代の日本の自称リベラルが、リベラリズムの何たるかを理解していないのではないかと思われる理由の一つは、こんなところにもあるのかもしれない。なお本書は9つの講(義)から構成されている。でも、いつものように各章(講)を細かく追っていくと長くなるので、この本に関しては自分が気に入ったテーマだけを順次取り上げていくことにする。
まずは東西冷戦時の自由主義陣営の見方に関して次のようにある。「ソ連の国家イデオロギーであるマルクス=レーニン主義は、近代市民社会・資本主義が革命によって打倒された“後”で、私有財産制を廃して生産財を公有化する社会主義体制を経由して、各人が必要に応じて働き必要に応じて受け取る「共産主義社会」が全世界的に到来するという普遍主義・進歩主義的な歴史観を持っていた。西欧近代的な個人主義・自由主義を超克して、理想の共同体を目指す点では、日独伊の全体主義と共通しているが、その理想の共同体としての「共産主義社会」は、過去にあった民族共同体ではなく、これから来るべき普遍主義的なものとして設定されている(36頁)」。ここでのキーワードは「普遍主義」と見なせる。普遍主義を取るという点では、左翼の共産主義も、右翼の国粋主義(復古主義)も、参照対照が未来を向いているか過去を向いているかというベクトルの向きの違いはあっても、同じであるという点は、「ヘタレ翻訳者の読書記録」でも何度も指摘してきた。保守主義は普遍よりも現実を重視するという点で左翼とも右翼とも違うのであって、普遍的な規範をなるべく持ち込まないようにする分、自由主義とも相性が良い。ここを勘違いして、保守主義=全体主義みたいな捉え方をする人がいるとすれば、その見立ては完全に間違いなので捨てるべきだと言えよう。自由主義と保守主義の親和性については、仲正氏も冷戦時の自由主義について述べるなかで、次のように指摘している。「ソ連が自らの歴史観(唯物史観)に従って、資本主義・自由主義の“後”の世界を到来させようとするのに対し、アメリカなどの自由主義陣営はその流れを押し止め、自分たちの現体制を守ろうとする姿勢になる。つまり、西欧近代がこれまで追求してきた自由主義的な進歩を超える、“さらなる進歩”を志向する“超進歩派”とも言うべきソ連との対比で、アメリカなど西側諸国の「自由」は相対的に“保守的”な意味合いを帯びてくる(36頁)」。
ところがそこにはどうしても次のような矛盾が生じざるを得ない。「「自由主義」の立場から、「枢軸国やソ連は、国家イデオロギーを個人に押しつけて、自由を抑圧している」と批判することはできる。しかし、それを承知で枢軸国やソ連がいいと考える諸個人に対しては、その人たちがその思想に基づいて具体的に他人に害を加えない限り、「自由主義者」は、「全体主義者」の思想の自由を認めざるを得ないことになる。さらに言えば、もし仮に、ある国の住民の圧倒的多数が自発的に全体主義体制を選んだとすれば、それを自由主義者は否定することができない、ということになりそうだ(39頁)」。これをとりあえず「自由主義の逆説」と呼ぶことにする。実はこの自由主義の逆説が、のちのリベラリズムの議論の嚆矢になったという点が、次のように指摘されている。「こうした自由主義の逆説をめぐる緊張状態が、七〇年代以降のリベラリズム論議の原点になったと見ることができる(40頁)」。それからエーリヒ・フロム、フリードリヒ・ハイエク、ハンナ・アーレントらによる自由論が続くけど、それらに関しては他でも取り上げたことがあるし、これからも取り上げる機会が必ずやあるはずなので、ここではスキップする。
ただしアーレントに関しては、あとで関係するので「リバティー」と「フリーダム」の区別についてのみ取り上げておく。アーレントが捉える「リバティー」には、「拘束・抑圧の状態からの「解放」というネガティヴな意味しかない(60頁)」のだそう。それに対して「フリーダム」の意味での自由は、次のようなものになるとのこと。「『人間の条件』で描いた古代のポリスの公的領域における「政治」のように、市民たちが物質的な利害関係をいったん離れて討論し合いながら、共通の理想を追求する状態を指す。我々の“人間らしさ”を支えている「政治的自由」こそが、「自由」の最も本質的な部分なのである。その場合の「政治的自由」というのは、当然、単に権力によって政治活動に干渉されないというような消極的なことではなく、「政治」を構成する討論に参加し、共同で「政治」を再構成する営みに従事しているということである(60〜1頁)」。要するにアーレントにとっての「リバティー」は「〜からの自由」、「フリーダム」は「〜への自由」を意味することになるのでしょう。アーレントのこの見方を取り上げたのは、次に来るフランス革命とアメリカ革命の違いをめぐる記述に関係するからなのですね。ちなみにアメリカ革命に関しては最近『アメリカ革命』で詳しく取り上げ、そこで「アメリカ革命」という呼び方には個人的に違和感を覚えると述べた。その理由は、アメリカ革命とフランス革命のあいだには大きな差異があるように思われるので、あたかも両者が同じ種類のものであるかのように聞こえることを避けたいというものだった。もちろんそれは個人的な感想のたぐいであり、『アメリカ革命』の著者も仲正氏も「アメリカ革命」という言葉を普通に用いているので、ここでは引用文以外でも使うことにする。
