◎先崎彰容著『国家の尊厳』(新潮新書)
あちゃらを向いた人は、「国家の尊厳」などというタイトルを見ただけで全身がさぶいぼと化すんだろうけど、個人的には、国家はまさに私めが言う中間粒度のまとめ役として必須の存在だと考えているので、これは非常に重要なテーマだと思っている。また本書の著者は先崎彰容氏で、先日取り上げた氏の『本居宣長』(新潮選書)における宣長の「もののあはれ論」の解釈が、わが最新訳書『文化はいかに情動をつくるのか』のOURS型アウトサイド・イン情動の概念にきわめて近く非常におもろかったので(これに関してはそちらのページを参照されたい)、同じ著者の本を買ってみたというわけ。ちなみにこの本は3年ほど前の2021年に刊行されており、コロナなど、具体例としてあげられているできごとはその当時のものとなっている(したがって、光陰矢の如しの現在ではやや古く感じられる面も多分にある)。
『国家の尊厳』は、まさにその新型コロナウイルス感染症の話から始まる。次のようにある。「今、世界はグローバル化の極北にあります。¶グローバル化は国際化と訳すよりも、移動の時代と考える方が事態を正確に捉えられると思います。日本から遠く離れた場所で発生したウイルスが、国境などお構いなしに駆けめぐる。その様子は、ヒト・モノ・カネが世界を還流しているグローバル社会を象徴するものです。新型コロナウイルスの感染拡大がここまで進んだ背景には、時代状況を象徴する側面があるのです。感染がヒトからヒトへと広がるものである以上、私たちの生活様式が、今回の事態を引き起こした直接原因です。¶一方で、コロナ禍は、改めて国境がもつ意味を顕在化させました。国家は都市封鎖をするだけでなく、国境そのものを硬く閉ざしたからです。国内はもちろん国際社会もまた、ヒトの移動を禁止した。それぞれの国は個別に対策を講じ、たしかに国境は機能したのです(4〜5頁)」。なお太字は著者によるもので私めが太字にしたわけではありません(以下同様)。これはまさに、国家が中間粒度のまとめ役として機能したということでしょう(成功したか失敗したかはここでは問わない)。何度も書いてきたことだけど、私めは、ジョン・レノン流の国境のない世界など現実的にはあり得ないと、すなわち中間粒度のまとめ役としての国家は、人々の生存や生活を維持するために必須の役割を果たしていると考えている。
さて先崎氏はコロナ禍における日本人の行動に「否定と感動によるつながりが蔓延している(8頁)」ことを見て取る。「否定」とは、たとえば「安倍政権がマスクを全国配布するというと、その質を酷評し、発注先との癒着を咎める言葉が溢れかえりました。また生活困窮世帯への三〇万円の給付を一旦決定したものの、全員一律一〇万円に切り替えると、その変更自体が政府の稚拙な政策決定だと糾弾されました。「否定という病」とでも名づけるしかない、混乱した苛立ちの言葉が日本を覆い、人びとをつなげていたのです(6頁)」などといった事態を指す。そんなことありましたなあ。また「感動」とは、「あるテレビ番組で、演出家の呼びかけに賛同したタレントなどが、坂本九の「上を向いて歩こう」を歌う姿を映しだし、感極まったアナウンサーが涙している(6頁)」などといった事態を指す。テレビを観ない私めはこちらはまったく知らない。そして先崎氏は、そこには「深刻な自己同一性の危機がある(8頁)」という診断を下す。次のようにある。「つまり今日、私たちは個人のレベルでも、また国家としても深刻な戦後的価値観の解体の危機に直面している。自己同一性の解体と混乱が一気に顕在化し、分かりやすい行動となって{顕/あら}わになったのが、コロナ禍なのではないか(8頁)」。そしてさらに「コロナ禍があからさまにしたのは、この自明の前提、私たちの生活の基盤や価値をつくっていた戦後の社会関係が解体したということです(9頁)」と主張する。「私たちの生活の基盤や価値をつくって」いるものとは私めの用語で言えば「中間粒度」に相当し、中間粒度は何も起こらなければ自明の前提として人々に捉えられているというわけ。コロナ禍はこの自明の前提を破壊したと言える。こうしたことから先崎氏は、「自由と民主主義、経済成長、そして個人主義を「戦後のアイデンティティー」と名づけるならば、今、求められているのは新しい国家像、すなわち「令和日本のデザイン」ではないのか(10頁)」と述べる。そして本書の目的を次のように述べる。「本書は、国内では歴代最長政権が終焉し、世界では未知のウイルスが拡散する現代社会をどう理解したらよいのかを論じます。自明の前提だった自由と民主主義、成長主義、個人主義が壊れかけている。この時代をどう読むべきか。面倒かもしれませんが、まずはしばらくの間、時代診察につき合っていただきます。¶そのうえで、新たな「令和日本のデザイン」を提言します(12頁)」。
ということで、ここまでが目次の前に置かれ、本書全体の目的を提示する序章の内容になる。以後が本論になるわけだけど、この本に関しては、前から順番に取り上げていく点にはいつもと変わりがないとしても、特に章や章題には拘らず、私めが気に入ったトピックを本の流れに従って取り上げていくことにする。では本論に参りましょう。
先崎氏はまず、新型コロナ禍が突きつけた問題とは、「「自由」をめぐる二つの困難な問い(23頁)」だと主張する。具体的に言えば、次のような意味になる。「私たちは平穏な生活を淡々と続けられることを前提に、私権の侵害はもってのほかだといってきた。しかしそこで求める自由とは、平穏が瓦解し想定外の事態にさらされた際、都会の片隅で給付金四〇万円の支給を待つひとり親家族を、二カ月以上にわたり路頭に迷わせることを前提とした自由なのです。¶私たちの目の前にあるのは、平時にあらゆる束縛を拒絶し、絶叫される自由と、非常時に即座に四〇万円を確保できたことで得られる「自由」ではないでしょうか。¶この二つの自由が、今回、天秤にかけられた(24頁)」。言い換えれば、「あらゆる束縛を拒絶し、絶叫される自由」とは理念的な自由であり、「非常時に即座に四〇万円を確保できたことで得られる「自由」」とは現実的、実践的な自由を意味するように思われる。ここで先崎氏は、「平時において、なぜこれほどまでに私たちは私権を主張し、権力を嫌うのか(24頁)」と問う。その一つの答えとして、先崎氏は次のように述べている。「戦前、国家に多大な犠牲を供し敗戦を経験したわが国では、戦後、一貫して国家と民主主義を切り離し、国家権力と民主主義は対立するという図式で物事をとらえてきた。現在でも、一部左派的なメディアが紋切り型の政府批判をするのは、この図式がある意味わかりやすく時代を裁断する「ものさし」に使えるからでしょう(24〜5頁)」。ところがこのような捉え方には問題がある。次のようにある。「しかしこの図式は、戦後日本という平時を解釈する際には有効だったとしても、コロナ禍のように、政治学者カール・シュミットのいう「例外状態」であっては、解釈の基準にはなりえません。弱者をどう救済すべきか、という問いを捨てるならともかく、危機的状態で最初に困窮する人に手を差し伸べるためには、自由のあり方をより柔軟に考える必要があるからです(25頁)」。カール・シュミットと言えばナチスの御用学者として評判はあまり芳しくないわけだが、コロナ禍の時期に、彼の思想が新書本や選書本などの一般向けの本のなかでさえ頻繁に取り上げられていたのは記憶に新しい。私めも、ナチスの御用学者であったという事実だけで、彼を簡単に切り捨てることはできないと思っている。
