◎ロイ・リチャード・グリンカー著『誰も正常ではない』

 

 

本書はNobody’s Normal: How Culture Created the Stigma of Mental IllnessW. W. Norton & Company, 2021)の全訳である。著者のロイ・リチャード・グリンカーはジョージ・ワシントン大学文化人類学・人間科学教授である。著者自身は人類学者であるが、著者の曾祖父、祖父、父親はいずれも著名な精神科医であった。シカゴ大学教授でもあった祖父のロイ・リチャード・グリンカー・シニアはとりわけ有名で、アメリカ精神医学の開拓者の一人と呼ばれることもある。巻頭に「本書をシカゴのグリンカー家に捧げる」とあるように、本書には著名な精神科医を輩出してきたグリンカー家へのオマージュとしての側面もあり、曾祖父、祖父、父親(批判も含む)、さらには自閉症者の娘にまつわるストーリーが随所に織り込まれている。とりわけ第6章では、まるまる一章を費やして、フロイトとの関係を中心に祖父のストーリーが語られている。なお既存の邦訳には、『自閉症――ありのままに生きる 〜未知なる心に寄り添い未知ではない心に〜』(佐藤美奈子,神尾陽子,黒田美保訳、星和書店、二〇一六年)がある。

 

次に全体的な概要を説明しよう。本書の主題は、原書の副題にあるとおり「文化がいかに精神病のスティグマを生んできたか」を論ずることにある。本書の末尾の次の記述は、その目的を次のように簡潔に表現している(四三五頁)。

 

私たちが自明と見なし、経済や社会の歴史に深く埋没しているために不可視になることの多い価値観や視点に人々の注意を引きつけられるのなら、スティグマは議論の出発点になりうる。(……)そしてそのことに気づけば、精神病やその意味が、私たちが構築してきた、またそれゆえ自らの力で変えることのできる特定の世界に埋め込まれていることを、もっとよく理解することができるようになるだろう。

(……)当面の課題は、スティグマやそれに対する恐れを緩和するために、過去や他の社会から学んで文化の創造的な力を生かすことにある。文化がスティグマと精神病を結びつけられるのなら、間違いなく文化は、その結びつきに切れ目を入れることもできるはずだ(435頁)。

 

三部一七章ならびに「はじめに」と「結論」で構成される本書は、この結論を導き出すために、近代から二一世紀に至るまでの精神医学の歴史を追いつつ、その途上で発生してきた問題について検討し、終盤の第16章と第17章では、実例をあげてその解決策を提起する。以下、各部ごとに内容を簡単に紹介しておこう。

 

「第T部 資本主義」は、おもに近代(一九世紀まで)を対象に、資本主義社会が課す要請によって精神病、ならびにそれにともなうスティグマが生み出されてきた経緯を明らかにする。資本主義社会との対比のために著者の専門分野である人類学の知見が相応に取り入れられているが、基本的には精神医学の近代史と見なすことができ、その基本的枠組みは次の一文に見て取ることができる。「最初に精神{病/傍点}を独自の医学的状態として定義し、科学の名のもとに精神を病んだ人々を周縁化し黙らせるための施設を生み出したのは、哲学者ではなく新時代の医師とアサイラムの管理者であった。精神病とスティグマは同時に誕生したのである」(五八頁)

 