いずれにせよ、「アメリカ革命」という言葉を使っている仲正氏(アーレント)も、両者の相違に関して次のように述べている。「近代において「革命」と言われる現象は多くの場合、「リバティー」と「フリーダム」の双方を目標として追及する。そのため、両者は表裏一体のものと見なされがちだが、アーレントは“二つの自由”をきちんと分けて考えるべきだと主張する。革命の担い手たちが、分かりやすい目標である「解放」の方ばかり追求して、「フリーダム=自由」のことは忘れてしまう、場合によっては、「フリーダム=自由」を破壊してしまうこともあるからである。彼女は「解放」に終始して挫折してしまった「革命」の例としてフランス革命を挙げ、「フリーダム=自由」の空間を生み出すことに成功した「革命」の例としてアメリカ革命(独立戦争)を挙げている(61頁)」。両革命に対するアーレントのこの感覚は、私めも共有している。だからこそ、フランス革命とそれが生み出したその後の革命から区別するために、私めはアメリカ独立や憲法制定を「アメリカ革命」とは呼びたくないわけ。『アメリカ革命』を取り上げたときに述べたように、フランス革命にはなくてアメリカ革命にあった要素の最たるものは、個人よりも共同体(社会)を重視する「共和主義的発想」だったと思っている。たとえフランス革命によって成立した政体が「第一共和政」と呼ばれているにしてもね。てか、そもそもフランス革命によって生まれた国家を維持してさらに拡大しようとしたのは、フランス国民というより誇大妄想気味の個人たるナポレオンだったわけだし。そして共和主義的発想は、「「政治」を構成する討論に参加し、共同で「政治」を再構成する」という、アーレントの定義する「フリーダム=自由」の考えにもつながる。
このアメリカ建国時に見られた共和主義的発想は、(少し前までの)現代のアメリカでも生きていて、共和党ではなく民主党の大統領だったケネディが、大統領就任演説で述べた「あなたの国があなたのために何ができるかを問うのではなく、あなたがあなたの国のために何ができるのかを問うてほしい」という文言にもきわめて明瞭に現れている。ただしクリントンやオバマまではそのような傾向が相応に認められていたにもかかわらず、バイデン/ハリスにはまったく認められなくなっている。だからそれを一つの理由として、「ハリスが大統領になるのは非常にまずい、少々乱暴でもトランプのほうがはるかにマシだ」と個人的には思っているわけ(他にも本書の「新版に際してのあとがき」の最後のほうにも「私がこの新しい「あとがき」を書いている七月四日現在、再選を目指すバイデン氏の高齢化への不安から大統領候補差し替え論が民主党内から急浮上し、これまで人望や実績がないからダメだと言われてきたカマラ・ハリス副大統領の株が何故か急上昇している(322〜3頁)」と書かれているように、ハリスが腐っても鯛とんとんのアメリカの大統領として、両プーさんや北の将軍様、あるいは中東や南米の指導者らの悪目立ちする人物がひしめく欧米以外の国々を含む世界をまとめる能力があるとはとても思えないという重要な理由もある)。
「共和主義的発想」うんぬんは私めの見解だけど、では仲正氏はどう見ているのかというと次のようにある。「フランス革命の場合、革命の指導者であるロベスピエール(一七五八─九四)などが、貧困に苦しむ人々に「共感」し、彼らを貧困から「解放」することを自分たちの“政治”の目標にした。苦しんでいる人たちに「共感」し、彼らのために偽善に満ちた圧政者を倒す闘いに立ち上がることこそが、人間らしさの証明だと考えた。しかし、そうした[共感→解放]の“政治”にのめり込みすぎたため、弱者の「解放」という名目の下に、人々の剥き出しの暴力衝動をも「解放」することになった。“弱者に共感しない人間らしからぬ{輩/やから}”が大量に虐殺されることになった。それが「恐怖政治」である(62頁)」。ここで仲正氏は「共感」という言葉を用いているが、それが情動的共感(感情移入に近い)を意味するのか、それとも認知的共感(「心の理論」とも呼ばれる)を意味するのかは、判然としない。なお情動的共感と認知的共感の違いに関しては、拙訳、ポール・ブルーム著『反共感論』を参照されたい。ただしここで言われている「共感」が情動的共感を意味しているのであれば(たぶんそうであろうとは思う)、仲正氏の見解は、政治や公共政策の領域に情動的共感を持ち込むべきではないとするブルームの主張にも合致する。ただしその理由は、ブルームの見立てでは情動的共感には、ある一定の範囲に射程が限られてしまうというスポットライト効果があるという点に求められるので(詳しくは『反共感論』を参照されたい)、「剥き出しの暴力衝動の解放」という仲正氏があげる理由とはやや異なる。
そのフランス革命に対して、アメリカ革命に関する仲正氏の見方は次のようなものになる。「アメリカ革命の場合、イギリスから独立したばかりの諸州が自分たちの「憲法constitution」を定め、それに基づいた「国家体制constitution」をゼロから構成(constitute)しなければならなかったということもあって、建国の父たちは、ポリス的な意味での「政治」の空間、「公的空間」を作り出すことの必要性を認識していた。個人がそれぞれの私的生活における幸福を追求するだけでなく、市民たちが公的空間で公的幸福を追求できるようにすること、言い換えれば、「公的自由」を維持し続けることが、アメリカ革命の課題になった。アーレントは、「建国の父」の一人であり、第三代大統領になったトーマス・ジェファソン(一七四三─一八二六)が、「解放」以上に「公的自由」の問題を意識していたと指摘する(62〜3頁)」。この指摘は、先の私めの見解「共和主義的発想」に近いようにも思える。いや「思える」どころか、仲正氏自身もそれが共和主義であることを次のように明記している。「『革命について』でアーレントが示した、個人ごとの幸福追求の自由よりも「公的自由」を重視するような議論は、現代では狭義の自由主義、つまり個人主義的な自由主義とは区別して、「共和主義republicanism」と呼ばれることがある。「共和主義」というのは、ポリス的な意味での政治空間=共和制を維持するために各市民が主体的にコミットすることの重要性を主張する思想、逆に言うと、市民たちが政治に関心を失って公的生活から撤退することや、他人がやってくれる政治にフリーライド(ただ乗り)することをよしとしない思想である。アーレントは、必ずしも現代アメリカの政治を手放しで称賛しているわけではないが、共和主義的な「自由」の伝統のおかげで、“解放の政治”に巻き込まれるのを免れてきた点は高く評価している(63〜4頁)」。こうしてみると『アメリカ革命』で述べた、フランス革命とアメリカ革命に対する私めの見立ては、仲正氏というかハンナ・アーレントの見立てに非常に近いことがわかる。