ここで先崎氏は、現代社会におけるこうした様相を捉えるために、私めには初耳のモイセス・ナイムという人が書いた『権力の終焉』という本を紹介している。何でも「マサチューセッツ工科大学を卒業し、ベネズエラ開発相や世界銀行の理事などを歴任した才人(26頁)」なのだそうな。ナイムは、まず「障壁の消滅」という現代の現象に注目するらしい。「障壁の消滅」という事態とは次のようなことを意味する。「確固たるチャンピオン、すなわち強力な権力が存在し、それに挑戦する複数の者たちがしのぎを削る。これが以前の社会構造でした。企業を例にすれば、以前は先進国に大企業が存在し、小国や発展途上国、地方はその存在を仰ぎ見て、影響を受けることで精いっぱいだった。¶ところが現在、小国の無名企業が飛躍的な成長を遂げて、大企業が数十年をかけて蓄積してきた実績をあっという間に奪い去っていく。そして巨万の富を背景に、今度は老舗やグローバル企業や一流ブランドを買収して、丸々と太っていくわけです(28頁)」。そして「こうして従来、長年の蓄積によってつくりあげた巨大企業や集権的な権力が乗っ取られていくことを、モイセス・ナイムは「権力の終焉」と名づけ、現代社会を読み解くためのキーワードだと主張した(30頁)」のだそうな。またナイムは、「現代社会は、More(豊かさ)革命、Mobility(移動)革命、Mentality(意識)革命が原因で「障壁」つまり大企業や国家権力、それらが蓄積してきたノウハウを解体してしまう(30頁)」と主張する。ちなみにこれらの革命は合わせて「3M革命」と呼ばれるらしい。そしてこの「3M革命」によって、世界は無秩序に陥り、大きな権力が終焉することで、熟練の解体と知識の喪失がもたらされると診断する。
先崎氏は、このようなナイムの主張を「一言でいえば、相対化と無秩序への警告(38頁)」として捉えている。ここでいう相対化とは「複数の価値観や権力が乱立し、自らこそは正義であると主張するカオス状態のこと(38頁)」で、無秩序とは「前時代の価値観の否定は、蓄積されてきた文化への敬意や歴史感覚を人びとから奪います。情緒的で一時的な情報に飛びつく傾向を現代社会はもってしまう(38頁)」ような事態を指す。そして先崎氏は、このようなナイムの主張に基づいて現代の状況に関して次のような診断を下す。「ナイムの指摘した相対化と無秩序は、権力を拒絶し引きずりおろし、各人が絶対の自由を求めることに原因があります。¶だとすれば、私たちが勘違いしているのは、人間には完全な自由が存在する、ということではないですか。豊かさ革命も、移動の自由も、意識革命も、要するに、「もっと欲しい!」という、自分が絶対的な自由を得られるという妄想です。それが収拾のつかない相対化を世界的規模でもたらしている。¶しかし自由には必ず義務や拘束、すなわち制限が伴うはずです(39〜40頁)」。
もちろん先崎氏は、自由それ自体を否定しているわけではなく、制限の伴わない自由など存在しないと言っているのですね。自称リベラルはよく、「言論の自由」やら「表現の自由」やら、何かと「〜の自由」を主張して騒ぎたがる。しかし彼らは、まさにこの「制限の伴わない自由など存在しない」ということを忘れている。あらゆる制限から解放されることが自由なのではなく、何らかの目標に対して主体的な行動を取れることが自由であるにもかかわらず。これはあとで登場する「〜からの自由」と「〜への自由」の違いにも関係する。ちなみに自称リベラルは「自由は日本国憲法によって保証されている」と言いたがるけど、たとえば第一二条には、「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ」とあり、後半の文言では、まさに自由に対する制限が規定されている。憲法を金科玉条のようなものとして扱っているわりに、自分たちには都合の悪いこの後半部をまるっと無視しているのが、現代日本の自称リベラルたちなのですね。だから彼らには大きな違和感を覚えてしまうわけ。本来のリベラリズムは、そんなふわっとしたものでなく、もっとチビシイものであるはず。その一端は、先日取り上げた『アメリカ現代思想』などを読んでもわかる。先崎氏も、第一章のまとめとして次のように述べている。「人間には「絶対的な自由」などありえないということ、自らが生きる時代と場所(国家)という制約を受け入れざるをえない、ということに私たちは気づくべきなのです(42頁)」。
次のトピックは「戦後民主主義」。そこでまず取り上げられている人物は、中国文学者の竹内好。中国文学には興味のない私めは名前しか聞いたことがない。先崎氏は、日米安全保障条約改定をめぐる岸信介内閣の強行採決に関して書かれた竹内氏の評論「民主か独裁か」に言及して次のように述べる。「そこで竹内は、民主か独裁か、これが今回の強行採決の最大の争点であり、中間はあり得ないといっています。安保闘争は日米の外交問題ではなく、日本国内の民主主義の危機であり、民主主義がファシズムに対抗することが、今、もっとも注目すべき論点だというのです。(…)西洋化を急ぐ国家権力が「上から」の近代化を推し進めるばあい、そのナショナリズムは近代主義であり、市民生活のリズムを破壊し、犠牲にし、反革命的にならざるを得ない。一方で市井の人びとが、国家権力が推し進める近代化に反抗し、「下から」の革命として立ち上げるナショナリズムは肯定すべきであり、民主主義の萌芽だというわけです(47〜8頁)」。この文脈で「ナショナリズム」という言葉が登場する意味はよくわからないが、何でも「竹内の民主主義イメージの背景には、当時の新興アジア諸国のナショナリズムを意識した面がある(47頁)」のだそうな。言ってみれば、これは「階級闘争史観」あるいは「下剋上史観」そのものだと言えるでしょうね。
この竹内氏の考えに対して、先崎氏は次のように述べる。「ここには、戦後民主主義的な思考パターンの典型があります。国家と民主主義を対立的にとらえ、批判することをヨシとする。国家批判=民主主義=革命=善という図式、これこそが「戦後のアイデンティティー」であり、リベラル派のあるべき姿だといえるでしょう。¶竹内のばあい、肯定的なナショナリズムは、当時の中国をはじめとするアジアの発展途上国でした。戦前の日本は、政府主導の上からの近代化を推し進め、器用に国民国家をつくった。しかし帝国主義的膨張を防げず「悪いナショナリズム」であった。一方の中国には、民衆から立ち上がってくる、下からの健全なナショナリズムがあるというわけです。不器用な民主主義こそが、竹内の提案する理想のナショナリズムでした(48頁)」。その後の毛沢東の文化革命を見ても竹内氏は同じことを言っただろうかとおもわざるを得ないよね。しかしいずれにせよ、現在の野党や左派メディアの態度を見れば明らかなように、この「竹内図式」が今日まで大きな影響を及ぼし続ける次第になる。次のようにある。「かくして今日にいたるまで、「竹内図式」はきわめて大きな影響力を発揮してきました。民主主義とは何かと問われれば、権力を批判することであり、権力を拘束することが立憲主義だということになった(51頁)」。だからネットでも、「憲法は政府を拘束するためにある」などといった抵抗権や革命権に基づいた見解が(言っている本人は気づいていないのかもだけど)、今でもまことしやかに語られているわけ。