「第U部 戦争」は、二〇世紀において精神医学、精神病、ならびにそれにともなうスティグマがいかに誕生し推移してきたかを見ていく。二〇世紀は戦争が頻繁に起こった時代であり、精神医学や精神病の概念も戦争に大きな影響を受けていた。ただし第7章のタイトルに「戦争はやさし」とあるように、著者は戦争(や軍)の否定的な側面のみならず、肯定的な側面にも光を当てている。たとえば第U部の冒頭の章に次のようにある。「軍は、困難な状況に直面すれば、もっともすぐれた人間でもこうむらざるを得ないさまざまな症状が精神病には含まれることを、市民社会に間接的に教えたのである。事実、精神病のスティグマには、戦時中に緩和され、平和時に復活する傾向がある」(一一〇〜一頁)。著者によれば戦時とは異なり、平和な戦間期、たとえば第二次世界大戦後の「同調の時代」には、「正常性」が強調される時代風潮が生まれ、「正常性は、適応能力の問題によって「社会への順応」が妨げられている人々にスティグマを負わせる強力なイデオロギーと化し」(一七六頁)、「「正常」であることを誰もが望む同調の時代においては、精神病の診断は再び汚辱の源泉と化した」(一八九頁)のである。第U部で取り上げられている精神病にはシェルショック、心的外傷後ストレス障害(PTSD)、湾岸戦争症候群などがあるが、とりわけベトナム戦争が初期の診断の形成に大きな役割を果たしたPTSDは、まるまる一章を費やして検討されている。第U部の著者の主張を一言で述べれば、苦痛の語彙は文化や時代によって変化するということであり、その具体例として戦時下と平和時では社会に流布する精神病の意味が変わりうることを論証している。

 

「第V部 身体と心」は、身体と心を切り離し、とりわけ生物学的要因にのみ焦点を絞り、「故障した脳」モデル、あるいは著者の言う「他のどんな病いとも変わらない病い」モデルに基づいて精神病をとらえようとする場合に生じる問題を検討する。著者は第V部の冒頭の章で、二〇世紀後半に精神医学界で生物学的要因が重視されるようになった経緯を次のようにあとづけている。「それ[一九七〇年代前半]に続く数十年間、メンタルヘルスの専門家のあいだで、精神薬理学が精神医学を、軟弱で主観的な営みから堅実で客観的な営みに変えることができるという楽観的な見通しがますます広く浸透していく。(……)また研究者は、精神医学を生物学に近づけることで、精神病のスティグマを軽減し、精神病が他のいかなる種類の病いとも変わらないと見なされるようになることを期待していた。(……)かくして神経科学者は、精神病が「患者のコントロールを超えた」疾患であることを示すために、異常な代謝活動や、脳内の化学物質のアンバランスを量的に測定する方法を考案しなければならないと感じるようになったのである」(二七三頁)。

 

しかし著者によれば、そのような「精神病の生物学的モデルは、そのスティグマ化の中心的役割を果たしてきた」(二八七頁)のであり、「神経生物学的知識や遺伝的な知識は、脳が一部をなす、より大きなシステムの一構成要素を説明するにすぎない。生まれか育ちかという古びた議論のような「あれかこれか」の問題ではない。生物学的特徴と文化は合わさって作用する」(三一三頁)のである。ここに至って著者は、「生物」と「心理」と「文化(社会)」の密接な絡み合いによって精神病が発症するのであり、そのうちの「生物」のみを重視することが、スティグマを含め大きな問題を生み出したのだと力説する。そして第16章と第17章ではそのようなモデルを克服する試みを、前者ではネパールで活躍する精神科医たちの活動に、また後者では欧米の企業の取り組みに見ていく。

 

以上見てきたように、本書では精神病やそれにともなうスティグマは文化社会的な影響を強く受けて生じることが論じられる。それに関して無用な疑念を招かないよう一点だけ指摘しておきたいことがある。なおここから先の記述は著者が明示的に述べているわけではなく、訳者個人の見解なのでその点に留意して読まれたい。

 

