【雑記帳】
あれこれ
simpleline
 ××のおかげで棒に振った壱年

【ダメポの2011年・総まとめ】
 四捨五入全方向における創作モチベーションの異常なほどの低下は、更新履歴が雄弁に語っている。今年は「最低を意識できないほど最低」だった。創作不調なんて氷山の一角にすぎない。休日は引きこもり、人と会う気にもなれない。生活全般に於いて「記録更新的最低」の1年だった。

 実は腰痛がひどかった。慢性化し、時に立っていられないほどの激痛に襲われ、最近は身体の前屈にも不自由している。既に書いたかもしれないが、我が腰痛は事故発生地ヴァラナシ、発症地バンコクの由緒正しいインターナショナル腰痛なのである。整体にも行ってみたが、何の効果も現れないので止めてしまった。不思議な事に慢性化すると諦めでも慣れでもなく、そんなもんだと普通に受け入れてしまっていた。ネガティブな心の適応かもしれない。
 ところが、最近になって気づいた。
 腰痛腰痛と一括りにしているけれど、以前とは何かが違っているぞ。

 アホみたいに気づかなかったのは、その進行(変化)がゆっくりゆっくりの少しずつだったことにある。で、もしかしたらと疑ったのが布団。一応は腰に気を使っているから敷き布団を羊毛から「通常より3倍の硬さ」と能書き付いた新素材のマットレスに換えてからおかしくなっていったのでは。でも、買ったのは昨年?それ以前?

 とにかく思い立ったら即実行。気力低下のおかげで捨てずにいた古い敷き布団を引っ張り出してみた。もちろん一晩で効果が現れるはずもないが、1週間ほど経過した頃にまったく予想外の変化が現れた。すなわち……こうして書いているではないか。 \(^o^)/

 まさかの展開である。自分でも本当にわからなかった。チョー低調の原因が腰痛、さらに言えば寝具に関係していたとは!
 1ヶ月ほど経過すると確信も深まり、腰痛も少しは楽になってきた……むしろ、以前の腰痛に変わってきた。
 わかってみれば、わからなかった自分が愚かしい。
 されど、かなり恐ろしい事ではある。

【海外】
 もちろん最低。ほんと、出かけるつもりだったんだよぉ。(泣)
 旅行代理店へ行ったり、ネット予約しようとしたり、春頃から積極的に動いていたのだが、常に常に何らかの横やりが入った。それがあまりにも続くものだから「こりゃ、呼ばれていないのかも」とトーンダウン。
 某有名代理店の格安ツアー(往復にホテルがつくだけ)は1名参加の追加料金の高さに「詐欺じゃん!」と言いかけた。ネットで見つけた航空券が予約寸前に満席になること数回。とにかくチケットが取れない。
 予告なしで突然インドのヴィザ取得条件が変わったのを知っている人はいるかな。ホテルの予約や所得を確認できる書類が必要なんて、個人旅行者はインドに来るなと言っているようなものだろう。当然ながら、1ヶ月も経たないうちにひっそりと従来の条件に戻された。しかし、その1ヶ月の間に影響を被った者もいたわけで……。
 決定版は何度目かの計画が頓挫したバンコク。もし行っていたら正に洪水の真っ最中。今年は呼ばれていないぞと痛感するには十分だった。

【写真だけは】
 1年間の撮影枚数は4000枚。それもこれも仕事のおかげである。GPSマップを前回と比べれば一目瞭然。都内はほぼ満遍なく、南は横須賀まで遠征した(させられた?)。
 しかし、まあ、CGや音楽の制作、さらには録音と比べても、シャッターを押すだけの写真はパッシブに近いアクティブである。一瞬だけ集中できれば写真は撮影できる。皮肉にも今年の自分に合致していたのが幸いした……というのが実情かも。
GPSmap2
 今年のフェイバリットとも言えるのが、ワイドズーム。見知らぬ町を歩きながらの撮影では実に重宝する。極端な話、トリミングすればクローズアップ可能で望遠の代役になる。しかし、引きだけはどうにもならない。実際に使ってみると使いこなしがかなり難しいとわかったが、下手なシャッター数打ちゃ当たるなのだ。
 ちなみにタイのニコン工場が水没して、最安値が一気に1万円上昇した。これまた一瞬の集中が幸いした。

【本とか音楽とか】
 今年はパス。日本経済にほとんど貢献していない。アタリも小粒という印象。ワクワク感に乏しい1年だった。
 オーディオはオークションでアナログプレーヤを購入。ささやかながら底上げした。

【神奈川】
 好奇心の満たされ度で急上昇しているのが神奈川。
 今年後半から仕事で行く機会が増えている。量の変化が質の変化をもたらし、横浜のほんの一部しか知らなかった(告白すれば「知る必要もない」が多くの東京人の本音)神奈川が少しずつ見えてきた。
 ざっくばらんに言えば、坂の多さから神奈川県全体が東京の多摩丘陵みたいな地形。現在の私鉄沿線の発展度は正に未知の世界。あるいは鎌倉が近い事から鎌倉仏教とつながりのある寺社が多かったのも新発見。中華街、横須賀、戸塚、溝の口、川崎の大阪・新城など印象に残る町も多い。それ以上に何の特徴もない普通の住宅街を訪れる事で、東京と違う空気感みたいなものが脳内データベースに着々と蓄積されている。

【アニメは大豊作】
 今年はアニメの当たり年だった。
 実写版映画も公開された『うさぎドロップ』は今までに類のない作品世界を広げたように思う。タイトルからぶっとんでいる『電波女と青春男』は徹底してアニメオタクの嗜好に沿った怪作で、この路線では『僕は友達が少ない』や実写版『荒川アンダー・ザ・ブリッジ』などが並ぶ。このあたりの作品は公言を躊躇させるテイストがかなり濃い。作品的には好みでなかった『M』も世界金融を題材にした冒険的な作品だった。等々、主に深夜枠で良質の作品が続々と生み出され、アニメ大国宜なるかなと再認識させられた1年だった。
 それらの中でベストを挙げるとしたら、フジテレビ系列で放映された『あの日見た花の名前をぼくたちはまだ知らない』で間違いないだろう。近年まれに見る傑作で、何度繰り返し見ても涙腺が刺激される。