それに対して「市民の能力を無条件に肯定するリベラル派の善意の民主主義を否定し、竹内図式を転倒させようとし(51頁)」、「市民ではなく、大衆という言葉を用いてその衆愚性を指弾し、戦後民主主義への警戒感を強調してきた(51頁)」少数の保守主義者も存在してきたと先崎氏は述べる。とはいえコロナ禍にあっては、いずれの見方も通用しなくなったというのが氏の見立てで、それにもかかわらず「野党やマスコミはその変化に気づかずに、相変わらずの図式で政権批判を繰り返している(51頁)」と批判する。さらに次のようにある。「新型コロナウイルスは、戦後民主主義という「ものさし」では理解できない事態を生んでいます。戦後一貫して私たちを支配してきた価値基準、支配者VS.被支配者という「戦後のアイデンティティー」はもはや通用しない。リベラル派の紋切り型の主張が意味をなさないとすれば、それを批判とすることを{生業/なりわい}としてきた保守の側にも限界がきている。衆愚批判をしているだけでは、現実をとらえられないのです(55頁)」。個人的な見解を述べれば、左派的な「階級闘争史観」「下剋上史観」はイデオロギーにまみれ過ぎていてとても歴史的な事実を説明するものではないし、保守の衆愚批判はそもそも前提が間違っていると思っている。その前提とは「一般ピープルは愚かである」というもので、その見立てがなぜ間違いかはあとで述べる。
さてここで、先ほども登場したカール・シュミットが再び登場する。シュミットの特徴は、「自由主義と民主主義をわけて考えるべきだと主張した点(67頁)」にあるそうで、次のようにある。「シュミットは、堕落した議会主義は、自由主義的なのだと主張します。議会では政治的な問題が、あたかも重要な事柄として自由に討論されているように見える。しかし実際は、彼らは饒舌なおしゃべりに明け暮れているだけであり、社交的な言葉の戯れがあるにすぎない。さまざまな価値観のあいだに優劣をつけず、一つの議題について結論をくだすことができない会話が続くのです。¶つまり自由主義とは、意見の多様性の尊重に見えるが、実際は何ら決定することができない状態を指しています。多様性が多様性のままでは、政策を実行できないからです。¶では政治本来の姿とは何か。シュミットの考える政治とは「決断」にほかなりません。自由な討論とおしゃべりは平時であればそれもよいでしょう。しかし非常事態、戦争などの「例外状態」に直面した時、私たちは決断することを強いられます。即断即決しなければ、死に直面するからです(67〜8頁)」。そしてシュミットは、現代のわれわれにとっては驚嘆すべきことに、独裁と民主主義を肯定的に結びつけるのだそうな。次のようにある。「民主主義は、多様な意見を集約し、多数決によって一つの政治的決断にまでもっていく行動のことを指すのです。決断と民主主義が結びつく理由がここにあります。そして非常時において最終決断をくだせる者は一人である以上、ここに「委任独裁」が肯定的に出てくるわけです。独裁と聞けば否定的なニュアンスを感じられますが、リーダーシップと訳した途端、そのイメージは変わるのではないでしょうか(69〜70頁)」。
先崎氏は、このシュミットの見解を、コロナ禍の各国の政策に適用して次のように述べる。「新型コロナウイルスで、ヨーロッパ諸国が相次いでおこなったロックダウンは、シュミットのいう決断に相当するものでしょう。人々の行動に法的拘束力をもつ制限を加える。その権限が大統領や首相に集約されている状態は、まさしく委任独裁のようにも見え、シュミットからすれば民主主義本来の姿とさえいえるかもしれません。¶一方のわが日本においては、どうでしょうか。¶緊急事態宣言発令のための法改正を、野党との党首会談でくり返し「お願い」することで成立させた。本来であれば一月中に発令できた緊急事態宣言は、四月にまでずれ込むことになったのです。¶私たちは、この「遅さ」にこそ注目しなければなりません。シュミットの言葉でいえば、この時、日本人は民主主義の決断よりも自由主義の討論の方を選択していたことになります。問題は、コロナ禍という「例外状態」において、シュミットの「決断」の方が正しいのか、日本政府の自由主義的対応の方が正しいのか、判断が極めて難しいという事実です。時間の遅速に着目すれば、欧米諸国がとったロックダウンは「速さ」を求め、日本政府は「遅さ」を選択したことになる。¶そして「速さ」すなわち即効性の優等生が中国であり、西欧諸国は自らが築きあげてきた自由と多様性尊重の価値観を、今回、放棄したともいえるのです。近年の中国の政治的台頭は、従来の欧米型の価値観に、中国型の国家体制が挑戦してくることを意味します。(…)わが国の対応の「遅さ」の原因は、今回の非常事態においてなお、平時の自由主義的対応を取り続けたことにあるというのが本質的な原因だと思うのです(70〜2頁)」。
これを読んでいると、日本の対応の「遅さ」が問題なのか、中国に典型的に見られる独裁的な「速さ」が問題なのかよくわからないところがあり、「え! いったいどっちなの?」と思ってしまった。実際、先崎氏は、「多様な意見の殲滅を説くシュミット型民主主義は、きわめて攻撃的です(71頁)」とも述べているので、「殲滅」や「攻撃的」という通常はネガティブな意味を持つ言葉を使っている以上、「速さ」を肯定的に捉えているようにはどうしても思えない。先崎氏自身もそのようなあいまいさを認めるかのように次のように書いている。「シュミットの自由主義と民主主義についての評価と、東日本大震災の極限状況を知った私たちは、簡単に「遅さ」を否定も肯定もできるものではない(72頁)」。どうやら著者の言いたかったのは次のようなことらしい。「攻撃性の有無と時間の遅速こそ、日本の民主主義を評価する新しいものさし、「令和日本のデザイン」のヒントになるものなのです(72頁)」。あるいは「現在の世界情勢が、(…)時間感覚をどんどん圧縮している時代であること、むしろ「例外状態」が常態化している社会であること、これが情報化とポピュリズムに翻弄される私たちの時代の民主主義、すなわち「新しい民主主義」の姿なのです(75頁)」とある。ということは、「遅い」のがいいのか「速い」のがいいのかという価値判断は抜きにして、現状の正確な分析には「攻撃性の有無」と「時間の遅速」を評価基準にする必要があるという主張のようにも思える。ここがこの本のなかでも、もっともわかりにくかった。とはいえ一点だけ言えるのは、コロナにしろ、ウクライナ戦争にしろ、テロにせよ、「例外状態」が頻繁に生じる現代のような時代においては、最終的にどのように評価するかは別として、シュミットの見解を端から無視し去ることはできないというのは確かでしょうね。