アメリカ革命からはやや離れるけど、仲正氏は「フランス的な自由」と「イギリス的な自由」の違いについて次のように述べている。「フランス系の合理主義的な「自由」は、人間の普遍的な「理性」に基づく理想状態のようなものを{予/あらかじ}め設定し、それを目標として、社会全体をそこに誘導しようとする設計主義的な傾向がある。人間の普遍的な「理性」を想定しているので、実際にはごく少数のエリートによる設計であったとしても、最終的に全ての人民の合意を得られるはずだという社会契約論的な発想をする。したがって、社会主義、計画経済、全体主義的な民主主義に傾斜していく可能性を常に秘めている。¶それに対して、イギリス系の反合理主義的な「自由」は、人間の「理性の限界」、「無知」から出発するという。どのような状態が人間にとって好ましいか知っている人間、あるいは、未来の社会がどのようになるか確実に予見できる人間はいない。誰の持っている知識が正しく、有用なのか確実に知りようがない。したがって、各人が自らの自由を利用する機会をできるだけ多く持ち、様々な試行錯誤をし、経験を積めるようにしておくことが望ましい。様々な経験値が蓄えられ、多くの人によって活用可能な状態になっていることが「進歩」の条件である(65〜6頁)」。要するに、先の言葉を用いれば「フランス的な自由」は普遍主義に依拠しているのに対し、「イギリス的な自由」は現実主義的で保守主義的であると言える(そもそもフランス革命を批判したエドマンド・バークは、「元祖保守主義者」とされているしね)。この仲正氏の見立てにはほぼ全面的に賛成するけど、ただ一点、「イギリス系の反合理主義的な「自由」」というくだりは、合理主義の何たるかがフランス革命以後の近代的なイデオロギーによって歪曲されているからそのような言い方が自然に聞こえるようになるのであろうと言いたい。たとえば現代でも、カーネマンらの行動経済学者は、無意識的かつ直観的で非合理的なシステム1と、意識的かつ理性的で合理的なシステム2という二項分類を行なっている。しかしこの区分は、少々おかしいことが最近の認知科学や脳科学では指摘されるようになりつつある。この件については何度も取り上げているので、ここでは詳述しないが(これに関しては『あいまいさに耐える』や『The Enigma of Reason』、あるいは『人は簡単には騙されない』などを参照されたい)、要するに直観自体が合理的に作用しうる(というか合理性の根源には直観が存在する)し、合理的な認知機能は無意識的にも作用しうるのですね。ちなみに後者に関しては、おそらく来年の春頃に、みすずちゃんからわが訳で刊行される予定になっている神経科学者ジョセフ・ルドゥーの最新刊『The Four Realms of Existence: A New Theory of Being Human』をぜひ参照されたい(彼が提起する行動制御の三項分類の理論については『人新世と芸術』[ページ内検索ワード:「ルドゥー」]を取り上げたときに簡単に紹介したのでそちらも参照されたい)。むしろ理念に依拠する設計主義のほうがイデオロギーの影響をもろに受けて非合理的になり易いとすら言える。とはいえそれは非常に細かな話なので、基本的にはここでの仲正氏の見解に同意する。
実は仲正氏も、ハイエクの見解に即してそれに近いことを述べている。次のようにある。「イギリス的な「自由」の擁護者たちは、そうした視点[先の引用で述べられている視点]から「伝統」や「習慣」を重視する。「進歩」と、「伝統」や「習慣」の重視は一見対立するように見えるが、ハイエクに言わせれば、「伝統」や「習慣」として安定して継承されてきた「知」は、それが多くの人にとって有用であることが「経験」によって証明されてきたからである。手探りの努力の中での「経験」によって、社会的秩序は成長していく。そうした意味で、「伝統」や「習慣」は、無知なる人間たちの経験知の社会的ストックなのである。特定の人間が理性的なものと思っているにすぎない「設計」が、「伝統」や「習慣」に基づく「進歩」を凌駕することはできない(66頁)」。ここでは直観に訴える「伝統」「習慣」「経験知」に対し、「設計」は「特定の人間が[特定のイデオロギーに駆られて]理性的なものと思っているにすぎない」とされているのだから。
さて次にここで取り上げるテーマはジョン・ロールズその人。彼の主著『正義論』は一度だけ原文で読んだことがある(紀伊國屋さんに怒られそうだけど邦訳では読んだことがありましぇん)。もちろんきちんと理解できたかどうかは別の話で、彼の考えはおもに彼の理論について説明する解説書を通じて知ったというほうがいいかも。なおこの本にも、「正義の二つの原理」だとか「無知のヴェール」だとかいった基本的な概念の説明があるけど、それらについてはここでは取り上げない。これらの概念についてよく知らない人は、『正義論』とは言わずとも、この選書本や他のロールズの解説書を買って、あるいは借りて読んでみてね。