 はっきり言って、およそアニメらしくないアニメである。地球の滅亡が迫るわけでも、現実離れした美少女が現れるでも、布団を簀巻きにした電波少女が暴れるわけでもない。ストーリーだけでなく、舞台設定、各登場人物の描写、台詞、いずれもアニメだから可能な誇張はほとんどない。ヒロインめんまが幽霊であることを除けば……。
 小さなリアリティを丁寧に積み重ねたから、各登場人物の抱える(目に見えない)心の傷が等身大の痛みをもって伝わってくる。誰もが登場人物の誰か、それも一人ではなく複数に対して共感するはずだ。そして、リアルであるからその先の飛躍を我がことのように容易に想像でき、受け入れられる。

 ドラマの脚本をアニメ化したみたいな、時流とは少し外れた作品内容を制作者側も気にしていたようだが、実際は多くの視聴者が支持したようだ。量的な面ではDVDの売上数、質的な面ではネット上の多くのコメントから熱い反応を知ることができる。さらに、地上波、BSの後に異例の総集編が放映されたことからも人気の高さがうかがえる。
「必見!」なんて声高に叫ぶつもりはないけれど、自分にとっては心の宝物である。
[111226]

simpleline

【大震災】

 強い地震は縦揺れからと信じていたから、横揺れが強くなっていった今回の地震はすぐにそれとわからなかった。白状すると、ブワンブワン揺れる電線を見ながら「ずいぶん派手に解体作業をやってるな」と最初に思った。近くに現場なんてないのに……。職業病である。
 それなりの被害も被った。棚から何か落ちていないかと心配したのは、ある意味で大はずれ。全部落ちていた。床に転がったスピーカを見て、どれだけ揺れたんだよと呆然。幸いなことに横揺れのおかげで窓が開いたらしく、猫は無事に非難していた。悪運の強さは主人譲りのようだ。

 現在進行中ではあるが、今回の地震でテレビというメディアについて再認識させられた。被災地の状況、災害の規模は見ることによってはじめてリアルに伝わってくる。映像の持つ力は強力なのだが……、報道機関としてのテレビはとっくに終わっていた。正に再認識で、怒りもわかない。

 まず最初、録画中に遭遇してしまった現場の映像。ニュースと称して各地の食べ物やら旅館を紹介しているお粗末メディアである。かわいいとおいしいしかボキャブラリーを持たない自称リポーターに報道なんて無理な相談。普段求められている(視聴者に優越感を与える)おバカリアクションそのままで、キャーキャー騒いでいただけ。素人以下である。
 当日翌日のスタジオ内アナウンサーも同様。冷静な報道とは無縁な不安を煽るバカ発言続出。誰とは言わぬが、ニュース原稿を読む前は芸能リポートなどを担当していた輩が最悪。針小を棒大に表現するのが染み付いているのだろう。
 局名は失念したが、生放送の最中に警報が入ってきたことがある。女性アナウンサーの慌てた早口では何を言っているのかわからない。しかも、周囲のスタッフから「繰り返して!」と叱責されるまで、黙って座り続けていた。これまた素人以下。

 一段落後もひどい。何度も繰り返されたのが「政府が情報を出してくれない」の不平不満。放射能値を知りたければ、秋葉原へ行って計測器を買ってくればいい。データは貰うものじゃなく、自分で集めてくるものだろう。報道の基本姿勢が完全に欠落している。
 材料を揃えられないうえに分析もできない。常に専門家がスタジオに呼ばれ、テレビ側の人間は素人の立場で聞いているだけ。反論もなければ、検証もない。完全に受け身である。局内に科学部を持つのはNHKだけなのだろうか。……だろうなぁ、年に数回程度のマジメな科学ドキュメントなんかはほとんど外注だもの。

 わかっていないのに報道している。これが日本のテレビ。
 そして今は、予想どおりの美談作りに勤しんでいる。

[追]
 ビンラディン殺害のニュースが飛び込んできた。日本を含む各国のニュースが似たりよったりの中で、唯一(見た範囲では)BBCだけは違っていた。
 どこで入手したのかわからない独自映像と詳細な説明が含まれていたのは公式発表以外に取材していることが明らか。(日本のテレビ局は配信された公式発表に頼っているのだから二次情報だわな。)
 しかし、BBCが本当にすごいと思ったのは、発表後の質問に対するスポークスマンの反応から、公式見解の裏まで見通していたこと。
 殺害された中に女性が含まれていたそうだが、ビンラディンが盾にしたという公式発表と女性が自ら前に立ったというBBCの取材では中身がまるで違ってくる。そして「盾にしたのは本当か」の質問にスポークスマンは明言を避けたという。これこそ報道だわ。
[110502]

simpleline

【GPS】

 高機能な携帯電話の説明どおりで、iPhoneはそれ以上でも以下でもないと思った。が、例外的に感心させられたのが撮影機能。ケータイにカメラなんて珍しくもないし、デジカメを凌ぐ描画性能を持っているわけでもない。違うのはGPSと連動していること。撮影した場所のデータが写真に書き込まれるのだ。
 iPhotoで撮影データをブラウズすると(他にも対応したブラウザはいくつかある)、地図上に撮影地が表示される。便利という価値観に懐疑的な自分が「とっても便利!」と嬉しくなる。ポツポツと並んだマークをたどると、自分がどこをどのように歩いたのかが見えてくる。これが楽しい。誤差は数メートル以内。
 一度知ってしまうと、GPSデータのない写真には戻れない。

GPSmap
それにつけても、あっちこっち行ってますな……

 過剰気味の興奮は我がままな散歩のスタイルに関係する。
 すべてに言えることもかもしれないが、決められた道が嫌いなのだ。脇道が現れれば入りたくなる。面白さが足りないと思えば1本隣りの道に即コース変更する。そして「思わぬ発見」と出会ってニンマリなのである。

 多分1981年だったと思うが、そんな散歩をしていたカルカッタで素敵なお菓子やさんを見つけた。砂糖でリアルに作られた野菜や果物はまるで和菓子。およそインドらしくないスイーツで、他所ではお目にかかったことがない。しかし、カメラは1年間の酷使で故障していた。手がかりもなく、再訪したくても店の場所がどうしても思い出せない。大学の周辺だったように思うが、正に気まま散歩の功罪そのもの。今でも気になってしょうがない。

 だから、散歩中の写真には交差点や住居表示などを意図的に含めている。位置情報だけが目的だから、写真的にはムダなショットと言える。GPSデータがあれば、それが不要になる。余計なことを考えずに、好奇心を全開できる。

 GPSデータのない写真には戻れない。後は早い。
 ところが、GPS機能付きのデジカメが意外とない。以前話題になったはずなのに、既に生産が終わっていたりする。
 最終的に選んだのは、本末転倒に響くだろうが……ニコンのGPSユニットとそれを付けるための一眼レフ。いかにもカメラ然とした一眼レフには軽い抵抗がある。しかし、まぁ久しぶりに手にするのも悪くない……のかなぁ。