さてさて次に取り上げたいトピックは、直前の引用にも登場した「ポピュリズム」について。そもそもポピュリズムとは何か? この問いに関して先崎氏は次のように回答する。「ミュデとカルトワッセルの共著『ポピュリズム』は、簡潔に、ポピュリズムの特徴を三点にわけて説明しています。それは人民とエリート、そして一般意志こそが、ポピュリズムを特徴づけるキーワードだというのです。¶具体的には次のようなことです。ポピュリストは、国内の人びとを「汚れなき人民」VS.「腐敗したエリート」に徹底的に二分します。そして政治エリートや経済エリートによる代表制を嫌い、ルソーの『社会契約論』の概念として有名な一般意志、つまり直接民主制を支持するというわけです。国内の対立が鮮明になることが、ポピュリストが望む状態です。社会が多元主義であることは、ポピュリストにとって警戒すべき状況であり、善悪の対立軸がはっきりと目に見える状態こそ、好都合です。¶したがって彼らは二項対立を生みだすこと自体が目的であって、特定のイデオロギーを持ちません。ポピュリズムは「空っぽの記号表現」だとミュデとカルトワッセルは強調します。人びとを動員すること自体が目的なので、特定の信条をもつことはなく、自由主義であれ社会主義であれ、イデオロギーの保守と革新など構わずなんでも受け入れる。反エリート的衝動は、政党や官僚制など政府組織の批判となり、「普通の人びと」が正義なのだという主張だけが大事なのです(87〜8頁)」。まあ実際に左派ポピュリストと右派ポピュリストの両方がいるしね。ここまではミュデとカルトワッセルの見解らしいけど、先崎氏はそれに次のような独自の見解をつけ加える。「ポピュリズムが民主主義と決定的に異なるのは、やはり「速さ」にかかわります。ポピュリズムが多元主義を嫌うのは決定に時間がかかるからであり、一般意志による直接民主制の方を好むのは、短時間で決断できるからです。¶さらにいえば、ここでの一般意志は、情報に一喜一憂する現時点での人びとの意見を意味しており、まったく歴史的時間を感じさせません。一般意志という言葉から、祖先からの伝承や継承の声がまったく聞き取れないばかりか、本人の意見自体が転変をくり返し、その内容が持続する時間が短くなってしまう。世論調査や支持率が、一カ月単位ではげしく変動してしまう。その民意は「汚れなき人民」によって表明された正義であり、エリートへの対抗として、ほぼ無条件に正しいと思われている(88〜9頁)」。
ここで先崎氏は、「民主主義は、そもそも本来、ポピュリズムなのでしょうか(94頁)」という問いを立てる。そしてその問いに答えるために、民主主義の歴史を簡単に振り返るがそれについてはここでは触れない。代わりに最後の結論の部分だけ引用しておく。次のようにある。「だとすれば、民主主義とは、その出自において次の三つの特徴を備えていたといえないでしょうか。¶第一に、自由とは自己同一性解体後の私利私欲にすぎないということ。自由は奔放な性の快楽にすぎないということ。¶第二に、民主主義はバラバラの個人の衆愚政治にすぎないということ。攻撃性を抱えた個人が、王に私利私欲の実現を要求し、受け入れられなければ革命と政変をつづけてしまう不安定な政治体制だということです。¶そして最後に、霊魂や祖霊の信仰の忘却が民衆の心を貧しいものにしたこと。歴史と時間の否定こそが、自由と民主主義を特徴づけているということです(100〜1頁)」。過激な発言にも聞こえるけど、当たっている部分もあると思う。
そしてさらに次のように主張する。「アメリカ発の自由と民主主義は、個人の過剰競争とデーモスの登場を生みだし、世界を席巻してしまうのです。政治はポピュリズムに堕し、政策決定の「遅さ」に耐えられず、ロックダウンや独裁型の政府による経済封鎖と、荒立つ市民に分断されてしまう(104頁)」。「アメリカ発の自由と民主主義」とはレーガン流の新自由主義を指していると思われる。なお文中にある「デーモス」とは、「伝統的な価値観一切を「無意味な繰り言」と否定し、登場してきた(100頁)」庶民を指すらしい。つまりアメリカ発の自由と民主主義が、(右派)ポピュリズムを生み出してきたということなのでしょうね。と論じたうえで、先崎氏は「民主主義とは何か? という問題を、日本の文脈で問わねばならない(113頁)」と主張する。まず、前述の竹内図式に再度触れて次のように述べる。「この図式によれば、戦後民主主義とは、国家権力に対抗することを意味し、国家VS.市民とされていました。抵抗や闘争が民主主義のイメージであり、何より問題なのは、「市民はつねに正義である」という硬直した倫理観であると指摘しました。¶この竹内図式に代表される思考様式を「戦後のアイデンティティー」と呼ぶならば、この「国体」は、耐用年数をむかえている(113頁)」。現在でもこの竹内図式を信奉している人々が大勢いることも、すでに述べた。先崎氏の観点からすれば、現在の日本でもデーモスが支配しているということなのでしょう。
そしてさらに、現代日本に関して次のようなチビシイ指摘をする。「三島[由紀夫]が戦後日本を中間色、と定義していることが重要です。¶日本は無色透明で、どこの国とでも入れ替え可能な特色しかもっていないからです。経済的な豊かさで自国らしさを定義している限り、それは不況に陥れば雲散霧消する不安定な自己像にすぎない。しかし本来、アイデンティティーとは、時代状況や景気によって左右されない価値基準ではないでしょうか。入れ替え可能な特色とは、実は何の特色もないということとおなじではないのか。(…)また他国との比較によって、自己像が変化するのもおかしいでしょう。アメリカの極東戦略の渦中で、あわただしく憲法が制定され、中華人民共和国の成立(一九四九)や翌年の朝鮮戦争への対応として自衛隊が作られたのだとしたら、この国のかたちは米国の思惑に左右されているだけではないか。日本国憲法と自衛隊もまた、「自分らしさ」を担保してくれるものとはいえないではないか。しかもこれらの上に、日本人は七〇年以上にわたり自由と民主主義というラベルのついた蓋をして、健全な国家だと思い込んできた。この言葉さえ唱えていれば、国際社会は振り向くものと思い込んでいるのです。¶戦後日本は、本当に「日本」なのでしょうか。国際社会において、この国は「名誉ある地位」を占めることができているのか(119〜120頁)」。確かにこれは問われてしかるべきでしょうね。日本が国際社会において「名誉ある地位」を占めていないことは、湾岸戦争当時、おじぇじぇだけ出した日本だけ、カタールの感謝広告から外されたことが象徴的に物語っているしね。
次に取り上げたいのはルソーについて。ルソーについてはポピュリズム取り上げた箇所ですでに言及されていたけど、ここではもう少し詳しく論じられている。ここで先崎氏が参照しているのは、スイスの批評家ジャン・スタロバンスキーの『透明と障害』ですね。スタロバンスキーの本は三〇年以上前に何冊か読んだことがあるけど(『作用と反作用』や『病のうちなる治療薬』だったと思うが、さすがに内容はよく覚えていない)、久々に彼の名前を聞いた。で、先崎氏はこの本をもとに次のように述べている。「ルソーは否定的な人間像を前に、自分自身の手でこの世界を変えられるはずだと考えはじめます。何よりも「行動」こそが、ヴェールで被われた世界を変えるのだとルソーは決断します。原始的な森を逍遥し、桃源郷のような調和した場所に思いをはせ、時間に振りまわされずに生きている状態を夢想しました。あるときは、殺伐とした社会にすら、無垢な魂をもった素朴な人びとを発見し、「このままでよいのだ」と現実を受け入れました。またあるときは、道徳心に溢れた人びとがつくる理想的な民主主義政体を頭のなかで思い描き、『社会契約論』を書いてみた(132〜3頁)」。要するにルソーの考えは理念的なユートピア思想なのですね。このような理念的なユートピア思想は、過去にそれを見出すか(右派国粋主義)、未来に見出すか(左派ユートピア思想)の違いはあっても極右と極左で共有されている。個人的にはどちらも現実を軽視する危険な思想だと考えている。
先崎氏はさらに続ける。「ルソーは、人間社会とは深刻な分裂を抱え、他人同士が理解しあえない世界だと思っていた。人と人とのあいだには障害が横たわっており、この夾雑物を取り除くことは現実では不可能である。でもだからこそ、もう一つの世界、自我の世界に立てこもり、文字によって障害も分裂もない透明な理想郷を取り戻したい。それは神がいる世界を描くことにほかならない、したがって、『社会契約論』の「一般意志」も理想の共同体を表現したものなのだ、と(134頁)」。要するに、ルソーの思想は現実を軽視した理念的な妄想だと言えるのかもしれない(と、ヘタレ引き籠り翻訳者の私めが申しておりまする)。フランス革命から始まって、ロシアや中国での革命を経て、現代の日本の自称リベラルに至るまで、まさにこのルソーの理念的な妄想に取り憑かれているというのが、私めの見立てなのですね。先崎氏は、このルソーの思想を三島由紀夫のそれに比べているけど、それについては省略する。