まずロールズの主著『正義論』が書かれた背景について次のようにある。「五〇年代から六〇年代にかけて、功利主義的な「正義」観の枠組みから抜け出すことを試みていたロールズは、「正義justice」を「公正さfairness」として捉え直すことを試みるようになる。この発想が、『正義論』の原点になる。(…)五〇年代になって、個々の行為が功利の原理(最大多数の最大幸福)に適っているかどうか(=行為功利主義)ではなくて、一定のルールの体系を守ることが功利の原理に適っているかどうかを問題にするべきだとするルール功利主義という功利主義の新たなヴァージョンが登場してきた。ロールズはいったんその議論の枠組みに乗ったうえで、焦点を「ルールがもたらす社会的利益」から「ルールを守ることの哲学的意味」へとシフトし、みんながある特定のルールを「フェア」なもの、つまり「正義」に適ったものと見なして受け入れることのできる条件を探究するようになる(93〜4頁)」。ということは、ロールズさんは功利主義の発展的解消を目指していたということになるのかな? また次のようにある。「ロールズは社会主義、あるいは解放の政治のように社会的・経済的不平等の根絶を政治の最終目標とするわけではないが、不平等が原因でフェア・プレイではなくなることを避けるために、許容できる不平等の範囲を予めルール(正義の原理)によって決めておくべきだと考える(97頁)」。ロールズはこのように、何が正しいかという本質論的、価値論的な視点を捨象して、おもに「ルール」という、公正さを担保する手続き的な決まりごとを重視し、ある意味できわめてアルゴリズミックな視点を取っていると見ることができそう。個人的にはサンデルやマッキンタイアらのコミュニタリアニズムに(認知的)共感を覚えるほうだとはいえ、何が善かをめぐって特定の価値観を前提とせざるを得ないコミュニタリアニズムは、どうしても「自分の見方は正しい」という独善的な方向に傾きやすい。だからロールズが提起する理論のような、価値を捨象した手続き的な見方にも、大きな魅力がある。なおこのようなロールズの傾向は、のちに取り上げるリチャード・ローティの「リベラル・アイロニスト」の概念にも至る。ところでロールズは一般に左派と見なされていると思うけど、このような彼の見方を考慮すれば、彼の理論が日本で考えられているような左派の言説とは大幅に異なることがわかるよね。だから余計に、左派、というかリベラルを自称する人はロールズの著書、もしくは彼の理論に関する解説書を一度は読んでおくべきだと言いたい。
このようなロールズの手続き指向的な見方は、「反省的均衡」という概念にもよく見て取れる。それに関して次のようにある。「“抽象化された原則”と“想定される個別具体的な状況”の間での往復を何回か繰り返し、みんなの意見が一つの“妥当な結論”へと{収斂/しゅうれん}してきたところで、最終的に、体系化された規則が正式に採択されることになる。反省を通して、みんなの判断を均衡化させているわけである。いったん規則が正式に採択された後でも、その規則が拠って立つ原則にはどうしても当てはまらないような“例外的なケース”が生じてくると、それは本当に例外的な事態なのか、それともその原則自体に問題があるのか、今一度、反省的均衡化が試みられることになる。¶これは立法や司法などの場で法的判断を行なうに際して、至極当然のこととして行なわれているプロセスである。法を現実に制定し、適用するに際しては、抽象的に理論化された道徳原理とか極度に理想化されたイデオロギーのようなものをそのまま現実化することはできない。現実化したらどうなるか、様々な具体的状況をシミュレーションし当てはめてみて、微調整を繰り返しながら、大多数の人が実際に納得してくれそうな実効性のある形へと練り上げておく必要がある。ロールズは『正義論』において、こうした「反省的均衡」を経ることによって、人々は正義の二原理の採択へと導かれるであろうと示唆している(126頁)」。「“抽象化された原則”と“想定される個別具体的な状況”の間での往復」という見立ては、神学で言えば「決議論(casuistry)」、法学で言えば「衡平法(equity)」に相当するものだと思うが、実はその重要性を認識していない人は多い。たとえば「人権」という概念を例に取って考えてみましょう。「人権」という抽象的な概念を個別に適用する際には、どうしても特定の集団や個人を対象にせざるを得ないから、そもそもありもしない差別をわざわざ作り出したり、個人間や集団間に元来ありもしなかった壁を築いたりすることにもつながりかねない。
あるいはもっと極端な例を考えてみませふ。「汝殺すなかれ」という道徳原理は具体的な状況に関係なくつねに成り立つように思えるかもしれない。ところが必ずしもそうは言えない。それを説明するためには、何も「タイムマシンで第二次大戦前に戻ってヒトラーを殺せたらあなたは殺しますか?」などといった非現実的なSFシナリオを持ち出す必要などなく、医療で実際に行なわれているトリアージについて考えてみればよい(この場合の「殺す」とは「積極的に殺す」ではなく「見殺しにする」という意味になるのは確かとしても)。「汝殺すなかれ」が具体的な状況を一切問わずつねに成り立つのであれば、死に瀕している人々すべてを何としてでも救わねばならず、トリアージなどとんでもない暴挙だということになる。現実的には、それは不可能な場合が多いのですね。ころころが爆発的に蔓延し始めた頃、イタリアのような国で起こったことを考えてみればよい。人権の例に戻ると、だから「人権」という抽象的な概念を個別的な状況に従って是正しながら、あるいは仲正氏の言葉を借りれば「微調整を繰り返しながら」、柔軟に適用する必要がある。ところが特定の理想や理念を絶対化する傾向にある普遍主義者は、政治家を含めこのことをまるで理解していない。そのような人々が政治に関与すれば、現実世界、つまり私めの言う中間粒度はズタボロになってしまうのですね。その初期の例の一つがフランス革命後の恐怖政治だったと見なせる。この点だけを取り上げても、同じ左派でもロールズの見方は、自称リベラルのみならず保守派にも参考する価値が十分にあるように思える。