 十代の頃、自分を表現できる手段は写真と信じていた。レンズにもこだわりがあったし、現像・引き伸ばしの暗室作業もやっていた。ところが、野宿旅の北海道で天啓を得てしまった。出会った旅人同士で路上宴会をした時に「一人だけさめてシャッターを切るより祭りを楽しめ」と。
 初めて海外に出る時も「オレは四角い窓から世界を見たくない」と持っていくつもりはなかった。出発直前にオモチャみたいなコンパクトカメラを購入したのは自分なりの折衷案。
 デジカメを使うようになったのも「メモ機」として。現在の普及機よりも非力だったから、気楽にバシャバシャ。本人がオモチャ感覚だから写される側も気楽。おかげで、良い表情が撮れるではないか。というわけで、インドで5000枚も撮影してしまった。しかも、期待していなかったニコンレンズの描写力が好みにぴったり。

 という経過からすれば、ニコンの一眼レフ(D3100)を選んだのは必然みたいなものだが……。このカメラについては語りたくない。
・軽量・コンパクトが売りだが、軽すぎるために水平を出しにくい。
・ズームレンズとは言え、開放値5.6は暗すぎ。
 なんて印象は、要するに本格的な一眼レフとしての評価。メモ機としての評価と再反対でもある。いやいや、それ以前の問題として、そういう見方をしてしまう自分がイヤなのである。気がついたらカメラバッグを下げて、中には撮影機材がいっぱいなんてことになるのがイヤなのである。
 能天気に「よく写るよ~」とタリラリラーンしていればいいのだ。
 オレは今でも四角い窓から世界を見たくないのだ。

 存在を主張するボディの上に無骨に乗ったユニット。iPhoneのカジュアルな撮影と差があり過ぎ。それでも、GPSデータ付きでちゃんとした画質の写真が得られるは楽しい。ザックの底に入れ(携帯するのもカジュアルではなくなった。トホホ)仕事が早く終われば、帰り道で50枚から100枚ぐらい撮影。あっという間に写真が増えていく。
 そして……、何となく対象を被写体として見るようになっている。
 だから一眼レフを敬遠していたんだ。
 大丈夫か、オレ?

 もちろん、こんな屈折した写真観を持たない普通の人(&旅行好き)にGPS付きカメラは絶対のオススメである。
 (あまりに写真っぽい最近の写真)
oiwainari
 四谷の於岩稲荷
gohtokuji
 豪徳寺境内
[110424]

simpleline

【誰も気づかない?】

 台場地区の一角で新車発表会が行なわれている。普段使われない名目だけの駐車場はイヴェント開催に打ってつけで、台場地区にはそんなだだっ広い空き地がまだ残っている。
 開催から1週間。今日も試走車が目の前を通っていく。この手の催しにしては長期で、力が入っていることがわかる。miniのcrossoverというのが新車の名前らしい。世界に影響を与えたイギリスの名車だ。
 しかし、3ナンバーを付けた試走車が目の前を通っていくと何とも解せない気分になる。他の車ならまだしも、仮にもminiである。おばさんにセーラー服を着せただけで『女子高生○○』やら『ロリータ××』のタイトルを強引に付けていた初期エロメディアを彷彿させるではないか。って、私だけか?
 ま、それは本題ではない。
 問題は会場である。写真右側の文字に注目。
getaway
 getaway、get away? 多分、gatewayのつもりなんだろう。
 ゲット・アウェイなら「逃げろ」程度の意味である。ゲッタウェイならペキンパー作品。でも、米語発音のゲラウェイならニュアンス的に「あっち行け」だな。ゲラウェイ、ゲラウェイと続けたら「邪魔、邪魔」とか「しっし!」と追い立てる感じ。ついでにget away from hereならゲラルヒヤーで「失せろ、この野郎」ぐらいの強い罵倒語になり、暴力的な映画でよく使われている。
 会場設営から1週間そのままである。イギリスの自動車を売ろうというイヴェントなんだけどねぇ。
 入り口へ向かったら「あっち行け」かよ。ドヒャ。
[110127]

simpleline

【長き停滞からのご挨拶】

 本当に長いトンネルでしたと過去形で語って良いのだろうか…。
 漠然と感じていたことの輪郭は見えてきた。変化の兆しもある。
 多分、質・期間共に我が人生最大のスランプに陥っていた。文章が書けないのは氷山の一角にすぎず、あまりにも鈍くなってスランプの自覚すらうっすらとしか持てなかった。何かを変えようと思っても、休日になると「次でいいや」と思ってしまう。そして流れた年月を意識した時、これは絶対にヤバいと思った。いや、その総てに「鈍く」の副詞が付いてしまうところが今回のヤバさなのである。
 鈍いなりに漠然と計画していた散歩が、やはり「次でいいや」で1年以上延期していることに気づいた。まだ「変だな」程度の認識敷かなかったが、考えてみればあれもこれもと同類が浮かんでくる。しかも焦りがない。これは絶対に異常だ。
 経験はないが、阿片中毒になるとこんな感覚に陥るのではないだろうか。

 すべての流れが淀んでいた。
 鬱病ではない。しかし、漠然とヤバさを感じながらも原因がわからない。原因がわからないから対処のしようがない。ただ、思い返してみると現在のヒドい状態はこのアパートに引っ越してきてからゆっくり始まったように思える。あるいは現在の部屋のレイアウトで生活を始めてからと言い直してもいい。
 鈍った頭ではそれ以上は無理だ。理路整然と考えられないなら解釈がオカルトでも良いのである。オカルトとは段階的に進むべきはずの検証・考察がスポーンとクォンタムジャンプしてしまう論理を指す。故に非科学的と呼ばれる。
 結論はこうだ。気の流れが淀んでいる。
 風水がどうのといった裏付けはない。根拠なし。いきなりの結論だからオカルトである。ただ、瞑想を続けていた頃にはその土地の持つ波動を感知する能力を持っていた。別に信じてもらわなくてもいいが、視覚によって風景を愛でるように、その土地独特のヴァイブレーションを感じるのも旅の楽しみのひとつだった。
 まあ、理屈はどうでもいい。
 直感の裏付けをとろうと調べようとしても、どうせ鈍くしか進まない。気がつけば1年なんてことになるはずだ。何か勇ましく書いているけれど、部屋のレイアウトを変えようと鈍く思ったまま数ヶ月か数年経過していたのである。焦りはなかったが、やっぱりヤバいわ。