次のトピックはすでに言及した「〜からの自由」と「〜への自由」について。これに関するハンナ・アーレントの考えについては前出『アメリカ現代思想』[ページ内検索ワード:「への自由」]で取り上げたけど、ここではヴァルター・ベンヤミンとカール・シュミットの互いに相反する見方が取り上げられている。まずベンヤミンについて次のようにある。「ベンヤミンのばあい、法や国家などの秩序の存在は、自明の前提とされています。ベンヤミンが強調するのは、既存の価値観からの解放、すなわち「〜からの自由」なのです。解放をあたえてくれる力は「神的暴力」と名づけられ肯定の対象となる(153頁)」。ではシュミットはどうか? 次のようにある。「一方のシュミットのばあい、一切の秩序や日常は想定外の暴力、たとえば戦争によって勝手に瓦解すると考えられています。日常は一瞬でも気を抜けば戦争や暴力が露出し、例外状態へと化けてしまうのです。シュミットにとって、例外状態の方こそが常態なのであって、むしろ秩序こそ、たとえ独裁者を登場させてでも取り戻したいという立場なのです(153頁)」。こうして見ると「たとえ独裁者を登場させてでも取り戻したい」というくだりの是非を別とすれば、現代の状況をうまく捉えているのはシュミットの方だと言える。ここからも、ナチスの御用学者だったからと言ってシュミットを簡単には無視できないことがわかる。先崎氏もそう考えているらしきことは、次の記述からもよくわかる。「私たちは今や、極めてプリミティヴなことを考えねばならない時代に生きている。店舗を拡大することよりも、どうやって現状の解体を防がねばならないかに注力しなければならない時代を生きている。ベンヤミンの「〜からの自由」ではなく、シュミットの「〜への自由」の時代が到来したということです(155頁)」。私めなら、現代は革命ではなく真の政治が必要とされている時代だと言うでしょうね。
そして先崎氏は、それを現代の日本に当てはめて次のように主張する。「社会全体でフリーランスが増えるということは、日本国全体が脆弱性を増していくということです。一旦、世界規模の危機が到来すれば、人間関係が瓦解しやすい構造になったということです。にもかかわらず、日本は九〇年代以降も、率先して「〜からの自由」を推進し、野球選手型の[フリーランス的な]人材が輩出できると考えつづけてきました。激しい流動が不安定ではなく、自由だと勘違いしてきた。¶こうした自由ばかりが強調されてきたのはなぜか。それはこの自由の基礎が、個人主義にあるからです。一個人の自由を絶対的に重要なものとみなし、何よりもかけがえのない絶対善の位置に鎮座させたからです。個人主義もまた自由や民主主義同様、戦後の日本を支配した第一の価値観、すなわち「戦後のアイデンティティー」だった。一九九〇年代以降の一連の規制緩和や新自由主義経済は、戦後的価値がより徹底化されたともいえるのです(159頁)」。では先崎氏はどうすべきだと主張しているのか? 次のようにある。「筆者の考えでは、創造的な発想は、規制緩和や「〜からの自由」を叫んでもでてきません。過剰な個人主義からもでてこない。恐らく逆であって、今の日本にはある種の精神的な安定を供給すべきであり、「〜への自由」という基盤があってこそ、新鮮な発想や個性が生まれてくると思うのです(160頁)」。そこで先崎氏が参照するのは、イギリスの保守主義者マイケル・オークショット。ただし長くなってきたので、オークショットについては別の本で言及されていたときに取り上げることにし、その詳細はここでは省略する。
さてさて次に取り上げるトピックは、アーレントによるコモン・センスの考え。まずアーレント自身が書いた次の文章が引用されている。「私が他の人々と接触しているということに、つまり、他のすべての{感覚/センス}を規制し統制しているわれわれの{共通/傍点}感覚(common sense・常識)に依存している。そしてこのコモン・センスなしには、私たちの一人々々は、それ自体としては当てにできぬ不確実なものである自分自身の感覚的な知覚の特異性のなかにとじこめられてしまうだろう(197〜8頁)」。私めなら「コモン・センス」は「直観」と呼ぶ。直観は直感とは異なり、ぞんざいな原始的な能力ではなく、遺伝子と文化の共進化によって人間が獲得してきた、生存や生活に資する合理的な能力をいう(直観と直感の違いについては『あいまいさに耐える』[ページ内検索ワード:「直感」]を参照されたい)。先に「一般ピープルはバカではない」と言ったのは、まさに一般ピープルにはこの合理的な能力が備わっているからなのですね。むしろイデオロギーに絡み取られるとこの合理的な能力の発露が妨げられ、おかしな言動や行動を取る結果になる。多くの人々はこの点をまったく理解していない。それについてはすでに何度も述べてきたのでここでは、わが訳書、ヒューゴ・メルシエ著『人は簡単には騙されない』やヒューゴ・メルシエ&ダン・スペルベル著『The Enigma of Reason』を参照されたいとだけ述べておく。
先崎氏はこのアーレントの「コモン・センス」の概念に関して次のように述べている。「コモン・センスとは共通感覚とも常識とも訳される言葉です。多数の人間がヨシとする価値観に支えられていない個人は、自分の中に閉じ込められてしまうとアーレントはいっています。私たちはふつう、自己判断、個人主義こそ自由で解放されていると思うわけですが、アーレントの主張は逆なのです。¶自己判断とは明確な価値基準がなく、他人の芝生が青く見え、他者に翻弄される状態であり、自己の中に閉じ込められてしまう。それよりも、社会に共有されている価値観を、自分が物事を判断する際の支え、視座にすることで、私たちは安心して判断をくだすことができる。他者からの承認で、満足が得られるわけです。¶何より、コモン・センスには時間の蓄積と実績がたっぷりと含まれています。幾多の試練と検証を経たうえで形作られてきたのが、常識なのです(198頁)」。
さてここまでで、本書のタイトルと同じ章題を持つ終章以外の章を取り上げたわけだけど、この結論とも言える章の内容に入る前に一点だけ苦言を呈しておきたい。それはトランプや、とりわけトランプ支持者の扱いに関して。個人的にはトランプには、当たり前田のクラッカーながら良い点と悪い点があると思っているが(だからトランプを全面的に支持するわけではない)、それについてはこれまで何度も指摘してきたのでここでは繰り返さない。ただ彼や彼の支持者に対する学者先生の否定的な扱いには行き過ぎたところがあるとは思っている。先崎氏がそうだとは言わないが、なかにはトランプはまだしもトランプ支持者があたかもサイコパスやソシオパス、あるいは陰謀論者のたぐいであるかのように書いている著者までいる。それがほんとうならアメリカ人のほぼ半分がサイコパスやソシオパス、あるいは陰謀論者のたぐいであることになってしまうが、そんなバカなことはない。しかも左向きの著者も右向きの著者も、トランプとなると一様に批判に専念しているのですね。「トランプに対してなら何を言ってもいい」という風潮が左派メディアによって醸成されているようだが、それが暗殺未遂事件を何度も引き起こす間接的な要因になってはいないだろうか? それはかつて日本の左派のメディアや自称知識人が安倍氏になら何を言ってもいいという風潮を醸成し、そのような風潮のなかで山上某のような人物が出現したのにも似ている。