次にロールズ的リベラリズムに対する批判が検討されている。ただしここではノージックらのリバタリアンからの批判はスキップして、私めが関心のあるコミュニタリアンからの批判だけを取り上げる。次のようにある。「「コミュニタリアン」は、その名の通り、様々なレベルの文化的な「共同体」の中で{培/つちか}われる諸個人の価値観を重視する立場であり、共同体ごとに培われる価値観を度外視して、正義の原理を普遍的に探究することができるかのような議論をする「リベラル」を批判する(146頁)」。私めがコミュニタリアニズムに肩入れする理由は、まさにそれが普遍主義を批判し、共同体、すなわち私めが言う中間粒度に焦点を絞る点にある。また進化科学に着目しつつ、遺伝子と社会の共進化や、社会、文化、宗教、慣習の形成について考える場合、中間粒度としての共同体について考慮せざるを得なくなるということもある。では、コミュニタリアニズムとは、自由主義とは無縁なガチガチの保守主義なのか? 実は必ずしもそうではないことが次の記述からわかる。「「コミュニタリアン」が台頭してきた八〇年代前半は、レーガンの大統領就任に伴って、キリスト教原理主義などの右派が勢いを増し、「リベラル」派が政治の表舞台で一方的な退潮に追い込まれた時期であるだけに、「コミュニタリアン」も保守派と思われやすい。しかし、「コミュニタリアン」を名乗る哲学者や社会学者たちは、近代の市民社会の自由主義的な法・政治・経済制度を、特定の文化共同体や宗教の伝統的な価値観の名の下に否定したりはせず、むしろ前提にしている。広い意味での「自由主義」と考えてよい。¶「コミュニタリアン」が問題にするのは、主として自由主義的な政治や経済を支えている哲学あるいは人間観である。彼らは、人間はリベラルやリバタリアンが想定しているほど“自由”に振る舞うことができるわけではなく、共同体的な価値観によって拘束されている面が不可避的に大きいので、それを踏まえた政治・社会哲学が必要だと主張する(146〜7頁)」。つまり、コミュニタリアニズムも自由主義の一分派と見なすことができるとのこと。この点はしっかり押さえておく必要があるでしょうね。
ではコミュニタリアンはロールズ流のリベラリズムをどのように批判しているのか? アラスデア・マッキンタイアとマイケル・サンデルが取り上げられているけど、ここではみんな大好きサンデルさんだけに着目しましょう。重要なのでやや長めに引用しておく。「サンデルはロールズが「善」の理論に部分回帰していること自体は評価しているものの[前段落で説明されているロールズの「善の希薄理論」に言及しているが、ここではそれについて説明することはしない]、社会の構成員たちが相互の関係についての情報を遮断された「無知のヴェール」という想定の下では、人々が“共通の善”の実現のために「正義の原理」について合意することに向けての動機付けを説明できないとしている。(…)サンデルに言わせれば、各個人がロールズの言う「善く秩序付けられた社会」を志向するように動機付けられることを説明するためには、各人格を自己完結したものとして捉えるのではなく、その個人が属する「共同体」との関係において捉えるコミュニタリアニズム(共同体主義)的な視点が不可欠である。家族、部族、都市、階級、人民、国民(ネーション)などの、各種の「共同体」の中で培われる暗黙の慣習や相互了解が、各人の自己理解の基盤を提供しているのである。各人が自己理解は深めようとすれば、「共同体」に立ち返り、共同体にとっての「共通善」について考えざるを得ない。サンデルは、通常の自由主義が想定する自己完結的なアイデンティティを有する「負荷なき自己unencumbered self」に、共同体との繋がりを自覚したコミュニタリアン的な「状況付けられた自己situated self」を対置する。「負荷なき自己」批判と、「正」と「善」の再結合は、コミュニタリアニズムの対リベラル戦略のカギになる(152頁)」。英語に「No man is an island」という言い回しがあるけど、コミュニタリアニズムはまさにそれを体現する思想だと言えるのかも。
さて次に特に取り上げたいテーマは、すでに少しだけ言及した自由主義の「価値中立性」というジレンマについて。まず次のようにある。「価値中立性を建前にしてきた近代的な「自由主義」の系譜を引く、ロールズやドゥウォーキンの「リベラリズム」の哲学は、価値観やアイデンティティの問題を正面から論ずることを回避する傾向がある。西欧近代の市民社会においては、価値観の問題は、他人が干渉すべきではないし、そもそも干渉のしようがない個人の「内面」の問題であると見なされ、政治の場での公共的な議論の俎上にできるだけ載せないようにすることが基本的な原則であった。政教分離の原則が、その原点である(167〜8頁)」。このような立場を取った場合、具体的に何が問題になるかに関して次のようにある。「近代的な「自由主義」に従って(個人の)価値観をめぐる問題に対して極めて禁欲的な態度を取る「リベラル」あるいは哲学的「リベラリズム」に対して、「保守派」、特に「宗教右派」はかなり露骨な形で、政教分離の原則に挑戦し、伝統的な価値観を復活させることを主張する。それは彼らと価値観を共有しない人によっては抑圧的に聞こえるが、彼らにもそういう風に考える“内心の自由”はあるはずである。「リベラル」の側が、価値中立性の立場からの“内面不干渉”の原則を保持し続けようとする限り、「保守派」の主張の核心部分に対して、有効な批判を加えることはできない。それが「リベラル」にとっての大きなジレンマである(168〜9頁)」。個人的には「保守派」とある箇所は「復古主義者」あるいは「国粋主義者」と書き直したいところ。というのも、保守主義の核心は「伝統的な価値観の復活」ではなく「中間粒度の安定性の維持」にあると個人的には考えているから。とはいえ、そこは細かな見解、というか定義の相違に起因するものなのでよしとしましょう。