 1週間前、やはり「次でいいや」の誘惑が襲ってきたが、ついに見切り発車してしまった。きっかけはWi-Fiによるワイヤレスのネット接続。今もケーブルによる接続はできていないのだが(何たってパソコンと周辺機器、サラウンドのホームシアターになっているオーディオ関連のケーブル[含む電源コード]等々で完全スパゲッティ状態なのである)、とりあえず毎日の仕事に欠かせない気象、地図、時刻表データなどは支障なく調べられるようになっている。どんなに部屋が乱雑になろうとも大丈夫。

 室内インフラは今も整っていないが、基本的な机の位置変更はすんなり片付いた。その日のうちに文章を書けるようにもなった。残念ながら遅い帰宅が続き、加えて疲労も重なり(今年のインフルエンザは細く長くが特徴みたいだ)再開には次の週末を待つ必要があったが……。
 劇的な変化は起きていないが、前述のように変化の兆しはある。澱みを解消したことによる影響が少しずつ現れているようだ。ただの気分転換を針小棒大に評価しているだけかもしれないが、変わっていることは確か。おもしろいことに、その感覚が「思い出す」に近いのにも興味をそそられる。

 何となく立ち寄ってみたギャラリーで、作品に対して自分の目で評価できる。作家の意図がどうあろうと自分はこういう風に感じたぞと、まあ一種の傲慢かもしれないけど、そういう見方ができちゃった。そう言えば、以前はこんな風に見ていたなと思い出す。
 と言うか、今こうして文章を書けているではないか。やはりスラスラと書けないのは同じだが、この表現はおかしいなと思えば代案が浮かんでくる。先日までは決して浮かばず、少しでも引っかかればその文章は終わってしまっていたのである。

 停滞が実際にスランプと呼ばれるものだったのか。原因が本当に気の流れに関係していたのか。そして、これを復活と呼べるのか。
 早計な判断には躊躇するし、原因を深追いするつもりもない。すべて順調でも室内インフラの整備にはまだ時間がかかるから次の更新は先になるはずだ。(ついでに、現在キッチンには本の小山があり、未分類[=小物を放り込んだだけ]の段ボール箱が文字どおりの山積み)
 それでも、このウダウダに近い私事を最後まで書けたってことは大きいかも。
[101127]

simpleline

【そろそろインド】
 デリーのニュース映像を見ていたら、混雑する通りの中にアンバサダーの姿が見えない。日本なら10年もかからないで車種は一変するだろうけど、数十年主役を続けていたインドの国産車が簡単に駆逐されるとは。考えてみれば、カンパコーラもサムズアップもコカコーラに惨敗してしまったのだから予想できなかったことではないけど……少なからぬショックを受けた。

 そろそろ変わりつつあるインドと正面から向き合わないといけないのかなと考えている。巷の騒ぎから一歩引いていたのは、そう簡単に変わらないだろうと高を括っていた部分もある。ビジネスタームとしてのインドに興味がなかったことは既に表明しているはず。人間や文化を見ようとせず、巨大市場という名の、要するに銭を奪う場としか見ていない奴ら(通称・経済人)は大嫌いだ。援助であるとか発展であるとか遠回しな言い方をしているけれど、先日の車内広告でついに(BRICsの)下層も開拓市場として多いに可能性があるみたいな実にストレートな表現のコピーを目にして、かなりムカついた。
 そのスーツを着てにやけた単行本の著者は絶対に当該地域へ足を踏み入れたことがない。断言する。ただ、統計の数字を読んだだけ、百歩譲ってもデリーやバンガロールの高級住宅街もしくはオフィスビルしか知らないはずだ。そんなスカポンタンが無知な経済人を煽っている。

 残念ながらインド人は世界に冠たる内弁慶である。そして、経済と社会体制の抑圧から都市部の人間はかなり物欲が高くなっている。1カ所でも堤防が決壊すれば、外国製品という濁流が一気に肥沃な土地に流れ込む。その流れは始まっているし、誰にも止められないだろう。では、どこまで。そして明日出現する風景は。

 そのジグソーパズルを完成させるピースの幾つかを既に持っているように思う。足りないのは、正に今巷にあふれているインド情報である。まだ始めたばかりだけれど、極めてB級SF的な未来社会が見えるような気がしている。
[100221]

simpleline

【食】

 今年は食生活が少し変化。きっかけは正月に購入した話題のタジン鍋。主にマグレブの料理で使われる蓋つきの鍋で、蒸し鍋との違いはわずかだが、そのわずかな違いで野菜などの旨味がぐっと増す。ただし、早々に凝った料理は圧力鍋の方がいいとわかってしまった。
 もっぱら夜のうちにモヤシとキャベツ+他の食材(野菜、豚、サーモン等)をたっぷり入れておき、翌朝ガスコンロの栓をひねるだけの簡単調理器として重宝。今はポン酢で温野菜を食べるのが朝食の定番になっている。キャベツの芯が甘い。

 メインの調理油もサラダ油からオリーブ油へ変更。それだけで、なぜか地中海料理(イタリア、フランス、モロッコなど)がわかっちゃった。トマト、チーズ、ローレルなどのバランスを変えるだけで、何とか風になるんだな。たぶん。
 鶏肉のトマト煮などのベースになる料理を圧力鍋でたくさん作り、温め直しの時にタジン鍋が登場。そこでスパイスや他の食材など何を加えるかで、たとえばチーズを入れてイタリア風とか、自在に変身させられる。

 タジン鍋はそのまま食卓へ。鉄板焼きのようにグツグツ熱々の状態だから、今の季節にはうってつけ。洗い物も半分になって便利。というわけで、器として使うことも多くなっている。レトルトのカレーを入れると、見かけは専門店そっくり。
[100221]

simpleline

珈琲・1

 新しいというだけで価値を与えられる「若さ」が「愚かさ」でもあると気づくのが人生の転換点かもしれない。さりとて、両者が置き換わってしまったら石頭ジジイである。大人になっても常識や既存の価値観の検証・判断・修正は何度でも繰り返さなければならない。
 天下国家の話ではない。たとえばバブル経済など社会の大きな変動は否が応でも流れに巻き込まれるから誰だって考えざるを得ないはずだ。(実際は何も考えない国民が圧倒的多数だったことは歴史が語っている)むしろ厄介なのは身辺雑事、身近などうでもいいこと。自分の中で半ば常識、行動がロボット化していることをなおざりにしていると、ある日いきなり「おじさん、ズレてるぅ」と年寄り扱いされて狼狽する。(笑)