ということで本書の例をあげると、私めは、たとえば次のような記述を読んで学者特有?の無神経さに辟易としてきた。「先に取りあげたトランプ支持者(…)には、決定的に時間の厚みがありません。危機を前にして一気に凝集し、「自分はないがしろにされている」という感情を元手に声をあげる。それは極めて個人主義的な怒りであり、敵対的な共同性です。寛容とは正反対の荒廃した精神状態に、己を乗っ取られている。¶なんと他者への「尊厳」を忘れていることか(220〜1頁)」。まあこの口調そのものがいやらしく、率直に言って「他者への「尊厳」を忘れている」のは、かく言う先崎氏自身ではないのかね?」と思ってしまった。そもそもトランプ支持者が「自分がないがしろにされている」と考えていると思っているのは先崎氏自身であって、彼らがほんとうにそう考えているかどうかは、現地でトランプ支持者にインタビューしない限りわかりはしない。それとも氏は、そのような実証的な調査をしたうえ、あるいは他の研究者のそのような調査を参照して言っているのだろうか? その点は参考文献に関する記述がないからよくわからん。思うに先崎氏は、自分の思い込みをトランプ支持者に投影しているだけではないのか。もちろん「自分がないがしろにされている」と思っているトランプ支持者もかなりいるのだろうが、そういう人たちはむしろある程度生活に余裕があるからこそ、そう思えるのではないだろうか? でもラストベルト地帯の白人中間層などには、マジで生活が困窮して「トランプさんならなんとか助けてくれるのでは」と藁にもすがる思いで彼を支持している人も大勢いるはず(もちろん私めも実証的なデータに基づいてそう言っているわけではないけど、それを前提に立論する方が余程公正というものではないだろうか)。先崎氏は、そういう人に面と向かって、あなたは「寛容とは正反対の荒廃した精神状態に、己を乗っ取られている。なんと他者への「尊厳」を忘れていることか」などと言えるのだろうか? あるいは初めの方に登場した「給付金四〇万円の支給を待って、二カ月以上にわたり路頭に迷っていたひとり親家族」が、その事情に関して声を上げたら、その家族に対して先崎氏は同じことを言えるのだろうか? もし言えないのなら、なぜトランプ支持者には言えるのか? 思うに、先崎氏はトランプ支持者というよりトランプ氏の顔を思い浮かべながらこれを書いたのではないかとさえ思える。
ちなみにこれまで随分とトランプ氏に言及する学者先生の本を読んできたけど、そのなかで少しでも肯定的に評価することを書いていたのはマルクス・ガブリエルしかいない。どうやらトランプに関して少しでも肯定的なことを書けば学者失格になるというヘイトにも近い不文律が、思想信条に関係なく学者先生様のあいだにはあるのではないかとさえ思えてくる。トランプなどまるで関係のないポピュラーサイエンス本にすら、トランプ批判が登場したりするのだから。あちゃらにはトランプ錯乱症候群(つまりトランプという名前を聞いただけで発狂する病気)なる言葉があるそうだが、まさにそんな感じね。でも、これは不幸なことだと思う。なぜなら、それではなぜトランプのような人物に、アメリカ人のほぼ半数が投票するのかがまったく理解できなくなるから。彼らの多くはトランプに扇動されているわけでは決してなく、現実的な問題を抱えているというのがほんとうのところなのだろうと思う。つまり真の問題が見えなくなるってこと。まあ「支持者」の前に「トランプ」とつくだけで、この扱いはひどいでしょってことね。その種の扱いは、前述した『文化はいかに情動をつくるのか』の訳者あとがきでも述べた、移民問題を右傾化というイデオロギーのせいにして、人びとの生活という現実問題から焦点をそらそうとする日本の左派メディアの扱いにも同じようなことが言える。その手の扱いは真の問題を隠すことにしかならない。ただし同様にかつて安倍晋三錯乱症候群患者による罵声の標的だった安倍氏に対しては、先崎氏は批判を含めきわめて公正かつ客観的に評価しているという印象を受けた。トランプはいかにも赤鬼のような粗野な顔をつきをして粗野な言葉を吐くから、憎しみを抱かれやすいのかもしれない。
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※以下の枠内のみは、米大統領選の結果が出て、トランプの当確が決まった2017/11/7につけ加えている。なお枠内の内容は、『国家の尊厳』の内容とは直接関係しないので留意されたい。
著者の先崎氏は、この新書本や『本居宣長』を読んだ限り、特に左派的なイデオロギーに絡み取られているという印象はまったく感じられない。しかし話がことトランプ、あるいはトランプ支持者となると、どうにも公正には思えないような記述が散見される。これはやはり日米の左派メディアの影響が大きいのではないかと考えられる。ところが選挙結果は、その左派メディアの言説とはまったく逆になった。左派メディアが問題なのは、左派イデオロギーをもとに予想や議論を展開していることにある。でも、アメリカに住む一般ピープルの有権者にとってもっとも大事なのは、イデオロギーなどではなく自分たちの生活の安寧であるはず。このことを忘れると、トランプ支持者に対して「寛容とは正反対の荒廃した精神状態に、己を乗っ取られている。なんと他者への「尊厳」を忘れていることか」などという恐ろしく不公正な判断を学者が下してしまうことになる。
トランプで確定した本日のツイには、「トランプが大統領になるアメリカはこれから暗黒時代に突入する」などというものもあった。もちろんそのツイをした人がそう考えるのはまったく自由だけど、肝心なことは、アメリカで生活しているアメリカの有権者の半数以上(ちなみに今回は8年前と違って選挙人の数のみならず総得票数でもトランプが上回ったらしい)が、「トランプではなくハリスが大統領になったら暗黒時代に突入する」と考えていた点をきちんと認識しておくことにある。実際にどうなるかはここでは関係がない。ここを間違えてはならない。有権者がどう考えているかをできるだけ正確に把握しない限り、適切な戦略など立てられないからね。今のリベラル陣営は、あまりにも自分が正しいと信じ込み過ぎていて、他の一般ピープルがどう考えているかなどまったくお構いなしのように思える。それで自分の期待する結果ではない結果が出てしまうとあれこれ理屈をつけて自分たちの考えの不備を都合よく無視しようとする。そのへ理屈たるや、あまりにもばかばかしくて涙がちょちょ切れる。たとえば「ハリスはガラスの天井に突き当たった」というへ理屈がその一つ(これってどこかの大学の先生がテレビで言ったの?)。違うだろうね。単に有権者の多くが、「ハリスは米大統領としてふさわしくない」と考えていたから落選したんだよ。女性であることは特に関係ない。民主党内でさえ彼女の能力は疑われていたという話さえあるくらいだからね。他の国には優秀な女性の政治家はいくらでもいるわけだし、アメリカは「ガラスの天井」が問題になるくらい女性の権利という面で遅れているの? あるいは次の事実を考えてみればよい。8年前にヒラリー・クリントンがトランプに負けたときは総得票数ではヒラリーのほうが勝っていた。