ところで、ここで指摘されている問題はまっとうなリベラルにつきまとう問題であり、日本の自称リベラルにはまったく問題になっていないように思える。なぜなら彼らは、自分や自分の仲間の考えが絶対的に正しいとする全体主義的傾向に染まっているため、「価値中立性」のジレンマなど、意識に昇りさえしないはずだから。それは余談として、まっとうなリベラルはこのジレンマをさまざまな方法で解決しようとしてきた。その一つとして、そもそも市民社会の論理を拒絶するポストモダン的な「差異の政治」があげられる。それについて次のようにある。「「市民社会」の枠内での「平等」を志向してきたリベラル的な方向性を拒絶する「差異の政治」は、これまで「市民社会」的な枠組みによって規定されてきた――言い換えれば、白人男性中心の文化によって“上”から与えられてきた――自己の「アイデンティティ」を問い直し、再構成することを試みる。「差異の政治」派にとっては、市民社会的な「権利」や「正義」は大きな意味を持たない。「権利」それ自体は、市民社会が市民たちを統治しやすくするために発明した権力装置にすぎないので、平等や自由に対する「権利」を形式的に付与されても、その背後にある権力関係を変化させない限り、市民社会から排除されてきた者たち(=「他者」)にとって実質的な“正義”がもたらされることはない(182頁)」。この見立てがフーコーらのポストモダン思想に通じていることは一目瞭然で、著者も次のように指摘している。「「リベラリズム」の前提になっている「近代市民社会」の論理を拒絶する「差異の政治」は、近代的な「主体性」を、権力性を伴った社会的言説の連関によって構成されたものと見なして「解体」あるいは「脱構築」しようとするフーコーやデリダのポストモダン的な哲学と相性が良いように思われる(182頁)」。このような見方は、バリバリの左派ではない私めにも十分に理解できる。だからみんな大好きフーコーさんを、私めも大好きなのですね。さらに仲正氏はポストモダン左派や、コミュニタリアン左派(サンデルの師匠のチャールズ・テイラーや『正戦論』のマイケル・ウォルツァーら)について詳述しているけど、煩瑣になるのでスキップする。
さてさて、次の取り上げたいのは、「リベラル・アイロニスト」ということで、すでに名前だけ言及したリチャード・ローティ。私めはジョン・ロールズとリチャード・ローティを合わせて、「ロロコンビ」と呼んでいる。「ロロ」とはもちろん、去年お星さまになった往年のイタリアの大女優ジーナ・ロロブリジーダが「ラ・ロロ」という愛称で呼ばれていたことに因んでいる。え? 「政治学者を女優さんに因んで呼ぶな!」ってか? 「す、す、すんましぇん。「ラ・ロロ」のファンだったもので(あまり多くは見ていないイタリア映画より、むしろ『九月になれば』や『思い出よ、今晩は!』などのアメリカのコメディ映画に出演していた頃の彼女がお気に入りでやんす)。いらんことはそこまでとして、ではローティの主張とはいかなるものか? まず次のようにある。「彼をアメリカの哲学界で有名にした『哲学と自然の鏡』(一九七九)では、デカルト以降の近代の認識論的哲学が、人間の「心」(=主体)をまるで「自然」(=客体)を正しく映し出す「鏡」であるかのようにイメージし、その「鏡」をいかに正確に再現するかにのみ専念してきたと指摘され、そうした基本的発想自体が不毛だと批判されている。「心」は、「鏡」のように世界を正確に映し出すわけではないからである。主体の内面から「言語」へと焦点をシフトした現代の言語哲学も、「言語」を世界の正しい姿(=真理)を映し出す「鏡」として扱っている点で、認識論的哲学と基本的に同じ図式に依拠している。ローティは、「鏡」としての「心」あるいは「言語」を知識の絶対的な源泉と見なし、その「鏡」の反射のメカニズムを探究することで、全ての知を基礎付けようとする哲学の態度を「基礎付け主義foundationalism」と呼び、これに固執することを不毛と見なす(219〜20頁)」。今でこそ「心は実在を映し出す鏡ではない」という言説は当たり前に響くし、私め自身、「進化の過程で、適応度戦略は真実戦略を打ち破る」、つまり「知覚が真実(実在)をありのままに見るべく進化する可能性は、生物や環境が複雑になればなるほどゼロに近づく」という主張が展開されるドナルド・ホフマン著『世界はありのままに見ることができない』を訳してもいる。でも、ローティの『哲学と自然の鏡』を読んだ当時は、随分斬新な本だと感じたものだった。