精神病に対する社会(とりわけ家族)の影響を強調する説は、一九六〇年代から七〇年代にかけてかつて一世を風靡したことがある。たとえば本訳書と同じ版元から刊行されている『引き裂かれた自己』『狂気と家族』『家族の政治学』などを著したR・D・レインはその代表格の一人で、訳者もかつて熱心に彼の諸著作を読んでいた。だが一九八〇年代に入ると、彼らの業績はあまり取り上げられなくなった。その点に鑑みて、本書は当時の思想の時代錯誤的な蒸し返しなのではないかと思う読者がいるかもしれない。しかしそうではない。ではその違いは何だろうか? まず次の点を指摘できよう。レインらの著作は当時隆盛を極めていた反精神医学の風潮を反映しており、その衰退とともに彼らの説も徐々に顧みられなくなっていったという経緯があるのに対し、著名な精神科医を輩出してきた家系の出身者である著者に、今さら反精神医学を蒸し返すつもりなどないことは明らかであろう(反精神医学に関する言及は第10章にわずかながら見られる)。

 

しかしもっと重要な相違点がある。それは最近一〇年ほどで神経科学、遺伝学、進化科学、認知科学などの諸科学が急速に進歩した点である。本書の著者は人類学者であることもあり、それらの科学にはほとんど言及していないが、本書が書かれるようになった背景には、脳を含めた身体(ならびにそこから生じる心)に文化や社会が影響を及ぼすメカニズムが急速に解明されつつあるという昨今の状況がある。つまり一九六〇年代や七〇年代には、反精神医学的な言説の裏づけとして臨床的証拠はあったとしても、イデオロギーが先行して科学的証拠が皆無に等しかったのに対して、現在では科学的知見がかなり蓄積されつつあるということだ。その知見とは病の生物心理社会モデルとも言えるもので、それによれば病は生物学的要素と心理的要素と文化社会的要素が複雑に絡み合って生じる。よってどれか一つの要素のみを取り上げることは、病いの理解を歪めることになり実践的にもさまざまな問題を生む。

 

ここでこの見方に関して、訳者が翻訳を担当し、よって内容を十全に把握している二冊の本を簡単に紹介しよう。一冊はスザンヌ・オサリバン著『眠りつづける少女たち――神経科医謎の調査する出た』(紀伊國屋書店,二〇二三年)である。著者のオサリバンは神経科医であり、同書では、とりわけ心理的要素の強い病いが、いかにして文化社会的な影響によって生じるかが具体的な症例を用いて論じられている。そのメカニズムの説明には、最新の脳科学の知見である脳の可塑性や予測(符号化)などの概念が援用されている。神経科医であるオサリバンが、病いの文化社会的側面を無視して生物学的側面のみを強調することの問題を指摘しているのはきわめて象徴的だと言えよう。

 

もう一冊はリサ・フェルドマン・バレット著『情動はこうしてつくられる――脳の隠れた働きと構成主義的情動理論』(紀伊國屋書店、二〇一九年)である。同書でバレットは、情動の発露や他者の情動の知覚において文化や社会が必須の役割を果たしているとする構成主義的情動理論を提起している。とりわけ不安や恐れなどの情動が精神病にも密接に関係する点に鑑みれば、その情動が文化や社会の影響を受けるのなら、精神病もそれらの影響を受けることになろう。なおバレットも社会が情動に影響を及ぼす生物学的メカニズムの一つとして脳の予測をあげている。

 

とはいえ誤解が生じないようにつけ加えておくと、以上は、いかに身体の一部としての脳、ならびにそこから生じる心と、文化や社会が相互作用するかについて、現在では半世紀以上前とは比較にならないほど解明が進んでいることを示すものであって、著者は、生物学的要因だけで精神病を説明しようとすることに反対している点に留意されたい。それについてはとりわけ第13章を参照されたい。

 

ここまでの説明で本書が難解であるような印象を与えたかもしれないが、実際には一般読者向けに書かれた本書は非常に読みやすい。また本書の実践面での射程は非常に長い。たとえば本書では詳しく論じられていないが、文化や社会には当然メディアも含まれ、昨今のメディアについて考えるよいきっかけを与えてくれるだろう。あるいは精神病が法の領域にも関係するのは周知のとおりで、本書はその理解にも役立つだろう。

 

 

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