つまりヒラリーが破れたのは、「ガラスの天井」ではなく選挙人制といういびつな?選挙制度のせいだったことになる。というのも逆のパターンだったらトランプのほうが負けていたはずなんだから。ところが今回は、ハリスは総得票数でもトランプに負けているらしい。ということは、単純にハリスの力不足を有権者に見抜かれたというのがほんとうのところでは? まあネットでよく見かける失礼な書き方をすれば、有権者の過半数にとっては、つまり民意の示すところではヒラリー>トランプ>ハリスだったってことではないのか? ところが前回は、選挙人制のせいでヒラリーは負けてしまった。つまりヒラリー自身は、決して「ガラスの天井」のせいで負けたわけではなかった。だからその時にヒラリーが負けたのは、「民意によってではなく選挙制度のせいだ」とリベラル陣営が主張したのであれば、それは私めにもある程度理解できる(トランプも同じ条件のもとに置かれていたということを考えればそれにも無理はあるけどね)。それに対してハリスは、「ガラスの天井」を理由にしなければならないほど、弱い候補だったということなの? ならば負けないほうがおかしい。「ガラスの天井」などというへ理屈をコネてそれで納得していたら、真の負けた理由は決してわかりはしない。またそもそも、それを持ち出すこと自体、「あんたヒラリーよりダメじゃん!」というハリスに対する侮辱に他ならないと思うぞ。まさに「なんと他者への「尊厳」を忘れていることか」だよね。
それから「学歴差別」がツイのトレンドに上がっていたので、パラパラと読んでみると、どうやら誰かがトランプに投票した人は学位を持っていない人が多かったとかいう主旨のツイをしたことに端を発しているらしかった。そのツイに対して「学歴差別」という非難があがり、さらにその非難に対し、トランプに投票した人に学位を持っていない人が多かったことは事実だという再反論(ウォールストリートジャーナルか何かに掲載された記事をもとにしているらしいので事実は事実なのでしょう)があったりして炎上していた。しかしこの議論は、私めの見方からするとどちらもまったくの的外れなのですね。なぜなら、学位をうんぬんするツイをした投稿者の間違いは、それが学歴差別にあたるか否かとはまったく関係がないから。そうではなく、「学位を持っていない人は合理的な判断を下せない」という前提を立てている点が第一の間違いなのですね。つまりどちらのサイドも、「差別」という一種のイデオロギー的な観点からこのツイを評価して、ああだこうだと罵り合いをしているのがそもそも間違いだということ。「ヘタレ翻訳者の読書記録」でしばしば書いているように、人は一般に、生存や生活にかかわることに関しては合理的な判断を下せるのですね。もし生存や生活にマイナスに作用するような形質が存在するとしたら、そのような形質は進化の過程でとっくに淘汰されているはず。合理的な判断が下せないのは、むしろイデオロギーに捉われた学卒者のほうだと言えるかもしれない。それに関してここでは詳細は述べないので、このあたりの議論は、前述のヒューゴ・メルシエ著『人は簡単には騙されない』などを参照されたい。
ところでこの学歴の件は、聡明でまともな民主党支持者が持ち出すはずはないと思っている。なぜなら、共和党支持者には学位を持つ人が少なく、民主党支持者には多いという事実は、実は民主党の政策批判にもなりうるからなのですね。だからこの件は、トランプやトランプ支持者を叩くために、「学歴も教養もなく、合理的判断すらできない烏合の衆によって、トランプは大統領に選ばれた」と主張する目的で、トランプ錯乱症候群患者が持ち出したのであり、まともな民主党支持者は関わっていないだろうと、私めは考えている。その理由を説明しましょう。共和党支持者の多くには学歴がなく、民主党支持者の多くは高学歴だというこの事実は、別様にも解釈できる。つまり、高学歴の人とは違って学歴のない人は優良企業に入社できず、少ない収入でカツカツの貧しい生活を強いられている人が多いと考えられる。端的に言えば、彼らの多くは弱者なのですね。その弱者が共和党を支持しているということは、民主党よりも共和党のほうが、本来民主党のスローガンの一つである弱者救済に貢献しているということの反映であると見なせる。そのことに気づいてさえいれば、おいそれと民主党支持者は、この事実を「残酷な事実(よく知らない映画監督らしき人物がツイでそういう言い方をしていた)」などと言って、うかつに喧伝できるはずはないのですね。重度のトランプ錯乱症候群にかかっている人は、そんな単純なことにも気づかないほど愚かだということになる。要するに「自分は愚か者だ!」と自白しているようなものなのですね。だからさすがに、この件はトランプ当選に発狂した一部の民主党支持者、すなわちトランプ錯乱症候群患者しか擁護していないと私めは信じている。
要するに、イデオロギーに捉われていたり、客観的であるべき学者が「寛容とは正反対の荒廃した精神状態に、己を乗っ取られている。なんと他者への「尊厳」を忘れていることか」などとトランプ支持者をこき下ろしたりしていては、アメリカの半数を超える有権者がなぜトランプを支持したのかをほんとうに理解することなどできないということ。移民問題を「右傾化」というイデオロギーのせいにすることにも同じことが当てはまるが、それについては前述のバチャ・メスキータ著『文化はいかに情動をつくるのか』の訳者あとがきを参照されたい。端的に言えば、それらは人々の生存や生活の問題なのであり、人々は自分たちの生存や生活がかかっている中間粒度の安寧に非常に敏感なのですね。だからハリスが副大統領だったバイデン政権のエネルギー政策や国境政策の影響がモロに出てしまったということ。この敏感さが増幅してみごとに顕現したのが、トランプがスイングステートをたぶん総取りするであろうことだと思っている(これを書いている時点ではまだ100%開票していない州があるが、そこもトランプ優勢になっている)。
ここでリベラルの学者がいかに他者の観点からものごとを見ることができていないかを示す格好の例を紹介しましょう。トランプが当選したことで、アメリカの左派メディアは日本のどうしようもない左派メディアとは違って、さすがになぜアメリカ人の半数以上がトランプに投票したかを検討するような報道が見られるようになった。そのなかでもMSNBCがあげていた動画は非常に興味深かった。その動画では、白人女性のコメンテーターと大学教授らしき黒人男性が白熱の議論を展開していた。白人女性のほうは、「経済」を無視した政策をバイデン&ハリス政権が取ったから、その一人であるハリスよりトランプを支持する人が増えたのだろうと主張した。この主張は、「経済」のみに焦点を絞り、中間粒度を支えている慣習、文化、生活様式などの他の要素には言及していない点で、やや狭いとはいえ基本的に正しいと私めは思っている。ところが大学教授らしき黒人男性はその見解に噛みついて、「いや!人種差別を無視してはいかん。あなたのように人種差別を無視することが大きな問題なんだ!」というような主旨のことを大声で主張していた。明らかにこの黒人教授は的をはずしているのですね。なぜなら、そこでなされていた議論で問題になっていたのは「なぜ有権者の半数以上がトランプに投票したのか?」であって、決して「何が正しいのか?」ではないのだから。言い換えると、白人女性のコメンテーターは正しくもトランプ支持者の観点から事態を見ていたのに対し、黒人教授は自分自身の観点、すなわちアイデンティティー・ポリティクスという自身のイデオロギー的な観点から事態を見ていたことになる。アイデンティティー・ポリティクスが正しいか否かはここでは関係がない。トランプ支持者という他者の観点から見た場合、世界がどう見えるのかが重要なのですね。トランプ支持者は「アイデンティティー・ポリティクス」(それをどう思っていようが)より「自分たちの生活」を重視したという点に、この黒人教授は気づくことすらできていないわけ。