さらに仲正氏は、ローティの見方について次のように述べている。「ローティは、哲学者相互の会話としての「哲学」という営みには、共同で真理を探究し、異論の余地のない最終的真理に到達することを目的とする「認識論epistemology」的なタイプのものと、会話者同士の合意を目指しながらも、意見の不一致もさらなる対話のための生産的な刺激と見なす「解釈学hermeneutics」的なタイプのものがあると指摘する。¶前者の哲学観は「知」を「基礎付ける」者としての職業的な哲学者を特権化する傾向があるのに対して、後者は「知」をめぐる会話の文脈を広げ、多様化させていく傾向がある。人間の「知」は、各人の置かれている社会的な立場、歴史や文化などの偶然的な要素によって規定されている部分が大きい。“同じもの”に対する見方が立場によって異なってくるので、どういう文脈でなされている「会話」かに関係なく、誰にとっても常に通用する“真理”を求めても仕方ない。ローティに言わせれば、お互いの依拠する文脈を理解し合いながら、視野を広げていく「解釈学」的な会話の方が生産的である(220頁)」。私めはと言えば、本質主義的、普遍主義的な「認識論」的タイプより、文脈を重視する「解釈学」的タイプに近い考えを取っている。だからローティの主張はよくわかる。
さてそのローティはロールズの理論についてどう考えているのか? それに関して次のようにある。「ローティは、「リベラルな社会」の市民であるための条件をプラグマティックに示そうとするロールズの議論を、ジェファソンやデューイの民主主義的自由主義に連なるものと見なす。ジェファソンやデューイは、「アメリカ」を民主主義的自由主義のための共同の「実験」と考え、民主主義の基礎付けには拘らないようにした。そうした「アメリカ」の実験主義的な民主主義の伝統を、(基礎付けしようとすることなく)体系化したのがロールズの理論だというのである。ローティは、このアメリカ的伝統についての記憶を保持し続けるべきだと主張する(224頁)」。ここで前述の「リベラル・アイロニスト」の概念が登場する。次のようにある。「ローティの理想の「リベラルな共同体」の市民は、自分自身が道徳的な熟考をする際に用いる言語、自分の良心、自分の属する共同体の道徳性が偶然の産物であることを知っており、そういう偶然性の感覚を身に付けている。ローティは、自らがコミットしている理想が、偶然的なものにすぎないことを知っているリベラルのことを、「リベラル・アイロニスト」と呼ぶ。(…)一つの「包括的な道徳的教説」としての「リベラリズム」が、「リベラルな共同体」を支える唯一の理論的な基礎になり得るわけではないし、そういう「基礎付け」によって、“リベラリズム”ではない――と自分が思っている――考え方を排除すべきではないことを十分に心得た“リベラル”である(226頁)」。ここで言われている“リベラル”が、自分と自分のお仲間は絶対に正しいと信じ切っている日本の自称リベラルとはまったく異なることはすぐにわかるはず。そもそもロロコンビは、基礎付け主義、すなわち本質主義を否定しているわけだから、彼らの考え方が日本の自称リベラルとまったく異なるのは当然なのですね。ではローティは、価値中立性のジレンマをいかに解決しようとしているのか。それについてはよくわからなかったけど、のちに取り上げられる、「異なる教説の間の関係を政治的に調整する役割に徹する」という考え方を取る、後期ロールズの「政治的リベラリズム」の概念につながっているようには思える。なお、それに関してはあとで言及する。
また仲正氏は、「差異の政治」を取り上げたときに言及した、フーコーらのポストモダンとの類似性を次のように指摘している。「「リベラル・アイロニスト」は、近代市民社会で支配的になっている「自由」観さえも偶然の産物にすぎず、文字通りの意味での“普遍性”は有していないと見なしている点では、ポストモダン的である(227頁)」。さらに仲正氏は、ローティの文化左翼批判について次のように述べている。「「経済」の仕組みをあまり考えず「文化」にばかり力を入れる左翼のことを、ローティは「文化左翼Cultural Left」と呼ぶ。ポストモダンの影響を受けた「文化左翼」は、「差異の政治学」とか「カルチュラル・スタディーズ」などを専門とし、差別の背後にある深層心理を暴き出すことに懸命になる。彼らはフーコーの権力批判やデリダの「正義」論など、ポストモダンの言説に依拠しながら、現在の体制の下でのいかなる“改善”にも意味がないことを暗示する。ローティに言わせれば、「文化左翼」は、半ば意識的に反アメリカ主義にはまっている。彼らが「アメリカを改良することはできない」という前提に立って、“差別を構造的に生み出すアメリカ社会”を告発し続ける限り、いかなる現実の改良も生み出すことはできない。彼らは口先だけはラディカルであるが、現実の(経済的)改革には関心を持たないので、実際にはただの傍観者に留まっている(230〜1頁)」。「半ば意識的に反アメリカ主義にはまっている」というくだりは、理由や実態はやや異なるとしてもアメリカの文化左翼のみならず日本の左翼にも当てはまるが、それについてはあとで取り上げる。
次にロールズの「政治的リベラリズムへの戦略転換」が説明されている。ロールズが一九九〇年代になってやや軌道修正したことは、よく知られている。ここでは、次の記述を引用するに留めておく。「『正義論』から二二年後に出された『政治的リベラリズム』(一九九三)でロールズは、そうした自らの「リベラリズム」を自己限定しようとする姿勢を鮮明にしている。この本でロールズは、『正義論』における自分の議論は、正義についての包括的な哲学的・道徳的教説(…)と、政治的構想との区別をはっきりさせていなかったと自己批判したうえで、ここでは、後者の方の議論に集中するつもりであることを宣言している。「リベラリズム」自身が独特の人間本性論に固執する一つの「包括的な哲学的・道徳的教説」になってしまうと、他の様々な宗教的・哲学的・道徳的教説の間の関係を調停して、「重なり合う合意」へと誘導することができなくなるからである。異なる教説の間の関係を政治的に調整する役割に徹する“リベラリズム”という意味で、ロールズは「政治的リベラリズム」という言い方をしている(233頁)」。もともと価値の問題を捨象した非本質主義的で非基礎付け主義的、そして手続き的な政治論を展開していたロールズとすれば、正義についての包括的な哲学的・道徳的教説(本質)と、政治的構想(実践的な調停のアルゴリズム)の区別は、必然的な結果だったのでしょうね。