 そして、本題はまっこと身近な些事。珈琲についてである。
 私はほとんど水を飲まない。喉が渇けば珈琲。それも頑にドリップ式のレギュラー。インスタントコーヒーは買ったことがないとは言わないが、記憶する限りこれまでに1回か2回。それも台湾滞在中のことだ。

 レギュラー珈琲にこだわるのは、最初の体験があまりにも強烈だったからだ。新宿郵便局のバイト君を担当者は軽い気持ちで喫茶店に連れていってくれたのだろうが、世間知らずの高校生にとって専門店で飲んだサントスの味は正に衝撃であり、革命だった。初めて食したどんな料理も野菜も果物も、あの時以上に心底うまいと感じたことはない。

 まあ、これにはいわゆる当社比というのが絡んでくる。
 そもそも我が御両親様はとんでもない味音痴で、味付けが異常に濃いと気づいたのは世間の味を知るようになってから。そしてコーヒーと言えば、練乳を入れたインスタントコーヒーが定番。タイの田舎へでも行かないと商品にならない程度の代物(注・実体験に基づく比喩)をそれまで飲まされていた。
 余談であるが、私が何でも美味い美味いと感激して食べられるのは悲惨な食経験のなせる技だろう。その意味では感謝かもしれない?

 閑話休題。初めての珈琲体験が強烈だったので、バイト代が入るとすぐにペーパードリップ式のセットを買った。これが正にスタートであり、今日まで綿々と続いている。当時は常に数種類の豆をストックし、配合を変えては味の印象をノートに記していた。おかげで一杯飲んだだけで各喫茶店オリジナル・ブレンドの配合がわかるまでになった。器具や方式も遍歴を重ね、東京と関西の有名店巡りもした。
 こんな感じで猪突猛進したわけだから、缶入りの調合済み珈琲粉とコーヒーメーカーの組み合わせに堕した現在でも「私の珈琲はこれで決まり」と安心しきっていたのである。
 
 さて、シアトル系のコーヒー(正直に告白すると、この言葉を知ったのはつい最近のことである)が一般化したのはいつからだろう。ダイヤモンド社の人に「珈琲を飲みましょう」と誘われ、連れていかれたのは喫茶店ではなくスターバックス。知らないカタカナが並んだメニューに戸惑い、エスプレッソベースの味はともかく、カップ麺みたいなプラスチック容器には困惑した。
 やだな、これ。
 1回飲んだだけで私の中でスターバックスは「丸に済」のスタンプが押された。
 スターバックスなんて店の目新しさだけの一過性の流行と思っていたし、あれが最高という人は京都三条堺にあるイノダ新店の味を知らないのだろうなと思っていた。しかし、街の風景は変わった。どこもかしこもシアトル系珈琲ばかり。老舗のチェーン店もメニューが変わってきた。
 それでもまだ、自分の中では風景が変わった程度の認識しかなかった。

 大阪にMJB(*エムゼービー)という老舗喫茶店がある。
 30年ほど前にわざわざ関西まで出かけたのは、古き良き時代の珈琲を味わってみたかったからだ。確かに粉っぽいような、とろみのあるような「まっとり」という表現が浮かんでくる古の味だった。時流から完全に外れているけど、たまに懐古趣味に浸るのも悪くない。そんな個性的な味を頑固に出していた。
(*ネットで調べると今も健在らしいが、店名がエムジェービーになっていた。単なる間違いなのか、読みを変えたのか?)

 もしかしたら、今の自分はMJBに通う客みたいな存在かもしれない。専門店という名の喫茶店が目に見えて減ってきた。今ではコンビニでもエスプレッソやラテの名を冠したコーヒー飲料が売られている。自分が慣れ親しんだ味がいつの間にかマイナーになっている。
 味、嗜好は時間によっても変わってくる。と言って、一般家庭で飲まれているのはほとんどがインスタントだろうし、レギュラーもドリップ式、今やスーパーで売られている豆や粉も……。
 ああ、そうなのか!

 今、レギュラー珈琲はかつてのインスタントみたいな存在なのだ。遥か昔に家電量販店で働いていた時、コーヒーメーカーはそんなに売れる商品ではなかった。買うのは少数の趣味人。それ以上に豆の入手が難しく、喫茶店かデパートの売り場へ行くしかなかった。今ではマシンはディスカウントストアで2000円前後から。近所の生協にだって産地別の豆やグラインドマシンが置いてあるではないか。
 ジャーマンローストの中挽きをドリップしたレギュラー珈琲は、どこの家庭でも食後に飲める普通の当たり前の味になっていたのだ。

 家庭の味と外で飲む味が大差ないものになれば、専門店が衰退するのも自然の成り行きだし、専用マシンが必要なエスプレッソベースが主流になるのも当然の流れだろう。イタ飯ブームが高圧の蒸気を使ったイタリア式珈琲の門戸を開き、イチローのおかげでマリナーズの本拠地シアトルの知名度も上がった。タイミングもぴったりではないか。
 エスプレッソにチョコレートやリキュールなどを加えるのがシアトル風珈琲である。人気の秘密も何となくわかる。一般に特別(今回の流れでは「新しい」か?)という意味が先行して、味の解釈が行なわれる。珈琲にチョコレートを入れた味は、要するにまずくなければいい。下げるだけ下げたハードルを越えれば差異に特別という記号が与えられる。
 バターや塩、ココアなどを入れる珈琲はこれまでも一部では知られていたが、ヘルシーやリッチなどの意味が付かなかったから「変な味・変わった味」に留まったまま。今回は新しいシアトル系なのである。コーヒー牛乳と味の違いがわからなくても、カフェ・ラッテとイタリア語になれば特別に思ってしまうのが庶民。

 日本人における珈琲の位置づけは昔とちっとも変わっていなかった。そして新しいものとの出会いも文明開化の時代から変わっていない……のは日本人と限定する必要がないだろう。

simpleline

【珈琲・2】

BAR14N
 前回の続きがどうなるかは言わずもがな。
 数日後にエスプレッソマシンの包みを抱えて、家路を急ぐ姿があった。(笑)
 せっかくだから、前回の続きを記しておく。

 むしろ従来の図式を今の時代にスライドさせると、我が家でエスプレッソということになる。とは言え、あのアルミ製の鼓のような形をした専用器具はドリップの時代から存在した。格段新しいことではなく、問題点も明らか。イタリアンローストした豆の入手がたやすくないから、結局は自分で焙煎することになる。趣味性がぐっと高くなってしまう。(以下・削除)