ところで、白熱した議論の最中にまったく奇妙なことが起こった。それは黒人教授のほうからだったと覚えているが、いきなり相手に向かって「I love you!」と言い出したのですね。ハリウッド映画などを観ているとわかることだが、「I love you!」という表現は、日本語の「私はあなたを愛しています!」とは違って、あらゆる生活の側面で、恋人同士のみならずあらゆる人間関係のもとで使われることは重々承知している。しかしそれでも、白熱した政治的議論の最中にいきなり「I love you!」と相手に語りかけることは、相当に奇妙であるとしか思えない。だからそこには別の意図があると見たほうがよい。つまり、黒人教授は「黒人男性である私は、白人女性であるあなたを差別していませんよ!」と言いたいのですね。ということは、この教授の頭の中には、「黒人男性対白人女性」という明確な分類(あえて「差別」とは言わない)が存在していることになり、それが思わず口をついて出てしまったというわけ。問題は、一般ピープルはその種の意識を共有しているとは限らない、あるいは持っていてもそれより「自分たちの生活」を重視しているのであって、それがトランプ当選という結果として出たということがまるで分かっていない点にあるのですね。
リベラル系の学者を批判し過ぎたので、最後に一件だけ私めがたまたま目にして公正だなと思ったリベラル系学者のツイをあげておきましょう。それは哲学者の東浩紀氏の次のツイ。「ちなみに、ぼく自身はトランプは支持してません。けれどもトランプが多くの人に支持されたという現実は認めるべきだと思う。それが認められず、大衆はバカで騙されているで片付け、なぜリベラルが負けたかを考えるつもりがないひとは、現実について語る資格はないですよ」。東氏は哲学者だからか、さすがに公正でまっとうな見方ができていると思う。先にあげた黒人教授の態度とは正反対だと言えるでしょう。
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苦言が長くなってきたので、そろそろ終章に参りましょう。最初に結論が次のように述べられている。「あらかじめ結論をいいます。令和の日本は、「尊厳とコモン・センス」をキーワードにした国づくりを目指すべきだというのが、筆者の意見です(204頁)」。先崎氏は、ここで再びアーレントを持ち出して次のように述べる。「アーレントは『全体主義の起源』の中で、大衆社会とエリートの関係に注目し、人間が集団化することを警戒しています。知識人や芸術家たちは、第一次大戦以前の社会を{旧/ふる}い価値観が支配する窮屈な世界だと考えており、大戦はこれらを破壊するという意味で肯定していたのでした(213頁)」。そういえば、戦争を擁護していた未来派の画家たちを思い出すよね。さらに続けましょう。「束縛感からの解放を求めたエリートは、結果的に、一切の伝統的価値や従来の規範や尺度に冷笑を浴びせかけました。そしてラディカルであることそれ自体を賛美したのです。まさに感動=行動することそれ自体を、根無し草の大衆を先導しつつエリートは肯定したのです(213頁)」。現代日本の自称知識人にも「ラディカルであることそれ自体を賛美」しているとしか思えない人々がいるよね。
終章の最後のほうにある「「普遍性」という暴力」というタイトルの節は非常に重要だと思うので、「引用し過ぎだ、ごらああああ!」と怒られそうだけど全文引用しておきます。「日本は自身の影響力に気づかないまま、世界から警戒され、異端視されている。「そうだとすれば、日本は単なる当面の個別的な政策の表明と実施に留まらず、その長期的展望に立ったうえでの方針を内外に明らかにし、自分が何者であるのかという点について明確な解答を提示する必要に迫られている」。¶九〇年代以降の日本が選択した道を思い出してください。第三章で論じたように、九〇年代以降の日本は、八〇年代のレーガン政権型保守主義を輸入することで、米国との軋轢を回避してきました。アメリカの自由と民主主義をほぼ無条件の前提として受け入れてきた。¶しかし坂本[日本政治思想史の専門家である坂本多加雄]は、この点についても戦前の京都学派を参考に、次のように語っていました。¶イギリスや日本にとって、デモクラシーはあくまでも「手段」である。自国の発展をめざし、国家像を実現するための手段に過ぎない。ところがアメリカにとって、自由と民主主義は「目標」そのものである。なぜならアメリカの建国の理念、国家像そのものだからである――。¶移民によって構成され、肌の色もお尻のかたちもまったく異なる個人同士が、一つの国家をつくり、そこに所属意識をもつ。そのためには、具体的民族的特徴ではなく、イデオロギー、誰でもいつでも所属可能な自由や民主主義、人権などの理念が必要なのだと坂本は考えました。だからこそ自由と民主主義は、アメリカにとって、世界全体に布教すべき絶対善だという主張がでてくる。アメリカの理想は、人類の理想でなければならないのです。¶坂本にとって、問題は、民主主義であれ自由経済であれ、アメリカが自己の理念を「普遍的」だと考えていたことです。¶普遍的である以上、世界の他地域はその理念に服さねばならない。普遍的とは、その甘美な響きとは裏腹に支配欲の別名である。他者の存在を認めない自己絶対化なのです。¶これを筆者なりにいい直せば、アメリカとは、自己同一性がないことを唯一の自己同一性にしている国、ということになる。誰でも入れる無色透明な容器のような国だということです。無色透明であることが特色なのであり、きわめて特異な体質の国家だともいえる。¶少なくとも、日本とはまったく異質な歴史をもった国であることは、自覚しておくべきでしょう。¶九〇年代は、冷戦終結によって世界が多元化すると同時に、アメリカの普遍性が世界の秩序を確定していく時期でもありました。それは戦前、第一次大戦後の世界秩序がつかの間の安定を終え、再び第二次大戦の混乱と多頭化にむかう再現でもありました。少なくとも坂本はそのように考え、自由でも民主主義でもなく、普遍性の強制でもない、日本に独自の国家像を主張すべきだと考えたのです(225〜7頁)」。普遍性、あるいは普遍的な理念に基づく思想はきわめて危険なのですね。だからこそ「日本に独自の国家像を主張すべき」ことが重要になってくる。
かくして先崎氏は、次のような言葉で本書を締め括っている。「危機のときほど、国家のデザインが必要となる。¶この暴力的な時代を、どう生き抜くのか。¶日本は今、国家として、尊厳ある国づくりが求められているのです(232頁)」。ということでおおむね先崎氏の議論には同意できる。ただし先述のとおりトランプやトランプ支持者の扱いは公正さを欠いていると思えることと(これは先崎氏に限った話ではなく、日米の左派メディアの影響を受けてか、思想信条の如何を問わず多くの日本の学者が公正さを欠いた扱いをしているように思われる)、著者が「遅さ」をどのように評価しているのかが一度読んだだけではあいまいであるような印象を受けたことはマイナス点と言えるかもしれない。
※2024年11月1日、2024年11月7日(枠内部分のみ)