
「インドが貧しいなんて嘘ですよね」
「ぼくは豊かだと思うよ」
「こんなにモノがあふれているじゃないですか」
「・・・・・」
ある日本人旅行者との会話。
まあ、そうなんだけど、少し違うような気がする。モノがなかったらインドは貧しいのだろうか。
話はそれるけど、「哀れな貧しい」子供たちへの募金。これ、何を言ってもケチな自分に対する言い訳みたいに響くので対処に困ってしまう。
それから、たまに現れるんだな。議論の場で、エゴイズムや南北問題や世界の貧困などが話題になると「私は毎月○万円、仕送りをしています」という方が。悪いけどさ、具体的な金額を出された段階で鼻白んでしまう。「微力ながら」とかの日本語を知らないのかね。
ま、それもいいけど……。
気になるのは判で押したように、学校へ行きたくても行けない貧しい子、哀れな子、○円出せば○人の子の尊い命が救えますとかの台詞。それはそれで正しいと思う。立派な行為だと思う。ある問題がお金で解決できるのなら、それは素晴らしいことだ。
でも、私は問いたいのだ。
だったら、あなたは世界一貧しく哀れな日本の青少年に何をしていますかと。
何をバカな、と思われるでしょうねぇ。
でもねぇ、私はインドの子供が日本の子供より不幸とは思えない。
学校へ行けるだけで幸せなんだろうか。
なぜ登校拒否が増えているのだろう。
お菓子もおもちゃもいっぱい与えられ、でも、それが幸せなのか。
空腹を感じるのも不幸なら、食べられるものを平然と捨ててしまえる心も不幸なんじゃないかな。私はそんなふうに考えるんだ。
子供だけじゃない。常に何かに苛立っている若者。モノをたくさん持って、精一杯のおしゃれをして、遊び回っているのに満たされない心を抱いている若者。つまり、お金やモノの数以外にも世の中には幸福を測る尺度があることを教えられていない子供たち。
そもそも幸福を金額に換算することって、貧しいんじゃないの。
「それは価値観の違い。自分自身の問題じゃありませんか」
「正にそのとおりです。私もそう思います」
例えば諸悪の根元のようにいわれるカースト制度。確かに縦構造で見たら、一見平等社会に思える日本から比べたら、とんでもない差別が存在するかもしれない。でも、カーストにはギルド的な性格もある。すなわち同カーストのつながり、横構造。同属意識を持って同じ職場の老人と子供が語り合う。それは横構造の希薄な日本から見たら羨ましい光景でもある。
わざわざ外国まで出かけるのは、そういった別の視点を得られるチャンスだから。こればかりはテレビや活字などの間接情報からは簡単に得られるものではないし、むしろ「わかったつもり」になるほうが怖いことに思える。
で、哀れな貧しい人たちに私が何をしているか。
それはとっても単純で、「哀れな貧しい」なんて偏見を抱かずに接すること。それだけ。
だって、抱かないってことよりも、わざわざ抱くほうが能動的に行動するわけだから、大変なはず。そして、彼らから新しい別の幸福を学ばせていただく。そのことに感謝させていただく。それが簡単にできるのがインドの魅力でもある。
ただし、裏を返せば、日本では難しいってことになる。
実は、私、哀れな貧しい日本の若者をあまり好きになれないんだ。