 この趣味性が高くなるという部分に自称「通」は自縄自縛しちゃったのだ。
 情報収集は今でも俊足で、昔からある器具は厳密にはエスプレッソとは少し違ったモカ(豆の種類ではない)という珈琲のための器具なので却下。蒸気で抽出するための高圧を発生させるにはエスプレッソマシンを選ぶしかないとわかった。今ではエスプレッソ専用の豆や粉も売られている。ただし、限られた店という点では40年前の珈琲豆入手状況に似ている。
 そして、2日後にはデロンギのBAR 14N『カフェ・トレビソ』と機種も決定した。本場イタリア製である。機能は必要にして十分、手軽にエスプレッソを作れる最新のパッド式はランニングコストが高いから試供品以降は使わなくなるだろうと判断して、オーソドックスなパウダー専用機。サイホンもそうだが、余計な機能をそぎ落とすと高価に思えた品も意外と安く入手できるものなのである。

 さて、エスプレッソマシン。予想外に手強かった。
 名前はマシンであるが、ドリップ式のコーヒーメーカーとはまるで違う。ボタンを押すだけでエスプレッソが出てくるわけでは……あるのだが、納得のいくカプチーノが完成するまで1週間もかかってしまった。
 付属のマニュアルどおりにやってもクレマ(エスプレッソ表面の細かな泡)が薄かったり濃かったりする。抽出時間も思いどおりにならない。何が原因かを悩み考え、マニュアルの記述を自分なりに修正して新しいデータを得る。これはもう使いこなしが必要な「道具」とのつき合い方。初めてドリップ式に挑戦した時を思い出す。

[悪夢のチェックポイント]
・適切な粉(種類、実に微妙な細かさや乾燥の度合い)
・適切な量(粉の種類とも関係する)
・適切な圧(タンパーという道具を使って粉を圧縮する)
・適切な温度(抽出するお湯は機械が調整してくれるが、器などを湯煎して温めておくことも不可欠)
・適切な抽出時間(20秒で30ccが基本)

 そして、エスプレッソがうまくできた時に限って、ミルクの泡立ちが足りなかったりする。ここまでくると「理由もわからないままデート中に機嫌を損ねてしまった我がままなお嬢様相手に四苦八苦するみたいだ」と言ってみたいが、残念ながら妄想で言葉を並べたに過ぎない。せいぜい「まるで難易度の高いゲームみたいだ」としか言えない自分がちょっと哀しい。

 コツをつかむために試行錯誤をひたすら重ねた。
 白状すると、その過程が楽しい。
 カップも新調した。30ccは大さじ2杯程度の少量だから普通のカップでは見た目も貧弱。インド製チャイグラスでは雰囲気が出ない。結局、専用のエスプレッソ用カップとカプチーノ用のデミタスカップを何軒もまわって手に入れた。その他フォーミングミルク用のピッチャ(台湾で買った湯さしを流用)やら何やらが必要になり、珈琲関係の器具をほぼ一新することになった。

 というわけで、生活も少し変わった。たとえば今までは何かをしながら飲むのが普通だったのが、デミタスでは正にコーヒーブレイク。切り替えの時間に作業は一切やめてカプチーノを味わっている。珈琲には砂糖しか入れず、生ミルク以外(牛乳なんぞもってのほか)は邪道と考えていたのに、冷蔵庫の中に常に牛乳のストック。砂糖も粗糖からグラニュー糖へ。
 これが別の領域にまで波及してくれるといいのだが。

 最後にひとつだけ気になっていることがある。
 それはカルカッタ、サダルストリートの珈琲。
 Blue Sky cafe(または並びのスタンド)にはエスプレッソマシンが置いてあった。ただし、エスプレッソは提供されていない。泡立てたホットミルクに砂糖とインスタントコーヒーを混ぜる。それがサダルの味。
 当時は高価なマシンをミルク沸かしとして使っているのかと笑ってしまったが、それは勘違いとわかった。スチームマシンとしての機能しか使っていないのは何か変なのだが、インスタントなのに意外と美味で印象に残っている。

 この味は再現できた。雪平鍋で砂糖入りのホットミルクを作り、それを泡立て器でカシャカシャやってからカップに注ぎ、泡の上にインスタントコーヒーの粉末を乗せる。それが自己流インディアン・カプチーノの作り方。自分としてはインスタントの最も美味い飲み方だと思っている。砂糖はインド式に多めにして甘い珈琲を飲んだ最後に、溶け残った粉末の苦みが口の中を爽快にする。

 さて、エスプレッソマシン(のスチーム機能)を使えばサダルストリートの味を忠実に再現できる。カプチーノの本格的なパチもんが作れるのだ。(我ながら、ひどい日本語表現だと思うが、正にそのとおりなのである)
 最後に味わう苦みなど本物カプチーノに近いのだが、冷静に考えれば、これは趣味とか嗜好を超えた「ただの物好き」に過ぎない。だって、本物のカプチーノを作れる道具があるのに、わざわざインスタントを使ったパチもん作る必要はないではないか。本末転倒である。
[100221]

simpleline

【2010近況】
 長くなりそうなので、こちらで近況報告。
・年越しはジェットコースターで
 年末に全財産+カード類の入った財布を落としました。記憶を辿ると30日夕方から31日午前にかけて。念のため部屋を徹底的に調べて、落としたと確信できたのは大晦日の夕方。それから大変。コンビニで「黒い財布落ちてませんでしたか」とたずねる恥ずかしさ。目の前真っ暗。

[マイナス要因]所持金ゼロ。カードがないから銀行のCD使えない。年末年始だから通帳を使った引き落とし無理っぽい。カードを止めようにも、やはり年末年始。交通機関も使えない。最悪だ。

[プラス要因]光熱費引き落とし用に小額が講座に残っている。スーパーの商品券なら2000円分。移動は自転車。米はある。正月だからお年玉。と能天気に考えるだけの余裕。

 それでも、部屋と近所の探索以外は「手につかず」と言うより「手をつけられず」大掃除も年賀状も年越し。開き直りとへこみのダイナミックなバランスのまま低調の2009年も終わりましたとさ。チャンチャン。

 が、年が明けた直後の0時16分。電話が鳴って、財布発見の一報。深夜に連絡して申し訳ないなんてとんでもない。感謝感謝。世間のほとんど起きているんだし……でも、早寝の習慣がついちゃった我が身は眠くて……。

 低調の自覚はあれど特筆すべきイベントのなかった2009年。低空飛行以下の滑走路じゃ山も谷もありませんわな。そういったモヤモヤが最後に凝縮したと思っています。つまり、これはヤク落とし。薬を落としたら警察に届け出無理ですけど、厄のヤクですから。