これで第六講まで終わった。あと三講ほど残っているけど、それに関しては一点だけ取り上げるに留める。それは「戦後日本の「ねじれ」とアメリカ」という節に書かれている、戦後日本の左翼運動とアメリカの関係について。次のようにある。「後に加藤[典洋]が「敗戦後論」(一九九五)などでも指摘したように、戦後日本における左右の政治対立は、「社会主義vs.自由主義」のイデオロギー対立であるというよりは、憲法九条と日米安保によって規定されていた戦後体制に対して、どのような態度を取るかという対立であったと考えることができる。この意味での日本的な「左/右」の対立は、反戦・平和の立場から憲法九条を守ろうとする「左」が、(九条を背後で支えている)日米安保に反対するのに対し、九条改憲を主張する「右」が、安保体制を支持・拡張しようとするねじれた関係にある。他の西側諸国には、憲法九条に相当するような憲法上の規定はないし、左派の主流派である社会民主主義派が安全保障政策の必要性を認めているので、これと同じ形でのねじれは存在しない(287〜8頁)」。「他の西側諸国には、憲法九条に相当するような憲法上の規定はない」とあるけど、それは第二項に関してであって、第一項に相当する規定は、確か西側諸国を含め六〇か国以上の憲法で明記されているはず。いずれにしても、「安全保障」と聞いただけで全身がさぶいぼ化する御仁など、おそらく日本以外にはいないでしょうね。言われてみれば確かに「憲法九条を守ろうとする「左」が、(九条を背後で支えている)日米安保に反対する」のは奇妙ではあるよね。
さらに次のようにある。「私[仲正氏]の見方では、この日本特有のねじれは、アメリカとの関係を軸に戦後体制を構築した保守政権が、安全保障面ではアメリカに全面的に依存し、経済成長に専念するという路線を取ったのに対し、左派もその前提を暗に受け入れてしまって、(アメリカによる平和の下で)「反米・反戦」闘争を展開するようになったことに起因する。日本のアカデミズムや学生運動において長年にわたって、マルクス主義のようなラディカルな思想が圧倒的に優位を誇ることが可能であったのは、日本の政治・経済・文化に完全に定着しつつある「アメリカ」のプレゼンスをもはやどうすることもできないという暗黙の了解が左派的な人たちにもあったからではないかと見ることもできる。どれだけ暴れても、「アメリカ」との繋がりを現実的に断ち切ることができそうにないので、安心して観念のうえで“ラディカル”になれたということである(288頁)」。かなりアイロニックな見解だけど、そういう側面も確かにあるような気がする。つまり左派の反米運動には、自分たちの政治的アイデンティティを確保するために、絶対的な安全圏から、つまりいくら過激に反対しようが批判しようが、アメリカが提供してくれる安全圏は絶対に破壊されるはずはないと直観的に信じつつ、観念的に、すなわちイデオロギー的に反米主義を堂々とぶち上げているという印象を受けないでもない。直観的に信じていることと行動が正反対になるという、このようなイデオロギーのせいで恐ろしくねじ曲がった態度は、反米と言わずとも過激な政府批判(たとえば「安倍はヒトラーだ!」「政府が国民を殺しにきている!」みたいな暴言)をする人々にもよく見受けられる(それについての詳細は『魔女狩りのヨーロッパ史』[ページ内検索ワード:「ヒトラー」]などを参照されたい)。
ということで、この選書本は、思想の左右を問わず、つまり自称リベラルであろうが保守派であろうが読むべき本だと思う。自称リベラルにとっては、この本を読めば自分たちの主張が国際標準のリベラリズムとはまるで無縁なエセ・リベラリズムにすぎないことが、言い換えれば、なぜロールズの影響を受けた井上達夫氏が『リベラルのことは嫌いでも、リベラリズムは嫌いにならないでください』などというタイトルの本を書かざるを得なかったのかがよくわかり(タイトルはおそらく井上氏本人がつけたわけではなかったのだとしても、少なくとも反対はしなかったことに間違いはないでしょうね)、少しでもまっとうな方向へと軌道を修正するための格好の素材になるはず(世界のあちこちがキナ臭くなった21世紀の今日において、現状の自称リベラルの考え方が通用するとはとても思えない)。また保守派には、価値観を持ち込むと独善主義に陥りやすく、場合によっては全体主義にも至りうるという問題を解決するために、ロロコンビらのまっとうなリベラリストがいかに苦心して独自の理論を組み立ててきたかがよく理解できるはず。保守派、のみならずごく普通の一般ピープルのなかには日本の自称リベラルの素行の悪さや知的レベルのお粗末さに辟易して、リベラリズムを軽蔑あるいは敬遠している人もかなりいるのだろうけど、このような価値観に関する問題は簡単に切って捨てられるものではなく、その陥穽を回避する方策を徹底的に追及してきたまっとうなリベラリストの考え方は保守派であっても十分に参考になることが、この選書本を読めばわかるはず。何かいいことがあるかもしれないのでついでにささやいておくと、「だからロールズの『正義論』の邦訳を出している紀伊國屋さんは偉い!」と日記には書いておこう。
※2024年10月8日