・2010年の抱負を込めた近況。
 テレビをインターネットに接続するためルーターを購入し、はからずも家庭内LANができちゃいました。OSがバージョンアップすると見捨てられる旧機能・旧アプリのためにminiが現役復帰。AV系とテキスト系の二輪走行へと進化しました。(普通はノートがテキスト系ですけど……)

 実は昨年、ようやく借金から解放されました。私、クレジットも嫌いなんです。あれは月賦。信販会社とか銀行は高利貸し。借金以外の何ものでもありません。銀行から毎月1万円引かれるのが気持ち悪かったのですが、やっと終わりました。
 今年は年末まで我慢すれば、やっと海外旅行が射程圏内に入ります。詳細は曖昧にしますが、執行猶予期間が終わるようなもんです。これで大手を振って悪いこと……ではなくてインドが……多分実現は来年でしょうけどネ。

 日曜の朝は『魔法のプリンセス ミンキーモモ』見てます。どひゃー。文句あるかぁ。
 いや、私が社会学専攻する学生だったら「少女アニメの変身の変遷に見る青少年の意識と社会構造の関係」をテーマに論文書くと思います。変身願望って社会を映す最もわかりやすい鏡なんですよね。だから、こんな世界でも「昔は良かった」というのは何か切なくなるものがあります。
 ダバダバ、フォーリンラーブ。

 社会のリサーチと言えば、毎日のように2チャンネルにアクセスしています。
 例えば、一人では行動できない日本の若者は多く、旅先でもすぐに群れてしまい、挙げ句に安宿のドーミトリーに日本人だけの部落を作ってしまうのは有名な話です。でも、彼らも同じ個人旅行者の一人で、その数は少なくないはずなのに、帰国後の動向がわかりません。
 その答えが2チャンネルにありました。もちろん彼らに批判的な書き込みも多いのですが、興味があるのは彼らの目に映ったインド(その他PCのこととか音楽のこととか)。
 ひどいです。バカ多いです。しかし、行ったことも興味もないのに煽り専門のクズは問題外として(各掲示板にストレスというより憂さ晴らし目的でいるんですよね。信じられないことに)、すべてが悪い印象だったら書き込みはしないはず。また、前述のようにおかしいことをおかしいと感じる人も少数(笑)いるわけで、多少の茶々を入れながら覗き見しています。
 まあ正論(と自分的には確信していますが)が虐げられる少数派という状況は困るんですが、いわゆる普通の人の抱く疑問の傾向はわかってきました。
[100104]

simpleline


【仕事観光】

hansen
海王丸の勇姿

 これが理由で辞められない「仕事であちこちへ行ける」ですが、今回は特盛り全部のせ。場所は台場青海地区F街区。平たく言えば湾岸署の裏(南側)です。
 昼休み、ベンチに座る私のロケーションは
・前に富士山(誰も気づかなかったものを見つけられる特技発揮)
・右に船。船の科学館ですが、詳しくは後で。
・左に飛行機。
・後ろにスズメ。
・さらに後ろにユリカモメ。鳥ではなくて、新交通システム。
 子供の好きな乗り物が陸海空ですよ。お気に入りの勢揃いです。ついでに現場へ戻れば「働く自動車」も見られます。
 飛行機は風向きによって変わりますが、南風だと着陸する機体がかなり大きく見えます。その飛行コースが絶妙で、視界を遮る物なく、羽田への離着陸が見られます。
 さて、船です。いろいろな船が行き来し、東京が港湾都市でもあることを実感します。白眉は海王丸の出航。いや、いきなり派手な汽笛があちこちから上がり、何じゃいなと思ったら固定されていると思っていた帆船が目の前を通っていくではありませんか。汽笛の理由がわかりました。なるほど、どの船も帆船には敬意を払っているのですね。帆船の出港なんて、一生の間に何度も見られるものではないでしょう。なぜか私は突然トイレへ行きたくなって、持ち場を離れざるを得ませんでした。ついでに撮った写真です。あれっ、トイレへ行くのを忘れていたぞ。
 ついでに水中翼船が水上を疾走する様も生まれて初めて見ました。
 さて、個人的なハイライトは海王丸ではありません。仕事仲間にこの先に船があるよと教えられて昼休みに行ってみると、何と羊蹄丸ではありませんか。
 羊蹄丸。青函連絡船です。学生時代、北海道は3回行きました。その船が目の前にあるのです。20年ほど前に引退したはずで、てっきり廃船になっているかどこかの国へ売られたものと思っていただけに、昔別れた恋人と再会したような……。
 内部は博物館のように改装されていましたが、休憩所になっている旧一等船室に二等船室の面影が残っていました。また昭和30年代の青森を再現した原寸大ジオラマは『ゴジラの逆襲』のポスターなど小物が効果的で、胸が熱くなります。操舵室に入れたのも嬉しかったですね。
「何をしに行っているの」という突っ込みはなし。不定期ながら通えそうなので、休憩時間や帰りの時間をフルに活用するつもりです。
yoteimaru まさかここで羊蹄丸に再会できるとは。
[090413]

simpleline

PHILIPS再び
 実は断線してオーディオテクニカ製に乗り換えていたフィリップス製イヤフォンが先ほど修理を終えて、無事に生き返りました。極細の電線も樹脂製の皮膜をハンダごてで溶着、さらに微小のハンダで強化して完了。あまりにもあっさり簡単にできて、早くやっておけばと後悔したほどです。

 その結果ですが、やはり素晴らしいの一言。変な色づけがなく、価格からはとても考えられない良好なバランスです。低音は聞こえていますが、やたらに響くことがありません。高音もきちんと聞こえていますが、金属的に響いて強調されることがありません。解像度も傾向は同じ。いずれもキャラクターがないから地味と言えば地味ですが、ちょっと集中すれば聞きたい音がしっかり聞き取れるのが最大の特長です。私の音楽もこの音バランスで聴いてもらいたい。贅沢を言えば、音のスケール感はもう少し欲しい気がしますけど……。

*聴き比べると素晴らしいイヤフォンも、日常的に使っていると極普通の音としか感じなくなります。自然な音というのはこんなもんなんですかねぇ。人に勧めても、この良さって伝わるのかなぁと一抹の不安。
 しかし、まぁ、一時は市場から消えてガッカリしたSHE-9500と9501ですが、またヨドバシあたりの店頭に並んでいるようです。修理したばかりでも予備を買っておこうかな。2980円でこれだけの音を出す製品はめったにない……ではなく、めったに現れないと思っていますから。

[090316]

simpleline

Wineのこととか
 暫定的ですが、うちのバンドにボーカル(見習い)が入りました。巷で話題の初音ミクの妹分に相当する「巡音ルカ」嬢です。(嗚呼、オラは何てこっ恥ずかしいこと書いてんだろ。気を取り直して……)

 隣りの芝は何とやらで気になっていたのがVocaloid。パソコンというよりWindowsでのみ走る疑似ボーカル音源……、要するにパソコンにアイドル声で歌わせるソフトです。デモソングなどを聴いてみると、これがなかなか。機械臭さがなくて、十分使えそうなクォリティを持っているようです。しかし、問題は前述のようにWindows版しかないこと。Mac版に関しては、Vocaloidエンジン開発元のヤマハに
まるでやる気が感じられません
 さて、どうするか。

 CPUがインテル製になったMacでは、特別なアプリを買わなくてもOS付属のBootCamp機能でWindowsOSを走らせることができます。これならVocaloidを導入できます。しかし、XPなりvistaなりWindowsOSは必要。そこがイヤなんですよねぇ。
 そんな矢先にWineの存在を知りました。専門的なことは勝手に調べていただくとして、平たく言えばWindowsOS抜きで、Windowsアプリを動かしてしまおうという夢のような技術です。
 しかも、オープンソース。無料!

shotmikuinstaller
 早速入手しました。Vocaloidも買ってきました。
 いやぁ、久しぶりに味わうスリル。インストールから設定から、常に不安と緊張と期待が入り交じるなんてパソコン超安定時代にすっかり忘れていた感覚です。オープンソースですから保証なんてありません。いわゆるダメもと。動けばラッキー。でも、ダメだった時には金欠時の投資ですから、ショックは倍増。
 そんな不安をあざ笑うかのように、基幹になったアプリ「ミクインストーラー」のインタフェースは脱力もの。ホントにコレでダイジョーブなのか?
(< だって、これですよ。コレ!)

 Vocaloidのインストールは不思議な感じでした。手順は全部Windowsの作法。見慣れないウィンドウや問いかけに戸惑うことしばし。途中で止まったらどうしよう。不安一杯でしたが、Mac上で無事にVocaloidは動きました。ただし、小さな制約があるようで、日本語入力モードでキーコマンドを入れると落ちる、ウィンドウを素早く移動させると落ちる、確定にenterを押す設定は……やっぱり落ちる。それらがわかるまでに何度ため息をついたことか。
 ま、本体の操作に影響しないどうでもいいことだったのが救いですが、どうでもいいついでにhelpアプリケーションは動きませんでした。

 さて、Vocaloid。「巡音ルカ」を選んだのは、あまりにも有名になった「初音ミク」を避けたかったことと、バイリンガルだったからです。マニュアルの薄さが示すように、基本は簡単。ところが、音素や発音記号に関しての知識が必要になります。幸い、そっちはいいのですが、簡単故にパラメータの設定などにかなり気を使わないと自然な感じが出せません。
 ま、とりあえず最初の一歩。
[090316]

simpleline

年末年始に関するモノローグ

 普通なら「パソコンを新しくしました」の一言で済むのに、私のばやいは……

・08年晩秋、HDが手狭になってきたので内蔵、外付け共に換装。
・翌日、良い機会なのでOSを10.4Tigerから10.5Leopardにバージョンアップ。
●これがケチの始まりで、システムがチョー不安定に陥る。
・iLifeアプリの中にLeopardで作動しないものがあり、08へバージョンアップ。
●そんな中、川崎まで通って「大晦日まで」働く日々。システムはさらに悪化し、iPodのデータにまで影響が及ぶ。

・思いあまって正月休みを利用してOSをTigerに戻すことを決める。
●言うは易く、バージョンダウンはディスクを入れてポチリでは済まなかった。
 作動確認をしながら完全に元に戻す作業に約1週間。正月休みは消えた。
・めでたしめでたしの矢先に……FireWire接続が省略された新MacBook登場。周辺機器はFWで揃えてきたので一大事。
・移行完了の1週間後、たまたま内容的に新型と遜色のない、むしろ上回っているFW接続可能な旧タイプが格安(あくまでも新型比)で売られているのを知る。これを逃したら(高価なMacBook Proしか選択肢がなくなるので)ノートタイプの購入はいつになるかわからない。こういう判断は早いので、有り金叩いて購入。
○白いポリカボディのUSキーボード。メモリは4GB。初のインテル製CPU。性能的に数倍の進化。それまで使っていたMac miniはCGのレンダリングなどで分散処理をさせるつもり。どこぞの研究室みたいだ。
●このMacBookにはLeopardもiLife08も入っていて、かなりヘコむ。
●さらに入れ替えるつもりだったTigerには非対応、不信感100%のLeopard起動しかできないとわかり、もっとヘコむ。
●音楽作りでの分散処理ができないとわかり、さらにさらにヘコむ。
●挙げ句にバッテリーが不良品。何と最後の1台だったので不良交換できず、Appleから交換品が届くのを待つこと数日。その間に内蔵HDを500GBに換装。
○幸い、トラブルはウソのようになくなった。そうなると原因がわかっていないことが不安になってくる。
・既に1月も半ばを過ぎ、トラブルが怖いので移行アシスタントは使わずに、手動でデータ移動を行なう。
●間抜けな致命的ミス。深く考えずに、管理者の名前をkaiからkeyeに変えたおかげでファイルやアプリのアクセス権がめちゃくちゃに。作ったファイルを開くのに拒否される。
●言わば、他人のパソコンデータを勝手に書き換えるようなものだから、管理者パスワードをウンザリするほど入力。正にシラミつぶしの修正を終えた頃には正月が終わっていた。

以上(本当は他にも間抜けなミスを多々犯したけど……)
「人生を無駄にしているな」という真実には気づかないフリをしている。

[ついでに]
 MacBookは名前のとおりMacintoshのノートタイプだが、部屋ではモニターやキーボードなどをつなぎ、従来のMac miniと変わらない使い方をしている。起動スイッチを入れる時以外は蓋も閉めっぱなし。
 ぎりぎりで処理してきたLogicでは代替音源の使用を余儀なくされたが、その制約が取れたのは大きい。前作、全部作り直したくなってしまった……。
 これこそ望んでいたことだが、仕事の休憩時間などに家での作業ができるようになった。部屋のシステムをそのまま持ち出しているので、これまた制約がない。既に新曲が進行中。


[090216]